火が全身を包み込み、視界が暗転した。そして視界に光が戻る。
騎士にとってそれは一瞬の事であった。
先ほどまでいた玉座は、篝火の火がなければ、小さい祠の中の壁すら見る事が出来るかどうか、と言うほど暗かった。
だが、暗転した後に戻った光はそれとは似ても似つかない程眩い。故に騎士は一瞬目が眩む。
しばしの間、眩い光に目が慣れるまで、騎士は自然と耳をそばだてていた。
それはドラングレイグや、ロードラン……騎士が最初に薪になった頃、ドラングレイグはそう呼ばれていた……でも、目が眩むような場所で不意を打たれた事が有る騎士の反射的な行動だった。
騎士の耳には、沢山の木々の葉が擦れる特有の音。小動物が動くような多少の音。それに……それらの音にかき消されそうな程遠くから。
木々が薙ぎ倒される音と、大型の獣の地が揺れる程低く響く呻り声が聞えてきた。
目が見えないまでも、やれる事はある。
木々が薙ぎ倒される音と、大型の獣の声は同じ方向から響いて来たものである。であればその二つの音は同一の個体が起こしたものと考えるのが妥当だと騎士は考えた。
つまり総合すると、木々を薙ぎ倒すような大きさの獣が、木々の音にかき消されかねない程遠くで暴れまわっている、という事だと騎士は考えた。
光に慣れるのを待たず、騎士は現状想定し得る脅威である大型の獣に対する備えを始めた。
背負っていたアルトリウスの大剣を仕舞い、鋼鉄で出来た大型の盾、タワーシールドと、鋸を思わせる、波打った刀身を持つ大剣、フランベルジェを取り出した。
タワーシールドとフランベルジェを取り出した辺りで、騎士は周囲の光に目が慣れる。
周囲は眩い陽光に照らされた木々が健康的な輝きを放っており、青空と木の葉の緑の間に一か所、黄土色の何かが見えた。
その黄土色の何かが見えたのは、大型の獣が居ると騎士が想定していた方向である。
遠くに聞えていた振動は、気がつけば木の葉がその振動により揺れるほど近くまで近づいてきていた。
騎士は、それが何であるか判別に時間を要した。
周囲の木の背は低い。と言ってもそれは木々としては、という前提がつく。
人並みの背丈を持つ騎士が、並みの人の背丈ほどもある長さの刀身であるフランベルジェを掲げ、尚木の七割ほどの長さ。
木々の間隔は、その背丈によらず養分を多量に吸っているのか広い。それは騎士にとっては幸運であり、不幸でもあった。
幸運であったのは、その全長が見えた事。不幸であったのは、それと目が合った事。
騎士は、呻り声の主を大型の獣だと判断した。その判断自体は正解であった。しかし、その獣は騎士の想定外だった。
騎士が想定していた大型の獣は、大型の熊程度を想定していた。熊の力は強く、強力な個体であればこの程度の大きさの木ならば薙ぎ倒す事も可能だ。
だが、想定は想定である。騎士は自らの経験則が外れる事は無いと思うほど愚かでは無い。
しかし、その獣は余りにも騎士の想定を外れ過ぎていた。
繰り返すが、騎士の背丈は平均的ではあるがけして小さくは無い。しかし、その獣は騎士の背丈ほどの高さで腿に届くかどうかと言うほどの巨体。
獣は前のめりのような姿勢をしていたが、その巨体に対しての手の小ささ、足の大きさから察するにそれが平常の姿勢なのだろう。
ドラングレイグの地の底、聖都サルヴァというところに竜のなりそこないのような生物が居る。
目の前の生物はそれに似ていたが、顔つきや体躯は丸みを帯びていたなりそこないよりも厳つく、それよりも二回りほど大きかった。
騎士は、これまでにもなりそこないを含め、幾つかの竜と遭遇してきた。
数こそ少ないが、ロードラン、ドラングレイグでの竜の絶対数は両手で足りるほど少ない。
それを前提に考えれば、ロードラン・ドラングレイグのほぼ全ての竜と遭遇したと言えるだろう。
その上で目の前の獣を見れば、なりそこないのような不気味さも無く、あらゆる竜の持っていた神々しさや余裕、誇りも無い。
あるのは自らの空腹に任せ、本能のままに獲物を貪り食う、獣特有の恐ろしさだ。
そこから、騎士は目の前の獣を"恐竜"と呼ぶ事にした。
騎士はこれらの思考を走らせながら、恐竜に対して回り込むように走り出した。
これは竜種だけでなく全ての自らより大きいモノに対して言える事だが、大きさに差があればある程、懐に潜り込むのが一番安全な位置取りだ。
人並みかそれ以上に知能を有していた先の玉座の監視者・守護者においてもそれは有効だった。ならばなおさら、知性を感じないこの恐竜には有効である。
恐竜は一歩踏み出し、先ほどまで騎士が居たところを、地面ごと抉り取った。
騎士はその瞬間回り込むのをやめ、懐に潜り込む。
そして、恐竜のすねに、加速を載せてフランベルジェを叩き込んだ。
フランベルジェは大剣の中では軽い部類に入る。しかし、大剣に類する程度の重量はある。
加速に載ったフランベルジェは、その鱗をものともせず恐竜の足首に食い込んだ。
恐竜はこれまで戦いと言うような戦いをした事が無かったのだろう。獲物に手痛い反撃を喰らった事も無かったのだろう。
その地を振るわすような声は、今は悲鳴を上げる事にしか使うことが出来なかった。
騎士はそれを見て取ると、恐竜の足首に食い込んだフランベルジェを挽き斬る様に抜いた。
傷の大きさの割に大量の血が足首から流れ出る。
フランベルジェの波打つような刀身は、飾りでは無い。波打った刀身は歪な切り口を作り出し、癒え難く大きい傷を作り出す。
そして生き物はすべからず腱を持ち、それは恐竜とて例外ではない。
腱を傷つけられた恐竜はその痛みも相まってバランスを崩す。しかしその強靭な足は、その巨体を未だ支え続ける。
恐竜は腱を傷つけられた足を庇う様に旋回する。初めて痛みを与えられた相手に対して、初めて怒りという物を覚えたのだ。
初めて持った怒りに突き動かされ、逃げるという動物的本能を無視し騎士を喰らおうとする。
恐竜は、初めて戦いと呼べる物に遭遇した。その相手は騎士という、文字通り百戦錬磨の逸物。
本来ならば一矢報いる事も出来ず、もう片方の足も挽き斬られて死ぬだけであった。
それは偶然であった。
恐竜の尾は長く、恐竜の頭から足までと同等の長さを誇る。尾骨に支えられたそれは垂れる事無く伸びていた。
旋回の時、それはしなるように振り回され……周囲の木々を薙ぎ倒した。
薙ぎ倒された木々の内、一本。それが、不幸な事に騎士の頭上に落ちてくる。
重装をしているとはいえ、騎士のその身体能力は人としての限界まで強化されている。避けるのは容易い。
落ちてきた木を避けた騎士。旋回した恐竜。
その間は開いていた。ちょうど、恐竜が騎士を食み易い程に。
戦いに運は付き物である。では、騎士に不運が付いており、恐竜に運が付いていたのか?
それは違う。
突如、恐竜の両目に矢が突き刺さった。
敢えて言うのであれば、どちらも不運だったのだ。
背後から飛んで来た矢に驚く事無く、騎士は駆け出した。
悶えている恐竜は隙だらけであり、懐に入るのは容易であった。傷ついていない足にフランベルジェを突き刺し、柄を蹴り込む。
深々とフランベルジェが刺さる。しかし、まだ恐竜は倒れない。
もうひと押しがいる、と騎士は考え、そこに思考が至るよりも早く体が反応していた。
左手に持っていたタワーシールドに体を預け、フランベルジェの柄に向かって体当たりをかました。
流石に騎士の並外れた技量でも、体当たりでタワーシールドを垂直にフランベルジェの柄に当てる事は出来なかった。
だが、この場合はその方が有効であった。
その膂力に後押しされたタワーシールドは、その重さでもって深々と突き刺さったフランベルジェの柄に当たる。
そして、図らずもてこの原理により、恐竜の足は無理矢理切り開かれた。
その痛みを騎士は想像する事しか出来ない。が、足が切り開かれた事で倒れた恐竜の口から出るこれまでとは比べ物にならない音量の叫び声。
それに、傷つけた覚えのない恐竜の口から溢れ出る血液を鑑みるに、痛みに悶え口を噛み切った事からおおよそ推測は出来た。
倒れ伏しながら痛みにもがくその姿は哀れであり、せめてもの慈悲と騎士はタワーシールドを振り下ろし、恐竜の頭蓋を叩き割った。
息絶えた恐竜からフランベルジェを抜くと、騎士は背後から声をかけられた。
あの時は気付かなかったが、その声は女性の物であった。女性があそこまで見事に網膜を射抜くとは、果たしてどんな弓を使っているのだろうか、と思いながら振り向く。
美人であった。
銀色に輝く髪は靡き方すら優雅さを覚える。
目鼻立ちも美しい。目や鼻、顔の部分全てがそれぞれ見事な形をしていて、その上で配置も狂っている様子は無い。
むしろこれ以上いい配置を騎士は想像する事も出来なかった。……その奇抜すぎる赤と青の二色でしか構成されていない服は、大いに改善の余地ありだと感じたが。
そして何より襲ってこない。これが騎士にとって喜ばしい事であった。
ドラングレイグでもロードランでも、生者より亡者の方が多い。しかしその中で亡者よりがめついか、あるいは貪欲な者で無い人間は1割ほどしかいない。
しかもその一割は初めて会った時のみを数えて1割であって、優しさを演じて騙す輩はその1割の内の半分といったところである。
そしてその数少ないまともな人間は、大抵はその善性故に命を落とす。嫌な事にこれはドラングレイグでもロードランでも変わる事は無かった。
どちらにせよ、騎士はこれまでドラングレイグでもロードランでも、不死人になった後に実際に援護までしてくれる者と出会った事は無かった。
その目鼻立ちと襲ってこない事実に、心と目を保養していた騎士。
しかしてその間にも美人は話しかけていたのだが、保養に集中していた騎士は気付かず。
「ちょっと、聞いてます!?」
と、怒鳴られる事で漸く我に返ったのであった。
騎士が反応した事に、ようやく反応した、と呟いた女性は、気を取り直して話し出した。
「まずは自己紹介を。私の名前は八意 永琳と言います。あなたは?」
名を聞かれるが、騎士は答える代わりに兜を脱いだ。特に散らかってる訳でも整っている訳でもない顔を晒した騎士は、口を開ける。
「ちょっと、何を……」
突然の行動に驚いた永琳であったが、その舌を見て騎士の行動の意味を察する。
騎士の舌は半ばから切り取られており、それ故物を言う事が出来ないのだと察した。
「……ごめんなさい、短慮でした」
騎士は、気にする事は無い、と言いたげに首を振った。
騎士の舌は、彼が不死人となった時に切り取られた物である。
ある国の騎士だった彼だが、騎士階級から不死人を出した、という醜聞を騎士自身の口から出る事を封じる為切り取られたのだ。
元よりその甲冑は質こそいいものの市販品であり、騎士の口さえ封じれば国の名が出る事は無い、との判断であった。
首を振った騎士だったが、何かを思い当ったのか急いで兜を被り直した。
騎士は、瞳の奥の刻印の存在を失念していた。幾ら火に巻かれているとはいえど、不死人の刻印の存在は広く知られている。
不死人は迫害される事を身を持って知っていた騎士は、刻印がばれぬよう急いで兜を被り、永琳の訝しんだ顔を見ながらばれていない事を祈っていた。
美人に蔑んだ眼で見られるのは嫌いではないが、嫌われる事自体は嫌な騎士であった。
永琳は目の前の男に興味を抱いていた。
数の少なくなった薬草を補充しに森に来てみれば、大型肉食種の叫び声が聞こえたのだ。
それ自体は珍しくもない。あの肉食種が生態系の上の方に居る事は知っていたし、その生命力故時間はかかるが単独でそれを倒せる永琳としては警戒する必要も無い。
しかし、その肉食種の叫び声は異常なものであった。
獣が恐怖を覚えるような声。今日は都の警備隊は狩りに出る日では無いし、そもそも生態系のトップに居るあの肉食種は警備隊でも分が悪い。
ならば何故、あの肉食種が怯え、叫び声を上げる必要があるのか。気になった永琳は、叫び声の方に駆けていった。
そしてあの男を見つけたのだ。
一目見てその異常性に気が付いた。
そもそも、あの肉食種の皮膚は堅く、肉も厚い。目ぐらいしか柔らかい所は無い故に、術を使わなければ討伐自体が覚束無い。
それは愛弟子で刀を扱うあの子も例外でなく、だからこそこの森は都に近いにも関わらず開拓が進まない。
それが、である。
刀より大きい得物とはいえ、あの肉食種の発達した足に有効打を与えるどころか一太刀で腱まで達するあの男は何者なのか。
あれだけの男が在野にいるとは、なんともったいない。スカウトして警備隊にでも入れれば、愛弟子も発奮する事だろう。
そう思っていた。男の舌を見るまでは。
雑な施術であった。使われたであろう道具の質を鑑みても雑な舌の切り口は、敢えてやったものだと医術に詳しい永琳は見て取った。
ならば敢えてそのような切られ方をする立場の者は? 考えるまでも無かった。罪人である。
しかし、都にここまで低質の道具など逆に作る事は出来ない。であれば、男は都では無いところから来たと思われる。
夜を治める月夜見様の国より国力の高い国などそうないが、罪人を囲い込んだとなれば外交問題にもなりかねない。
リスクに対してのメリットは薄いと言わざるを得なかった。
常人ならば、ここまでの結論に至った時点で騎士との関わりを避けるように行動するだろう。
だが、彼女は八意永琳。その能力と思考回路は常人離れしている。
その能力の高さ故、問題の大小は考慮に入れる要素で無く。
問題を片付ける手間と、対象へ持つ興味の程度を量りで持って行動する。
その点で言えば、騎士は興味の方に秤が振れたのだ。
騎士を手元に置く事に決めた永琳は、ひとまずこの男の人間性を、取り忘れていた薬草の採取を手伝ってくれる人間かという事で量る事にした。