とある奇跡の平行世界   作:雨宮茂

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深淵を覘く者よ覚悟せよ

この日、本名不詳は自分はまだまともな部類に区分されるのでは?と真剣に考えるようになった。本名が不詳なのと外見年齢の格差。比べるのもおかしいが、なんとなく考えてしまう。

 

「本当に成人だったんだ。…………若返りの実験か? いやこの場合は、不老の研究の成功? まてよ、意図的に成長スピードを遅くして、でもそれじゃ」

 

「あの、なにをブツブツ言ってるんですか? 誤解が解けたところで、上条ちゃんを一週間近く誘拐した経緯を教えて欲しいのです」

 

「ん。あぁ、すいません。つい思考に耽ってしまい。では、上条くんの欠席は実質数に含まれないかと。なんせここは学園都市、“能力開発に貢献”してくれたんですから。在学中には得られない功績になりますよ」

 

清々しく言い放った言葉に小萌は首を傾げ、上条は表情を変えないまま呼吸を止めた。

 

どうやら、この女は最初から最後まで嘘で固める気でいるらしい。

 

全てを嘘で塗り固めることは、これ以上小萌を危険に巻き込まないことに繋がる。しかし、何人にも聞いた『日に日にやつれていった』ことを聞いて上条は揺らいでいた。

 

そこまで心配させ、心許ない嘘の噂を真に受け心労を煩わせてきたというのに。自分がすることは、それを仇で返すことだけ。

 

板ばさみに苦しむ上条の視線の先にいた本名不詳、ここでは“木原さん”が、彼の視線とその内側に気づいたように、珍しくリップグロス塗った赤い唇を弧月に歪めた。嘘をつくという行為、そこになんの感情も感じてはいないのだろう。

 

その口から淀みなく、嘘が流れ出す。

 

「えぇ、彼はこの学園都市に七名しか居ないLEVEL5の能力向上に大変貢献して下さいました」

 

「えっ!?」

 

「ちょっ、おま!」

 

小萌は驚きすぎて仰け反り、上条はまさか秘匿事項に近い所まで掘り下げられたことに、慌てて腰を浮かした。お互い違う意味で顔を焦りに変えて、頭の中で一生懸命情報を整理しようとしていたが、木原が宥めるように声をかけた。

 

「驚かれるのには無理ないでしょう。LEVEL5の能力向上と言えば、絶対能力者(LEVEL6)を想像するかもしれませんが、まだそこまで至っていません。ですが、そこまでの道標だと私達は考えております。これは大変デリケートなことでして、あまり詮索をしないでくれたら幸いです。もし、情報が漏れ出し変な噂で表を出歩けなくなりますからね。私ではなく、上条くんとその子が」

 

さらに混乱の極みに立たされた小萌は、一生懸命呼吸を落ち着かせていた。そして、動悸も異常な呼吸も落ち着かせると、不安そうな瞳で見上げる。

 

「その研究で、上条ちゃんは怪我してませんよね? 本人は大丈夫だって言ってますけど、上条ちゃんは直ぐに無理をしてしまうんです」

 

「ご覧の通り、怪我はしていませんよ。能力の向上には色々種類とやり方がありますからね。今回は“自分だけの現実”を刺激する方法だったので、肉体的な怪我はありえません」

 

「そ、そうですか。木原さんがそう言うなら。今回の重大性は理解しました。少々入り組んだ事になってるみたいですが、規則は守って下さい。大事な親御さんから預かってる大切な生徒さんですから」

 

その言葉に上条の我慢の限界に達していた。

 

こんなに思っているのに、自分に出来ることは、その応酬はなんだ。安全圏に逃がしているがこれは人としてやってはいけない分類だ。守る為に嘘をつく。自身を犠牲にしているつもりだったが、犠牲になったのは小萌の心だ。

 

今にも違うと否定して、自分が見聞きしてきたことを洗いざらいぶちまけたい。しかしそれをすれば、本名不詳という人間は上条ではなく、小萌を陥れるためにどんな権限、情報操作能力を使って厳罰を与えかねない。例えば、研究中のLEVEL5がLEVEL6になるかもしれないと聞いて、情報を不正入手とか。

 

自分ではない人が傷つく事を極端に嫌う傾向がある上条が、変な気を起こさないように親しい人物を潰す。

 

彼女にはあっさりできるのだ。どれだけの人が小萌を庇っても、もみ消され磨り潰される。

 

この間、本名不詳と上条が道の真ん中で決闘した時、その後の能力者の喧嘩と報道された。真実が全く違う嘘に塗りつぶされ、誰もその報道を信じて疑わなかった。滝壺に聞いたが、暗部では当たり前なんだと。恐らくもっと深い闇に鎮座する彼女に、その程度の上塗り作業など目を閉じてもできる。

 

「そうですね。そこを失念していました」

 

特に動くことのない上条を見て、木原はにこやかに笑う。

 

「学校の皆様に多大なご迷惑をおかけいたしました。あと学園都市を混乱させては、世界に悪影響を及ぼしかねません。実は今回のプロジェクト、統括理事会の方々にも内密なのです。全ては統括理事長の命令の上で行われています。そこをご理解ください」

 

「納得するには強引かもしれませんが、分かりました。でもLEVEL6の誕生かも知れないのですよ? なぜそこまで秘匿にするんですか?」

 

小萌の問いに、木原は心を痛みを押し殺すような表情をした。

 

「簡単に言うなら、脅威から守るためですかね。未知の次元のことですし、LEVEL5同士の争いを回避する目的が強いです」

 

「LEVEL5同士の争い? そんな事が起こるんですか!?」

 

「可能性はとても高いです。最高位の能力者になるのが目的ならば彼らはもう、目的を果たしています。ですがそこに新たな位が設けられたとして、LEVEL5の者が黙っているはずも無い。順位はあれどLEVEL5というランクで皆が止まっているから誰も争いを起こさないのです。軍隊を相手にしても勝てる連中が本気で戦ったら学園都市はさら地になるでしょうね」

 

恐ろしいことをあっさりと口にする木原に小萌の表情が青白く変化する。

 

「で、でも学園都市がそんな事させる筈がないですよ」

 

「残念ですがLEVEL5達が争いを起こさないのは、統括理事会や理事長が抑止力となっている訳ではありません。彼ら彼女らの絶妙なパワーバランスのお陰なのです。恥ずかしい話ですが、パワーバランスが崩れてしまったら学園都市は終ります」

 

神妙でありながら木原は内容を淡々と語る。小萌や上条の中で生物兵器という単語がLEVEL5と直結して二人は慌ててその思想を放棄した。

 

「なにか打開策ないのですか? だってそんなLEVEL5の子達が可哀想です」

 

「あるわけ無いじゃないですか。打開策も解決も出来ないなら秘匿黙殺が限度でしょう。あ、そうそう、この話は忘れえてもらいましょうかねぇ」

 

高い音を奏で、指が鳴らされた。

 

その音を媒介に小萌の脳に記憶されたデータを改竄する。一時的な負担に脳が耐えられず、小萌が机に倒れこむ。

 

意識を失った恩師に上条が激昂した。

 

「お前!! 小萌先生になにしたんだ! 黙って指示にでも従おうって思ってたら」

 

「あっは! んなこと聞くの? これだけ話しといてなにもしない訳ないでしょう? そして、これは君に向けた警告だ。これが私達のやり方で、これが私達の世界だ。喋るなよ? その次の日には学校がないと思え。君一人残して、消え去ると仮定しろ。友人は大切なんでしょ。ねぇ上条くん?」

 

獲物を見つけた捕食者のように、獰猛な笑みで語る。その視線はねっとりと上条に絡みつく。慎重に狙いを定める蛇の姿が、本名不詳に被って見えた。

 

「汚ねえぞ! 俺の口止めが狙いなら、どうして俺を狙わない!!」

 

「おいおい、そいつにとって一番効果的な手段を取るのがベストだろ。自分自身になりふり構わない馬鹿本人より近しい人が好ましいのは、火を見るより明らかだ。君次第で、麦野さんの処遇が決まる。精々大人しくしていろ」

 

「ぶっ壊してやる、このふざけた世界を、学園都市の闇も! 人を傷つけて平然としている奴が人を導けるもんか! お前らは間違ってる」

 

椅子を蹴倒して立ち上がった上条の右手は、硬く拳を作っていた。

 

「右手一本で、倒せるほど社会は弱くない。幻想しか壊すことができず、現実を壊すことのできないその手が、一体どこまでやってくれるのか期待してるよ? 頑張って世界を変えるんだねぇ。あと、私の存在が間違いなのは明白にして確固たる真実だ。でも切り捨てる度胸がない人間にも、大衆を導くだなんてできやしないけどね」

 

肩を竦めて皮肉を返すと、上条とは違い優雅に立ち上がった。精神的にも立場的にも、圧倒的な余裕と優位を保つ彼女の身体で表した嫌味に上条は血管が破裂するような激しい怒りを覚えた。

 

右手から血がでるんじゃないかと疑うくらい、握り締める。

 

静かな教室に真っ赤な日差しが割り込む。それは上条を赤々と照らし、日の光が壁に遮られた本名不詳の立っている場所は黒い色を落とし、彼女の上半身だけを赤く色づけた。

 

足元の境界線が彼らを引き裂く。

 

「君が怒ってるのは、力も権力もない自分に対してでしょう? 私に当たるより早く手立てでも考えるなりしなさい。ここはそんなに優しくはないんだよ。それで守りきれるもんか」

 

データチップを小萌に握らせて、本名不詳は去っていく。もとより出てきてはいけない人物が学校と言う目撃回数が多い所に出てくるのがおかしいと気づくべきだったのかもしれない。

 

しかし、上条の耳には本名不詳が残した捨て台詞が嫌に残る。

 

それでは守りきれない。

 

では、彼女は何を守るために、どんなことをしてきたのだろうか。

 

なにを犠牲に、誰を守ってきたのだろうか。

 

「お前は、一体なにをどうしたいんだよ」

 

誰かを守る。

 

その為に他人を傷つける。傷つける理由にされたその人は本当に本名不詳にとって大事な人になるだろうか?間接的に血を塗りつけているのを、彼女は理解していないのかもしれない。もしくは、

 

「全部背負って、全部泥を被って、誰にも理解されないままアイツは血を流してるのか?」

 

裏側の世界の全てを背負い込むために、今まで生きているような気がした。

 

彼女の覚悟がこっちなら、上条でもここまで割り切り背負う覚悟はないかもしれない。

 

「でも、それじゃ救われねえよ。お前が笑ってないでどうする。本当は誰も傷つけたくないくせに」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夕闇。

 

太陽が殆ど見えなくなった頃、この瞬間は訪れる。

 

夜の空と夕焼けの空が唯一交わる時間は、とても短くて切ない。故に美しいと思う。

 

燃える空の反対側は凍える空。対照的な存在が隣り合うことができる曖昧な空の下、本名不詳は街を歩いていた。特に行く当てもない。しかし素直に家にも研究所にもアジトにも向かう気にはなれない。

 

今回の仕事である『上条当麻に杭を打つ』事には成功した。諸刃の剣でもある対処法だが、一番効果的なのも人質だ。さらに彼の中で打倒、学園都市が掲げられたことだろう。

 

簡単に行動が起こせないのを見越している本名不詳は、気にも留めていないが。

 

釘ではなく、杭を打ったのだ。そう簡単に動ける筈がない。人質という杭を打ち、行動の制約という十字架に貼り付けた。もちろんこれで彼が止まればいいが、あれはそれほど賢くない。思いもよらない反逆劇に転じる。

 

だが、神の子を殺したのは一本の槍とされている。上条当麻という存在にとって麦野沈利は、神を射殺したロンギヌスよりも、必ず標的を射抜き持ち主の手に帰ってくるグングニルよりも、雷撃を宿し持ち主に必勝必殺を約束したブリューナクよりも、莫大な破壊力を伴った一撃必殺の槍と化す。

 

恐らく、彼が反旗を翻せば真っ先に彼女がかり出されるだろう。

 

そして自分はそのサポート役として戦場を駆ける。神殺しの武器を振るう人間と言うわけだ。

 

その先の未来は想像したくはない。

 

一度思考を打ち切り、夜が直ぐそこまで迫る街を歩く。

 

行き交う人の間をすり抜けながら、ぼんやりと今後の事を考えていた。

 

とりあえず、明日辺りに親船に面会の申し込みでもしに行って、仕事をする。その後で、脱退の作戦を練ったりと大忙しだ。

 

「疲れたな……、永久の休みが欲しい」

 

過労死寸前のような気がする。肉体的ではなく精神的に辛い。

 

なぜ精神的な苦痛を感じているのか、本名不詳には分からなかった。ただ、内側から刺されてようにズキズキした。

 

感情の処理の仕方を知らない本名不詳は、舌打ちすると押し殺すことを選択した。無かったように振舞う、目を逸らす。自分は生まれた時から基本的なものとして、喜怒哀楽しか感情がなかったというのに、知らない間に身に付いてしまった。

 

嫉妬や憧れ、焦燥に愉悦。その他諸々。

 

プログラムから外れた感情は自分で処理法を見つけてきたが、ここまで形容できない醜悪なものは初めてだ。全てをぶち壊したいこの苛立ち。でも単なる怒りで片付けられない。

 

考えることを放棄して、夜空を仰ぐとポケットの中にあった携帯が振動した。

 

一定の間隔を置いて震える携帯を開くと、出てきた名前は無かった。コール画面があるだけで電話番号さえない。一体誰の電話か理解した瞬間、本名不詳の頭の中でスイッチが切り替わった。

 

電話に応じると同時に裏路地に入る。

 

「仕事は終わった。どうせ見てたんだろ?」

 

「あぁ、しかし諸刃の処置だな。後先考えないで〈幻想殺し(イマジンブレイカー)〉が特攻をしかけてきたらどうする?」

 

「拳銃でお出迎えしてやるよ。それに簡単には動けんだろ。あんな甘ちゃんに遅れを取るほど私は老いていないと思ってるしねぇ。用件は?」

 

電話の向こうで含み笑いが聞こえた。

 

「随分荒れているみたいだな?」

 

「余計なお世話だ。これも貴方の目的だとしたら、それを受け入れるしかない。本名不詳が辿る末路はもう決まっているんだ。木原神無の復活の生贄、記憶の相続と継承のための器になること」

 

その未来になんの疑問も不満も無い彼女に、人間としか表現できない者は問うた。

 

「未練もないのか。どうしたらそこまで自我の死を受け入れられる?」

 

「簡単だ。皆が木原神無を求めるからさ。木山春生にしても、木原の一族にしても、事情を知る数少ない人、そして麦野さんも私じゃなくて木原神無に会いたいと願っている。生まれたことに意味はない。でも生きて行く事には意味がある。私の生きて行く意味は、死人の復活の為の生贄さ。それだけでいいんだ」

 

昔からそう思って、信じて生きてきた。

 

―――いずれお前は木原神無になるのだよ。故に、名は不要だ。確固たる自我を創りかねん。人形として生きなさい。この学園都市ために。

 

本名不詳として目覚めた時、初めて聞いた言葉はそれだった。木原幻生が、感情の乏しい彼女に最初に教えた事だった。学園都市のための人形として生きるなら、この人物に従えと。今でもそれだけは果たされている。どんなに嫌でも、それだけが生きる理由なのだから。

 

でも、本名不詳は木原神無に嫉妬していた。

 

感情は成長してしまった。人形として収まりきれなくなっていた。

 

誰も自分を必要としない事実が腹立たしくて、悲しかった。もし自分が彼女なら、そんな妄想に耽ったことだって少なくない。

 

「神を呼び出す生贄か。もっとも羊というよりは狂犬だろうが」

 

子供にも大人にも、男とも女とも取れる声が嘲笑う。生き様を押し付けておきながら、その狂った人形を惨めだと指差す。

 

「好きに言え。で、こっちの番だが『アイテム』の脱退の話は掴んでるよねぇ?」

 

「知っているが、だからと言って解放する気はない。どうしてもと言うなら〈原子崩し(メルトダウナー)〉にはいくらか枷を付けさせてもらおうか」

 

「人質とって本格的に0次元の極点を解析するつもり?」

 

「そうだ」

 

短く肯定した声は続く。

 

「もしかすると、神の世界。〈界〉を開けるかもしれない。いずれ全次元を引き裂いてもらうよ」

 

「それならイギリスのカーテナ使った方が早くないか?」

 

「あれは血族使用と領土制限がある未完製品だ。欠陥だらけの道具を使うほど、私は愚かではない」

 

切り捨てるように言われ、どうにも返すことが出来なくなった。実際、カーテナの案は彼女でも無理矢理だと思ったが、この人物に麦野をあまり近づけたくないので強行したまでだ。

 

簡単に看破されたからと言って諦めるように出来てはいないのが本名不詳だが。

 

「でも完成するか分からないだろ?別のを探したほうが」

 

「完成する。〈幻想殺し〉と出会ってしまったのが彼女の運の尽き。そして、木原神無ならびに本名不詳と関わりを持った彼女の運命の糸はもう断ち切れまい。そうだろう〈能力回路(コンダクター)〉」

 

「そっちより〈接続援助(リンクサポート)〉で呼んでくれないか? 厳密に言えば私の能力と木原神無の能力は異なるんだろ?」

 

「いや、さらに厳密に言えば〈接続援助〉完成版が〈能力回路〉だ。君では完全に〈能力回路〉はものにできていないがね」

 

だから〈接続援助〉なんだろうと言ってやりたかったが、諦めた。言っても意味なんてない。

 

彼もまた、木原神無を求める一人に過ぎない。

 

「ふん。できれば麦野さんを諦めてほしいんだけど?」

 

「無理だな。どうしてそこまで彼女に拘る?理解に苦しむよ」

 

「今が幸せなんだ。そっとしてやりたいと思っては駄目なのか?」

 

自分でも驚くほど、勝手に出てきた言葉に電話の向こうで納得したような声が漏れた。

 

「なるほど。木原神無の気持ちを知りたいのか」

 

ブチッとなにかが切れた音がした。

 

その後直ぐに、その音がなんなのか気づいた。無意識に電源ボタンを押して会話を強制終了させたらしい。僅かに震える手で携帯を閉じる。

 

ポケットにそれを突っ込むと余った手で前髪を荒々しくかき上げた。最近妙に情緒不安定で、自分のことなのに自分ではない気がした。行動がよく感情的になってしまう。

 

昔は損得の勘定の上で人と接してきた。いや、出来たと言う方が適切か。今では、特定の人物の安寧を望むことが多い。その感情の根源は、木原神無だった。内側に起こる、迸るようなどうしようもない激情はどこまでも他人が所有していたもの。それを感受して、動く自分は人ではなく機械だ。

 

段々と自分の本意が遠くなってきたのを本名不詳は感じていた。もう直ぐ、あの人が目覚め、自分は不要になる。それは自我の死ということだ。木原神無が死んだように、今度は自分が死ぬ。しかしそれが歪んだ命を正す唯一の道だということを、本名不詳はよく知っていた。

 

「恐くはない。でも、これでいいのかな?」

 

それだけが本名不詳の胸に引っ掛かった。未来を見据えた疑問だった。

 

彼女が目覚めることで、アレイスターの計画は大幅に進む。成功すれば全人類を地球を、果ては宇宙全体の規模で科学が覇権を握るだろう。

 

それは残酷な未来予定図。

 

ただ一方の理解と考えが蔓延した世界。

 

そこに神はいない。そこに神秘は存在しない。そこに人々の信仰は、こころの豊かさは実在できない。

 

なんと詰まらない世界だろうと思い空を見上げる。

 

学園都市の夜は明るい。それは星の光を遮り薄明るい闇を降ろす。故にこの都市の裏は、咽かえるほどの漆黒が充満する。

 

あまりにも暗すぎて明かりなど無い。

 

星の見えない夜空を眺めながら本名不詳は、数あるアジトの一つを目指して帰った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オリアナの目覚めは緩やかなものではない。

 

眠りが浅く、いつでも襲撃に備えていた。寝起きの倦怠感など、遥か昔に忘れ去っている。起きるときほど意識がはっきりしているものだ。故に彼女に安眠など訪れないと物語っている。

 

悲しい(さが)とも言えるが、生き抜くために絶対必要な力であり今まで、この力に救われたこともある。

 

「朝…。起きないと」

 

いつもより寝過ごした時間に目覚めたオリアナは、素肌を滑らかなシーツが撫でる感覚に身を委ねたい気分になった。だがそれを遮るようにノック音が響く。

 

「入るよー」

 

間延びした声が返事を待たず引き戸を勢いよく開け放った。

 

犯人は言うまでもなく、

 

「あら、起きてたよ。はいこれ着替えねぇ」

 

片手に衣服をもった本名不詳だった。

 

「ありがと。それにしても日本のランジェリーって小さいのね。お姉さんびっくりしちゃった」

 

「むしろ私は、着替えを持ってきてなかった君に驚いたけどね。せめて下着の替えくらいもって来ようよ」

 

本名不詳は不自然に顔ごと逸らし、オリアナを視界にいれないようにしていた。理由は、オリアナの格好のせいである。サイズの合う服がなかったので仕方なくワイシャツを羽織ってもらっている程度。

 

裸よりもなんだか艶かしいのは気のせいではない。同性であってもかなり目の毒だ。

 

手渡しされた服を見て、オリアナは不満そうに唇を尖らせる。

 

「布面積が大きいのはイヤよお姉さん」

 

「アホ。大体あんな格好で白昼堂々と歩いて警備員(アンチスキル)に捕まらなかったことが奇跡だったんだから我慢してよ。朝食は置いてるから」

 

「お仕事かしらん?」

 

猫のように瞳を細め訊ねる姿は、妖艶でワイシャツ一枚という格好が雰囲気に拍車をかける。

 

「個人的な使用さぁ。残念だけど楽しいことじゃないからねぇ」

 

「そう。ならまた散歩してるわ。用事ができたら呼んで頂戴」

 

「はいはい。でも本当になにもないから。鍵を預けとくねぇ」

 

本名不詳は特に急ぐ様子もなく、部屋を出る。玄関に行き革靴を履くとそのままテレポートで行ってしまう。

 

本名不詳の見る世界は様変わりした。

 

狭い玄関の風景ではなく、大通りに面した歩道の真ん中で時計を確認する。

 

ただ予約をしに行くので、時間を気にすることはないのだが本名不詳としては、とある時間帯を狙っていた。

 

上手く調節して、時間を合わせると親船の邸宅が視界の端に写る。自分が所有するものより大きいが、別に思うことはなかった。

 

等間隔に植えられた木々が細々と緑色の葉をつけていた。あまり大きくすることが出来ないために、なんども枝を切られ、不恰好で人工的なものだった。灰色の町並みといい張りぼての印象を本名不詳に与える。

 

「家畜の育成場に金は掛けても、こーゆーのは別なんだよねぇ」

 

なんとも寂しい風景である。

 

感想を垂れ流していると、目の前に豪邸が現れた。外装は言うほど豪奢ではないが気品が溢れるものだった。首を伸ばして鉄柵の間から覗いて見ると、黒服を着た厳つい顔をした男が初老の女性を守るように死角に隠しながら歩いていた。休憩時間の散歩の時間だ。

 

どうやら今始めたばかりらしい。統計から今日のこの時間に軽く散歩すると踏んでいたが、こうも当たると自分が怖く感じる。

 

「御用ですか?」

 

護衛の人間が声を掛けてきたが元から気配を感じていたので、驚くことはない。本名不詳は至って真面目な顔で一礼する。

 

「始めまして。親船最中様は居りますか?」

 

「……どちら様でしょうか? ご面会の予定でも?」

 

「いいえ、面会予定はありません」

 

訝しむ護衛役に本名不詳は笑ってみせる。

 

「そうですね。いらっしゃるのなら秘匿された首領(シークレットチーフ)が来ていると伝えてください」

 

「は? それは、どう言った意味ですか?」

 

笑顔を貼り付けたまま、本名不詳は囁いた。

 

「最後の統括理事会のメンバーが直々に面会を申し込みに来た。ということですよ」

 

相手側が息を呑み、懐に手を突っ込んで動きを止めた。彼の判断を鈍らせる材料は、目の前の女が本当に統括理事会に関わる人間という可能性を捨てきれないからだ。拳銃を引き抜き、無礼を働けば彼が仕える主に支障をきたしてしまう。

 

時間だけが無常に流れ、膠着状態に本名不詳も飽きてきた頃、別の方向から声がかかった。

 

「私になにか御用ですか?」

 

「お、親船様!?」

 

「これはこれは。始めまして親船最中さん」

 

一礼すると、親船も微笑みを浮かべながら返した。

 

「始めまして。もしかして面会の予定が入ってました?」

 

「いいえ、急の訪問を先にお詫びします。今度の総会の主催を勤めさせてもらいます秘匿された首領(シークレットチーフ)です」

 

「あら、随分お若いのねぇ。娘と同じくらいかしら? てっきり潮岸のような人を想像していたの。なんだったら中でお茶でもいかが?」

 

和やかに話し合っているはずだが、もう交渉は始まっていた。護衛は口を噤みいつでも動けるようにしている。

 

本名不詳は、表情を変えず懐から便箋を取り出すと柵越しにいる親船の前に差し出した。

 

「とても甘美なお誘いですが、今回は予約だけです。因みに影武者ではありませんので」

 

「そう、この手紙を受け取ってもいいのだけれど、名前をお教え下さる?」

 

困ったように笑う本名不詳に親船もただ微笑むだけだった。

 

この条件だけは譲れないらしい。

 

「仕方ないですね。本名不詳(コードエラー)というのが今の名前で、昔は木原神無(きはらかんな)でした。受け取って下さい」

 

「なんだか複雑な事情がありそうね? この中に日時が書いてあるのかしら?」

 

「はい。そして交渉相手が記されています。例え腹心の部下でも、その中身を見せないで下さい」

 

了承した。と頷く親船に護衛の者は渋い顔をした。

 

その部下の前で見せるなと言われ、あっさり肯定しては彼の立つ瀬がない。しかしそう簡単に感情を顔に表す辺り、まだ日が浅いようだ。

 

「それでは、さようなら。連絡がほしいなら、携帯でよろしければ番号をお教えしますよ?」

 

「では、お願い。受信でいいのかしら?」

 

親船も携帯を取り出し、本名不詳に向ける。

 

本名不詳は頷くと、データを送信した。飾り気もない着信音が響く。

 

「では、総会の前の語らいを楽しみにしていますよ」

 

「こちらも楽しみにしてます。いいことになればいいですね」

 

その瞬間、親船の目の前から本名不詳は消えた。護衛と一緒に驚いた声を上げたが、その原因は戻ってくることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おーい! 麦野携帯鳴ってるぞ」

 

「え、ありがとう。どうせフレンダか絹旗が暇だって言ってるんでしょう」

 

弁当の具を詰め終え、手を洗うと携帯を開いた。新着にはメールのマークが付いておりボックスを開くと、それが未登録のものだった。普通なら、人名が記される欄がアドレス表記になっている。こう言った場合、高確率で仕事関連だった。

 

迷わず開くと、最初の一文にこう書いてあった。

 

―――ヤッホー、本名不詳です。登録しなくていいからねぇ。つーか高校生がお泊りしてんじゃねーぞ。あ、大学生だっけ? 私が本名不詳なら君は年齢詐称?

 

思わず携帯を畳んで、麦野は大きく振りかぶって窓の外に投げ捨てようとした。

 

「おい! どうした沈利!?」

 

「離せ上条! どうしてアイツはこうも人を怒らせるのが得意なんだ!」

 

羽交い絞めにしても、麦野の動きを鈍らせるのが精一杯だった。一種の攻防は、二人の足元が縺れて絡み合うように崩れ落ちるまで続いた。

 

「まったく、どうしたんだよ急に」

 

「あぁ、うん。ムカつく奴からムカつくメールが届いただけ。朝一のメールでこれだけ気分が萎えたのは久しぶりよ」

 

携帯がミシっと悲鳴を上げたが、上条はあえて無視した。この腕力で自分が締め上げられるのを想像してしまったからだ。

 

「そ、そうだ早くメシを食おうぜ? 俺、毎朝楽しみにしてんだからさ」

 

「むぅ。まぁいいか。後で絞めて川にでも捨てればいいもんね」

 

「朝から物騒なことを100%スマイルで聞かれても困るのですが……」

 

フローリングの床に座り、味噌汁を麦野に渡す。今日のメニューは和食で鮭の塩焼きが鎮座していた。

 

むしろ、ここ最近鮭をよく口にする。嬉しそうに解す彼女の好物なのだから出てくるのは分かるが、どうにも周期が早い。

 

「どうして沈利は鮭が好きなんだ?」

 

「美味しいから」

 

「即答!? 好きなのは分かったけど、ここまで来れば執念の領域だろ?」

 

と言いつつ自分もしっかり鮭を食べる。慣れとは正直恐ろしい。もうこの鮭ループに抵抗が無くなり始めたのだから。『アイテム』メンバーがこの状況を見れば、上条を末期と判定しただろう。

 

麦野沈利による鮭症候群被害者としてリストアップされる。

 

この症候群には二種類の症状があり、麦野の過剰な鮭愛により鮭に拒絶反応を示す場合と、上条のように全てに順応し鮭の奥深さを理解する場合だ。『アイテム』は洩れなく前者である。

 

もう彼女達は鮭を食べられない身体なのだ。なにせ一生分は食べている。

 

そして、そろそろ鮭の奥深さを理解し始めた上条は鮭のパリッと香ばしい皮を頬張った。

 

「七月か、もう直ぐ夏休みだし休みになったらどっか行くか?」

 

「うーん。夏休みじゃなくても私はアンタとどっか行きたいなぁ」

 

「そ、そうか? なら今度の土日にでも買い物するか。そろそろ夏服ほしいから」

 

「なら水着も買いましょ! もちろん、選んでくれるわよね?」

 

思わず上条が味噌汁を噴き出し、予想通りのリアクションに麦野が声を上げて笑った。

 

近くにあったタオルを上条に投げ渡し、麦野は台拭きでテーブルを拭う。

 

咽て乱れた呼吸のまま、上条は首を横に高速で振った。

 

「無理無理!! そんな女性専用空間に上条さんは耐え切れませんのことよ!?」

 

「いいじゃない。社会経験と思って行きましょう。それに上条の好みの格好をしてあげられるんだから」

 

「……う…」

 

揺らいだ。麦野はその心の隙間を逃がさない。

 

「上条が着てほしいっていうのは断らないから、ね?」

 

「分かった。でも、あんまり高いと買ってやれないと思うぞ?」

 

貧乏なら右に出る者がいない彼の発言に麦野は頭を抱えた。

 

「食費は浮いたはずなのに、お金はどうやって出て行ってるの?」

 

「不幸な上条さんは、財布を落としたりしていまして本当に申し訳ない!」

 

これも予想通りだ、と麦野はため息をつく。

 

引きつった笑いしか出来ない上条は、頭を掻いた。

 

「は、はは。でも服は買いに行くんだろ? そこで挽回します」

 

「そうね。ランジェリーショップに誘拐しましょうかねぇ」

 

「水着より性質悪過ぎだろ! 怒ってますよね?」

 

男子禁制の区域に引きずり込むのだから、相当の虐めで嫌がらせだ。公開処刑と言ってもいいくらいの。

 

泣き出しそうな顔で麦野を睨むが、彼女はいい笑顔で親指を立てる。

 

「もちろん!」

 

「悪魔かこのヤロウ!」

 

「女だから正確にはアマだ。冗談はおいといて、フレンダが取り合えず前線復帰したら私は暗部の仕事再開だけど、ご飯は作りに来るから」

 

「なぁ、どうしても無理なのか? やっぱり間違ってると思う。人殺しってだけで許されないのにそれを強要するなんて」

 

ゆったりとした朝食時間は、張り詰めた糸を切ったように唐突に終わった。

 

もとから休暇扱いだったのだ。フレンダか絹旗が前線に出れる状態なら、休みは終わり。幸か不幸か冥土帰しは世界最高の名医で、フレンダ達の傷も三日やそこらで治るのだ。

 

ブランクが少ないことは麦野にとっては喜ばしいが、同時に上条にとっては好ましくない事柄だった。

 

暗部のあり方に納得できない上条に麦野は、頷いた。

 

「そうね。善意ある者の答えねそれ。でも殺しを楽しんできた私には耳が痛いわ。あんたが心配してくれるのは嬉しいけど、けじめは自分で付けるもんよ。当麻は待ってて、帰ってこれたら『おかえり』って言ってほしい」

 

「沈利、俺になにか出来ないのか?」

 

「ないわ。皆無って言っていいくらい何もない。それに、やっぱりこの問題は自分でどうにかしないと、私が当麻の隣に立つことを赦せない」

 

会話と食事が終わり、二人は無言のまま動き出した。上条は制服に着替えると歯を磨いて、今日持っていく物を確認する。麦野は茶碗などを洗うと、洗濯物を取り込む。

 

どこか安寧とした日常風景を麦野は楽しんでいた。闇に住み、血と怨嗟の声に塗れいつかは死んでいくものだと思い、受け入れていた身としては、例え仮初でもこの平穏は幸せだった。

 

この日常を教えてくれた彼は、洗濯物を干している。ベランダは日の光に照らせれて、部屋は少し薄暗く感じた。鼻歌を歌いながら作業をする後姿。その隣に居られたら、どれだけ幸せだろう。今でも信じられないくらい幸福だと思うのに、まだ足りないようだ。

 

自分の強欲に苦笑して、でもその欲求を咎める気にはなれない。

 

畳み終わった洗濯物を持って、麦野は服を仕舞っていく。

 

脱衣所にあるタオル置き場に、畳んだばかりのそれを置いて麦野は携帯を開いた。メールを開きさっき届いた本名不詳から送られたのを読み始める。

 

前置きはふざけたものだったが、内容はしっかり纏められた報告書だった。

 

内容としては、二日後に親船と交渉すること、親船の最近の状態や誰と仲が良い悪いが記され、保持している権限が幾らか書いてあった。

 

しかし、権限の少なさに麦野は違和感を覚えた。確かに一番弱い立ち位置だがこれではあまりにも、弱すぎる。もし味方に付けたとしても役に立つのだろうか。

 

「コイツの近辺を調べるのもいいかもね」

 

携帯を閉じて、麦野は暗部に居た頃の笑みを浮かべた。ここから戦争なのだと、そう自分に言い聞かせ日常に戻っていった。

 

小さなリビングには鞄を持って、今から学校へ行こうとしている上条がいた。

 

「行ってらっしゃい」

 

「おう、行ってきます。今日の晩飯はなんだ?」

 

「教えない。でも鮭じゃないから」

 

玄関先で手を振って、一時的に別れを告げる。帰ってくれば必ず麦野が居ることを疑わない上条は、扉を閉める前に麦野を見た。

 

「沈利が本気で暗部を抜け出そうとするのは、嬉しいけど、俺も頼ってくれてもいいんだからな?」

 

「本名不詳の方が役立つことにそんなにヤキモチ焼いてるの?」

 

悪戯っぽく微笑む麦野に、上条は顔を少し朱色に染めて俯いた。

 

「悪いかよ。なにも出来ないより何か出来た方が良いだろう? それもアイツに負けるなんて」

 

「ありがとう。上条はちゃんと役に立ってるから。私が帰ってくる場所をちゃんと守ってるじゃない」

 

そうか、と頷いて少し晴れた顔をして扉を閉めた。

 

そして麦野は、メールに書いてあった電話番号に電話をかけた。

 

ぷつぷつ途切れる音が、コールに変わる。二回コールが鳴ったとき、相手が出た。

 

「ハーロォ? おはようさん。なんか早速活用してくれてるみたいだけど、用事があるの?」

 

「あるから電話したんだろうが。ボケてんじゃねぇぞババア」

 

凶悪に吐き捨てる麦野に電話の向こうで本名不詳が、喚き返した。

 

「ちょっ! コイツと来たら! まだ三十手前でボケる歳じゃないってーの。はいはいはい、それでご用件どぉぞー」

 

「おーそうか。だったらその『電話の女』のノリを捨てろ。ムカムカして殺したくなるからよ」

 

しかし、本名不詳はさらにテンションを上げて返した。久々に聞く甘ったるい声とどんな相手でも飲まれない強引なやり口に、麦野の怒りのヴォルテージが跳ね上がる。

 

「なに言ってんのこいつと来たらー、まったく仕事を最近してないからって訛ったんじゃない? 老化オメデトー。仕事貰いにきたんでしょ、親船最中の娘の素甘をいつでも殺せるようにしてる奴ら叩いて、黒幕の潮岸に釘を刺す。潮岸は元から権限は強い方だから、人質を盾に親船から権力吸い取って暴走しかねない。暗部、統括理事会の暴走を抑える『アイテム』には、御誂(おあつら)え向きの仕事だと思うんだけどぉ?」

 

「………へぇ、なるほど。確かに『アイテム』の仕事としては理にかなってるわね。仕事の詳細はなんなの? 今すぐやりたくてウズウズしてんだよこっちは」

 

「ふふふ、乗ってきて乗ってきた!! まぁ潮岸嫌いだし、ぶっちゃけ消えてくれたほうが全人類のため。『アイテム』のリーダーに仕事を与えよう。きりきり働け部下ども。それじゃメールするから、投げ出したら怒ちゃうぞ」

 

勝手に向こうから電話を切り、麦野はため息をついた。久しぶりの『電話の女』のテンションに当てられて、昔の自分が侵食してくる。

 

血に飢えた獣が、理性の壁に爪を立て、削っていく。がりがり音を立て殺人欲求が忍び寄るなか、携帯が激しく振動した。内側の自分を押し止めることに必死で、高が振動に驚いてしまったのは、情けない。誰もいないと分かっていながら、赤くなった顔で辺りを見渡し、携帯を開く。

 

そこには、懐かしく感じてしまう仕事の文字があった。

 

長いため息をついて麦野は立ち上がる。仕事が終わって、自分は闇に引きずられないだろうか。またここに戻って来れるだろうか。不安ばかりが募る。本名不詳に啖呵切ってみせたものの、心配で今の自分が揺れる。

 

最悪のビジョンを切り捨て、メールの内容を最後まで確かめた。仕事の時間は真夜中。今からでも敵を調べようと、麦野はリビングに向かう。そこに置いてあったのは――――

 

「―――、お弁当?……バカ忘れて行きやがったな」

 

それを手に取り、今から追いかけようと思ったが、やめた。

 

どうせだったら、授業中とか昼休みに乱入してやった方が面白い。慌てふためく顔が目に浮かぶ。

 

「大丈夫、私はここに戻って来れる」

 

きっと大丈夫だ。こんな小さな繋がりだけで、日常の自分が思い出せるのだから。今の自分を見失わない。

 

 

またここに戻って来ることを信じて麦野は部屋を出た。

 

 

 

 

 

 

麦野が部屋を出た瞬間、隣から声を掛けられた。

 

「よう第四位。抜け出す算段は順調ですかにゃー?」

 

「あぁ、そうだな。それなりに上手く行ってるよ。アンタとっては残念だろうけど」

 

皮肉を混ぜ返す麦野に、声をかけてきた胡散臭い男―――土御門は忍び笑いを零す。

 

「そうだな。できれば失敗してくれると、助かるぜい。なんせ怨みを買いまくってる女の隣に友人を置いておくほど俺も冷たくはない」

 

「はっ。バカらしい」

 

軽く笑い麦野は一呼吸、間を置くと手に持っていた弁当を相手に突き渡した。

 

「なんだ? 餌付けか、それとも毒でも盛ってるのか?」

 

「テメェにやるんじゃねえよ。あの馬鹿が忘れたから届けろ」

 

「なるほどカミやんらしいな。なんで命令口調なんだ?」

 

一応受け取るが、どうにも上から目線が気に食わない。これが友人の弁当でなければ、今頃空高く投げてやっていただろう。

 

土御門の不満に麦野は悪びれもなく答えた。

 

「だって、アンタが嫌いだから。上条の友達じゃなかったら殺してやってるよ」

 

「それはこっちの台詞だ。カミやんも女を見る目がないにゃー。俺はアンタが殺してやりたいくらい嫌いだ」

 

内情を隠すことも無く、お互い冷笑を湛える。これっぽちも相手に好感を持てない者同士、本気の殺意をぶつけ合う。

 

どこにも歩み寄るという選択肢がない。

 

密かに土御門は懐にある拳銃を確かめ、麦野は狙いを定めていた。

 

濃厚な敵意が爆発する寸前、

 

「朝から元気だなぁ若人は。でも朝一で血みどろは止めてくれる?」

 

破裂寸前の風船は、予期せぬ人物により無視される形になった。

 

本名不詳(コードエラー)……」

 

忌々しそうにその名を呼んだのはどちらだったか。麦野も土御門も渋面を貼り付け、さっき以上に敵意を剥き出しにしていた。

 

「いやぁ、土御門の方に嫌悪されるのは分かるけど、麦野さんそんなに殺さんばかりに睨まないでくれ」

 

「仕事がなけりゃ殺してるわよ。で、どこからいっとく? やっぱ頭から吹っ飛ばしてやろうか?」

 

今朝の事といい、どうにも地雷ばかりを踏む本名不詳に麦野は殺す気満々だった。

 

本名不詳も少しやり過ぎたと内心反省していると、土御門が麦野の肩に馴れ馴れしく手を置く。

 

「待て第四位。アレには俺も借りがある。半分寄こせ」

 

「おい、こら。人の命を何だと思ってやがる」

 

彼女の歴史を知っていれば、お前が言うなと一喝されそうな台詞も麦野は無視した。

 

「誰がやるかよ。と言いたいけど、アレを殺すのには骨が折れるし体力減らしくらいにはなれよ」

 

「能力がチートくさい奴だからなぁ。具体的にはどうしたら死ぬ?」

 

「さぁ、試してみる?」

 

好奇心と殺意が合わさり、理性の壁が崩壊しつつある麦野は狙いを本名不詳に絞る。さらに詳しく言うと、頭部目掛けて一直線。

 

自分を殺すときだけ結託する二人に本名不詳はホロリと涙を流す。もちろん、その程度で攻撃を止める二人ではないし罪悪感も沸かない。

 

「怨みは買いまくってるのは分かってたけど、そこまで徹底するの? 私でも死んじゃうよ」

 

「死ね」

 

二人そろって突きつけた言葉に本名不詳は悲しい気持ちに、なったのかもしれない。

 

「酷いなぁ。喧嘩の仲裁に来てみれば私が的だなんて。でも麦野さんはこっちに来てねぇ。ビジネスなお話をしよう」

 

全く悲しみの欠片も感じさせず、本名不詳は麦野に商談を持ちかけた。

 

人差し指と親指をくっ付けて分かりやすくジェスチャーをする。この段階で彼女の頭の中から土御門の存在は消去されていた。どんなアクションを起こしても対処できる自信の表れか、それと既に本名不詳は彼が動けない一手を投じているのかもしれない。

 

土御門は思考の読めない相手に両手を上げた。

 

「よっぽど暇なんだな。どうしてここにいる本名不詳?」

 

「んー、それはねぇ君に関係はないな」

 

それはいつもの間延びした締まりの無い声だった。それでいて、一切の介入を拒否した答えであった。

 

「早く行かないと学校に遅れるよ」

 

「そうだな。だったら行かせてもらうとしよう。預かり物もあることだし」

 

思いのほかあっさりと土御門は引き下がった。不思議そうに視線を送る麦野とは違い、本名不詳と土御門は理解していた。土御門と本名不詳との間に駆け引きができるほどの情報、弱み、コネが存在しない。故に答えは決まっていた。

 

土御門は下がるしかない。それに今回、ここに本名不詳が現れたのは別段気にするものではない。

 

彼女は麦野沈利の居るところに現れる。実際に交渉や話をしたいなら麦野か『アイテム』にコンタクトを取ればいい。それは本名不詳にとっては無視できないのだから。

 

気軽な足取りで去っていく土御門を見送ると、本名不詳と麦野の間には冷たい空気が流れた。

 

殺意には及ばない、敵意と警戒がそこには満ちている。その状況に、本名不詳は安堵した。どうやらまだ、暗部の頃を忘れては無いらしい。

 

だいぶ緩んでいるのは間違いないのだが。

 

「それじゃ、ビシネスのお話なんだが。君に尋ねておきたい事がいくつかるんだよねぇ」

 

「ここで話さないといけないことなの?」

 

血と泥に塗れた世界の話を、この小さな楽園に持ち込みたくはない麦野は表情を露骨に顰めた。

 

「ここじゃないと駄目。だって今回尋ねるのは、それと関係があるんだから」

 

毅然と要求を突き返した。

 

水を打ったように、静かになった世界で麦野が歯噛みした。

 

今ここで、声を荒げ意地でも話しを切り出したくない自分と、今までとは雰囲気の違う彼女の話しを聞くべきだと主張する自分がいる。つまり麦野はこの期に及んで迷っているのだ。

 

上条自体、後戻りできない闇に足を突っ込んでいても遠ざけたい。守りたい。

 

ならば障害は、敵は少ないに限る。

 

この光が当たり世界で闇の話しを持ち出すのは、危険だ。その危険が麦野に降りかかるなら彼女は迷う必要なく話しを切り出せた。しかし降りかかるのは上条の可能性が高い。

 

「話していいかな?」

 

急かす問いに麦野は目を伏せた。答えが出ていないのに、答えろと言うのはここまで拷問に近いことを知る。

 

「上条に危険は及ばないなら、構わないわ」

 

「確約できないなぁそれ。だって君は暗部の人に恐れられ、憎しみの対象にもなってるじゃん。むしろ貴女の存在がこの話より危険だよねぇ」

 

茶化すように肩を竦め、本名不詳は空間移動で取り寄せた書類を麦野に向けて投げつけた。しかし紙は空中に散らばり、麦野のところに届いたのは一部のみ。その他は廊下に舞い落ちる。

 

たった一枚。麦野は書類を拾い上げ、書かれている項目に目を通した途端、短く声を上げ呼吸を止めてしまった。見られたくなかった物が、ついうっかり人の目に晒された子供の反応に近い。唇をかみ締め、沈痛な表情をする。

 

取り返しのつかない現実を本名不詳は引っ下げてやって来たのだ。

 

「うん。その反応は新鮮だねぇ? だって貴女は嬉々として、こいつ等殺したんだもん。時にはストレス発散のサンドバック君にしてた訳だし。よくもまぁ、これだけ殺したね?」

 

切れ味の鈍いナイフが、麦野の肺腑を無理やり抉り裂いた。

 

「で、さらに今回暗部から抜け出す為に人を殺す。あぁ、勘違いしないでくれ。別に責めてるわけじゃないんだから。利己的って良い響きだよねぇ? 何処までも自分の為に。それで聞きたいんだ。麦野さんは人を殺してまで、ここから出たい? それとも人を殺さず、痛みを受け入れる?」

 

その問いに麦野は揺れた。

 

理想と現実の境界線の上に立っている彼女には、この問いは酷なものだった。理想を捨てて現実を取るか、現実を捨てて理想に生きるか。

 

人生を左右する究極の二択。

 

覚悟はした筈なのに、原罪を突きつけられる度に迷ってしまう。罪を清算したい。明るい世界でなんの後ろめたさも無く過ごしたい。そう願っても、その願いが無情に引き裂かれることを彼女は知っている。暗部とは裏社会とは、現実がそれを認めても赦してもくれない。特に、大事な人を奪われた人の恨みと執念が。

 

震える指先が書類に皺を付ける。大きく息を吸い込み、写真の顔を記憶していく。いや、元からそれについての記憶はあった。殺した瞬間を、死に間際に言っていた言葉をありありと思い出す。

 

後悔をしても、後戻りはできない。前に進むにしても、これは必ずぶつかる地獄の試練だっただろう。いつか必ず、最愛の人、親友、家族を奪われた人が逆襲をする。それに麦野は、対抗するか。それとも命を差し出すか、殺さず逃がすか。

 

麦野は一心不乱に、全ての可能性を思い描くできるだけ多く。できるだけ具体的に。

 

真っ直ぐ、自分を捕らえた瞳に本名不詳は心をざわつかせた。

 

「今回の、暗部脱退の作戦では人を殺さない。でも、表の住人である上条やその周辺に危害を加えるなら、私は殺すわ。私が殺す。夢と理想で生きて行けたら、良かったんだけどね。やっぱり、こんなことしてきた奴には無理だったみたい」

 

結論は、例え自分の命を差し出しても、例え説得しても、命を奪わない程度に痛めつけて逃がしても、無意味なのだ。

 

「そう。そっか、よかった。もし矛盾を孕む答えだったらどうしようかと思ったよ。君はもう殺さない道は選べない。それを理解してくれて助かった」

 

安堵の表情をする本名不詳と対極に麦野は、陰鬱に陰った表情をしていた。

 

自分が出した結論を、思い返してみる。

 

もし麦野が相手が望むように死んだら、上条はどうするだろう。復習するか、それとも痛みを我慢するか。どちらになるか分からない。ただ確率が低いとは言え、彼に罪を背負って欲しくないと麦野は考えた。そうなると、彼女は死ねない。

 

なら、説得はどうなる。きっと時間が掛かる。人を不幸のどん底に叩き込んでおいて、憎い仇は幸せに笑っていたら、恨みと嫉妬と怒りで理性の(たが)が外れて、形振り構わず無差別に殺す可能性だってある。不確定要素を楽天的に捉えるのは、ちょっと無理な話だ。

 

最後の殺さずに追い返すのは、一番危険な対処である事を麦野は知っている。きっと麦野を自分の手で殺さない限り諦めない奴はいる。そんな人間が麦野を殺せないと理解すると、上条を殺すかもしれない。人質でも取ってしまえば、あのお人好しは抵抗だって出来なくなるに決まってる。

 

どう足掻いても絶望しか待っていない。

 

これがしっぺ返しか。と口の中で独白していると、軽く肩を叩かれ顔を跳ね上げた。

 

目の前には、本名不詳が居た。集めた資料を麦野に手渡す。

 

「今回殺さないのは結構だけど、妨害として仕事をするんだよね? なら新プランだから目を通しておいてねぇ。で、集合場所は君の家でいい?」

 

「なんで私の家なのよ? ちゃんと納得できる理由があるんでしょうね?」

 

とてつもなくプライベート空間に入れたくない人間、第一位の座に君臨する本名不詳に麦野は拒絶の意を示す。どんなに合理的な理由でも家どころか学区にすら入らせたくない。

 

「理由は特に無い。別に路上でも構わないし。正直に言うなら、麦野さんの家の立地次第じゃ引越しさせたくてね」

 

「会議が終わったらちゃんと出で行くことが約束出来たら、今回だけ特別いいわよ」

 

「約束するよ。あと、新しい人員が一名追加してるから」

 

「もう引き抜いたの? 手が早いのね」

 

既にアイテムに取って代わる人員を捕まえたらしい。まだ一名だが。

 

予想していたより本名不詳が新しい暗部の構成員を選ぶのが早い。どうやら麦野を暗部から脱退させることに全力を注いでいるらしい。それも麦野本人以上に。

 

「あぁ、ちょっと個性的な女性だから。あんまり喧嘩しないでねぇ? もしかしたら一緒に仕事するかもしれないし。今回だけなんだけどね……」

 

ふと遠い目で語りかけてくる本名不詳は、少しだけた嘆息した。

 

「根は間違いなくいい人なんだよ。君と違って」

 

「よし本名不詳、先ずはテメェから殺してやる」

 

電子が鈍い羽音を立てて瞬く。停滞した電子がループをし始めたときに、本名不詳は両手を上げた。

 

「暴力反対! 当たっただけでヤバイのにそれを押し当てられたんじゃ話しにならないよ。それじゃ昼間の内に表を満喫するんだねぇ。あと、この資料いる?」

 

麦野が思案している間に集めたのか、麦野が屠った者のリスト。掲げられたそれに、麦野はいい顔をしなかった。

 

「よこせ」

 

短く命令すると、本名不詳はなにも言わず渡す。

 

そして何事も無かったかのごとく話を切り出した。

 

「ま、仮にフレンダが治っても暗部の活動はお休みねぇ。そっちの方が私の都合上、とてもいいから」

 

「都合、ね。どうせ禄でもないことなんでしょう?」

 

「半分正解。どうにも新能力のスペックを試しくてねぇ。私の演算を駆使しても稼働時間は五分が限界なのさ。後の半分は隊員の力試しかなぁ」

 

のんびり語ると、本名不詳は徐に腕時計を確認した。まだ学生が登校する時間帯で、ここに長居すれば目撃されることだろう。されても記憶を捏造すれば問題は無いが。

 

もちろん、問題ないのは本名不詳だけである。人道的に大問題なのは分かりきっていることだが。

 

「それじゃ、私は武器調達や情報収集をしにいくんでお別れだ。今夜の内に来るから」

 

「おい、明確な時間を言え」

 

「またねぇ」

 

答える気の無い本名不詳は麦野の質問を振り切り逃げ出した。手すりを乗り越え、自転車置き場の屋根に飛び降りる。着地音が聞こえなかったことを考えると、能力で安全に落下したらしい。

 

捕まえに行けば空間移動で逃げるだろう。そう考えると、今更追いかけるもの馬鹿馬鹿しくなり麦野はため息をついた。下に広がる風景の中に溶け込んでいく本名不詳の後姿を見送ると、麦野は病院に行くために歩き出した。

 

今日フレンダが退院する。その迎えであり、これからの行動について幾つか説明しなければならない。本名不詳が仕事を肩代わりすると公言したのだ。その分、空いた時間の有効活用をしたい。

 

こっちはこっちでやらなければならない事を頭に浮かべながら、仕事の書類の内容も頭に詰め込んでいく。今夜は親船素甘に張り付いている暗殺グループの排除。殺害は無しだ。麦野の能力が大きく制限される仕事になる。被害を考えなければ、とても簡単な部類の仕事なのだが。

 

目を通して内容を覚えた麦野は、原子崩しの極光で跡形も無く書類を消した。煤も灰も残さない。

 

光の軌跡を棚引かせながら、麦野は階段を下りる。冷たいコンクリートの壁と床は夏の熱気を遮って少し涼やかだった。近年、夏の季節の気温が軒並み高いのはここ数年実感していたが、今年も記録を更新してくれそうだ。

 

雲ひとつ無い快晴を疎ましく思いながら、麦野は男子寮から出た。

 

空にある太陽がアスファルトを焦がし、ゆらゆらと踊る陽炎を作り出す。それを見ただけで、暑さが倍増した気がした。

 

日焼けをして肌を痛めるのも嫌なので、病院にテレポートしよう。思い立ったが吉日ということで、迷うことなく麦野は0次元の極点を発動させ自身を空間移動させた。

 

3次元の世界、それがこの0次元ではたったの一点にしかすぎない。故に、麦野にとって宇宙とは手の平サイズの認識の世界になりつつある。もっと詳しく言うならば、小指の先以下なのだ。

 

一点の世界の座標全て、宇宙の果てまで彼女の頭の中に存在する。その中で病院の座標を特定するなど簡単だ。

 

一秒もない空白の時間を通過してみれば、見えたのは白い外壁。

 

最近、お世話になってる病院の目の前だった。曖昧な電子で1次元の壁を引き裂き、0次元を会得した麦野はこの空間移動には、実は慣れていない。

 

元々そんな風に使えるとは夢にも思わなかったのだ。副産物であるはずの方が日常的に便利性が高いのが気になるが。便利すぎて身体が鈍ってしまうので、回数制限を設けなければと考えていたりする。

 

ついでになにかフルーツの盛り合わせなどを買ってくれば良かっただろうかと、思案しながら麦野は消毒液の匂いが仄かに香るロビーを通り過ぎる。この広い病院の配置は覚えてしまった彼女は、ぼんやり考え事をしながらでも目的地にはたどり着けるだろう。

 

それを証明するように、すいすいと廊下を進み、階段を上がっていく。

 

友達兼、同僚の病室に行く前に缶コーヒーを買ってみた。特に意味は無い。気分屋の代表格とも言える麦野らしい行動でもある。

 

冷えた缶を弄びながらスライド式の扉を開く。そこには、

 

「おや、お迎えが来たみたいだね?」

 

いつものメンバーに加え、カエル顔の医者がいた。

 

「おはようございます先生。で、フレンダは退院できますか?」

 

「それについては問題ないよ。ただ絹旗ちゃんはもう少し様子見だね? 神経や骨の具合を見ないと」

 

「ヤッホー麦野! これで私も晴れて自由の身って訳よ。これで遊びに行けるわ」

 

カエルの医者の後ろでフレンダが飛び跳ねる。

 

「その前にふれんだ、お礼言わないと」

 

おっとりと滝壺が嗜めるとフレンダが舌をちょっぴり出した。

 

「えへへ。嬉しくてついつい。先生、ありがとうって訳よ! おかげで呼吸が辛くないし」

 

「肋骨が治って良かったね? 感謝されるとは、医者冥利に尽きるよ」

 

冥土返しも嬉しそうに微笑むと、パイプ椅子から腰を上げた。

 

「それじゃ、他の患者さんの観察に行かせてもらうね?」

 

ゆっくりと退室して行った冥土返しを見送り、麦野はベッドの方に腰を下ろした。その隣にフレンダも腰を下ろす。

 

「で、さっそく仕事とかあるの?」

 

「それが、本名不詳(コードエラー)はこれからも仕事を肩代わりするって」

 

「なんだか怪しいね」

 

不安げに滝壺がつぶやくと、フレンダも同意するように頷く。あの狡猾で人を食ったような女がタダでなにかをするとは思えない。

 

少なからず本名不詳の行動の理由を知る麦野としては、反応に困って曖昧に頷く程度だった。

 

心理的に居心地の悪い話題から逸らすために、麦野は部屋にいない絹旗について聞いてみた。

 

「ところで、絹旗どこに行ったの?」

 

「絹旗なら朝ごはん食べに行ったけど。もう直ぐしたら帰ってくると思う訳よ」

 

時計を確認してフレンダが答える。そうなると食堂にいるのだろう。帰ってくるまで雑談をすることにした。

 

女子が三人集まれば話題に尽きることは無い。姦しいという字には女が三つ書かれている理由とも言えるだろう。それに『アイテム』は、放っておけば三時間は雑談に花を咲かせるスキルも持ち合わせている。ファミレスで鍛え上げた暇つぶし技術だ。

 

絹旗一人、帰ってくる時間を紛らわすのには十分過ぎる。

 

一番手はムードメーカーのフレンダからだった。

 

「結局、麦野はお弁当作ってあげた訳?」

 

「なんでそんなこと聞くのよ? 別にどうだっていいじゃない」

 

右側から覗き込むフレンダから顔を逸らしたら、その先には滝壺がフレンダと同じように麦野を覗き込んでいた。逃げた先には先手を打たれていたらしい。あまりの近さに、呼吸を止めると滝壺が同じ質問をしてきた。

 

「上手くいった? かみじょうの好物と味付け教えたのは私なんだから、知る権利はあるよね?」

 

「うっ、どうしても言わないと駄目?」

 

「駄目。教えて?」

 

逃げようにも左は滝壺、右はフレンダ。後ろにも前にも動けない麦野は、ぽつぽつと語りだした。

 

「ったく。好評だったわよ。そのお陰で今日も作った訳だし」

 

「なんと今日も! 結局上条は爆死するべきに一票。ねぇねぇ麦野私にもなにかご飯作って!」

 

右腕にじゃれ付くフレンダに麦野はため息混じりに笑った。こうして屈託無く笑うのはフレンダの長所だろう。

 

自分と変わらない年なのに、どうにも幼く見えてしまう。手のかかる妹だろうか。

 

「今日は夏野菜カレーにするつもりだから、上条の家に来れば食べれると思うわよ」

 

そう言ってやったら、反対側の腕に圧力がかかった。振り向けば滝壺が少し腕に力を込めて麦野の腕を抱きしめてきる。

 

「どうしたの?」

 

「わたしも行っていい? むぎのが作ったカレーを食べたい」

 

「構わないけど。それじゃ今回は気合を入れないとね」

 

「サバカレーってのも美味しそうな訳だけど、作ってみない?」

 

強請るように囁くフレンダの要求を無視して麦野は献立を考えた。ここ最近こってりしたものを作ったから明日辺り冷やし中華にでもしようか。もしくは、なにかあっさりしたものでも良い。

 

心に壁を作らず、のんびりと会話するひと時に『アイテム』は浸っていた。

 

もう仕事の関係の間柄には戻れない。それを改めて強く認識した。

 

つまりそれは、死が付きまとう暗部の世界では大きなマイナスであり、足枷でしかない。彼女達はいつか死別する者と割り切ることは出来ないのだ。同じ世界を共有した仲間であり、同じ場所にいた友である『アイテム』は掛け替えの無いものに昇華していた。

 

だからこそ、麦野はその笑顔の奥で決意を固めることができた。

 

平穏を手に入れるために、いくらでも代償は払えると。今まで迷惑をかけてきたからこそ、『アイテム』纏めて表行きの切符くらい自分一人で買ってやってもいい。

 

この平穏さへ守れるのなら。

 

 

 

 

 

 

 

 

表の世界が丁度昼の時間帯の時、暗い部屋に二人の人間がいた。片方が招き、残りの片方は急に呼び出された。呼び出された金髪の女性オリアナ=トムソンは闇の中を歩きなっがら問うた。この地下室に連れて来た張本人、本名不詳(コードエラー)の真意を。

 

「こんな地下室に連れ込むだなんて、どうしたのかしら? そんなプレイがお好み?」

 

冗談交じりの内容だが、闇に浸る人物は至って真面目に答える。

 

「君になら扱えるいい品があるんだ。今回オリアナには塩岸を襲って親船素甘から手を引かせるまで粘ってもらいたい。電話口の交渉は私がやるが、危険が付きまとうオリアナの保険がいるだろう思ってねぇ」

 

真剣さが伺えるその声音にオリアナは内心苦笑した。

 

そこまで大事なのかと。そこまで彼女が躍起にならなければならない事なのか疑問に思われる。

 

オリアナは知っていた。彼女が必死になる理由。それは一人の少女とその取り巻きの世界の為だという事。

 

「ふぅん。お姉さんは魔術師よ。近代兵器は確かに使えるかもだけど、正直この速記原典(ショートハンド)の方が強いわ。バリエーションや発動にタイムラグがないもの」

 

「そうだね。下手に最高水準の機器を投下するよりは馴染んだ物の方が断然いい。しかも今回は殺害が目的ではないからねぇ」

 

素直に同意を示した本名不詳は、暗闇の中でカードキーを取り出し機械に認識させる。

 

ピッ、と短い音がした後、ほとんど音も無く扉が横にスライドした。オリアナを先に部屋に入れ、遅れて本名不詳が入ってくる。そこで初めて、照明が視界を照らした。

 

「これは………」

 

そこにあったものは武器だった。

 

数はそう多くは無い。しかし、オリアナはここまで集まったのを見たことがない。いや、彼女が所持していたが故に見たことがないのかもしれないが、そんなことはもう頭に無かった。

 

一つ一つが膨大な歴史であり、一つ一つが莫大な力を内包していた。神秘の結晶。神殺しの槍。王と共に散った剣。

 

高名にして至高の財とも言えるそれは、霊装。それも大量に――――

 

「どういうことかしら、学園都市は魔術に干渉しないはずよ? そこらへんにあるような物とは訳が違うものばかり。これだけの物が一点にあれば、戦争を引き起こしかねない」

 

「魔術の世界にあったら、でしょう。ここは科学の世界だ。この霊装が私の手の平にあったくらいで戦争なんて起きないさ。持ち主が魔術師、それに順ずる者でなくとも発動する物を集めてみたんだ」

 

特に事の重大性を認識していないのか、本名不詳は気にした風はない。それどころか魔力の供給を必要としない物ばかりを集めていると言うではないか。

 

それはつまり、科学側の人間が魔術の一端に触れること示唆する。神々が創ったとされる武具は魔術師であるならば喉の奥から手が出るくらい欲しい。オリアナもこの風景に陶酔しそうになった身だ。

 

力を求める者が見たら、どうなるか。

 

沈痛な面持ちで事の状況を整理してたオリアナに本名不詳は一式の武具を見せた。

 

「オリアナに使って欲しいのが、これ。なんだか分かるかい?」

 

顔を上げて武具を確認したとき、オリアナには珍しい失笑が洩れた。

 

「ふ、お姉さんをバカにしてるの? 魔術師が見れば百人中百人、こう答えるでしょうね」

 

一呼吸、間を置き畏怖と敬意を込めて武器の名を答えた。

 

 

 

〈エクスカリバー〉

 

 

 

それはイギリス出身の者でなくとも、有名な代物だった。

 

伝説にもなった剣。そして聖剣の鞘。この武具がこうして二つで一つになっているのは、アーサー王の伝説以来だろう。エクスカリバーの鞘は盗まれ、伝承の中でも行方不明。そして剣は、アーサー王の命令により泉に返されたとしている。

 

もはや失われ、伝説上の存在にまで昇華した聖剣。実物を見るのは初めてだが、オリアナには分かった。

 

黄金に縁取られた鍔。深い瑠璃色の柄は滑らかで傷一つ無い。輝きを失うことの無い刃は、今も蛍光灯の光を反射する。そして荘厳な威厳を放つ剣は文献に記されていたものを思い起す。

 

剣腹をなぞり、感触を刻み込むオリアナに本名不詳は満足したように頷いた。

 

「これはアーサー王しか使えないものだと伝承で伝えられていたが、オリアナでも使えるみたいだねぇ。ブリテンも失われた事だし、使用条件のブリテンの王が持つという部分が外されたのかも。武器も歴史と共に変化するみたいだねぇ」

 

「まるで生きてるみたいに語るのね」

 

感慨深く頷く本名不詳の言葉の端に、そう感じたオリアナは好奇心から尋ねる。

 

「ああ。これは元選定の剣。意思があっても可笑しくはないんじゃないかな? こんなかび臭い部屋に置いてるよりは、使ってやらんと」

 

どうやら長く使っていないらしい。国を代表する宝剣と鞘がこんな扱いなのだ。他の霊装の状況も気になる。

 

見せてくれと頼む前に、本名不詳は先手を打った。

 

「言っとくけど、これ以上詳しくは見せられないから。今回の事が終わったらその剣も回収するからねぇ」

 

絡みつくような抑揚の声で釘を打つ。今はオリアナの手に伝説の剣が委ねられているが、所詮は借り物。魔術師であるが故に、残念に思う。

 

いくら境界線を無視した本名不詳の行為でも、オリアナに咎めるだけの権力も無い。おとなしく指示に従うことにした。

 

まだまだ隠し玉を保有している本名不詳にとって、このエクスカリバーの氷山の一角程度に過ぎないのだろうか。そう考えて、オリアナの背筋に冷たい物が走る。

 

エクスカリバーという機密以上の極秘が眠っているかもしれない。探れば秘密裏に殺されてしまう。

 

伺うようにオリアナは本名不詳を盗み見た。彼女は憎たらしいくらい、飄々としていた。

 

「とんでもない人に雇われたわね」

 

「ふふん。その認識を覚えてなさい。いつか実感するから」

 

「もうしてるわよ」

 

弱弱しい愚痴は、真っ暗になった部屋に響く。切実さをもって。

 

本名不詳と関わり、自分の未来がとんでもない方向に捻じ曲がっていくのをオリアナは知るだろう。そう遠くない出来事である。

 

そして歪みの根源は嗤う。

 

「この程度じゃまだまださ。もっとすごい事が起きるんだから」

 

 

 

 

 


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