とある奇跡の平行世界   作:雨宮茂

9 / 26
気づいてしまった心

「またね、かみじょう」

 

何も言えなかった。

 

何も出来なかった。

 

走り去る車が、とても非情に思えた。それは自分の無力を何かに擦り付けたかったから。弱い自分を、見たくなかった。

 

でも、

 

「畜生ッ! 認めるしかねぇよ。お前は! お前は無力だッ!!」

 

認めた瞬間、虚無感と脱力感が埋め尽くす。

 

泣き出したくなるのを堪え、エレベーターに乗った。もう、なんの感情も湧いてこない。

 

ズルズルとエレベーターの壁にもたれ掛かる。不安定に揺れる光が、今の上条の内心の様でもあった。

 

「俺は、何がしたかったんだ………」

 

助けたかった。麦野沈利という女の子を。何かに追い詰められ迷子のように震えて、泣いていたあの子を。

 

しかし、助けるには麦野の闇はとても深く底が見えなかった。社会その物が複雑で壮大な闇を形成していた。

 

上昇していた動きが止まる。

 

エレベーターの扉が開くと上条は反射的に外に出た。力の入らない足で寮の自室の前までやって来た。

 

「ただいま……」

 

この自分の家の暗さより上条の気持ちは真っ暗だった。それは電気の明かりをつけた事では晴れない。

 

ベッドに座り込み上条は長く重たいため息をついた。

 

ぼぉっとした意識の中、思い浮かんだのは麦野が最後に見せた泣き出しそうな顔だった。自分の立場を理解していても小さな希望に縋りたかった少女の顔は、今でも彼の心を抉る。

 

ただの高校生が学園都市の暗い部分をどうこうできないからと言って、誰も責めない。だが上条当麻という人間は自分を責めた。

 

しかし、擦り切れた神経は後悔の想いすら許してはくれない。

 

突然、視界が霞んだ。

 

ゆっくりと蝕む睡魔に身を任せながら上条は己を呪った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それからどれくらい時間が経っただろうか。深く眠っていた筈なのに上条の意識は急に覚醒した。

 

「……朝?」

 

カーテンの隙間から弱い朝日が覗く。

 

時間は六時。早く起きすぎたと思いながら上条は顔を洗う。そして鏡を見て嘲笑った。

 

「なんて顔、してんだよ」

 

本来ならこんな“絶望”した表情をしていいのは自分じゃない。麦野だ。……いや、電話に出たときこんな表情してたな。

 

過去の出来事だからなのか感情が大きくブレることはなかった。軽く鏡を殴りつけ、朝ご飯の準備をする。弁当は適当にパンを買う事にした。

 

いつも通り卵をかき混ぜ、調味料を加え熱した長方形のフライパンに流し込んだ。後は、ひくっりかえす作業と流し込むのを繰り返せば、出し巻き卵焼きが完成だ。

 

それから適当に材料を炒めて、今回の食事の準備は終った。

 

気分的問題もあり素っ気ない食事になった。まず、美味しくない。

 

自分好みな味の卵焼き。しかし一口以上は箸が進まない。食べ物を粗末にする奴は許さない上条だが、今目の前の物をゴミ箱にぶち込みたくなる。

 

嫌気が差す。

 

いつまで現実から逃げれば気が済むんだ。そう言い聞かせ立ち上がる。皿にラップをして冷蔵庫に入れた。気分を一転させたからと言って食欲が湧いた訳ではない。

 

言わば空元気なのだ。応急処置以下の対処で、上条の痼りは残ったままだ。それでも暗いままでいるのが嫌だった。こんな風にしていても、麦野が無事に見つかるわけではない。

 

それよりも心配なのは、もし滝壺達が麦野を見つけたとして果たして自分に連絡が回ってくるのか。その一点だ。

 

麦野が暗部自体を良く思わなくなった原因は上条だ。必然的に麦野か、その他が間柄を疎遠になるように仕向けるだろう。時間を空ける行為はそのまま関係に結びつく。つまり、上条と麦野はもしかすると永遠の別れをしたことになる。

 

それは嫌だ。と正直に思った。

 

なんだか分からない。でも、二度と会えないと仮定してしまった瞬間、ぎゅっと胸が締め付けられた。

 

言いようのない不安に急かされ制服に着替える。教材を黒い革の鞄に詰め込み、時計を見れば七時。まだ時間はあるが上条は荷物を持つと玄関の扉を開けた。

 

扉の外に出ると、隣に人影が見えた。

 

「土御門?」

 

その先には同じ様に登校するために鍵を閉めようとしていた友人、土御門元春だった。

 

「おー、カミやんどうした。今日は何時になく早いな」

 

「なんだか、じっとしてられなくてな」

 

相槌で返した土御門は鍵を閉めた。それから、からかう口調でこう聞いた。

 

「にゃー、それは昨日帰りが遅かった事と関係あり?」

 

「まぁ、な」

 

「珍しいにゃー。カミやんは悩まず突っ走る奴だと思ってたぜい?」

 

「俺だって悩むよ。それくらい難しい問題なんだ」

 

二人はエレベーターが来るのを待ちながら雑談する。

 

晴れない顔をした友人に土御門は腕を組んで唸った。

 

「人間関係の事で悩んでいるのか?」

 

「うん、つい最近知り合った女性に」

 

「女!? にゃー大変だにゃー!! カミやんがついに異性と言うものを気にしているだなんて! 明日は槍の雨か……」

 

続きを遮った上にとても失礼な事を言う土御門を上条はジロリと睨む。

 

「お前な……。まるで俺がアブノーマルみたいな言い方すんなよ。異性にはバッチリ興味があるぞ!!」

 

「カミやん、俺はお前が男に迫られても驚かないんだぜい」

 

「驚けッ! そして友人を助けろ!」

 

「愛には制限は無い。それは俺がシスコンでロリコンであるようにだな」

 

「その話はもういい」

 

熱く語ろうとする手前で上条が終止符を打つと土御門は唇を尖らせ不満そうにした。しかし直ぐに何時もの胡散臭い笑みを浮かべると、到着したエレベーターに乗り込む。

 

上条も入った事を確認するとボタンを押す。

 

「少しは気が楽になったか?」

 

「え?」

 

何気ない友人の一言に上条は破顔した。

 

気遣ってくれていたのだと理解すると、今まで空洞になっていた心が暖かくなっていた。

 

「あれだったら吐き出しちまえ。俺に出来るのはそれを聞くくらいだにゃー」

 

「……いいのか? 愚痴みたいなもんだぞ?」

 

「友人の悩みが軽くなるなら安い買い物だぜい。だから絶望したような顔するな」

 

いい友達を持ったと上条は思った。この都市に来る前なら考えられないくらい恵まれている。

 

だが土御門は別の事を思っていた。

 

第四位の〈原子崩し〉麦野沈利。最近、上条が知り合った女は彼女と『アイテム』のメンバーだ。

 

“女性”と上条が言っていたから恐らく年上。そして暗部の歴も相当長い彼女が上条の悩みの種だと踏んでいる。

 

あのメンバーの中で最も業の深い麦野なら、上条を踏みとどまらせる事も可能だ。無鉄砲な彼はそう簡単に引き下がらない。暗部の複雑な問題でも真っ正面から殴りかかる筈だろう。

 

でも、それは上条が暗部の相当血生臭い歴史や仕組みを知っていなくては立ち止まれない。事と場合によっては、土御門は麦野沈利を暗殺する気でいた。

 

「その人にさ、笑ってほしいんだ」

 

「は?」

 

答えは土御門が想像していたものではなかった。

 

ゆっくりと鉄の扉が横にスライドして一階につく。上条は少しだけ軽くなった足取りで外にでる。日差しは強くなく穏やかなものだった。

 

その後に続いてきた土御門は何とも言えない顔をしていた。

 

アスファルトで舗装された道を二人並んで歩く。

 

「笑ってほしいってどーいう事だにゃー?」

 

「なんて言えばいいかな。その人の周りと心の半分くらいが闇に染まってるんだ。自分自身じゃもうどうしようもないくらいさ。でも一回だけ本当に笑って、その人綺麗なんだけど可愛かった。また見たいし、ずっとそんな感じで笑ってくれたら、いいのに……俺何も出来なくて。情けないよな」

 

「詳しくは知らないがカミやんは悩みすぎだぜい? 人には出来ないことがあって当たり前だ。それに知り合ったばかりなんだろ? なら深くその人に突っ込むな、後々面倒なことになるぞ」

 

どこか大人びて、そして他人と一歩線を引いた土御門の言葉に上条は首を縦に振らなかった。

 

「その人はそうなることを望んだ訳じゃない。なのに辛い思いをしないといけないのは、おかしいだろ!」

 

「カミやん、人の内面に触れられるのは、その人の家族や本当の親友。若しくは恋人くらいだ。たぶんカミやんがどうにか出来る隙間はないぜ」

 

思わず上条は口をつぐんだ。人を尊重した答えであったからだろう。

 

特に心を許した相手でもないのに自分のデリケートな部分を踏み荒らされるのは困る。

 

それは、上条当麻という人間も同じだ。

 

「そう、かもな」

 

「だろ? だから気に病むな。でも、笑顔が見たいだなんて、恋患いかと思ったぜい」

 

「……………」

 

返事のない友人を覗き込むと、より一層難しい顔をしていた。

 

「土御門、その人に笑ってもらいたいだとか、もっと知りたい、その………抱き締めてやりたいと思うのは、恋なのか?」

 

何かが崩れ落ちる音がした。

 

それは土御門が持っていた鞄がずれ落ち、固いアスファルトに落ちた音だったのか。それとも超が無限に付くくらい鈍感な友人が恋をしていた事に対しての驚き、思考回路が消え去った音なのかは誰にも分からなかった。

 

そして、上条の真摯な眼差しに土御門は頭を抱えた。寄りによってとんでもない女に恋をしたものだ。

 

間違いなく、目の前の人物の人生は波乱が待っているだろう。少しでも緩和したいが、恋愛まで厳しく取り締まる事のない友人は諭すように語る。

 

「カミやん普通の人なら恋だって気づくぞ。むしろ抱き締めたいまで気持ちが突っ走っるのに、それをただ受け入れてるカミやんはただの馬鹿だ」

 

「い、いや一度抱き締めたけど結構柔らかくて、気持ちよくてさ。出来ればもっと抱き締めたり触りたいなぁ。なんて」

 

「うるせぇ! ノロケるんじゃねぇ!!」

 

「ノロケてないだろ! お前の義妹語りの方が五月蝿いじゃないか!」

 

「にゃーッ! 今の発言はいくらカミやんでも撤回して貰おうか!?」

 

話の流れが勢いよく脱線して、収集がつかなくなった二人は取っ組み合いを始めそうなほど睨み合った。

 

土御門が少しずつ、少しずつ距離を縮め。上条は防御が出来るように後退しながら腰を沈める。お互い、一瞬で足に力を入れ地面を蹴った。

 

その時、

 

「おーい!カミやんにツッチー!なにしとるん?」

 

遠くから手を振る青髪ピアス、通称青ピが割って入った。

 

「聞け青ピ、カミやんが彼女を作ったぞ!」

 

「なんやと!? 抜け駆けや、カミやんもげろ!」

 

「馬鹿言ってんじゃねぇよ! 付き合ってられるか、先に学校行くからな!」

 

荷物片手に全力で走り去る上条に土御門は、前言撤回しろぉおお!! と叫び、青髪ピアスは呪詛の言葉を吐きながら追い掛け始めた。

 

三人はそのまま教室に付くまで全力で走りつづけた。

 

 

 

 

 

「にゃー! 一番だぜい」

 

「くっそ、抜かれた。二番かよ」

 

「やっぱりツッチーにはかなわんかったかぁ。悔しいな」

 

まだ誰もいない教室に汗だくで転がり込んだ三人は自分の机で倒れ込む。

 

「にしてもカミやん彼女出来たってホンマ?」

 

「土御門の妄言だ」

 

「酷いぜカミやん! だってカミやんが好きになったら相手は落ちたも同然だにゃー!」

 

あまりの言い草に土御門は机を叩いた。

 

「なに、カミやんから好きになっただと! 明日は槍と火の雨や」

 

「お前ら、つくづく失礼だぞ」

 

ぐったりしながら上条は滝壺に言われた事を思い出す。

 

 

 

 

「そんなかみじょうたがら、むぎのは貴方を好きになったんだよ」

 

 

 

 

それは麦野と長く一緒にいたから分かったのかもしれない。だがそれが友達感覚の好意かどうかで上条は揺れていた。

 

もっと詳しく聞くべきだったか、と後悔するがその辺は麦野本人から聞かなければとも思う。

 

俺が麦野を好きなったのっていつだろ?

 

実は本名不詳(コードエラー)から“恋仲なのか?”と聞かれた時には、心臓は五月蝿いほど鼓動を刻んでいた。しかし自覚のないあの時は突然の事で驚いただけだ、ということで片付けた。

 

あの時から既に無自覚ながら惹かれていたのだろうか。それとも別の要因があるのか。

 

最初はただの放っとけない性格から始まったが、今はなんで彼女に会おうとするんだろう。確かに、いきなり居なくなれば心配する。そして最後に彼女を見たのは、自分だと言う責任感もない訳じゃない。しかしここまで自分を不安にさせ、探したいと思うのは別の感情だと分かる。

 

それが異性としての好意なのかは分からないが。

 

そこで、今朝感じた心の痛みを思い出す。もしこれが好きという感情から来るものだったら、自分の中の感情に少しは納得できる。だが、初めての感情に上条は踏み出せなかった。

 

「なぁ、本当にこれが好きって感情なのか?」

 

誰に聞いた訳でもない独白に土御門と青髪ピアスは顔を見合わせた。

 

それから困った表情をして土御門はポツポツ語り始めた。

 

「難しいぜカミやん。それは誰でもない自分で決めるんだ。はやし立てちまったが、カミやんが違うと思うならそれは好きでも恋でもない」

 

「そやね、相手の気持ちもある。カミやんはどないしたいの?」

 

冗談抜きで真面目に答えた友人に上条も真面目に答えた。

 

「会いたい。ただ会いたいんだ」

 

それを聞いた二人は上条の両脇に移動し二の腕辺りを掴むと、引き摺るように教室の出入り口に連れて行き、突き出した。

 

「行ってこいカミやん! こっちは任せとき」

 

「そこまで言うなら止めない。心配だけどカミやんならいい方向に行くと信じてる。だから会ってくるんだにゃー!」

 

唖然とした上条だが、小さく笑うと走り出した。

 

「ありがとな土御門、青ピ!」

 

直ぐに曲がり見えなくなった背中に、子供が旅立つ親の気持ちを味わった二人はドアにもたれ掛かった。

 

「行っちまったな青髪」

 

「まぁ、自力で気付いた訳でないにしても、カミやんにしたら上出来や!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

友人の切欠と見送りに感謝しつつ上条は階段を駆け下り、生徒玄関を潜り抜け、校門を飛び出した。

 

当てなどない。一度は滝壺たちに会おうと思ったが、昨日の今日だ。なかなか顔を会わせずらい。

 

なので上条はとある人物を探す事にした。

 

 

その人物が全ての元凶だと知らずに。

 

 

 

 

 

 

 

 

「さてと、原子崩し。実験を始めようか」

 

絡みつくような抑揚の声が無機質な白い部屋に響く。

 

その声に原子崩しは頷くと、手のひらに意識を集中させた。

 

 

 

 

    〈2〉

 

 

 

 

そこは木漏れ日が差した世界だった。

 

そこには原子崩し(メルトダウナー)が佇んでいた。麦野沈利であって厳密には麦野沈利ではない彼女は時々、精神の世界を見る。表の世界に繋がるこの場所はかつて自分と麦野が共有した場所。

 

お互いを感知しないように背中合わせで話しだってした事はなかったが、辛いことも悲しいことも共有した存在だと思っていた。しかし、麦野は彼に出会ってから変わってしまった。

 

“人間でありたい”

 

麦野沈利は上条当麻に触れ、強く願うようになった。それは人間という枠組みに入りきれない〈原子崩し〉は不必要だということ。しかし麦野沈利はLEVEL5である事にも執着はあった。

 

選ばれたのは、闇に君臨し人殺しで悦楽を得ていた原子崩し。人格であり“自分だけの現実”でもあった彼女を殺す訳ではなく、この世界の隅に追いやった。

 

そうすれば、少なくとも人殺しではなくなる。必要な時に呼び出せばいい、そう思っていた。

 

これで上条の、あの光の中にいられると。

 

だが麦野の幻想は、唐突に裏切られた。それが誤解だとは後から知ったが、当時は上条が闇の人間だと思った。

 

希望が絶望に暗転し“麦野沈利”が壊れた時を見計らい原子崩しは、彼女を喰い殺そうとしたが、竜に喰われて以来、麦野沈利に手は出せないのだ。

 

これでは復讐が出来ないと、原子崩しは怒りをため込んでいた。

 

 

裏切られた復讐。

 

 

見捨てた麦野に思い知らせるために。

 

 

 

殺す方法を模索する――

 

 

 

 

 

 

 

 

時間は遡る。

 

朝の六時。本名不詳(コードエラー)は麦野に宛がわれた部屋に居た。今、この部屋の主は寝ている。

 

静かで規則正しい呼吸は彼女が深く眠っている事を教えてくれた。

 

本名不詳はベッドに腰を下ろし麦野の頬に手を添える。きめ細かく柔らかい感触に目を細め、繊細で彫刻のように整った美しい顔立ちを眺めた。同じ女性として羨ましい限りの玲瓏たるその姿。しかし、思わず目で追いたくなる美貌に本名不詳は無関心だった。一片の興味も唆られない。

 

彼女が強く惹かれるのは能力による多様な可能性。言わば脳だ。必要なのは首から上でもある。

 

艶やかで見る者を魅了する唇をなぞる。

 

「……んぅ」

 

僅かに彼女が身動きをする。本名不詳は気にせずじっくりと色々な所を撫で回す。手が柔らかくサラサラとした髪を梳く。その感触を気に入ったのか何度も行ったり来たりを繰り返した。持ち上げ両手でもてあそび、そっと返しにこやかに笑った。

 

「おはよう、原子崩し。お目覚めはいかが?」

 

「起きて一番最初に見た相手が、テメェじゃなかったら最高よ。で、寝込みを襲うだなんて悪趣味ね」

 

「あっは! 言うね。やっぱり君はいいね。好きだよ原子崩し………」

 

最後の言葉は擦れどことなく色香感じさせた。耳元を掠めた愛撫するような吐息に原子崩しは顔を顰める。

 

「気持ち悪い離れろ。言っとくけど私にはそっちの気ないから」

 

「ご心配なく。私は両方いけるから。普通の人がいう愛の形とは遥かにかけ離れたものだけど」

 

「どうせ研究価値としての愛なんでしょう?」

 

「ふふふふ………、どうなんだろうねぇ」

 

絡みつき離さない声が悪戯に響く。

 

「私は君を否定しない。追いやらない、裏切らない。ねぇ、だからさ原子崩しも私を裏切らないでね。朝ご飯はパンでいい?」

 

「………うるせぇ。黙れ変態科学者」

 

原子崩しはベッドから降りると部屋を出て行った。本名不詳もその後を追う。原子崩しに貸した無地の黒いTシャツにジーパンという軽い格好は、普段ファッションに人一倍力を入れる彼女を知っている人間が見たら卒倒するだろうなぁ、と本名不詳は独りごちる。

 

豪邸に相応しくリビングと食堂は別らし。食堂は美しい木目のフローリングの床で使い古され気品が漂う。この様に歴史の重みを感じさせる美は金を積めば得られるものではない。脈々と受け継がれ損なわない努力が必要だ。

 

「別荘を思い出すわ」

 

「不肖不出来のこの私の本邸は君にとって別荘程度か……。複雑だよ」

 

「随分とアンティークね。シャンデリアが電気じゃなくて蝋燭って」

 

「昔の持ち主に言ってよ。不便で仕方ないんだからぁ」

 

適当に座る本名不詳の向かい側に原子崩しは座った。頬杖を付き近くのベルを鳴らす。直ぐさまメイドの一人が駆け付けた。早い到着だが洗練された無駄のない動作で本名不詳の斜め後ろに立つ。

 

「朝食を、二人分お願いね?」

 

「畏まりました。ジャムはどう致しますか?」

 

「君が好きな味で」

 

手慣れた雰囲気で注文するとメイドは恭しく頭を下げ、食堂を退室する。

 

大きな出窓が並ぶこの部屋はシャンデリアに灯りをともさなくとも明るい。居心地のよい朝日は部屋全体を照らす。二人はその暖かさにうっとりとして会話などしなかった。

 

風のざわめく音以外、静寂を肯定していた。

 

「………ねぇ、原子崩し。0次元を会得したら、どぉするの?」

 

静かすぎて声が大きく響く。

 

「さぁね? その時次第よ」

 

「ふぅん。ずっと私の側にいない。…………実は、0次元より荒唐無稽だが君の能力でとある事をすればLEVEL6になれる。可能性があるのさ」

 

重要な事を打ち明けている筈なのに本名不詳は雑談のネタのように扱う。

 

それに反して原子崩しの表情は疑うものだった。この都市が誕生してそれなりに経つがLEVEL6に辿り着いた者は存在しない。裏の世界でも誕生は渇望されたその存在に、なれる可能性があるからと言って原子崩しは手放しで喜ばず、逆に警戒した。

 

「へぇ、でもなんで私なのよ? 認めたくないけどLEVEL5で私より上位の奴らと何が違う?」

 

その問いはメイドが来たことにより途切れた。

 

音を立てないように並べていきながら素早い動きに原子崩しは感心した。

 

そしてまた恭しく退室する。

 

「失礼しました」

 

綺麗に並べられた朝食の数々に本名不詳は迷うことなくサラダを食べる。酸味の効いた特製ドレッシングの味付けに舌を打つ。

 

「美味しいね。……えっと、何が違うかと言うと君の可能性は第一位に劣らない。第三位くらいなら軽く飛び越してるくらいさ。第三位なんて電子を究極的に操る以外なんの可能性も秘めちゃいない。理論を検証して、工学や機械産業、パソコンに特化してるくらいだ。今程度の科学力でも彼女の能力は実証できる。理論が詳しく明細されたものに則ってるせいか、魅力がない。可能性というパンドラの箱も未知数という猫箱も全て開かれ、開発されたあの娘はそこらの学者のいい餌程度か、広告塔で十分。その代わり、誰よりも扱いやすいLEVEL5だと言うことは認めざるおえないけど」

 

そこで言葉を切り、本名不詳はパンを口に放り込む。一般家庭程度のマナーの彼女は原子崩しのように上品には食事をしなかった。

 

原子崩しも食事をしながら本名不詳の言葉に耳を傾けている程度。しかしその瞳には貪欲な鈍い光を宿していた。

 

「第一位、第二位、第四位に共通しているのは理論が確立されていないことだ。現代科学じゃ説明不可。つまり、3次元の理論じゃない。まだ見つかって無かったとしても、地球上の理論じゃないね。宇宙に枝葉を伸ばさないと。しかし宇宙の法則は3次元なのか、はっきり言うと不明だし、よく分からん。でも君たちの能力は間違いなく宇宙の物でもない。つまり5次元から6次元レベルの理論になる」

 

さらにパンを食い進めスープを飲む。

 

そして、静かに結論を出した。

 

「君の次元に穴を開ける力を使えば6次元を3次元に引きずり下ろせる。あくまでも、が付いて来るけど」

 

「まだまだ机上理論ね」

 

「でも第一位はLEVEL6になれると御墨付きだよ」

 

至極詰まらなさそうに答えた本名不詳に原子崩しは食いついた。

 

それも浮き腰になるほど。

 

「お墨付きって、誰が?」

 

「誰って、学園都市最高の機械頭脳、樹形図の設計者(ツリーダイアグラム)だよ。あの子が第一位にその可能性を見出した。内容はいつか話すよ、必ずね」

 

先手を打って原子崩しの言及を避ける。

 

「可能性で一番優れてるのは誰よ」

 

しかし原子崩しは少しの情報を洩らさぬように本名不詳に質問した。そのことに対して彼女は惜しげもなく情報を晒す。

 

「それはずば抜けて君だ、と言ってやりたいが第二位の垣根の坊やだね。あの可能性の箱は小箱じゃない。大きすぎて底が見えないよ。だから垣根の坊やの可能性は全て掘り起こせない。それはつまり、能力者の彼自身生きている時間内に本当のLEVEL5に到達できる可能性も低いし、なにより万能過ぎて詰まんないのさ。君みたいに欠点のある人を押し上げて、周りを見返す方が好きだし」

 

「誰に欠点があるだって? いっちょ派手に臓物撒き散らすかコラァ!」

 

「昨日のグロテスク惨殺事件思い出させないでよ、食事中なんだから」

 

言い終わらぬうちに朝食を終えた本名不詳は時計を確認する。半を過ぎて9の数字に差し掛かっていた。

 

椅子から立ち上がり、本名不詳は気分転換するように背伸びをした。

 

「食べ終わったら研究所に行くよ。試したいでしょう?」

 

原子崩しの怒りの銅線に堂々と触れながら受け流す。原子崩しは原子崩しでやり場の無い激情を押し殺すように食事を再開した。返事は無かったが了承したと受け取り、彼女は部屋を出る。

 

車の鍵を回しながら廊下を軽快に歩いていった。

 

本名不詳は車を二台持っている。一つは自分のプライベートで使う白いワンボックスカーだ。地味で目立たないありふれたそれは裏の世界で便利だったりする。しかし本分は情報提供や殺害リストの制作、またはパソコンをハッキングして情報収集となにかとデスクワークなので滅多には使わない。なので久しぶりにハンドルを握る事になるので軽く走らせようと思ったのだ。

 

しかし、

 

「それじゃ、ついたら起こしてね」

 

「原子崩し、いつ来た。私の後ろにいたのかい?」

 

「あとから追ってきた。思えばこの家のこと全然知らないし」

 

「事故したらごめんね。先に謝るわ」

 

「そん時はあんたを火だるまにしてやるわよ」

 

運転席の後ろからヒシヒシと感じる威圧感殺気に冷や汗を感じながら本名不詳はエンジンをかけた。そして車は案外、心地良く滑り出す。

 

原子崩しは窓から差す日差しを浴びながらゆっくりと瞳を閉ざした。

 

 

 

 

 

 

 

 

そしてまた夢と現の境に降り立つ。背中に感じていた温もりが消え去ってからは心に空洞が出来たようだと原子崩しは思った。

 

闇に独りきり。孤独を強調するような、木漏れ日をこれほど疎んだことはないだろう。

 

膝を抱き、肩を縮こまらせなにも考えないようにした。いつしか消えるだろう虚しさから目を背ける為に。

 

だが今日は長く夢と現の境を漂わなかった。突然、引きずり上げられるような感覚がして、聴覚が女の声を拾った。

 

次第に鮮明になる声は―――

 

「起きろ! 原子崩し付いたぞ」

 

「ふわぁ。付いたの?」

 

「そうついたの。じゃ行きますか」

 

研究者用の駐車場を横断し裏口から研究所に入る。

 

自分の所有物である建物を理解している本名不詳は無機質な世界を迷いなく進む。あまりにもスラスラ進むものだから逆に不安になった。

 

思わず原子崩しが声を上げる。

 

「どこ行くのよ?」

 

「この前君が、いや麦野さんが半導体切ったろう。そこだ。っと付いたよ。君はそこから部屋に入ってね」

 

指を指した方向を見ると普通の白い扉があった。

 

「わかった。アンタはどうするの?」

 

「指示するために別の部屋。なに一緒が良かったかい?」

 

「逆に嬉しいわ。ムカつく奴の顔見なくて済むし」

 

心からそう思っている原子崩しに本名不詳は笑った。

 

「あっは! 正直だね」

 

本名不詳は全てを言う前に別の扉に入って無機質な廊下を進んで、突き当たりの部屋に入る。そしてこの間のように椅子に座ると原子崩しが現れた。

 

マイクにスイッチを入れる。

 

「さぁてと、原子崩し。実験を始めようか」

 

絡みつくような抑揚の声が無機質な白い部屋に響く。

 

その声に原子崩しは頷くと、手のひらに意識を集中させた。

 

用意されていたのは空き缶。それを手の上に持って来ること。原理と演算は昨日叩き込んだ。

 

後は実行するのみ。

 

深呼吸をして息を止めると共に曖昧な電子が1次元の切断した。それを媒介に0次元に間接的に操作する。

 

その時、原子崩しの頭の中に見えない場所の光景が見えた。それは研究所の中身全てだった。

 

空間の形とそこに存在する物体の情報が数式として雪崩れ込む。小さいが今、この空間が原子崩しの手の平の上にある。全てを見透かした感覚に、気分が悪くなり膝を付くと、スピーカーから本名不詳が不安げに声をかけた。

 

「どうした?大丈夫かい?」

 

だが原子崩しは首を横に振ると立ち上がり口元を吊り上げる。そしてなにが楽しいのか、彼女は笑い出した。

 

「あはははははッ!!」

 

唐突に本名不詳は理解した。どうやら闇を引きずり出したらしい。寝た子を起こそうとして、とんでもない怪物を目覚めさせたらしい。

 

「そぉら!」

 

麦野は空き缶を移動させるのではなくどこからか巨大な本棚を持ってきた。

 

「ほぉ、空間移動系ならLEVEL4はあるね」

 

流石、宇宙の果てまで見通した力だ。予想を良い意味で裏切った原子崩しに本名不詳は小さな恐怖を感じた。

 

本当に彼女はLEVEL6になるのではないのだろうかと。

 

そこにアラームが鳴り響く。表から誰か入って来たようだ。

 

映し出された姿に本名不詳は鬱陶しそうな表情をする。

 

 

そこには、ツンツン頭の黒髪の青年が探るように入って来ていたからだ。幸い、原子崩しは昂揚して異常に気付いていない。

 

と思っていたが、本名不詳知らない。この建物に踏み入れた時から原子崩しの世界なのだと……

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。