深夜。鈍く輝く月が、冷えた鉄の体を照らす。
此処にいるのは、俺のみ。神奈子が輝夜に話があるらしく、追い払われる形で諏訪子の元にやってきた次第である。
「ほら、持ってきたよ」
幼く、それでいて落ち着いた声。酒を取りに行っていた諏訪湖の声である。
「かたじけないです」
「いいのいいの、私が飲みたいんだから」
そう言って自分の杯に酒を注ぎ、俺のガソリン投入口にも酒を注ぐ。
「……あんた、神話とか詳しい方? 諏訪の大戦とか」
「いえ、全然。外来の神である建御名方神が諏訪に侵入したために起こった、洩矢神をはじめとする土着の神々との戦いなんて全く知りませぬ」
「……中々に面倒臭いやつだね、あんた」
「よく言われます。姫に」
諏訪子が呆れた様子で酒を煽る。性分なので仕方ない。
「……まあ、昔あいつと戦ったのさ。結果は知ってるね」
「建御名方の勝利。洩矢神はその配下に、でしたか」
「そうそう。ま、配下とは少し違うけどね」
そう言って、諏訪子が拳大の鉄の輪を取り出す。鈍い光沢を持った黒金が、月の光を受けて光った。
「最先端、のつもりだったんだけどねぇ」
「製鉄技術、ですか」
「そう。当時の最先端技術さ。呆気なく負けたけどね」
自分の負けた時のことを笑い、鉄の輪を空に投げる。風を切る音と共に勢いよく空を舞い、甲高い音と共に地に落ちた。
落ちた輪は、くるくると地面に円を描き、やがてその平べったい体を地面に伏せる。
「……鉄はさ」
動かなくなった鉄の輪を見つめ、ぼぅっと諏訪子の話を聞く。
「錆びるんだよね。時間が経てばさ」
「……錆び、ですか」
「人が使わなければ。人が手入れをしなければ。人に忘れられたならば。鉄は、錆びる」
当たり前のことである。当たり前だと言うのに、受けたショックは存外に大きい。
そう、錆びるのだ。鉄は。俺は。
人が使わなくなれば。人が触らなくなれば。人に忘れられたならば。
そして、それは……
「神も同じ、と?」
「さぁてね。その辺は、神奈子のが詳しいんじゃないかな」
月を見つめ、諏訪子が境内へと跳ねる。鉄が落ちた時の甲高い音とは違う、まだ温かさのある着地音が響く。
「……私も、錆びるんですかね」
「どうだろうね。妖怪となったあんたが、鉄として錆びることはないんじゃないかな。壊れるまでさ」
「壊れたかないですねぇ」
「でもま、寿命があるだけ幸せかもしれないね。不死にでもなれば、永遠に苦しみ続ける。罪も重なる。裁く者の所へ行けないしね」
生きることは罪である、とは、何処で聞いた言葉だったか。寿命が伸びれば伸びる程罪が重くなり、死後の苦しみが増えるとするなら、と、そこまで考えて思考を止める。考えても仕方が無い。罪が重くなるからと言って死ぬつもりは無し、死ねもしないのだから。
「人間の寿命が、延び始めている」
本の少しだけどね、と付け加えて鉄の輪を拾い、また投げる。先より高く。先より速く。
「今は、ほんの少しの寿命の延長。でも、遥か未来にはきっと、人間の寿命は百を超える。もしかしたら、もっと延びるかもしれない」
落ちてきた鉄を掴んではまた投げ、その高度をどんどん高くしていく。もう、神社の屋根より高い。
「人が不死に近づくなら。あの娘と違って、普通の人間なら心が腐る。腐っても生き続ける。内側だけが錆びる」
「腐るまで生きたかないですね」
「そう。そう考えて、寿命を減らす努力をし始める。命を人為的に弄り始める。きっと、体が欠けてもそこに合う部品とか作る様になるんだろうね。杖とかじゃなくてさ、人間の体自体を作ったりして」
当たっている。それだけに、何も言えない。指摘されて初めて、自分たちがどれだけ巫山戯たことをしているのかを痛感した。
人は、己の身体さえも取り替えるようになるのだ。
「何もかも技術で解決できるようになって。物理の世界だけを見るようになって。心理の世界の神や妖怪は、忘れ去られて行く」
高く高く上がった鉄の輪が、一瞬、幽かに光って、地に落ちる。今度は、転がることなく動きを止めた。
「その時には、私たちも錆びるんだろうねぇ。忘れられた鉄と同じ」
諏訪子が杯を傾け、俺は何も言わずに落ちた鉄を見る。
少しの間、沈黙が続き、また諏訪子が口を開く。
「あんたらが探してる幻想郷。名前だけなら知ってるよ」
「……本当ですか」
「嘘は言わないよ……本当に名前だけ、だけどね。妖怪が一人、ここに来て私に言って行ったよ。ま、さっきの話と似たような話ね。忘れられたその時、この世界と幻想郷を隔離して、そんな忘れられた者の暮らせる世界にする、とかなんとか」
幻想郷。やっと、手がかりを掴んだ。そして、それが作られた意図も。
「場所は知らないけどね。自分でさがしな」
「十分です。やっと、手掛かりが得られました……本当にありがとうございます」
からからと諏訪子が笑い、残った酒を一気に流し込んだ。小さな宴会も、これでお開きである。
「わたしゃ寝るよ……あ、そうだ」
諏訪子が鉄の輪を拾い、何処から出したのか小さな組紐で俺のハンドルに結び付ける。
「御守りだよ。じゃ、寝るね」
礼を言う前に、諏訪子が本殿へと走り去る。
境内に残ったのは、俺一人。
「……幻想郷」
もういちど、その言葉を呟く。
思っていた楽園は、想像よりも寂しい理由で生まれたものらしい。
しかし、楽園に変わりはない。たとえ過去に何かあろうと、未来が明るいのならばそれでいい。
明日、輝夜に諏訪子から聞いた話をしよう。
彼女が、なんと感じるかは分からない。しかし、何か、思うところはあるだろう。
諏訪子に貰った鉄の輪を眺めながら、俺も、眠りに着くことにした。
「起きなさいって。ちょっと。ねえ」
朝日が眩しい。シートが痛い。聞こえるのは輝夜の声と、バシバシとシートが叩かれる音。どうやら、朝らしい。
「お早う御座います、姫様……」
「お早くない。遅いわよ。もう、日があんなに登ってるじゃない」
朝には弱いのだ。もうちょっと優しく起こして欲しい。
「やっと起きたか、鉄の」
「……主に起こされるって、いいのかい?」
「いいんで……ないですかね」
「よくない!」
当然、怒る輝夜。笑う二柱。
だんだん、頭も回り出した。
「もう、出るんで?」
「そのつもりだけど。行ける?」
「姫こそ。酔いが残ってたりしませんね?」
「大丈夫よ。なら」
輝夜が二柱に振り返り、頭を下げる。俺も、頭は下げれないが言葉だけは続けさせてもらう。
「色々と、ありがとうございました」
「本当、お世話になりました」
二神と笑い合い、輝夜が俺に跨がる。
「元気でな!」
「もう転ぶなよ!」
二柱の声を聞くと共に、輝夜がエンジンを駆け、ギアを落とす。クラッチを繋ぐ前、最後に二柱へ礼をした。
「行くわよ」
「どうぞ」
クラッチが繋がる。動力が車輪へと伝わる。
諏訪の二神に見送られ、鉄の体は走り出した。
目指すは幻想郷。心なしかいつもより心地良い風を受けながら、俺たちは坂を駆け下りた。