ハリー・ポッター -Harry Must Die- 作:リョース
規則破りの代償は高くついた。
スコーピウスがハグリッドの小屋を覗き、彼の不法行為が発覚して数十分後。
これ以上時間をおいても無駄だろう。それよりも早く寮へ戻って知らん顔したい。
そう考えたハリー、ハーマイオニー、ロンの三人はハグリッドに別れを告げ、こっそりと戻ろうとしたところで――見つかった。
恐る恐る廊下を抜き足差し足忍び足している途中、そこには恐ろしいまでに無表情のマクゴナガルが廊下に仁王立ちしていた。ハリーは漏らさなかった自分を褒めてやりたかった。
その背後には、にたにたと腹の立つ顔を引っ提げたスコーピウス・マルフォイ。
まず間違いなく告げ口したのだろう。
マクゴナガル女史の怒りは、それはそれは激しいものであった。
「まったく――こんな夜中まで外出しているとは! ハグリッドにもキツく言っておきますが、貴方がたには罰則が必要です! それとグリフィンドールとスリザリンは一人につき五〇点減点します!」
「ご、ごひゅっひぇん……」
「きっ、聞違いですよね!? いまスリザリ」
「だまらっしゃい! あなたがた五人ともっ! 一人、五〇点です! 情けない声を出すんじゃありませんウィーズリー!」
ハリーはマクゴナガルを信頼しているが、それと同じくらい厳しい先生だと思っている。
すっかり縮こまってしょげているが、それはきっと隣に居るネビルには負けるだろう。
彼はスコーピウスがハリーたちを嵌めようとしていることを聞きつけ、ハリーたちに忠告するために走り回っていたそうなのだ。惜しむらくは忠告先の三人組を見つけることができず、外出禁止時間を過ぎるまで廊下をうろついてしまったことか。つくづくハズレくじを引きやすい子である。
そしてしょげているのはグリフィンドール生の四人だけではない。
スコーピウスも憮然とした半泣き顔で、マクゴナガルに怒られていた。
女史曰く、ベッドを抜け出して夜出歩いているのだから同罪である。とのこと。
ハリーはグリフィンドールから二〇〇点も引かれてしまったことにもショックを受けていたが、ネビルには本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
別にハリーは、その気になれば誰がなんと言おうと全く気にしないことができるつもりだ。
あいつが、ポッター一味がグリフィンドールの優勝杯を砕いたのだ、などと言われても「ぼくがクィディッチで稼いだ分を差し引いてもお釣りがくるぞ」で済ますことだってできる。
だが、彼らは違う。
ロンは大層気にしてお腹を壊して何度もトイレに消えてしまうし、ハーマイオニーは授業中に自信たっぷりに発言する事がなくなってしまった。ネビルに至っては、たっぷりした頬がげっそりとやつれてしまったかのようで見るに堪えない姿になっている。
意外な事に、スコーピウスも参ってしまっているようだった。
どうやらドラコが「君はマルフォイ家の恥だ」とこっぴどく叱ったらしく、いつもクライルとスコーピウスを引きつれて三人で歩いている姿を廊下で見るが、最近では全く見ない。スリザリン一年生のボス的存在たるドラコに冷たくされては、自然とほかの蛇寮生も似た態度をスコーピウスに取ることだろう。
きっと彼は、ハリーたち以上に肩身が狭いに違いない。
そしてハリーは、自身が思っているほど太い神経を持っているわけではない。
浴びせられる罵詈雑言には全く堪えていないかのように、飄々と過ごしているようには見える。だがクィディッチの練習中や授業中の魔法の扱いなど、細々としたミスが目立つのだ。
おまけに件の日から彼女は、一度も食事のために大広間へ足を運んでいない。ハグリッドがくれたロックケーキ数個で日々を過ごしているようで、ロンとハーマイオニー、ネビルは彼女が見る見るうちに痩せていく姿を見て、いつ倒れるのかずっとはらはらしていた。
彼女曰く、ダーズリー家に居た頃はこの程度なんでもなかった。とのことだが、一度幸せを知ってほぐれた彼女の心が、今この時でも強固なままであるなどと誰も信じていない。
この状況は、確実に彼女の心も削り取っているのだ。
罰則は、本日の真夜中行われる。
ハグリッドと共に、禁じられた森の探索を行うようだ。
どうやら彼自身もマクゴナガルからたっぷり絞られたらしく、仔竜のノーバートをルーマニアに送られてしまったこともあってすっかり小さく見えた。
それに至るまでには結構な物語があったのだが、今のハリーにはどうでもいいことだった。
この場所までハリーたち五人を送ってきた管理人のアーガス・フィルチは言う。
「お前たちはこれから森へ行く。そこで探索をしてもらうぞ」
「森へ!? そんなの、召使いのする事じゃないか!」
スコーピウスが悲痛な声をあげるが、フィルチは嬉しそうにそれを遮った。
この男はいつもそうだ。
生徒が嫌がったり、悲しんだり、痛がったりする姿を至上の喜びとしている節がある。
ハリーが思うに、それはきっと嫉妬という感情だ。いつのことだったか、かつてバーノンが彼の母校たるスメルティングス男子校の同窓会で、一番の落ちこぼれだったパウェル・オフラハティが事業で大成功し、バーノンよりも巨大な富を得て悠々自適に暮らしている、という話をペチュニアに愚痴っていたのをハリーは聞いたことがある。
なにせ、リビングのすぐ外にハリーの部屋、階段下の物置があったので、聞いてしまったのは仕方ない事なのである。盗み聞きしたくてしたわけではないのだ。そうなのだ。そういうことなのだ。
つまりその時のバーノンの声色と、フィルチの声色はとても良く似ていた。
何に嫉妬しているのかは、わからない。十一歳かそこらの小娘には分からない事なのかもしれない。だが、きっとその感情に間違いはないのだろう。
くだらない嫉妬でキツく当たられてはたまったものではない。
「ならば荷物をまとめた方がいいねぇ。え? ホグワーツ特急をおまえのために出してやろう」
「…………」
「それで、よろしい。罰則が終わる頃に身体の無事な部分があればいいんだがねぇ……」
クケケと笑い声ひとつ残してフィルチは去って行った。
もはやネビルは泣きそうだし、スコーピウスに至っては既に涙を目に溜めている。
森の探索内容としては、ユニコーンを探す事であった。
どうやら近頃、ユニコーンを傷つけてまわる何かが森に潜んでいるらしい。
傷付いたユニコーンを見つけたならば手当てして、助からないようならば楽にしてやらねばならない。そういった内容の罰則であった。
これは生徒が、それも魔法もろくに学びきっていない一年生のやることなのだろうか? とハリーは思ったが、だからこその罰則なのだろうと思いなおした。
ネビルが怖々とハグリッドにその旨を訪ねてはいたが、「俺か、ファングがついてりゃ森のモンたちゃお前らを襲ったりはせん」との言葉に多少安堵のため息を吐いていた。
ハグリッドが引率するハリー、ハーマイオニーのチームと、ファングを連れたスコーピウス、ロン、ネビルのチームに別れた。
女子二人を大男が守り、男子三人を屈強な番犬が護衛する。
きっと妥当な組み合わせだろう。
……たぶん。
「見ろ、ハリー。ハーマイオニー。銀色の血……ユニコーンの血だ。こんなに傷付いたあれらを俺はみたことがないな」
「ユニコーンって……どういう生き物なの、ハグリッド」
「一角獣、とも呼ばれとるな。ユニコーンっちゅーのは、とても純粋な生き物でな。その血を飲めば、たとえ死ぬ寸前だとしても延命ができるって話じゃて」
魔法界には、そこまでとんでもないものがあるのか。
角や尾の毛は魔法薬の授業で何度か扱った経験があり、魔力の詰まった代物だということはわかっていたが、よもやそこまでとは。
だがそんなとんでもない効果があるのならば、乱獲とかされそうなものだが。
「そんなことにはならない。あれだけ美しく無垢な生き物を自分の利のために殺すっちゅーんだから当然なんだが、ユニコーンの血を飲んだ者は呪われちまう。不完全な命になるってー話だ。生きながらに死んでいる、なんて言われとるな。恐ろしいことだよ、そんなことをするのもさながら、それをできる奴がいるっちゅーんはな……」
ハグリッドの小さく低い声は、ハリーの背中をなめてぞくっと身震いさせた。
そういった生き物を傷つける者が、この森にいる。
そう考えれば考えるほど、暗雲のような恐怖がハリーの心を占めていく。
視界に入ってくる木々のざわめきを見ると、その茂みの向こうに黒いフードをすっぽり被って鋭い牙を隠そうともせず口元を三日月に捻じ曲げた怪人が現れて、たちまち襲いかかりハリーたちを瞬く間に八つ裂きにしてしまうのでは、という不安が湧きおこる。
しかしハグリッドがいるのだから、そんなことにはならないだろう。
と思った次の瞬間。
「ほんぎゃああああああああああ……!」
情けない悲鳴が森に響き渡った。
この声は……、ネビルだ。
赤い光も上空に上がっており、煌々と夜空を照らしている。
あれは、救難信号がわりの花火魔法だ。
それを見たハグリッドの目が、真剣なそれへ変わる。
「そこで待っとれッ! いいか、一歩も動くなよ!」
まるで雷のように鋭く大きな声でハリーとハーマイオニーに言い放ったハグリッドが、さながら砲弾のように茂みをなぎ倒しながら矢のように闇の向こうへ飛んで行った。
ギャアギャアと何かの鳥が上で鳴く中で、二人の少女は互いの手を固く握ってただひたすらに待っていた。会話はない。このような状況下で、思い付くはずもない。
いやな想像ばかりが膨らむ。ネビルは、皆は大丈夫だろうか? 何かに襲われてはいないだろうか? 草根を掻き分けて歩く小動物や、虫の飛ぶ音、這いずる音、鳥の声などが、すべてがすべて悪魔のささやきに聞こえてしょうがない。
ハリーとハーマイオニーはそこそこディープな読書家であるために、想像力も人一倍だ。
どれくらい経っただろうか。
ハリーが警戒するため杖を上げていた腕が疲れ始めた頃、ハグリッドが去って行った方からガサガサと大きな音がした。
――ハグリッドだろうか?
しかし件の不審者であった場合、目も当てられない。
油断なく身構えていたところ、茂みの向こうに大きな髭もじゃ男が見えてきた。
よかった、本物だ。……たぶん。彼に化けた何者かでなければ。
少しの疑惑を含んだ視線をハグリッドに向ける二人は、ハリーたちを美味しくいただこうとする何者かであれば絶対に抱えていない者を見て安堵した。
腰を抜かしたらしいネビルと、頭頂部を抑えて涙目になったスコーピウス。そして頬を赤く腫らしておかんむりなロンだ。
ロンの説明を聞くに、どうやらスコーピウスがネビルを驚かしたらしくそれに驚いたネビルが大きな悲鳴をあげたとのこと。そして、半狂乱のネビルに突き飛ばされるという思わぬ反撃を受けたスコーピウスが木の根に引っ掛かって転び、手に持っていたランタンを強かにロンの横っつらに打ち付けてしまったというらしいのだ。
ハグリッドにお叱りと拳骨を貰ったスコーピウスがぐずぐずと洟をすする中、ハグリッドは子供たちの班分けを再編成する必要を感じたらしい。
直径五メートルはあろうかという切り株の上に皆で座って審議した結果は、ハリーにとっては大いに不満であったがハグリッドの顔を立ててその通りに従った。
「まったく……何故僕がポッターなんかと……!」
「……置いて行くぞ、スコーピウス」
メンバーは以下の二名と一匹。
尊大な貴族、スコーピウス。生き残った女の子、ハリー。んで、ファング。
なぜスコーピウスと二人っきりなのかとハグリッドに問うてみれば「おまえさんならば、あやつもそう簡単に手を出せまいて」とのこと。
そういったわけで二人はファングを連れて闇に包まれた森の中を歩き回っていた。
スコーピウスの持つランタンが揺れて、どうにも不気味な影をいたるところに投げかけている。
すると、またも茂みががさがさと音を立てた。
盛大に驚いたスコーピウスが自分の後ろに隠れるのを無視して、ハリーは杖を取り出した。
しかし出てきたのはただのネズミ。
こちらを一瞥すると、どこかへ向かって駆け出していく。
チチッと走り去る姿を見て、スコーピウスは安堵のため息を漏らす。
別の物も漏らしちゃいないだろうなとハリーは不安になった。
「ど、どどどどうした、こ、怖いのか、ポポポポッター」
「きみ、ちょっと落ちつきなよ」
スコーピウスが肩を掴んだまま震えているので、うっとうしくてしょうがない。
態度の割に小さなその手を振り払うと、ハリーはさっさと先を歩いていく。
慌てて後を追ってくるものの、その頼りなさはハリーが今まで見た男の子の中では一番だ。
かといってファングが頼れるかと問われると、答えはノーだ。
さっきからくぅんくぅんと情けない声を漏らしてハリーの太腿にすり寄っている。
コイツもコイツで邪魔だ。
「ぽぽぽったたたー」
「落ちつけッて」
暗闇の中、スコーピウスが震える声で話しかけてきた。
そんなに恐ろしいなら見栄を張らなくてもいいのに、と思う反面、なぜそんなに震えた声を出してまで話しかけてきたのかハリーには興味があった。
「き、きみは。……なぜ、ドラコに認められているんだ」
「……?」
「ふん。何を言われているのかわからない、って顔をしてるね。これだからグリフィンドールは困るんだ。愚鈍にすぎる」
鼻を鳴らして、馬鹿にした風のスコーピウス。
普段ならいらっとくるような仕草だが、今のこの時ばかりは少々違った。
そうだ、いつもならその目に宿るは嘲りや侮辱の色である。
だが。いま彼の眼に宿っているのは羨望のそれだからだ。
「僕は、僕は情けない話だけれどドラコにいつも怒られてしまう。もちろん僕もだけど、彼はそれ以上に優秀だからね、父上の厳しい教育も顔色一つ変えずにこなすんだ。そして、僕を怒るとき、ドラコは事あるごとに君を引き合いに出すよ」
スコーピウスは誇らしげに、そして口を歪めて悔しげに言葉を紡いでいく。
兄弟のいない(ダドリーは豚であって兄弟ではない)ハリーにとって、その感情はよくわからないものであった。
誇らしい気持ちは、想像がつく。ロンを見ていればそれは分かる。
血を分けた自分の兄弟なのだ。そんな人間が立派な人物ならば、まるで自分のことのように誇らしく思ってしまったって別段おかしなことではない。
兄だから、兄弟だからこそ認めたくない。
何かと腹立たしく、気に入らなくて、ちょっかいをかけてしまうその気持ち。
「だから、気に入らないんだよ。そんなドラコに認められている君のことがね」
「ま、待ってくれ。認められている? ぼくが?」
彼からの予想外の言葉に、ついハリーは驚いた。
ドラコとは良いライバル関係であると思ってはいる。
しかし彼は純血主義者だ。良い好敵手と思われてはいるだろう、という自覚はある。
だが、彼が人を認めるというのは話が違う。と、ハリーは思うのだ。
いったいどういうことだろうか。
「それは……どういう……?」
「……、」
耐えきれなかった、といった様相でスコーピウスは舌打ちを漏らした。
ハリーがそれに怪訝な顔を向けると、彼は状況への恐怖を忘れたかのような顔で彼女を睨みつけている。それはさながら、縄張りを脅かされた野良猫のようだった。
「先日、ドラコはな。僕に対して『ポッターが純血であれば』と言ったんだ。それはつまり、君の血筋以外の全てを彼が受け入れていることに他ならないんだ。分かるか? そんなことを言われた僕の気持ちが」
「……ぼくは君じゃない。わからないよ」
「だろうね。ドラコがあんなことを言ってしまったと、もしもパパに知れたらと思うと恐ろしいよ。いったいどうなってしまうんだろう」
最初は、また何かしらの嫉妬かやっかみかな、と思っていたハリーも驚いて、スコーピウスの薄い青色の瞳を見つめた。
「君は、危険なんだ。僕にとっても、ドラコにとってもね」
情けない、甘やかされたお坊ちゃんかと思っていたが。
なんだ、この子。やれば出来る子だったのじゃあないか。
「だから、ポッター。君はもうドラコとほんぎゃあああ今のなんだ怪物か!?」
「ほんともう、きみ黙っててくれないかな」
前言撤回だった。
スコーピウスの見せた、兄を想う気持ちらしきものを垣間見ることができたハリーだったが、ファングのくしゃみに驚いて抱きついてこようとしたのを見て、幻滅してしまった。
仕方ないと思うんだ。この鼻水を垂らして泣き出しそうな情けない顔を見てしまっては。
こんな情けない男の子はハリーの趣味ではないので、抱きつかれるのは丁重にお断りした。
足蹴にして。
「『ルーモス』、光よ」
怯えてびくびくするスコーピウスを横目に、ハリーは杖を取りだす。
その杖を掲げて呪文を唱えると、杖先にほんわりと明かりが灯った。
話しているうちに、ずいぶんと暗いところまで歩いてきたらしい。何はともあれ、灯りがなくては、何も見えなくてはお話にならない。
優しげな光があたりを照らすと、ふと視界の隅に闇が固まっている事に気づいた。
きらきらと輝く液体のそばで蠢いている闇の塊は、どうやらその液体を飲んでいるようだ。
となるとこれは、生き物か。
よくよく見てみれば、人型をしている。
銀色に反射した光がその生き物の口元を照らしており、ぼどぼどと液体が滴っていた。
この、ツンと鼻につく鉄の臭い。これは……血だ。
血の匂いだ。
ハグリッドの言っていた、ユニコーンの血だ。
それを啜っていた。
ということは。
つまり。この怪人は。
――呪われている。
「ギャアアアアアアアアア!」
ハリーの背後でスコーピウスが絶叫した。
ばたばたと慌てて手足を振り回すのが視界の隅に映っているので、どうやら腰を抜かしたらしいことがわかる。
ファングは……どうやら逃げたようだ。薄情者め。
しかしハリーも人のことは言えない。
ああ、明りをつけたらいきなりご本人のご登場だ。
もし二人、もとい一人と一匹が取り乱していなかったら、自分が絶叫していただろう。
「……ハァー、ァァァア……、ァアアア……」
怪人の息遣いがごろごろと掠れているのが分かる。
口からは飲みきれなかったらしきユニコーンの血がぼたぼたと垂れており、目深に被られたフードの奥は闇に染まり、顔はうかがえない。まるで、影か闇そのものだ。
隙間から伸びてきた青白く骨ばった手が、ビキビキと音を立てて変化した。
五本の指がそれぞれナイフのように鋭くなった。杖灯りを反射してギラリと光る。
魔法だろうか? しかし、呪文は聞こえなかった。
なにはともあれ、危ないのだけは確かだ。
「おい! おいスコーピウス! 立って逃げろ!」
「あわわわわ。ふぉふぉいのふぉいぃ……」
ダメだ、使いものにならん。
フォイフォイうるさいスコーピウスは放置する事に決定。
明かりをつけたままの杖を怪人に向けて突き出し、ハリーは叫ぶ。
「『ステューピファイ』、麻痺せよ!」
ハリーの杖先から赤い閃光が勢いよく飛び出した。
それはまっすぐ怪人の胸あたりへと伸び、見えない壁に突き当たって弾け飛んだ。
今のは、おそらく盾の呪文だ。
しかしその威力や効果範囲は、ハリーの使うそれとは桁違いで、まるで別物だった。
更にだ。よもや、呪文すら唱えずに、杖すら用いずに魔法を使うとは!
ヒトかすら定かでない怪人相手に呪文が効くかどうかと思いながらの攻撃であったが、そもそも届いてすらいない。実にまずい。
「くっそ! 化物かこいつッ! 『エクスペリアームス』!」
「……」
武装解除の赤い光が、怪人めがけて空中を奔る。
怪人はその光を鉤爪で薙ぎ払い切り裂くと、滑るようにハリーに向かって跳んできた。
重力に支配されていては到底できない、あまりに不自然な動きで眼前に詰め寄ってきた怪人は、その鋭い爪でハリーの顔を薙ぐように振るってきた。
あんなもので切り裂かれては、首から上が無事であるかなどわかりきったこと。
ならば防がねばなるまい。
「『プロテゴ』、護れッ!」
半透明な盾で爪の一撃から身を守ると、ハリーはその場を離れるかどうかを思案した。
スコーピウスを置いていくか?
兄のドラコと違って、弟のスコーピウスはあまり気に入らない性格をしている。
だが自分の行動の所為で死んでしまっていいほどかと問われれば、答えはもちろんノーだ。彼だってただ粋がってるだけの男の子に過ぎない、それに彼にも愛してくれる両親や兄がいるのだ。見捨てることなど、できはしない。
ハリーは明るい緑の瞳を細め、怪人を見据えた。
爪を向けてくる怪人の動きに隙はない。
しかし、体運びはまるで素人のそれだ。直線的すぎて、格闘技経験者の動きではない。
少なくとも、ダドリーの方がよっぽど洗練された動きで厄介だった。
ついでに言えば、彼は超重量物体であったため、体当たりに当たれば最後。意識が粉砕される。しかも表面積が巨大なので、避けることそのものが至難であった。
つまり、相手が何者であろうとも、避けられさえすれば怖くはない。
ダドリーオススメのジャパニメーションでも言っていたではないか。
「当たらなければ、どうということはない!」
突進してくる怪人の爪を、横っ跳びに逃げることで何とか避けきる。
ローブの端っこが切り裂かれる様を見て青ざめるも、立ち止まれば死あるのみだ。
小柄で、非力で、何の一撃も与えられない。
だが体力だけには自信がある。
毎日毎日愛しの従兄たるダドリーに追いかけ回され、それに対抗するためジョギングで体力づくりをして、女の身という不利な条件を覆すために努力した日は無駄ではなかった!
ありがとうダドリー、今度お礼に魔法で豚にしてやるよクソ野郎!
「『ステューピファイ』! 『ステューピファイ』! 『エクスペリアームス』!」
避けながら、ほぼあてずっぽうに呪文を乱射する。
魔力切れが刻一刻と近づいてくるような無茶ではあったが、それでも死ぬよりはマシだ。
それに件のトロールとの一戦で、魔力切れになっても絞りだせば魔法が撃てることは分かっている。ゴマと魔法使いはなんとやら、なのだ。あのときは結果、枯渇した魔力を回復させるために苦しい思いをしたものだが、死ねばその思いもできなくなるのだ。
いまは後先考えず、目の前の怪人を、殺せ。
「『ディフィンド』、裂けよ! 『ディフィンド』! もいっちょ『ディフィンド』!」
ナイフを振るうように杖を跳ねさせると、その軌道の通りの斬撃が杖先から飛び出した。
仄かに青い光を纏った白刃が、三連撃。
奇妙で複雑な形状の刃が、滑るように怪人の首を刈り取らんと向かってゆく。
だがハリーは己の目を疑った。
単純に横薙ぎの一撃目を、サイドステップで容易に避けられる。
稲妻のような形の二撃目は、宙返りしながら前進するという曲芸で対処される。
最も複雑で悪辣な形状の三撃目は、怪人が着地と同時に足が滑ったかのように前進し、背中から肩を利用してウィンドミルのような動きで回避されてしまった。
これら三撃を、一度も停止せず、驚くべきことにこちらに突き進みながら行われてしまった。
「くそっ、そんなばかな! イ、『イモビラス』ッ!」
魔法強化か、それともヒトではないためか、どちらにしろ身体能力は相当高いのではないかと判断していたが、これは流石に冗談では済まされない。
いまも、ハリーの射出した停止呪文が体をすり抜けるかのようにして避けられてしまった。
目と鼻の先。怪物が、弓を引き絞るかのように腕を引いて、
「……ッ、ぎ、痛ッ……づァ……!?」
矢のような爪が心臓へ、胸の中心へと伸びる影が微かに見えた。
まずい、直撃コースだ。
などと思うよりも速く。灼熱の感覚を右肩が訴えて、ハリーは悲鳴を漏らした。
痛い、というよりは熱い、という感覚が先に来る。
刺される瞬間、眼前に迫られたときには既に後退しようとして、木の枝に引っかかって後ろ向きに転んだのが幸いした。突き刺さったのは、怪人の指の中ほどまでだ。貫通はしていない。
しかし、怪人にとっては殺傷力を高めるため腕を捻っていたのが災いした。
半分脱いでいたハリーのローブが怪人の腕に絡まり、彼女の肩から指を引き抜いたときには、もはや力ずくで引き千切るしか外す手段はなくなっていた。
「……、……?」
ぽたり、と。
ハリーの血が滴る音と、落ち葉と枯れ木を踏む音のみの世界に、異音が紛れ込む。
怪人は訝しんだ。
たしかに液体が地面に落ち、吸い込まれる音ではあった。
だがそれは、地面に蹲っている汚らしいハリーの肩から滴る血液ではない。
ハリーのローブが吸って滴る彼女の血液でも、彼女が息を切らして口の端からこぼした涎の音でもない。なんだ? 失禁でもしたのか? いや、違う。もっと、こう――
もっと、甘い匂いの――
「――、……ッ!?」
「ッハハァ! 気付いたか!?」
甘い、匂いの、――酒だ。
これはなんだ? 匂いから考えて……そうだ、ラム酒だ。
一体どうやって? そんなのは愚問だ。魔法族にとってその質問は愚かにすぎる。
『水をラム酒に変える魔法』など、魔法学校の一年生ですら簡単に使える魔法ではないか。
この酒の滴るローブ。酒は恐らく、血液を『変身』させたもの。
そして酒とはなにか?
アルコールが含まれた飲み物。人の欲を刺激する事から、魔法媒体としても使われる。
だがそれ以上に今この場において注目すべきことがある。
遅まきながらそれに気付いた怪人は、慌ててローブを引き千切ろうと爪に力を入れる、が。
既に魔力を練り終えて、杖先を怪人へ向けて嗤うハリーが叫んだ。
「……ッ!」
「遅い! 遅すぎるんだよ、変態野郎! 『インッ、センディオ』ォォォ――ッ!」
バシュッ、と存外軽い音を立てて、ハリーの杖先から赤い火球が飛び出す。
大きさは赤子の拳ほど。随分と頼りないサイズになってしまったが、この場では関係ない。
酒の、アルコールの特徴。
それは。可燃性液体である、ということだ。
「…………ッ!? ……ッッッ!」
「熱っづ!? あぢぢぢ!」
声にならない悲鳴をあげる怪人。
猛火は瞬く間に怪人の全身に燃え広がり、無様に地面を転げ回る。
それによって運悪く少量の酒が飛び火したハリーも地面を転がってそれを鎮火するが、怪人は腕に酒の染み込んだローブを巻き付けているので、たっぷりとした燃料を孕んだ松明のようなものと化している。
ゆえに、未だに轟々と、赤々と燃え続けているのだ。
「……、……ッ!」
自分の腕を筆頭に、全身が燃える痛みとはハリーにとって想像の埒外である。
ハリーのいままで味わった最大の痛みは、ダドリーの放つ貫手を肋骨の隙間に差され骨を握り潰される、というものである。
アレと同程度かそれ以上だとしたら、相手はまず間違いなく行動不能に陥っているに違いない。
その隙に赤い花火を空に打ち上げようと杖を上空に向けそれを放った途端、ハリーの目はありえないものを見てしまったために、恐怖と驚愕に見開かれた。
「う……でッ、を……!?」
腕を、引き千切った。
怪人が燃え盛る自らの右腕を、もう片方の手でブチブチと千切り取ったのだ。
発火源たる右腕を左手に持った怪人が、そのギラついた眼光を以ってハリーを貫く。
それに竦み上がったハリーは、唯一の武器たる杖を構える事も出来ず、ただただ恐怖した。
今現在、自分の状態はどうだ。無防備に杖を空に向けている阿呆の極みの姿は。
燃え続けたままの右腕が今、ハリーの眼前へと投げつけられる。
異様な速度だ。とてもではないが、ヒトが片手で投擲した物体の速度とは思えない。
アレが当たれば、どうなる?
決まっている。
死だ。
「あ……っ、いや、ぁ、ああっ、―――ッ」
恐怖に呑まれてしまう。腹の底からの、巨大な恐怖。
腰が抜けてしまいそうだった。失禁してしまいそうだった。
あと一息。一呼吸すれば、きっとあの燃え盛る腕はハリーの柔らかな頭蓋を吹き飛ばし、血と脳漿を森の養分としてばらまくことだろう。
死は、怖い。
原初の記憶が蘇る。
毒々しい緑色の世界。寒々しい純白の世界。
廃墟と化した住居に一人立つ、黒のローブを羽織った、蛇のような赤い目の―――
「――ルォォォォオオオオオアアアアアアアアアアアアアアッッッ!」
瞬間。
世界は暴力的な怒声によって打ち払われた。
木々を薙ぎ払い跳んできたのだろう、まるで上空から地面に突き刺さるようにして着地した巨体が、火球と化した右腕をその巨大な掌で掴み取った。
もはや拳と化した掌の中から、くぐもった破裂音がする。
一本一本がハリーの持つそれと比べて倍以上ある指を開くと、最早なんだったのかわからない程に圧縮されたゴミクズ、もとい右腕が地面にカサリと落ちた。
怒気により胸を膨らませ、獣のような咆哮を吐きだす巨体。
それは、まさに。見覚えのある、頼れる友人。
「ハグリッド!?」
「ゴォォォアアアアアアアアアアア!」
およそ人語のそれではない雄叫びをあげ、ハグリッドは樹木から引き抜いたらしき棍棒のような枝を振るう。
大振りで単純なそれは、怪人が数メートルほどバックステップを踏むことによって、脅威的な身体能力もあって簡単に避けられてしまった。
だがそれだけでは終わらない。枝を振り抜いた体制のまま、ハグリッドは地面を蹴る。
途端。爆発呪文でも使ったかのごとく土を撒き散らし、砲弾のように怪人へ向かって一直線に飛び出していったではないか。これに対応するため、怪人は着地と同時に残った左腕を構えんとする、が。
「―――ッ、」
ガクン、と膝が曲がり地に落ちた。
腕という部位は、存外かなりの重量を内包している。そんな大事なモノを、一本喪失しているのだ。普段と同じような動きなど、できようはずもない。
バランスを崩した怪人が、ハッとした気配でハグリッドを見据える。
悪鬼。
まさにその言葉に相応しい憤怒の表情で、袈裟に振り抜いたばかりの枝を、その人智を超えた膂力を以ってして先程とは逆方向へと無理矢理に方向転換。怪人の眼前に跳び込みつつ、それと同時に逆袈裟へ振り上げた。
「ガァァァアアアアアアアア!」
「……ッ、……!」
空気が切り裂かれる爆音を巻き上げながら、ハグリッドの枝は怪人の胴体を強かに打ちつける。銀色混じりの胃液を吐き散らして、砕けた枝とともに吹き飛ばされる怪人。数本の樹木を薙ぎ倒しながら上空へ向かって吹き飛んでいく様は、何かの冗談のようである。
それを行った猛者は、怪人が吹き飛んだ方向へ地を蹴って飛びだす。
一歩一歩地面を踏みしめる足音は一つ一つが爆発となる。荒々しくも一直線に駆け寄ったハグリッドが、怪人が吹き飛んで飛び込んだ樹木の幹に向かって拳を振り抜いた。
正拳の打撃を受けた樹木が一瞬、周囲の景色ごと捻じくれたかのように歪む。そしてその異常が元に戻ったときには、数百年成長したであろう一本の樹木は粉微塵に爆ぜ飛んだ。その木を棲み家にしていたのだろうか、哀れな羽虫や蝙蝠たちが飛んで逃げてゆく中、ハグリッドははらはらと落ちてくる葉の中で闇を睨み続ける。
逃げられたと判断したのか。
ハグリッドはのっしのっしと地面へ座り込んだハリーの元へ歩み寄ってきた。彼女の肩を掴んで揺さぶるその表情は悪鬼のようなそれではなく、いつもの人のいいヒゲもじゃだ。
怖いとは、思わなかった。
「ハリー! ハリーお前さん大丈夫か! 怪我しちょらんか!? え!?」
「あうあうあう。揺らさないでくれぇえ。あと痛い、肩が痛いからやめやめうえっぷ」
慌てふためいたハグリッドの行動が、いま一番ハリーの命を脅かしている。
それに気付かないあたりに彼のそそっかしさがよく表れている。いつもはほほえましく楽しくなってくる彼のその特徴だが、今はやめて欲しい。切実に。
同じく、いやきっとそれ以上に慌てて駆けもどってきたロンやハーマイオニーが、ハリーを心配して次々と声をかけてくる。
安心感から緊張の糸が切れ、意識を手放しそうになるハリーは、無事を示すために微笑んでみせた。逆効果だった。ロンの諦めるなという声や、ハーマイオニーがかけようとして失敗している習ってもいない治癒呪文が聞こえてくる。
ハリーは薄れる視界の中、夜空を見上げる。
夜空へ向けて自分の小さな手をかざした……つもりだったが、力が入らない。
口角がより吊りあがり、ハリーは自嘲的に笑った。
この、一〇分にも満たない小さな小競り合いは、彼女の精神に大きな打撃を加えることになった。自分の小ささ、弱さ。そして、殺すことへのためらいのなさが必要だと思わせるには、十分な出来事であった。
先程の怪人。
ハグリッドが来なければ、狩られていたのは自分の方だ。
手下か? 賛同者か? わからない。わからないが。
きっとあれは間違いなく、ヴォルデモートに関する何者かだ。
つまり。
殺すべき敵だ。
【変更点】
・原作より更に減点。ネビルェ。
・罰則の内容が、何故かキツくなった。
・ハリーに兄弟はいない。いいね?
・森で出会う怪人を魔改造。原作の出番は二〇行以下だった。
・ハグリッドが間に合ったため、ケンタウルスとの面識なし。
此度は戦闘回でした。分割の後、更に足しまして。
魔力に関する設定は独自のものです。これから強化されるんだし、足枷もね。
ホグワーツの森番は最低限このくらいできないと内定もらないらしいですね。
ローブで顔を隠した怪人……いったい何者なんだ……。