とある奇跡の平行世界   作:雨宮茂

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特別な普通を下さい

「それじゃ、またどこかで」

 

「そうね。今度は服を脱いで登場しないでほしいわね」

 

「君と別れるとき、よく注文される気がするな」

 

一悶着あったが無事に昼食を食べ終えた木山と麦野の二人は、店の前で別れる。

 

その際、麦野の小言に木山は小さく項垂れた。やはり彼女にとって外でも服を脱ぐことは、別段変な事ではないらしい。

 

麦野は、その感性はどうやって培われたのかと疑問に思いながらこめかみ辺りを強く抑える。

 

「車を止めた場所忘れて途方に暮れるのは構わないけど、服は脱がないで」

 

「麦野さんの前では善処しよう」

 

考えられる限り、最低限の譲歩である木山の進歩に麦野も肩を落とす。

 

麦野の心労を理解する事無く、木山は手を振って人ごみの中に入っていく。その後ろ姿を見て麦野も、上条の住んでいる男子寮を目指して帰路に付く。

 

憎らしいほど強い陽光。アスファルト群から立ち上る陽炎の波に、誰もが夏を感じる。もうすぐ本格的な暑さが日本全土を覆うことが容易に想像できた。

 

まだ薄い青色の空だけが涼しげな色合いである。

 

「今日の晩御飯は何にしようかしら?」

 

そんな光の中で麦野は、今晩のメニューに頭を悩ませた。それは、闇の世界で女王の名を欲しいままにした彼女から考えられないほど穏やかな声音で、しかし誰よりも相応でもあった。

 

大きな通りに面したスーパーに向かって麦野は歩き出す。

 

彼女が恋い焦がれた景色の真ん中。そこを歩く姿を、高層ビルの上から見下ろす影があった。

 

研究者の証拠でもある白衣をはためかせ、眼下に広がる無数の人間。その中のたった一人に視線を合わせたまま、瞬き一つする事もなかった。

 

「のぞき見ってお姉さんでも趣味悪いと思うわよ?」

 

「君か……」

 

無駄に色香と艶やかさを注ぎ込んだ蠱惑的な響きを宿す声に、本名不詳は振り返る前から正体が誰だか分かっていた。

 

本名不詳が特別に雇った魔術師オリアナ・トムソン。

 

自慢の金の髪を巻き、飾り一つないと言うのに輝く容姿。美とエロスの到達点を軽々と飛び越えた妖艶の美女の言葉に雇い主の本名不詳は小さく吐息を零す。

 

「別に覗いてないよ。私生活の全てを覗き見るなら、むしろ出向くより専用の機械か能力を使った方が正確で優れている」

 

「あら、思ったよりゾッとする回答がきてお姉さん何て言ったらいいか分からない。貴女たち科学者にとって人権だとかプライバシーって言葉がないのかしらぁ?」

 

「ないね。特に高位能力者になればなるほどそんな言葉は通用しない。あとは、『置き去り(チャイルドエラー)』くらいかな人権なんてないの」

 

ほんのちょっとオリアナは冗談で言ったつもりだったのに本名不詳が返してきた言葉は、文字にもできないような現実を肯定する発言だった。だが暗部と言う組織がまかり通っている世界だ。可笑しくはない。可笑しくはないのだが、許容するかどうかは、個人の感情だ。

 

もちろん、オリアナは許容した。それだけの経験をしてきただけのことだ。

 

だが許容しても、賛同などしないが。

 

「嫌な世界ね」

 

「あぁそうだねぇ。嫌な世界だよ。でも愛した人が生きてるんだ。嫌だからと言って捨てられるほど、まだ色褪せてない」

 

何気ない呟きに珍しく答えた本名不詳の視線は、栗色の髪を弾ませながら歩く少女に向けられる。

 

「そう。やっぱり貴女の大切な人なのね。でもどうしてそんな子が居るなら暗部になんか堕としたの? お姉さんの個人的見解だけど、貴女ほどの権力者ならそれくらい回避できたはずよ?」

 

物言わぬ本名不詳の背中にオリアナが尋ねた瞬間、彼女は動きを止めた。

 

いきなり陸に上げられた魚のように呼吸を忘れて、戸惑いや後悔の念が中途半端に開いた口から浅い呼吸と共に漏れ出る。

 

間違いなくオリアナは本名不詳にとって最大の地雷を踏み抜いた。

 

顔色を悪くする本名不詳の横顔に、オリアナが血相を変えて駆け寄る。

 

「ご、御免なさい! その」

 

「いや、いいんだ。君が言うように当時権力でもあれば良かったんだけどね。……覗き見しないといけない理由がこれさ」

 

背中を摩るオリアナに本名不詳は苦く微笑む。

 

「あっちの世界の住人になるんだらか、もう覗くくらいしか出来ない。でも、その代り――――」

 

一度麦野から視線を外し、本名不詳はとある女を見た。

 

白衣を着ていないが、どことなく研究員であることを感じさせる雰囲気を持つ女は、先ほどまで麦野と談話していた人物だった。

 

癖のある茶色の髪を靡かせ人混みに紛れる姿を本名不詳は逃さない。

 

「あの子とは、こっちの世界で会いそうだ」

 

「音楽プレイヤー?」

 

本名不詳が白衣のポケットから取り出した一つの機器。それはオリアナが問うたように音楽プレイヤー。

 

どこにも怪しいところなどないのだが、本名不詳が持っているだけで劇薬に見えるのだから不思議なものである。

 

「それじゃ、仕事に行こうか。今回は外から技術を盗もうとしている馬鹿どもの排除だ」

 

「はぁい。忙しい職場ね。昨日お仕事したばかりだって言うのに」

 

オリアナが愚痴を言いながらも単語帳を取り出したのを確認し、本名不詳は空間移動する。

 

ビルの上には、誰も居ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

明日、親船最中と交渉に向けて麦野はクローゼットに仕舞ってあった一着のリクルートスーツを上条の家に持って来ていた。上質な手触りにまだ一、二回しか着たことがないのか新品同様である。

 

それがベッドに置かれているのだから上条はどう反応していいのか分からない。

 

「なぁ沈利、このスーツって」

 

「明日統括理事会メンバーの一人に挨拶しに行くから、正装を持って来たの。上条にも話しといた方が良いかなって。もしかしたら明日夜とか来れないだろうし」

 

「統括理事会って、よく会えるな。やっぱり本名不詳が手を回してるのか?」

 

学園都市の権力者達に個人で対話を望めるとした同等の位置に居る人物くらいであり、上条当麻の知り合いの中でその位置に居るのは本名不詳だた一人。

 

麦野も頷いてそれを肯定する。

 

上条は、その答えに何処か無力感や焦燥感を覚えた。本当だったら自分だって麦野の暗部脱退を手伝ってやりたいし、何か特別な事をしてやりたい。人間とはそんなものだ。誰かの特別になる為に、行動を起こしたがる。

 

でも上条では何もできない。権力もない。世界を知らない。変に動けば飲み込まれるだけ。

 

気が付けば、黒いスーツに皺が出来るくらい強く握りしめていた。

 

それはガラスに歪な罅が入ったようでもあり、幻想しか破壊できない自身の現実への弱さを示唆しているようにも見える。どんなに楯突いても出来る事など現実の極一部に小さな波紋を残すだけ。

 

例えばこうして項垂れて服を皺だらけにする程度。情けなくて、目頭が熱い。

 

「ねぇ当麻……」

 

服の皺を取ろうとしていた上条の背中を包み込んで麦野がすり寄ってきた。

 

そして優しく耳元で囁く。

 

「大好きな人だから、特別な事をしてあげなくちゃって思うの私も理解できるわ。なにも出来ない事に貴方は罪悪感を覚える必要もない。だってこれは私が幕を下ろさなきゃいけない事だから。だからね、当麻にはたまにこうして背中を貸してほしいの」

 

「そんなの誰にだって出来るじゃないか」

 

「その誰にだって出来る事をして欲しい。誰にも出来るけど、当麻にして欲しい。特別なことで癒されたり嬉しくなったりするのは、当たり前ね。でも、誰にでも出来る事で嬉しくさせたり笑わせたりするのって結構大変なのよ? 誰にも出来て誰にでも出来ない」

 

その言葉で上条の中にあった何かが軽くなった。

 

今まで隠してきたが押しつぶされそうな無力感から漸く解放された。何かをしなければ、しなくてはならない。脅迫概念に囚われて今まで気が付かなかった誰にでも出来る行動の意味。

 

麦野だって特別何かをした覚えはない。

 

ただ背中を貸してほしいと言っただけだ。なのに上条が抱え込んでいた悩みの種を消し去った。

 

なるほど、確かに誰にでも出来て誰にでも出来ない。

 

他の誰かが同じような事を言ったとして同じ結果が得られたとは上条は思わない。行動は誰にでも出来て、結果が大きく違う。

 

なら上条に出来るのは、麦野の言った通り彼女にたまに背中を貸してやる事だ。きっとさっきまでの上条ならそんな事しか出来ないと自分を惨めに思っただろうが、今の上条が肩に添えられた手を優しく握り麦野に背中を貸せる自分を誇りに思える。

 

だから上条は、こう言えた。

 

「明日、頑張って来いよ! 今度は俺の料理食わせてやるから」

 

「それじゃ、本気で頑張らないとね。出来れば鮭料理を希望する」

 

苦笑する上条としてやったりとニンマリ笑う麦野。その中に齟齬も無ければ憂いもない。ただたら穏やかな空間だった。

 

こうして上条と麦野の一日は終わっていく。明日に希望を残して。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いつもと変わらない朝。上る太陽。特にうるさい訳でもない小鳥の囀り。

 

自分の運命を左右する話し合いをする日だと言うのに、世界は憎らしいほど平穏で平常で、どれだけ世界が広いかを嫌と言う程実感してしまった。

 

上条当麻が絶対に一緒に寝ないと風呂場に立て籠もり、麦野は渋々ベッドで寝る。上条の住んでいる部屋に来てから毎度の如く繰り返されるこのシステム。女として認識してくれるのは嬉しい反面、そろそろ手を出してもいいのでは、とモヤモヤしてしまう。これが身勝手な事だとは理解しても改める気を起こさないのが麦野沈利である。

 

こんな風に上条の異常とも言える同室で寝る事への拒否行動に朝一番でため息が出るのも麦野の日常。本当に世界は広く人は小さいらしい。

 

こんな些細なことまで変わらないのだから、何気に緊張していた自分が馬鹿らしく思えた。

 

ベッドから起き、冷蔵庫を開けて朝食に使えそうな材料を適当に出す。

 

作り置きの卵サラダと食パン、そしてヨーグルトがあった。特に手を加える事もないメニューなので、麦野は先に身支度を整える事にした。

 

髪を梳き、黒いヘアゴムで下の位置で髪を結う。

 

冷たい水で顔を洗い、タオルで叩くようにして水分を拭き取る。

 

まだ高校生だという事で本名不詳から化粧はむしろしない方が好印象だと言われているので、麦野本人としては少々不本意ながらナチュラルメイクもしないで親船のいる屋敷に行く。

 

ハンガーに掛けてあるスーツとワイシャツを手に取りる。

 

風呂場からはなんの物音もしない所を見ると、上条はまだ夢の世界らしい。

 

時間がないので麦野はスーツに袖を通し、ヒールのある靴を履いて外に出る。

 

日曜の早朝。廊下の壁に背を付け、本名不詳も黒いスーツ姿で待っていた。二人はなにを言う訳でもなく、視線を合わせるとエレベーターに乗り、そこで本名不詳が話題を切り出した。

 

「気が早いと怒られそうだけど、本名不詳の立場として君に話しかけらる機会もそう無いだろうし、今言っておく。おめでとう」

 

「本当に気が早いわね。アンタなら立場を気にせず好きにコンタクト取ってくると思ったけど」

 

殊勝な本名不詳の態度に麦野も訝しがる。特に皮肉を吐くわけでも狡猾な雰囲気でもなくただ、感情を滲ませないよう努力しながら淡々と言うからだ。

 

本心で暗部脱退を祝っているのは、行動から伝わるが今日の本名不詳はどこか別人に思えた。どこかに置いて来てしまった人の伝言をただ言っているようにも聞こえて、麦野には不気味でもあった。

 

「私とて分別はある。君が堂々と表を歩くとき、私は暗部最高責任者として再度暗部のパワーバランス調整の為に暗部入りするのだからね。極力素性を隠すが、情報はどこからでも漏れる。それに私の能力だと仕事が嫌になるくらい幅広い。恨みを沢山買う人間と親しく挨拶なんてしたくもないだろう?」

 

エレベーターが一階に到着し、麦野が先に出る。本名不詳もそれに続き、外の駐車場に止めていた車に乗り込む。外国のスポーツカーらしく空気抵抗を減らす車体の低いフォルムだった。

 

シートベルトをしたのを確認して、本名不詳はエンジンを掛ける。乗用車では聞く事の出来ない重厚なエンジン音に、麦野はふと、木山が乗っていたランボルギーニを思い出す。

 

「この車って趣味なの? どう考えても暗部で使う物でもなさそうだし」

 

「趣味と言えば趣味だね。木原神無という女のだが。私も気に入っているけど」

 

ギアチャンジをそつなく熟しながら本名不詳は、学園都市の道路を駆け抜ける。

 

「木原、神無? 知り合いなの?」

 

「木原神無に食いつくねぇ。そういえば、上条君と『アイテム』の中で知らないのは麦野さんくらいか」

 

自分だけ知らない人を、他の皆は知っている。いわば蚊帳の外状態であった事に麦野は小さな不満を覚え、本名不詳に更に問い詰めた。

 

本名不詳も、何を考えているか分からないが、その質問に淀みなく答える。

 

「木原ってあの木原なの?」

 

「あぁ、学園都市最悪の科学者一族。私はそれの分家さ。祖は同じだがもう殆ど他人に近いくらい繋がりが薄かったが、まぁ引き取られた」

 

「ならアンタも木原だったの!? その割には、人間味溢れてるわね?」

 

麦野の知る木原という存在は総じて狂っていた。

 

科学と言う技術に愛され、祝福され、能力者をモルモットとして見ている一族。そこに情は無く新発見への邁進と犠牲も厭わない実験で満たされ、それが未来の礎となり、曲がりなりにも科学進歩の役に立つ迷惑極まりない連中でもある。

 

単に毒だと決めつけられれば、滅ぼせることも出来ただろうが、ときに奴らは薬になるのだ。

 

木原一族にどこか共通した壊れた雰囲気が本名不詳からはあまり感じられない。

 

情に溢れている訳ではないが、能力者に対して異常に無関心と言う訳でもないのが本名不詳だ。科学者としての本能に身を委ねている事もあるが、被害は最小限に留めようとしてるようにも麦野には感じられる。

 

その事に本名不詳は自嘲する。

 

「木原神無は私の事だ。正確に言えば、彼女の脳が死んで記憶障害が起き、性格がリセットされ中途半端に残った記憶を頼り私はこうして曲がりなりにも人格を得て本名不詳として生きているんだよ。だからどこか木原らしくないのは、そこが関係しているんじゃないかな? 性格が安定していなかったときは、木原らしかったけどね」

 

木原でない事に特別何かを感じている訳でもないようだ。

 

ただ、中途半端に出来上がった自分が、嫌で嫌で仕方ないのだろう。

 

「君は、木原神無に興味あるかい?」

 

「無いと言えば嘘になる」

 

麦野の素直な言葉に、本名不詳は答える。

 

「そうか、なら教えて上がる。木原神無、彼女は、親に売られた子だ。科学者の親が作った借金を木原幻生が肩代わりする条件に木原に引き取られた。幻生は人を見る目もそれなりにある人間だった。故に彼は見抜いた。まだ幼い神無に宿る才能って奴を。子供の彼女を木原として育て上げたら、どれだけ素晴らしい科学者として大成するだろうか。その為には、倫理など教える必要もない」

 

朗々としか語らない本名不詳に麦野は、恐怖を覚えた。

 

子供が親に売られた事実。

 

それを、彼女はまるで他人事のように話す。本当なら恨みつらみがあってもおかしく無い筈なのに本名不詳はなにも感じていないようだ。

 

「そして彼女の幼少から始まった教育は、一般常識の領域を超えたモノだった。命など無い。目の前の人型のモルモットなど替わりはいる。科学の進歩には犠牲は付き物なのだよ。これが彼女の口癖だった。それは、高校時代まで続く事になった。かなり長い時間、彼女には人の存在が希薄だった。同じ科学者は自分には特別である事を求めてきた。だが成長する考える力が木原神無に欲を与えた。一人の人として見てほしいという、小さな欲さ」

 

人らしい欲なのだが、木原という存在がそんな願いを秘めていると思うと奇妙な感覚でもあった。

 

「もし、あの少女と出会わなかったら、一生願いが芽吹くことなく余生を木原として不自由なく過ごしただろう。それも幻生が望んだ最悪の木原として、ね。まだ聞きたい? 木原神無として生きていた時の事を?」

 

「もうちょっと聞きたいわね。木山春生とアンタは、関係あるんでしょう?」

 

「まぁね。彼女が科学者として大成する前に、一緒に研究をした間柄だよ。それ以上にプライベートな関係になるくらい良好なものだったさ。後で大崩壊したけど。それ以来特に音沙汰なしの理由は、言うまでもないよね?」

 

一番気になっていた木山との関係性を聞いて麦野は、社会の闇の中で生まれたような存在である本名不詳とそこまで強い関係性がある訳でもない事に、安堵した。

 

木山はどこか抜けている人だが、麦野は彼女の存在を意外と気に入っていた。説明できないが、木山のもたらしてくれた言葉や、時に黙って背中を押してくれるあり方がどこか懐かしく感じてしまうのだ。小さい時の掛け替えのない思い出に近い何かを無意識に愛する心が働いていたとしても、麦野が木山を想うのは本心だ。

 

そんな彼女が、無暗に社会の闇に飲まれる可能性が減ったことは喜ばしい。

 

「音沙汰ない間に、アンタが生まれた訳ね? ……どうして木原神無は死んだの?」

 

「能力を暴走させたのさ。この能力の本当の名前は〈能力回路(コンダクター)〉と言う。AIM拡散力場を利用して能力者同士の間にネットワークを作る程度の能力だ。分散型ネットワークを想像してくれ。特性もそっくりだ。他のコンピュータの機能を利用したり、他のやつと交信できたり共有したり。この能力は超巨大なネットワークシステムそのものでありそれの形成する核でもある。それを暴走させて、負荷を一点に受け神無の脳は死んだ。そして無理やり覚醒させた結果、人として欠損した私が生まれたのさ」

 

完成された人から生まれた不完全な精神。

 

アンバランスなそのあり方を一体、本名不詳本人はどれほど恨み憎み憤ったのだろうか。しかも生まれた原因が人の醜い欲望である事も事実であろう。

 

自分の出生を語る本名不詳の横顔が歪んだのを麦野は見逃してはいない。敢えてそこに触れなかったのも、彼女が見せた泣き出しそうな表情のためだ。

 

産まれた瞬間から暗部よりも過酷な世界で、よく性格の歪みがこの程度だったと麦野は感心する。

 

本名不詳も時に人の死など気にも留めないが、彼女はまだ狂ってしまっていない気がした。ちょっとした人らしい彼女の仕草、表情、声。それほど長く一緒にいる訳でもないのに本名不詳の子供の様な人間らしさが目につく。

 

だが、それでも普通の人とは言えないが。

 

「生まれたこと、怨んでる?」

 

「いいや。もう、そこまで怨んでないよ。やりたいことが出来たんだ。そのためにも恨み辛みで生きている暇がない」

 

生き生きとまで言わないが、これまで能面のような表情で語っていた本名不詳の顔に柔らかなものが浮かぶ。小さな微笑みだが、それは彼女が未来に一筋の希望を抱いていることを示唆していた。

 

またなんとも人間らしい事だと麦野は、心の隅で呟く。

 

「で、親船の屋敷とはちょっと違う方角なんだけど、わざとよね?」

 

「いやぁ、人気者でね私。それでやっぱりつけられている様なんだよ。だから一旦その辺の研究所に入る。そこからダミーを出して撒く。木原関連だと思うんだけど、面白くない連中とデートなんてお断りじゃない?」

 

「はぁ、アンタって本当に疫病神ね。木原の奴はどうしてアンタを追ってんの?」

 

さり気なくバックミラーを確認しながら麦野が呟く。

 

追跡者たつは、自身の暗部脱退に反対する連中の物だと思っていたが狙いは隣で運転している奴が狙いらしい。麦野は最近の面倒事の多さにため息が出る。

 

どうしてこうも忙しいのだろうか、という言葉を飲み込んで麦野は最後になる本名不詳との語らいに幕を閉じる。

 

「言い忘れてたけど、『ありがとう』。アンタがいてくれて本当に助かったわ」

 

「……ッ!? 君から、そんな言葉が聞けるなんてね。今なら死んでもいいかも」

 

「死ぬのは勝手だけど、私を巻き込むな。一人で死ね」

 

割と本気で言っている本名不詳に麦野も身の危険を感じだ。

 

このまま何処かに突撃するのでは、と気が気でなかったが、本名不詳は半泣きのまま小さな研究所の中にある地下駐車場に無事車を停める。その駐車場は上の研究所と比べると規模が大きく不釣合いであった。その造りの不自然さに麦野はどこかきな臭い物を感じる。

 

恐らくは、暗部かなにか後ろ暗いモノ関連の施設だと推測する。上辺だけ研究所で本質は裏社会の入り口と行った所か。

 

そこに気の抜けた男の声が本名不詳を呼んだ。

 

「最初の仕事がドライブってふざけてんのか? しかもこんな早い時間に」

 

「いいじゃないか。オリアナさんを一日貸してあげるんだから寧ろ感謝してほしいね。いろいろ観光でもさせてあげて。あと、この任務が終わったら、この外車上げるよ、はい鍵」

 

「……まぁ報酬もあるみたいだし、いいか」

 

車に興味があるのか男、〈絶対等速(イコールスピード)〉は二言目には了承の意を示した。

 

スポーツカーのフォルムを見て楽しそうに笑う姿に、麦野は共感できない趣味だと感じた。時に他者と言う存在は自分の理解の範疇を超えるものであると、そう改めて認識する。

 

そして麦野の視界の端では、絶対等速にオリアナが抱き付きながら何かを囁き、それに絶対等速は顔どころか耳まで真っ赤にしてしどろもどろに何かを言っていた。

 

さっそくあの男はオリアナの毒牙にかかったらしい。

 

「童貞にオリアナさんを任せちゃいけなかったかな?」

 

「あの女の場合、食われるより食う方でしょう? 心配すべきはあの冴えない腑抜け面ね」

 

ちょっと離れた所で起きている一悶着に本名不詳は心配そうな顔をしている。麦野もそれなりに心配だが、二人の心配する方向は大きく違っていた。

 

本名不詳は、オリアナが焚き付けすぎて後戻りできない所まで、その場のテンションで行ってしまうのでは、と思っている。麦野はむしろその反対で、オリアナが煽るほど男が委縮して手を出さないと踏んでいる。それどころかオリアナがその場のノリで食べそうだと思っている。

 

本名不詳と麦野の心配を余所にオリアナと絶対等速は車で地下駐車場を後にする。その後に続いて三台、車種の違う車が外に出る。それからちょっと時間を置いて、本名不詳と麦野を乗せた車が外に出る。

 

今度こそ親船邸を目指して。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「少々早く着いたかな? まぁ遅れるよりはいいか」

 

親船邸の門を潜りながら本名不詳が呟く。

 

些細な時間だが、交渉ばかりをしてきた本名不詳にしてみれば時間ピッタリと言うのはかなりアドバンテージがある。予定時間より早くしてしまうと、焦っていると侮られ、逆に遅れると怯えていると思われる。

 

親船に限ってそんなことは無いが、つい職業病が出てきてしまった。

 

小さな事で拘泥する本名不詳の隣で麦野は、大きく息を吐いた。この車を出れば、始まるのはこの街の統括の一部を握る存在との交渉。緊張がぶり返す。

 

それでも昨晩、上条の背中で感じた温かさを思いだし、立ち上がる。あの背中に、なんの臆面もなく抱き付く立場に居たい。我儘な願いで、誰かに罵られても仕方のないものだが、焦がれてしまったのだ。

 

あの世界に。

 

だから麦野は立ち上がれた。

 

その背中を本名不詳も微笑みながら見つめる。これから始まる交渉の事を思いながら親船の邸宅の中に入る。

 

そこは、華は無いが品の漂う空間だった。必要以上に飾らず、寧ろありのままの美しさを押し出したものだった。この屋敷の主人のあり方をそのまま映した様だ。

 

どこか落ち着く空間に、麦野は早鐘の鼓動をどうにかおさめる事が出来た。

 

案内されるまま、部屋に入る。

 

そこには既に親船が柔和な笑みで待っていた。まるでこの時間に来ることが分かっていたかのような登場に本名不詳の苦笑せざるを終えない。

 

「よくお越しくださいました。さぁ座って下さい。そちらが、件のお嬢さんですね?」

 

「はい、早朝からお時間有り難う御座います。失礼します」

 

麦野は促され大人しくソファに腰を沈める。そして同時に交渉の席に付いたことを意味する行為。この戦いが終わるまで、誰一人として、立ち上がる事は許されない。

 

もし、その例外が居るのだとしたら、それは――――

 

「では、シークレットチーフしてお願いします。親船さん」

 

この規格外を人間にしたような本名不詳ただ一人だ。


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