とある奇跡の平行世界   作:雨宮茂

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見えていた風景が変わる

「目が覚めたかい?」

 

ぼんやりとした意識の中でカエルによく似た顔をした白衣の医者を見て、麦野は小さく頷いた。

 

「そうか、良かったね?低体温症になりかけて危なかったんだよ。ほら隣にいる上条君も一応入院してもらってる」

 

言われて左隣を見たら、夜でよく見えなかった黒くてツンツンした頭がよく見えた。

 

「なにがともあれ今日中には退院できるからね。お大事に」

 

去って行く医者に麦野は小さく礼を述べた。

 

「気にする事はない。僕の仕事は患者を助ける事だからね?」

 

パタンと扉が閉められると静寂だけが麦野を包んだ。

 

正直、動くのも気怠いが喉に渇きを覚えベッドから起き上がる。

 

「絹旗達に連絡入れないと」

 

誰がサイドテーブルに置いてくれたか解らないが自分の携帯を開く。やはり水のせいで使い物にならない。画面は黒一色になっていた。だが登録していた人物と言えば、『アイテム』のメンバーくらいで再登録するのにも手間は掛からないだろう。隣にあった財布の中身の札はふやけて濡れている。乾かせば使えるが、カードは大丈夫なのか心配だ。

 

「ま、行くか」

 

手っ取り早く小銭を取ると麦野は自動販売機のあるフロアを目指して歩き出した。

 

三階フロアの暇潰しように雑誌やら本やらが置いてある小さなスペースに自動販売機があった。そこに硬貨を滑り込ませ、スポーツドリンクのボタンを二回押した。

 

二本出てきたペットボトルを手に取り今来た道を戻る。

 

その時、窓から差し込んだ朝の柔らかな光が気持ちのいいものだった。思わずソファに寝そべって二度寝をしたくなる。だが一度病室に戻らないと朝の検診などで看護婦が困るかもしれない。早めに帰えろうと意識をせかし自身の病室に足を向けた。

 

静かな朝だと麦野は思った。病院全体が停止しているような無音の世界。たぶん防音がしっかりしているのかもしれない。

 

なにも考えず歩いていると部屋の前についた。念のためノックをしておく。

 

「どうぞー」

 

返事があった。

 

「起きたの、おはよう」

 

「おはよう。えっとお名前は……」

 

「麦野よ。麦野沈利。スポーツドリンク、飲むでしょ」

 

投げると上条は両手で受け取り、意外そうにペットボトルと麦野を見比べた。

 

その意外そうな上条の表情にむっとしたが昨日の出来事を考えれば仕方が無い。半ば死ぬか生きるかの所までいったのだから。

 

どうせこれ以上の関わりなど生まれないが、だからと言ってあっさり無視することも出来なかった。

 

「ありがと」

 

背中からかけられた無邪気な声に知らずのうちに彼女は嬉しそうに微笑んでいた。

 

「どう致しまして。今日中には退院できるそうよ。それでアンタの名前はなに?」

 

カエルのような顔をした医者はこの少年を上条と呼んでいたが下の名前までは知らない。

 

「俺は上条当麻」

 

その名前を聞いて麦野はどこにでもありそうな平凡な名前だと思った。容姿も輝くところは無いが、悪いというわけでもない。この少年が雑踏に紛れたら分からなくなるだろう。

 

キャップを捻り、取ると麦野は喉に流し込んだ。さっぱりとした甘さが冷たさと共に流れ落ちていく。口を離してみればもう半分もなかった。

 

「所で、上条の携帯は生きてるの? 私のはお陀仏したけど」

 

「マジ?! うわぁぁ死んでる。この間買い換えたばかりなのに、不幸だ……」

 

上条も同じように携帯の画面が真っ黒になっているのだろうか、携帯を開いた直後ベッドに倒れ込む。

 

こうなった原因は間違いなく麦野の行動であり、償う事はしなければならない。呼吸を置いて彼女には珍しく歯切れの悪い言葉を紡いだ。

 

「なんだったら、携帯弁償するけど? まぁ、それと同じ機種あるか分からないけどさ」

 

「え、でもあれはこっちが勝手に首を突っ込んだ訳だし。それに麦野さんがもうあんなことしないなら携帯の一つくらい」

 

ゾンビのような顔で言われても説得力は無かった。

 

「いいの。こっちが悪いのは変わらないんだから。それに今はカップルで契約すると安くなるみたいだしついでよ。それでいつ買いに行くの?」

 

拒否権を麦野によって剥奪された上条は、苦笑しながらベッドから起き上がる。

 

どうにも気の強い彼女に圧され気味だ。

 

「学校があるから、それが終わったくらいかな」

 

「学校、ね。高校?」

 

ぷはぁ、と声がして振り向くと上条は全品飲み干していた。

 

「そう、一年生だけど。麦野さんは大学とか?」

 

「はぁ? 高三だけど」

 

「嘘?!」

 

持っていたペットボトルを上条に全力投球した麦野は痛みに悶絶する彼の腹を全力で踏みつけた。

 

「ゴハッ!?」

 

「アンタといい、絹旗といいなぁんで同じリアクションが返ってくるわけ? どーして私が大学生なのよ!」

 

「それは大人びてるガァァァアアァ!!」

 

「聞き飽きた言い訳ね!かーみじょ死ぬ覚悟決めろ」

 

絶対無慈悲の光閃はまたもや上条の右手に阻まれ幻想だったように〈原子崩し〉は消え去った。

 

「やっぱチート野郎だなテメェ」

 

「そんなこと無いですよ! グフッ、物理的な物は消せないンガァァ!」

 

上条が呼吸するタイミングを見計らって麦野は足で腹部を圧迫する。その度、上条は情けない悲鳴を上げた。

 

「あはははは! 楽しいなぁ」

 

「上条さんで遊ぶの止めてぇぇ!」

 

取り敢えず腹部を圧迫する足を掴み退けようとして上条当麻は気づいた。着物に形の似た入院中の服から覗く美しい足のライン。そしてもう少しで見えてしまいそうな桃源郷。

 

上条は今までなかった程の抵抗を見せた。

 

「麦野さん麦野さん!お願いですから足を退けて下さい!」

 

「あら、ずいぶんと元気になったわね。もうちょっと遊べるかな?」

 

獰猛な肉食獣が獲物を発見した時の様な笑みを浮かべる麦野に危機感を覚えた上条はひたすら懇願するしかない。それが一層麦野を悦ばせると知らずに。

 

「駄目だって! 見えちゃうから!」

 

「見なきゃいいじゃない」

 

「そんな問題じゃなあぁぁぁい!!」

 

手足を振り乱して抵抗する上条は、さながらひっくり返った亀で麦野の心に火を付けた。

 

「ほぉら、どうした?もうへばったのか?だらしねぇな」

 

「うぎゃああぁぁ!」

 

「あははは、ふふふ、もがけ足掻け! もっと私をを楽しませろ!」

 

「スイッチ入った! 絶対入ったよこの人!」

 

無駄だと分かっていても抵抗せざるをおえない上条は届きそうで届かないナースコールに手を伸ばした。

 

「なに?かーみじょはナース交えてがお好み?」

 

「違う助けを呼ぶんだよ! てか、麦野さん落ち着いて俺の胃と肋骨がヤバいんですけど!」

 

「肋骨くらい折れても死なないわよ。肺に刺さるかも知れないけどね」

 

「いやぁぁああぁあ!!」

 

笑顔で恐ろしいことを言い放つ麦野に上条は悲鳴を上げる。

 

「萎えてんじゃねえぞ!それならまだジジィの×××の方が元気だぜぇ!!」

 

「女の子が下品な事言っちゃいけません!」

 

「アンタは私の親か!」

 

一通り上条で遊んで上機嫌になった麦野は足を退け、ベッドに座った。上条は未だに精魂尽きたかのように床で微動だにしない。

 

「かーみじょ、床の寝心地はどうかにゃーん?」

 

「冷たくて硬いです」

 

「私にはこのベッドも十分硬いわ」

 

 

のろのろと起き上がり上条はベッドに倒れる。布の柔らかい感触に楽園のような世界。うっとりしながら問う。

 

「へぇー、十分だと思うけど、麦野さんはどんなベッドで寝てるのでしょうか?」

 

「クイーンサイズの天蓋つきのベッド」

 

「ッ! ……寝室ずいぶん広いんですね」

 

「そうでも無いわよ?」

 

上条はこの一言で直感した。絶対広い。広い上に豪華だと。金持ちの常識は多くの場合非常識な事がある。その古典的例が今、目の前にあるのをしみじみと感じた。

 

「さて、服乾いたかしらね?」

 

「うん……どうでしょう」

 

「なに黄昏てんの、かーみじょ」

 

「はぁ……」

 

「駄目ね。心ここに有らずだわ」

 

また静かになった部屋に控えめのノック音が響いた。

 

「どうぞ」

 

「失礼します。お目覚めはいかがですか」

 

顔を覗かせたのは看護婦だった。

 

「悪くはないです。服は乾きました?」

 

「はい、乾きましたよ。退院はもうできるようです」

 

服を手渡すと看護婦は小さく頭を下げて退室した。それを見届けると麦野はおもむろに服を脱ぎ始める。

 

「なっ!いきなりなにを!!」

 

「着替えるのよ。悪い?」

 

「場所を考えて下さい!」

 

「ここ以外のどこで着替えろって?女子更衣室なんて無いわよ」

 

「では、カーテンをさせて頂きます」

 

シャッ、と金具が滑る音と布擦れの音が聞こえた。振り向けばキチンとカーテンをしており、シルエットで上条も着替えてる事が分かる。

 

「ねぇ、携帯買いに行くのはいいけど。どこで待ち合わせするの?」

 

「麦野さんも学校あるだろうし、場所を教えてくれたら迎えに行きますよ」

 

布擦れの音と会話が病室を満たす。

 

「学校なんて行ってないわよ」

 

「いやいや、高校三年生なら色々忙しい時期なはず。就職か進学かでも一大決心ですよ」

 

「授業内容なんてメイクしながら聞いても理解できるようなものばっかりだし、正直退屈だから学校に行ったのは一年の最初辺りね。就職、進学はどうでもいいや。あと敬語は止めて、なんか鳥肌立つわ」

 

メニューの最後にデザートを頼むような気軽さで敬語を使うなと言う麦野に上条はシャツのボタンを閉めながら戸惑った。

 

年上、しかも女性にタメ口やフレンドリーに接する自信さへ上条にはない。

 

「あー、それはちょっと無理かも」

 

「川の中で散々言った割には弱腰ね。覚えてるわよ、アンタが私にビンタしてくれたの。痛かったわぁ、本っ当に痛かった」

 

どこか咎めるような麦野の声音に上条は小さくうなだれた。つい、とかそんな言い訳は出来ない。

 

彼は一応紳士なのだ。ここは素直に謝ろうと腹を括る。

 

「その節においては本当に申し訳御座いません! 上条当麻は出来る限りの罪滅ぼしを覚悟している次第であります」

 

「そう? なら第一の命令、敬語は使うな。あんたより年下の奴なんて生意気言ってきたりするんだから」

 

「麦野さんは交友関係広いのか?」

 

「うーん、微妙な所ね。命令追加で麦野さんは禁止。麦野でいいわよ」

 

次から次に来る命令は別段難しい訳でもないのに上条は戸惑った。

 

彼は言うほど体裁を取り繕う、と言うほどでもないのだが麦野から感じる何かが上条の本能に語りかけていた。

 

危うい脆さのなかに、深い狂気が渦巻いたような言葉で表せない存在。それが上条当麻から見た麦野沈利という人間だ。

 

軽々しく触れてしまうと崩れ去っていきそうで、どうにも距離感が掴みづらい。

 

そんな思考の海に浸かっているとカーテンの奥から嘲笑めいた弱々しい笑い声が聞こえた。

 

「ははは、ごめんね。そりゃ、いきなりこんな変なこと言われたら気持ち悪いか。上条がいいと思う接し方でないと駄目よね」

 

「麦野さ……いや、麦野そんなことないぞ。ただ上条さんはですね、その美人さんに知り合いがいなくて、こうなんと言うか」

 

咄嗟に言ってしまった事に慌てて付け足したが、もう何が何だか分からなくなり、終いには頭を抱えていると後ろから麦野が顔を覗かせた。

 

「かーみじょう、ありがとね」

 

「あ……」

 

初めて見た麦野の笑顔は柔らかく木漏れ日のように温かな微笑みだった。それはいつもの彼女を幼く見せたが、直ぐにカーテンの奥に引っ込んでしまった。

 

残念だ、もっと見たかった。そう言った感情が胸の内を巣くうとなんだか恥ずかしくなり、頭を左右に何時振ってこの思いを払拭させる。

 

「よろしくな麦野。あとさっきの可愛かったぞ」

 

「当たり前よ、素がいいんだから」

 

「日本人なら謙虚になるべきだろう!」

 

「欧米諸国では自分の感性否定されたと思って逆に怒られるわよ。過剰に返してもアメリカンジョーク? みたいな感じに受け取って貰えるみたいだし」

 

カーテンを取り払った麦野はベッドに腰を下ろすと滑らかな曲線を描く脚を組んだ。

 

「まぁ、必要のは個性よ。一人くらい居てもいいんじゃないこんな日本人」

 

「そう、だな。確かに謙遜する、だとか謙虚な姿勢ばかりじゃどうにもならないよな」

 

「でもサラリーマン業界に喧嘩売ったような台詞よね」

 

「んー、親父の弱腰を思い出すな。昔はなんでそんな頭下げるんだ? なんて思ってたけど、必要な事なんだな」

 

電話で誰とも分からない人にずっと頭を下げながら受け答えをする父の姿を思い出す。目の前に人なんていないのに何度も腰を折る姿がなんとも滑稽で、笑った記憶がある。

 

「いつかそんな時代がアンタにも来るわよ」

 

「ひ、否定できない……」

 

未来の予想図を展開させた上条は、今まで見てきた仕事での謙遜した父に自分を重ねよく分からない焦燥感に駆られた。

 

その引きつった上条を見て麦野は小さく笑った。

 

「人間万事塞翁が馬、これから先どうにかなるわよ。サラリーマンになりたくないなら今からでも遅くないんじゃない?」

 

「でも、学園都市って科学者と学生の集まりだし、働き場ってあんのかな?」

 

「さぁ? どうなのかしら」

 

あっさり切り捨てた麦野は残りのスポーツドリンクを飲み干しゴミ箱へ投げる。それは放物線を描きボスッ! と音を立ててゴミ箱の中に収まった。

 

「おいおい、自分の人生だぞ? 麦野は不安にならないのか?」

 

「殆ど将来安泰だからかな。気にしたこともないのは確かね」

 

聞けば、ふざけているのか? と聞きたくなるほどの楽観的物言いだが事実、彼女は学園都市が誇るLEVEL5。将来安泰と言うのは間違いではない。だがしかし、それは学園都市が生み出した闇、そこに生きる者でなかったらの話しでもある。

 

そんな事をぼんやりと考えた麦野は目を細めた。

 

やっぱり、眩しいなぁ。こんなちょっとした雑談なんていつ以来だろ?『アイテム』のメンバーでも多分ここまでは――――

 

その思考に至って麦野は衝撃が走った。『アイテム』の皆は信頼できる仲間だ。なのに最後の壁を破って麦野沈利と言う人間として接しなかったのに、出会って1日も経っていないこの青年にはそれをさらけ出している。

 

自己分析ではあるが麦野沈利は他人に触れられるのを嫌う。体ではなく心にだ。なのに自分から人間である麦野沈利を表に出す。その行為はまるで上条に人間としての自分を見て、触れて欲しいのではないだろうか?

 

そんなこと、

 

「有り得ない、わよね」

 

消えてしまいそうな笑みでそれを否定した。

 

なぜだか、そうしないと自分が消えてしまいそうな気がしたから。でも――

 

「おい、どうした?」

 

哀愁漂う空気を察したのか心配そうな上条の顔が近くにあった。

 

「なぁんでも無いわよ。ただ、上条が眩しいなぁ、なんて思っただけ」

 

「お、おう」

 

麦野の柔らかく、しっとりとした両手が上条の両頬を包む。

 

まるで宝物を撫でるような動きで麦野の手が上条の頬を行き来する。くすぐったくて身動ぎをすると麦野はゆっくりと手を離した。

 

「おかしいわね。本当におかしいの。私と上条、まだ出会ってそんなに時間経ってないのよ?」

 

「麦野どうした?なにが悲しいんだ?」

 

「そんな、表情(かお)してる?」

 

「してる。頼りないかも知れないけど、言ってくれ。そしたら力になるから」

 

あぁ、やっぱり。

 

――私はどうやら……

 

「いつか言えたら言うわ」

 

「約束だぞ!麦野はなんだか無茶してるからな」

 

「なによ、それ」

 

『私』を誰かに見てもらいんだ。

 

でも、それは多分他の誰かじゃなくて、アンタなんだよ当麻。

 

私を化け物じゃなくて最初から最後まで人間として見てくれた当麻じゃなきゃ駄目なんだ。〈原子崩し〉をもろともしない当麻じゃなきゃできないこと。

 

「それじゃ、先ずは退院しよう」

 

「へ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

「退院おめでとう御座います上条当麻様。今年何回目ですかね?」

 

「は、ははは。えっと10くらいかな?」

 

「記録更新しないように頑張って下さいね? はい、どうぞ」

 

「はい、どうも有り難う御座います。頑張ってみますね」

 

保険証を受け取りソファに座っている麦野を見つけ小走りで近寄る。

 

「待った?」

 

「ん、ちょうど公衆電話で連絡取ったとこよ。それよりアンタってよく入院するのね」

 

「ははは、そうなんだよ。不幸な星下に産まれてしまったがために」

 

「それって単にかーみじょうがトラブルに突進してるのも原因の一端よね?」

 

ズバッと言い切った麦野に上条は困ったように笑った。

 

「でも困ってる人見捨てられるの出来ないんだよ。確かに見捨てたらこんなに入院しないけど、後でその人が入院とかすると思うと体が勝手に動いてて……」

 

誰かを助けるために行動する揺るがない精神。誰かのために怒って笑えるこの青年の美徳なんだろう。そんなものは普通に過ごしていて身に付くものじゃない。理由があるとすれば、

 

「ねぇかーみじょう、アンタさ昔酷いこととか、どうしようもなく寂しいことってあった?」

 

「………」

 

今まで締まりのない表情をしていた上条当麻の表情がすっぽり抜け落ち、すぐさま驚愕に彩られた。なにかを言おうとして失敗した。口が中途半端に開いて呻いたような声が、あの輝いていた青年から零れ落ちる。

 

それだけで理解した。麦野は上条のトラウマを掘り起こした。それを理解するのには十秒も要らなかった。

 

「ごめん」

 

痛々しくて目線を合わせ辛くなり、自然と麦野の口から謝罪の言葉が出た。

 

あれだけ笑っていた彼が、曇らせてしまった。

 

「うん、こっちこそごめんな? 変な空気にしてさ。初めてなんだ、多分そうやって俺の行動の根元を聞かれたの。よく……分かったな。気にしたこと無いけど多分そうなんだと思うんだ」

 

「寂しい事を知っていると、人は誰かに寂しい思いはさせたくない。そんな事を誰かに聞いてね、あとはなんとなく」

 

「そうか」

 

「行きましょう、アパートか学校まで送るわよ。やっぱり私がかーみじょうを迎えに行くわ」

 

病院の外に出ようとソファから立ち上がると、上条にとって馴染み深い人物がゆっくりと現れた。

 

二人は会釈すると、相手も軽く頭を下げ歩み寄ってくる。

 

「やあ、もう大丈夫そうだね?」

 

やってきたのは、ここの医者を務める人物だった。カエルのような顔をした柔和な顔立ちで微笑む。

 

「はい、まいどすみません」

 

「上条君は病院を別荘と勘違いしてないかい? 軽い物が多いが頻度が並外れているね。もっと身体を大事にしなさい」

 

ユーモアを交えながら(たしな)める医者に上条は引きつった笑いを浮かべた。穏やかに諭す姿勢には、貫禄がありなんとも反論が出てこない。

 

そんな上条を見て医者の顔が少しだけ呆れた顔をした。

 

「それに、来るたびに同伴の女性が違うのも気がかりなんだがね? ここは産婦人科じゃないから間違えないように。僕も若いときはモテたけど、節操はあったよ」

 

医者の爆弾発言に上条はギョッとした。

 

「ちょっ先生、上条さんはモテてませんし、同伴の人が違うのは別に特別な理由はないですよ」

 

「違うのかい? 入院中に女の子がいっぱい来るからてっきりプレイボーイなんだと」

 

「どんなイメージなんですか? 先生から見た俺はどんな人になってるんですか?」

 

自身の威信に深く関わる事柄なだけに、上条は問いただす。

 

しかしそれが更に上条にマイナスイメージが添付されることとなる。

 

「だってね来る女の子同士、君の部屋に着くまで争うように先を急ぐし、絶対に渡さないとか、君の好物がどうだとか。まるで乙女が恋に狂うような姿が目撃されたら、疑うだろう?」

 

その目撃された乙女の目的が上条ならばなお更だ。

 

彼の知らないところで、入院記録更新と共にジゴロ少年、プレイボーイなどという名が広まっている。そしてカエル顔の医者は困ったように首の裏を叩きながら看護婦達の現状を話した。

 

「それにね君に惚れた看護婦は半数近く。父子持ちのうちの看護婦を骨抜き。君は将来ホストにでもなるのかい?」

 

だが、それに上条は答えなかった。

 

いや、答えられなかった。どうせ老人の生甲斐である若人いびりかなんかだろうと思ったが、この医者は看護婦たちをダシにして冗談を言う人物ではない。つまり、ここの看護婦が彼に惚れているのは半ば事実であり既に彼の威信は木っ端微塵に砕け散った。もう修復さへ不可能だろう。

 

麦野も上条から少し距離をとっていた。

 

「おや? 上条君が返事をしないね。どうしたんだろう」

 

「コイツにとって衝撃事実だったんでしょう。理解するまできっと動きませんよ」

 

「そうか。なら君は覚えているかい?」

 

突拍子もない問いに麦野は首を傾ける。

 

「君たちが倒れていると連絡があって救急車を出動させたんだが、連絡をしてくれた少年は事情を話してどこか行ってしまったそうだよ。垣根帝督と言う少年だが、知り合いかね?」

 

医者の口から出てきた言葉に、麦野の血が凍った。

 

表の世界でも、裏の世界でも彼は有名であった。学園都市第二位であり、暗部最強の組織『スクール』のリーダー。認めたくは無いが、この男に勝てる者など暗部には居ない。その人物が学園都市第四位、暗部の女王と言わしめた麦野を助けた。ついででも、気の迷いでもそれは許せなかった。

 

つまり、垣根帝督にとって麦野程度なんの生涯にもならないと確信している。将来、彼女が敵に回ったとしても問題は無いということ。

 

舐められてものだ、と麦野は思う。

 

瞳が地獄の業火のごとく冷たい光を放つ。全てのものを消し飛ばす威圧はここにいない人物、垣根帝督に向けられた。

 

「……ありがとうございます先生。残念ですけど知り合いではありません」

 

隠すことも出来ない殺意を感じながら医者は、そうかとだけ呟く。

 

「時間を取らせたみたいだね? 君も無茶なことだけはするんじゃないよ」

 

上条に言った時よりも念を押す医者に麦野は笑って返した。その笑みさへ、冷たく凍りついたままだった。

 

約束できない事柄なだけに、麦野は返事をしない。

 

だた最後にさようなら、と告げて上条を引っ張って行く。その背中を見ながら医者は口元を歪めた。自分に出来ることは、ここに生きたまま連れてこられた人を救うことだけ。

 

この敷地から一歩でも外に出れば、守ることは出来ない。故に彼女が死なないことを願う。

 

先導するように麦野は自動ドアを潜った。黒い車が目の前に止まっていて麦野が窓ガラスを軽く叩くと直ぐに扉が開き上条を手招きする。

 

ちょっとした逃避行から戻ってきた上条は素直に従う。

 

「こっからは上条が先導よろしく。先ずはアパートでいいの?」

 

「あぁ、そうしてくれ」

 

車に乗り込むと運転手の男が怪訝そうな顔をしたが直ぐに無表情に戻す。

 

「どこまでですか?」

 

「えっと第7学区の男子寮です」

 

「いっぱいあるぞ、かーみじょう」

 

まさに運転手の内心を代弁した麦野は流れていく風景を眺めていた。

 

近未来的風景は白を基本として申し訳程度に街路樹があるどこか殺風景な世界だった。

 

「あ、そこ左にお願いします」

 

でも何故だろう。今はこんな世界も捨てたもんじゃない、と麦野の中で囁いていた。

 

そして彼の隣に居ると、心を独占していた真っ黒い感情が削ぎ落ちていく。

 

「真っ直ぐで大丈夫ですよ」

 

「はい」

 

それはこの少年のおかげなのだろうか?

 

今日はやけに青空が綺麗だった。


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