とある奇跡の平行世界   作:雨宮茂

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にじファンに上げていた物のリメイクです



捩れた歴史のプロローグ

真っ暗な世界で、一人の少女の狂った哄笑がコンクリートの壁に反響する。

 

「アハハハハハッ!! どぉしたさっきの方が粋が良かったぞ!!!」

 

「ガハッ……や、やめ、あァァアアアギィィャアアア!!」

 

男の腹を貫いた電子の極光は、周りの肉をブスブスと溶かし焦げた異臭を漂わせた。

 

「……本当にゴミだな」

 

緩くカールを施した長い髪を後ろに払い、呟く。

 

先程までサディスティックに染まった女の顔は今は無表情で、無惨に命を散らした武装集団の一人は裏路地の生ゴミになっていた。

 

詰まらない。残虐と惨殺を繰り返し、電子を操る女王はそう呟く。

 

だいたい先に絡んできたのはこのチンピラなのだが、余りにも小物過ぎた。

 

「毒を喰らわば皿まで、殺される覚悟も無いのに闇に浸かってんじゃねぇよゴミが」

 

何も言わない物に彼女は未練も無ければ後悔さへない。ただあったのは、虚無感だけだった。

 

その場を去る時ふと、空を見上げ震えた声で小さく自身に問う。

 

「私は……もう無理なのかな?」

 

ざわざわと耳鳴りがする。重い足取りで歩くなかふと、思い出したのは今朝の事だった。

 

 

『もう君の能力〈原子崩し〉は進展しないだろう。まぁ心配しなくていい工業分野では〈原子崩し〉は貴重だからね。今の位から――――』

 

そんなことは彼女、麦野沈利には関係なかった。彼女は己の階級と力である能力に執着している。例え希少な能力であっても、そこから進化しなければ意味がない。さらなる躍進がこれから先、あり得ないものならば無意味で無価値だ。持っている物に価値がないなら、今までの努力はなんだったのか。

 

その時、麦野の感情は爆発した。

 

激情のまま研究所を出て、虚無の思いで迷い込んだ学園都市の裏の道。

 

真っ暗闇。

 

そして、知らずに絶望した。自分はどんなに足掻こうとも生きていけるのは闇が付纏うこのクソッたれな世界だけなんだと。どうしようもなく正常が受け付けられない自分には、この無法地帯であり弱肉強食の裏世界が全てなのだ。

 

どんな顔をして歩いていたんだろうか。気付けばLEVEL0に絡まれていた。経緯なんて覚えてなんていない。おそらく、夢遊病のように歩いていたらうっかりテリトリーにでも入ってしまたのだろう。

 

それからの記憶はなぜかはっきりしている。因縁をつけるかのように恐喝するチンピラを冷めた目で見ていると、無反応な彼女に怒り殴りかかってきた。そこら辺に居るような女ならば、殴られてこの男の矮小な愉悦感を満たすだろうが、彼女は違った。

 

そして路地裏で猟奇的で残忍な事件が起きた。決して表舞台に晒されることのない事件が。

 

結局、朝からあった一件で理性の箍が外れかけていた彼女は、憤りを殺意に変換して人殺しをしてしまった。通り魔と同じくらい性質が悪いのを自覚している反面、それ自体を嫌うことはない。

 

それが、学園都市の『暗部』に所属する麦野沈利という人間の感性なのだから。

 

自分以外、誰も無い暗闇から出るために歩き出す。濃い血の匂いが麦野の鼻腔を満たした。

 

前にも後ろにも動くことが出来ない麦野は逃げという答えを出した。

 

「そうだ。……私も消えればいいんだ」

 

学園都市。230万人の内八割が学生の街。

 

その街はとある事柄について深く研究をする街だった。それは『超能力』という科学的手段を用いて開花させた異能の力についてだ。

 

この街に住む学生は例外なく超能力開発を受けなければならない。そして力を得た者は六つの階級に振り分けられる。

 

LEVEL0、LEVEL1、LEVEL2、LEVEL3、LEVEL4そしてその階級の頂点LEVEL5だ。

 

麦野沈利は学園都市でたった七人しか存在しないLEVEL5。その序列は第四位。上から数えて四番目に君臨する者だ。そんな彼女に未来は無い。能力で判断される世界で成長しない力を背負っている麦野はいつか転落するだろう。だれよりも順位というレッテルに敏感な彼女が許せる筈がなかった。

 

自身の人生に幕を閉じる。そうすれば少なくとも、もう序列や自信のプライドに追われることもない。

 

力の入らない足で歩き出す。

 

咽せかえるような漆黒は何も言わず麦野をを包んでくれた。生きることを否定してくれた気もした。

 

終わりまで進んでいく麦野を止める者は誰も居なかった。

 

 

 

 

 

 

夜風が亜麻色の髪を乱す。それを気にすることも出来ないくらい麦野の心は真っ黒になっていた。

 

〈原子崩し〉

 

LEVEL5

 

第四位

 

その肩書き全て他人と比較するようなものだった。

 

破壊の能力は他を圧倒するために、希少なLEVELは他を抜かし見下すために、そして第四位という地位は――――さらなる向上を可能にする数字だった。

 

いつも何かと誰かに麦野は、立ち向かいハードルを越えてきた。確かに最近行き詰まってはいたが、第三位を超えるという“自分よりも上の者に向けた”目標は少なからずあった。

 

いつも壁がある理由は他のモノがあって確立されていたのだ。

 

しかし、今はどうだろう。

 

能力の成長。LEVEL5である麦野はもう成長出来ない、と踏んでいるかもしれないが少しばかり違う。演算能力、能力持続時間、精密な能力行使。

 

こう言った成長もLEVEL5には存在する。だが麦野はもう今のレベルから次に進めない。

 

初めてぶつかった自分自身という壁。初めて直面した己との競争。

 

天才とは不器用な生き物だと思う。

 

幼い頃から躓き、転ける事をしらない麦野には今の状況は地獄も当然。初めての躓きの対処法が解らない。頼れるのは自分の筈なのに、躓いた原因も自分なのだ。

 

負の連鎖から逃れられない。

 

いつの間にか無風になっていた。そしていつの間にか、河川敷に立っていた。

 

「水死体、か。……嫌だなぁ」

 

思わず微苦笑した。まだこんなこと考えてられるのか。自分の図太さに半ば関心、半ば呆れ。

 

麦野はサンダルを脱ぎ捨てると川に足を下ろした。6月と言えど冷たくて、肩が震えた。

 

チャプ……、と暗い世界に水音が消えていった。

 

昨日の雨で水嵩が増え流れが急になった川は中央に進めば進ほど流れが速く、流されそうなのを耐えながら麦野は水の中を進む。

 

腰が水に浸かったとき、誰かに思いっきり腕を引かれた。

 

「何やってんだ、アンタ!」

 

「はぁ!?」

 

後になって麦野はなんで人がこんなに近くにいて気付かなかった自分に後悔した。

 

「こんな時期に川に入るなんて自殺行為だぞ! 早くあが」

 

「うるせぇ! その志願者だ関係ぇねえだろ!」

 

街灯で僅かに見えたのはツンツン頭の少年が怒ったような焦ったような表情だったが、言い終わらぬうちに返された麦野の言葉ではっきりと怒りに染まった。

 

「馬鹿野郎ッ! テメェ自分の命をなんだと思ってる。少しは考えたことあんのか!」

 

「なんで説教されなきゃいけないんだ! 私の命だ、私が好きに使って何が悪いんだよ!!」

 

パン! と鋭い音が鼓膜を震わせる。じんわりと麦野の頬が熱を持った。

 

「なにが好き勝手に使っていいだ。命は物じゃねぇんだ。もっとよく考えろ!!」

 

「っの野郎! テメェ尻の穴増やしてやる!!」

 

見知らぬ少年に頬を叩かれた事に激昂して、水に浸かった腕を振り上げると麦野は数十センチ先の少年に向かって手を翳す。

 

LEVEL5の中でも最も破壊に特化された〈原子崩し〉が青白い光と共に放たれる直前、麦野が川底で足を滑らせ狙いが逸れた。

 

暴力をこれでもかと言うほど濃縮し封じ込めた閃光は、少年のわき腹を掠め水面を抉る。

 

膨大な熱が水を蒸発させ、河川敷の土を深々と消滅させた。今まで見てきたどんな力より破壊の一点に特化したそれに少年は恐怖で喉を鳴らす。脚の震えは水の中で相手には気づかれなかったが、離れた所にある街灯が少年の引きつった表情を照らす。

 

麦野はその顔を見て自嘲するように笑う。

 

「なにが命よ。なにが大切なもんよ。この街は力が全てじゃねぇか!? その力が進化もしないような奴は不要なんだよ。要らないんだ!」

 

「……違うだろ」

 

苛烈にまくし立てる麦野とは別に、少年は静かに異を唱えた。

 

麦野が真意を問う前に、今度は少年が苛烈にそして揺さぶるくらい激しくまくし立てる。

 

「LEVELが全てじゃないだろう! 先が無いなら死んだっていいなんておかしいじゃないか。お前には能力とLEVEL以上に大切なものは無いのかよ! 俺はLEVEL0だからアンタが悩む理由は良く分かんないさ、でもアンタは自分に負けたままでいいのか? 先が無いって決め付けて諦めたら先に進めないのは当たり前だ!!」

 

両肩をつかまれ、動けずに居た麦野は少年の言葉を聞き終えると、

 

「……は、ははは」

 

嗤い始めた。

 

肩を震わせ、徐々に大きくなっていく。不穏を感じ取った少年は眉をひそめ出方を伺う。

 

麦野は急に笑いを止めると、力技ではなくそっと押しのけるようにして彼の手を外す。

 

「LEVEL0がLEVEL5に説教だ? 笑わせんじゃねぇぞ。お前らなんて底辺の存在じゃないか。これ以上落ちこぼれようも無いクズみたいな存在に、私の気持ちが分かるのか!? もう能力はどうにもならない、ずっとこのままだって研究者にも言われた! 決め付けてないんだよ。決定事項なんだよ!」

 

「アンタ、LEVEL5って」

 

少年は納得した。

 

先ほどの圧倒的な閃光に、見ず知らずの彼女がどうして能力にここまで執着するのか。

 

LEVEL5と言えば単身で軍隊と戦える存在だ。そんな彼女の力なら河川敷の土など紙に等しいものだろう。光が触れた所はドロドロに解けるか蒸発するかのどちらか。ならば能力はビームかレーザーを撃つものとして見ていい。

 

そして能力への極端な執着。頂点に君臨してもなお、彼女は先に進みたかったのだろう。階級に関係なく少年も多くの人たちが自身の能力が進展しないことに落胆し、死人のような顔していたのを知っている。そこから這い上がる者もいたが、大半は学校に来ても昔のように邁進しようとする者はいなかった。

 

しかしこの邁進しない者と彼女の違いは、立場であることは間違いない。

 

順位が明確に公言されているLEVEL5はその変動に過敏に反応する。それは当事者以外もである。名前と順位が公衆に晒されていて、気にも留めない方がおかしい。

 

そう言った意味で麦野沈利という人間は正常で、しかし抜かされるのが嫌だからと言って死ぬのは異常だった。なにが彼女をそこまで追い詰めるのか少年には理解できない。

 

だが、見捨てることも出来ない彼は自分から逃げる麦野と向かい合った。

 

「それで死ぬのは逃げだ! 努力もしないで仮定の結果ばかり重視しても無意味だってあんた等LEVEL5がよく知ってんだろ? だからそこまで上り詰めたんじゃないのかよ。これ以上進めないって言った研究者を見返してやりたくないのか!?」

 

「どうやって前に進むのよ。どうやって努力すりゃいいのよ!? なに、能力の躍進ができないから私より上位の奴皆殺しにして第一位になれって? いいわねそれ!」

 

「違う。誰もそんなこと言ってない! なんで悩みを相談しないで死のうとするんだ。もっと他の人を頼っていいじゃないか」

 

しかし麦野はそんな彼を無知な子供の馬鹿な発言を聞いたような表情で見た。

 

確かに少年はよく知らない世界で、きっと理解できないだろう。

 

「LEVEL5ってのは学園都市の頂点の一角のみたいなもんよ。そんなのが解決できない問題が、格下の奴に解決できるはずないでしょう? 誰かに寄りかかってもらってばかり。甘えるなんて許されないの、他の奴は能天気に持て囃して、その癖みんな一線引いてる」

 

それは頂点に立ったが故の苦悩と、周りからの勝手な想像。

 

学園都市の頂点だからすごい。LEVEL5は頭がいいからなんでも知ってる。そんな賞賛の影に一体どれだけの非難があっただろう。

 

LEVEL5の規定の一つ、単身で軍隊と戦える者。そこから容易に想像できるのは、圧倒的な破壊力や知力を使って軍を蹂躙する姿。

 

少年も聞いた事がある。彼ら彼女らLEVEL5に嫉妬して、周りから否応無く化け物と言われていることを。

 

人からは畏怖と尊敬。裏では嫉妬に晒される。しかし階級が高ければ、階級が低いものを軽視する傾向は強い。現に麦野はLEVEL0の少年を見下している。学園都市が能力的数値で人を測るような場所だから起こった悲しい齟齬とも言える。

 

「みんなが見てるのは個人なんじゃない。必要としているのは、LEVEL5としての私。化け物じゃない私に用なんてないのよ。学園都市も他人も」

 

どこか人間不信に陥った麦野に少年の声は届かなかった。

 

心に硬く大きな壁があるのを見ても、それでも彼は諦めない。

 

「アンタが掴み取った力だろう。だったら化け物なんて卑屈になってんじゃねーよ」

 

「そう、化け物じゃないなら、これをどう説明するのかしらぁッ!?」

 

完璧な不意打ちだった。ほとんどアクションを起こさず、〈原子崩し〉の光線を放つ。

 

光は放たれた速度を保ち、少年の頭を吹き飛ばす――――筈だった。

 

しかし麦野の耳に届いたのは、場に不似合いなガラスが砕け散ったような音。そして〈原子崩し〉の一撃は、たった右腕一本消し去ることも貫通することも出来ずにかき消された。

 

まるで最初から存在しない幻想のように。

 

「な、なんだそれ!?」

 

顔を庇うようにしていた右手を退けた少年は、無意識に後ずさる麦野に一歩近づく。

 

麦野は先ほどの光景が信じられなかった。自身が会得した能力〈原子崩し(メルトダウナー)〉の特性は、電子を粒子と波形のどちらにも属さない曖昧な電子を高速で射出すること。

 

聞けば簡単だが、止める術など況して生身の身体で消し去ることなど不可能だ。

 

「仕掛けて来るって思ったから準備してたけど、正解だったな」

 

「お前、能力者だったのか!?」

 

LEVEL0とは、つまりなにかしら能力に目覚めてはいるが見に見えないくらい微弱な物を扱える者のことを指す。しかし先ほどの異常はLEVEL0のものではないと麦野は結論付ける。

 

だが少年はそれを否定した。

 

「いや、俺は能力診断を何度やってもLEVEL0だよ。ただ、ちょっと違って」

 

右手を持ち上げ、拳をつくる。冷たい水に長く浸かりその程度の行動でも少しぎこちない。

 

下半身からの冷えが無視できないのは麦野も一緒で、内臓がひっくり返ったような気持ち悪さを感じていた。これでは長く口論していられない。

 

「俺の右手は超能力、異能の力を消せるんだ。そんだけの力だけどな」

 

能力者にとって衝撃的な一言に、麦野は戦慄した。身体の芯から震えが止まらない。

 

その震えが寒さからくるものなのか、目の前の人物に対する恐怖なのか。余裕の無い思考はそれを判断することはできなかった。

 

だが同時に、なぜか激流に似た感情が沸き起こる。血が沸騰するくらい高揚しているのが分かった。

 

探していたものが今、目の前にある。

 

「能力が効かない……? アハハ、なにそれ。お前も化け物じゃないか!」

 

規格外を通り越した異常への対抗心が、麦野の眩暈を吹き飛ばす。一時的に脳から放出される分泌物が身体の不調を忘れさせた。

 

大きく水飛沫を上げさせ麦野は腕を高々と振り上げる。

 

あっと言う間に視界を潰された少年は、危機本能に従い自分の目の前に右手を翳す。その行動は正しかった。

 

もし、ただ右手を翳すという行為が一秒でも遅れていようものなら、彼は死んでいただろう。

 

ど真ん中を貫くコースで射出された光線は、不可思議な右腕に触れ残光を煌かせ消滅した。

 

しかし、翳したことにより出来た隙を麦野は逃がさなかった。

 

薄い水蒸気の隙間から、不健康な青白い光が滲む。

 

「終わりだよォォッ!!」

 

麦野から離れた位置で暴虐の閃光が少年に直進する。

 

麦野の〈原子崩し〉は自分を中心にして射出することが多いが、決して自分が射出点でなくてはならない訳ではない。

 

一定の距離以内であれば、射出点をつくることも可能だ。もちろんその分、操作や演算の難易度は上がる。威力も狙いも落ちるので好んでは使わないが、こうした奇襲には持ってこいなのだ。

 

少年の左肩口から左わき腹を貫通するルート。水に身体が半分は浸かった状態での回避は不可能だ。

 

「……おかしい」

 

だが、慣れた異臭がしない。人を〈原子崩し〉で貫いたときに必ずする臭いはどこにも無かった。

 

通常より細い電子線を撃ったがそれで人が貫通できない筈は無い。どれほど細くても、鉄だろうが貫く事はできる。

 

つまり、あのツンツン頭の少年に決定打を与えてないのだ。

 

咄嗟に後ろに引こうとしたが、動きが遅い。水の中と言うハンデがあっても、これはあまりにも遅すぎる。

 

唯でさえ足場の悪い所でバランスを崩し、そこに負い槌を掛けるように誰かが彼女の脚をいきなり持ち上げる。

 

「うわぁぁ!」

 

後ろにひっくり返るような格好で麦野は背中から水に落ちた。

 

「ぷっは! たっく御坂より怖いお姉さんだな」

 

麦野と入れ替わりで水の中から出てきたのは、すっかり印象的なヘアースタイルが大人しくなった少年だった。

 

麦野の片足を掴んだまま、少年は沈んだ彼女の腕を掴むと脚を離し両手で力強く引き上げる。

 

「うっ、げほッ! てめぇ……このヤロウ」

 

地獄からの怨嗟のような麦野の声に、少年は背筋に冷たいものが走った。灼熱の殺気に悪鬼のような笑みを浮かべた麦野の顔は、それはそれは悪辣で恐ろしく離れた所にある街灯の光で雰囲気が割り増しした。

 

だが麦野は水を飲んだらしく咳が止まらないでいる。急に襲ってくることはないだろう。

 

「おい、大丈夫か?」

 

「うっせ触るな!!」

 

見かねた少年は麦野の背中を擦ったが、本人は受け付けなかった。

 

突き放すように力を込めるが、思ったように動かない身体に麦野は舌打ちをする。

 

「ったく。なんでこんな時に!」

 

「ほら、もう身体も限界なんだよ。いい加減、川から上がろうぜ?」

 

真っ青な顔色の麦野はそれでも、頑として少年に従わなかった。

 

「なんでアンタに従わないといけないんだ! そもそも私は、……」

 

続くはずの言葉が途切れた。

 

誰よりもその事に驚いているのは、麦野自身だ。

 

少年との喧嘩では収まりきれない騒動で本来の目的を失念していたが、彼女は強い意志で自ら命を絶とうとした。でなければこうして川に来る事もない。

 

「私は、私は」

 

どうしても次が出てこない。苛立ち肩を震わせる麦野は、今もう一度死のうとは思えなかった。

 

信じていた自身の能力は無価値で、この街では無意味な存在になったはずだ。

 

夜の闇のように思考が見えなくなっていくなか、誰かが肩に触れた。

 

大きく息を吸い込んだ麦野に少年は、寂しそうで懐かしいものを見ている目をしていた。どこか遠くに置いて来た過去を、思い起こすように。

 

「なぁ、俺から見たらアンタは能力しかないみたいだ。それで自分が空っぽで無理やり埋めてる。それって結構辛いぞ。自分になんにも無いのを自分が認めてるようなもんじゃねーか」

 

頼りない街灯の光が、少年の表情に影をつくり帳の向こうに隠す。

 

「そろそろ能力だけじゃなくて、自分の幸せを考えたらどうだ? お前はさ能力の付属品じゃない。一人の人間だ。俺が見てるのはお前だよ!」

 

「…………ぁあ」

 

限界に到達したのか、麦野は少年の言葉を聞くと力が抜けたように膝から崩れ落ちる。慌てて支えた少年から見た麦野は青白いを通り越して色が抜け落ちていた。

 

顔色が悪いという表現では到底足りない。

 

「おい! しっかりしろ!?」

 

焦る少年は声を掛けたが反応が薄い。返ってきた反応と言えば、小さな呼吸音だけ。

 

身体の半分が水に浸かったままの麦野を少年は引きずる。水の浮力で軽いが、推進力が小さいために実際に人をひとり引っ張る力と変わらない気がした。

 

前のめりで早く脚を動かし、最後の力で麦野を岸にあげるが同時に少年も膝を付く。

 

「肝心な、時に。……誰か…ちくしょう」

 

地面に身体を預けたら、もう起き上がれない自信がある。だから簡単には倒れられないが、もう歩くだけの力も残っていない彼は絶望をかみ締めた。

 

こんなときに、大事な時に役に立てない自分を呪いながら、身体を支えていた片腕をズボンのポケットに持っていく。

 

身体全体を使うようにして、腕に力を伝えポケットに入っている携帯を取り出そうとするが、指先がポケットの中にすら入っていかない。

 

視界も霞み身体が下に落ちていくなか、背後から初めて聞く声がした。

 

「おい、まだ遊泳には早い時期だぞ。つーか死にかけじゃねぇか」

 

声は変声期を過ぎた少年の声だった。

 

真っ白になって震えている少年と意識がほとんど飛んでいる麦野を見て呆れたようになにかつぶやくと、携帯を取り出しどこかに電話をかける。

 

それから何か言っているがもう少年の耳は聞き取れない。

 

最後の力で振り返ると、ちょうどもう一人の少年は携帯を畳んでいるところだった。自然の色合いではない茶髪の髪に、裏路地にいるような不良とはどこか違うがあまり雰囲気はよろしくない少年は倒れる事を拒んでいる黒髪の少年の背中を軽く蹴って地面に横たわらせた。

 

「心配すんな。救急車は呼んでやったから後は寝てろ」

 

半ば顔面から地面に倒れこんだ黒髪の少年は、意識を手放す寸前で土の味を堪能した。

 

そんな苦い思いをしているとは露知らず、茶髪の少年は星の無い空を眺めながら誰に言うわけでもなく、自分自身に問いかける。

 

「どうしてこんな似合わないことしてんだ?」

 

答えのない問いに頭を掻き毟り、少年は救急車の到着を待つ。

 

だが、倒れている二人が寒そうなので少年はとあることを思いついた。

 

「そうだ、俺の〈未元物質《ダークマター》〉で暖めればいいじゃん。って更になんで柄にも無いことを考えてんだよ!」

 

人が火傷しない温度のある新物質の素粒子を造り出す。それは人の目では見えないほど小さいが、少年には感知できた。

 

大量に空中を漂う未元物質の流れを操り、倒れている二人に付着させる。滞りなく作業が終了したと思ったが、少年に不可思議な事が起きた。

 

もっと正確に言うなら、造り出した素粒子が黒髪の少年の全身を包んだ途端崩れて消えたのだ。

 

演算を失敗したものだと思ったが、同じように造り麦野に付着させた素粒子はちゃんと機能している。首をかしげながらもう一度同じことするが、結果も同じであった。

 

「どうなってんだ? こいつが無意識で能力を使って俺の〈未元物質〉を消している? ……いや、でも無効化ってやば過ぎだろ。そもそも気絶して演算なんて出来るかっての」

 

倒れた少年をつつきながらそんなことを思案し、思いついた限りの可能性を上げてもどこかで綻びがあって理論としても成り立たない。しかしここで諦めれば、学園都市第二位の名が泣く。〈未元物質《ダークマター》〉とは、存在しない素粒子を造り出し操作する能力だ。この世の物質ではないが故に、この世のあらゆる法則からの制約を受けない。相互作用の影響を受けた物質もそうだ。事実彼にとってみれば、未元物質で回折した太陽光を殺人光線に変えてしまうことも可能である。そんな無類の強さを誇る能力が原因不明の力で消えました、と簡単に認められる訳が無い。

 

今度は未元物質の動きを隅々まで把握して、もう一度倒れている少年に素粒子と付着させてみた。脚から胴へ、そこから腕と頭を未元物質で覆う。頭が早く終わり腕から手の平に達しようとした瞬間、ガラスが砕け散る音と共に未元物質が消された。

 

そこで、彼は未元物質を左右の手の平に向けて放ってみる。すると、左手の未元物質は正常に働き右手に放った未元物質はさっきと同じく消えた。

 

「……範囲は右の手の平だけか。へぇ、原理は知らねぇが〈未元物質〉だけを消すってわけじゃねぇはずだ。垣根帝督様がちょっと実験してやろう」

 

この世に存在している物質を超越し、世界の刺激に飽きていた彼の興味は自身の能力よりも未知の存在に向けられていた。

 

未知と言う名のロマンを追い求める少年、垣根帝督は新しい玩具を確かめるように倒れている少年の右腕にありとあらゆる未元物質をぶつけてみる。

 

その実験は救急車のサイレンが聞こえるまで続けられるのであった。


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