とある奇跡の平行世界   作:雨宮茂

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一つが二つ

「むぅ。結局、パスワードが分かんない訳よ」

 

フレンダは、本名不詳が押し付けた服を着て椅子に座って唸っていた。

 

赤のチェック柄のプリーツスカートに黒のハイソックスが少女の美脚線を強調する。

 

「【AITEMU】や【ITEM】じゃなかったし、麦野の誕生日も違う」

 

まるで彼氏からのメールの返信を待ち焦がれる彼女のような表情でフレンダは、携帯の画面と睨み合う。

 

「あー、畜生。電子ロック解除なんて専門外だし、ホントこーゆ時に麦野は偉大に感じる訳よ」

 

弱気な事を言い始めたフレンダの精神は、既にギブアップ寸前だった。

 

実際フレンダは、ピッキングやドアを焼き切ったりする解除方法が得意でもこのように頭を使うのは、かなり不得意なのだ。

 

「あー、早く絹旗と滝壺来ないかなぁ」

 

考える事を放棄してフレンダは、増援の二人に期待を込めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

フレンダがパスワードの解除を諦めて十分ほどしたら、廊下から少女の声がした。

 

「フレンダァ!! 超どこですか!?」

 

「この辺りが居住区、らしいけど」

 

廊下に居たのは、フレンダが待っている『アイテム』の大能力者、絹旗最愛と滝壺理后だった。

 

滝壺は、等間隔に並んだ木製の扉を開いては、中にフレンダが居ない事を確認する。

 

「殆どの部屋、埃がいっぱい積もって汚いよ」

 

「具合を見ますと部屋に超入ったような痕跡は、無いですね。まさか私たち、超騙されたんじゃ」

 

居住区の大半の部屋を開けたが、誰も居ないことに絹旗は、本名不詳の電話が嘘だったのではないだろうかと疑い始めていた。

 

気持ちが分からなくもない滝壺は、なんとも言えないので、曖昧に返事をするばかり。

 

「で、でもほら、最後にあそこの部屋を開けよう? ね、きぬはた?」

 

「そうですね。居なかったら、この建物の基礎を超叩き壊して本名不詳を生き埋めにしてやりましょう」

 

気合を込めた右ストレートを空中に放ちながら、絹旗の目は本気だった。

 

「ふれんだとむぎのも生き埋めになっちゃうよ?」

 

引き止めるように滝壺は、絹旗の肩に手を置く。

 

「麦野なら超無事に生還できるでしょう? なにせ超倒壊したビルの瓦礫を〈原子崩し〉のビームで薙ぎ払えるんですから」

 

「ふれんだは、どうなるの?」

 

「…………さぁ?」

 

麦野のには、心配要らない根拠があったがフレンダの事は、すっかり視野に入れていなかったのか絹旗は、長く悩んだあと困ったように首を捻った。

 

「ならどうやって本名不詳を超引きずり出します? やっぱりフレンダの回収を超最優先にした方がいいのでしょうか」

 

「こーどえらーの事だからただふれんだを攫った訳じゃないと思うけど。たぶんむぎのの所に辿り着くヒントは、貰ってるはず」

 

滝壺のどこか確信した物言いに絹旗は、どこか反対姿勢をとった。

 

「私は超そう思いません。だってメリットが無いでしょう? ヒントを与えるならこのゲーム自体が超無意味です」

 

「うん。きぬはたが言いたい事わかるよ。でもねこーどえらーは、きっとゲームをする必要が無いと思う」

 

ならなぜ? と問いかける絹旗に滝壺は、平坦な声で答えた。

 

「ゲームの必要があったのは、別の人。たぶん挑戦状を渡したかみじょうに必要だったのと時間が欲しかったくらいだと思うの」

 

「本名不詳のこととなると滝壺さん超饒舌ですね?」

 

「だって似た能力だから。私ならこうするって」

 

思わず絹旗は、滝壺の横顔に本名不詳を重ねてみた。

 

しかしどこか、しっくりこない。似ている部分が浮かばないからだ。

 

顔のパーツではなく、もっと内面的な部分でもこの二人は噛み合わない気がする。

 

「私は超似てないと思いますよ。だって本名不詳は、掴み所ないし活発的で滝壺さんと被る部分はないです」

 

「それは、私がまだ私を見つけてないから」

 

最後の扉を開けようとして絹旗は、止まった。

 

「私は、体晶がないと能力が使えない。つまり私は、自分が分かってないんだと思う。だから自分が見つかったらこーどえらーとどこか似るんじゃないかな?」

 

ただ己の内側を見詰めようとして、それでも怖くて、目を逸らし続ける自分。知らなければと思うほど本能が警笛を打ち鳴らすのだ。

 

それ以上は、踏み入れてはいけない。それ以上、考えてはいけない。

 

怖いのかもしれない。自分を知る事で、今の滝壺理后という形が跡形も無くなってしまうのではないだろうか。無くならなくても、後戻りが出来ないくらい変わってしまうのかもしれない。

 

石のように固まった滝壺の身体に優しげな響きの声が撫でる。

 

「……それでも滝壺さんです」

 

「きぬはた?」

 

「超なにがあっても滝壺さんは滝壺さんです。だって自分だけの現実(パーソナルリアリティ)が弄られた私が、ちゃんとした絹旗最愛という人間なんですから。ね?」

 

絹旗最愛だからこそ言える言葉なのだろう。

 

自我の一部を人為的に書き換えられても、絹旗は絹旗最愛でしかなかった。他の何者にもなった訳ではなかった。

 

なにがあっても在るがまま。世界にたった一つの存在。

 

内部の変化を受け入れてこの少女は、ここまで来たのだ。

 

他人の思考を受け入れても本質が変わらないのに、どうして自分を受け入れると別の何かに変貌するのだろうか。

 

滝壺は、重たい何かが水に溶けてなくなった様な気がした。

 

「ありがとうきぬはた」

 

「いえいえ。それじゃこの扉を超開けましょうか」

 

いつもの滝壺に戻って安堵した絹旗は、ドアノブを捻ると、そのまま押し開く。

 

絹旗の視界に飛び込んできた風景は、今まで見てきた部屋とは違った。

 

先ず埃が床に積もってない。そして漂う仄かなコーヒーの香りは、人が居たことを教えてくれた。

 

思わず急いで中に入ると、物音に驚いたフレンダが椅子に座っていた。

 

「……フレン、ダ」

 

「あ、絹旗に滝壺! どうして」

 

「こんの超阿呆! なに勝手に攫われたんですか!!」

 

どうして勝手に置いて行ったんだ、と非難を述べようとしたフレンダは、

 

「ぐはっ!!!」

 

絹旗最愛の殺人ラリアットの餌食になってしまい、発言する事は愚か、満足に呼吸さえできず冷たい床の上で小さく痙攣を繰り返し静かに動きを止めてしまった。

 

「ああ!! 超やりすぎてしまいました! フレンダ超起きて下さい!」

 

「こ、殺す気かこのヤロウ……」

 

白を通り越して真っ青な顔でフレンダは、言葉を発した。

 

あまりの衝撃に霞んでいた視界も晴れ、一度深呼吸をするとフレンダは、絹旗に寄り掛かり上半身だけを起こす。

 

まだ痛む箇所を押さえながらフレンダは、恨みがましい視線を絹旗に送った。

 

「たっく少しは手加減してよ。アンタの能力でプロレスとかやられたら、簡単に死んじゃう訳よ」

 

「善処します。ですがなんで超誘拐されてるんですか!」

 

「置いて行ったのアンタでしょー!?」

 

理不尽な責めにフレンダも怒鳴って返すと、後から入ってきた滝壺がフレンダの頭を撫でた。

 

「探したよふれんだ。むぎのも居なくて私達心細かったの。許して?」

 

「別に私は、超心細かったわけじゃないです」

 

強がりばかり言う絹旗に悪戯心を刺激されたフレンダは、意地の悪い笑みを浮かべる。

 

「その割には、私を見つけたときなんて結構取り乱してた訳よ」

 

「サンドバックって言う言葉を超知ってますか?」

 

「どうもすみませんでした」

 

華麗なシャドーボクシングを繰り出す絹旗の前にフレンダは、鮮やかな土下座で返す。

 

フレンダの一連の動きが迷うことなく、そして美しかったので滝壺は、思わず見入ってしまった。

 

実は不安だった絹旗を弄った代償は、武力行使だったことにフレンダは、内心苦笑してしまう。

 

「まったく素直じゃないのは、麦野と絹旗な訳よ」

 

「ねー」

 

それに同意する滝壺。

 

二人で小さく笑っていると、絹旗がフレンダが持っているものを指差した。

 

「ところでその携帯、麦野の奴じゃありませんか?」

 

「うん。これに麦野の居場所の情報が入ってるんだって」

 

「超本当ですか!?」

 

フレンダは、苦い笑顔で麦野の淡い桃色の携帯を絹旗に渡す。

 

その笑顔に含まれている意味を理解せずに絹旗は、フレンダから携帯を受け取る。

 

滝壺は、なにやら一抹の不安を感じているのか特に何も言わず絹旗の様子を窺っていた。フレンダに至っては、喜色満面の絹旗を騙したような気分に陥って彼女の顔を見ないしている。罪悪感は、あるのだがどうにも言い出せない小心者だった。

 

そしてついに絹旗が『パスワードを入力してください』という画面に阻まれて、フレンダを見ると同時にフレンダは、あからさまに視線逸らす。

 

「……ねぇフレンダ」

 

「結局パスワードは、知らない訳よ」

 

「超使えねぇぇえええ!!」

 

期待を綺麗に裏切られた絹旗の絶叫にフレンダは、叫んで返した。

 

「パスワードが掛かってるって知らなかったんだから仕方ないでしょ!?」

 

「落ち着いて。頑張ってやってみよう? きっとむぎのの事だから『syake』とかかもしれないよ?」

 

滝壺の制裁で怒りの炎が鎮火したした二人は、頷くと滝壺の側に寄った。

 

「それじゃ、ふれんだ。なんのパスワードを入れたの?」

 

先ずは、外堀を埋める作業から始める事にした。

 

フレンダが思いつく限りの数字や文字は、全て弾かれたのだ。それを絹旗が整理する。

 

「えっと、麦野含めた『アイテム』の名前と誕生日。それから『アイテム』の英語の綴りとローマ字表記、原子崩し(メルトダウナー)の英語。それくらいかな」

 

出された条件に滝壺と絹旗は、難しい顔をして唸る。

 

「うーむ。となると、超残る可能性は、『syake』か『syakeben』くらいじゃないですか」

 

「でもむぎのだったらあり得る」

 

あの依存に近いシャケ好き麦野であれば、携帯のパスワードに使ってそうである。

 

三人は、最後の望みを賭けて携帯を睨みつけた。

 

滝壺の指が携帯のボタンを押して、一つの文字が完成した。最初の文字は、『syake』と打ち込み、キーを押すと出てきた文字は、『パスワードが違います』という希望をへし折る無機質で義務的なもの。見慣れたフレンダは、小さな嘆息で終ったが、絹旗と滝壺は、明らかに口をへの字に曲げて不満そうである。

 

再チャレンジで滝壺の指が文字を入力する。

 

表示されたのは、『syakeben』

 

昼食は必ずと言っていい程、これだ。寧ろシャケ弁以外を見たことがない。麦野の執着を信じて滝壺は、決定キーを押す。

 

「……うそ」

 

しかし、そこに表れた言葉は、またもや希望を粉砕してくれた。

 

「パスワードが『syakeben』じゃないってどう言う訳よ!?」

 

最後の望みが費えたことに焦りを感じたフレンダが立ち上がる。

 

「だって愛情以前に妄執って言ってもいい訳じゃん!? 麦野がシャケ弁以上になにを愛してるの?」

 

「……愛」

 

怒涛の勢いで不安を吐き出すが、その中に入っていたとある単語に滝壺が反応する。

 

絹旗は、若干暴走しているフレンダを止めるために宥めていた。

 

皆が皆、勝手に行動する。

 

手に持ったままの携帯を握り締め滝壺は、一つの単語を入力していく。

 

キーを押す硬い音を聞いた絹旗がフレンダを放ってやってくる。どうやら止めるのが面倒になって放置することにしたらしい。どこか疲れた表情で絹旗は、滝壺の横に腰を下ろした。

 

「超なにをしてるんですか?」

 

「うん。パスワードは、これだと思う」

 

そう言って滝壺の指がローマ字を完成させた。

 

覗き込んで一緒に見ていた絹旗は、納得の声を上げる。

 

「なるほど。確かに麦野なら超コレでしょうね!!」

 

「だよね」

 

二人だけで盛り上がる。これだけ気分が上がるのは、この単語に自信があるからだ。

 

この数日を思い返す度に絹旗は、確信する。

 

「パスワードは、『touma』で超決まりでしょう!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何もない寂しい世界。無音すぎて呼吸音が良く聞こえるくらいだ。

 

本名不詳は、膝を抱えそこに額を押し当てる。背中を丸くして、目を開けても真っ暗な世界に身を委ねた。

 

そうして思ったのが、まるで胎児のようだということ。成人の身体で自我を得た本名不詳にとって縁遠いものだからこそ、そう感じたのかもしれない。遺伝子のなせる本能から切り離された彼女にとって、そう感じられることがちょっとした喜びでもあった。

 

こんな出来損ないでも人間なのだと、実感する。

 

今まで生きていて人間だと実感した事は、数少ない。

 

確かに腹も減るし痛みなどは、しっかりある。眠くもなれば、眠れないこともあった。ちゃんと本能が、人間としての機能が動いても人間としての自信がないのは、彼女が幼少を知らないからだろう。愛された事もなければ、人間としてみなされた事など記憶にない。

 

特に家族からの愛情を知らない。

 

しかしそんな彼女にも愛され愛し、慈しみを、家族に向けるような愛情に最も近い感情記憶しているのが、たった一人だけ居た。

 

それは、木原神無であった時でも本名不詳(コードエラー)になっても変わらなかった。

 

木原神無の時では、まるで我が子のように。

 

本名不詳は、妹のような感情を抱いた。

 

どこか目が離せなくなって、気づいたら自分が引き込まれていた。お転婆で、寂しがり屋で強がりな彼女に。麦野沈利という擬似的な家族愛情。

 

故に今回は、このような強攻策に出たのだ。彼女が生き残れるよう。

 

麦野沈利の精神を逆転させ原子崩しに主導権を渡し、一度分離した〈自分だけの現実(パーソナルリアリティ)〉を自我と融解させるため。

 

そうしなければ、能力を使うたびに彼女が壊れてしまう。肉体的というよりも精神的に。

 

過激な能力を否定しながら能力を揮うことなど出来る訳がない。いずれ人殺しという行為に精神と心が崩壊した筈だ。そうなってしまえば学園都市は、麦野を切り捨てただろう。価値の無い者に、この学園都市という魔物が存在を許す事はない。

 

それでなくとも彼女は、この閉鎖された都市の闇を知り過ぎた。麦野がそれなりに生き抜くためには、どうあっても能力(チカラ)が必須になってしまう。

 

だからこそ本名不詳は、麦野が能力を行使出来なくなってしまう前に麦野に新しい可能性と原子崩しと共存を求めたのだ。

 

能力者として爆弾を抱えても尚、使い道がある事を誇示させるために。

 

「でも最後の最後で君が原子崩しを認めるためには、彼らが必要なんだ。例え化け物を抱えていても人間で在れる場所がある事を自覚することで、麦野沈利が原子崩しを受け入れる強固な地盤が完成する」

 

執着や妄執の領域を飛び越えて本名不詳は、たった一人のために大きな流れまでも狂わせた。世界が辿るべき道筋まで書き換えるような大掛かりなもので無いにせよ彼女は、確かに歴史を大きく変えた。

 

これから世界の様々な場所で、拳一つで戦い抜くであろう彼のこれからを変えてしまうという事は、そう言った事なのだ。

 

まさに博打だ。これで世界が未曾有の繁栄と平和を迎えるか、それとも衰退と戦乱の世を迎えるか分かれてしまうのだから。

 

未来が見えない以上、本名不詳はこの選択が平和に繋がるように心の中で願うばかりである。

 

不安を押しのけるように立ち上がると本名不詳は、隣で眠っていた麦野の横顔を眺めた。耳を澄まさなければ聞こえないくらい小さな寝息に本名不詳は、ため息をついた。

 

自分の世界を閉ざして起きようともしない彼女に、焦燥や後悔の念が滲む。

 

麦野の不安や絶望を早く取り除きたい。その取り除く鍵の一つである『アイテム』がもう直ぐそこまで来ているのを本名不詳は、確認する。

 

そして後悔は、こんな風に追い詰める手段しか行使できない自分の立場であった。

 

「もっと穏便に出来たら良かったのにねぇ」

 

誰に言ったわけでもない呟きは、

 

「見つけた訳よ! 本名不詳(コードエラー)!!」

 

『アイテム』の構成員フレンダによって掻き消された。

 

彼女の後ろから絹旗と滝壺が現れる。

 

待ち焦がれていた来訪に本名不詳も微笑した。

 

「来ないかと思ったよ」

 

「元から超お誘いしている訳じゃないでしょう?」

 

なかなか来なかった事を突けば、絹旗が苦い表情で問い返す。

 

「まぁね。来なくてもいいし、来てもいいし。結局、私には損が無いって寸法だ」

 

どの道、本名不詳の手の上で踊っているに過ぎない。そう真正面から言われて聞き流せるほど、『アイテム』の面々は大人ではない。

 

フレンダは、口をへの字に曲げてあからさまに不機嫌である事を表した。

 

「結局、あんたの思い通りでも麦野が取り返せればそれでいいって訳よ」

 

「そうだといいねぇ。彼女、素直に君らの元に帰ってくるかな?」

 

フレンダの言葉にも特に本名不詳は気にかけなかった。

 

ただ、視線は麦野に向けられていた。耳を澄まさなければ聞こえない寝息に本名不詳の表情が悲しげに微笑む。

 

「この子達が来ても知らん振り、か。期待してたんだけどなぁ」

 

「こーどえらー?」

 

あまりにも悲しそうに顔を表情を歪めるものだから滝壺も思わず名前を呼ぶ。

 

滝壺の声に応えるように本名不詳は『アイテム』の面々に向き直る。

 

「まぁ、あれだ。期待しないでおくよ」

 

どこか諦めにも似た本名不詳の感情を誰も汲み取る者はいない。

 

言われたことの意味が分からず首を傾げる『アイテム』を視界からも意識からも消し、本名不詳は再び麦野に視線を向ける。そして、跪き耳元で囁く。

 

「ねぇ、迎えが来たよ麦野さん。後は貴女が決めなさい」

 

すると麦野の長い睫毛が震え、ゆっくりと目蓋が押し上げられる。

 

緩やかな覚醒。

 

麦野は、久しぶりの光りに一度目を細め、そして視界を埋め尽くす本名不詳の貌を見た瞬間、一条の光りが女をなぎ払った。

 

この場に居た全ての人の隙を付いたような〈原子崩し(メルトダウナー)〉の光線が本名不詳を吹き飛ばした。

 

本名不詳は、硬い壁に叩きつけられ人の形を残しているが体の表面は殆ど焼き爛れていた。

 

「麦野! 無事だったの?」

 

「近づいちゃ駄目、ふれんだ!」

 

駆け寄るフレンダの直ぐ横を、見慣れた青白い閃光が膨大な熱と破壊力をもって過ぎ去る。最初はなにがなんだか分からなかったが、自分の横を突き抜けた現象がなんだったのか理解すると足を踏み出せなくなっていた。

 

その間にも目の前の人物はゆっくりと起き上がり、フレンダ達から見て左側の壁まで吹き飛ばした本名不詳に侮蔑の眼差しを向ける。見るも無残な本名不詳の火傷がいつの間にか治っていた。今では、頭から血を流している程度で、目立った傷のない本名不詳は悠然と立ち上がった。

 

「まだ利用価値があって良かったわね。一応、殺しはしないから」

 

「そう、それは助かったよ本当に。で、迎えが来たんだが帰る?」

 

麦野はその問いを切り捨てた。

 

「帰らないに決まってんだろ。お仕事よりもこっちを優先したいし、むしろなんで来たわけ?」

 

「なんでって……超どうしたんですか麦野?」

 

「はぁ? 残念だけど麦野じゃなくて、私は原子崩し(メルトダウナー)だ」

 

泥に沈んだ暗部の女王が目を覚ます。

 

困惑した絹旗、フレンダ、滝壺に爪を立てて意志をを挫く暴君のような殺気を撒き散らす麦野。

 

その中で唯一、本名不詳は怪訝な表情をしていたのは誰も知らない。

 

「どういうことですか。麦野に超なにをしたんですか!」

 

「あ、やっぱりそうくる? 確かに普通に考えれば、私が彼女の脳を弄って操ってる事になるだろうけど、今回は違うよ」

 

気怠げに反論する本名不詳(コードエラー)にフレンダはたたみかけた。

 

「どう考えてもアンタが犯人よ! この前科者!」

 

そう言われると返すことも出来ない本名不詳は自身の潔白を示すために考える―――時間を彼女は与えなかった。

 

「取り敢えず、邪魔なアンタは消えろ」

 

彼女の掌で青白い光が爆ぜる。その行動がなにを意味するのか知っている本名不詳は喉か干上がった。

 

「まぁ、宇宙までは飛ばさないから安心しろ」

 

「おい、そんな問題じゃない!」

 

0次元の一点さへ手元にあれば、3次元のすべてを掌握できる。彼女は既にその一点を掴んでいるのだ。

 

物体の移動。空間移動に制限のない彼女は本名不詳程度どこにだって飛ばせる。それこそ太陽の真ん中だって可能だ。

 

「宇宙に飛ばさないのは嬉しいけど、邪魔って」

 

ないでしょ、と続いた筈の声は途中で消えた。そこに存在していた本名不詳ごと、消え去った。

 

「え、ウソ!?」

 

「こーどえらーが……」

 

「……消えた?」

 

「で、どうするの? 私は『アイテム』に帰る気は無いんだけど」

 

茫然としていた三人の鼓膜を彼女の不機嫌極まりない声が揺らす。

 

「む、麦野どうして!」

 

「麦野じゃねえつってんだろ! 二度も言わねーと理解できないのかよ! あぁ!?」

 

空間をビリビリと震わせる咆哮にフレンダは言葉を詰まらせ一歩下がる。

 

「帰りましょう。麦野は『アイテム』の私達の超リーダーじゃないですか」

 

「下らない。仕事ならアンタらでも出来るだろ? 『アイテム』のリーダー麦野沈利が必要なら諦めな」

 

「それだけじゃないよ」

 

その時、いつもおっとりとしている声が、凜と空気を揺らした。鮮明な意志を持った鈴のような声が―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ないでしょ!」

 

言ってから本名不詳は首を傾げた。そこは不自然に広々とした空間ではなく、ある程度広さのある研究所の正面玄関。簡単に言えばピロティだ。

 

明らかに、先ほどまで自身が居た場所じゃない。確かに宇宙まで飛ばされなかったが、彼女が本気を出せば学園都市の外にだって飛ばせるはずだ。

 

「なのに、なんで同じ研究所なんだ?」

 

見慣れた殺風景は他に無いだろう。この五日近くを過ごした最近閉鎖したAIM及び、性格と“自分だけの現実”の繋がりを調べる研究所。今の麦野沈利にもっとも適した場所とも言えるだろう。

 

「思惑は知らないけど暇よねぇ」

 

その気になれば、彼女が居る場所に戻れる。しかし戻れば今度こそ、宇宙の藻屑となってしまうと思うと、どうにも戻れない。『アイテム』の人々には申し訳ないが、本名不詳は見捨てることにした。なによりも自分の命は可愛いのだから仕方ない。

 

それに、確信に近い何かがあった。彼女は殺さないと。

 

それとも、殺せないの方だろうか、と考える余裕も。

 

だから本名不詳は待つ事にする。絶対の窮地から逆転の一撃を可能にする青年の来訪を。そして彼の覚悟を聞きたいのだ。自分が納得できる答えを聞きたいのではなく、彼の思いが。

 

 

だから本名不詳はここで待たなければならない。ここは、客人が最初に来る場所。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

適度に摂取した食べ物のお陰か、体調が良好になった上条は助手席に大人しく座っていた。

 

木山は快調に車を走らせる。制限速度をやや越えているのには目を瞑ってもらいたい。

 

「まさかAIM拡散力場の研究所だとは思わなかった」

 

「本名不詳が隠れてる場所が?」

 

「あぁ、AIM拡散力場は学者によって扱い方が異なるんだ。個人のAIM拡散力場を調べ上げる事により、その個人の性格、行動、思想が分かる。この様に扱う者も居れば、AIM拡散力場は似た能力同士、拡散力場が共鳴し言わば似た者同士でネットワークの形成を可能とする事象。科学的な視点から見る者もいる非常に幅広い分野だ。昔は無視されがちな分野だったんだがな」

 

悠々と語る木山の言いたい事が分からず上条は首を傾げる。そんな彼の視線を感じた木山は簡潔に答えた。

 

「つまり、AIM拡散力場を調べると言うことは頭の中身を知る事に繋がる。麦野沈利のAIM拡散力場を調べなければならない理由は、見当も付かんが麦野沈利自身か若しくは学園都市の発展に欠かせない可能性を彼女は頭の中に秘めている筈だ。超能力者の彼女の更なる発展だった場合。もしかしたら……絶対能力者とかな」

 

木山の最後の一言に上条は戦慄した。

 

学園都市には掲げているスローガン的なものがある。

 

神ならぬ身にて天上の意思に辿り着くもの―――――――

 

即ち、人間では世界の真理は理解できないが、人間を超越した存在となれば真理(神様の頭脳)に到達する事ができる、というものだ。

 

つまり、人間を棄てるということ。この学園都市は神を生み出すために存在する。世界最高峰の科学技術なんて副産物であり、ただのオマケに過ぎない。しかし世界はその副産物を欲している。その副産物は彼ら彼女ら能力者からヒントを見つけ出し、科学的にその現象を発生させると言う物だ。

 

そうだ。『世界』は知らず知らず、学園都市の闇を濃く、深くしている。五十年以上の時間の重みは、手が付けられなくなっていた。

 

蓄積され、濃縮された闇が麦野沈利を人から別の何かに変貌させようとしている。

 

その闇を引っ提げて来たのが本名不詳なら、彼女一人どうにかした所で、どうにもならない。恐らく本名不詳の替えくらい幾らでもいる筈だ。つまり、麦野沈利を救うということは大きな社会を敵にしなければならない。自分の人生を棒に振ってまで、これからの全てを血染めにしなくては彼女は救えないのだ。

 

その時、ふと曖昧な記憶の縁から本名不詳の声が聞こえた。

 

『麦野沈利を助けるなら、君は覚悟を決めないといけない。生温い答えで私の前に来てみろ?殺すぞ、次は無いからな』

 

今になって彼女の言いたいことが上条に理解できた。

 

それだけ、深刻な問題だったのだ。取り巻く環境と問題が。

 

一般人の彼には荷が重過ぎる。今からでも引き返して明るい世界に帰られたら、どれだけ彼の人生は血を見ずに済んだだろうか。生憎と上条当麻には、その程度で諦めるということができないくらい底なしのお人よしで、本当に優しい人間でもあった。

 

本名不詳ならただの馬鹿、と評していたかもしれない。

 

「覚悟なら、もう出来た。俺はなにがあっても麦野をあの暗闇から引きずり上げる。例えこの学園都市を敵に回しても!」

 

「そうか、そうだろうな。君ならそう言うと思ったよ」

 

なんとも言えない微笑を木山は零した。賞賛も非難できない自分を罵るようにバックミラーに映った自身を睨んだ。

 

そして前方に見えるビル影がとても近くなっていたことに、内心驚く。どうやら大分話し込んでいたらしい。

 

さらにアクセルを踏み込み、青い外車は駆け抜けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

静かに水を打った世界で、滝壺は目の前の彼女から視線を外さなかった。

 

「どうして、むぎのは怯えてるの?」

 

「はぁ? 誰がお前に怯えてるって? 『体晶』のないテメェなんてひ弱なモヤシだろーが」

 

「そうだね。私の手元には『体晶』はないよ。でも、私が言いたいのはむぎのどうして、自分と向き合うことから逃げて怯えてるの?」

 

「…………あは! 馬鹿馬鹿しい、なにが」

 

「むぎのは現実から目を背けてる」

 

彼女の言葉を遮り滝壺は断言した。いつも自己主張のない滝壺を知っている面々は驚いたが、それ以上に喉の奥からせり上がる恐怖に耐えていた。

 

そして、ついに外れた。

 

猛獣を押し込めていた鍵が豪快な音を立ててぶち壊された。

 

僅かな理性と正常な感情が無残に引き裂かれた音でもあった。

 

「そう、アンタ死にたいのね。ごめんね気づかなくて。そこを動くなよ、今から愉快なオブジェに変えてやるからさぁぁぁああああ!!!」

 

咆哮と共に一本の光が滝壺に向かって迸る。滝壺は避けれるほどの反射神経を持ち合わしていない。

 

故に彼女は勝利を確信した。

 

絶対の一撃は―――

 

「おおおおォォォォォ!!」

 

絹旗の決死の突進で二人して床に転がる形で避けられた。思わず彼女は悪態をつく。滝壺だけではなく絹旗まで自分の意思に逆らったからだ。

 

気に入らない………。

 

なら、壊してしまえ。骨の欠片塵一つ残さず、消しつくす。

 

そう決めた彼女の行動は迅速なものだった。すぐさま二人に照準を定め手を翳《かざ》す。

 

そのとき、彼女の脳に警告音が鳴り響く。純粋な本能に従い射出する筈だった曖昧な電子の塊を壁として展開させる。熱したフライパンに水を落とした様な音を立てて、なにかが電子の壁に衝突した瞬間、溶けた。

 

「フレンダァ!!」

 

「け、結局、私を忘れちゃいけない訳よ!」

 

見れば、拳銃を構えたフレンダが少し泣き出しそうにしていた。

 

溶けたのは弾丸だろう。窮地を救われた絹旗は照準を定められないように彼女の後ろに回り込むように駆け出す。その影響でコンクリートの床が抉れた。

 

窒素装甲(オフェンスアーマー)による集めた窒素を使い通常では叩き出せない速さで彼女の死角から迫る。

 

「ッああああ!!」

 

「麦野ぉぉぉ!!」

 

懐に潜り込もうとする絹旗と拳銃を構えたフレンダに挟まれた彼女は舌打ちすると、両側に向かって〈原子崩し〉の壁で対応する。

 

拳銃で攻めるフレンダにはこの壁は効果的だが、接近戦での絹旗は得意の素早さを生かし原子崩しの隙間をすり抜けると、一気に自分の攻撃範囲に彼女を入れる。

 

スピードと回転。そして体重を乗せた岩をも砕く一撃は、〈原子崩し〉をロケット噴射のように利用した彼女に躱される。しかし彼女は大振りの蹴りを躱され隙だらけになった絹旗に追撃せず、〈原子崩し〉の噴射を維持したまま高速で絹旗から距離を取りつつ電子の壁を作り上げた瞬間、弾丸の雨が降り注いだ。

 

フレンダの援護射撃だ。二人は隙を埋め合うように絶妙なコンビネーションを決めてくる。思うように事が進まない苛立ちが彼女に積もっていく。

 

そこに絹旗が〈原子崩し〉を撃たせないように積極的に攻めてくる。

 

風が唸る。絹旗の拳はさっきと違い全力の一撃ではなく、ジャブや小刻みな動き。なによりも速さで相手に反撃をさせない。

 

予想通り彼女は、絹旗から繰り出される拳を躱し続ける。

 

ジャブと言っても〈窒素装甲〉で強化された拳だ。当たれば骨が折れてもおかしくわない。

 

しかし圧倒している筈の絹旗は未だ自分の攻撃を躱す事の出来る彼女に驚愕していた。

 

彼女は絹旗の拳だけでなく蹴りも全部回避しながら、フレンダがいつ撃ってくるか分からないため、意識を削がなければならない。

 

もしこれが彼女と絹旗の一騎打ちなら、今頃絹旗はその小さな体に不釣り合いな大きな空洞が出来ていただろう。

 

LEVEL5という事実を差し引いても彼女の戦闘力は絹旗とフレンダ二人分を足しても、まだたりない。

 

破竹の勢いで攻める。そこに弾丸が割り込む。一発じゃないそれこそ無数の弾丸 だ。どれか一つくらい掠ってもおかしくはないのに、彼女は電子の壁一つで防いでみせた。

 

だが拮抗する戦いに終止符を打ったのは彼女だった。

 

絹旗の拳が彼女の脇腹を掠めた瞬間、前に勢い良く踏み込み絹旗の襟首を掴む。絹旗が行動を起こすより先に、彼女はその小柄な女の子を上に向かって投げ飛ばす。

 

フレンダが慌てて彼女に連射するも、全てを溶解させてしまう電子の壁に阻まれ届かない。ならばと、手榴弾のピンを外す。

 

しかし彼女はフレンダに見向きもせず、一枚のカードを投げるとそこに向かって〈原子崩し〉の極光を放つ。14本に枝分かれした光線は宙を舞う絹旗の腕や肩口、そして脇腹を貫通する。

 

「あがぁぁぁあああぐぅぅ!! ……いッ……ぁぁぁ」

 

「クソ!!」

 

絹旗の痛みに耐えかねた絶叫が響く。

 

間に合わなかった。フレンダは自分の失態を悔やみながら、絹旗にさらに〈原子崩し〉を撃ち込もうとした彼女に向かって持っていた手榴弾を投げつけた。

 

手榴弾は彼女の手前で爆発したが余裕で被害範囲。だが電子の壁は物質の溶解だけでなく熱風やエネルギー体まで防ぐ。

 

無傷で爆破を凌いだ彼女は爆煙の向こうで震えているフレンダを想像して、猟奇的に嗤う。

 

「フレンダァ? ねぇ、今なら命乞いすればさぁ。命だけは助けてやるよ」

 

「む……麦野。それほんと?」

 

そら、食いついた。

 

「ホントホント。でも二度と私に逆らわないようにしないとねぇ」

 

「や、やだな麦野。もう二度としない訳よ。ね! だから……」

 

そうだ。もっと……もっと惨めに媚びろ薄汚い生存欲をさらけ出せ。強欲なまでに渇望しろ!

 

まだ晴れない煙の中から怪物が姿を現す。

 

「それじゃ誓って。二度と逆らわないってさぁ。そしてアンタの手で」

 

さぁ絶望しろ

 

「絹旗と滝壺殺しなさいよ。示してよ。アンタの思いってやつ?覚悟はしてたんでしょ?」

 

ぎゃははははは!!! どぉした!? 愛想笑いが出来てねーぞ。なんだぁ泣きそうな顔して

 

「え………なに、言ってるの?」

 

「仕方ないわね。絹旗と滝壺を殺せって言ってんのよ」

 

ありゃ、固まっちゃって。優しく撫でてやれば感覚戻るかにゃーん?

 

「滝壺………」

 

「フレンダ……」

 

「おいおいフレンダァ…なーにお姫様に助け求めてんだよ」

 

見下すように蔑むようにフレンダと滝壺を嘲笑う。

 

しかし滝壺はそんなこと聞いてなかった。

 

「ふれんだ、もういいよ」

 

「……………よ、よかったぁ」

 

「うん、もう大丈夫」

 

いまいち意味の分からない会話に彼女は訝しむ。

 

フレンダと滝壺を交互に見て彼女は言いようのない不安に煽られた。

 

フレンダは彼女に向かって勝ち誇ったように笑っていた。

 

「てめぇ、なに笑ってんだ」

 

「結局、これで私はお役ごめんって訳よ」

 

勝者の態度なフレンダに彼女の低すぎる怒りの沸点が爆発する。

 

フレンダを真っ二つにするために無言で〈原子崩し〉の青白い光を出現させた。

 

しかしフレンダは未だ余裕の態度。なにがフレンダに勝利を確信させたのか気づかなかった彼女は、大事なことを見落としていた。

 

「〈原子崩し(メルトダウナー)〉のAIM拡散力場から『自分だけの現実』を把握。後は私の意志で貴女の能力を封じれる」

 

「なに!?」

 

滝壺はいつの間にか『体晶』のケースを握り締め無機質に宣言した。

 

動揺した彼女の脇をフレンダがすり抜ける。しかし彼女はそれを阻む事も追うこと出来ない。もしなにか行動したなら彼女は一時的とは言え力を失う事になるからだ。

 

彼女は一つの思い込みに捕らわれ過失した。滝壺は『私の手元にはない』と言ったのだ。『誰も持っていない』までは言っていない。

 

決定的なミス。それは早々と滝壺という絶対危険存在を『無害』と決めつけたこと。

 

心理的な膠着状態になった彼女の後ろではフレンダが絹旗の傷を見て首を傾げていた。

 

「……あれ?」

 

絹旗の傷は、はっきり言って即病院レベルの重傷だ。しかしその割には出血量が少なすぎる。

 

出来れば見たくはないが、フレンダは意を決して絹旗の脇腹の傷口を覗き込んだ。直径5センチの傷口には覆うように青白い光がくっついていた。

 

それは、これ以上出血をさせないようにしている。しかし絹旗はこんな光を操る能力は持ち合わせていない。

 

この光の色合い。自然界や人口の光でも滅多に見かけない不健康な青白い畏怖の輝き。

 

「……これって麦野の〈原子崩し〉?」

 

しかし名を呼ばれた彼女は今、そんな事聞いていない。

 

だがフレンダの胸の内には希望に似た喜びが占めていた。

 

麦野は彼女はまだ完全に死んだ訳ではないのだと。確信できた喜びがあった。

 

理由はどうあれ彼女は絹旗が死ぬことを望んでいない。

 

「嘘付いたんだ、滝壺」

 

「ついてないよ。きぬはたが持ってたの。私を助けてくれたときにくれた」

 

「ふーん。そっかそうだよね。もっと早くから間違いに気付くべきだったんだ………」

 

「むぎの、目を逸らさないで確かに私達がいる世界は暗くて汚い場所かもしれない。でも」

 

「間違いだったんだ。仲間なんて利害の一致関係じゃない。私を迎えに来たのも『暗部』からの駆除命令か、なんかが出るのが怖かったんでしょ?」

 

「むぎの! 私の話を聞いて!」

 

さらに滝壺が語りかけようと試みた。しかし彼女は耳を塞ぐ。

 

空気が退く。突如として現れた巨大な光球。膨大な〈原子崩し〉の塊で出来たそれは放てばこの学区は綺麗に地図から姿を消すだろう。

 

滝壺は苦痛の面持ちで唇を噛み締める。やはり同じ闇の住人の言葉では彼女の心の奥底には届かないのだ。

 

仕方がない。割り切れ。今はこれが最良の采配だ。自分を奮い立たせると、滝壺は一切の遠慮もなく彼女から〈原子崩し〉を奪う。

 

動く事の出来ない曖昧な電子の塊はその球の形を崩し、ゆっくりと崩壊を続ける。光の破片が空気に溶けながら落ちてくる光景は幻想的でありながら、とても虚しくもあった。

 

「滝壺」

 

「……ぅ…」

 

その響きに滝壺は嫌な汗を噴き出した。

 

「ねぇ、人ってさ。案外あっさり死ぬもんなの」

 

知ってた?と彼女は笑う。

 

精神はどれだけ崩れ去っても彼女の足取りだけはしっかりとしていた。

 

しっかりと滝壺に向かって歩んでくる。

 

ついに破滅の道を突き進んだ光球はかち割れた。

 

「なんでよ…」

 

「むぎの?」

 

「なんでそんな目で見るのよ!」

 

初めて彼女の悲鳴のような叫びを聞いた。

 

「麦野ぉぉぉおおおお!!!」

 

「ッ!!」

 

フレンダから不意をつかれ彼女は派手に転んだ。フレンダは後ろから抱きつくようにして彼女の進行を止めたが、彼女はフレンダの持っていた拳銃を奪うと口の中に銃口を押し込む。

 

「うぐ!」

 

苦しそうにフレンダが呻くが彼女は力に物を言わせてフレンダの動きを抑えた。

 

「滝壺、私の言いたいこと分かるわよね?」

 

「…………」

 

「能力を解け。そして『体晶』を手放さないと、フレンダが死ぬわよ」

 

「ぐぅぅ! むう!」

 

黒く濁った彼女の瞳が滝壺を捕らえた。

 

「むぎの駄目だよ。そっちの道に行っちゃ後戻り出来ない!」

 

「いっそのことそこまで行くしかないじゃない!中途半端に人間でいるよりは、ずっとマシなんだよぉ!」

 

今にも引き金を引く勢いの彼女に滝壺は手に持っていた『体晶』のケースを落とす。

 

これで彼女の提示する条件一つは消えた。しかし肝心の能力は返していない。

 

「滝壺ぉ、どうした?」

 

「その前にふれんだを解放して!」

 

「滝壺ちゃん心配ご無用!」

 

脚が霞む勢いで彼女の体に蹴りが入れられた。

 

吹き飛んだ彼女の手に拳銃は無い。そして一瞬にして現れ蹴り飛ばした人物はフレンダを腕を取って起こしてやる。

 

その時、二人は幽霊を見た気分だった。

 

「どうして?」

 

本名不詳(コードエラー)がいる訳よ? あと、その頬どうしたの?」

 

フレンダが尋ねた本名不詳の頬は赤く腫れ上がっていた。なんとも言えない表情で腫れた部分を撫でると本名不詳は溜め息をつく。

 

「いや、上条君に思いっきり殴られてさぁ。負けたんだよ彼に。勝ったら一つ命令出来るようにしてたんだけど、その命令で君たちの安全確保だなんて、ついてないねぇ」

 

やれやれと肩を竦めた本名不詳は肋骨辺りを押さえながら立ち上がる彼女を視界に入れて、二人を下がらせる。

 

「離れてろ。あと滝壺ちゃん、麦野さんに能力返してやってくれる?」

 

「怪我するよ」

 

「心配してくれてんの?」

 

おどけたように笑う本名不詳とは反対に滝壺は真面目に頷いた。

 

「うん、心配」

 

「あー、うん。ありがとね。でも大丈夫、だからよろしく」

 

滝壺は力を抜いたような動作をした。それを見届けた本名不詳は彼女に向き直る。

 

「力は戻った?」

 

「死ねッ!!」

 

高速の閃光が本名不詳に怒涛の勢いで迫る。しかし急に〈原子崩し〉の閃光が軌道を変え天井を突き抜けた。

 

「てめぇ!」

 

「ははは、今私は〈原子崩し〉の能力を手にしている。君の攻撃の軌道を弄るくらい朝飯前さ」

 

そう言った途端、彼女は〈原子崩し〉を噴射させ、人間が視認出来る速さを超え本名不詳に突進する。

 

本名不詳も同じように〈原子崩し〉で高速移動する。床がドロドロに溶けることも厭わず目にも止まらぬスピードでお互い拳を叩き込んだ。

 

吹き飛んだのは本名不詳だった。

 

血を吐き出しながら床を転がり、跳ね起きると攻撃を受けた腹部を押さえた。

 

「ごほ、なんつー威力だこの野郎。危うく天にも上れる気分だったわ」

 

「そのまま死ねば良かったのによ」

 

「私にだけ態様酷くないか? 『アイテム』の子達には随分手加減してたみたいだけど?」

 

本名不詳の問いに答えず彼女は同じく突っ込んで来た。

 

回復しきっていない本名不詳は悲鳴を上げる体に鞭を撃ち、荷電電子の反動を利用してロケットのように飛び出す。

 

今度はどちらかが吹き飛ばされる事はなくお互い相手の手を掴むと力押しが始まった。

 

「なんで、アンタがいるのよ!」

 

「話せば長いけど、聞くかい?」

 

咄嗟に本名不詳が力を抜き全力を掛けていた彼女はバランスを崩す。

 

「っらぁ!」

 

「ぐぁあ!?」

 

本名不詳の拳が彼女の脇腹にめり込む。それだけでは終わらせないと言わんばかりに本名不詳は〈原子崩し〉の極光を放つ。

 

それは彼女を回避するようにして軌道を変えた。

 

だが本名不詳は焦らず彼女から距離を取る。

 

「なんで私が来たのか、だっけ? 全くあんな答えだと思わなかったよ。つーか私にそれを言うか? ってーの」

 

声音は呆れを多く含んでいたが表情は嬉しそうに微笑んでいた。

 

 

 

「まったく、麦野さんはちゃんと周りを見ないねぇ。こんだけ想われてんのに」


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