とある奇跡の平行世界   作:雨宮茂

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罪の存在条件

「二週間だ。二週間後に統括理事会に集会を開くように統括理事会長に申し入れた。大丈夫通るよ。だから二週間後迎えに行くからさ」

 

そう言って私は目の前の病院から逃げるように立ち去るはずだった。だが現実は簡単に逃がしてくれない。主に精神が疲弊し気力だけで動いていたような私を春生の奴が無理やり病院に押し込め、ベッドに寝かされ、案の定ぐっすり寝てしまった。ちなみに時間は午前十一時。『おはよう』には遅すぎる時間帯だ。

 

「で、起きて早々見るご尊顔が、カエル顔とはねぇ。ついてないよ」

 

「そう言われると、悲しいよ。元気そうだね? 本名不詳(コードエラー)

 

挨拶をそっちのけで棘を飛ばす本名不詳。冥土帰し(ヘブンキャンセラー)はカルテを片手に彼女の脈を計っていた。

 

「随分、無茶をしてるね? 君の能力は便利だが、あまり使いすぎない方がいい。『人間』の枠組みから外れてしまうよ」

 

「心配御無用。私はそれを望んでいるんですからね師匠」

 

「また君は……」

 

口紅を塗っていない割にはとても紅く毒々しい笑みで本名不詳は答えた。絡みつくようなその声に冥土帰しは、悲しそうな顔をする。

 

「人を辞めたとして、君になにがのこるんだね? それに、僕は君の裏切りを許そう。だからあの世界からこっちに戻っておいで」

 

「許す? アッハ! アッハハハハ!!」

 

体を小刻みに震わせ本名不詳は牙をむく。

 

「馬鹿かアンタ! 誰も許す許さないなんて聞いてない!! 罪ってそんなもんだろう!? 世間体と自分の中での清算が必要だ。テメェの一存で私が奪ってきた人の命までも、不問になるのか? 違う、もう一人だけの意思だけでは、私のしてきたことはどうにもならない」

 

だから、と本名不詳は続ける。

 

「だから、大勢の人を救ってきた師匠でも私を許せる事はできない。私自身が納得できる罪滅ぼし。そして世間の全てが認めてくれるような、事をしないとね。…………もし許されようと思っているなら。生憎と私はそんなこと思って、なくてね」

 

眠たいのだろうか、段々と呂律が回らなくなってきた本名不詳は舌打ちすると、何も言わず微笑む冥土帰しを睨み、吐き捨てる。

 

「罪って奴の存在条件。それは簡単になくならないもんさ。……命を、扱う…アンタだから、……私を許さないで………」

 

「もう寝なさい。話はまた後で聞くことにしよう」

 

余程疲れていたのか、本名不詳は長く息を吐くと、あっと言う間に寝てしまった。

 

規則正しい寝息に、冥土帰しは本名不詳の腕を薄い布団の中にしまうと穏やかな寝顔を見つめながら独白した。

 

「確かに、僕だけではもう君の罪はなかった事には出来ない。しかし、君が僕を騙した。この事については僕の一存でいいんじゃないかな?」

 

それでも本名不詳は許されたくないのだろう。贖罪を見つけ、遂行させるまで、彼女は誰の許しも乞わない。

 

立派だと思うと同時に、とても意固地だと思った。

 

昔とは違う確固たる意志を手にした彼女は、ただ前を向いて進んでいた。しかし自身が傷付く事は厭わない。医者としてと言うより、人として心配だ。

 

「さて、行かないとね?他の患者さんが待ってるから」

 

静かに退室した冥土帰しは、医者の顔をして別の患者の所に向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三人の人がロビーに向かいながら話し合っていた。

 

その内の一人、木山春生は心配そうに表情を曇らせる。

 

「そうか。本名不詳は理事会の……どこまであの人は闇に浸かっているんだ」

 

「正直言って一番深い所の近くってのは間違いないでしょう」

 

「学園の政治を仕切る人達なのに危険なのか?」

 

木山の危惧に麦野は同意見だった。裏の顔を知る麦野としては、統括理事会は最大の敵になることがある。暴走の抑圧制御を任される『アイテム』だ。統括理事会の一部と派手な交戦をした記憶がちらりと過ぎる。

 

そこに上条の一般的思想。認識の差が天と地ほど離れていた。

 

「政治をやる人間だから罪を犯さないって事はない。むしろ全体に見えない一部の世界だからこそ、色々やりやすわよ。それに、一度豊かになると以前の生活出来ないし、余計金を欲しがるわ」

 

「ふーん。政治家は表立って金貰えないから、『暗部』で稼いでるのか?」

 

まぁそんなとこ。それだけを言って麦野は話を打ち切った。上条にこれ以上は教えられない。

 

なによりロビーに着いた。三人はそのまま正面の出入り口から外に出ると、見栄えの良い外車の側まで来た。そこで木山が振り向く。

 

「見送りありがとう。それでは忙しい身だからね。行くとするよ。麦野さんに上条くん、またいつか」

 

「そうね、都合がよくなれば会いに行くから」

 

その言葉に木山は嬉しそうに笑う。最初の時、見た迷いや不安。自分の中の蟠(わだかま)りが随分と無くなり、少し素直な言葉になっていた。

 

いい方向に変わったと素直に思うし、本当に喜ばしい。

 

その彼女を変えてくれた上条も、また来ると言ったので木山は少しだけ茶化した。

 

「惚気話を聞かせに来ないでくれよ? 見ているだけで十分なんだから」

 

「な!? 別にそんなこと!」

 

慌てる上条と違い麦野は何か考えているのか、少し眉間に皺をつくり明後日方向を見ている。

 

「冗談だ。それより、来るなら連絡してくれ。片付けとかしないといけないからな」

 

車のドアを閉めるとエンジンを掛け走り出す。直ぐにビルの雑踏へと姿を消した。

 

「行くか麦野。…どうした?」

 

振り向けば麦野は思い詰めた表情をしていた。

 

「うん。惚気話にしても、ネタが必要よね。だから、先ずは名前で呼んで?」

 

「……麦野?」

 

「違う。その、えっと、…………沈利って呼んで」

 

あまりの衝撃に上条の動きが停止した。

 

思考だけは緩やかに稼動しているが、いつもより格段に遅い。

 

「そ、そうか。うんでも」

 

「嫌とは言わせないわよ?」

 

「……う…」

 

目が笑ってない。その微笑自体、なんら問題はないのだが、目が本気だ。ここで断れば何をされるかわかったもんじゃない。恐怖半分、恥ずかしさ半分の上条は意を決して彼女の名前を呼ぶ。

 

「―――沈利」

 

「ぅ、やっぱり麦野でいい」

 

しかし意外にも彼女が見せた行動は、可愛らしいものだった。

 

上条から顔を背け、赤くなったそれを必死に隠す。だが、栗色の髪の間から見え隠れする耳は真っ赤で、上条には今の麦野の表情が手に取るように分かる。

 

「なんで“沈利”は駄目なんだ?なぁ沈利?」

 

「うるさい! 上条、遊んでるでしょう!?」

 

「いや、これで遊ばない手はないだろ?」

 

“沈利”と呼べば呼ぶほど面白い反応を示す麦野。別に嫌がっている訳でなく、純粋に恥ずかしいようだ。

 

「とにかく、麦野がいいの」

 

「訳くらい教えてくれよ。そしたら考える」

 

「………くすぐったいの。ほら、私って恐怖の対象とで『暗部』とかでも安易に気安くする奴いなくて。みんな苗字で呼ぶわ。酷い奴は能力名。だから、やっぱり駄目ね。まだ人に戻るには早すぎるもの」

 

昔、その単語は辛いものでしかない。

 

理解してる。自分の対応も悪かったと。だが覆せない。だから今からがある。

 

しかし急には麦野は変われなかった。

 

「本当にこの世界から抜け出せるって限らないし」

 

「そうか。なら益々、沈利って呼ばないとな」

 

「なんでよ!」

 

「昔の辛いこと、具体的は分からないけどさ、俺は麦野沈利が好きなんだ。俺は昔お前が出会ってきた奴等とは違う。一人の人として見てるんだよ」

 

毒気を抜かれた麦野は、緩やかに首を振ると空を仰ぐ。どこか楔を断ち切ったその横顔を上条は宝物のを見つめるように眺めた。

 

「下の名前で呼んだ奴なんて、両親に家令と専属のメイドだけだった」

 

「それじゃ、こっちに来てから誰も名前を呼んでくれなかったのか?」

 

その問いに麦野は思い出したように声を上げた。

 

「あ、いた。こっちに来た時、私の能力開発のチームの一人がやけに構ってたわね。なんか、妹を可愛がる姉みたいな感じなのかしら?」

 

「いい人だな。どんな感じの人だった?」

 

何せ昔の、しかも十年以上前だ。古ぼけた記憶の中に居るあの人は、今の自分と変わらないくらいの女性だったと言うだけで、それ以上手掛かりがない。

 

「上手く思い出せないから、歩きながらでいい?」

 

「いいぞ。随分会ってないんだな、その人と」

 

「当たり前よ。その時から私の開発倍率高いし、研究者なんて日夜取っ替え引っ替え。かなり若い方で私の開発にはかなり長く居たんだけど、勢力争いかなんかで消えたみたい」

 

カツカツとロビーの床を踏みしめ麦野は懐かしそうに語る。

 

「名前なんだっけ? あん時忙しかったもんねぇ。生活スタイルや常識通用しなくて」

 

「俺は楽しかったぞ。同年代の子と集まって寝泊まりしたから、なんか新鮮でさ」

 

「へぇ、上条達はそんな感じだったんだ」

 

思わず上条が聞き返した。

 

「沈利は違うのか?」

 

「ナチュラルに定着させないでよもう! まぁ、私は若干隔離扱いだったわ。なんて言うか、最低限の交流しかなくて居辛かった」

 

幼少期から同世代と触れ合わせられなかった麦野だからこそだろう。まだ人と接するのは苦手なようだ。

 

慣れ親しんだ『アイテム』にも傍若無人で不器用なのに、殆ど知らない人にはどうなるか。

 

出来るならあまり想像したくない。

 

「LEVEL5だからって幸せじゃないんだな」

 

人と触れ合えない辛さ。そんな時代があった上条には麦野の言葉の中にあるなにかを掴んだ。

 

そんな麦野は自嘲する。

 

「むしろ逆ね。LEVEL5だから幸せなんて有り得ないのよ。他は徒党を組めるわ。でも覇者として扱われるLEVEL5には、おいそれと泣く権利もない。………出来た人間じゃ、ないのにね」

 

痛かった。人として扱われない悲しみが、伝わってくるようで。

 

上条の頭の中にノイズが走った。

 

石をぶつける子供たち。それを見て『なんでもっと石をぶつけないのか』と言う親達。その堂々とし過ぎた虐めを黙認して、無視を決め込んだ保育士。

 

悪夢のような思い出。自分と麦野はよく似ていると思った。

 

望まない境遇をただ感受するしかなかった過去。

 

しかし、とある所で対極になってしまう。自分が苦境をバネに跳躍したなら、麦野はそこで折れて沈んでしまったのだ。

 

強靭な力に不釣り合いな未熟な精神。それは今の麦野でさえ苦しめる。

 

「出来た人間じゃないけどさ」

 

心の重圧を消し去る芯の籠もった麦野の声が、上条の耳朶に触れた。

 

「こんな私だって、出来ることやらなきゃいけない事はあるのよ。麦野沈利(わたし)が弱いままだと、周りが苦しむ。今回がその例ね」

 

自分の失敗を認め、過失を認め、短所と欠点を見つめ始めた彼女は言う。

 

「強くなる。急に変われないから、変われる準備ってやつをするわ。その第一歩が―――」

 

言葉を区切り、麦野は息を吸い込んだ。

 

 

 

 

「フレンダと絹旗、滝壺に謝る。私の決意表明兼、本当に悪かったって思ってるの」

 

 

 

 

彼女は迷いなく宣言した。表情には確かに後悔と、どこか爽やかなものがある。昔は昔、覆らない過去は教訓にするしかない。“今”のありようを知った麦野の瞳は初めて出会った時とは比べ物になかないくらい輝いていた。

 

「大丈夫だ。もし沈利が倒れそうになったら」

 

優しく麦野の左手を右手で握る。

 

「俺がいる。なにがあっても助けに行くよ」

 

流れてくる温もりは、求めて止まない確かな日溜まりだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ごめんなさい!」

 

「……む、ぎの?」

 

記憶する限り、麦野沈利という人間は人に、特に目下の存在に謝るということをする人間ではない。一方的に非を認めず自分だけを信じて突き進む。良くも悪くも女王なのだと絹旗は思っていた。凛々しく完全無欠で、才色兼備。その欠点のある人間性を差し引いても、自分は彼女に惹かれていた。完璧だから。

 

「え、ちょ、超なにしてるんですか?」

 

思いの他、あっさりとその認識は崩れ去る。

 

「なにって、迷惑かけたから謝ってんのよ」

 

そこまで驚かなくても、そう言いたげに頬を膨らませた麦野は、およそ『アイテム』に対する態度ではなく、人と接するものであった。

 

「いいんじゃない絹旗。結局、麦野が謝るって事は明日は地球滅亡なんだから、最後にいい思い出が出来た訳よ!」

 

「よしフレンダ、表に出ろ」

 

「入院患者なんだからそれは無理って訳よ。上条はそれでこってり絞られた訳だし」

 

カエル顔の医者はなにも言わなかったが、看護婦に長々と説教を喰らった上条は苦く笑う。

 

「止めといた方がいいぞ。二時間は説教だから」

 

「フレンダ達は上条が超怒られてるの見たんでしょう?いいなぁ、私その時、超手術中だったから見れませんでしたよ」

 

「悔しそうに言うなよ。結構キツいんだからな」

 

思い出しただけでも耳を塞ぎたくなる。絹旗はそんな上条を見て本格的に悔しがった。

 

 

「むむむ、さぞや見ものだったんでしょう。防犯カメラに超映ってませんかね?」

 

「難しいんじゃない。防犯カメラとか基本音声入らないし」

 

それを聞いて絹旗は残念そうに肩を落とした。

 

「超仕方ないですね。いつか面白いネタが来ると信じて、ウニ頭にはコーラを買ってきてもらいましょう」

 

「あ! なら私は抹茶ラテをお願いする訳よ」

 

「私が買ってくるわよ。上条は一応患者だし」

 

「お願いね」

 

上条を気遣い麦野が行くと、その背中にフレンダと絹旗が手を振る。

 

パタンと扉が閉まると素早くフレンダが上条を手招きした。

 

「上条こっち来て」

 

「なんだフレンダ?」

 

フレンダと絹旗のベッドの間に立った上条に二人は内緒話をするかのように、声を潜めた。

 

「どうした訳よ? あの麦野が謝るなんて、上条なにかした?」

 

「いや、あいつが自分からフレンダ達に謝りたいんだって言ってたけど。素直に受け取ってやってくれないか。麦野はもう自分を偽りたくないんだ。どんなにそれが辛くても」

 

心にそのまま落ちてきた言葉。

 

そっか、と呟くフレンダは嬉しそうに微笑むと絹旗にも笑いかけた。

 

「やっと麦野と理解し合えるかもね。結局、私たちのせいでもあるのかもしれないけど」

 

「そうですね。麦野があんな感じになったのは超私たちのせいでしょう」

 

途中から沈んだ二人に上条は疑問符を浮かべる。

 

「どうしたんだよ。二人とも?」

 

苦笑しながら二人はそっと口を開く。後悔の滲む声は胸の内にある蟠りを吐き出そうとしていた。

 

「麦野をひとりぼっちにさせたのは、私達な訳よ」

 

「恐くて、超腫れ物を見る様な目だったんでしょうね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、むぎの」

 

「滝壺。居ないと思ったらこんな所に居たの」

 

談話室に置いてある自動販売機に小銭を入れた滝壺は入り口に居る麦野を見た。

 

いつものピンク色のジャージを着た少女はココアを購入するとソファーに座り、自分の隣を指差す。

 

「座ってむぎの」

 

「どうしたのよ。まぁいいけど」

 

大人しく隣に腰を下ろす。滝壺はぼーっと視線を固定したままココアを一口飲んだ。

 

「むぎのは、怪我してない?」

 

「うん、それより絹旗とフレンダね。アンタは大丈夫なの?」

 

「私は平気」

 

それだけ言うと、またココアに口を付ける。隣から漂う甘い香りに麦野は自分も買ってみようかと思っていると、滝壺がそわそわと手の中の缶を弄って落ち着きが無い。

 

しきりに白い壁や青い窓の外に視線を走らせている。いつも、人形の様に動かない彼女を知ってるだけにこれは異常だと思った麦野は、滝壺に視線を合わせるように黒曜石の瞳を覗き込んだ。

 

「どうしたの? 風邪でも引いた?」

 

「違う。ただその、ごめんねむぎの」

 

「………………」

 

滝壺が言ったのはそれだけだった。たったそれだけなのに、この少女がなにを言いたいか分かった。それだけ長い付き合いなんだと思う反面、なにも悪くない少女に謝らせてしまったと、麦野は心の中で悔いる。

 

「謝るのは私のほうよ。迷惑をたくさんかけたわ」

 

「迷惑だなんて、思ったこと無いよ。だってむぎのは私に居場所をくれて、それをずっと守ってくれた」

 

『アイテム』の愉快なメンバーを思い出し、ほんのり微笑む滝壺。そして、いつ誰が死んでも不思議ではない日常の中で、麦野は最善といえる策を打ち出し『アイテム』を守ってきた。少なくとも滝壺はそう思う。自分に麦野と同じ事をしろ、と言われても出来ない。個人がどの局面に強いのか弱いのか、このリーダーのように正確に判断できないだろう。

 

「守ってない。完璧じゃなきゃ許せないからそうしてただけ」

 

「でも、私から見れば守ってくれた。それにね。むぎのを残酷にしたのは私達、“弱者の偏見”なんだよ」

 

隣から息を呑むような声がした。

 

「強いってことは、確かだけど心まで強いんじゃない。むぎのの悲しみを憤りを私達は理解してあげられなかった。だって、強いって思い込んで嫉妬して、結果一人きりにしちゃった」

 

「なに言ってんの。私は」

 

震えて反論した声は滝壺の一言で掻き消えた。

 

「泣いてもいいんだよ」

 

真っ黒な瞳に映った一人の少女は狼狽しながら、断片的に言葉を紡ぎ、最後は声にもならずそっと俯き、滝壺はその肩を抱きしめた。柔らかな感触の髪に目を細め、耳元で囁いた。

 

「大丈夫、今度は私も間違えないから」

 

「なんでよ、泣きたく……ない、のに!」

 

嗚咽が抑えきれなくなってきた麦野は手で口を塞ぐ。それを見て滝壺は向かい合い、真正面から麦野を抱きしめた。胸に顔を埋める。

 

不規則に跳ねる肩。虚栄心が崩れ、弱さを曝け出した少女の頭を優しく撫でる。

 

「うん。ごめんね。だからまた、『アイテム』の皆で頑張ろう」

 

「……あ………」

 

ピタリ。麦野の動きが停止した。

 

それどころか、栗色の髪の間から見える彼女の顔色は赤みを失い、白を通り越し青ざめていた。

 

そっと滝壺の腕の中から離れると自動販売機で飲み物を買い、困惑している滝壺に押し付け反論を許さないくらい早口で言った。

 

「これをフレンダたちの病室にもって行って。確認しなきゃいけないことが出来たから!」

 

質問する間もなく麦野は病室から走り去る。最後に見た鬼気迫る表情はどこか不安に滲んでいた。

 

一人きりになってしまった談話室。そこには困り顔の少女が二つの飲み物を交互に見ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

畜生!! どうして気がつかなかった! あの女が狡猾なのは知ってただろう!!

 

自分に叱責しながら麦野は廊下を駆ける。どうして安心していたのか、過去に戻れるなら今すぐ戻って自分を殴り倒したい。

 

彼女がこうも憤慨し、焦燥に駆り立てられている原因はとある人物の発言からだ。

 

『アイテム』

 

馴染み深いというよりは、もう人生の一部になってしまっているこの単語。学園都市が誇る精鋭部隊よりも、もっと重鎮でもっと危険な集団の名称。最高機関。統括理事会、その長から直接であり間接的に支配された暗殺部隊。

 

麦野沈利という少女はもう直ぐ、その闇から抜け出すために行動を起こそうとしていた。

 

問題なのは、それを提示してきた人物にある。

 

本名不詳(コードエラー)

 

名を棄て、一度は死んだ身である研究者。そして能力者にとって最高の薬であり最悪の毒になる希少な能力を開眼させた者。統括理事長の暗殺部隊よりも尚、この学園都市の闇を熟知した女。

 

彼女はとても信用に値する人物ではない。今回もそうだろう。

 

長い廊下を走り続け、漸く見えてきた部屋の扉。殴りこむ勢いで開けると、そこには眠たそうな顔でベッドに腰かける本名不詳の姿があった。

 

「おやおや。思ったより早く気づいたみたいだねぇ。麦野さん」

 

「テメェ、本名不詳!」

 

不安が確信に変わった瞬間だった。今まで眠たそうにした目蓋が押し上げられ、残忍な笑みをした。

 

「残念だよ。二週間後まで気づかなかったら面白いものが見れたかもしれないのに」

 

「やっぱりそうかよ」

 

「うん、二週間後の統括理事会で話し合うこと。それは麦野沈利だけの脱退だ」

 

ギリッと歯を噛み締めるような音がした。麦野は無言で本名不詳の傍まで来ると、胸倉を掴み引き寄せる。

 

「なんで私だけなんだ! 『アイテム』の奴らはどうなる!?」

 

「あっは! 知る分けないでしょう。麦野沈利をなくしても『アイテム』だ。利用価値としてはあるんじゃない? 絹旗最愛くらいの能力者なんてそこそこ居るけど、あの子ほど闇と戦いを経験した子もいないし。ただ、もしかしたら滝壺理后は研究所送りだけど」

 

激情に任せこのまま絞め殺したい。今、胸倉を掴んでいるこの手を離して首を絞めてやりたい。だが麦野は煮え立つ怒りを急速に冷却する。

 

相手の胸倉から手を離す。

 

「どうしたらあいつ等も助かるの?」

 

「『暗部』からの脱退確立を下げたいの?」

 

わざと問いに答えない本名不詳は、卑しく嗤う。選択を迫るように、逃げ場を削り落とす。

 

「『アイテム』のリーダーは私だけ。古今東西私だけなの、私が脱退するなら『アイテム』のやつらも『暗部』から解放させる」

 

「仲間のため?」

 

「ええ、そして“友達”のため。もう利害の一致だけの関係じゃない」

 

紅く、赤く、アカイその唇が弧月の形に歪む。下から見下すような、小馬鹿にしたような笑い声がした。

 

「馬鹿だねぇ。まだ牙と爪を削いだらいけないと言っただろう。君は何も分かっちゃいない。『暗部』から抜け出すってこと自体異例で、異質なんだ。もし無事に『表』の人間になったとして、『裏』から逃げ出したい奴らが腹いせにあの子達を殺す。なんてことあるかもしれない。かなりの高確率で狙われる。LEVEL5の君ならいざ知らず、フレンダはどーなるよ。絹旗最愛なら逃げれても、あの子にそれが出来るかな? 案外、『暗部』の方が安全かもよ?」

 

「ッ!?」

 

言葉に詰まった。この瞬間麦野は負けた。

 

見捨てたく無い。あの歪んだ日常を共有した『アイテム』の全てを諦めたくない。

 

「どうにか、出来ないの? あんた統括理事会の人間なんでしょう!?」

 

「出来ることには限りがある。寿命があるように老いが存在するように、権限には制約と範囲が付きまとう。私程度ではその脅威は取り除けない。でも、君がこの箱庭の世界の管理者と対峙する勇気があるなら可能かもしれない」

 

本名不詳が何を言っているか理解できた麦野は思わず喉を引きつらせ、強張った舌を動かした。

 

「統括理事会長、アレイスター・クロウリーと………交渉するの?」

 

全身を氷水に浸けられたように震える麦野とは反対に、本名不詳は楽しそうに笑うだけだった。

 

直轄の部隊である麦野でさえ、その人物とは会った事がない。この世界に入った時たった、たった一度だけ電話で話したくらいだ。いや、あれは会話にカテゴリーできるようなものではない。ただ一方的に言われ、一方的に通話を切られた。

 

恐怖で震えている訳ではない。麦野は、ある意味歓喜で震えていた。

 

この世界を造った張本人。その存在を見れるかもしれない。あわよくば殺す。

 

魂胆が垣間見えたのか、本名不詳が困ったように眉を吊り上げた。

 

「変なことしないでよね。『暗部』の統治権限は私にあるけど、君と『アイテム』の消失はプランに響くだろうし」

 

「『暗部』の統治権限?」

 

この言葉に麦野は嫌と言うほど反応し、本名不詳はおどけて、だが偽らずこう答えた。

 

「そうそう、ぶっちゃけ上司に喧嘩売る問題児いるし、止めたいのよねぇ」

 

「その口調気持ち悪いからやめろ。鳥肌が立っただろうが」

 

「こいつと来たら! まったくアンタは上司に唾を吐くのが好きね。仕事をたまに放棄して遊びほうけたときも、どれだけ私が怒られたか!」

 

聞きなれすぎたノリの軽い台詞。そして嫌味ったらしく飄々とした正確が伺える声。奔放という文字を体現した人物は、今まで会ったことはなかった。

 

しかし、仮に麦野が思い描いたこれが事実なのだとしたら、神様とはかなり意地悪なんだろう。

 

「あんた! ……まさか、でもどうして!!」

 

「はっはっは!! どうだ参ったか。アンタ達は“電話の女”とか捻りも無い名称で呼んでるけど、もっとマシな名前にしてよね」

 

ニヤニヤと笑いながら、本名不詳は電話をかけるだけの携帯電話でどこかに電話をした。そしてコール音が電話口で聞こえ始めた頃、麦野のジーンズのポケットから振動が走った。

 

慌てて取り出すと、通知には“電話の女”と表示されたいた。


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