冬木の街の人形師   作:ペンギン3

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第37話 静かな夜の密会

 お腹が重い。

 でも、それは気分の悪い重さじゃなくて。

 逆に、このままで良いかと思えてしまう重さで。

 ただ、いきなりの事でビックリしている。

 なので私は、ジトっと、お腹に跨っている彼女に視線を向けた。

 

「ご挨拶ね、イリヤ」

 

「うん、おはようアリス」

 

「……そう言う意味じゃないわ」

 

「知ってる」

 

 その返事に、何て悪い子と頬っぺたをムニっと摘む。

 どこかイリヤは、擽ったそうに身を捩っていた。

 相変わらず、お腹に乗っているのは変わらずに。

 

「重いわ、イリヤ」

 

「アリスはウソツキね、私は羽のように軽いのよ」

 

「その自信は、一体どこから来るのかしらね?」

 

「私、全然太らない体質なの」

 

「そう、奇遇ね。

 私も同じ体質よ」

 

「アリスはおっきいでしょう!」

 

 だから何? とも思ったが、イリヤは気にした風も無く、そのまま私のお腹の上を定位置に置いたようだ。

 すっごくニコニコしているのが、憎たらしい様な、可愛いらしい様な、そんな微妙な心持ち。

 確かめる様に、イリヤの頬をもう一度摘んでみたら、すごく柔らかくて。

 やっぱり、可愛らしさの方が十枚以上も上手ねという結論を下す。

 イリヤは可愛い、彼女の頬っぺたの弾力性を確かめながら感じた私の素直な感想。

 

「……アリスも結構失礼じゃない」

 

「イリヤの可愛らしさがいけないの」

 

「そういうの、責任転嫁っていうのよ」

 

「違うわ、これはイリヤの自業自得。

 わざわざ私のお腹に乗ってるんだから。

 これくらいは我慢しなさい」

 

 一口で言えば尽善尽美なイリヤに、こうして触れられるのは本当に創作心がムズムズと蠢き、刺激される。

 隅々にまで体に触れて、どの様に設計するかを考えて、そうして実行に移す。

 私の、何処までも楽しい妄想。

 人形の設計図を脳裏に広げて、イリヤに当てはめて行く様はパズルのピースを揃えて行く様な快感がある。

 

「だからね、イリヤ。

 貴女が悪いの、私の手の触れられる状況を作ってしまう貴女が」

 

「アリスが何を言ってるかなんて分からないけど、詭弁だってことだけは分かるわ」

 

「だったら、イリヤはどうするの?」

 

「……こうする」

 

 言った瞬間に、イリヤは私の頬に手を伸ばす。

 私がやった様に、私の頬っぺたに。

 ムニムニと、まるで報復の様に私の頬っぺたを弄ぶ。

 ……それで私は、なるほどと思った。

 これは、やられる方からすれば、中々に辛いモノがある。

 主に、他人に触れられる気恥ずかしさや、為すがままになってしまう自分の身が恨めしくて。

 

「恥かしい、わね」

 

「アリスも、私の気持ちが分かった?」

 

「えぇ、十分に」

 

「だったら、頬っぺたから手を離して」

 

 頷いて、イリヤの言ったとおりに頬っぺたから手を離す。

 手から損失した柔らかさが、そこはかとない切なさに変換される。

 さっきまであった温かさに、手が悲しみを覚えているのだ。

 けど、無理矢理するというのは、全く持って言語道断。

 なので、私は我慢するしかないのだけれど……。

 

「イリヤ、貴女は何をしているの?」

 

「アリスの頬っぺたを触ってるの」

 

「貴女、嫌がってなかったかしら?」

 

「アリスにやられた分、私もお返ししなくちゃいけないの」

 

 そう言って、イリヤは二コリと可愛らしい笑顔を浮かべる。

 が、しかし、それは何処までも小悪魔なモノ。

 言葉にして現すならば、いじめっ子の笑み。

 ムニムニ、ムニムニと、私がしていた様に、イリヤは私の頬っぺたを摘んで、撫でて。

 私の背中がムズムズするのなんてお構いなしで好きなように、まるでお気に入りの人形で遊ぶ様に触っているのだ。

 

「楽しい?」

 

「とっても」

 

「それは良かったわね」

 

 良くないわ、と私は内心で呟き、でもどうしようもないから為すがままになってる。

 唯一良いと言えるのは、イリヤがとっても楽しそうにしてる事。

 イジめっ子の表情から、段々と楽しそうな女の子の顔に変化し、えいえいっと私の頬を伸ばしたり指でつついたり。

 ……流石に、そろそろ勘弁して欲しく思ってしまうのは、仕方ない事だと私は思う。

 ゆっくりと、イリヤの手を握って、言い聞かせる様に言う。

 

「イリヤ、ここには何しに来たの?」

 

「んー、アリスで遊びに」

 

「せめてアリスと遊びに、と言って欲しいものね」

 

「嘘よ、分かってるわアリス」

 

 クスクスとイリヤは笑って、ようやく満足したのか、私のお腹の上から退去した。

 お腹にはまるでまだイリヤが居る様な感覚が残っているけど、彼女は立ったままベッドに居る私の顔を覗き込んでる。

 さ、起きて、とイリヤは私に囁いてくるのだ。

 だから私もそれに応えて、ゆっくりと体を起こす。

 イリヤと、昼に交わした約束を守るために。

 でも、イリヤに寝起きを襲われたせいか、頭が少しフラッとしてしまう。

 そのまま、こてんとイリヤの方に頭が傾いて……。

 

「っきゃ!?」

 

 見事、その胸に受け止められる。

 ……こつんと、固い感覚がした。

 想像以上に実が無くて、まるで固いベッドねと思ってしまう。

 

「もぅ! アリス、いきなり何するのよ!」

 

「ごめんなさい、寝起きに弱いつもりは無かったけど、思ってたより疲れてたみたい」

 

 声を荒げるイリヤに謝って、私はイリヤの胸から離れる。

 なんら未練も無い平地だったのが、ここでは幸いと言えよう。

 ……どうにも眠くて、思考能力が落ちている気がしてならない。

 

「何か失礼なこと考えてない?」

 

「硬いわ、イリヤ」

 

「~~~っ、アリスは私に喧嘩を売ってるの!?」

 

「正直な所感よ」

 

「アリスだって、人にモノを言えるくらいに大きくないクセに!」

 

 そう言うと、イリヤは問答無用で私の胸に手を伸ばして――一瞬の隙を突き、容赦なく鷲掴みにした。

 ゾクッと、よく分からない感覚が背中を走り、完全に目が覚める。

 けど、イリヤはそんな私にはお構いなしで、怒った表情のまま確かめる様にモミモミと、手の中にある私の胸を揉んで……。

 

「掴めるだけ、ある」

 

 小さく、そう感想を残した。

 残して、そして……。

 

「――もげなさい」

 

「止めなさい」

 

 そのまま無表情になって胸を揉みしだくイリヤに、私はデコピンを一つ放つ。

 うきゅ、と小さく声を漏らして、イリヤは一歩私から後退した。

 思ったよりも力が入ってしまったのか、イリヤはおでこを押さえて私を睨んでいる。

 でも、流石にもげろと言われながら胸を鷲掴みにされては、私としても抵抗するしかないのだから、しょうがない、えぇ。

 

「デリカシーがなかったわ。

 ごめんなさい、イリヤ」

 

 けど、私にも悪かった点があるので、これ以上怒らせる前に本日二度目の謝罪をする。

 女の子の胸にもたれかかってしまって、言うに事欠いて固いは失礼の極みなのは分かっていたから。

 ……言い訳をさせてもらえるなら、寝ぼけていたと私は声高に叫びたい。

 

「私にあんな事しておいて、それだけで済ませるつもりなの?」

 

「私はイリヤにずっと胸を揉まれたわ、だからこれで手打ちよ」

 

 むしろお釣りが来るくらい、その言葉を嚥下して私はイリヤに微笑みかける。

 仲直りしようと、暗に語りかけながら。

 

「他に、する事もあるんでしょう?」

 

「そう、ね、確かに」

 

 そう追撃すると、イリヤが渋い顔ながら確かに一つ頷いた。

 理解ができたから、納得もとりあえずしてあげるといった、そういう渋々感を漂わせて。

 なので私もこれ以上は何も言わず、ベッドに腰掛けてイリヤにも隣に座ることを勧める。

 ずっと立たせたままなのも問題だから。

 そして、イリヤもそう思ったのだろう、あっさりとさっきまでのわだかまりを捨てて、私の隣に腰を落とす。

 もぅ、アリスったらお客さんなのにナマイキ、と呟いているイリヤは、やっぱり年相応の子供なんだなと思わせられて、小さく声もなくイリヤを怒らせない様に笑う。

 さて、どんなお話をしてあげようかしら、と考えながら。

 

 

 

「イリヤは、外の話が聞きたいのよね?」

 

「そうよ、言ったじゃない」

 

「うん、でもね、外といっても広いの。

 だからどんな話をすれば良いのか、ちょっと迷っちゃうわね」

 

「ふーん、だったら、アリスの周りの話で良いわ。

 アリスが知ってる、外の話をして」

 

「分かったわ、任せなさい。

 思い出話がてらに、色々話してあげる」

 

 イリヤが横に座ってから、少しして。

 ようやくお互いに落ち着いて、少々ばかりのお話が出来るようになっていた。

 だから、本来イリヤがこの部屋に来た目的を、ようやく話し合える。

 そういう訳で、二人で探る様にして話し合いを始めたのだ。

 ベッドに腰掛け、イリヤは浮いた足を揺らしながら。

 

「じゃあ、私が生まれた国のお話をしましょうか」

 

「アリスはどこ出身なの?」

 

「ルーマニア」

 

「あぁ、ローマ人気取りの国って、おじい様が言ってた」

 

「神聖ローマ帝国だって似たようなモノじゃない」

 

「あれはハプスブルクで、今のドイツじゃないわ」

 

「……やめましょう、話が進まないわ」

 

「それもそうね」

 

 開始早々、恐ろしく不毛な応酬が交わされる。

 幸いな事といえば、イリヤも直ぐに馬鹿馬鹿しいと分かってくれた事くらい。

 こういう事で細かい話をしようとするものなら、面倒くさい事になるのが目に見えているから。

 なのでお互いに無かった事にして、話を続ける事にする。

 小さく、国家なんて関係ない私視点の、ミクロだけれど良く知っている世界を。

 

「ルーマニアのブクレシュティが、私の生まれた街。

 最近はマシだけれど、一時期はスリなんて割とザラにある街だったわ。

 あまり国としては宜しくない状況で、教会と政府も影で頻繁に衝突を繰り返していたの。

 まぁ、革命が起こってからは、少しづつ融和したみたいだけれどね」

 

 記憶の朧げな部分をどうにか拡大して、知識と意識を合わせて思い出す過去の風景。

 私はよくお母さんに連れられて、ルーマニア宗主宮殿の魔術師達の会合に参加されられた記憶が存在する。

 そこで、よくお世話されてしまって、今でもたまにやり取りをする、お母さんの友達のエセ紳士とも出会ったのだ。

 

「ルーマニア宗主宮殿って建物があって、そこは宗教家や魔術師やその他アウトローの隠れ家に一時期なってたの。

 ある意味で治外法権的な場所、中にある図書館は本当に整理されていて使いやすかったわ」

 

「私も聞いた事あるわ。

 おじい様がね、ノーレッジっていう魔術師を扱き使って整備させたって」

 

「そうらしいわね、でもそのせいで逃げられたんだから世話ないわ」

 

「ろーどーきじゅんほういはんってヤツね」

 

 時計塔ならば色位は確実と言われていた魔術師に、使い潰す様な真似をして逃げられて、そして慌てて探し始めるのだから馬鹿らしいの一言以外に掛ける言葉なんてありはしない。

 しまいには日本に渡った私にまで泣きついてくるのだから、本当に目も当てられない。

 まぁ、それ以来、教会も労働環境の改善とやらを行って、私が居た時には多少はマシになっていたようだけれど。

 

「あそこに居てた人達は、国の国策と相まって孤立してたから、魔術師同士仲良くなんて出来ないけど、無駄に敵対なんかせずに一枚岩で固まってたわね。

 だから扱き使われても、パチュリー・ノーレッジみたいに出走せずに、淡々と従ってたの。

 今でも、その名残なのでしょうけど、魔術師と教会の間柄の癖に、みんなそれなりに付き合いがあったりするわ」

 

 尤も、それは派閥が出来て敵対するくらいの実力者がいないから、という理由の裏返しでもあるけれど。

 船頭無くしては、羊同士は群れ合うしかない。

 それが、ルーマニア宗主宮殿という場所。

 でも、その雰囲気が好きで、もしかしたらそれが原因で、冬木に渡ってからも凛や皆と仲良く出来てるのかもしれない。

 そう考えると、妙に愛着が湧いてくるのだから、不思議な感じがする。

 尤も、面倒事はもう懲りごりだけれど。

 

「他の話も聞きたいわ。

 折角なんだもの、ブクレシュティがどんな場所かとか聞きたい」

 

「ずっと魔術の話も詰まらないわね、分かったわ」

 

 イリヤの言葉に従ってブクレシュティを思い出せば、まず最初に浮かんできたのは私と何時も一緒にいた、今も一緒にいる二人の姿。

 今も机の上にちょこんと腰掛けて、私とイリヤを見守ってくれている。

 あの街こそが、私にとっての、人形師としての始まりだったから。

 だから最初に、まずはこれを語ろうかと自然と決められたのも、ある意味で当然の流れだったのかもしれない。

 

「私は人形劇をするのが好きでね、良く路上とかで練習がてらに小さな頃から広場で人形を動かしてたわ」

 

「アリスは人形師なのね」

 

「そう、大好きなの」

 

 ちょっと首を傾げて、どうしてそんな話をし始めたのか不思議そうなイリヤだけれど、そのまま私は語っていく。

 机の上に置いていた上海と蓬莱を私の膝の上に移動させて、ね、とイリヤに見せながら。

 浮かぶのは、ルーマニアで出会った人達の顔。

 ここ一年で、少し古ぼけた記憶の写真に成りつつある、私の原風景。

 

「ブクレシュティにはね、結構な数のストリートチルドレンがいるの。

 日がな一日バイトしたり、スリをしたり、乞食をしたり、色々と忙しい子達。

 でもね、たまに足を止めて私の人形劇を見ていってくれるの。

 それがちょっと、私の誇りだったわ」

 

 イリヤに聞かせるのは、私のブクレシュティでの人形師としての生活。

 始めたばかりの頃は下手くそと直接言われて、屈辱でどうにかしてしまいそうだったけれど。

 でも、段々と慣れていくにつれて、唯々魅入っていく彼らの姿が、私にとっては成果の証だったから。

 

「たまにチップを盗んでいくのは腹立たしかったけど、見てくれるだけで嬉しかったの。

 他にも、同じ学校の同級生や、近所の奥さんも見に来てくれる事が多かったわ。

 多い時は、三十人くらい集まる事だってあったのよ」

 

「多いのか少ないのか、良く分からない数字」

 

「私が見たのは人だったから、十分に多いわ」

 

「そうなんだ、アリスは人気者なのね」

 

「人気だったのは、上海と蓬莱の二人よ」

 

 胸を張って言うと、イリヤはどこか呆れた顔をしていたけれど、私にとってはこれは譲れない線なので堂々と開き直る。

 それを気にしたのかしてないのか分からないけど、イリヤに続きを促された為に、私は話を続ける。

 

「そうやって小さな私でも三十人を集められるくらい、ブクレシュティの人口は多かったわ。

 特に広場なんて、私の他にも音楽とか演劇とか、路上でやってる人を見かけるなんてザラなの。

 そっちに人がいっぱい集まってるのは悔しいけど、ちょっとした連帯感はみんな持っていたわね」

 

 よく演劇をしていた女性が、私にクッキーやら何やらくれたのは今でも思い出せる。

 時々苦くて焦げてたから、きっと手作り。

 お返しをする為に、私もお母さんにお菓子の作り方を習い始めたのだ。

 初めて焼いたクッキーは、ちょっとほろ苦かった。

 

「いっぱいって、どのくらい?」

 

「ひっきりなしって程ではないけれど、時々歩くのが面倒になる程度ね。

 この部屋で例えるなら、メイドさんが十人ほど等間隔で入る感じよ」

 

「……嫌ね、狭いわ」

 

「そう言ったはずよ」

 

 クスクスと笑えば、イリヤは続きを早くと強請ってくる。

 笑われた事に怒る暇もなく、自分の知らない世界を知りたいとイリヤは思っているのだ。

 思わず餌を求める雛鳥を思い出して、自然とイリヤの頭を撫でていた。

 可愛い、可愛い、と。

 衝動的に、我慢できずといった体で。

 

「アリス?」

 

 ちょっと不満げなイリヤの声。

 お話もせずに、急に無礼な事をし始めた私に、ようやく怒りが追いついたのか。

 確かにいきなりで失礼だったと、ペコリと頭を下げる。

 

「ごめんなさい、可愛かったから、つい撫でてしまったの」

 

「……アリスって、やっぱり変ね。

 バカじゃないけど、とってもバカっぽいわ」

 

「ここは、イリヤが可愛すぎるのがいけないのよ、と返すべきかしら?」

 

「ごめんなさい、バカっぽいじゃなくてバカなのね」

 

「可愛いと言われるのは嫌い?」

 

「……別に、嫌いじゃないけど」

 

 もう一度頭を撫でれば、イリヤは反応を見せずにされるがまま。

 上目遣いで、私をジッと見上げている。

 その仕草が、何だか桜や早苗を思い出させて、余計に可愛いと思えてしまう。

 

 

「ん、気持ち良かったわ、イリヤ」

 

「アリスも気持ち良いのね」

 

「イリヤの髪の毛、柔らかくて絹みたいだもの」

 

「ありがとうアリス。

 私の髪はね、お母様譲りの自慢の髪なのよ」

 

 多分一分間ほどイリヤの頭を撫で続けて、時には梳く様にして、終わった後に二人で顔を見合わせればイリヤの顔は僅かな微笑みが浮かんでいた。

 誉められたのが嬉しいのか、今この瞬間の居心地が良いのか。

 もしそうだったらなら、私も今は心地良いと伝えたい。

 イリヤと同じで、この瞬間に優しさを感じているのだと。

 だから私は、その延長で、髪を褒めるつもりで、こんな事を尋ねた。

 ……直ぐに、後悔する事になるなんて気がつかずに。

 

「そういえば、イリヤのお母さんにご挨拶をしてなかったわね。

 明日の帰り際くらいには、顔を見せておきたいのだけれ、ど?」

 

 

 言い終えてから、イリヤの表情が変化している事に気がつく。

 あれだけ居心地の良かった雰囲気に、どこかで音が響いて壊れる様な。

 

 ――だってそれは、イリヤの表情は……。

 ――どこまでも能面で、色が無くなっていたのだから。

 

「イリヤ?」

 

「お母様、もういないから」

 

 何も見せないと言わんばかりに、淡々と答えるイリヤ。

 さっきまで居た、無邪気な顔で強請ってくる彼女の姿は、もう影すら感じない。

 唯あるのは、瞳の奥に存在している、深くどこまでも落ちていってしまいそうな穴だけ。

 

「そういう役目だったから仕方ないけどね、死んじゃったの。

 それも、とっても無意味にって、おじい様が。

 ――だから、許せない」

 

 何が許せないのか、死んでしまったというお母様が?

 聞こうにも、冷たい雰囲気を纏ったイリヤには、人を寄せ付けないオーラがある。

 下手な事を言おうものなら、胸を深々と刺されて死んでしまうような。

 もうどうしようもない程に、壊れてしまった空気。

 

 でも私は、さっきまでの雰囲気が好きだったから。

 どうにかしたいと、そう思ってしまうのだ。

 だったらどうするべきか、話を考えて、それで……。

 

「お母様が死んだのは、八年前?」

 

「――そうよ、お母様は、だから死んだの」

 

 おおよそのアタリを付けて尋ねれば、答えは是と返って来た。

 私の推測、もしかしたら聖杯戦争で死んだのではないか、というモノ。

 イリヤの物言い的に、知識さえあれば簡単に考えられる事。

 でも、あまりに現実味がなくて、砂でも掴む様な話にも聞こえる。

 

「アリスは知ってたのね。

 もしかしたら、今日はそれ関連のお話をしに来たの?」

 

 淡々と、けれど無味乾燥というには、内に篭っているモノを感じずにはいられない声。

 場合によっては、私はイリヤにこの場で八つ裂きにされるかもしれない。

 それだけの冷たさが、今のイリヤには……ある。

 だからこそ私は、今日ここにやって来た目的を、分かりやすく直ぐに伝わるようにイリヤへと語り始める。

 もう一度、あの空気が取り戻せないかと、そんな期待を抱きながら。

 

「関係があるけれど、違うわ。

 私はね、冬木の聖杯のシステム、英霊召喚に興味があってきたの。

 聖杯戦争自体には興味なんてなくて、気になって使いたいのは英霊だけよ」

 

「英霊なんて単なるじゃじゃ馬よ。

 そんなのが気になるなんて、何で?

 珍しいからとか、そういうのじゃないんでしょう?」

 

「そうね、私は魔術師の英霊を召喚して、そこで師事したいの。

 私には夢があって、それを成したいからその為の近道。

 根源まで行く必要があるのなら、その果まで行く事に躊躇は覚えないわ」

 

「……夢って?」

 

 イリヤの目に、冷たいモノ以外の何かが過る。

 荒唐無稽な方法論なんて、イリヤにとってはどうでも良いのだろう。

 ただ、私が何をしようとしているのか、それだけを気にかけているようだ。

 なので、この勢いのままに私は語る。

 イリヤに隠し事をせずに、私が抱いている大願をありのままに伝えよう。

 それが、きっとこの場でイリヤが求めている事だから。

 

「私はね、この娘達を動かしたいの。

 それはただ単にお人形として扱うのではなくて、この娘達が確かな意志を持って、自分で動ける様にしたいのよ。

 それが……小さい頃からの、私の夢」

 

 膝にいる二人の頭を撫でながら私はイリヤに、昔に決意して今も願っている夢を告げた。

 過去から現在まで続いている道筋に、我ながら一途ね、なんて苦笑しながら。

 

「……………………アリスは、子供のまま大きくなっちゃったのね」

 

 そこでようやく、イリヤの目から冷たさが薄らいだ。

 言葉は多分に呆れを含んでいるけど、さっきまでの状況と比べれば愛嬌とも言い換えられる。

 兎に角、どうやら私は危機を乗り越えられたらしい。

 ホッと一息、重い溜息が口から溢れるのを、私は止める事が出来なかった。

 そして、重い溜息を吐いた後は相対的に口が軽くなったのか、滑らかに言葉が出てくる様になっていて。

 

「女の子は何時までたっても女の子なの。

 そうじゃない、イリヤ?」

 

「分かるわ、けどアリスはおっきいからね」

 

「イリヤも直ぐに背が伸びて、将来は美人になるわよ」

 

 安堵の微笑みを添えながらそう言えば、イリヤは少し困った笑みを浮かべながら、そうだったら良いね、と呟く。

 何か、また変な事を言ってしまったのかと思ったが、今度は一瞬だけイリヤの表情が変わっただけで、後は然程気にした風もない。

 直ぐに人懐っこい、可愛いイリヤの笑顔を浮かべて、私の隣で微笑んでいる。

 ……さっきまでの事があるから、今回ばかりは迂闊な事は私は聞けそうになかった。

 

「イリヤ、お話の続きは聞きたい?」

 

「話してくれるの?」

 

「イリヤに頼まれたなら、喜んで」

 

 だから今は、出来るだけ楽しい雰囲気に持っていこうと、私は話の続きを持ちかける。

 それにイリヤは、アリスったら格好つけねと笑いながら、頷いてくれて。

 ホッとして、私は途切れてしまった、さっきの続きを話し始めた。

 そろそろ、昔の私じゃなくて、今の私の世界を聞いて貰おうと考えながら。

 

「蒸し返すようで悪いけれど、私の目的の為の手段を話したわね」

 

「すっごく遠回りな、面倒くさがり屋の案ね」

 

「それでも、普通にするよりかは近いかもしれないのよ」

 

「魔術師モドキの考え」

 

「変な渾名をつけないで、イリヤ。

 試行錯誤の最中なの」

 

「そんな事より、話の続き」

 

「はいはい」

 

 お互いに口は軽く、朗々と会話が出来ている。

 私も、多分イリヤも、今を良いと思えている。

 だからもう、大丈夫だと、さっきまでの雰囲気を吹き飛ばせたと、そう確信できた。

 なので、この和やかさの中で、私はイリヤを楽しませる為に言葉を繰っていく。

 

「私は今、目的の為に冬木市に滞在してるの。

 始まりの御三家の遠坂の家、イリヤは知っているでしょう?」

 

「えぇ、知ってるわ。

 おじい様が没落貴族の家って言っていたの」

 

 さっきから出てくるおじい様、これは疑い様もなくアハト翁なのだろうけれど、本当にロクでもない事しか教えていないらしい。

 偏見を植え付ける為にしても、イリヤの教育上もっとマトモな事を教えてあげられないものなのか。

 もし本気でアハト翁もそうであると信じてるとか、そういう事があったのなら流石に私も失笑せざるを得ないが。

 流石にないだろうと一笑に付し、話の続きを語り始める。

 それでね、とイリヤの顔を見つめながら。

 

「没落というには家はやっぱり立派よ。

 まぁ、流石にここと比べたら、どの家もドングリの背比べになるんでしょうけど」

 

「アインツベルンは何処にも負けない大家だから。

 比べちゃったら、どんな家でも負けちゃうわ」

 

「それはそうね、聞くまでも無いことよ。

 でも、貧乏というには普通の暮らしをしてるわ。

 ……凛、遠坂の当主は、貧乏ではないけど、極度の貧乏性なの」

 

「お金がないと、心も貧しくなるのね」

 

 サラリと凛を酷評しているイリヤに苦笑しつつ、預金通帳と睨めっこしている凛を思い浮かべる。

 その姿は、家計簿を付ける主婦の様でもあるし、資金繰りに苦慮する会社の社長にも見える。

 その真の姿は遠坂家当主、天才の名に恥じぬアベレージ・ワンなのだから、世の中は全くもって分からない。

 

「で、私はその遠坂家の凛の所に居候しているの。

 聖杯の研究とか、実験とか、地元でやった方が手っ取り早いものね。

 今はお陰でのびのびと暮らしているわ」

 

「ふぅん、まぁ、時計塔に行くよりはアリスらしいわね」

 

「今日昨日の関係なのに、イリヤには私がわかるの?」

 

「アリスは分かりやすいもの」

 

 ……馬鹿にされているのかそうでないのか、どうにも反応に困る言葉。

 イリヤの表情を見るに、親しみは持ってあるみたいだけれど。

 

「イリヤも、人の事は言えないじゃない」

 

「そうかもね。

 でも、私は隠す事がある何て疚しさは無いもの」

 

 フフンと胸を張るイリヤに、私は肩を竦める。

 事実としてそうであったも、こうまで臆面なく言われれば流す他に受け答えなんてしづらいのだから。

 

「イリヤはイリヤなのね」

 

「誰だって、自分は自分よ。

 アリスだってアリスじゃない」

 

「そうね、当たり前の事を言っちゃったわ」

 

 二人で笑って、話を続ける。

 どこまでも続く様に、まだまだ夜は終わらないのだと示すかの様に。

 

「アリスは普通の学校に行ってるんだ。

 どんな場所なの?」

 

「他の、普通の女の子や男の子に混じって、普通の勉強をする場所よ。

 国語とか数学とか英語とか、将来の役に立つためのね」

 

「アリスには必要ないんじゃない?」

 

「そんな事はないわ。

 もしかしたら、ふとした事が何かも役に立つかもしれないし……それに、何より楽しいもの」

 

「楽しい?」

 

「そうよ、イリヤ。

 友達と話したり、お昼ご飯に悩んだり、一緒に勉強している連帯感だったり。

 そこにいるだけで、感じれるモノはあるの。

 だから、私は学校が必要だし、好きよ」

 

「そうなんだ、ちょっとだけ楽しそうね」

 

「アインツベルンじゃ、そういうのはやっぱり難しい?」

 

「学校に行かなくても、知識はメイドが、最近ではセラが教えてくれてるもの。

 行く必要がないの、私はね」

 

 ごく普通に語るイリヤに、私はそういうモノなのねとアインツベルンについて理解する。

 恐らくは、彼らには社会というものが欠落してるから、自分達だけで完成してるからこその処理なのだろう。

 だって、大抵の魔術師は、殆どはどれだけ将来について渇望されていても、学校には社会を学ぶ為に通わされているのだから。

 

「イリヤがそれで良いのなら、私は別にいう事はないわ。

 でも、不自由じゃなくて?」

 

「うん、外の事は気になる。

 でも、不便はしてないわ」

 

 平然と答えるイリヤは、何の迷いもない。

 こういう生き方をしてきたのだと、それだけはキッチリと伝わってくる。

 それに、とイリヤは更に付け足す。

 

「みんな居るもの、このお城には。

 セラもリズもね、だから大丈夫」

 

「そう……」

 

 でも貴女のお母さんは……、脳裏に過ぎった言葉を、私は躊躇なく闇に葬る。

 余計な事も、足りない言葉も必要ないから。

 代わりに、偉いねと気持ちを込めて頭を撫でた。

 さっきまでの様に、絹の様なイリヤの髪を。

 

「……アリスって頭を撫でるのが好きなの?」

 

「そうね、髪を触ったりしてると、心が落ち着くわ」

 

「落ち着くの?」

 

「えぇ、好きな子の頭を撫でていると、とっても心地いいわね」

 

「変な趣味」

 

「趣味じゃなくて、本能みたいなものよ」

 

 そう言えば、イリヤはまた変なのと呟く。

 でも、どうしてもこういうのはクセになってしまうから、どうしようもない。

 だからできるだけ丁寧に、イリヤの頭や髪を撫でる。

 ヒンヤリしていたイリヤの手と違って、頭の方はほんのりと暖かかった。

 

 

 ………………

 ……………

 …………

 ………

 ……

 …

 

 

 それからしばらくして、私はイリヤにポツリポツリと合間に頭を撫でながら、冬木での私の世界、イリヤにとっての遠い外についてを語っていった。

 やれ遠坂家の当主は中華殺法の使い手だの、間桐の家は愉快さと不愉快さが混じっているだの、教会の神父は油断ならない破戒僧で神父にも牧師にも向いてないだの。

 私が知っていて、イリヤも少し知ってる事を伝えていく。

 それは知らない事では無いのかもしれないけれど、見えてない一面を届ける事にもなっていると私は思ったから。

 それにイリヤは興味深く耳を傾け、私の話に聞き入ってくれて。

 間違いなく、イリヤは私の話に興味を持ってくれていたという事は、確信できていた。

 

「うん、ありがとうアリス。

 貴女、とっても話し上手ね」

 

「人形劇は語り聞かせるものでもあるのよ。

 イリヤはしっかりした聞き手だから、話しやすかったというのもあるけれど」

 

 そうして、これ以上語るには再び睡魔の膜が私達を覆いつつある時に、イリヤは感謝の言葉を告げてきた。

 雪の只中、閉じ込められたかの様な二人っきりの部屋で、私達は笑い合う。

 たった一日、僅か一晩だけなのだけれど、それだけでも十分に通じたものはあったから。

 語った私も、聞いていたイリヤも、二人で共感しあい、分かり合いながら一緒にいた。

 多分、お互いにお互いを気に入っていたから、ここまで仲良くなれたのじゃないかと、私はそうも思っていて。

 

「ねぇ、アリス」

 

「なに、イリヤ」

 

 居心地の良いこの時、深夜で静かな私達の時間。

 微睡みの中での、そんな一時。

 だからイリヤが口を開いて、その言葉を聞いた時、私はほんの僅かに逡巡してしまった。

 

「どうせなら、ここで暮らしたら?」

 

 冗談かもしれない言葉。

 イリヤは微笑んだまま、何を匂わせるでもなく静かに私を見つめている。

 全てを私に、本気にするのも冗談にするのも、そのまま私に委ねていた。

 ただ、イリヤの目が、ねぇ、返事をして? と問いかけてきていて。

 それに、私は……。

 

「素敵なお誘いだけれど、イリヤのお誘いには応えられないわ。

 ここもイリヤのお陰で嫌いじゃないけれど、冬木の街はもっと好きだもの」

 

「そっか……」

 

 ゆっくりとイリヤは頷くと、それ以上の追求もしなかった。

 納得したのかは分からないけれど、私の気持ちを理解してくれたと思っておこう。

 そう考えて、そっと私は微笑んで。

 小さく、手で口を隠しながらイリヤがあくびをした為に、そろそろ寝ましょうかという話しになる。

 ぴょんと、私の隣に座っていたベッドから飛び降りて、クルリと私の方に振り向く。

 快活で、でも今はちょっと眠そうな可愛らしい顔。

 見ていて顔が綻ぶ表情を浮かべながら、イリヤは最後にちょっと聞きたい事がと尋ねてきた。

 何、と聞き返せば、一つだけとイリヤは前置きして……そして、こんな事を尋ねてきたのだった。

 

 

「――ねぇ、アリス。

 冬木にいるって聞いたんだけど、それで赤髪の男の子らしいんだけどね、――――って子、知ってる?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「イリヤ」

 

「なに、リズ」

 

「アリス、帰っちゃった」

 

「そうね」

 

 窓から外を見つめるイリヤに、リズはそっと寄り添って話しかけていた。

 話し合っているのは、昼頃に出て行った人形遣いを自称する少女について。

 といっても、リズはアリスの事を殆ど知らず、イリヤから話を聞く側なのだが。

 

「残念?」

 

「分からないわ」

 

 どうなのかしら、と小さく呟くイリヤの脳裏には、律儀な変人であるアリスの姿が。

 人形が大好きと言い、膝に乗せていた二つの人形の事を慈しんでいたアリス。

 その姿に、どこかイリヤも惹かれるモノを感じていた。

 それは共感としてか、友達としての姿なのか。

 今のイリヤには経験が足りず、分からない事だらけ。

 穴だらけの知識の中でイリヤが解る事といえば、唯一つ。

 

「でも、アリスは友達よ」

 

「そう」

 

 外の雪、前日の雪は降り積もったけれど、雪掻きを終わらせれば出せるくらいの積もり方だった。

 一日降り続いたのに、何でもっと積もらないのよ! とイリヤが理不尽な気持ちを抱いたのは、きっとまだ別れたくなかったから。

 でも、イリヤは昨日の内に、アリスに託した事があった。

 それを彼に伝えて欲しくて、本当は自分で伝えたいのだけれど、今はどうしようもないから。

 イリヤはずっとこの城で暮らしていて、外に出れる事なんて滅多にない。

 それ故に、アリスに託す他になかった。

 だから、アリスが来てくれたのは本当に喜ばしいことだけれど、帰ってしまったのが残念かどうかはイリヤに見当は付いていなかったのだ。

 

「イリヤ、それ、どうしたの?」

 

 そうして深く考えこんで、それでいて複雑な気持ちを絡ませていたイリヤに、ふとリズが尋ねてきた。

 そのリズの視線の先には、ちょっと荒く縫われた人形の姿。

 極度にデフォルメされた、赤髪の男の子のお人形。

 

「ん、それはね、リズ」

 

 それに、イリヤは複雑な心持ちながらも声を弾ませて、ナイショだよと小さく告げる。

 徹夜で寝ずに縫ってくれた、もうここには居ない彼女の事ともう一人の事を思い浮かべながら。

 

「――私達の、ユウジョウの証」

 

 彼女が出て行くお昼頃に止んでいた雪は、再びしんしんと降り積もり始める。

 優しく、誰かを慰める様に。

 イリヤは、その雪に母の面影が見えていた。

 

「私、何時か絶対に冬木に行く。

 それで、アリスに会ったり、あの子を生かすか殺すかも決めるの」

 

「イリヤの、好きな様にすれば良い」

 

 空を見上げて、イリヤが思い出すのは懐かしき、まだこの城にイリヤが大好きなあの二人がいた頃の事。

 あの時が幸せだったから、考えれば考える程に許せないと思ってしまう。

 でも、そんな想いを抱えてしまう程に、確かに気になっていて。

 どうすれば良いのかと空に問えば……。

 

 ――雪空に見えるお母様は、笑っていた。

 

 少なくとも、イリヤにはそう見えていた。

 だから、とイリヤは申し訳程度に選択肢を増やす。

 ……そんな雪の日の事。




イリヤは乙女だから、複雑な気持ちを抱いている。
……勿論、赤毛の男の子の方に。
これだけ想っているなんて、まるで恋する乙女ですね(適当)。

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