とある奇跡の平行世界   作:雨宮茂

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裏表の日常

コールが鳴り続ける携帯電話。画面に表示された名前。

 

“電話の女”の文字が不規則に揺れている。揺れの元は麦野の手から腕、そして身体全体が小さく震えていた。血の気の失せた唇が、名を呼ぶ事を拒否している。

 

顔を上げて、目の前の人物を視認する事を避けた。

 

白い床がぼやけているのに、携帯の画面だけしっかりピントがあっていた。

 

「嘘よ」

 

「嘘ねぇ。私が“電話の女”であること?それとも“電話の女”が私であること?」

 

どちらもだ、と言いかけて麦野は噤む。

 

嘘だと言ってしまった意味を自分の中で考える。

 

認めたくなかったのかもしれない。彼女が真の『暗部』の女王であることを。

 

自分ではなかったのだ。指先一つで、言葉だけで闇を動かせる人物こそ『女王』の称号は相応しい。絶対的な命令に逆らえず、仕事を遂行する私はただ暗部の女王だと思い込んでいた。

 

駒だと理解したくなかった我が儘と意地。

 

駒としての女王(クイーン)とプレイヤーとしての支配者。次元が違いすぎる。

 

比べるまでもなく、本名不詳の方が勝っている。優れている。なにより権力があった。

 

「なら、アンタは昔から私を知ってたの?」

 

「微妙だよ。私は“電話の女”として君に出会っている。しかし、……まぁこれはいつか当人に話させるか」

 

愁いを帯びた声だった。本名不詳にしては珍しく、儚い響き。聞いた者の胸の内を、緩やかに締め上げるようだ。

 

鳴らし続けた携帯の電源ボタンを押し、通話を切る。

 

切なく表情を歪めていた麦野を見て、微笑んだ。

 

「全く君は、見ないうちにどんどん人に戻っていくねぇ。彼は凄いよ。本当に麦野さんが落としていったモノを全部かき集めてさ」

 

続きそうで、次の言葉が続かなかった。本名不詳は首を捻り窓の外に広がる青空を見た。昔夢見た、夢の残骸を懐かしむように。

 

だが、その夢は本名不詳の夢ではなかった。悲しいまでに、他人の夢でしかない。

 

「この世界にはルールがある」

 

「どうしたのよ。急に」

 

「『暗部』にだってあったものだ。けど、ギリギリの抜け道って意外とあるもんだ。『アイテム』がそんなに大事なら、この二週間で探すといい」

 

麦野が息を呑んだ。思わず呼吸を止めて、頭の中で本名不詳の言った事を反芻する。意味をしっかり味わいそれが体の隅々に染み込んだ時には、不敵とも禍々しいとも取れる笑みをしていた。

 

『暗部』の時代、表側で女王の名を欲しいままにした可憐で獰猛な、あの笑み。思わず恐怖で歯の根も噛み合わなくなるのに、見る者を虜にする魔性を秘めた嘲笑。本名不詳は表情を動かさず、満足そうにした。

 

焚きつけは成功した。0次元の極点を使わない方法を彼女が見つければ良い。

 

――――しかし

 

残念なことに、一筋縄でいかない存在が複数いる。麦野は頭が良い。それはなんの曇りも無い事実であり、真実だ。汚いやり方だって心得ている。機転だって利く。必要なものは全て揃っていても、勝てないことは沢山ある。質の問題であったり、経験の差でもある。

 

だが、それは簡単な問題ではない。質や経験だけではない。繋がり(コネ)と覚悟が必須になってくるのだ。後者はどうにかなるとして、前者はどうしようもない。

 

なので本名不詳はもう少しだけ、ヒントを出してやることにした。

 

「意気込んでいるところ悪いが、最重要で攻略しといた方が良い人物を言っとくぞ、塩岸と親船と貝積って奴だ。塩岸は統括理事会の中で一番『暗部』に近い存在だ。軍事技術分野を牛耳ってるしな。ある意味LEVEL5の危険性をよく知ってる。必ずこの事に関して一番反発してくるよ。親船なんだが、コネを二週間の間に造れたならそれに越したことは無い。だが敵ならここまで厄介な奴はそういない」

 

「話しにはよく聞くわ。“優しい侵略者”ってね。甘くはない、そういう皮肉でしょ? 確かに味方に出来たら心強いと思うけど、頼める?」

 

麦野の頼みに本名不詳は色の良い返事を返さなかった。

 

「アポ程度ならいいよ」

 

「自力でしろって? ふざけてんの、いくら私がLEVEL5でもVIPにコネが出来る筈ないでしょう。『暗部』と言う後ろ盾も、権力も投げ捨てる小娘と手を組んでいい事なんて何一つ無い。交渉って相手と対等で始めて成立して、協定が組める。お互い何かを犠牲にして。親船はリスクを負う。でも私には無い。メリットもデメリットもね。私ならこんな馬鹿げたこと、死んでもお断りよ」

 

理にかなった反論であった。確かに親船の一方的な負債で終わる協定だ。これが本名不詳なら、権力を分け与えたり出来る。決してマイナスでは終わらせない。

 

だから本名不詳はこう反論した。

 

「これは一方的な負債を背負わせる交渉だよ。けど統括理事会でも能力開発分野と学園都市全体の三分の一に匹敵する権力も保持した私に大きな貸しを作る絶好の機会だ。これを親船が見逃して、無下にするならそれまでの人間だ。けど、目先に拘らず先を見据えられたら彼女は味方するさ」

 

「…………分かった。それでもこっちでもなにが出来るか考えてみる。それより三分の一って、有り余りすぎでしょう? そんなんで議会成立するの?」

 

「するよ。議会に必要な権力じゃないしねぇ。もっと別の財力とか、『暗部』とか研究所を作ること研究者養育とか、学会牛耳ってる影響力とかそんなもん。あとは、極秘」

 

唇に人差し指を沿えて、誘うような興味を駆り立てる響きを残す。誘惑しているようで、拒絶している雰囲気に押され麦野は極秘を聞けなかった。

 

「一応聞くけど、なんで貝積は注意しなくちゃいけないの? 危険性があるとか」

 

「危険なのはそいつのブレイン。雲川芹亜だよ。賢い子だ。相手の裏をかいて先読みし、気づかれぬうちに布石を投じる敏腕。ある一部分で天才の中の天才。私もあれと真夜中から腹の探りあいしてたら、朝まで続くよきっと。そして総合的に負ける自信がある。もしくは完膚なきまで負ける」

 

神妙な顔で俯く本名不詳を茶化すことも忘れ麦野は臍をかむ。今まで、権力を貪り食う古びた老害どもだと思っていた。それだけの認知とも言える。現状はそうでもなく、中には才能と言う芽を早い内から開花させた者を取り入れている。

 

それに、今後一番の敵になるであろう塩岸について麦野はよく知らない。

 

そこの攻略が鍵になるだろう。

 

最初から問題だけが積み上げられ、麦野の意識は高まった。元から目の前に目標と高い壁があれば、暴走列車の勢いで突き進む少女だ。今もう『暗部』からの脱退に意欲を燃やしていた。ここ最近、久々に見る生き生きした姿に、本名不詳はほろり、と涙を流す。

 

こんなに元気なら、私いらないんじゃない? と思ってしまう。全てを駆逐してしまいそうな、味方であれば頼もしい覇気とやる気を感じる。

 

「それじゃ、私は行くね。やらなきゃいけないことが増えたよ」

 

「ちょっと待て!」

 

ハンガーに掛けていた白衣を手に取る姿勢で止まった本名不詳は首を傾げる。伝えることを伝えた彼女にとって呼び止めは意外であった。

 

「私用の携帯貨せ。メルアドと番号交換するわよ」

 

「私用ねぇ。悪戯に使わないでよ? テレクラとか掲示板に晒さないでねぇ」

 

「あ、いいかも」

 

「こいつと来たらっ!? 言った傍からなに言ってんのよ!!」

 

高ぶって口調が可笑しくなった本名不詳を麦野は吟味するかのように見つめる。

 

「なに?」

 

珍しく抑揚のない声が迎え撃った。

 

「私は少なくとも“電話の女”が憎かったわ。出会い頭殺してやろうって思えるくらい。でも、どうしてかしらアンタを殺す気にはなれない」

 

「…………」

 

なにも言わない、返さない本名不詳は白衣を翻し羽織る。腕を通し、襟を正すと窓を開け建物と外の境界線に足を掛ける。

 

窓から強烈な風が吹きつけ、黒髪を靡かせ、烈風の唸り声が麦野の聴覚を乱す。

 

「いつか、……間柄に……も同じ事………?」

 

「え、ちょっと! なんて言ったの!?」

 

音を立てて、カーテンが一心不乱に舞う。それだけでなく、耳元を疾風の速さで通り抜ける風の音も加わり一層本名不詳の言葉を、虫食いだらけにした。

 

「またね……」

 

別れの言葉は、再会を意味していた。“また”と彼女は言った。

 

最愛の人物との別れを惜しむように、本名不詳は諦めた微笑を浮かべ、窓から飛び出す。

 

「まったく」

 

敢えて麦野は窓辺に駆けつけなかった。飛び降り自殺ではない。どうせ、空間移動でもしたのだろう。

 

吹き付ける風が髪を舞い上げる。顔面や首筋に打ち付けひりひりと痛む。なので窓を閉める。その時、分かっていながら下を覗いた。そこには血溜まりも、なにもないのっぺりとしたアスファルトで舗装された駐車場。安堵して肩の力を抜くと、今後のことを考えながら掛け替えの無い友と唯一無二の愛した者の所へ、その足を進めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

飛び出した時、空気の塊が体中を殴った。そう錯覚するくらい、強い衝撃はすぐさま消え世界は、見える風景は変貌した。

 

全く別の色彩。空気。背景は、本名不詳がよく知る所で、一番落ち着く場所でもあった。、第一八学区・霧ヶ丘女学院の近くにある素粒子工学研究所。科学分野に幅広い本名不詳にとってここは、一番長く住み着いていた場所でもあった。『ピンセット』を開発したのは木原神無だが、本名不詳はそのバージョンアップに携わっていた。

 

ほっと息を抜いた瞬間、本名不詳は本能が警告するままにもの凄い勢いで回転し、持っていたカッターナイフを振りかざす。回転の勢いを乗せた一撃は、何も無い所を通過したが油断なく構える。肌に(やすり)をかけられたような殺気を感じて、身構えない馬鹿は居ない。そして後ろを取った犯人を見て本名不詳は、予想通りすぎてため息をつきたくなった。

 

「お遊びで人を殺そうとするのは、いささかどうかと思うよ。数多」

 

「殺しても生き返ってくる化け物が、よく言うぜ。本名不詳(コードエラー)

 

一度脱色して、金髪に染め直した短い髪に、顔に彫った悪辣な刺青。元からの悪人面と相まって見る人に一層恐怖を与えた。

 

木原という狭くて深い世界にも知れ渡った研究者、木原数多が本名不詳を見て嗤う。

 

それは死してなお、生かされ続けている本名不詳への皮肉。その言葉は確かに本名不詳の心臓に楔を刺した衝撃をもたらす。反面、彼女の顔は穏やかに笑い受け流していた。

 

「で、いきなり殺そうとして物騒だねぇ。なにかいいことでもあった?」

 

間延びした声に怒りはなく、折角トラウマと劣等感(コンプレックス)を突いた嫌味は風に流された。

 

「さぁどうだかな。それよりアレイスターの命令を破ったそうじゃねぇか?」

 

「あぁ、そんなことか。不肖不出来のこの私だ。失敗が多いのはいつもだろう? 今回に限ってないのに得意面してガキ大将じゃあるまいし」

 

「ハハハハ!! そうだな。だけどよ今回は、お前にそのことでペナルティーがあるとか」

 

お互いを貶す行為に終止符を打ったのは、木原数多だった。彼は内ポケットからカードを取り出すと本名不詳に放り投げた。あまりにも軽いそれは行き着く前に、床に落ちる。一度見比べてからカードを取ると、そこには単純に日時だけが書いてあった。

 

人形の様に表情を動かさない本名不詳が見れて満足な木原は適当な椅子に座って眺めた。

 

「よっぽど間抜けなことをしたみたいだなぁ。良かったじゃねぇか死んでて。本家の面汚しにならなくてよ」

 

「そう、だね。あそこ怒らせると恐ろしいからさぁ」

 

後は言うことなど無いと言わんばかりに背を向けて本名不詳は歩き出した。

 

弱味を見せるのは、これが初めてではないがくれてやるものでもない。特に事ある事に出会っては、衝突する木原数多に知られたらと思うとゾッとする。

 

そして、『木原』は恐ろしい。

 

木原数多が言ったように、これでまだ自分が『木原』に籍を置いていたら厳罰は覚悟しなければならないのだ。それも、命を消される覚悟。

 

「これが憂鬱って言うんだっけ。…………さて行きますか」

 

部屋を出て廊下を歩く。手の中にある紙に書かれた日付に本名不詳は困惑していた。ペナルティが執行される日がなぜか遠い。いつもなら二日後など近日中なのだが、今回は三週間ほどの猶予があった。

 

今までとは違う行動に出たアレイスター。そこになんの思惑があるのか分からないが注意したほうがいい。

 

日常から通常から表から、切り離された世界の影で、どうしようもない闇の底。

 

どんな光も通用しない深海の闇は着実に進行していた。

 

「あぁ、プランを進めないと。〈幻想殺し〉の覚醒……計画、を実行に、伴い…………沈利ちゃんが」

 

曖昧で不安定な人格だった。人形になろうとして、本能が反抗している。

 

今、彼女の脳内では性格と判断を司る部分に埋め込まれた電極が指令を送っていた。

 

頭を串刺しにされたような痛みに耐え、本名不詳は歩く。命令よりも大事な者を守る為に、初めて道具を棄て人であることを選んだ。

 

鈍痛と吹き出る汗が視界を歪ませる。それがどうした。

 

思考が散逸してしまう。大事な『アイテム』の脱退計画なのに。だからなんだ。

 

もう一度練り直せばいい。

 

痛みなど耐えられる。

 

自分の足に縺れて震える膝が床に落ちた。頭を打ちつけ、内容量以上の激痛が突きぬけて本名不詳の視界は暗転した。

 

 

 

 

 

 

 

 

「学校か、懐かしい響きねぇ。私は別に行かなくてもいいし」

 

「行けよ。沈利はもっと人と接するべきだ」

 

「超そう思います。麦野は勉学より人を学ぶべきでしょう」

 

「いやよ。めんどくさい。それに絹旗だって人に言えないでしょう。知人に依存するくせに」

 

絹旗のリハビリを手伝う麦野と上条は、明日について話していた。

 

上条は学校へ行くらしい。懐かしい単語だと言い出した麦野に、上条は渋い顔をしている。理由は言わずもがな、麦野の性格だ。他と混じる、馴染むという行為にあまり関心がない。むしろ嫌っている。

 

「それは、超頼りになる人に頼ってなにがわるいんですか!」

 

「開き直るな馬鹿。でも、私は行っても学ぶことないわよ学校だなんて」

 

「人との触れ合い方とコミュニケーションを学びに行くと思えばいいんじゃないか?」

 

もっと他人との接し方を考えて言ったつもりだが、麦野のこめかみがピクリと波打った。

 

「人をコミュ障みたいに言ってんじゃねぇよ」

 

悪党も泣いて逃げ出すくらいの形相で睨まれた上条は、全力で首を上下に振った。

 

「お、おう。分かった」

 

「いやいや麦野は超コミュ障でしょう」

 

静まりかけていた怒りの炎が燃え上がった。

 

「絹旗ぁ……アンタといいフレンダといい、最近生意気になったわね。そんなに早死にしたいか?」

 

「えぇ、超生意気になりました。軽口の叩けない友達なんて、超息詰まるじゃないですか」

 

友達という言葉が麦野の胸を撃った。仕事仲間で繋がっていた間柄。『アイテム』の一員という名目で協力してきた者達が、友達になってまだ日が浅い彼女にはどうすればいいか分からなかった。ここで軽口を言うべきか、それとも引き下がるか、どの選択が友達として相応しいか答えが分からない。

 

言葉に迷っている彼女は弱弱しく、迷子に見えた。服の裾をぎゅっと掴み、俯いた顔は不安で彩られ、瞳は揺れている。

 

すっかり冷たくなってしまった麦野の手に、少し小さな手が添えられた。

 

視線を上げると絹旗が優しく微笑んでいた。

 

「友達と言いましたが、私も友達について超知りません。一緒に知っていきましょう。いつか友達と一緒に買い物行ったり、映画を見に行きたかったんです」

 

「うん、みんなで行こうか」

 

「嬉しいです!! ならやっぱりB級映画を超堪能しませんと」

 

「絹旗一人に合わせれないから、それはまた今度ね」

 

絹旗は肩を落としたが、残念そうではなかった。むしろ楽しそうにしている。好みの映画を見るより、友達として遊ぶことの方がよっぽど楽しみなんだろう。

 

「あれ、俺って空気?」

 

「あ、ウニ頭のこと超忘れてました」

 

「上条も来る? 女しか居ないけど」

 

確かに『アイテム』は女しかいない。それに友達と遊ぶのに他所の人間が勝手に入って来るのもどうかと思い、辞退を決意したら絹旗が名案だと言わんばかりに声を上げた。

 

「ならウニ頭も超来て来てください。超奢って貰います」

 

「そこまではっきり言われたら行く気も失せるだろ!」

 

「口答えですかバフンウニ!」

 

「ウニ頭ならまだしも、バフンは止めろ!!」

 

「では、バフン。奢らなくていいから超来い」

 

「いや、バフンって言うな。そこまで言ったならウニを付けろ! そして命令形!?」

 

兄妹喧嘩に見える二人はさらにヒートアップをしていく。ついには、昂ぶった絹旗の拳が上条の頬を掠った。

 

「誰が小学生ですか!?」

 

「お前こそ! いい加減名前で呼べ!!」

 

憤慨のあまりリハビリ中の左腕を振り回し、絹旗のベッドから飛び降り上条は腰を落とし臨戦態勢に入る。麦野はその二人に挟まれる形になり、ため息をついた。ここできつくお灸を据えるのはいいだろう。

 

「ほら下らない喧嘩は止めなさい。ひき肉にされてぇか?」

 

「むぅ、ですかここでバフンをどうにかしないと」

 

「きぃーぬはたぁ……ここでどうなるかアンタ次第よ。病人は治ることが仕事なんだから、リハビリ続けるぞ」

 

悔しそうにしたが、腕の調子を確かめていると激痛が走ったのか、呻き声を上げながら床に座り込んだ。肩を貫いた〈原子崩し〉の光線は神経を切断していた。ここまで恢復したことが奇跡に近い。

 

冥土帰し(ヘブンキャンセラー)の技術は他の医者などを寄せ付けないほど卓越していた。信念がそうさせるのか、なにかの矜持が駆り立てるのか誰にも分からない。

 

「くぅぅぅ、痛いです。超痛いです!」

 

「ナース呼ぶ?」

 

「そうして下さい。麦野とかみ……ウニ頭は帰るんですか?」

 

「おい、なんで言い直した」

 

もう少しで名前を言ってくれそうだったのに、と悔しがる上条とは反対に絹旗は安堵していた。どうしても名前を呼びたくないらしい。上条にとってはいい迷惑だ。

 

「俺も明日は学校だし帰るよ。絹旗とフレンダはまだ入院だろから、お見舞いに来るよ」

 

「来るならフルーツの盛り合わせを超希望します」

 

「現金な奴だな。普通女の子なら花束だろ?」

 

気が合うのか、喧嘩友達になっていた二人。自分を偽らない応酬を目じりに、麦野は羨ましいと思ってしまった。

 

ナースコールを押して麦野は自分のバックを手に取る。

 

「仕事の時とか、気にしなくていいから。フレンダにもよろしく」

 

「……呼んでもいいんですよ?」

 

「ばーか。ゆっくり寝て早く元気になればそれでいいの。でないと身長伸びないわよ」

 

身長について弄られた絹旗はむすくれる。自分より低い位置にある頭を撫でると、少しだけ照れ笑いを浮かべた。

 

「分かりました。超来てくださいね」

 

「絹旗の好きそうな雑誌でも買ってくるわ。ここは暇でしょう?」

 

「えぇ、だから絶対に超来てください」

 

何度も念を押す絹旗。もう一度頭を撫でて病室を後にした。

 

上条と並んで病院を後にする。なんとなく、無言でいると上条が夕焼けの赤い空見ながら聞いた。

 

「なぁ沈利。本名不詳(コードエラー)が居なくなったらしいけど、なにか知らないか?」

 

「知らないわ。どうして気になってんの?」

 

内心どきりとした。まさか上条の口から本名不詳の名前が出てくるとは、思ってもいなかったからだ。

 

実際、麦野も本名不詳の所在は知らない。最後の会話は有耶無耶に終わってしまっている。携帯の番号も分からないまま。仕事用の携帯番号では盗聴の可能性があって、下手に掛けられないのだ。本名不詳について知りたいのは、麦野の方だったりする。

 

「なんて言うか」

 

戸惑ったように、そしてどこか恥ずかしそうに頬を掻きながら上条は麦野に視線を合わせた。

 

「お礼が言いたいんだ。こうして沈利の全てが知れたのも、お前と一緒にいたいと自覚したのはアイツのおかげなんだよ。沈利が直隠しにしようとしていた事をアイツが俺の前に突きつけて、分かった。そんでこうして二人でこの道を歩いてる。言うのすっごく恥ずかしいけど、幸せだ」

 

あ、と声が漏れてしまった。別に悪いことではないが、黙ってしまう。

 

思いもしなかったからだ。麦野は特別、本名不詳に感謝などしていない。それは彼女がそう仕向けたのだろう。認識も位置も、行動さえ麦野は本名不詳に操られていた。

 

今回の暗部脱退にしてもそうだ。もし、本名不詳が最初から『アイテム』の脱退まで視野に入れていたら麦野はここまで燃え上がらなかった。初めから理想とかけ離れた提案をし、自力で気づくまで待ち、そこから理想えと手を伸ばした。

 

そこが気に入らなかった。なにからなにまで、彼女の計算に従って世界が回っている気がする。

 

まるで人が遊戯(ゲーム)の駒だ。想いも思想も本名不詳の前では障害にならない。大きな大河の流れを止められないように、進行する状況は流れに組み込まれている麦野には不愉快だった。自分の意思を尊重し、生きている人間ならば誰もが嫌悪するだろう。麦野はそういう一人だ。故に本名不詳が好きになれない。

 

「私は、確かに隠そうとしてたけど本名不詳がこんなに大きく動いたのには、もっと別の理由があってその為だと思う。裏があるから信用もしないし、好意も感じない」

 

「確かに別の理由はあるんだろうさ。けど、100%裏ってわけでもないって俺は信じてる」

 

「随分肩を持つのね」

 

拗ねたように唇を尖らせた麦野に上条は微苦笑した。

 

彼女がそう言う気持ちも分かる。知らないところで交わされた上条当麻と本名不詳の約束が、彼に確信を与えていた。鮮明に思い出される。

 

麦野が『アイテム』と衝突していた時に、上条は本名不詳と対峙していた。そこで垣間見た彼女の表情があまりにも優しくて、手放しに喜んでいて忘れられない。最後に殴り飛ばして自分の中にあった思いをぶちまけた時、本名不詳がか細く口にした言葉は記憶に深く刻まれてもいる。

 

『私じゃできなかったこと、してくれる?あの子を、大切に思ってる?』

 

『助けてあげて―――――』

 

そう言われて、任せろと返していた。

 

今になれば、なぜ本名不詳は“麦野沈利”に固執するのか気になる。助けたいのか、どうしたいのか。

 

一歩先を見ながら考えていると、亜麻色の髪が視界に広がった。鼻腔を包む甘い香りはシャンプー。視覚が脳に伝えた情報は、覗き込む麦野の顔だった。

 

「おわッ!?」

 

「返事くらいしなさいよ」

 

「ごめん、えっとなんだって?」

 

疲れたというように盛大にため息をついて麦野は背を向けた。慌ててその背中に追いつこうとしたら、髪から覗く耳が赤いことに気づいて、足を止める。

 

「だから、その、明日はお弁当作ってあげるから、家を教えなさいよ!!」

 

最後はもう勢いに任せていった麦野は上条の顔が見られなくなっていた。人生初と言っても過言じゃない試み。

 

上条のは笑顔で応えた。

 

「麦野のお弁当か、楽しみだな! なら材料も買いに行こうぜ」

 

「私が作るんだから期待はしていいわよ。ちなみにシャケは入れるから」

 

「ですよねー」

 

顔色が戻った麦野は、上条の手に自分の手を絡ませる。

 

女の子特有の柔らかくしっとりとした質感に心臓が跳ねた。それからドクドクと鼓動が早まっていくのを感じる。ちょっと情けないと思ってしまう今日この頃。実際、手を繋ごうか繋がないか迷っていた自分とは違い、麦野は素直に自分を求めてくれた。そのことが嬉しくて、お裾分けがしてやりたくて頭を撫でる。気のせいか、麦野の手が温かくなった。

 

そして、上条は昼に起きた出来事を回想する。

 

時間は昼を少し過ぎたくらいか、麦野は病院食が好きではないらしくコンビニにシャケ弁を買いに行って上条は滝壺と昼食を食べていた。

 

薄味なのが唯一の難点である病院食。しかし麦野みたいに勇気ある行動ができない上条は文句は言わない。のんびり食い進めていると、滝壺が箸を置く。

 

「ごちそうさまか?」

 

「違うよ。ねぇかみじょう、おいしい?」

 

「うーん文句は言えないけど、薄味なのがちょと」

 

「濃い味が好き?」

 

両手でコップを持って首を傾げる滝壺は可愛らしかった。

 

「そこまで濃い味は好きでもないかな? 卵焼きは甘いのが好きだけど」

 

「へぇ。それじゃ他に好きなのはなに? から揚げも甘いのが好き?」

 

口に食べ物を入れた時だったので、頷く。それを見て滝壺はメモ用紙に書き込む。特になにも疑問に思わなかった上条は食事を続けた。

 

「えっと、嫌いな食べ物ある?」

 

「ん? ………ないな。どうした、今度のパーティーの時の参考?」

 

「うん」

 

書き終えた滝壺は、箸を取るとご飯を食べる。

 

それから思い出したように聞いた。

 

「学校は学食?」

 

「ああ、だけど俺は弁当だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな会話をしたのだ。そしてお弁当。

 

タイミングがいい、ついそんな風に思ってしまう。

 

「晩飯の材料も買っとくか」

 

値段を見ながらなにを作るか考える。今回の入院費は全部、本名不詳が払うことになっているので、あまり財布を気にしなくていい。勿論本人はそんなこと知らない。カエル顔の医者が請求先くらいは分かるから、と押し切ってしまった。確かに怪我の原因は本名不詳だが、納得していないのに払わせるのも気の毒だ。

 

「でも、家計の為だ。犠牲になってくれ本名不詳」

 

心の中で合掌。しかし、彼女の月々の収入を聞けば哀れみなど感じなくなってしまうだろうが。

 

学園都市の食品価格は外に比べて安い。こういった物に税をあまりかけないからだ。その代わりに漫画やアニメ、参考書と言った娯楽的なものから勉学に必須の物に多く課税している。

 

なのでいくら支給金が少ないLEVEL0でも、やりくりすれば飢え死になどありえない。しかし不幸な少年は思わぬ出費に頭を悩ませるので、たまに飢え死に寸前だった歴史を持つ。人一倍エンゲル係数に敏感な男と言ってもいいかも知れないのだ。その彼は、いつも通り値段の安いモヤシに手を出そうとすると、麦野が止めた。

 

「モヤシなんて買ってなにに使うの?」

 

「え? 上条さんの主食はモヤシですけど」

 

「………………はぁ?」

 

唖然とした麦野に上条は首を傾げた。

 

「どうした?」

 

「いや、あんたモヤシが好きなの?」

 

「値段が安くて好きだな」

 

「OK、分かった。ジリ貧だってよく分かった。どうりで身長小さいのね」

 

「身長は言うな!!」

 

気にしている所を串刺しにされて、血涙状態の上条を他所に麦野はこれからの事を必死に考えていた。

 

上条当麻という人間は妙に律儀で、男ならこうすべきだ、という考えも持っている。この場合、ご飯を作ってもらうのに金まで払わせることは、彼は良しとしない。いくら苦しくても自分で払おうとするだろう。できるだけ負担を減らしてやりたい麦野は、どうすべきかLEVEL5の頭脳を駆使して思考に走った。

 

無理やり押し通しても、お互い蟠りを残してしまう。それなりに相手が納得する理由、そして長続きしそうな答えは――――

 

「よし、上条。私は料理の練習がしたいから実験台になりなさい」

 

「実験台ってなにすればいいんだよ?」

 

「簡単よ。私が作った物を食べて。失敗してもね」

 

素早く上条の手から買い物かごを奪うと、野菜や肉を入れていく。二、三日分の食品やその他で調味料を詰め込んだ麦野は満足そうに頷く。しかしそれを見た上条は青い顔をしていた。無論、自分が払うものと断定しているのだからあたりまえか。

 

麦野は買い残しがないか確認しながら、遠い目をした上条に話しかけた。

 

「お金は私が払うから」

 

「い、いや。俺が払うよ」

 

ちょっと誘惑に負けそうになったが、踏みとどまった。本当にしぶとい奴だ、と思いながら麦野はそれでも微笑んでいた。

 

「言ったでしょ? 失敗しても食べてもらうって。それに実験台なんだからここで金払ったら、上条一人だけ損するじゃない」

 

「え、でも作ってもらうからなぁ」

 

「黒焦げのもん出てきて、それでも同じ台詞言える?」

 

「沈利が俺の為に作ってくれるんだ。俺だってなにかしたい」

 

真剣な眼差しが、麦野を貫く。

 

彼なりの愛し方だろうか。それが嬉しくて、麦野は恥らうように俯いた。

 

「なら、今日泊めてくれる?」

 

「え?」

 

「上条だって一度は私の家に来たんだからこのくらい、いいでしょう?」

 

「ええええええええええぇぇぇぇぇぇぇ!!!!??」

 

スーパーの会計目の前で、上条の絶叫が迸り客と店員の冷たい視線に晒されたのは、言うまでもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「と言うわけで、今回私はむぎのにかみじょうのお弁当を作らせるように誘導しました」

 

「おぉ、いきなり滝壺はやってくれる訳よ」

 

「超面白そうな展開になって来ましたね。これからどうするんですか?」

 

白い病室に三人の女の子の声。それは楽しそうに弾んでいた。特にフレンダは念入りに手元の機械を弄る。

 

「フレンダ、最新の盗聴器の具合、超どうですか?」

 

「ふふん! 任せておきなさいって訳よ。あと二人の関係はどこまで行くと思う?」

 

「うーん、超行くとこまで?」

 

「結婚?」

 

「いや、滝壺それは行きすぎ。言っちゃ高校生の恋愛な訳だし、真夜中の激しい攻防戦が限界じゃない?」

 

「ほほう…………」

 

ニヤニヤと絹旗は笑う。確かに、結婚までいかないが行けるなら、男女の営みか。

 

興味がないと言えば嘘になる絹旗は期待に胸を膨らませる。

 

「絹旗戻ってこい。でも、麦野の乱れた姿…………。隠しカメラも用意する訳よ」

 

「二人とも、戻っておいで?」

 

滝壺の制止の声は空しく壁に染み入った。


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