藤原親子の仲が深まってから、時は過ぎ。
輝夜姫を見る事かなわず、やがて屋敷に立ち並ぶ男は一人二人と消え。
その立地から、町は輝夜姫が居ると言うだけで無く発展し始めている。
それだけ時間が過ぎ去ろうとしても、尚も輝夜姫に懸想するのは五人の男である。
石作皇子、車持皇子、右大臣阿倍御主人、大納言大伴御行、中納言石上麻呂。
彼ら五人の男の内。車持皇子は、あの少女の父親であった。
未だに五人の男が懸想するのを見て、翁は婆と共に輝夜姫の元へ赴いた。
その場には騎士も立ち会っている。
騎士本人としては己の関与する所では無いと思っていた。
しかし、輝夜姫、老夫婦共に強引に引き摺って来たのだった。
老夫婦曰く、家族なのだから家族の大事な話に立ち会うのは当然だ、と。
家族。
心中の温かさを秘めながら、騎士はふと夢想する。
己が死なぬ化け物と彼らが知ったら、三人はどう思うのだろうか。
それでも、このように暖かく迎えてくれるのだろうか。
それとも。
『化け物』。
"本来の"家族同様、そう言うのだろうか。
最も怖ろしい物を見たように、目を見開きながら。
「……であるからして、輝夜よ。
我らも最早七十。いつ死ぬとも知れぬ身よ。
早々と所帯を持ってくれると、安心できるのだ」
老夫婦が要件を輝夜姫に伝えると、輝夜姫は険しい顔をする。
「しかし、婆様、爺様。
男の心など、見目麗しい者が居れば振り子の如く揺れ動く物。
そのような心を持つ者に、どうして愛を注げましょうか」
うむうむ、と頷く老夫婦。
「無論、そのような者など言語道断。
故に、輝夜よ。
お前が自ら、夫婦となりたいと言う者に何かしらの試練を与えるのだ」
その提案に、輝夜姫は微笑む。
しかしその口尾は微かに攣り上がっている。
隠し切れぬ愉悦を湛えていた。
「それでは……かの者らが、それぞれ私が示した物を持って来れれば。
私は其の者と夫婦の契りを交わしましょう」
「石作皇子は、仏の御石の鉢。
車持皇子は、蓬莱の玉の枝。
右大臣安部御主人は、火鼠の衣。
大納言大伴御行は、竜の首の珠。
中納言石上麻呂は、燕の産んだ子安貝」
うん、うんと。
噛み締める様に反芻し、老夫婦はその五人に伝える為、席を立つ。
老夫婦が立ち去った後。
騎士も席を立とうとした所、輝夜姫に引き留められる。
そして、彼女は何処からか、五つの品を取り出した。
眩く光る石の鉢。
根が銀色に光り、茎が金色に煌めき、真珠のように輝く木の枝。
焔を纏いながら、焼ける様子の無い衣。
不思議な輝きを放つ珠。
妙に小さい子安貝。
「既に有る物を、どうして持って来れると言うのかしら?」
嘲笑を浮かべる輝夜姫。
その笑みは、冷たい。
元より、騎士は色恋沙汰に興味が無い。
そもそもがそんな事が出来る身の上では無いと騎士自身感じている。
何よりも、ただ一つの大事な者が出来た時。
それを失ってしまえば、それこそ己がどうなるか分からない。
幸せを求めて、今ある物を失いたくは無い。
そう考えていると、例え他人の物であろうが自然と色恋沙汰と言う物への興味も無くなるという物。
故に、輝夜姫に懸想する五人の顛末は、人伝に聞いたのみである。
それも、五人全てが散々な結果に終わった、という程度だ。
しかし、過去の縁故か。
車持皇子……あの少女の父だけは、騎士は他人よりもその内情を知っている。
恐らくは、恋敗れた後。
輝夜姫から見せてもらった物と比較するとかなり見劣りする、贋の蓬莱の玉の枝を持ち。
一人で帰路に就く、車持皇子に騎士は出会ったのだ。
月しか大地を照らさない、暗い夜道。
月光を散らす贋の蓬莱の玉の枝に照らされた彼の顔は、どこか晴れ晴れとしていたのだ。
「おう、お主か」
「どうだ、共に酒でも飲まないか」
この時点で、騎士は車持皇子の事を、失恋話に付き合ってもいいと思う程度には気に入っていた。
故に、彼に付いて行った。
彼の屋敷は、既に明かりが消えている。
それなりに位の高い車持皇子であったが、家の者を起こさずに己で酒宴の準備を整えた。
月光は雲を通し、柔らかい光が屋敷の庭を照らす。
酒宴と言っても、肴は無い。
肴は、彼の失恋話だ。
彼の傍らには、贋作の蓬莱の玉の枝が置かれている。
「蓬莱の玉の枝、と言われたが。
既に我は己一人の体で無い故な。
こうして、贋作を仕立てた、という訳だ」
「かの輝夜姫が、贋作に惑わされれば、それもまた良し。
こうして民の笑い者となるのも、それもまた良し」
「しかし。
やはり、こうなるのが一番良かったのだろう。
己が懸想した女が、贋作に惑わされるなど」
其処まで言って、彼は言葉を詰まらせた。
酒を呷る。
騎士が、空となった杯に酒を注ぐ。
「私は恋に破れた。
最早この恋は終わったのだ」
だと言うのに。
その呟きは、彼から流れ落ちた雫が、杯に入る音で半ば掻き消された。
最早、語る言葉は無く。
酒の香りは甘やかである。
だが、彼の飲む酒は塩辛い物だったのだろう。
呑みこみ難い物を、飲んでいるような顔であった。
その帰り。
屋敷の一角。山に面している所。
そこに、人の気配が有った。
それも複数。
多少駆け足でその場に赴くと、そこには籠を担いだ者共が居る。
籠は開いており、その中から人が覗く。
男だ。高そうな服を纏っている。
付きの者の服も、見てみれば仕立ての良い服ばかり。
この男の身分が、知れようという物だった。
男が見つめるのは、輝夜姫の部屋。
其処から幽かに光が覗いていたが、やがて消える。
夢でも見ているような陶然とした面持をしていた男。
やがて、その夢から醒めたのか。
騎士の方を見る。
「お主は、あの者と同類か」
近しい者だという事だろうか。
それであれば、間違いでは無い。
騎士は、首を縦に振った。
その男と交わしたのは、その一言のみである。
やがて、男は付きの者に声をかけ、去って行った。
その後、輝夜姫が天皇と文通を始めたという噂が流れた。
やはり、あの男は、そういう事だったのだろう。
そして、三年の月日が経った。
最近、輝夜姫の顔には陰鬱な影が差している。
そう老夫婦が騎士に相談しに来た。
と言っても、騎士は言葉を話せない。
故に、専ら想いを言葉に出して、整理しているだけなのだろう。
しかし、いつも己の片割れに話さず、騎士の処に赴くのだ。
夫婦は直接聞いて見るべきだという結論に達し、騎士を伴って輝夜姫に聞きに行くのだった。
輝夜姫は三人が部屋に入って来たのを見ると、何も聞かずに語り出した。
襖は開かれ、月が室内からでも見えている。
「私は、あの月より来たのです。
罪を犯し、その償いとして」
「次の十六夜の夜に、私はその罪を償い終え。
地上から、月へと戻る事となります」
しばしの沈黙。
そして、漸く翁は話を飲み込めたのか。
「こんなにも永く、共に過ごして」
「こんなにも綺麗に、美しく育って」
「この老い先短い中を、姫が幸せに暮らしていくのを見ながら、死ねると」
「何故」
何故……。
どんどんと、華が萎れる様に小さくなる、翁の声。
どっとその顔が、老けた様に見えた。
幽鬼のような足取りで、部屋を出ていく老夫婦。
騎士と、輝夜姫。二人きりとなった。
「ねえ、知ってる?」
月を見つめたまま、輝夜姫が呟く。
「貴方が残った戦い。月面移住事件って言われているのよ」
「既に月面に着いていた先遣隊が、惑星間望遠鏡によって観測していた」
「全てね」
そう、全て。
そう繰り返し、呟く輝夜姫の顔には、何かを堪えている様にも見えた。
「私は、その時まだ生まれてなかった」
「丁度妖怪の襲撃の時に、母の腹の中に居てね」
「私の母は、移住船に乗り込む時、最も遅れて乗ったのよ」
「だから、貴方が居なかったら私は生まれてすらいなかった」
ありがとう。まずはそう言っておくわ。
その言葉は、少し震えていた。
「でもね」
「私の父、軍人だったのよ。
母の家に婿に入って来た、軍人でね。
私の名前も、必死に辞典と顔つき合せて考えてたらしいわ」
「怨んじゃ、いない。
今となっちゃ、片親の命と自分の命じゃ自分の命を選ぶし。
というか、肥立ちが悪くて死んじゃったから、母親の顔すら知らないしね。
だけど、私ってば悪い女だから。
だから、これはただの悪戯よ」
何で、私の父を助けてくれなかったの?
冗談めかして、輝夜は呟いた。
だが、その眼尻には涙が浮かんでいた。
騎士は、どのような武器で斬られるよりも、胸が痛んだ。
それから騎士は、文字通り輝夜に合わせる顔が無くなった。
しかし月日は変わり無く過ぎ、ついに十六夜の夜を待つ事となった。
翁が金に飽かせ兵を雇い、更に天皇も兵を送った。
故に、屋敷内部は兵で足の踏み場が無い程となっている。
口汚い罵りを飛ばしながら、老夫婦は月の迎えなど追い返してやると息巻いている。
その張りつめた空気の中、日の落ちる頃に、車持皇子とその娘が屋敷に顔を出した。
「月に帰ると聞いてな。見送りぐらいせねばと思ったのだよ」
それに、帰る姿も見れば、思いも断ち切れようと言う物。
贋の蓬莱の玉の枝を持ちながら、そう呟いていた。
別れの酒宴と、車持皇子が付き人に豪勢な料理を作り、兵も含めた皆に振舞った。
最も、別れの酒宴としていたのは車持皇子とその娘、輝夜姫に騎士ぐらいであり、
その他の者は月人退治の景気付けとしていたようだが。
やがて夜も更け、月が上り。
ある者が、妙に月が明るいな、と呟いた時。
月に、船が浮かんでいた。
船だと思ったのは、僅かながらもその技術を知る騎士と、輝夜姫のみである。
故に、それ以外の者は恐れ戦いている。
中には腰の抜けた者も居る程だ。
だが、仮にも彼らは兵。
次々に矢を射るも、空高くの船に届く物は少なく、届いたとしてもその装甲に弾かれる。
そして、船の中から人が現れた。
あの小さい砲と似たような形状の物を持つ者……月の兵が十数人。
そして、それも持たぬ、恰幅の良い者が一人。
彼らは宙より舞い降りてきて、朗々と語る。
「我ら、輝夜の姫を迎えに参った者なり」
「穢れた地上の民の身なれど、無事に輝夜の姫を育てた事、大儀である」
そこまで恰幅の良い者が言ったところで、その額に石が当たる。
投げつけたのは、翁。
それに気を戻したのか、集められた兵は弓を引き。
恰幅の良い者が懐より掌に収まる物を取り出し、翁に向け。
軽い音がした時には、横たわる物が三つ。
翁と、婆と、車持皇子。
運が悪かった、としか言いようが無い。
恰幅の良い男から見て、三人が直線に居たのだ。
とっさに騎士は少女を庇っていた。
騎士に庇われながら、横たわる自らの父を、少女は見つめていた。
その間にも、月の兵と地上の兵は争っていた。
そして、ついには、輝夜姫と騎士。そして少女以外、動く者は居なかった。
騎士と少女は、三人の死体をただただ見つめていた。
そして、後ろから声を掛けられる。
「何年ぶりかしらね」
その聞き覚えのある声に、騎士は振り向いた。
「久しぶり。ちゃんと日記は付けてるかしら?」
永琳だ。頬に血がついている。
その傍らには、いつの間にか輝夜が居た。
その手には、贋の蓬莱の玉の枝が握られている。
彼女の背後には月の船が止まっていた。
出入り口らしきところに、月人らしきものの死体が転がっている。
少し遠いが、懐から覗いているのは写真だろうか。
そこには、二人分らしき肌色が、隣り合って映っている。
永琳は、立ち尽くす少女と三人の死体。
そして、騎士を見やる。
「……私たちは、月から逃げて、地上で暮らすつもりよ。
輝夜があの薬を飲んでしまってね。だから地上まで送られたのだけど。
ついでに、私も飲んだわ」
事務的な口調で言い終えると、しばしの間口を閉じた。
何を言ったらいいか、解らない。そんな表情だった。
「もし」
唐突に、永琳は言い出した。
「もし、疲れ切って、それでも生き続ける目的が見つかって無かったら」
「その時は、私たちを探しなさい」
そう言うと、彼女たちは月の船に乗り込み、どこかに飛び去って行った。
気が付けば、三人の死体の上に、三等分になるよう圧し折られた、本物の蓬莱の玉の枝が乗っている。
騎士は、血だらけの庭に、穴を掘り始めた。墓を作る為だ。
その後ろ姿を、少女は……藤原妹紅は、月明りも映らぬ暗い瞳で見つめていた。
それから、騎士は妹紅を、彼女の屋敷で世話する事で日々を過ごしていた。
よほど父が死んだのが応えたのか、下手をすれば食事すら取らず、じっと騎士を見つめている。
ある日、騎士は彼女の眼前に座った。
その片手から、火の玉が浮き出ている。
呪術の火だ。
彼女の手を開き、其処に呪術の火を載せた手を重ねる。
そして、その手を上げると、少女の掌と騎士の掌、それぞれに呪術の火が載った。
呪術の火は、触媒であるが、同時に火でもある。
普通の火のように、分火が出来るのだ。
呪術師にとって、火は特別な物である。
火は彼らにとって半身である。
それを分かち合った者は、火の血縁となる。
無論、騎士は呪術師では無い。
だが、あの時の。父の愛以外、何もないと言った妹紅に。
目の前の、寒そうにしている少女に、分け与えてやりたいと思ったのだ。
妹紅は、分け与えられた火をじっと見つめている。
次第に出したり引っ込めたりを繰り返すようになった。扱いに慣れて来たらしい。
その時、戸を叩く者が有った。
騎士はそこへ赴く。
すると、そこには男が居た。
あの夜。輝夜姫を覗き見て、陶然としていた男の付き人。
その中の一人だ。
その男は、一つの手紙と箱を渡すと、去って行った。
手紙の中には、短い文が書かれていた。
『輝夜姫から、不老不死となる薬とやらが届いた。
しかし、輝夜姫の居ない世の中で、不老不死になる気など無い。
未だ、お主はその町に居ると聞いた。
輝夜姫の対をなすように、闇を放っていたお主に、これの処分を頼みたい』
そう書かれた文と、捨てるべき場所の書かれた地図が書かれていた。
箱を傍らに置き、食事の準備をする騎士。
妹紅は、箱をじっと見つめていた。
薬は呪い由来の物だからか、収納することが出来なかった。
故に、騎士は少女と箱を伴って、その捨てるべき場所……富士の山と呼ばれる山に登る。
中ほどまで来たところで、俄に雨が降り出した。
しかし、雲は無い。
騎士は知らぬ事ではあるが、それを狐の嫁入りと言った。
歩いていくと、一二歩踏み外しただけで、谷間に落ちるような道に差し掛かった。
気を付ける様に促す為、後ろを振り向こうとする。
その時、背後から衝撃が走った。
子供がぶつかったような、軽い衝撃。
しかし、振り向こうとしていた騎士は、重心を崩した。
傍らに携えていた箱を足元に落し、谷底へと落ちていく。
騎士を突き飛ばした妹紅は、感情の無い眼で落ちていく騎士を見つめていた。
そして箱を開け、中の薬を飲み込んだ。
その場に座り込み、妹紅は呪術の火を取り出した。
感情の篭らない目で、じっと呪術の火を見つめている。
その眼から、涙が一滴零れ落ちた。
それは呪術の火によって蒸発し、とても細い一筋の煙を出す。
それを皮切りに、妹紅の眼からどんどんと涙が溢れ出す。
そして、ぱらつく程度だった狐の嫁入りは、その激しさを増す。
涙と雨が降り注いでも、呪術の火は消える事は無く。
ただただ、注がれた分だけ煙を吐き出した。
煙と引き換えに、妹紅の髪から色が抜けていく。
立ち上る煙は、やがて麓からも見える程太くなる。
それを見た天皇は、不老不死の薬が燃えている煙だと、呟いたという。