とある奇跡の平行世界   作:雨宮茂

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ここから連れ出して

「さぁて、麦野さん起きようか」

 

「お前を眠らせてやるよ永遠にな」

 

苦笑しながら本名不詳(コードエラー)は白衣の裾で口元の血を落とす。

 

もう傷は完治した。

 

痛みもない。しかしこのまま戦えば本名不詳には勝利の二文字はない。

 

スピードとパワー。要の〈原子崩し〉が相手に通用しないのだ。この二つで本名不詳は彼女に劣る。長期戦に持ち越せば、いつか負けるだろう。

 

早くあの青年が来るのを待つしかない。彼が来るまで負ける訳にはいかないのだ。

 

「〈肉体再生〉まで使ってやがるな」

 

「あら、バレた。そうだねぇ使ってるよ」

 

「他は、使ってなさそうだけど」

 

「使わない。そう決めた。〈肉体再生〉もこれで終わり」

 

本名不詳は腰を落とし相手を睨む。一瞬でも意識を彼女から逸らせば死ぬだろう。今、彼女と自分は死と生の境界線を跨いで立っている。

 

自然と膠着した。一撃必殺や決め手を模索しているのだ。〈原子崩し〉のどこが弱点で、どういった攻めに弱いのか。

 

同じ能力者同士の戦いになれば、それこそLEVELが物を言う。本名不詳の〈接続援助(リンクサポート)〉はその問題をクリアしている。そして、能力の情報を緻密に受け取る事ができるのだ。本人以上に能力を理解する能力。

 

そして、弾き出した答えに基づき本名不詳は動き出した。

 

〈原子崩し〉を使わず本名不詳は疾走する。人間が出せる限界に近い速さ。それに対して彼女は〈原子崩し〉の反動を利用し一直線に本名不詳を襲う。まさに神速の勢いで肉薄する。

 

がら空きの胴に向かって彼女は拳を叩き込む。常人でなくとも、この一撃をまともに喰らえば立ち上がることもできないだろう。その証拠に拳は風を斬ったかのような音で空を走った。

 

「!!?」

 

そう、“空”を走ったのだ。

 

呆然とした彼女の視界いっぱいに、本名不詳の不敵に笑った顔が映る。懐に潜り込まれたと気づいた時には、本名不詳の一撃が鳩尾を抉る。

 

「ご、がぁぁあああ!!! …うぇ、げぇぇ! ごほ!!」

 

たまらず膝を床に着き、胃液を吐き出す。胃の中に何も入っていなかったのでこの程度だったが、逆に吐き足りない。内蔵を持ち上げられたかのような不快感で自然と涙が溜まる。小刻みに震える身体に無理やり力を入れ立ち上げる。

 

それでも前かがみで、本名不詳の表情は彼女から見えないがそこには、彼女が立ち上がるのを待っていた雰囲気があった。

 

「なんで、あの一撃が外れたのか気になってるみたいだねぇ。簡単だよ。スピードと威力の乗った一撃を“受け流せばいい”それだけ。当たるふりして誘導して、あとは貴女が勝手に致命的な隙をつくる。で避けきれない位置から、こちらが迎え撃つだけ」

 

一撃で全てを終わらせる事に固執した。これが彼女の決定的なミス。

 

今すぐには、動けないであろう彼女だからこそ本名不詳は悠々と話す。

 

「だからさ、そろそろ止めようか。いい加減、他人のフリは辛いんじゃないの麦野沈利さん」

 

「…ッ!!!!」

 

声を出そうとして嗚咽が漏れ出した。

 

「反論が出来ないところ悪いけど、貴女は原子崩し(メルトダウナー)じゃない。“麦野沈利”なんだよ。『アイテム』のリーダーで、プライドが強くてどうしようもない。そして、寂しがり屋で不器用なね」

 

「ち、がう」

 

搾り出された音は、自分があくまでも原子崩しだと主張するものだった。

 

本名不詳には、その姿が駄々をこねる子供のように見えた。

 

「気持ちは分からなくもない。しかしねぇ麦野さん。原子崩しのフリをした時から、貴女は麦野沈利だと証明しているようなものなのよ。逃げても避けても道が同じなら、ちっとは向き合ってよ………わざわざ迎えに来てくれた奴、居るんだから」

 

届かないだろう。彼女は、麦野沈利は世界を拒絶している。自身に虚実を塗りつけたのは、少しでも外界から身を守るための防衛本能といっても過言じゃない。彼女は今、自分の中にある矛盾で苦しんでいる。

 

裏の世界からは逃げられない。しかし、表の世界で生きたいと願ってしまった。小さな望みが巨大な切望、願望に変わる事にそう時間は掛からなかった。奇しくも一人の青年との奇跡的な出会いが麦野の世界を全て変えた。

 

見る角度も、色合いも、血で汚れた世界観の全てを―――――――

 

だが、麦野という人間は理想と現実の差を悲しいまでに、熟知していた。

 

過去に暗部から逃げ出したくて、仲間を裏切り飛び出した者に制裁を下したこともある。裏で生きるのに疲れて自殺したメンバーもいた。暗部から逃れた者がいる、とは見聞きしたこともない。皆等しく、殺されたのだ。世界に。闇に、自分たちから。誰も助けてはくれない、誰も助けられない。

 

だからこそ逃げた。彼の前から、世界から。

 

逃げた先は、どうしようもない化け物だった。

 

「私は、私は原子崩しだ!! 麦野沈利じゃ生き残れないのよ、麦野沈利じゃ駄目なのにどうして!!!」

 

「駄目じゃないさ。みんな君の帰りを待ってるよ。でも原子崩しを否定しないであげて。あの子も君なんだ」

 

この五日間。麦野と原子崩しを視てきた本名不詳には分かる。この子達は二人で一つなんだと。

 

本質は変わらない。どちらも、彼女でしかない。

 

荒々しく扉を開く音がした。

 

最後の境界線を渡らせない為に、唯一のヒーローが来た。

 

本名不詳は麦野から離れ、やって来た人物に片手を上げる。彼も同じように、片手を上げお互い相手の手のひらを叩いた。

 

「交替だ。後は頼んだよ上条君」

 

「任せろ、お前は約束を守ったんだ。今度は俺の番だろ本名不詳」

 

入れ違うように進む。

 

その時、本名不詳はほろ苦く笑った。

 

その頬を撫でる。痛みも怪我もない。その代わりあのやり取りを思い返させる。

 

あの、重たい一撃。それが彼の覚悟。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何処からかエンジン音が聞こえる。音からして、普通の自家用車ではないだろう。スポーツカーのような凄まじい音だ。

 

本名不詳はロビーにあたる部屋でソファに寝転びながら天井を仰ぐ。

 

口の中で来たか、と呟きガラスで出来た扉が開かれるのを待った。

 

「すみません。誰か居ませんか?」

 

どこか尻すぼみな声は誰もいない事を不審がっていた。

 

彼の位置から本名不詳が見えない。なので彼女は起きあがると、垂れてきた髪を掻き上げた。

 

「いらっしゃい。他の子達はもう来てるよ。上条当麻君」

 

「……本名不詳、これでゲームは終わりだ。返してもらうぞ」

 

ソファから立ち上がると本名不詳は不貞不貞しく口元を吊り上げ、上条を指差す。

 

「なぁに言ってんのさ。次に会ったら覚悟を聞くって言ったでしょ? だからさ、簡単に道案内してやんないよ」

 

腕を組んで本名不詳は辺りを見渡す。上条以外に誰もいない事が意外なのか、仕切りに小首を傾げた。

 

「木山春生、がいると思ったんだが」

 

「後で来るってさ。それより、俺の覚悟が知りたいんだろ?」

 

意思の籠もった瞳に本名不詳は嬉しくて微笑んだ。

 

きっと自分が思いもしない答えを聞くことになると思うと、背筋を刺激するものがある。

 

「麦野達を救うって事は、この『学園都市』を敵に回すんだな」

 

「そうだ。失望しちゃった? 馬鹿馬鹿しい強欲な大人達の勝手な都合で人の命が消えていくこの世界に」

 

「してないって言えば嘘になる。だけど一言では片付けられない問題なんだろ?」

 

「ほぉ、君ならそんなの気にせずに社会に反抗するのかと思った」

 

感心したような声音で本名不詳は呟く。

 

しかし、この男は

 

「あぁ、いつかぶっ壊すさ。それまで首を洗って待ってろ」

 

次の瞬間には、宣戦布告をしていた。

 

「はははは!! 言うねぇ。でもどうやって壊してくれるの? それとも、それが君の覚悟なのかい?」

 

「いや、それはオマケ程度だ」

 

思わず本名不詳は止まってしまった。

 

上条当麻という人間がなにを言ったのか、それを正しく理解するのに十秒はかかった。麦野沈利を救出しこの汚れた世界から助け出す。たったそれだけの為に『学園都市』を一個の世界を敵に回す決意といったら、並大抵ではない。死を覚悟しても足りないくらいだ。

 

なのに『オマケ』でしかないのだ。ならば彼の決意はなんなのか? 命よりも重たい覚悟とは?

 

「俺は、麦野をなにがあっても助ける! たった一人分の世界を救い上げるんだ。『世界』を救うんだよ」

 

「それが君の覚悟? ………『世界』か、確かに命より重たいねぇ」

 

どこか納得したように、その言葉を吟味する。

 

ゆっくりと言葉と意味を噛み砕き、飲み込んだ時、本名不詳の顔から笑顔が零れ落ちた。

 

「でも、私にそれを言うか? そんで、アレか愛で世界をどうにか出来るとか言う夢物語を実行しようとしてるの? 馬鹿だ、馬鹿としか言いようがない」

 

これは予想の斜め上だ。こんな答えで来るとは思わなかった。陳腐で下らないかもしれないが、決して考えなしでこの答えに辿り着いたのではないのだろ。

 

つまり、麦野沈利の『世界』を救うという事は、暗部崩壊に繋がるということだ。麦野程度が死んだり暗部から居なくなろうと崩壊はしない。しかし、過去の出来事を彼女は引き摺り完全には救われないのだ。

 

その為に彼が起こすであろう行動に本名不詳は、恐怖した。簡単に想像が出来たことに驚愕する。

 

「命が幾つあっても足りない人生だね。死ぬ気なの? たったそれだけの為に」

 

「死にたい訳じゃない。でもそれだけの価値はある」

 

悠然とした上条に本名不詳は、なんとも言えない呟きだけを返した。

 

「そう、君も大変だねぇ。でもとっても面白そうだ」

 

任務と愉悦、仕事と趣味に近い構図が本名不詳の頭の中で素早く展開された。そこには自分がしなければならない事と自分がただやりたい事、その二つの間で自身が激しく揺らいでいるものだった。趣味を優先し仕事を疎かにすると、人は駄目になってしまう。しかし、今の本名不詳は趣味を優先したい。

 

喉が渇いてどうしようもないくらいの渇望だ。

 

したい。壊したい。この世界を壊す彼の姿がとても、見てみたい。その先の未知との遭遇を体験したい。一体どんな事が起こる? 誰にも分からないだろう。なににも予測できないだろう。樹形図の設計者(ツリーダイアグラム)もお手上げに違いない。

 

きっとその光景は歴史に残るだろう。今の世界は個人が残した偉業など歴史というより教科書にしか載らない。それが永遠に語り継がれることなどない。だがこの青年はどうだ? 語られる。間違いない。

 

馬鹿馬鹿しいと自分でも思うが、本名不詳は英雄やヒーローと言うのを信じている。別にこれは漠然とした善人をさしたものではない。とある時代、場所そこで名を馳せた英雄達。その選ばれた者たちが、選ばれた時間と場所で取るべき行動をとる。すると世界は瞬く間に移り変わる。いとも簡単に、呆気なくあっさりと。

 

凡人がしても意味など無かっただろう。もしくは事態を悪化させただけかもしれない。彼はゴルゴダの丘で十字架に打ち付けられた。そこで世界と歴史は大きく変わる。フランスとイギリスの百年に亘る戦争に終止符を打った一人の少女。後に魔女と言われ火炙りの刑にさせられた美しい英雄。その時歴史は変動する。定められた者のみが世界を導く。この存在を神や英雄と言わずなんと言う。

 

歴史の分岐点、そこを左右させる存在。本名不詳は上条当麻という人物がそこまで上り詰める者として、この瞬間認識した。

 

「あっはははははは!!!!」

 

恐らく、英雄の誕生を彼女は目撃して肌で感じた。生きていても巡り合えない奇跡を垣間見た。理性を甘く溶かしつくす衝撃に彼女は突き動かされる。

 

「面白い! 世界を変革させる意思を、力をもっと見せてよ。はははは、ゲームの再開だ」

 

「いいぜ、お前が簡単に引き下がるとは思ってなかったからな!」

 

「引き下がりたくもないねぇ。君がもう少しつまらない存在だったら、そうなってたかもしれないけどさ」

 

きょとんとする上条に対して本名不詳は傍から見ても戦闘態勢だと分かる構えを取る。

 

ぴりっと首筋を緊張と鋭い敵意が撫でた。

 

思わず上条は唇を舐める。このざわざわと本能に語りかけてくるような威圧感には未だ慣れない。殺し合いの世界とは、無縁に生きたのだから当たり前か。

 

「ルールは簡単。全力の殴り合いだ。どちらかが先に膝を着いたり倒れたら負け。そして―――」

 

「負けたら罰ゲームなんだろ」

 

分かっていたと、言わんばかりに答える。

 

「そう、負けたら罰ゲーム。負けた側は勝者の願いを一つきくこと。私が提示する願いは――――暗部に入ってもらおうかな」

 

とても身も蓋もないものだった。そしてこの勝負、どちらに転んでも本名不詳が得をすること間違いなしだ。

 

――――――――――――そして、負けたんだよねぇ

 

過去の出来事をしみじみと思い返す。

 

これは黒歴史に決定だ。誰にも言えない。上条をこちら側の住人にして手っ取り早く、今の『学園都市』が崩壊するのが見たかったが、それは叶わぬ願いになってしまった。

 

気がついたら友好関係のようなものまで出来てる始末。

 

「こーどえらー、お願い」

 

「ん、滝壺ちゃんか」

 

思い出に浸っていると声をかけられ現実に戻ってきた。見れば滝壺が珍しく、必死な顔をしていた。

 

「お願い、きぬはたを助けて!」

 

「へぇ…、いいよ。絹旗最愛を助ける為に君はなにを差し出す?」

 

しかしどう足掻いても、彼女は本名不詳(コードエラー)でしかなった。

 

等価を差し出せと悪魔は囁く。

 

 

ここで予想外だったのは、滝壺理后という少女は頭の回転が速い子だったことだろう。

 

 

 

 

 

 

 

「私がなにか払う必要はないよ」

 

「……必要がないってどうしてさ? 御本人が払うの?」

 

滝壺は黙って首を横に振る。

 

「必要ない。だってこーどえらー言ったよ。かみじょうが来るまで私達を死なせないって」

 

「来たじゃん。上条君来たから約束はもう切れてるよ」

 

「かみじょうが来る前に怪我したから有効。それで死なせたらこーどえらーは約束破り」

 

嫌そうな顔で本名不詳(コードエラー)は滝壺の眉間を小突く。

 

「こいつ、屁理屈言ってんじゃないわよ。だいたいなんで」

 

「いいじゃないか。それでも等価を求めるなら私が払おう」

 

振り返れば、そこには木山春生が立っていた。

 

上条当麻をここまで案内するのに走ってきたせいか、だいぶお疲れの様だ。

 

じっと見詰められるのが嫌なのか本名不詳は目を逸らした。

 

「君が払うって何を払うのさ?」

 

「本名不詳が望むものを払うさ。命を差し出せと言えば差し出すよ」

 

「巫山戯るな。なら、君が世界を敵に回してまで助けたい子達はどうなる?」

 

一時的な怒りに支配された本名不詳の眼差しは、血が凍るほど冷めていた。それが真っ直ぐ木山春生に向けられる。

 

真っ正面からその瞳と向かい合い彼女は仄かに笑った。

 

「優しいな。しかしもう少しストレートな言葉は無いのか?」

 

「…………さぁね。あの子を治せばいいんでしょ」

 

どこかひねくれた言葉を残して本名不詳は滝壺の脇を通り過ぎ、一直線に絹旗の所まで行き顔色を変えた。

 

傷口から血が流れているが、出血量は少ない。それは怪我に対して少ないのであって実際出血量は危険な域に達している。

 

傷口が灼かれているのが出血量が少ない原因だが、これが無ければ絹旗最愛はもうこの世にいなかっただろう。

 

無言で絹旗最愛と自分を接続させる。そこからAIM拡散力場を上書きさせるように能力を書き換え、〈肉体再生(オートリバース)〉に設定。

 

絹旗のかわりに自分だけの現実を刺激させ、能力を発動させた。

 

焼き切れ死んだ細胞や神経の再生に手こずり思うように恢復が進まない。

 

その本名不詳の後ろ姿を滝壺が心配そうに見守っていた。

 

「大丈夫だ。出来ない事はしない奴だからな」

 

「うん、こーどえらーのこと信じてる」

 

だが、本名不詳にはその言葉は届いていない。

 

集中していた、と言うのも事実だが彼女はトラウマと向き合っていた。それは木山春生という存在もそうだ。木原神無の時代の記憶、感情。それを不安定に引き継いだ本名不詳には堪らなく気持ち悪いものでしかなかった。

 

知りもしない人物に信頼と親愛の情を感じ、助けられなかった子供達と同じ面影を持つ目の前の少女。

 

記憶の中であの子達と出会った時には既に深い眠りの底だった。絹旗の今の不自然に白く力ない姿は暴走能力誘爆実験の被害者に似ている。

 

そのせいか、本名不詳の内では絹旗を助けたいと言う気持ちが沸き起こっていた。

 

しかし、自身に覚えがない。このような感情は異常だと認識しながら逆らえないだ。精神的な辛さ。それが本名不詳の能力を鈍らせる。

 

「クソッ!」

 

脂汗が滑らかな顎のラインをなぞる。それにも気づかず、本名不詳はただ固く目蓋を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

上条が麦野の目の前に現れたとき、不意に泣き出したくなった。

 

なんで泣きたくなったのか分からない。

 

しかしその涙を止めたのは彼のとても清々しい表情だった。

 

「麦野、迎えに来た。みんなで帰ろうぜ」

 

「……無理よ。私には、眩しすぎる。生きるのが……こんなにも辛くなる!」

 

締め付けるような痛みが麦野の中に広がる。

 

「なんでアンタは私の前に現れたの?! アンタが、上条が居なければ……私は私のままだったのに!!!」

 

「…………」

 

「知ってしまったんだから、仕方ないじゃない! 表の世界はきっと私にとって楽園と一緒。なんで、私こんな世界に居るのよ!……どうしてぇ」

 

絞り出した声が悲しげに揺れる。

 

「分かってる。上条に八つ当たりしてるって分かってる。……だから、このままじゃ私、壊れちゃう! 絶望し過ぎて誰もかも殺すしかない、もう無かった事にするしかないでしょ!」

 

拒絶する麦野に上条は何も言わず、一歩近づいた。

 

揺らぐことも曇ることもない瞳だけが、ただ自分を見つめている。

 

彼には私がどう映っているだろうか?

 

彼は、どうして何も言わず近づいて来るのか?

 

恐ろしくなった。何も言わない彼に。

 

「……あ、ぁ…」

 

また一歩、確実に歩み寄る。不安定な麦野はついに恐怖が堰を切って溢れ出した。

 

「あああぁぁぁぁああああ!!!!!!!!」

 

ろくに狙いを定めなかった原子崩しは上条のわき腹を掠めた。上条は肉を削がれた傷みにも声を上げずに、数歩よろめくと何事もなく歩き出す。

 

そして気づいた。彼はなにも責めてはいないのだ。自分が勝手に逃げ出したことも、皆に迷惑をかけたことも。彼は恐らく麦野にとって最高で最悪の結末を引っさげてやってきたのだ。

 

悲しいながら世界は上手く出来ていない。あちらを立てれば此方が立たず。

 

だが上条はその答えを選んだのだ。最高で最悪な――――

 

「麦野聞いてくれ、俺は決めたんだ」

 

気がつけば抱きしめられていた。優しく、包み込んでくれるように。

 

しかし受け入れるわけにはいかない。麦野は次の言葉を受け取りたくはない。だから彼女は腕の中からでようと、胸板を押す。

 

「離して! 駄目よアンタはこっちに、これ以上係わったら!!」

 

「決めたんだ! 俺はお前をこのクソッタレな闇の底から、引き摺り上げるってな!!」

 

さらに、もっと強く抱きしめる。

 

「きっと後悔する。アンタは血を見る事になる!! 私はそうなってほしくないの!」

 

「俺に麦野を、好きな女を見殺しにしろって言うのかよ!!」

 

「え?」

 

紛れもなく麦野の時間が止まった。優しく抱き留められ上条の首元に顔を埋めていた。

 

何が何だか分からない中、ただ心臓が忙しなく動いている。

 

この音が、どうか上条に届きませんように。真っ白な頭で麦野はそれだけを祈った。

 

「なぁ麦野。俺って馬鹿だし無鉄砲だから正直、お前が抱えてる問題の重要性がよく分かってないのかもしれない。けど誓ったんだ。絶対に助けるって」

 

「死ぬかもしれないのよ? ……下手すれば上条だって『暗部』に引きずり込まれる!」

 

「それでも助けるさ。そんで麦野の心配事全部消してやるんだ。そしたらさ、もっと笑えるだろ?無邪気になにも気にせず、心からまた笑ってくれる。麦野の隣で、その笑顔が見たいんだ」

 

なにも言えなくなった麦野に上条はそっと囁く。

 

「そこにはお前の覚悟も必要なんだ。『なにがなんでもここから抜け出す』そんな覚悟を決めてくれ。……沈利が笑ってくれるなら、どんな未来だってきっと幸福だ」

 

「わ、私は……」

 

戦慄く唇から声が零れる。それは震えていて、迷っているようにも聞こえた。

 

「俺を選んでくれ!」

 

 

 

「私はここから出たい! どんな事があっても、当麻とずっと一緒に、隣に居たい!」

 

 

 

嬉しそうに上条は麦野を強く、抱きしめた。そして彼女には一切の迷いはなく、彼の首に腕を回した。

 

闇の中(ここ)から連れ出して」

 

「任せろ!誰にも渡さない。必ずだ!」

 

その時、麦野の目の奥がじわりと熱を帯びた。今まで生きた中で、多分一番幸せなんだろうと考える。幸せ過ぎて、泣き出しそうになるのがいい証拠だ。

 

これから先には困難しか待ち受けていないのは確定した。しかし―――

 

麦野は腕に、さらに力を込めた。離さないと暗に言っているようだ。

 

この温もりがあれば越えられる。何よりも愛しい存在の為に負けられない。

 

「……あー、うん感動のシーンは後にして」

 

雰囲気をぶち壊す憔悴した弱々しい声が割り込む。

 

二人して其方の方向を見れば、青白い顔色の本名不詳がフラフラと立っていた。

 

「絹旗最愛は一応命は取り留めたけど、急いで冥土帰し(ヘブンキャンセラー)に診てもらった方がいい。で何が言いたいかと言うと」

 

麦野の視界の端で上条が表情を引きつらせた。

 

遠慮のない本名不詳は残酷な答えを提示する。

 

「右手のせいで上条くんだけ空間移動出来ないから、また走ってきて。道は最初来た時と同じだし大丈夫でしょう。それじゃ、お先に失礼」

 

言うことを言った彼女の行動は早かった。上条と麦野だけを残してその他と自身を含め転移した。

 

見送る事しか出来なかった二人は、自然と見つめ合う。しかし今になって恥ずかしくなったのか、少し離れて今度は視線を合わせようとしない。

 

「行くか」

 

そんな中、切り出したのは以外にも上条だった。

 

先に立ち上がると手を麦野に差し出す。麦野は黙って手を掴むと、ゆっくり起き上がった。

 

手を離さないまま上条は歩き出し麦野は少しだけ戸惑ったが、直ぐに大人しく従った。平坦で無機質な部屋から出でも、廊下も同じような真っ白で味気ない世界。目を奪われる物など何一つない。

 

だからだろうか、心に変な余裕ができた麦野は歩みを止めた。

 

「麦野、どうした?」

 

「上条に聞いてほしいの。私の過去を、私が『学園都市』に来る前の話を一段落着いたら。約束してくれる?」

 

「あぁ、分かった。それじゃさ、俺の小さい時の話を聞いてくれよ。不幸な男の子の話だ」

 

その背中が、過去の境遇を語る。きっと安寧とした時代ではなかったのだろう。その時の自分の弱さを悔やむ様な後ろ姿だった。

 

強いだけではないこの人を支えたい、と麦野は思う。今はまだ頼りない自分だけど、いつかはその背中を守れる存在になりたい。手を引っ張られるだけじゃなくて、引っ張るのだ。

 

「それとね上条。私、アンタの背中だけを見ていきたくないわ」

 

「それって、どういう意味だ?」

 

「上条の想像に任せる。そうね、何時までも雛じゃないんだからってことよ」

 

さらに不可解そうな顔をする上条に麦野はクスリと笑うと、足早に歩き隣に並ぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よ! お帰りなさい」

 

上条と麦野がそろって研究所から出ると、正面玄関先に白いワンボックスカーが止まっていた。その車を背もたれにしていた本名不詳(コードエラー)は、気軽に片手を上げだるそうにしている。

 

そこに、青白い閃光が雷のごとく迸る。見越していた結果だが、凶悪な一撃は角度を約九十度ほど変え、ぼんやり明るくなりつつ空の向こうに消え去った。残光を眺めながら本名不詳はそれを撃った本人を見やる。

 

「おいおい、いきなり何よ。私じゃなかったら死んでたぞ」

 

「当たり前だ。殺す気で撃ったんだからな」

 

「なおの事恐ろしいな。それは置いといて、絹旗ちゃんは先に病院送りにしてるよ。後は上条くんね。脇腹に素敵な傷跡残したくないだろうし、急ぐよ」

 

有無を言わせない態度の本名不詳に警戒心を露にする麦野。だが、反対に上条はあっさりと白い車に乗った。

 

「なにしてるの?」

 

「今は信じてやってくれないか?確かに酷いことしてきたかもしれないけど、今だけは大丈夫だから」

 

渋々、車に乗り込む。助手席を陣取り横から睨む。

 

「いつか、借りを返す」

 

「楽しみにしてるよ。それより事故したらごめんよ。実は結構疲れててね」

 

本名不詳に辛辣な麦野は、青白い光を生み出すとにこやかに語りかける。

 

「眠気覚ましにジュージュー焼いてやろうか?」

 

「間に合ってるんでいりません。むしろ余計事故するわ」

 

下らない口喧嘩に興じて気が付かなかったが、上条当麻が会話に入ってこないことに気づいた麦野が、後ろを覗く。

 

そこには、疲れきってぐっすり眠った彼がいた。

 

泥のように眠る上条には外界の音はまるで聞こえない。それを理解して、本名不詳は話を切り出した。

 

「どうやって『暗部』から抜けるつもり?」

 

「………未定よ」

 

強がっても仕方ない。麦野は素直に手詰まりである事を伝えた。

 

しかしそれは大した進歩だ。ほんのちょっと前の彼女なら絶対に認めなかっただろう。

 

「君は変わったね。昔ならそれを聞いただけで、蜂の巣にされそうなのに。まぁ、言っとくけど手がない訳じゃない」

 

「どういうこと?」

 

「統括理事会もしくは統括理事長に脱退を認めて貰う事だ。前者は簡単だよ。比較的ってだけなんだけど。私も理事会の一人だし」

 

「はぁ!? アンタ統括理事会の人間だったの? 聞いたことないわよ!」

 

あくまで、麦野は信じられないと言う。しかし本名不詳の言葉は揺るがなかった。

 

「扱いとしてはシークレットチーフみたいなもんさ。居ていない存在。安心しろ、発言権や権力ならあるからな」

 

「統括理事会の人間が研究者って時点で怪しいんだけど」

 

「なら一緒に第一学区に来る? 顔パスで入れるから。そこに行けば必ずしも会える訳じゃないが、予約入れとけばみんな集まるだろうさ。なにせ今まで顔を出さなかった奴が出てくるんだからねぇ。初めて十二人揃うんじゃないかな?」

 

興味なさそうに呟く本名不詳は、赤信号で車を停止させた。

 

「で問題の後者だが、これも最後の手がある。それを使えば何とか可能だねぇ。ルート的に君はどっちに行きたい?」

 

「それより、条件を聞きたい。脱退を認めて貰う材料はなに?」

 

「あー、それは君の〈原子崩し〉の研究を進める事さ。大規模な研究で0次元の極点を開発する。この話が通った時点で君は第三位になるだろうねぇ。それでも足りないのなら、私の権利を削るまで」

 

何気ない本名不詳の言葉に麦野は可憐な眉宇を歪めた。

 

「共食いをしてんのね」

 

「残念ながら統括理事会は一枚岩じゃないの。権利の奪い合いに近い関係だ。強かな者も居れば、知略で攻める奴も強引な手を使う奴もいる。卑怯な奴は割りとどこにでもいるな」

 

青信号。緩やかに車を発進させた。

 

今まで見てきたメンバーを思い出し本名不詳はまともな奴を指折り数える。『学園都市』の幹部なので、それ程使えない訳ではないが、だからと言って有能でもない輩が多かったと記憶している。

 

記憶を掘り返している間に麦野は答えを決めたのか、真っ直ぐ本名不詳を見つめた。

 

「統括理事会の方から話を通して。それで駄目なら、最後の賭けよ」

 

「了解。魔窟の住人の所まで道案内してやるよ」

 

そう言って本名不詳はハンドルを切る。だいぶ見えてきた病院はひどく懐かしいものだった。


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