佐為が佐為として認識されたら、どんな騒動が持ち上がるのか、お楽しみください。
・・・・・・分かった。お前の影を背負ってやる・・・・・・
「確認したいことがあるんですけど、いいですか」
碁盤をはさんで対峙した少年のまっすぐな視線を受けて、塔矢名人は「何かな」と返した。
新初段シリーズの対局開始直後。挑戦者進藤ヒカルにとっては、一生一度の大舞台である。すでに対局時計は動き始めており、編集部のカメラマンが、黒の第一手を待ち構えているところだ。
「左手で打っちゃいけないという規則はありませんでしたよね」
突拍子もない質問に、その場の誰もが首をかしげた。
「なかったと思う。左利きの棋士も居るし、反則には当たらないだろう」
訊かれたことに真面目に答える大先生相手に、ヒカルはペコリと頭を下げた。
「失礼して、今日は俺、左手で打たせていただきます」
言うなり、右上隅小目へ打ち込んだ。
「何なんだ、これは」
控え室でモニター越しに観戦していた緒方が、誰にともなく問い質した。
盤面は序盤を終え、すでに中盤戦に突入している。両者とも一歩も引かず、白やや有利ながら、下手の黒を引き離せずにいる。新初段シリーズの逆コミ五目半を考えれば、黒、圧倒的優位だ。
「塔矢先生が本気になっているのに、何故、こんなことが起きるんだ」
「あれは進藤です。間違いない。初めて会ったときの進藤だ。二年前、僕が完敗した時の」
塔矢アキラの高々とした宣言に度肝を抜かれたのは、部屋の隅で小さくなっていた和谷義高だった。ヒカルとは同期の新初段で、院生仲間としていろいろ面倒を見てやった戦友である。
「おい、ちょっと待てよ。二年前って、そんなはずあるかよ。進藤は、囲碁始めて二年なんだぞ。お前を負かすはずなんてあるもんか」
「どういうことだ。二年前、進藤はアマの有段者だったはずだぞ。でなければ、あの一手を即答できるはずがない」
タイトル挑戦者になったことのある緒方九段に睨まれて、和谷は正直ビビってしまった。
緒方は若手トップの一流棋士、おまけに一見ヤの付く自由業の方のような迫力をもっている。現在中二のヒヨッコ棋士が、まともに対抗できるわけがない。
和谷には、あの一手って何ですかと聞き返す余裕など、全くなかった。
「だ、だけど、本当に進藤は囲碁歴二年ちょっとです。院生になった時だってマジ大したことなかったし、二組で連敗してたし、それに、それに白川先生が知ってます。進藤、白川先生の子供囲碁教室行ってたって森下先生の研究会で話してたし、一年ちょっとで院生になったって驚いてたし、倉田先生並だってずいぶん話題になったし」
言いつのる和谷を、越智は複雑な気持ちで見ていた。
塔矢アキラに指導碁を受けていた彼は、問題の二年前の棋譜を教えてもらっている。ヒカルの謎めいた強さの一端を知っているのだ。
塔矢が口を開いた。
「言われなくても分かってる。二年前、進藤はまともに石を持つこともできない初心者だった。碁会所で打つのは初めてだと言っていた。実際、石を置く場所に迷ってたし、何でもない一手にひどく時間がかかっていた。なのに、僕は負けたんだ。まるでお父さんを相手にしているような強さを感じた」
「それはまた、奇妙じゃのう」
桑原本因坊が、煙草をくゆらせながら間延びした声を出した。
「それだけじゃありません。彼は突然弱くなった。彼を追いかけて中学の部活の大会に出た時、話にならないほど弱かった。それが院生になり、今ではプロだ。幽玄の間でお父さんと向き合っています」
それにと、アキラはモニターへ一同の関心を引き戻した。
「これは二年前の進藤です。いや、二年前より強くなっている。それ以上に、ある人物と重なるんです」
「sai、か」
緒方の呟きは、ネット碁で伝説となっている棋士を指していた。
連戦連勝、ネット上最強棋士と言われながらだれともチャットせず、二ヶ月あまりで姿を消したsai。その正体は未だに謎に包まれている。
ガタンと音がした。和谷が勢い良く立ち上がったのだ。駆け寄る勢いで、モニターに張り付く。
「・・・・・・ほんとだ。この手筋、saiだ」
老練で隙がなく、とてつもなく強い。言われるまで気づかなかったのが不思議なほど、和谷の良く知っている手筋だった。
「前に俺、進藤をsaiの弟子と勘違いしたことがある。進藤のやつ、誰も知らないはずの俺とsaiのチャットを知ってたんだ。なんで。えっ、ええーっ。だって、だって進藤とsaiは別人だぞ。これ、俺の知ってる進藤じゃない!」
和谷のそれは、ほとんど悲鳴だった。
「負けました」
滅多に聞かれることのない塔矢行洋の投了に、記録係の席がざわめいた。
そんな中で、一人、対戦者進藤ヒカルだけが静かだった。微動だにせず、盤面を凝視している。
囲碁の終局は、対戦者二人の合意で初めて成立する。ヒカルが意思表示しなければ、そのまま続行してしまうのだ。
投了を受け入れるかどうか、確認を取ろうと立会人が腰を浮かしかけたとき、ヒカルの指がスッと動いた。
「ここ。塔矢先生、ここの切断に備えたよね。必要な一着だと誰でも思うけど、その前に隅にオキを打てば、黒はオサえるしかない」
ヒカルがぱっと顔を上げた。いたずらが成功した子供のような、満面の笑みだ。
「ほら、一目得してる。ねっ、隅においてたら、逆転で先生の勝ちだ!」
シ・・・・・・ン。
何と応えてもらえるか、ワクワクしながら待っている少年の様子に、塔矢行洋はゆっくりと微苦笑を浮かべた。
「そうだな。確かに私の半目勝ちだ。互先でならだが」
途端に、ヒカルは大声を上げた。焦りそのままに、両手がブンブン振り回される。
「あーっ、しまった。今日は逆コミだっての忘れてたっ」
リアクションつきのあまりに子供っぽい反応に、失笑が起きた。すぐに爆笑に変わる。塔矢行洋までが声を出して笑っていた。
こうしてヒカルの左手事件は、その衝撃的な内容とは裏腹に、和やかな雰囲気で第一幕を終えたのである。
うん、一応、原作の流れだよね(笑)