長い間、車に揺られどこに来たかさへ分からない。
ただ時間からすると、第7学区の外に違いない。
そのくらい長い時間、同じ様な姿勢を保ってきた上条は限界だった。腰に痛みが走り、うまく姿勢を変えられない。そして何より、この木箱は上条が体操座りをして上半身を前に倒さないと入らないサイズで、狭すぎて動きようもない。
いい加減限界が来たが車が止まった。赤信号だからと言うわけではないようだ。エンジンまで完全に停止して、人が降りてくる気配がする。
「アイツ等もあと10分もすれば着くみたいだ。早く荷物運べ」
「リーダーも運んで下さいよ」
「リーダーだからいいの」
なんだか馬鹿らしい会話に上条は気が抜けたが、持ち上げられる感覚に身を硬くした。
そこまで長く移動した訳ではなく平らな地面に下ろされた。
それから20分はその作業が続き荷物を運び終えた集団はぞろぞろと車に向かう。
今回の仕事はどうだとか、今日はもう寝るとか、プライベートなものばかりで上条の緊張の糸も少し緩んだ。
そして無音になった時、上条は音を出さないように箱から外に出て、律儀に蓋を閉める。
「どこだここ?」
月の光で辛うじて見えたのは、駐車場のような広く柱の少ない空間。そして余りにボロボロな建物だということ。
廃屋と言う表現しか出てこない。
物陰に隠れるように移動していると、上条は壁になにやらテープのようなものが貼ってあるのに気づいた。
「なんだコレ?」
一見、修正テープだが手触りがなんだか違う。それに真新しい。取り壊し工事の後だろうか。
そんな事を考えていると、背筋が凍るような悲鳴と絶叫が上条の耳まで殴り込んできた。
「アガァァア、ギィャアアァァァァアア!!」
「ひぃぃぃ!!ぁ……あぁああ!!!」
「グガアァァァアア!!ヒギィッ!」
断末魔の叫び声はいきなり途絶え、駐車場の外で激しい閃光が瞬いた。
続いてバタバタと足音が駐車場に雪崩れ込み、何人かの男達は恐怖でもつれる足を懸命に引っ張って走ってきていた。
皆一様に恐怖で顔が強張り、気の弱い奴は既に涙で顔が酷いことになっている。
上条は訳が分からなくなり足が全く動かなくなった。
さっきの断末魔はどうした? なんでこいつらこんなに、死に物狂いなんだよ?
現実味を帯びない光景は上条から行動力を削ぎ落とし、呆然とさせた。
「あはははははは!」
よく響く声に全身の毛が逆立った。一瞬で口の中が干上がりべた付いた舌が動かない。
瞬きさへ忘れて、上条は漆黒の闇を凝視した。
響く足音。
それは、じわりじわりと恐怖を伴い近づいてきた。
「ぁ……あ…ぁあ」
誰かが絶望の訪れに声を震わせる。
「ハロー、狩られるだけの家畜野郎!」
深淵の底より出てきたのは、一人の化け物だった。
月明かりに照らされた美しい顔は、命を狩る事に飢えた獅子のように牙を剥き出し歪み。その瞳は狂気に満ちていた。
「さぁて、あの荷物を誰に渡そうとしたのか、言ってもらおうか?それともジュージュー焼いてグリルパーティーにでもする?」
光の玉が女の顔をはっきり照らした。
不健康で青白い光は真っ暗闇の世界を焼き尽くす。
その光景は上条まで届き、今まで動かなかった口が静かに音を零した。
「…む、ぎの……?」
揺らめく光が一人の少女の姿を浮き彫りにする。
軽くカールを巻いた亜麻色の髪に、歳の割には大人びた玲瓏とした美貌が血に染まっていた。あまりのアンバランスに心臓を握られたような恐怖さへ覚える。
しかし恐怖以上に上条の心を鷲掴みにしたのは、少女自身だった。ただ彼女がそこに居るだけで、上条の理解の枠外へと飛びぬける。
「どっちでもいいか、一人残りゃ十分だァッ!」
少女が吼える。
光の一線が二人の男を瞬く間に貫いた。悲鳴を上げる暇なく絶命する。
なにが起きたのか分からない。殺された本人達など、なおのこと分からなかっただろう。
彼女がやった行動は、本人にしてみればなんて事は無い。
ただ彼女の周りに点在する光が高速で二人の上半身を奪い去った。
ドシャッ! と重たい音を立てて崩れ落ちた死体はビクビクと痙攣しながら鮮血をコンクリートに流す。
唐突すぎて脳が一時的に真っ白になった。あまりに無残な死に様を見ても、怖いだとかそんな感情は浮かんで来ない。
呼吸さへ忘れた空間に絶叫が轟いた。
「うわぁぁあぁあぁああッ!!! あぁあぁ………イヤダァァァアアッ!!」
耳をつんざく絶叫に上条は震え上がり、止まった呼吸が帰ってきたと同時に物陰から飛び出した。
「麦野ォォオオオオ!!!」
「っ!」
麦野は突然の奇襲に身を強ばられたが、暗部女王の貫禄が〈原子崩し〉の盾を展開する。
しかし、
硝子を砕いたような歪な音と共に消え去り、上条の右の拳が麦野の腹部にめり込む。
「ぐあッ!」
彼女はよろめくと、呆然と上条を見た。最後の希望が打ち砕かれたような表情で、瞳は大きく揺れ、今にも崩れそうだった。
しかし上条にはそれについて深く考査をしている隙はない。生き残った五人を見ることなく上条は怒鳴った。
「早く逃げろッ!!」
上条の登場に度肝を抜かれ、またもや固まっていた者達は今度こそ蜘蛛の子散らすように逃げる。
だが出口に小柄な人影が立っていた。
「標的見つけた訳よ!」
場違いな明るい声をした女の子が壁を何かで引っかくと、そこから一直線に壁が爆散する。
今度は悲鳴を上げることは出来ただろうが、膨大な音の波で彼等の最期の声は聞こえなかった。破片に貫かれ明らかに死んだ人間が転がるのをフレンダは満足そうに頷き、自画自賛を送る。
地鳴りのような音を立てて、建物が傾く。コンクリートの天井に歪な罅が何本も走った。
「麦野どうしたの?」
微動だにしない麦野の後ろ姿にフレンダはゆっくり近づく。フレンダはまだ上条に気づいていない。
「そうかよ……」
低く唸るような声にフレンダは歩みを止めた。なんども感じた恐怖がフレンダを縫いとめる。
失望と虚無。それがぐちゃぐちゃに入り混じった声は闇に向かって吐き出されていた。
「そういう事かよッ! 上条ォォオオオオ!!!」
大気全体を震わせた激昂の叫びは、憤怒や絶望に染まったものだった。
フレンダはその麦野の声だけで泣き出しそうになる。
理性の壁をぶち破って出てきた猛獣は闇の中に突進した。
「グァッ!」
肉を打つ音とまだ若い男の苦痛に呻く声が広い空間に響く。
続いて〈原子崩し〉の閃光が闇を薙払う。そしてフレンダが視認したのはウニ頭の少年だった。
少年は右手一本で〈原子崩し〉を粉砕する。
「麦野ォ! なんでお前が人殺しをしてんだ!!」
「はぁ? お前なんかに言われる筋合いはないわよ。こっち側の人間の奴がァッ!! そもそも殺し合いから始まった出会いだったのに気づかねーとか、鈍すぎなんだよ!!」
麦野はそう解釈した。
上条当麻がここに理由を、
麦野はそう誤解した。
上条当麻が何故、自分に楯突くのかを――――
「考えれば簡単だったじゃない。そんなチート野郎が“表”の人間やってける訳ないわよね! 私がそうだったんだから! 学園都市の“闇”が見逃す事なんて、あるわけない!!」
電子の極光が六本、麦野の怒鳴り声と共に一帯を焼き払う。床や壁のコンクリートがドロドロに融解してオレンジ色に鈍く発光する。
闇が不気味に明るくなった。
そこから立ち上る膨大な熱に上条は空気を飲み込む。
圧倒的な威力で他を蹴落とすほどの暴力の権現に、この少年すら身震いした。
「麦野がなに言ってんのかよく分からねえが、こんな事してよくないだろ!」
だがしかし、上条のこれ以上無いほどの真剣な怒気を含んだ言葉で怒鳴りつける。
動じず麦野は笑い、嗤った。
まるで初めて出会ったときのように、夕暮れ前の穏やかな時間を忘れて麦野は牙をむく。
「あっははは! 馬っ鹿かテメェわよ!」
上条は麦野が〈原子崩し〉を撃つ前に直進した。
しかし麦野は電子の壁を形成する訳でもなく、極光の一撃を自分の足元近くを融解した。それはコンクリートを飴細工のようにいとも容易く捻じ曲げ灼熱の塊に変貌したそれを、散らばし上条を迎撃する。
間一髪で転がると、立て続けに〈原子崩し〉が上条に直進、しかし右手で消すと麦野は居なかった。
立ち上がろうとした上条は無理やり誰かに床に押しつけられた。
「うおッ!」
ズン! と背中に衝撃が走り、主に腹部が圧迫されてうまく呼吸ができない。
そして、虫の羽ばたきの音に似ているが、それよりも重く、低い音が上条の耳に聞こえた。
「クソ!」
「ねぇかーみじょぉ、選ばせてやるよ。黒こげのミイラがいいか、それとも、あっちこっち穴だらけがいいか。どーする?」
眩しい光の玉が麦野の周りに点在する。
上条を踏みつけた麦野は狩りを楽しむように口元に残忍な笑みを刻む。最期を選ぶ権利の譲渡は相手が命乞いをするのを誘発するため。
その細く糸のような希望に縋る人間を突き落とすのは最高の悦楽、快楽だ。
命乞いをするか泣き叫ぶか、または両方か。
“闇”に巣くい、命を食い散らかすもう一人の麦野が上条から、そのいずれかの言葉を今か今かと待ち望む。
そして上条は、
「俺は……」
震えた声に麦野はさらに笑みを深くした。
「どっちも選ばない!!」
「あぁ!」
一瞬の隙をついて上条は右手で麦野の足を掴むと方向関係なく強引に引っ張った。バランスを崩し派手に転倒した麦野に上条は掴みかかる。
ちょうど馬乗りの姿勢で上条は有利なポジション。つまり麦野にとっては最悪の状況。
床に組み伏せられた格好に麦野は身を焦がす程の怒りを覚えた。
今まで圧倒的有利にいた麦野が一気に逆転され、フレンダは彼女を助けるために武器を取り出す。
「フレンダァ! これは私の獲物だ、手ぇ出したらお前を上下左右に引き裂くぞォッ!!」
だが、麦野に怒鳴られフレンダは踏みとどまる。
「でも、麦野!」
上条の右の拳が振り下ろされ、麦野はそれを掴み押し返そうとする。上条からしたら左側はまったくその逆で膠着状態だった。
しかし構わず麦野は叫んだ。
フレンダが加わることでどんなに有利になろうとも、彼女は自分の手で殺したい。戦いの効率化よりも私情を最優先させる麦野の悪い癖に戸惑うフレンダ。
「さっさと絹旗の処にでも行け! いいか、邪魔したらテメエらもブチ殺しだ!」
だが逆らうことも出来ず、麦野の言葉に退散を決意する。
「………分かった訳よ」
苦渋の選択の末、フレンダは麦野に従い出口に向かって走り出した。
その背中が見えなくなったのを確認すると上条はさらに力を込める。
「なんでだよ! なんでなんだよどうして麦野が」
「いつまで“表”を気取ってんだ、アァ!」
「“表”だとか“裏”だとか知らねえ。でも、こんな事はやっちゃいけねぇんだ!」
殴られる覚悟で左手の拘束を解き、利き手でない拳で麦野を殴った。
それは軌道を外し麦野の右の肩口に入った。
「アガッ……くぅ!」
脚を振り上げ麦野は上条を蹴り飛ばすと、距離を取るように転がり小刻みに痙攣を繰り返す右腕を忌々しそうに見つめて握り拳をつくる。たったそれだけの動作でも痛みが走り、表情を顰めた。
「麦野、お前は間違ってる! 人を殺してなんになるんだ!」
その言葉で麦野の中に存在する“何か”が解き放たれた。
「間違ってる? 間違ってんのはどっちだァァ! 私が“間違い”ならこのクソッたれな世界はなんなんだ、学園都市の暗部を舐めてんじゃねぇよ、無能力者の分際で! なら否定してみろ“化け物”利用するだけ利用するシステムとその真っ黒な社会をなァァァアアア!!!」
麦野はなんの躊躇いもなくポケットからカードのような物を多数空中にばら蒔く。
それが何を意味するかは分からないが、上条の本能が“全力で逃げろ!”と叫んだ。
身体は警告の通りに出口に向かって駆け出した。
「終わりだよォォッ!!!」
今までにない圧倒的な光が無差別に世界を薙払い、焼き尽くし粉砕した。
真っ白になった視界、全てが奪われていく感覚。
突き飛ばされ、ごつごつとした床を転がる感覚を最後に上条の意識は闇の中へ落ちていく。
建物自体が崩壊を始めた。
壮絶な轟音と土煙が第19学区の一角で巻き起こる。その絶望的な光景に絹旗やフレンダは言葉を失った。
体晶の影響で疲弊した滝壺は、完全倒壊した建物から麦野のAIMが消えていない事を感じとると、頬を少し緩めた。だが、油断出来ない。生き埋めになっているかもしれないのだ。
「大丈夫、まだむぎののAIM拡散力場は消えてない。助けに行こう」
「滝壺さんは超休んでてください! フレンダは滝壺さんをお願いします。私なら瓦礫くらい超持ち上げられますから!」
絹旗が一人で崩壊した廃ビルに向かおうとすると、フレンダがそれを止めた。
「それなら滝壺を連れて行くべきだと思う。結局、そっちの方が麦野の場所とか正確に分かる訳よ」
「そうですけど……」
「大丈夫だよきぬはた。それよりむぎのが心配。なんだかさっきからむぎののAIM拡散力場がおかしい」
その言葉に絹旗は少し離れた崩壊した廃ビルを見つめた。
瞬間、一筋の極光が夜空に消えていった。
それは〈原子崩し〉の光で、麦野が生きている事を示している筈なのに、皆は素直に喜べなかった。
不安だけが胸の内に溜まる。そしてその不安は的中する。
「アッハハハハ! あはははは!! 間違ってる? 私が、私が間違いなの!? ククク、ふふ、あは、アハハハハ!!!」
彼女の自我がゆっくりと融解を始めた。
それはまるで、紅茶の中に落ちた砂糖の如く。もう彼女には、自我の輪郭が見えない。
“化け物”だとか暗部女王だとか、人間でいた筈の麦野沈利がすべて境目が溶けてぐちゃぐちゃになっていく。
「殺した、殺した、殺した殺した殺した殺した!」
最初の怯えたような声から徐々に猟奇的響きを孕ませ、狂った哄笑が続いた。
痛々しく融解していく彼女は、ピタリと全ての行動を止めると、後ろを振り向く。
そこには、あちらこちらから血を流しそれでも立ち上がった上条当麻の姿があった。
震える足に力を込め、一歩の距離を確実に縮めると、そっと手を差し出した。
「迎えに来たぞ、麦野」
優しく微笑みかけてくれる彼に、麦野は泣き出しそうになった。
それは、暗部の自分なのか、化け物の自分なのか、人間である自分なのか、分からない。
ただ、嬉しかったのかもしれない。
「要らないんだよ」
でも、もう区別がつかなくなった麦野はその手を振り払った。
「なら、お前が手を取るまで俺は諦めない!」
彼は変わらず手を差し伸べてくれた――――
〈2〉
時間は少しだけ巻き戻る。
「っ!」
真っ白な光に薙払われた上条は一時的に意識を失い、今漸く目を覚ました。
しかし起き上がろうとすると全身に痛みが走り身体が思うように動かない。ひどくゆっくりな動作になってしまう。
「は、はは。すげぇ、不幸なのか幸運なのか分かんねえや……」
仰向けになって上条が見た光景は、いろんな瓦礫がお互いを支え合うようにして、倒壊をギリギリ避けていた奇跡の賜物だった。
しかし身体には無数の傷が刻まれていた。特に左肩辺りは〈原子崩し〉の一撃が掠ったらしく、肉が少し削れている。
上条は一通り、身体が動くのを確認すると、立ち上がった。それだけで肉体が悲鳴を上げる。
「……クソ、早く麦野を捜さないと」
覚束無い足取りで上へ登れそうな所を探すが、今の身体では正直無理だ。
全てが限界に到達している上条は膝を付く。そしてズボンのポケットの固い感触に気づき取り出す。
それは、麦野が上条の為に選んで、買ってくれた携帯だった。
「あっ、さっきので壊れてないだろな?」
急いで開くと携帯の画面からは光が発せられた。
「メールが来てる?」
御坂美琴に追いかけ回された時に届いたのだろう。気づかなかった。メールの主は―――
「……麦野、沈利」
思わず声に出してしまった。
そうだ、あの時まで会話をしていたじゃないか。普通のありふれた日常の会話。
それが急に恋しくなり、上条は唇を噛み締めた。恐らくこの大騒動に巻き込まれて三時間も経ってない。なのに、こんなにもあの時間が大切な物に感じられる。
その時、上条は唐突に考えた。
なら麦野沈利はどうだろう? 彼女の言動からして、この非日常が当たり前になったのは昨日今日の話じゃない。もっと昔だ。
だとすれば、麦野にとって“平凡な会話”だけでもそれはとても幸福な事で、その話し相手は恐らく上条当麻ただ一人なのだろうと、鈍感な上条でも分かった。
メールを開く。
そこには
“そうね。でも二、三日は無理みたい。誘ってくれてありがとう”
その文面を見て上条は泣き出したくなった。こんなにも普通の女の子なのに、こんなにも社会の“闇”に染まらなければならないのか?
今まで麦野が浮かべた、寂しそうで、どこか諦めた表情をした彼女が上条の脳裏を過ぎった。
助けよう、迎えに行こう。あんな
今は社会の“闇”なんて知ったことか。今、大切なのはそれに絶望し苦しんでいる彼女を救うことだ。
上条は携帯を仕舞うと立ち上がった。最初の時のように身体を動かすだけで痛みが走る事はない。あまり痛みに脳が痛覚を遮断しているのかは分からないが、今はそれが有り難かった。
「でも、やっぱり道が無いんだよな」
見渡せどそこは限られた空間。狭いそこには瓦礫の間から零れる月光が静かに上条を照らすだけだった。本来ならこんな時は無駄に動かず救助待ちである。
でも状況はそうも言っていられない。上条と同じように彼女がこの奇跡的な空間に居るとは限らない。重い瓦礫のしたに居たならば、事態は一刻を争う。
だが杞憂に終わった。
全てを屠る死の閃光が、世界を席巻した。
轟音を轟かせ、全てを貫く破壊の極光が上条の背後の瓦礫を蒸発させる。慌てて振り返ると、麦野が狂った哄笑を上げていた。
上条はゆっくりと右の拳を握った。誰に言うわけでなく、自分に言い聞かせるように独白する。
「二、三日は無理だって書いてたけど、今日迎えに来るのはいいよな、麦野」
そして彼はたった一人を助けるために立ち上がり、手を差し伸べた。理由なんて簡単だ。特別なんて必要ない。ただ、笑って欲しい、あの屈託のない微笑みで。
だから、
「迎えに来たぞ、麦野」
麦野は手を取る事はしなかった。曖昧でぐちゃぐちゃで融解した精神はもはや“麦野沈利”と言う個を保っていない。
故に彼女は陰惨に歪んだ唇で自らを、こう称した。
「私は“麦野”なんかじゃない!〈原子崩し〉だ!!!」
「違う! お前は麦野だ、人として笑って悲しめる“麦野沈利”なんだよ!!」
彼の必死の説得を聞いても“麦野”は反応しない。
彼女は肩を揺らしながら嗤う。おかしくて堪らないようだ。
見せ付けるように彼女の周りに限らず、空間に数百は優に超える光の玉が点在する。
その光景は学園都市第四位が造り出す光景とは程遠かった。
星や月の光が弱弱しい蝋燭の灯火に思えるほど、大瀑布の光の洪水が上条の頭上にも展開する。
いや、それどころか真昼の太陽の何十倍の輝きで上条の下には影さへ出来ない。
「ははははは! 私は〈原子崩し〉の全てを理解した。全ての電子が解る。もう人間なんて器じゃない! それこそ“麦野沈利”なんて小さな器に入らないわ! 呼吸をするのと等しいくらい自然と演算が可能。これなら本当の出力で〈原子崩し〉が撃てる。身体を崩壊させる事はない! 標準を合わせる事も一瞬で終わる!!」
心が痛くなったのを上条は理解した。人間を捨てたと言うのか。人間であることがそんなに不便だと、そう彼女は言うのだろうか。
違う、と上条は感じる。
それは棄てては、手放してはいい物ではない。
「いいぜ、麦野。お前が人を棄てたって言うなら、先ずはその幻想をぶち殺す!!」
「やってみろ! 〈原子崩し〉でテメェを原子の塵に変えてやるからよォォオオオ!!」
問答無用で〈原子崩し〉の弾幕が上条に襲い掛かった。
回避不可能な程の数。それは原子崩しの視界を真っ白に染め上げ塗り潰す。
砂塵の中で彼はもう事切れていることだろう。
「アハハハハ!こんなもんかよ、足りねぇぞ!!」
「ああ、そうだな。全然足りねぇよ」
確信は砕かれた。静かな少年の声は確かに夜の世界に響く。
僅かに原子崩しの表情が怪訝になる。
おかしい、確かに最低出力だけどアレを防ぐなんてありえない。
実際まだ弾幕の影響で土煙は晴れない。原子崩しは極太の一撃を無慈悲に放つ。
だが、聞き慣れてしまった硝子を砕く歪な音が虚空に響く。彼は土煙から出てきた。無傷とは言えないが、しっかりと二本足で歩いて来る姿に原子崩しは不服だった。
「なんで生きてんだ?」
「お前を迎えに来たからだ麦野」
「“麦野”はいない。それは昔の私だ!
怒りの咆哮が原子崩しから迸る。瞳は瞳孔まで開き、牙をむき出しにした彼女はまさに獣のようだった。
確かに“麦野沈利”でもここまで堕ちなかっただろう。
人の心を捨て去り、人の身にして怪物の階段に足をかけた彼女には、だかろこそ相応しい表情であった。
普通なら諦める事を諦めない。上条当麻の本質を垣間見た原子崩しは何かがぶち切れる音がした。
「そぉかよ。なら〈原子崩し〉の本当の一撃を見せてやる。さっきみたいな弾幕程度の比じゃねぇぞクソ野郎ッ!!!!」
「麦野は原子崩しなんかじゃない。お前は“麦野沈利”なんだ!世界でたった一人の“麦野沈利”って言う人間なんだ!いい加減、目を覚まそうぜ!!!」
お互いの主義主張を確かめ二人は同時に理解した。交われない、理解してあげられない。それくらい違うのだ。
そして同じくらい引けない理由がある。
少年は社会の闇に飲まれ、怪物の産みの親でありながら自我を奪われた少女の為に。
化け物は自身の確立と、力の絶対的なものを示す為に。
もはや交わす言葉もない。
なら出来ることは、全力で対峙する事だけ。対極であるが故に引き合わされた運命なら、ここから先の結末も運命だろう。
彼はただ一直線に走り出した。
「麦野……沈利ィィィィイイ!!!!」
「上条……当麻ァァァァアア!!!!」
彼女が見えなくなるくらい眩く、そして無慈悲な極光が原子崩しを中心として膨れ上がり、空間を押しのける。
それはまるで青白い太陽の誕生であった。
大破壊(オーバドライブ)と言える全てを滅却させる光に上条は恐れる事なく右の拳をぶつけた。
「グッ!」
だが、膨大な質量に対して右手の力は大きく下回り押し返される。両足に力を入れ踏みとどまると筋肉と骨が嫌な音を立てた。
「お……ぉぉおおおおおおおおおおおお!!!!!」
上条が吼えた。
全てを揺さぶる大きく鋭い雄叫びに上条自身、内側から何かが溢れ出るのを感じた。
体中の血がマグマのようで、高揚感が吹き荒れる。
「オオオォォォォォオオォォォォォオオォオッッ!!!!!!」
歪な音が今まで無音だった原子崩しの世界に轟いた。それは今までの硝子を叩き割ったような歪な音ではない。まるで何かを噛み砕き、粉砕する鈍い音だ。
「な、なんだ!」
食い破られた。その一言に相応しい結果だった。最高にして最悪の〈原子崩し〉の最大の一撃は――――
「なんなんだよ、ソレ!!」
上条当麻の右手に朧気で、だがはっきりとした竜の顎が噛み砕いた。そして上条は原子崩しに弾丸のように迫る。
一瞬で原子崩しの目の前に大口を開いた龍が迫り、彼女は悲鳴が喉に詰る。
「ひっ!!?」
恐怖で頭が混乱して避けるだとか、そんな考えさえも失われていた。
「おおォォオオオおおぉぉぉぉぉオオオオオォォォおオおおオオおオォぉォォッッッ!!!!!!」
雄叫びはどちらが吼えているのかも分からない。
原子崩しには世界がゆっくり動いているように見えた。竜の顎がビデオをスローモーションにしたようにじわじわと襲い掛かる。
ついに自分の頭部が龍の顎の中に入った。
そして、世界の全てが暗転した瞬間、原子崩しの頭の中で扉を勢いよく閉めたような音がした。
滝壺は放心した絹旗を支えながらその瞬間を見た。本当ならば自身の身体が吹き飛び跡も残らないであろう出力で〈原子崩し〉を行使した麦野。それを打ち消し謎の竜の顎を出現させた上条。
普段表情に変化のない滝壺もその驚愕の光景の前に目を見開きその頬には冷や汗を流していた。
フレンダと絹旗は完全に唖然として真っ白な状態だった。ほっとくと後一時間は帰ってこないだろう。
だから滝壺は控え目に絹旗の肩を揺すった。
「きぬはた、起きて。むぎのとあの人迎えに行かなきゃ」
「ふぇ!?あ、えっと」
「落ち着いて、大丈夫だから。フレンダも起きて」
「結局、あの二人は万国吃驚人間って訳よ……」
世界レベルで驚かれる壮絶な人間に、晴れてフレンダに登録された二人は寄り添うように横たわり気絶していた。
まるでそこが世界の真ん中であるかのように周りの建物は、麦野の〈原子崩し〉で溶かし尽くされている。
「救急車、よんでフレンダ。きぬはた、二人の所まで行こう」
「………超死んでませんよね?」
「…たぶん大丈夫」
その言葉にきぬばたは泣き出しそうになり滝壺を置いて駆け出してしまった。
滝壺はまだ五月蝿く騒ぐ心臓を宥めるように深く呼吸をする。あの少年が最高にして最悪の〈原子崩し〉の最大の一撃を消し去って、麦野を飲み込んだ時からずっとそうだ。逆に二人が激戦を繰り広げていた時は呼吸も心臓の鼓動も忘れていたのに。
「えっと、取り敢えず二人を回収して動きたい訳よ」
「今、きぬはたが二人を運んでる」
自分より大きい二人を軽々持ち上げた絹旗は凄いとしか言い様のない速さで瓦礫を駆け上がっていた。その表情には安堵が見て取れる。
「二人とも超生きてます!」
「それじゃ、その運搬は絹旗に任せて降りよう」
「フレンダも超手伝って下さい!」
そんなたわいない『アイテム』の二人を見ながら滝壺はピクリとも動かない上条に微笑みと感謝の言葉を小さく送った。
「ありがとう、むぎのを助けてくれて」
遠くでサイレンの音がする。
滝壺は願った。
今日の事を切欠にむぎのの世界が変わりますように。
それはいい方向に行ってほしい。初めて会った時から独りで有り続けた彼女の為にも。
今日の星空と月はとても綺麗なものに見えた。