とある奇跡の平行世界   作:雨宮茂

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名も無き者

声がする。遠くか近くかは分からない。

 

ただ、声がする。大きく、そして途方もなく分厚い扉を挟んだ向こう側から声がする。低く、高く、唸る獣の声だ。

 

何度も何度も扉をこじ開けようとしているのだろうか。硬質な物を引っかき回す耳障りな音が真っ暗な世界に寂しくこだます。

 

そして、原子崩しは言った―――

 

 

いつかお前を喰い殺す!!

 

 

 

雷鳴にも似た爆音だった。鼓膜だけではなく全身にビリビリと衝撃が走る。

 

魂まで怯えさせる宣言。

 

麦野はそれを、他人事のように聞いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

ゆっくりと意識が覚醒していく中、腹になにかが無遠慮に乗っかってきた。

 

それも恐らく、少しの助走をつけた勢いだ。

 

「グェッ!」

 

「なにカエルみたいな声を超出してるんですかウニ頭?」

 

「なにって、お前が飛び乗るからだろ!」

 

忌々しそうに睨む上条に絹旗は腕を組み見下ろす。

 

その表情はどこか勝ち誇った様なものがあった。

 

「これくらいで超騒がないで下さい。一体だれが超ここまで運んでやったと思ってるんです」

 

「それでもやったら駄目だろう!内臓出る所だったぞ、それよりテメェ誰だ!?」

 

「自己紹介が遅れました。絹旗最愛です」

 

あっさり自分の名を明かした絹旗に上条は拍子抜けした。

 

「絹旗ね。俺は」

 

「ウニ頭」

 

「上条!上条当麻だ!」

 

「そんな事、超知ってますよ。でもウニ頭」

 

「ウニウニ言うなぁぁ!」

 

飛び起きた上条に絹旗はベッドから急いで降りるとドア開けて誰かを呼んだ。

 

「滝壺さん、ついでにフレンダ。ウニ頭が超起きましたよ」

 

「絹旗、ついでってどう言う訳よ」

 

「ついではついでです」

 

その様子に上条はベッドに腰掛けると身体のあちらこちらに鈍痛が走る。

 

その痛みに昨夜の事を思い出した。

 

「昨日はありがとう、かみじょう」

 

「麦野のことらな気にすんなよ」

 

「ありがとう」

 

上条としてはあまり堅苦しくして欲しくなかったが彼女は本当に御礼が言いたいだけで、そうならば上条の答えはこれしかない。

 

「どう致しまして」

 

上条に御礼を言ったピンクジャージの女の子は座り心地の悪そうなパイプ椅子に座った。それからドア付近で口論する二人に手招きをする。

 

「二人とも」

 

「はーい」

 

それはさながら母親に呼ばれた子のような反応で上条は小さく微笑んだ。

 

「結局、ニヤニヤしてキモい訳よ」

 

「な、なんだと!」

 

「超話しが進まないから止めて下さい」

 

不毛な喧嘩になる前に絹旗は歯止めをかけると、滝壺が口を開いた。

 

「滝壺理后っていうの、よろしくね」

 

「フレンダ。ファミリーネームは聞かないでね」

 

「えーと、よろしくな滝壺にフレンダ」

 

軽く自己紹介も終えた事を確認して絹旗は質問した。

 

「ウニ頭は超どうしてあんな場所に居たんですか?」

 

質問ないように“事と場合によっては……”という怪しい響きが混じっており上条は慎重に言葉を選んだ。

 

「信じるかは絹旗次第だけど、とある電撃使いに追い回されて、やり過ごす為に路地裏の木箱に隠れたら」

 

「その中身がヤバいものと知らずに?」

 

「そうだ。そしたら運ばれるは麦野からは攻撃されるは大変だったんだぞ」

 

「ならむぎのとはいつ知り合ったの?」

 

この質問は滝壺からだった。

 

「それは……」

 

言うべきか上条は迷った。それは出会った時の彼女を思い返せば、いくら友人だからと言って軽々しく話せない。

 

あんな追い詰められたのだから、それをこの人たちに相談したように思えない。ここで黙秘を貫く事は麦野の名誉を守るためでもある。

 

何も言わないことで三人に怪しまれても、麦野との出会いは話せない。

 

その様子を見て滝壺は静かに首を振った。

 

「ごめんね。変な気と聞いて」

 

「いや、それは……」

 

会話が続かない。この嫌な静寂はいつかのファミレスと同じだ。

 

だからフレンダは雰囲気を一転させる為に提案する。

 

「上条、麦野に会いに行ったら? もう起きてるかもしれない訳よ」

 

「あぁ、そうするよ」

 

ベッドから降りた上条は包帯の巻かれた足を少し引きずりながら歩いていく。

 

そして病室から彼が完全に出て行くと、フレンダは絹旗に視線を送った。

 

「で、あの話し信じる? 裏の奴なら早めに処分しないと」

 

「はっきり言って超怪しいです。LEVEL5を倒せるLEVEL0なんて超あり得ません。あんな能力なら引き込まれておかしくないですし。やっぱり……」

 

「決めるのはむぎのだよ」

 

不穏な空気に滝壺の静かに制止をかける言葉に二人は押し黙った。そうだ、結論は麦野が下す。麦野なら上条当麻という少年がどの世界の住人か知っているだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

上条はスポーツドリンクのペットボトルを二つ片手に持ち麦野の病室を目指す。

 

パタパタとスリッパを鳴らしながら廊下を歩いていると、向こう側から白衣を着たカエルに似た医者がやって来た。

 

「おや、歩けるのかい。君の太股辺り抉れてたから不安だったが、大丈夫そうだね?」

 

「抉れてた!?」

 

衝撃の事実に思わずペットボトルを取り落とす。医者は柔和な笑みでそれを見つめた。

 

「足が動かなくなるほどではなかったからね? それより彼女に会いに行ってあげなさい。もう起きたから」

 

「あ、有り難う御座います!」

 

ペットボトルを取ると上条は走り出した。

 

麦野が目覚めたと言う知らせが彼を彼女の病室に急がせる。

 

ツンツン頭の少年の後ろ姿が小さくなる。医者はカルテを険しい表情で睨んだ。

 

麦野のカルテだった。

 

「しかし、なぜ……」

 

「やぁ、冥土帰し(ヘブンキャンセラー)。そのカルテをくれないかい?」

 

「……君は!」

 

上条が歩いて来た道から一人の女性がヒールを鳴らしながら悠々と現れた。

 

黒く長い髪を頭の高い位置で結い、切れ長の瞳は薄ら笑いを浮かべ、紅を引いていない割には赤く。どこか毒々しい微笑みを口元に刻んでいた。

 

美と何かしらの魔性を孕んだ雰囲気に屈する事なく、冥土帰しと呼ばれた医者は強固な意志でそれを拒んだ。

 

「残念だが、渡せないね。本名不詳(コードエラー)、これは僕の大事な患者さんの情報だ」

 

「おやおや、だけどこの不肖不出来の私の愛しい愛しい、研究対象でもあるんだ。どうしても駄目かい?」

 

「僕の気持ちは変わらないよ」

 

冥土帰しの変わらない態度。

 

その姿に懐かしいものを思い出したのか本名不詳は、その紅い唇を左右に引き伸ばし薄く笑う。

 

見たものをまさに魅了する魔性の微笑みは、太古から語り継がれるエンプーサを連想させた。

 

「アッハッハ!仕方ないね。君を敵に回すのは忍びないから今日は退散するよ。またね冥土帰し」

 

一語一語が絡み付く抑揚のある声に冥土帰しはどこかうんざりとした顔をする。

 

「早く帰ってくれ。ここは君が居ていい場所じゃない」

 

「つれないね。師匠もお元気で」

 

“師匠”の一言に今度こそ嫌悪の表情をした。忘れたくてたまらないと言いたげな彼に本名不詳は妖艶な笑みを湛えた。

 

それ以上なにも言わず彼女は歩き出す。来た道を引き返しながら携帯を開き通話をし始めた。

 

どうやら彼女の認識の中に、病院では携帯を使わないということは無いらしい。

 

「あー、数多? そうこの不肖不出来の私だ。相談したい事あるから私の根城に来てよ。…………つまんなくないって。もしかしたら君が今研究してる物の糸口が見つかるよ?」

 

それだけ伝えると本名不詳は携帯を閉じる。口元の愉しげな笑みには悪魔の微笑みにも似たものを感じさせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……う、緊張するな」

 

昨日の事もあるし、いきなり撃たれないだろうか。そんな心配をする自分の小心さを怨みながらノックした。

 

「どうぞ」

 

平坦な声だった。

 

「失礼します。麦野、大丈夫か?」

 

「あぁ、上条か。あんたに比べりゃ軽傷な方よ」

 

頭に包帯を巻いた彼女はヒラヒラと手を降る。元気そうな姿にホッと安心した。

 

「よかった。ほら飲むだろ?」

 

昨日の事といい、今回も自分の暴走に巻き込んで罪悪感があるのか視線を合わせようしない。

 

「………なんだか、昨日とは反対ね」

 

「そうだな。昨日は麦野がくれたもんな」

 

「……ありがと」

 

「おう」

 

軽く受け答えすると二人はキャップを捻り取ると、冷たくさっぱりとした甘さのある液体を流し込む。

 

口を離すと、麦野はペットボトルを弄りながら問う。

 

「ねぇ上条は、私達と同じなの」

 

「同じ人間だ」

 

「それを聞いたんじゃない。私達と同じ事をしたことあるの?人殺しとか……」

 

そっと麦野は瞳を伏せた。人に誇れる事じゃないのは百も承知でやってきた事だが、後ろめたさがない訳ではないらしい。

 

その事に上条は内心良かった、と思う。

 

「ない」

 

はっきりとした否定の言葉に麦野は身を縮めた。彼女の内で新たな罪悪感が湧き起こる。

 

真っ白な世界の彼に闇の一端を見せてしまった。そして、何よりも人が無惨に死ぬ姿を見せ付けてしまった。命が尊いと思う彼にその姿はどの様に映ったのだろう。

 

「……麦野。お前がしてきた事を聞かない。だからそんな顔するなよ」

 

「でも上条には汚い世界を見せたのは事実。本来なら私は上条を殺さないといけない。………見られたから」

 

泣き出しそうな麦野を見て上条は彼女の頭に右手を優しく置いた。それからゆっくりと髪を梳く。

 

「麦野は俺をどうするんだ?」

 

「……あんたがあの場に居たこと隠蔽する」

 

勿論バレたら厳罰ものよ、と麦野は苦笑した。上条を一時的とも永遠ともどちらに転がるか分からない処置をするのは、きっとそれが限界なのだろう。

 

リスクがあるが故に上条は聞いてしまう。

 

「いいのか俺の為なんかに?」

 

「うん、いいの」

 

麦野はシーツを強く握り締める。どこか覚悟を決めた面持ちをしていた。

 

それから何かを思い出したように上条に振り向く。

 

「上条、最後あんたなにしたの?」

 

「え?なにって……」

 

「あんたの右手から竜の頭が生えたのよ」

 

「…………?」

 

「呆れた。覚えてないのね」

 

眉間に皺をよせ考え込んでいた上条に突き放すような一言を放つ。

 

しかし仕方ない、覚えてないものは覚えてないのだから。

 

「わりぃ、なんのことだかサッパリ」

 

「しょうがない。ならもう聞かないわ。この病院の医者、腕が良すぎるから明日には快復できるわね」

 

「なら退院パーティーでもするか?」

 

スパーン! と扉がいきなりスライドして二人は身体を強ばらせたが、明るい声が聞こえた。

 

「それは賛成な訳よ!!」

 

「フレンダ! そこはラブシーンを超堪能するために息を潜めるべきです!」

 

飛び出してきたフレンダを引き止める絹旗。しかしもう遅い。

 

「フーレンダァ、それに絹旗ぁどっから聞き耳立ててたのかにゃーん?」

 

「……ご、ごめんなさい」

 

「テメェ等、下半身に別れを告げろ!!」

 

「ぎゃああああああああ!!」

 

静かにするべき病院に悲鳴とも絶叫とも区別のつかない声が迸る。

 

そこに上条が仲裁に入ったが、

 

「おいおい、喧嘩すんなよ。それにパーティーなら多い方がいいだろ?」

 

「それとこれとは話が別だ!」

 

「上条!助けてほしい訳よ!」

 

「いやぁぁぁ!超助けて下さい!」

 

喧嘩は止まるどころか盾にされる。

 

足と腰にしがみ付く二人をあやしながら上条は麦野を宥める。意外と重労働だ。

 

「なにしてるのみんな?」

 

遅れて来た滝壺がその不思議な光景に首を傾げる。

 

「お、滝壺。俺と麦野が退院したらパーティーやるんだけど来るよな?」

 

「行く」

 

間髪入れずに滝壺は返事した。

 

麦野は勝手パーティーをする方向で進んでいるのが気に入らないのかそっぽを向く。

 

なんとも子供のような反応だ。

 

「私は行かないわよ」

 

「むぎのも来るって」

 

「ちょっと滝壺!」

 

勝手に決める滝壺に麦野は非難の声を上げる。

 

滝壺はなにを考えているか分からない平坦な声音で、彼女の名前をつぶやく。

 

「むぎの」

 

「なによ」

 

「………来ないとストライキするよ」

 

「仕事しろ!」

 

「いやいや、それ麦野がいっても説得力ない訳よ」

 

「あぁ! フレンダ言うようになったわねぇ?」

 

殺し屋も泣いて逃げ出すような悪辣な顔をした麦野に睨まれたフレンダは素早く上条の後ろに隠れた。

 

「麦野対策!」

 

「巻き込むな!」

 

慌てて背中にしがみつくフレンダを引き離そうとするが、それよりも先に麦野が怒気を滲ませた。

 

「かーみじょぉ、恨むならフレンダを恨めよ?真っ二つにしてやる!!」

 

「うぉぉぉい!」

 

「上条頑張って!」

 

無邪気に騒ぐ『アイテム』を見て滝壺は初めて皆が心から笑っているのを傍観する。本当に上条当麻は不思議な人間だ。

 

心を無条件に許せる。そんな人がむぎのの側にずっといてくれたら。でも――

 

だが、心の中でその考えを否定した。上条の気持ちを無視しては意味がない。彼が麦野を選ぶには、…………つまりそうするしかない。

 

 

 

愛のキューピット作戦

 

 

 

絹旗とフレンダにも協力してもらおうと滝壺は策を巡らし惟る。多少強引かもしれないが、そこはご愛嬌。そしてそれでも駄目なら、諦めよう。

 

 

 

 

 

 

 

「いらっしゃーい」

 

間延びした声が木原数多を出迎えた。

 

「こいっつうから来てみりゃ、何やってんだ?」

 

「ん、『ピンセット』を使って情報収集」

 

右手についた金属グローブのようなものを指差しそう答えた。人差し指と中指の二本にはガラスで出来た長い爪のようなものがついていて、そのガラスの中に、さらに細い金属の杭のようなパーツが収まっている。

 

それを自慢するかのように持ち上げた。

 

「勝手に使っていいのかよ?」

 

「私の根城の一品だよぅ? そんなのいらない。でもアレイスターには許可貰ったから大丈夫でしょ」

 

そう彼女の根城と言うのは、第一八学区・霧ヶ丘女学院の近くにある素粒子工学研究所だった。

 

それから『ピンセット』を操作しながら空中に存在する、そして空中に漂う何かを掴んだ。

 

「ほぉやっぱり『滞空回線』の情報網は素晴らしいね」

 

「早くしろ、俺は忙しいんだよ」

 

「0次元の極点」

 

「!?」

 

その言葉に木原は驚愕の表情を浮かべ、その反対に本名不詳の女は淡泊な表情だった。

 

『ピンセット』の操作をしたまま木原に背を向け取り出した詳細なデータを機器へと転送させる。

 

本名不詳は作業と並列に淡々と語る。

 

「不肖不出来のこの私も調べたんだが、アレって素晴らしく面白いね。どんな猫箱か気になって仕方ないんだよ。千変万化の神秘を現実に引きずり下ろすのは楽しいもの」

 

「それをどこで知った?」

 

勝手に露呈していた秘密の研究の理論を提示されて怒らない人間などいない。木原数多もそれに習い本名不詳に殺さんばかりの敵意を向ける。

 

「おや、私の情報網が卓越してるのは知ってるだろ?今更驚かないでよめんどくさい」

 

言及されたのにそれをしれっと突き返した本名不詳はつまらなさそうに肩を竦め、ファイルに綴じられてあった書類の紙束を真っ白なテーブルに並べた。

 

「そんで、一次元を破る能力者を見つけたんだ」

 

「けっ、よく言うぜ」

 

「ふて腐れるなよ。不肖不出来のこの私が0次元に興味を抱き、適応する能力者を見つけられたのは数多のおかげた」

 

褒められる事はどうでもいい。

 

目の前の女の甘言に木原はあからさまに嫌そうな顔をして床に唾を吐いた。

 

「気持ちわりぃんだよ。口閉じろ」

 

「はっ、君はやっぱり言うねぇ。ぶち殺したいわ。でもまぁ、血縁者だからいいか。不肖不出来のこの私と違って数多は優秀だからね」

 

「なにが不肖不出来だ」

 

木原は忌々しそうに女を見据え牙を剥き出す。それは肉食獣がさらなる化け物を威嚇するそれに酷似していた。

 

「木原一族の最高傑作がよぉ!」

 

女は無言で笑った。静かに微笑みを湛え、木原の敵意をそよ風程度に受け取ると内ポケットから写真を取り出しテーブルに置いた。

 

「そんなのどーでもいい。適応する能力者はLEVEL5第四位の麦野沈利。性格に難ありだけど全然OKでしょう。それとも私がやっていい?」

 

「好きにしろ。それこそどーでもいい」

 

「あら残念。もうちょっと食いつくと思ったのに」

 

楽しみが半減してつまらなさそうに唇を尖らせるが、それもいいか。と開き直り本名不詳はパソコンを起動させた。

 

「むしろお前に目を付けられた第四位サマが可哀想だぜ」

 

「酷いな。私は一途だよ?今は彼女以外どーだっていい。しっかし0次元の極点か。応用はどれくらいかな?〈未元物質(ダークマター)〉や一方通行(アクセラレータ)くらいほしいな。でないとつまらない」

 

嬉々としてキーボードを弾く本名不詳をほっといて木原は資料に目を通した。

 

そしてとある項目に目を細める。

 

「〈原子崩し〉の一時的覚醒?」

 

「あん? あぁ、それ。〈原子崩し〉は昨日一時的に一方通行と同じ段階まで昇華したけど、残念。不明な理由で元のただのLEVEL5になっちゃった。まぁ、恐らく覚醒前より各段に能力は飛躍してるだろうけど」

 

彼女は説明し終えると白衣を来て別の部屋へ飛んで行った。

 

もう彼女がこの部屋に戻ってくることはないだろう。

 

語るだけ語った後は、まるで木原数多が居ないように扱う。

 

まさに傍若無人。傍らの人間をここまで雑に扱うのも難しいのが、この女には呼吸に等しい行為だ。

 

「……貰ってくか」

 

木原は勝手に重要だと思われる部分を抜き取りそのまま研究所を後にした。

 

その程度ならこの本名不詳には蚊に刺された程度。別に気にも止めないだろう。

 

そして別室に移動した彼女は昨日の出来事を文字の羅列にして処理していた。

 

「不明な理由の原因、〈幻想殺し〉か。………イラつくなぁ! 折角の研究対象の価値下げやがってよぉ! 殺せないのが口惜しいわ」

 

悪鬼のように醜悪に顔を歪め流れていく文字に毒を吐く。無意味とわかっていてもこの怒涛の怒りは鎮められない。

 

気を取り直したように、本名不詳はニンマリと笑った。

 

「ま、いっか。大切なのはこれからだ」

 

 

 

 

 〈2〉

 

 

 

 

 

上条と麦野が入院して数日後の朝。病院の前には数人の人が集まっていた。

 

そう、今日は二人の退院する日。

 

見送りには、この病院で最高の腕を持つ医者、冥土帰し(ヘブンキャンセラー)が来た。

 

「体の方に異常はないね?」

 

最後の確認と言わんばかりにカエル顔の彼が麦野に問う。

 

「これと言って」

 

「そうか。……君には話さないといけない事があるんだ」

 

麦野はカエル顔の医者が張り詰めた表情をしている事に内心強張った。

 

「君の精神が恐らく、二つに分かれている。もしそうなら、能力を使う君に何らかの負荷が生じるだろうね? だから、少しでも変だと感じたら連絡をしなさい。いいね?」

 

「…………はい」

 

少しでも目を背けていたかったが、改めて目の当たりにした自分の中の変化に麦野は困惑した。無意識で手を白くなるほど握り締める。

 

その力んだ肩に冥土帰しは優しく手を置いた。

 

「あまり抱え込まない事だ。自分が自分に押しつぶされてしまうよ」

 

「有り難う御座います」

 

 

嗚呼、なぜこの世界はこんな人殺しの自分に優しくしてくれるんだろ―――

 

 

「それじゃ、御大事に。君は既に僕の患者さんだ。遠慮はいらないからね?」

 

「でも、出来るだけ自分で解決したい問題ですから頼るのは、最終手段です」

 

それもまた一つの道だと、冥土帰しは頷いた。

 

「麦野ー! タクシー来たよ!」

 

「はいはい、すぐ行くから! 先生、有り難う御座いました」

 

「うん、上条君にもよろしくね?」

 

穏やかな微笑みで見送ると冥土帰しはゆっくり病院に戻っていった。

 

今日も彼を必要としている人々は今日も絶えない。

 

それは、彼が本当の医者だからだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

助手席に深く座り込んだ上条は後ろで騒ぐ女子四人、いや三人の会話に居心地が悪くなった。

 

「うぅ、納得いかない。超納得できません!」

 

「なによ絹旗。あんたなんで泣いてんの?」

 

後部座席には三人までしかスペースがない。なので出た提案は、絹旗を麦野の膝の上に乗せる、だった。

 

この歳特有の子供扱いしてほしくないという彼女にはこれはちょっと屈辱的らしい。

 

「中学になって、膝の上抱っこなんて超あんまりです! …………それに」

 

「仕方ないでしょう。フレンダを置いていったら病院に迷惑がかかるんだから」

 

「え? それって置いていっても病院に迷惑が掛からないなら置いていったてこと?」

 

理不尽な発言にツッコミを入れるフレンダだが、それはその場の人間全てに無視された。

 

ここ数日で知ったことなのが、この金髪碧眼の少女フレンダは基本こんな扱いだったりする。だがへこたれない。恐ろしいまでに復活してくる。

 

麦野に投げ飛ばされようが、絹旗にぶん殴られようが、滝壺に見放されても不死鳥のごとくまた蘇り同じ結果を辿る。

 

どうやら細かい事は気にしない気質ならしい。

 

「どうして麦野はそんな我が儘ボディなんですか!? 理不尽です! 超理不尽すぎます!」

 

「藪から棒になによ」

 

「その辺を否定しないあたり、やっぱり麦野は凄い訳よ。でも絹旗の言いたい事分かるなぁ。どうしたらボン! キュッ! ボン! の凹凸スタイルになれるの秘訣はなに?」

 

無視された直後にこうしてテンションを上げられる辺り、かなりポジティブだ。

 

「お前らセクハラで訴えるぞ。人をそんな目で見てんじゃねえよ!」

 

「背中に当たる感覚が超妬ましい!」

 

「なにぃ! それは羨ましい訳よ!!」

 

なにやら胸の大きさ談議になりつつある流れを上条は聞き流す。この話題には関わらない方がいい。と直感が告げる。

 

時に女性は男性諸君が聞いてはいけない事を公然と話す。もちろんその逆も然り。むしろ男性の方が頻度が多いのかもしれない。特に高校生の皆さんはそうだろう。

 

自分は関係ないですよ、と他所を向いていた上条に滝壺は不思議そうに聞いてきた。

 

「かみじょうも胸が大きいと嬉しい?」

 

「い、いやぁ気にした事ないかな」

 

「え? 男の人って大きな胸が超好きなんじゃないんですか?」

 

「それは超偏見です!」

 

絹旗の間違った男性認識を改めつつ、上条はどっと疲れた。基本、ガールズトークは男が理解できない話題や意識の相違がある。この場合だってそうだろう。

 

「絹旗は背伸びしすぎじゃないか? 子供扱いに不満を感じるのは分かるけど、もうちょっと無邪気にしてた方が可愛いぞ?」

 

「でも子供って言うことでジェットコースターに超乗れなかった私の気持ちを超考えて下さい!」

 

「ごめん、絹旗は無邪気だよ。そのままでいて」

 

「ウニ頭の癖して超生意気です」

 

頬を膨らませて不機嫌なのをアピールしているのか、それともいつもそうなのか上条の知るところではないが、そうしていると年相応の子供だ。

 

そんな子供が人殺しをしてるんだ。上条がつい思いにふけってしまいそんな事を心の内で呟いて、虚しさと悲しさがそこにあった。

 

彼女にこの気持ちを打ち明けても同情としか受け取ってもらえないだろう。でも思わずにはいられない。

 

激しいジレンマだ。社会が彼女に強要している事は許せないが、自分に対抗できる何かがあるわけじゃない。無力と言う言葉がこんなにも心を抉るなんて知らなかった。

 

「……はぁ…」

 

こんな荒んだ心でどんな綺麗なモノを見ても色褪せて見える。

 

「どうしたのかみじょう?」

 

「うん、平和だなぁってさ」

 

今、この時が。

 

だがこのメンバーは感傷に浸っている暇をくれなかった。

 

「なんだか上条って早死にしそうな訳よ」

 

「なんですと!!」

 

「今のは確かにB級映画の超死亡フラグ台詞並みでしたもんね」

 

また車内が盛り上がった時、麦野が運転手に声を掛けた。

 

「すいません、この辺りで私降ります」

 

「あれ、どうしたの麦野?」

 

フレンダの問い掛けに麦野は面倒くさそうに明るい栗色の髪をかき上げた。

 

「仕事よ」

 

「!」

 

その一言に、特に後部座席の皆は顔色を変えたが麦野はさらに続ける。

 

「半導体の切断とか、マイクロチップの凄く小さき奴の切断とかチマチマしたのをやるの」

 

「あ、なるほど」

 

安堵が含まれた絹旗の声に麦野は頷くと携帯の時計を見た。

 

「だからパーティーは昼か夜ね。滝壺達は外食かなんか考えといて」

 

「結局、押し付けられた訳よ」

 

若干、棘があるフレンダの愚痴に麦野は勝ち誇ったように胸を張る。

 

「いいじゃない。私と上条の退院祝いなんでしょ? それくらいやんなさいよ」

 

「任せて」

 

そう言ったのは滝壺で、麦野は珍しいものを見るような視線を送った。

 

滝壺はいつも通りなにを考えているか分からない。

 

そこに上条が恐る恐る声を掛けてきた。

 

「邪魔じゃなかったら、ついて行ってもいいか?」

 

「大丈夫“普通”の仕事よ」

 

「駄目、か?」

 

「……………」

 

声もそうだが、表情からして上条が捨てられた子犬に見えた。あまりに悲痛な面持ちで俯き、麦野にやんわりとだが拒絶されたのが響いたのだ。

 

そこに、さぁどうする? と言った『アイテム』メンバーの視線が麦野に突き刺さり彼女は苦虫を噛み潰したような表情をする。

 

暫くの沈黙の後、麦野が観念したように両手を上げた。

 

「分かった。降参よ。付いてきてもいい、でも上条は凄く暇になるわよ絶対にね」

 

「あぁ、それでも構わない! 有り難う麦野」

 

「有り難うって大袈裟な……」

 

呆れながら麦野はタクシー代を払うと上条と共に車内から出た。

 

硝子越しに三人が手を振る。それに応えるように上条が片手を上げ、麦野は適当に返す。

 

タクシーは滑らかに走り出し、車道の向こう側へと姿を消した。

 

「それじゃ、行くか」

 

「そうね。少しバス移動するわよ」

 

そう言うと彼女は歩き出した。慣れ親しんだ道なのだろうか、迷わずバス停までたどり着くと時刻表を確認してベンチに座る。上条もその隣に座った。

 

「後、六分くらいね。上条はなんで私についてきたの?」

 

「たぶん麦野の事を知りたかったからだ。俺なんかが踏み入れられない事ばかりだけど、今みたいなことなら良いんだよな?」

 

「まぁ、ね。でもLEVEL5は基本能力やその他の事にはかなり秘匿されるの。公開されるのは案外名前くらいよ、本当に。だから私が仕事してる所見られないかも」

 

サンダルを穿いた脚をぶらつかせながら麦野は真っ青な空を仰いだ。

 

「いいさ。俺が勝手についてきたんだ。終わるまで待ってるよ」

 

裏表のない優しい彼の本音に麦野は空見詰めたまま溜め息をついた。

 

どうしようもなく暖かい。

 

「捨てた筈なのに、棄てて溝に浸かった筈なのに。なんであんたはそんな事言うの?」

 

「麦野が棄てたなら俺が拾ってやる。簡単な、生易しい問題じゃないのは百も承知だ。でも、やっぱり笑ってほしいんだ。これは俺のエゴだけど」

 

最後の一言に麦野は笑った。全くその通りだと。

 

そしてその行為を黙認し、止めさせない自分は――――

 

「全くもって大馬鹿ね」

 

「どうしたんだよ急に?」

 

「上条だけには絶対に言わない」

 

彼は言ったのだ。自分が捨てて、棄てたモノを拾ってくれると。なら、彼の前ならきっと人間である“麦野沈利”が許される。人の心を棄て化け物になる事を選択しなければならない暗闇の世界だけじゃない。

 

それだけで、心がこんなにも軽くて自分の中の氷の世界がゆっくり融解していく。

 

そう、ゆっくりと“溶け出す”―――

 

 

溶け出す? 融解?

 

忘れていた何かを思い出そうとして、精神がそれを強く苛烈に拒絶した。

 

刹那、麦野視界が闇に染まり胃をひっくり返したような不快感に襲われ慌てて口元を押さえ呻くと、上条は急な展開に当惑する。

 

「ぐぅ! ……んッ!」

 

「おい、大丈夫か!?」

 

背中をさする上条はこれが焼け石に水だと分かった。

 

麦野が苦痛の為にさらに顔色が悪くなっていく。嫌な汗が噴き出し呼吸音もさらに小さくなっていく彼女を見て上条は携帯を急いで開き、救急車を呼ぼうとしたら麦野がそれを止めた。

 

「だい、丈夫だか…ら」

 

「どこが大丈夫なんだ! 顔面蒼白な奴に言われても説得力無いぞ!?」

 

「いい、の。……本当に、大丈夫」

 

息も絶え絶えに言葉を紡ぐ麦野は一度、大きく空気を吸い込むと上条に寄りかかった。

 

「麦野?」

 

「うん、大丈夫。だいぶマシになった」

 

吐き気の後に猛烈な頭痛にも襲われ正直、死ぬかと思ったが身体は持ちこたえてくれた。

 

優しく背中を叩きながら上条は麦野を心配そうに見詰める。

 

「無理すんな、ってもう遅いか」

 

「なにか、思い出しかけたんだけど。何だったかな?」

 

虚ろな瞳で囁く麦野の言葉に上条は首を捻った。

 

「なにを忘れたんだよ?」

 

「解ったら苦労しない。昨日の事、実は途中から虫食いみたいに記憶がまばらに飛んでるの。あの医者も不思議がってた」

 

なんと返したらいいか分からず黙っていると麦野は立ち上がった。

 

慌てて支えると麦野はまた大きく呼吸をする。

 

「ふぅ……。ありがとう。バス来たわよ」

 

「今日は家に帰ったらどうだ?」

 

「……実は最近この手の仕事サボってたから、今日来なかったらヤバいのよね……」

 

「麦野……、今度からちゃんとやれよ?」

 

「……確約はしない!」

 

開き直った彼女はもういつも通りでバスの中に入っていった。その後から上条も乗り込む。

 

人が少なく、上条達は適当に空いた場所座った。

 

「どこまで行くんだ? それまで寝てていいぞ」

 

「人前だともう眠れないのよ」

 

彼女の歴史の一端に触れた気がした。

 

それは上条が想像する以上に黒く冷たいものだろう。

 

「そうか、仕方ないな。でも麦野、無茶はするなよ?」

 

「それも確約しない」

 

「そこはしてくれ……」

 

麦野は返事を返さず黙って窓の外を見た。

 

休日と言っても朝から道を歩いている学生は少なく、街全体が停滞しているようだった。

 

 

 

それから30分は無言を押し通したが麦野が降車するボタンを押した。

 

「次か?」

 

「そ、半導体研究所とかよ」

 

バスが止まり扉が開くと麦野と上条は料金を払い降りた。そして目の前の建物に麦野は慣れた感じで入って行く。

 

自動ドアをくぐり、中に入るとクーラーが稼働している音がする。涼やかな微風に癒されていると、麦野が上条を手招きした。

 

「なにやってんの、こっち来なさい」

 

「悪い、クーラーの風に当たってた」

 

「おや、君は誰だい? あぁ、それとやっと来たんだね麦野さん」

 

白い廊下の奥から姿を現したのは、真っ黒の髪を頭の高い位置で結った女だった。化粧のない顔は清潔感があり、唇は紅を引いていない割には赤く、どこか毒々しい。

 

その女の顔を見て麦野は表情を消した。

 

「一応聞くね?君は誰だい、麦野沈利さんの友人それとも……」

 

「私の付き添い」

 

「そっか、つまらない所だけどごゆっくり」

 

素っ気ない麦野の返答にも眉一つ動かさず受け答えると、女はのんびりと歩を進めた。

 

「いつものアレお願いね。ナノメートル並みのサイズは君の極細〈原子崩し〉じゃないと無理だからね。三ヶ月もほったらかしされたからどうなるかと冷や冷やしたもんだ」

 

嫌味なく言っているつもりなのだろうが、元来絡みつくような抑揚の声で喋る彼女がどんなに賞賛しても嫌味に聞こえてしまう。

 

おかげで麦野の眉間には縦皺が刻まれた。

 

「喋んなクソババァ! 気持ち悪りぃんだよ!」

 

「あっは! 君も言うねぇ。麦野さんにはいろいろ期待してるから、お灸を据える事が出来ないのが残念だぁ」

 

麦野の発言にも憤慨した様子は見せず、おっとりした声で言ったお灸を据える発言もなんだか冗談じみて聞こえる。

 

それだけ朗らかした声音なのだが、上条は彼女の三日月型に歪んだ瞳がちっとも笑ってないことに気づいた。

 

不吉。まるで不運を運んでくる悪魔の微笑みだ。

 

「さて、持ち場について貰おうかな?なんせ三ヶ月分もあるんだから。あぁ、君はこっち来てくれるかい? そっちは麦野さん専用通路だからさ」

 

麦野と同じ扉を潜ろうとした上条に女は声を掛けた。

 

上条は頷くと麦野に振り向く。

 

「なんだか、一緒には居られないみたいだな」

 

「……仕方ない。それじゃまたね」

 

一瞬だけ、迷った素振りを見せたが無理に自分を納得させると麦野は一人、扉の向こうへ消えてしまった。

 

「おいで」

 

「あ、はい!」

 

女は先導する。ヒールを鳴らしながら長い廊下を歩く。上条はその後ろについて行った。

 

それから突き当たりの扉を押し開くと、上条を招き入れ扉を閉めた。

 

そこはガラス張りの壁で下が見下ろせる造りになっている。女は椅子に座ると目の前の機械を操作し始めた。

 

「ねぇ、君の名前は?」

 

「上条当麻です。えっと……」

 

「ん?あぁ、私の名前は本名不詳(コードエラー)だ。よろしくね上条君」

 

「いや、名前じゃないですよ」

 

思いっきり名前が無いと言っている彼女に上条はどう対応していいのか分からなかった。

 

だが本名不詳本人はあっさり肯定する。

 

「うん、名無しだよ。名前がない歴=年齢だからさ」

 

「彼女居ない歴みたいに言わないで下さい。なんだか締まりがないですよ」

 

「好きに呼べばいい。それに敬語なんて使わなくていい。人の為になるような事してないし」

 

無機質な音を出す機器を操りながら本名不詳と名乗った女は手元のモニターで部屋に入ってきた麦野を見るとマイクを手に取った。

 

これで分厚いガラスの向こうにいる麦野とやり取りが出来る。

 

その前に麦野が本名不詳に向かって合図を出す。

 

『いつも通りやるぞ』

 

「いつも通り頼むよ」

 

短い会話を終わらせると麦野は天井からぶら下げてある板に向かって〈原子崩し〉の極光を撃つ。普通の板なら貫通しているが、特殊な物らしくぶつかった〈原子崩し〉の極光を細く升目になるようにして、向こう側にある半導体を切断した。

 

それが終わると直ぐに新しい半導体の板が出て来る。また麦野が特殊な板に〈原子崩し〉を当て、加工させら極光は半導体を焼き斬る。

 

何とも単純な流れ作業だ。

 

「案外、地味なんだな…」

 

「でも、麦野さんにしか出来ない事だ。もうちょい精密さが上がれば拡散支援半導体(シリコンバルーン)の板なんて必要なくなるかな?」

 

拡散支援半導体(シリコンバルーン)?」

 

本名不詳の口から出てきた不思議ワードに上条は首を捻った。

 

「うん、彼女が初めて拡散支援半導体を使った映像あるけど見る?」

 

「じゃ、ちょっと見ようかな」

 

軽く二つ返事をすると女は手元のモニターを変え映像を流し始めた。

 

そこには今よりも三、四歳は幼い彼女が映し出され、カードのような物に向かって〈原子崩し〉を撃つ。それがなんと一四本の極光に枝分かれした映像だった。

 

それを見て上条は冷や汗を流す。見覚えがありすぎる。昨日のアレだ。

 

「さっきのが拡散支援半導体さ。こうやって便利な物に使えるわけだ」

 

「戦闘向きな道具でもありますよね?」

 

「なに、アレを喰らったことあんの?」

 

「………………」

 

沈黙を肯定と取った本名不詳は長い溜め息をついた。

 

呆れた表情の彼女は麦野に物を言う訳ではなく上条に言った。

 

「どうやって生き延びたのよ?」

 

「運?」

 

「幸運だね。つか拡散支援半導体を使わせる状況にどうやって追い込んだの?」

 

「…さぁ?」

 

「ふぅーん」

 

両者なにかしら含みを持たせた一言に会話が切れる。

 

視認できる速さで本名不詳の表情が笑みに転じていく。

 

なにか言おうと口を開くが、

 

『おい!いつまでやんだよッ!』

 

そこに麦野の怒鳴り声が響いた。

 

「後五十枚。三ヶ月って偉大な時の流れだね?」

 

『お前絶対根に持ってるだろ!!』

 

「さぁね。お仕事溜めたのは君だよ君。麦野さんはキリキリ働く」

 

『……覚えとけよ』

 

マイクのスイッチを切ると本名不詳は頬杖をついて、流し目で上条の右手を見た。

 

「上条君は麦野さんと恋仲?」

 

「いやいや、あんだけの美人が上条さんなに振り向くわけないですよ。てか恋仲なんて今時使う人居たんですね」

 

「最近はカップルだとか恋人だもんね。接吻とか近頃のガキは知らないんだろうなぁ」

 

しみじみと呟きながら本名不詳は椅子に座ったまま背伸びをする。

 

上条は撃つ速度を上げ早く終わらせようと躍起になった麦野を観察していた。

 

「おぉ、速い速い」

 

「彼女、飽きると雑にぶっ放すからね。でも中心点ズレてないのに連射速度とか上がったな。まぁ何せ三ヶ月前の情報だし、進歩してるのは当たり前か」

 

本名不詳は嬉しそうにメモを走らせると内ポケットにしまった。

 

そのまま二人は麦野の頑張りを観察する。たまに麦野が愚痴を言い、それに本名不詳が毎回答えるのが続いた。

 

もちろん、麦野の激情を刺激する言葉を織り交ぜながらで上条は麦野が爆発するのではないかとひやひやしたが、本名不詳にはその感じはなく寧ろ面白がってさへいる。

 

無骨な金属の色以外、白に統一された世界に一人佇む構図になった麦野を上条は上から眺めてとあることを思った。

 

これではまるで動物での実証実験のようだと。

 

決して学生から見ることのできない目線。科学者の目線。

 

物理的に同じ位置に立った上条はこれが異常な光景に思えた。

 

胸の中のモヤモヤとした気持ちを抱えていると、今回の仕事が終わった事を伝える電子音が鳴る。それを止めると女は上条を手招きした。どうやら部屋を出るらしい。

 

「つまんなかったでしょう? 単純過ぎる流れ作業で」

 

「でも、真面目な顔をしてた麦野が新鮮だったかな」

 

「いつも彼女、どんな顔をしてるの?」

 

廊下にはヒールで硬質な床を叩く音だけが虚しく響く。

 

「憂いた表情をしてる」

 

「そうか」

 

「なんとかして笑顔にしてやりたいんだ」

 

「それは難しいね」

 

声音を変えることなく上条に言葉を突き刺す。

 

「でも、諦めてたまるか」

 

「出会って日の浅い君がなんでそんなことにこだわるの?」

 

「目の前で泣いてる人を放っておけないだろ?」

 

「それは君の価値観だ。私は違う。きっと放っておくさ、面倒だしね。なによも」

 

さらっと上条の倫理をばっさり切り捨てた本名不詳は歩調を変えない。そして振り向かない。子供の心を砕いたとしても自分を中心とした堅い精神は傷つかなかった。

 

そこらの奴らなら上条の事を偉いと賞賛するかも知れないが内心、夢物語だと馬鹿にする方が圧倒的に多い。恐らくこれが一般の対応だ。

 

だが本名不詳は上条の考え方自体、と言うよりも自分にそれが当てはまらない事を指摘した。なにも皆が優しく強い訳ではないと、彼女は遠回りながら言っている。

 

何となく頭で彼女の言いたい事が理解出来た上条はその後ろ姿を見つめた。

 

「本名不詳さんって実は嫌われ役買ってでるでしょう?」

 

「あっは! そー言われたのは初めてだな。ただ個人と言う単一存在は大切なだけだよぅ。代替え出来ないんだから困りもんだからねぇ。特に研究だとそう」

 

最後の一言が無ければなぁ、と上条は呟いた。それは彼女に届いたかは解らないが、本名不詳は楽しそうに扉を開けた。

 

その先には麦野が腕を組んで待っていた。ややご機嫌斜めである。

 

「お疲れ様麦野さん。銀行に振り込むからご心配なく。それとも現生がいい?」

 

「銀行でよろしく、行くわよ上条」

 

「えっと、またいつか!」

 

先に行ってしまった麦野を急いで追いかけ駆けだした背中を見ながら本名不詳はニコニコと笑った。

 

それはまるで、肉食獣とはベクトルの違う捕食者の獰猛な笑みだった。

 

唇を左右に引き裂き、目は獲物一点を見て放さない姿は蛇そのもの。

 

しかし毒蛇などの種類ではない。もっと大きく、最も苦しみを与える殺し方する種類の蛇。

 

大蛇だ。牛すら丸呑みにするそれに近い。

 

「うん、必ず会うよ君達とはね? ………しっかし面白い子だ。稀にみる純朴青年、絶滅危惧種だよ」

 

喉に引っかかったような笑い方をすると次に舌なめずりをした。

 

真っ赤な唇がしっとりと湿り気を帯びる。

 

悦を追い求める思考は深く沈んでいく。

 

目の前が見えなくなるくらい自分の世界に浸っていた本名不詳の意識が突然浮上した。

 

携帯が控え目にバイブと音で着信を知らせたのだ。取って耳に当てると彼女の第一声はこうだった。

 

 

 

 

 

「どうしたアレイスター?」

 

 

 

 


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