ハリー・ポッター -Harry Must Die-   作:リョース

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14.Harry Must Die

 

 

 

 ハリーは恐怖していた。

 目の前で造られた人間、その名もヴォルデモート。

 英国魔法界を絶望と死の連鎖に叩き込み、悪を跳梁跋扈させた諸悪の根源たる者。

 ジェームズとリリーを害し、ハリーがダーズリー家へ行く直接の原因となった男。

 そして、ハリーがいつか必ず復讐してやると憎悪をこめて誓った、闇の魔法使い。 

 それがヴォルデモート。

 目の前にいる、黒髪の男がまさにその人だ。

 

「久しいな、ハリエット」

「……ヴォルデモート」

 

 艶やかな黒髪を揺らして、青白い肌の男はせせら笑うようにハリーに顔を向ける。

 胃がむかむかする。誰が何も言わずとも、目の前の男とは気が合わないと自分の心にはっきりと告げられているような感じだ。

 自身の身体を愛おしげに撫でるヴォルデモートの気持ちは分からないでもない。なにせ十三年間、自分の身体がなかったのだ。それはさぞ嬉しいことだろう。その身体を破壊してやりたいと思うくらいには、その気持ちは理解できる。

 自らの肉体の調子を確かめるかのように、指を一本一本折ってみたり。唇をもごもごさせて口内の様子を舌でなぞってみたり。ローブのポケットから出した杖をくるくると回して、その辺にあった墓石へ無造作に杖先を向けて破壊したりと、歓喜の極みにある様子だ。

 そこでやっと気付いたかのように、ヴォルデモートはピーターへと目を向ける。

 にぃ、と嫌らしい笑みを浮かべた。

 

「ワームテールよ」

「ご主人様……」

 

 自ら切り落とした腕を押さえながら、ピーターは呻く。

 腕を伸ばせ、というヴォルデモートの声に従ったピーターは、跪いて未だ健在である方の腕を差し出した。少し目を見開いたヴォルデモートは、しかし満足げに杖先を彼の腕に伸ばす。

 ハリーにはその様子がよく見える。暗闇だというのに、まるで蛇の目のようによく見える。

 髑髏だ。刺青のようにうごめく闇の印がそこにある。

 

「印が戻っておる。全員が、これに気付いているはずだ。これをみて戻る忠義者が何人いるか……離れようとする愚か者がどれほどいるか……わかるかね、ワームテール。俺様は少しばかり不安だ」

 

 ピーターはその声に応えない。

 しかし気を害した様子もなく、ヴォルデモートはその杖先を闇の印へと押し当てた。

 一瞬だけピーターが苦痛に声を漏らしたが、ぐっと我慢するかのように俯く。

 じゅうじゅうと肉の焼けるかのような音が墓場に響き、ピーターの闇の印が真っ黒に光り輝く。ヴォルデモートの恍惚とした顔が良闇に浮かびあがるかのようだった。

 ちらと魔法式を視る。英語、日本語らしき異なる言語の字が視えた。文字の配分はバラバラで、ハリーには何が書いてあるのかすら理解できない。魔法文字らしきものも見えるし、ルーン文字や梵字もまた散りばめられている。あれをヴォルデモートが造りだしたというのならば、あれは間違いなくハリーの理解の外にいる存在だ。

 困惑と警戒を心に秘めるハリーに向かって、ヴォルデモートは微笑んで言った。

 

「ハリエットよ。おまえがいま、どこにいるか分かるかな? そう、俺様の父の墓だ。つまり。俺様の偉大なるお優しい父上さまの、その遺骸の上に立っているのだよ、おまえは」

 

 蛇のような残忍な笑顔でヴォルデモートは語る。

 なつかしむような、いつくしむような顔だ。

 

「丘の上にある豪邸が見えるか? お前の足の下で死んでいる愚か者は、そこに住んでいたのだ。そして俺様の母とまぐわい、子を生んだ。それが俺様だ」

 

 随分と感傷的になっているようだ。

 ハリーがそう感じたのは間違いではないだろう、ヴォルデモートの瞳はハリーを見ているが、その実ハリーを見てはいない。何処か遠くの空の、六〇年以上昔のことを考えているのだろう。

 

「しかし父は、母が魔女であることを知らなかった。それを知った時、父はどうしたと思う? 愛したか。許したか。いいや、棄てたのだ。父は、母を捨てた。やつは魔法を嫌っていたのだ……いや、違うかな。魔法を、未知なる存在を恐れていたのだ。愚かなことよ。じつに、じつに愚か……」

 

 ピーターの腕から杖が離されると同時に、彼は地面に崩れ落ちた。

 痛みに呻いており、それを満足げに眺めたヴォルデモートは静々とこちらへ歩み寄ってくる。彼はハリーの縛りつけられた、帝王の父の墓のそばに立っていた誰とも知らぬ墓の上に腰かけた。

 そして頬肘をついて、ハリーに向かって微笑みかける。

 

「父は母を捨ててマグルの村、ここだ。このリトル・ハングルトンに戻った。そして母は俺様を産むと同時に死んだらしい。残された俺様は、マグルの孤児院で育った。なんと、驚くべきことに、おまえと俺様は似た境遇にあるらしい。共に両親がいないから、マグルに育てられたのだ。驚きだな、不思議な偶然もあるものだ」

 

 白々しいことを。

 ポッター夫妻を殺したのはお前だろうが。

 ハンカチを口から吐き出し、ハリーは彼めがけて唾を吐きかける。ヴォルデモートの数センチ手前で血混じりの唾は消滅した。杖を振った様子もない。何をしたのかすらわからなかった。

 彼が杖を振るうと、地面に落ちようとしていたハンカチが勢いよくハリーの口に突っ込んでくる。思わず咳き込むハリーの姿を見て、ヴォルデモートは笑った。

 唾を吐きかけられるという暴挙を見てもヴォルデモートは眉すら動かさず、優しげに微笑むだけだった。その余裕の態度が気に入らない。

 

「その後も似たようなものだ。ダンブルドアに拾われ、ホグワーツを自分の家だと思うようになった。幸せだったさ。学友を得て、知識を得て、力を得て。とても幸せで、そして同時に周囲の人間の低レベルさに辟易していた」

 

 しかしハリーも気付いている。

 ヴォルデモートも、それを察していて話を続けているのだろう。

 

「お前もそうだろう、ハリエット? 学業だけに秀でていても、真に優秀な人間とは言えない。逆もしかりだ。全てにおいて突出した人間こそが、頂点を目指すに値する魔法使いだと。お前もそうなのだろう、ハリエット。あそこで無様に倒れておるハンサムボーイを見る目が、まさにそれだったのだからな」

 

 その通りだ。

 まさに、その通りだ。

 ヴォルデモートの言うことはすべて真実だ。

 ハリーは一年生の最後、クィレルと闇の帝王の残滓から生き残った後に真の友を得た。

 その二人が例外であるだけで、ハリーは基本的に他人を評価する目が厳しい。

 自分へ異性としての好意を持ってくれているセドリックすら、ハリーから見るとあまりに拙かった。心構えがハリーに近い者を強いて挙げるならば、ドラコくらいだ。獣として、魔法という他人と戦って殺す術を学んでいる者として、他の人間はあまりに拙いと思ってしまうのだ。

 この墓場に来て、セドリックが杖を出していたのは嬉しかった。それすらしていなかったら、本当に失望してしまっていたと確信できるからだ。

 だがハリーは、それに、その気持ちに気付きたくはなかった。

 その気持ちはあまりにも傲慢にすぎる。

 自分より優れた人間はいくらでもいることくらい、ハリーは知っている。けれども、ヴォルデモートがまだ学生だった頃、そんな者はいなかったのだろう。

 出来の違いと、同じ考え方。あんなものと同じだったという同族嫌悪に加えて、認めたくない心を見抜かれているという不安がハリーを苦しめているのだ。

 

「なんとまあ。俺様が自分の家族の歴史を物語るとはな……なんとも感傷的になったものよ。俺様もトシかな? いや、今はもう二〇代後半の肉体か。擬似的な若返りも果たしてしまったというのは、流石の俺様も自分自身の才能が恐ろしくなってしまうよ」

 

 まるで親戚の娘にでも話しかけるように朗らかに笑うヴォルデモートの目は、一切笑っていない……などということはない。親愛を込めた、実に優しげな目だ。見ているだけで安心してしまう不可解な魅力さえ感じる。

 だがハリーはこの男が、自分にそのような感情を向けるはずがないことを知っている。ハリーには分かる。顔ではにこやかだが、この男はまったく笑っていない。

 蛇のような冷たさを感じるというのに、この親しみやすさは異常だ。

 魔眼を使っている様子は感じられない。これはつまり、この男の元々の特徴。彼が元来もっていたカリスマと言うべきか、その魅力というものだろう。

 彼がヴォルデモート卿として英国魔法界を絶望に叩き込む前の、数々の魔法使いの若者たちから支持を得たカリスマとしての顔。それがいま、ハリーに見せているヴォルデモートの姿だった。

 

「ほぅら、来たぞハリエット。彼らこそが、俺様の真の家族だ」

 

 ヴォルデモートが言うと同時。

 周囲の空間から、空気を押し出す独特な音とともに複数の魔法使いが『姿現し』して出現した。その全ての魔法使いが夜の闇に同化するような黒いフードを目深に被り、その下には真っ白な髑髏の仮面で顔を隠している。

 あれはヴォルデモートのしもべたる《死喰い人》だ。

 その数は十や二〇ではきかない。ざっと一〇〇人近くいるのではないかというほどの死喰い人たちが、一斉にやってきてこの墓場を埋め尽くしているのだ。その全ての視線が、ヴォルデモートとハリーに向いている。髑髏仮面の奥から光る眼光がぎらぎらと粘つくようで、吐き出したい気分を抑えるのにかなりの労力を要した。

 死喰い人たちがハリーらを輪に囲むように集まり、次々と頭を垂れてゆく。

 それらの姿を、ヴォルデモートは蔑むように眺めていた。

 

「懐かしの友たちよ。ああ、よもや十三年ぶりだというのにこれほど集まってくれるとは。俺様はとてもうれしいぞ、友よ」

 

 ヴォルデモートが静かに紡ぐ言葉に、死喰い人たちがどこか安堵したような息を漏らす。

 しかしその直後、ことさら冷たく言い放たれた言葉に全員が硬直した。

 

「そして同時に失望している。これほどの人数が俺様を見捨てていたとはな。ええ? そこらへんどう思うかね、お前たち?」

 

 わざとコミカルに話すヴォルデモートの顔は、造り物の笑顔すら浮かべていない。

 恐怖のあまり震える死喰い人たちから、一人が輪を飛び出してヴォルデモートの前に身を投げ出して彼の着るローブの裾にキスをした。その顔を蹴り飛ばし、ヴォルデモートは杖を振るとその者を立ちあがらせる。

 

「エイブリーよ。それは何のつもりだ? まさか許しを請うているのではあるまいな。だめだ、だめだ。俺様は忘れぬよ、俺様は許さぬよ。おまえたちは十三年間も俺様のことを見捨て、忘れ去ろうとしていた。考えたことはあるかね? 十三年ってのは結構長いものでな」

 

 ヴォルデモートは踊るように腰かけていた墓石から身をひるがえすと、ハリーの元へやってくる。そしてハリーの肩になれなれしく手を置いた。

 

「これこの通り。赤ん坊が少女にまで成長するほどには、時が経っているのだよ」

 

 最後にぺちんとハリーの頬をいやらしくはたくと、ハリーが睨みつける前に薄笑いを浮かべて離れる。そしてヴォルデモートは、近場に居た死喰い人の前まで歩み寄って左手をかざす。

 まるで皮膚をはがすかのような勢いで、ヴォルデモートが左手を振り払うと死喰い人の仮面が霧となって剥がれおちる。その面の下から現れた顔は、苦痛にゆがんでいた。

 

「ノット。お前にはたしか子がいたな? その子の成長を見て、年月の重さがよくわかったろう?」

「ああ、我が君、我が君……」

「そうだ。その子が死ねば、ちょっとでも俺様の気持ち分かってくれるかな?」

 

 ノットの顔が凍りついた。

 がばと顔をあげてヴォルデモートの目を見れば、にんまりと笑んでいるのがわかる。ハリーの位置からは彼の顔は見えないが、しかし嗤っていることだけは彼女にもわかる

 周囲の死喰い人が動揺する気配が伝わってきた。まさか本気で殺す気なのだろうかと思っているが、声に出す事が出来ない。そんなところだろう。

 がたがたと震えるノットと無理矢理肩を組んで、ヴォルデモートは囁く。

 

「死なせたくないか? 愛する子供を、殺されたくはない?」

「……は、はい……我が君。どうか、どうかお許しを……」

「なら代わりにお前が死んどけ」

「…………、は……」

 

 ひゅんと風を切って、ヴォルデモートはノットと呼ばれた死喰い人の眼前に杖を向ける。

 今度こそ死喰い人たちから驚きの声が上がった。

 恐怖によって顔面を蒼白にするノットに対し、ヴォルデモートは笑顔で告げる。

 

「んじゃ死ね」

「わっ、我が君……ッ!?」

「『アバダケダ……、やっぱ『クルーシオ』、苦しめ!」

 

 瞬間、ばぢと甲高い音と共にノットの身体が痙攣した。

 ヴォルデモートの杖先から飛び出したのは、死を孕む緑の魔力反応光ではなく、グロテスクなまでに赤い魔力反応光。それを心臓に受けたノットは、この世の物とは思えない絶叫を放った。

 死喰い人たちがどよめく中、地面に倒れ伏してのたうちまわるノットに対してヴォルデモートは大声で笑う。彼は死喰い人たちを友と呼んだが、真実そう思っているわけではないのだろう。友達には上下関係などない。いまあの空間に在るのは、ペットとそれを甚振る暴君だ。

 時間にして五秒ほど。ヴォルデモートが『磔の呪文』をかけていたのはその程度だったが、失禁してびくびくと痙攣するノットにとっては何時間にも感じていたことだろう。

 そんな卑小な友人に向けて、ヴォルデモートはとてもいい笑顔で言う。

 

「殺されるかと思った? ねえ殺されるかと思った? なーに、そんなことはせんよ。ノットや、おまえは大事な俺様の友、俺様の愛する家族さ。安心しろよ、俺様の元に居る限り安全は約束される。そうだろう、うん?」

 

 倒れ伏し震えるノットの方を、ヴォルデモートは優しくたたいて猫なで声をかけた。

 びくりと大きく揺れたノットの姿を満足げに眺めながら、言葉は続けられる。

 

「我が。き、み……あり、がとう……ご、ざい……ます……」

「そうそう、素直なのが一番よろしい。ほうら、お前たち。見よ、この姿を。十三年分の裏切りを、彼は数秒で贖ってみせた。お前たちには期待しているぞ。今度こそ、そう、今度こそ。俺様への忠誠が揺るがぬよう……」

 

 ヴォルデモートが厳かに放った言葉に、死喰い人たちが次々と頭を下げてゆく。

 不運なノットは見せしめにされたのだ。

 もしかすると、殺されなかっただけ有難いのかもしれない。

 これが死喰い人。これがヴォルデモートの率いる集団のありよう。

 狂っている。いや、これが正常なのか。だとすれば、なんと哀れなのか。

 

「おっと。面白い奴が居たぞ」

 

 次々と輪に並ぶ死喰い人たちの仮面をはがしていたヴォルデモートが、半ばで立ち止まる。

 仮面の奥に隠れていた顔は、ハリーもよく知っている者だった。

 その者は少しだけ息を呑んで驚くハリーの方を見たが、すぐに主人たるヴォルデモートへと視線を移す。

 

「お久し振りでございます、我が君。首尾よく肉体を取り戻せたようで何よりでございます」

「ぬけぬけと。ルシウスよ、白々しくも抜け目のない友よ」

 

 ヴォルデモートの白い指が、ルシウス・マルフォイの顎を撫でる。

 しかし動揺することなく、彼は自らの主人に対して優雅に目礼した。

 それを見て、面白そうに肩を揺らすヴォルデモートは言葉を続ける。

 

「相も変わらずマグルいじめを楽しんでいるようだな? その労力をもう少しでいいから俺様に向けて欲しかったというのは、俺様の傲慢さからくる我儘かね」

「我が君。そんなことはございません。ちらとでも情報が耳に入れば、即座に馳せ参じるおつもりにございました」

「俺様に嘘をつくな。ならばなぜ、夏に『闇の印』が打ち上げられた時におまえは逃げ出した?」

 

 ルシウスの動きが一瞬、固まった。

 次にはヴォルデモートがせせら笑い、歩を進めてゆく。

 

「まあいい。失望させられたぞルシウス。これから失った信用を取り戻せ」

「寛大なご慈悲に感謝いたします、我が君……」

 

 深々と首を垂れるルシウスを無視して、ヴォルデモートは歩き出す。

 ふとハリーが気がつけば、最前列の死喰い人たちがつくる輪には切れ目があった。まるで誰かを待っているかのような切れ目だ。

 その空間を寂しげに眺めたヴォルデモートは、軽く溜め息を吐いて言う。

 

「ここにはレストレンジ達が来るはずだった。彼らはどうも、俺様を見捨てなかったばかりにアズカバン送りとなってしまったらしい。なんと涙ぐましい忠誠心よ。頭の下がる思いだ。アズカバンを解放した暁には、俺様は彼らをこそ最高の栄誉を与えよう」

 

 にっこり笑んだヴォルデモートは、またもハリーの近くへと歩み寄って墓石に腰掛ける。

 

「そしてあともう少しの死喰い人がここに来るはずだった。三人は既に死んでいる。俺様の任務を果たしたのだ、素敵な事だ。一人は臆病風に吹かれたようだな。死んでもらうとしよう。一人は未来永劫、決して戻らない。顔を見たら殺してしまうこと請け合いだ。そしてあと二人。もっとも忠実なるしもべたちは、既に任務についている」

 

 その言葉に、死喰い人のみならずハリーまでも動揺した。

 二人。死喰い人が二人もいるとのことだ。

 だれだ? ブレオがそのうちの一人だとして、もう一人いるというのか。

 

「その忠実なる者たちはホグワーツにいる。その者はとても素敵な招待状を若きレディーに手渡すことに成功したようだ。ご覧よ、お前たち。ここに御座すのが、今夜の俺様復活パーティにご参加くださったちっぽけなご友人、ハリエットだ」

 

 死喰い人全員の視線が、縛りつけられたハリーの全身にまとわりつく。

 うちひとつに殺意が混じっていることに気付いたハリーは、その方向へ目を向ければなるほど、そこにはフェンリール・グレイバックがいた。ヴォルデモートによって仮面を剥ぎ取られた彼は、鼻の一部が欠けている。ハリーが夏にやった傷跡だ。

 ヴォルデモートもその様子には気付いているようで、にやにやとこちらを眺めていたがハリーは努めて彼を無視する。面白そうに肩を揺らしたヴォルデモートは、囁くように言った。

 

「すまないなハリエット。ドレスもなければ、ケーキもない。だが約束しよう、今夜はおまえの人生のって最高の、決して忘れられぬ夜になることを」

 

 寒気のすることだ。

 反抗的な目を向けるハリーに慈しむようで嘲っている目を向けたヴォルデモートは、小さく笑い声を漏らすと死喰い人たちへ向き直る。

 それを待っていたかのように、ルシウス・マルフォイが前に出た。

 

「我が君。我等は気になって仕方がありません。どうか、どうかお教えください。いったい、どのようにして、そのように復活を成し遂げられたのでしょう。我々が再びあなたにお仕え出来る喜びを味わえた、その理由を。どうか……」

 

 ヴォルデモートはその言葉を受けて、嬉しそうな顔になる。

 待ってましたと言わんばかりの笑顔に、死喰い人たちがまたも動揺する。

 事実ヴォルデモートが次に紡いだ言葉は、すこしばかり弾んでいた。

 

「やっと聞いてくれたな。長い話だ」

 

 杖を右手でくるくると弄びながら、ヴォルデモートは言う。

 

「その始まりは、そして終わりは――我らが友人、ハリー・ポッターだ。おまえたちも知っての通り、俺様が凋落したのは我ら闇の勢力にちょっかいをかけ続けた、忌々しきポッター家をこらしめるために俺様が赴いた……その出来事が原因だったな」

 

 ハリーは冷や汗が止まらなかった。

 この話を聞いてはいけないと本能がそう囁いている。

 

「むッ、むぅうーッ!」

「おやおや。可愛らしいハリエットや、おむつでも汚したのかい?」

 

 せせら笑うヴォルデモートに向かって、ハリーが射殺すような目を向ける。

 しかしそれをまったく意に介さず彼は話を紡ぎ続けた。

 

「まず、話すとしたらここからだろうな」

 

 長い脚を優雅に組み換え、ヴォルデモートは遠くを見つめながら語り始める。

 主人の紡ぐ物語を、死喰い人は一言一句漏らさず刻みつけようとでもしているかのように聞き言っているのが分かった。ハリーはそれでも呻き続ける。聞いてはいけない。絶対にこの話を聞いてはいけないのだ。

 

「俺様がパワーと肉体を失ったあの夜。十三年前のあの日。七月三十一日。俺様はハリー・ポッターを殺そうとした。なに、気まぐれだった。ほんの些細な気まぐれた、魔導の髄を極めたつもりでいたこの俺様を打ち負かしたのだ」

 

 するりと振るわれた杖から、銀の靄が流れ出す。

 あれにはハリーも見覚えがあった。ダンブルドアが見せてくれた、憂いの篩に流れていた彼の記憶だ。つまるところ、あれはヴォルデモート自身の記憶なのだろう。死喰い人たちが「おぉ」と感嘆を漏らした。

 彼らの様子を見たヴォルデモートは、満足げに微笑んで話を続けた。

 

「ハリーの母親……リリー・ポッターは驚くべき魔法を使っていた。恐らく本人も使ったつもりはなかったのだろうな、俺様が知らぬ魔法を、そこらへんの木っ端魔女が知っておるとも思えん。認めよう、あれは俺様の負けだった。どうせだからと幼子にまで手を出したのは、俺様の傲慢による過ちであった。俺様の放った『死の呪文』は確かにハリー坊やに届き……そして、跳ね返って我が肉体を破壊し尽くした」

 

 死喰い人たちが息を呑む。

 ルシウスが物言いたげな様子を見せたが、それはヴォルデモートが手をあげることで制した。

 

「おう、おう。ルシウスよ。そう急くな。さて、俺様の肉体は完璧なまでに破壊し尽くされた。魂は砕け散り、霊魂にも満たぬゴーストにすら劣る、ゴミのような何かにまで身を落とした。あれをなんと呼ぶのか……俺様とて分からぬ。だが俺様が不死への憧れを抱いていたのは皆も知っていよう。そして皆の前にいるこのヴォルデモートは過つことなく本物だ。まあ要するに、存在するだけでも必死にならねばならない奇妙な何かになりはしたが、俺様は生き残ったのだ」

 

 だめだ。あれ以上は奴に口を開かせるな。

 杖は、ヴォルデモートの蛇に噛まれた際に取り落としてしまった。

 ならば杖など必要ない。体内に巡る毒も、だいたい分解し終えている。殺るなら今だ。

 ハリーの瞳が真紅に輝いた次の瞬間、ばりという鈍い音と共にハリーの右腕が縄を引き千切った。動揺しながらも杖を向けてくる死喰い人たちの前で、獣のような唸り声をあげるハリーは、ついに両手両足の拘束を力づくで解き放つ。

 ルシウスが無言で放った『全身金縛り呪文』を身を低くして避け、地面を舐めるように疾駆するとヴォルデモートの眼前にまで移動する。にやにやと笑む彼の顔面めがけて、ハリーは槍のように引き絞った手刀を突き出した。

 その一撃には、確実に魔力が宿っていた。

 杖を使わぬ魔法行使。そんな人外技がまかり通るはずもない。だが現にハリーは、それをやってのけていた。主人に当たることを恐れ、死の呪文を放てない死喰い人たちが悲鳴をあげる中。

 

「ぐ、うっ……!」

「残念。惜しいぞハリエット」

 

 彼女の一撃は、ヴォルデモートの数センチ手前で防がれていた。

 何のことはない。

 ヴォルデモートもまた、杖を使わないまま『盾の呪文』を行使していただけだ。

 楽しそうに口笛を吹いたヴォルデモートは、まるでオーケストラの指揮をとるように大げさに左手を振り回すと、その指先から飛び出した魔力反応光がハリーに向かって飛んでくる。

 自身でも分からぬうちに強化していた身体能力を用いて、ハリーは後方にむかって回転跳びする。地面に手を突きながら素早く回転してヴォルデモートから離れるも、彼の放った魔力反応光が着弾した地面から、豪奢な椅子がせりあがってきた。

 一瞬何をするつもりなのか計りかねたハリーが見せた疑問が、最大の隙。

 魔力反応光なしでハリーの両手足に闇が湧き出たかと思えば、ベースボールを投げるかのような勢いでハリーの身体は椅子の上に投げ出された。

 自分の意思に反してしっかりと座らされたハリーは、がァと吼える。

 それを微笑んで見つめるヴォルデモートは、言った。

 

「見事だ、ハリエット。杖を使わずに魔力を操ることができるようになったか」

 

 死喰い人たちが動揺する。

 ここにいる全ての魔法使いはかつて学生だったのだから、遥か古代の魔法使いたちが杖なしでの魔法行使を行っていたということは、魔法史の授業にて習っているだろう。

 だがその古代とは、それこそ神代のレベルだ。

 神と英雄が主役を張っていた時代、そして魔法という技術がまだ公になっておりマグルと魔法族の歴史が始まる以前の話。

 ヴォルデモート卿やアルバス・ダンブルドアといった、過去未来を見ても飛び抜けて才能を持っているとされるような、それこそ突然変異種といっても過言ではないほどの腕をもつ魔法使いならば、その手法を確立させていたとしてもおかしくはない。

 しかしハリエット・ポッターは、たかだか十四年の年月を経ただけの人間の魔女だ。

 そんな高等技術を扱えるはずもないのである。

 

「諸君。この小娘の異常極まる魔法における才能についても、タネはある。そして俺様が、それをご教授差し上げよう。ついでに聞くといいハリエット。おまえのお話でもある」

 

 銀の靄が広がり、宙空に映像を映し出す。

 どこかの廃墟の中、黒いフードを被った何者かがその場に一人立っていた。

 

「もちろん、霞のような何かに成り下がった俺様に、何かができたわけではない。ポッター家を打ち滅ぼす際、念のため連れて行った死喰い人に手伝わせたのだ。あれほど忠実な部下を選んでおいてよかったと思ったことはないな。だが俺様は考えた。まさか肉体が破壊されてしまうとはよもや思いもせなんだが、しかしこれは考えようによっては最大のチャンスでもあるのだと」

 

 ふとヴォルデモートは、足元をわざとらしく見降ろす。

 そこには蹲ったまま痛みに耐えるピーター・ペティグリューがいた。

 

「おっと、忘れていた。ワームテールや、死んでいたら返事はしなくてもいいぞ」

「……生きて、おります。……ご、主人様……」

「なんだ、つまらん。まあよい、ヴォルデモート卿を助けたお前には、褒美を取らす」

 

 くるくると杖で空気を掻きまわし、銀色の義手を作りだしたヴォルデモートは、それを痛みに蹲るピーターの失われた右腕へと嵌める。

 途端、痛みを感じなくなったかのようにピーターはぴたりと動きを止めて、その場から立ち上がった。自身へ感謝の礼を述べ、死喰い人たちの輪の中へと入りゆくピーターを眺めながらヴォルデモートは言った。

 

「これこの通り。俺様は部下たちに助けられて、この復活劇へとこぎつけたのだ。ヴォルデモート卿は、味方には優しいのだ。さて、まず必要だったのは儀式の準備だ。復活の儀式……名前すらわからぬ古代の魔導儀式だが、それには復活者の《父親の骨》、《しもべの肉》。そして《敵の血》が必要だったのだ。だがそれだけでは、単純に元の肉体で復活するだけにとどまってしまう」

 

 くるりと杖を動かし、映像の中身を書き換える。

 トム・リドル・シニア(ち ち お や)の骨。ピーター・ペティグリュー(し も べ)の肉。ハリエット(てき)の血液。ぐるぐると渦巻くそれらの中に、新たな影が浮かび上がった。

 

「俺様は妥協しなかった」

 

 そして、黒いインクの入った小瓶。

 映像に四つ目の品が映し出されると、ルシウスに動揺が走った。

 それを見てヴォルデモートはニコニコと笑う。

 

「ルシウスや。マグルいじめに俺様の学用品を使っていることくらい、俺様はお見通しだったのだよ」

「我が君、それは……」

「いや、いや、いや。責めておるわけではない。お前の発想力と狡賢さには感嘆すら覚える。俺様もお前の悪戯を楽しんで見ていたのだから、気にすることはない。さてさて、皆の者にも説明してやろう。ルシウスがお遊びでバラ撒いた俺様の学用品のいくつかには、呪いが込められていたりする。そのうちの一つには、俺様の学生時代の記憶が封じられていた品があった」

 

 ヴォルデモートが、ちらりと椅子に座るハリーに視線を向ける。

 知っている。当然知っている。

 ハリーが二年生のとき、死に追いやられる寸前にまで戦ったあの出来事。

 トム・マールヴォロ・リドル。かつてヴォルデモートが名乗っていた彼の本名であり、そして彼が日記帳の中に閉じ込めた当時の記憶。邪悪な彼の、青年時代の記憶体を封じた日記だ。

 闇の帝王は、ルシウスがそうすると見越したうえでその学用品を預けていたのだろう。

 なんとも狡猾で、そして恐ろしく人の行動を読んでいる不気味さがある。

 

「記憶体の俺様は、どうも新たに肉体を得ようとしたようだな。それが成功していれば、この世には技の俺様と力の俺様で、ダブル闇の帝王が誕生したわけだ。んー、いかにも浪漫溢れる計画だな。もしそうなっていれば、ダンブルドアとて下せたかもしれん」

 

 学校内の生徒たちの生気やジニー・ウィーズリーの生命力、復活を遂げたクィリナス・クィレルの命を奪い取って、この世に受肉したホグワーツ五年生のヴォルデモート。現実に干渉できる肉体を得て、ハリーを殺そうとした青年だ。

 だが奴は結局、ハリーが日記にヘンリエッタ(バジリスク)の牙を打ち込んだことによって滅びたはずだ。

 

「ハリエットよ。自分は確かに俺様の記憶体を破壊したはずだと、そう考えている顔だな?」

「―――、」

「そう。記憶体の俺様の野望は、この娘によって打ち破れた。秘密の部屋に眠るバジリスクと老ヌンドゥを打倒し、そして俺様にも打ち勝ったのだ」

 

 バジリスクとヌンドゥを倒したという話を聞いて、死喰い人のうち数人から畏怖の視線が飛んでくる。たしかにあの二匹との戦いは、いつ死んでもおかしいものではなかった。

 トム・リドルはそこで敗北。受肉した肉体ごと爆散して死んだはずである。

 にい、と口角を吊り上げたヴォルデモートは、死喰い人の輪の中へ視線を向ける。

 

「そこで登場するのが我らが愛する小動物、ワームテール殿だ」

 

 ハリーがはっとした目でピーターを見る。

 薄い色ながらも昏い光を放つ瞳を、フードの奥から覗き見ることができる。

 この男は、ロンのペットとしてホグワーツに居た。シリウス曰く「ご主人様のために動くほどの度胸がなかった」そうだが……、彼の憎悪に気付かなかったシリウスの言うことだ。申し訳ないが、いま思えば彼の人物評も定かではなかった。

 ロンのもとにいるときから、ヴォルデモートのために動いていたということなのだろうか。

 

「もちろん俺様が直接指示を出せるわけがない。俺様のもっとも忠実な部下……左腕と言ってもいいだろうな。その一人に、指示を出させたのだ。伝言ゲームはうまくいったようでな、ワームテールから受け取った小瓶を受け取った俺様の左腕が現れたとき、俺様は思わず狂喜乱舞したよ」

 

 なにせ材料がすべてそろったも同然だったのだから、と。

 朗らかな笑みを浮かべるヴォルデモートの顔は、邪悪そのものとしか言いようがなかった。

 ハリーが呻くのを眺めながら、ヴォルデモートは彼女の座る椅子の肘かけに腰掛ける。

 

「さて。まず最初に俺様が求めたものは手に入った。次に必要なのは敵の血。これに関しては心配なかった。俺様が凋落したあの日、その日には既に手を打っておいたからだ。一〇年以上かけた計画も、失敗する恐れはなかった」

 

 ヴォルデモートは、愛おしげにハリエットの頬を撫でる。

 背筋が凍るような気持ち悪さに吐きそうだったが、それは叶わない。

 ハリーには、硬直したかのように帝王の話を耳に入れるしかなかった。

 

「ああ、愛おしきハリエット。おまえは本当に役に立ってくれたよ」

 

 頬肉を引き裂かんばかりの酷薄な笑み。

 ハリーは耳をふさぎたかった。何も聞きたくなかった。

 ヴォルデモートの醜悪な笑みを見て、死喰い人たちからもどよめきが聞こえる。

 それすら心地よいBGMとして、帝王は語り続けた。

 

「まず俺様の復活にあたって、より強力な存在となって蘇る必要性があった。魔法防護に引っ掛かり己の呪文に撃ち貫かれるなど、二度とあってはならないのだ。ゆえに俺様が欲したのは、あの老人。アルバス・ダンブルドアの血だ」

 

 靄の中に、ハリーもよく知る一人の老魔法使いの姿が映る。

 ヴォルデモート自身の記憶だからだろうか、とてつもなく恐ろしい顔をしている。

 ハリーに対していつもなにか遠慮しているかのような、どこか違和感を感じる優しい老人。その校長先生が怒りに歪んだ姿を、ハリーは初めて見た。

 魔力の奔流をぶつけ合うその映像は、恐らくヴォルデモートとダンブルドアが戦っているシーンだ。魔法として出さず、魔力のまま扱うのにどれほど精密な動作が必要なのか。いまのハリーならば、あの二人が怪物級の魔法使いであることが理解できる。

 

「さてどうするか。俺様は考えた。あの老人の目の前にノコノコと現れて、献血をお願いするか? ナンセンスだ。消滅させられるのがオチだ。そこで俺様が思い付いたのは、あの老人の性格を利用することだった。こればかりは、我ながら絶賛できるナイスアイディアだった」

 

 ヴォルデモートが杖をハリーの首筋に突き立てる。

 ウッと息が詰まり、何かを引き抜かれる感覚がハリーを襲った。

 横目で見遣れば、ヴォルデモートがハリーの血管から少量の血液を抜いていたようだ。

 いつでも殺す事ができるのに甚振っている。最低な人種だ。

 ハリーの嫌悪感を感じ取っているのか、ヴォルデモートはせせら笑う。

 

「簡単な事だ。ダンブルドアに近づける人物を用意すればいい」

 

 彼が杖を振ると、杖先でくるくると渦巻いていたハリーの血液がヴォルデモートの記憶の靄へと吸いこまれてゆく。ほんのり淡い赤に染まった銀色の靄は、次第にダンブルドアではない別の人間を映しだした。

 あれは。あれはパパとママだ。

 

「ご覧の通り、こちらのお三方がいまは亡きポッターご家族だ。この度ご不幸がありまして、見事一家全滅と相成りました」

 

 皮肉げなヴォルデモートの物言いに対して、ハリーは憎悪をこめて舌打ちする。

 奴を視線で殺せたのなら、この話も終わるというのに。

 映像の中にデフォルメされたヴォルデモートが現れて杖を振ると、ギャーとコミカルな悲鳴をあげて両親が死体となった。ぎりと歯ぎしりするハリーをよそに、コミックヴォルデモートは次に赤ん坊に向けて緑色の光を放つ。

 しかしその緑の光は赤ん坊に当たると反射され、ヴォルデモートに直撃する。そして画面に映るのは、もう泣き叫ぶことのない赤ん坊を含めてすべて死体となってしまった。

 

「こうして俺様も滅んだ」

 

 肩をすくめてのたまうヴォルデモートを、ハリーはただ睨みつける。

 ざまあみろとハリーは内心で嘲笑し、小さな笑い声が口から洩れた。

 ふと気がつけば、自分の口内に押し込められていたハンカチが消えているではないか。

 にやにや笑うヴォルデモートを見れば、彼がやったのだと分かった。

 

「ほうら、ハリエットや。なにか言いたいことがありそうだな」

「……もう一度死ねクソ野郎」

 

 幾人かの死喰い人が怒りの声をあげるが、ヴォルデモートがそれを制止する。

 にたりと笑むと、拘束されたままのハリーの顎を指であげて問いかけてきた。

 

「おやおやお口の悪い事だ。レディは淑やかにと、だいすきなパパとママから教えてもらわなかったのかい」

「ッ、おまえが殺したんだろうが……ッ! おまえが、ぼくの、パパと……ママを……ッ」

 

 途端、弾けるように笑ったヴォルデモートはハリーの頭をばしばしと叩き始める。

 噛みついてやりたかったが、生憎と頭すら動かすこともできない。

 殺してやるという憤怒と憎悪をこめて彼を睨みつけるも、返ってきた視線には愉悦と嘲笑、そしてわずかばかりの傲慢な憐憫が混じっていた。

 

「ああー、ハリエット。愚かで哀れなハリエットや。お前は何も知らない」

 

 冷たく嗤うヴォルデモートは、ハリーの真正面でしゃがみこむ。

 椅子に縛りつけられたハリーに視線を合わせ、満面の笑みで語りかける。

 ハリーの心に亀裂を入れる、その言葉を。

 躊躇なく投げつけた。

 

「――お前のその心も、肉体も、未来までも! この俺が造ったモノだというのに」

 

 何を言われたのか、一瞬理解が追いつかなかった。

 ようやくその言葉を呑み込んだハリーは、しわがれた声を絞りだす。

 

「な……、に、を……」

「理解が及ばないか? ならば、話を続けるとしよう」

 

 ヴォルデモートが杖を振ると、やがて画面端からやってきたのは黒いフードを被った死喰い人。霊魂のような煙となったヴォルデモートを探して、ポッター家の死体を無視しておろおろしている。

 

「続きだ。先ほど俺様が言ったように、さらなる完全な復活を遂げるためにはダンブルドアの血が必要となる。それを手に入れることのできる人材を用意する考えに至るのは、自然なことだった。だがそれには杖が必要だ。だが俺様は霊魂以下のゴミ状態。だからまず、この場に現れた左腕に、俺様の意思を伝えねばならん」

 

 そこでどうしたか、と続けるヴォルデモートは、映像を指し示す。

 そこには、煙のようなヴォルデモートが赤ん坊の口から這入り込む様子が映っていた。

 

「そこで俺様は、ハリー・ポッターの肉体に取り憑いた」

 

 ゾッとする冷たい感覚がハリーを襲う。

 取り憑いた? ヴォルデモートが?

 想像するのは、一年生時のこと。クィリナス・クィレルの後頭部にくっついていたヘビの皮のような、不気味極まりないヴォルデモートの姿だ。

 だがハリーの身体に、そのような痕はない。

 どういうことなのか。

 

「肉体を得た俺様は、赤ん坊の身体というごくわずかな魔力を絞り切って念話を用いて、左腕殿にこう伝えたわけだ」

 

 瞬間、ハリーの思考が止まった。

 嫌な予感がする。

 まさか。

 

「『復活の儀式、その準備をしろ』とな」

 

 凍る感覚がする。

 心が荒縄で締めつけられている。

 息が乱れ、心臓が大暴れを始め、胸が熱を持つ。

 

「まず俺様の肉塊をベースに使うことにした。生きて俺様の元へ参上するには、ある程度の強度と魔法の才が必要だったからだ。反射した死の呪文により死に至ったとはいえ、俺様の肉体は魔人のそれだ。魔法で構成されておるならば、魔力の塊も同然である」

 

 冗談だろ。  

 その言い草では、まるで……。

 

「そして俺様は、――()()()()()()()()()()()()()()

 

 ……、―――。

 

「《父親の骨》にはそのままジェームズ・ポッターの死体を切り裂いて骨を抜き出した。贅沢に新鮮な脊髄を一本丸ごとな」

 

 ハリーが何も反応を示さない中、死喰い人たちの幾人からか悲鳴があがる。

 己の主人の所業に、恐れ、恐怖し、怖がっていた。

 

「《しもべの肉》は少し捻ってな。生後一ヶ月の赤ん坊にそんなモノがいるわけがない。だが甲斐甲斐しく世話をする母親というのは、条件にぴったりだった。妻は夫のことを主人と呼ぶところにもかけて、条件は満たされた。すぐそばで転がっていたリリー・ポッターの死体をミンチにして、儀式に使用させてもらった」

 

 つまり。

 ようするに。

 

「《敵の血》はすなわち俺様の血だ。幸いにして、そこらへんに飛び散っていたからな。霊魂以下の何かになり果てた俺様には不要のモノだったからして、ちょうどよかった」

 

 ヴォルデモートは、ゼロから()()()()()()()()()()()()()()()()()()と言うのだ。

 有り得ない、という言葉は封殺される。

 現にいま目の前で朗々と語るヴォルデモート自身の肉体も、今この場で造られたモノだ。

 恐らく自分で行うときの実験としての意味合いもあったのだろう。

 それならば、何ら不自然なことではない。

 だが、それを躊躇なくやろうという、その異常極まる精神構造が『まともじゃない』。

 

「出来あがったヒトモドキの赤ん坊には、無論のこと魂がなかった。ベースに使うべき本人の魂がないのだからな。だから俺様は、乗っ取ったハリー・ポッターの肉体の奥底消えかけていた、《ハリー・ポッター本人の魂》を使うことにしたよ。ハリー・ポッターとして造りだした肉人形なのだから、調整するまでもなく相性はぴったりだったな」

 

 上擦った囁き声が聞こえる。

 死喰い人たちが、心の底から主を恐れている悲鳴だ。

 生命という不思議を、誕生という幸福を、魔導の力で自在に捩じ繰り回す。

 粘土細工で人形を造るのとはワケが違うのだ。

 人が人をつくる。

 それは父と母が交わり、愛と幸せのなかで生命の神秘を感じながら行われるもの。

 祝福が必要なめでたい出来事であり、その子の誕生によって小さいながらも巨大な幸福をもたらしてくれる、そういう、すばらしいことのはずだ。

 それを。

 それをこの男は冒涜した。

 もはや冒涜という言葉だけでは飽き足らないほどの侮辱。

 だれもが本能的に恐怖していた。

 闇の帝王、ヴォルデモート卿。彼こそが紛うことなき邪悪の化身である。

 

「そうして出来あがったのが、おまえだ。ハリエット。ポッターでありながらポッターではない、俺様の自信作。魂をもったお人形のハリエットだ」

 

 墓場にある全ての目玉が、一人の少女を撃ち貫く。

 今までにない濁りようを見せるエメラルドグリーンの瞳を見開いて、口を閉じるのも忘れたまま、恐怖と絶望、そして信じまいとする意思に震えている。

 

「な、ん……」

「名前も俺様がつけてやったのだぞ。まあ、ホグワーツの秘密の部屋でとぐろを巻く毒蛇から流用しただけだがな。蛇のように無神経なハリエット。人であることを知らず演じる道化者には、ぴったりだと思ってな」

 

 嬉しそうに言うヴォルデモートの表情に、怒りすら湧いてこない。

 ただただ感じるのは困惑と、拒否。

 震える声で、ハリーは言葉を絞り出した。

 

「…………、……うそだ」

「いやいや本当だともハリエット。惜しむらくはお前に盗聴呪文といったダンブルドアの動向を探る呪いをかける余裕が、あの時なかったことだな。言うなれば、おまえは俺様の娘のようなものだ。この俺様手ずから造った、紛い物のお人形だ」

 

 かろうじて反論した一言も、さらりと流される。

 だれか嘘だと言ってくれ。

 死喰い人たちへ視線を向けると、畏怖と怯えの顔を逸らされる。

 嘲笑する者も幾人かいるが、それよりも恐ろしさを感じている者の方が大半だ。

 誰も否定してくれない。だれも、だれも。

 

「……、いや。でも、そんな……ッ! そ、そうだ! おまえが闇の魔法で造った人間なんて、ダンブルドアが生かしておくわけがない! そうだろう!? ならば何故、ぼくは生きている! ほら、嘘じゃないか! 嘘だっ、嘘だと言ってくれ!」

 

 これが真実だと言わんばかりにハリーは叫ぶ。

 しかしそれを見て心底愉快げな顔で、ヴォルデモートは言った。

 

「おおーぅ、ハリエットや。よくできました、グリフィンドールに一〇点あげよう」

「ばッ、バカにするな!」

「いや、いや。正解だよ、ハリエット。これは苦労したのだ、聞いてくれて嬉しいぞ」

 

 わしゃわしゃとハリーの頭を撫でるその姿に、彼女を褒める感情など見当たらない。

 からかって、いじめて、愉しんでいる。

 ただそれだけのために子を褒める教師のような真似事をしているのだ。

 振り払おうと首を振りたくとも動かせないイライラに、ハリーの顔がゆがむ。

 

「あのそれも当然だな。あの男ならば、お前を一目見て造られた人形だと看破できるはずだ。その制作者が俺様だということも、罠を仕込んであるということもな。……だが狸爺は、おまえを生かすか殺すか……随分迷ったようだ。そして、あの男は誰であろうとやり直すチャンスを与えたがるという、悪いクセがある」

 

 ハリーもそれは知っている。

 自身も同じく、それを悪いクセと評したこともあるがゆえに不快感を感じる。

 どこまでも、この男は自身と似た価値観を持っている。

 

「すると、なんと、やはりあの男はおまえを生かした。一人の少女として、もう一人のハリー・ポッターとして成長してくれることを願ったのだ! 紛い物(ハリエット)であることを周囲に隠させてまで、な! ああ、なんと美しい! 俺様は、奴がそうすることを見抜いていた。愚かにも、あの老人はその通りに動いてくれた」

 

 まさかとは思う。

 だがダンブルドアならば、やりかねない。

 思えば初めて魔法と触れたときも、周囲のちょっとズレた反応も、それを前提とするならば分からないでもない。

 会う人会う人が自分のことを男の子だと信じて疑っていなかったことも、ハリー・ポッターが男の子として生まれ、そして一歳を境に女の子のハリエットとすり替わっていたのだから。

 ポッター家は、そこそこ有名な家だ。

 闇の陣営と戦うその一角でもあり、そして学生時代にも広い交流を持っていたためから、そのことも分かる。そんな家に生まれた一人息子のことくらい、ある程度知られていてもおかしくはないのだ。

 だからこそ、ポッター家と親しい者たちには、ダンブルドアが事実を隠すよう命じた。

 だからこそ、ポッター家とそこまで親密でない者たちは男の子だと聞いていたが、なんだボーイッシュな女の子だったのか、という反応で終わってしまう。

 そうなるとハリーがボーイッシュな性格をしているのもまた、作為的なモノを感じる。

 下手をすればダンブルドアが、ダーズリー家の面々に細工をしたという可能性すらある。そう考えると、魔法と関わりだした途端にペチュニアおばさんの態度が軟化したのも、ちょっとだけ理解できる。

 納得はできるが、納得はできない。

 混乱と焦燥が過ぎるあまり、一転して冷静に物事を考えてしまう。

 ハリエットは、なぜそんなことをしたのか、何故ハリエットをハリーとして育てようとしたのかと、ダンブルドアへ軽い怒りを覚える。しかしそれを見抜いたかのように、ヴォルデモートは言葉をつづけた。

 

「どうだ、ハリー・ポッター(ハリエット)。この話を聞いて、俺よりも先にあの老人への怒りが湧いただろう」

「……、」

「図星だろうな。なにせお前と俺様は、同一存在に近い。なにせそういう造り方をしたからな」

 

 恐らく、自分自身を造りだした儀式の事を言っているのだろう。

 ヴォルデモートを造りだしたときと違うのは、単に強化しているかどうか。

 帝王は以前の自分よりも強大になって復活するために、かつての自分自身(トム・リドルのインク)を求めた。ハリエットに施したのは、余計な手間を加えない純粋に復活させるだけの儀式。

 もっとも、復活とはいえないかもしれない。なにせ、ハリエットという人間は元々存在しなかったからだ。ゼロから造りだした人形。ヴォルデモートの造り上げた、オリジナルキャラクター。

 それが、ハリエットだ。

 

「ハリエット。ハリエット・ポッターではない、ただのハリエット。両親の肉体を儀式に使ったため、同じ血は流れているが、血は繋がっていない。……そうなると、おまえは父親(ジェームズ)でもあり、母親(リリー)でもあり、仇敵(ヴォルデモート)でもあるということになるな。三重もの別々の人物が織り交ぜられた肉人形、それがハリエットという人間だ」

 

 言われれば言われるほどに、理解が及んでしまう。

 シリウスが最初、自分を殺そうとした理由もわかってしまった。彼はジェームズ・ポッター、リリー・ポッターの両名と親しかった大の親友同士だ。ならばヴォルデモートが両名の死体を弄んで造りだした偽物など、あってはならないと考えるのが普通だろう。結局はハリエットもハリエットとして生きているのだと思ったのかは、本人のみぞ知ることだ。ハリエットの予想では、所詮予想にすぎない。

 死喰い人のうち幾人かがハリエットの事を「人形」や「お姫様」と呼んだのも、コレを知ってのことだったのだろう。知らない者がほとんどだっただろうが、それでもヴォルデモートが真に重用した者ならば知っていてもおかしくはない。

 ダンブルドアをはじめとして、四年前にハリエットを迎えに来たハグリッドにマクゴナガルをはじめとした教師陣は全員知っていると見ていい。

 ロンやハーマイオニーといった子供たちは流石に知らないだろうが、知ればどういう反応をするかもわからない。いくら信じあった友達とはいえ、ヴォルデモートが造りだした彼の物だと知られればどのような扱いを受けるのか、考える打に恐ろしい。

 

「信じない……信じないぞ……ッ」

「嘘をつくなハリエット」

 

 もうこの話を信じ、そして納得してしまったのだろう? と。

 そう語るヴォルデモートの言葉に、一瞬だけ言葉が詰まってしまう。

 違うと反論しようとするその瞬間を狙ってか、ヴォルデモートはからかうように言葉を放つ。

 

「父親はな、娘の嘘くらい分かってしまうのだよ」

「……黙れェェェええええええ――――――ッ!」

 

 激昂。

 ハリエットの琴線をこれでもかと触れてゆくヴォルデモートの言葉に、彼女は激怒する。

 よりにもよって父親面をするとは、なにごとか。

 人の両親を奪っておいて……、いや、待て。両親などいなかったではないか。

 何もない。人間の死体から造りだされたハリエットには何もない。

 では、ハリエットがいまキレている理由はなんだ。

 ぼくはいったい、どういう反応をしたらいいんだ。

 どういった思考を経て絶望に至っているのかを手に取るように感じているのか、恍惚とした表情を浮かべるヴォルデモートの顔を見たハリエットは、頭の中が熱く煮えたぎる。一瞬で瞳を紅に染めたハリエットは、腹の底から叫んだ。

 

「おまえじゃッ、おまえなんかじゃなァァァああああああい! おまえは父親じゃない! ぼくの、ぼくのパパはッ、ジェームズ・ポッターただ一人だァァァあああ――――――ッッ!」

「くははははあははははは! 哀れ、哀れだよハリエット! ここまで踊ってくれるなんて俺様はまったく思ってなかった! ああ見事だ、闇の帝王の予想を上回る愉快さとは! こんな喜劇ってあるだろうか!? いいや、ない! ないなぁ、あはァはははははははははは! あーっはははァははははははッ!」

 

 絶叫するハリエットと、哄笑するヴォルデモート。

 魔法拘束を力尽くで破ろうとするハリエットに、ヴォルデモートは杖を振ってハリーの座る椅子を溶かしてしまう。

 放り出されたハリエットはしかし、尻もちを突くことなく獣じみた動きで地に伏せた。

 だらりと下げた手の中に、取り落とした杖が独りでに飛び込んでくる。死喰い人たちが動揺しつつも杖を向けてくるも、ヴォルデモートはそれを手で制した。

 心底愉快そうな笑顔を浮かべて、黒髪を振り乱してヴォルデモートは言う。

 

「ここで死なせてやるのが親の情というものではないか!? かはははは、父親としての愛を受け取るがいい。そーら、初めてのプレゼントだ、ハリエット!」

「殺す、殺す、殺す。殺すッ! 殺してやる、殺してやるぞヴォルデモートォア!」

「おやおやいけませんねぇ、女の子が口汚い言葉を使っちゃだめでちゅよぅ」

「うるッせェぞクソ蛇がァ! 死ね、死ねェェェえええええええええええええッ!」

 

 ハリーが杖を持ちあげるのと、ヴォルデモートが杖を振るうのは完全に同時。

 奇しくも使う呪文は同じ物。

 両者ともケダモノのように口角を吊り上げて、闇の帝王と紛い物の少女、ふたり共に興奮のあまり凄惨な笑顔になっての殺し合いを、この場で開始した。

 

「「『クルーシオ』、苦しめ!」」

 

 血色の魔力反応光。

 両者の放った極太のそれはしかし、空中で斬り結ぶと混じり合い、魔力の双極反発によってバラバラになって周囲に散った。

 不運な死喰い人がうちのその破片に当たり、絶叫と共に崩れ落ちる。ヴォルデモートが呪文に乗せた愉悦と嗜虐心も、ハリエットが呪文に乗せた憤怒と絶望も。その汚泥のような感情の渦すべてを一身に受けた名もなき死喰い人は、誰にも注目されないまま衝撃のあまり、その心臓を永遠に止めた。

 二人ともその程度の断末魔を気にするような魔法使いではない。

 『死の呪文』、『武装解除』、『失神呪文』、『切断呪文』。

 互いの放つ致死の魔法を避け、弾き、いなす壮絶な戦闘が、突発的に始まった。その流れ弾のような光によって、被害を受けるのは周囲の死喰い人たちだ。『盾の呪文』を張れるものは張り、実力のない死喰い人は被害を受けてその命を落とす。

 周囲の者たちは、この光景を見てようやく理解した。

 中心で戦っている主人と人形は、本質的なところで同じモノなのだと。

 語られた経緯を拒否して信じようとしないハリエットは、皮肉にも自身の行動を以ってして、その真実を是として体現しているのだった。

 

「『フリペンド・ランケア』、突き殺せェ!」

「面白い呪文だな、ハリエット。こうかね? 『フリペンド・ランケア』!」

 

 ハリエット渾身の呪文を放つも、彼も彼女と同じ《魔法式を解析する目》を持っているのか即座に視て真似をし、そのまま同威力またはそれ以上の出来を誇る呪文をぶつけてくる。

 六対もの紅槍が空中でぶつかり合い、そして破砕。

 その鋭い破片を撒き散らして、不運な観客たちにも地獄を強いる。

 

 

「そうらハリエット、そんなのでは死んでしまうぞ! 『ステューピファイ』、麻痺せよ!」

「黙れ黙れ黙れェ! 『アクシオ』、死喰い人!」

 

 ヴォルデモートが放った失神呪文を、呼び寄せた死喰い人を盾にして防ぐ。

 既に身体強化をした脚で気を失った死喰い人をヴォルデモートの方へ蹴り飛ばし、即座に魔力を練り上げる。ぞん、という鈍い音と共に、不運な死喰い人の上下が寸断された。咄嗟に飛び退いたハリエットの足元を、鋭い風が削ってゆく。すぐ後ろに居た死喰い人の腕が飛んだ。その噴き出す悲鳴と血を避けるように、ハリエットは地面を蹴ってヴォルデモートの元へと疾駆する。

 

「『レダクト』、粉々!」

 

 ハリエットが地面に向けて魔力反応光を放ち、土砂を巻き上げる。

 死喰い人たちがくぐもった悲鳴を上げるも、いまさらそれを気にするような神経は持ち合わせていない。彼女はつづけて杖を振るう。鋭角に印を刻む独特な振り方に、込める魔力は圧縮したそれ。

 短く気合いの込められた呼気と共に、彼女は呪文を放った。

 

「『フリペンド・インペトゥス』!」

 

 魔法式の構成でどのような魔法が飛んでくるかを察知したヴォルデモートは、その場で大きく一回転して『姿くらまし』した。

 次の瞬間、ハリエットが巻きあげた土砂のひとつひとつが弾丸のように射出される。ハリエットのかけた魔法は、自身の魔力を火薬代わりの推力として現実物質である土砂を射出するという単純なものだ。ただ、その砂粒一つ一つすら弾丸として機能しているため魔力操作には針の穴に糸を通すような精密さが必要となる。

 ヴォルデモートが既に射線上に居ないことに気付いたハリエットは、流れ弾に全身を撃ち貫かれて血霧と化し逝く死喰い人には目もくれずにその場を跳んだ。

 勘に従った結果は正解であり、ヴォルデモートの放った緑色の魔力反応光が地面を抉る。

 

「俺様の才能もしっかりと受け継いでいるようだな。感心感心」

「だまれ!」

 

 杖を振って風の刃を撃ちだせば、ヴォルデモートも同じ魔法で応戦して打ち消してくる。わざわざ同じ威力、同じ数の刃を放ってきたあたり完全に遊ばれている。

 紅槍を放つも、既にその場に彼はいない。

 空気を押し出す独特な音を聞いたハリエットは回避を試みるも、ヴォルデモートの長い脚が彼女の背を蹴り飛ばした。

 

「……ッ」

 

 詰まる息。吐き出された空気を求めて肺が悲鳴を上げるも、しかし状況判断を済ませる方が優先度は高い。ぎゅぱ、と異音を鳴らして目の前に現れたヴォルデモートは、つんのめるハリエットの胸を蹴りあげる。

 更にまた『姿くらまし』して、ハリエットの吹き飛んだ先へ『姿現し』してまた蹴撃。それを合計五度。少女の矮躯をリズムよく蹴り続けたヴォルデモートは、笑みをこぼしながら最後に大きく蹴り飛ばした。

 地面を転がって衝撃を逃がしながら、ハリエットはヴォルデモートから距離を取って勢いのまま起きあがり、そして転がされる最中に練り終えた魔力を展開した魔法式に注いで遠心力でも利用するかのごとく、杖先から流れるように呪文を放つ。

 

「『グレイシアス』、凍てつけェ!」

「『インセンディオ』。まだまだ組成が甘いな」

 

 反対呪文による打ち消し。

 即座に対応して、同じパワーで魔法が完全相殺(ファンブル)するように威力を調整するその戦闘センス。認めたくはないが、この男は完全に自分よりはるか上を行く魔法使いだ。

 だが、だからといって、殺せない道理はないはずである。

 魔法の知識、戦闘センス、状況判断速度、身体能力、性別による力の差、年齢差によるパワーの違い。戦闘者として勝利に要する条件のほとんどを、奴が上回っている。小柄な身体と、それに伴う体重の軽さと身のこなしによって相手の魔力反応光を避けられているだけで、その他一切においては不利でしかない。

 奴の言うことが真実ならば、ハリエットとヴォルデモートは重複存在。十三年前のヴォルデモートのステータスは、全てハリエットも引き継いでいると見ていい。ゆえに魔力量、魔法威力、魔法式構築速度、エーテル展開速度、反応光射出速、魔法的素養も十二分にあると考えていいだろう。

 それに恐らく、この目。

 魔法を視認する事によって内包する魔法式を看破する、既存の魔眼に属さない魔眼。これと同じものをヴォルデモートが、いや、ヴォルデモートが持っているモノをハリエットも持っているということだろう。

 こんな常識はずれもいいところの、常軌を逸した魔眼など生まれつき持っていたのではありえない。奴も生まれたその瞬間はただの人間である以上、生物的な側面からは逃れられないはずだ。つまり純正のヒトであることから、すなわち後天的に魔眼を体得したことになる。

 いったいどれほどの外法を行えばこの魔眼を手に入れられるのか、少し考えたくはない。胸糞悪いことであるという想像は恐らく間違ってはいるまい。その恩恵をあずかっている身としては逃げてはならない問題だが、まずいま取り組むべきは眼前の魔人だ。

 魔人。それは魔法を極めた魔法族が、人間という枠を脱ぎ捨ててエーテル体の塊となった怪物の名称である。ヴォルデモートが魔法を使うたび全身に魔法式が走っているのは、きっとそのためだ。奴は既に魔人の領域に至っている。しかし自分が魔法を使っても、腕を式が走ったりはしない。いくら奴でも、慢心が見え隠れする帝王でも、流石にハリエットを魔人として造りあげることはしなかったらしい。

 魔人とただの人、その違い。その差。

 

「『エクスペリアームス』」

「ッが、ぁ!」

 

 まるで胸の中央を蹴り飛ばされたかのような感覚と共に、ハリエットの身体が吹き飛ぶ。

 墓石の一つに背中から叩きつけられ、半壊した墓石を振り払いながらも立ち上がる。杖は目の前に転がっている。手を伸ばし、無言で『呼び寄せ呪文』を唱えると彼女に忠誠を誓った杖が主の手の中へと飛び込んできた。

 にやにやと眺めるヴォルデモートは余裕綽々に、肩で息をするハリエット。

 差は明らかである。

 死屍累々と血と肉を撒き散らした死喰い人たちは、円の中央に近い者たち――恐らく幹部クラスの死喰い人なのだろう――を除いて、二人を遠巻きに見守っている。

 地面に転がる死喰い人の腕を蹴って退かし、ヴォルデモートが微笑みかけてきた。

 

「おお、おお。女の子がそんなはしたない格好でいてはいけないよハリエット」

「黙れ」

「決闘の礼儀もなくおっぱじめてしまうとは。俺様はそんなあばずれに育てたつもりはなかったんだがなあ。育て方を間違えたかなあ? 造ってすぐ放任主義は不味かったかもなあ」

「黙れ……!」

「まったく。魔法使いの作法も知らぬとは、親の顔が見てみたいもんだ」

「黙れぇっ!」

 

 ハリエットが杖を向けようとするものの、ヴォルデモートの方が素早かった。

 頭上から巨大な手で押しつけられたように、ハリエットの腰が曲がる。

 あたかもヴォルデモートに対して頭を下げているかのようだ。

 

「お辞儀するのだ、ハリエット! 決闘前にはお辞儀せねばならぬ」

「黙れ……! 黙れ黙れ黙れ……ッ!」

「女の子がそんな風に唸るもんじゃあないぞ。決闘前にはお辞儀をして、相手に敬意を払いつつ、そして殺すのだ。そーれ、やってみようかハリエット。どれ、お父様が直々に教育してあげよう」

「黙れェェェえええええ――――ッ!」

 

 相変わらずにやにやと笑みを向けるヴォルデモートの嫌味にも皮肉にもとれる嘲笑に、ハリエットは叫んだ。

 感覚として彼の言うことが事実であることは、もうなんとなく悟っている。

 恐らく自分は、ハリー・ポッターでありながらハリー・ポッターではない。

 同じ魂(ハリー)同じ材料(りょうしん)同じ異物(ヴォルデモート)を持っていたとしても、その過程が違い過ぎる。ポッター夫妻のもとで愛を受けて育ったであろう男の子(ハリー)と、両親などなくそもそも尋常な人間ですらなかった女の子(ハリエット)では、もはや別人も同然。

 だが認めてなるものか。

 認めてなんか、やるものか。

 ハリエットは、ポッター夫妻の子でありたい。

 写真の中から優しく微笑みかけていた、あの二人の娘でいたい。

 いつまでも、死ぬそのときまで、ハリー・ポッターと名乗っていたかった。

 

「黙れ、黙れぇっ! おまえじゃなァァァい! おまえは父親じゃない! ぼくの、ぼくのパパは、ジェームズ・ポッターただ一人だァァァ――――――ッ!」

「くははははアハハははは! 哀れ、哀れだよハリエット! おまえも本当は分かっているだろうに! 分かっているのに、それでも自分を保つため反論せざるを得ないのだなァ!? アはァはははアハハアハアハ!」

 

 そう。

 たとえ、たとえ。 

 

「ポッター家が、あのお偉い誇り高きジェームズとリリーが! 俺様という闇の血を受け継いだ、薄汚い女を! 娘として迎えることなど、ないと! ありえないと! 分かっているのになァ!? おまえはハリエット! 毒蛇から貰った名前のハリエット! ただのハリエットだ!」

 

 たとえ、彼らに嫌悪感を抱かれるだろうという恐怖を持っていたとしても。

 ハリエットは、いやハリーは。

 真実会ったことも、触れたことさえない二人の、両親の娘でいたい。

 だから目の前の男が造物主(ちち)であっても。

 ハリーの父親(パパ)として認めることだけは。

 なにがあっても、許容できないのだ。

 

「ひー、ひーっ! あーおかしい! 面白すぎるぜハリエット! さてさて、こんな絶望を味あわせるなんて心苦しいなぁ。ここで死なせてやるのが、親の情というものではないかな!?」

「おまえなんて、父親じゃない! ただのショボくてセコい、醜悪な犯罪者だ!」

「おーやおや、パパに向かってなんて言い草だ! 悪い子、悪い子。ハリエットは悪い子! かはははは、父親としての愛を受け取るがいい。悪い子には、しつけをしなくてはな! そーら。初めてのプレゼントをくれてやるぞ、ハリエット!」

「やれるものならやってみろ、ヴォルデモート! 返り討ちにしてやる!」

 

 互いに向かって杖を向けたのは同時。

 魔力反応光の残滓がヴォルデモートの腕の軌道を表している。

 魔人である自身と同じ速度で杖を構えたことに、ヴォルデモートがわずかに目を見開いた。

 彼が驚いたその時間は、およそコンマ一秒にすら満たない。

 だが十分だった。

 実力差という強烈なハンデを抱えるハリーが、目の前に居ながらにして遥か高みでふんぞり返る男と、同じスタートラインに並ぶまでに要する時間には、十分すぎた。

 艶やかな黒髪を揺らし、杖先に膨大な魔力を収束させ。

 片や喜悦に染めた紅い目で、片や憤怒を孕んだ紅い目で。

 

「「『アバダケダブラ』ッ!」」

 

 互いに互いへ向けて、死の呪文を放った。

 エメラルドグリーンの死とダークグリーンの死が、互いの主を仕留めんと迫る。

 緑色の奔流が中空でぶつかり合い、極太の綱を造り上げた。

 まるで水と水がぶつかり合うかのように、結合点から緑色の死片が周囲に飛び散ってゆく。運悪くそれを浴びた死喰い人が、糸の切れた人形のように倒れてしまう。流石の幹部死喰い人たちも、魔法を放ち合う二人から離れた。

 ヴォルデモートが愉しんでいることに手を出すことは、すなわち死を意味する。

 ゆえに死喰い人たちは、己の主人が引きつった顔をしているのを気付いても何もする事が出来なかった。

 

「これは……、これは……」

 

 嘲笑を浮かべていた顔から徐々に焦燥が表れ、やがて驚愕に染まっていった。

 ハリーとヴォルデモートの持つ杖と杖を結ぶ緑色の綱は、やがて神々しい光の絆へと変じてゆく。まるで噴水のように光を撒き散らし、周囲に死を振りまいてゆく。

 例えるならば、全く同じ威力、同じコース、同じ場所に向かって対面で向かい合ったホースから水を噴射している、そんな状態。その勢いよく飛び出した水の柱が空中でぶつかり合って、互いに行き場をなくして暴れている、そんな状態。

 その(ホース)を持っている者。ハリーとヴォルデモートは戦慄していた。

 恐怖に震える身体を無理矢理押さえつけ、ともすれば手の平から吹っ飛んでしまいそうな杖を握りしめることに全力を尽くす。

 恐ろしい。

 こんなにも恐ろしい気分になったのは、はじめてだ。

 クィレルと戦った時も、トム・リドルに殺されかけた時も、吸魂鬼(ディメンター)に襲われた時も、代表選手たちと殺し合った時も。

 ここまで恐ろしい気分にはならなかった。

 明確な理由を理解しているわけではない。なのに、ここまで恐怖に怯えてしまう。

 ヴォルデモートもきっと、同じ気持ちでいるはずだ。わけのわからない恐怖と、焦燥に心が震えているはずである。その理由も、きっとすぐわかると悟っている。

 

「これ、は……ァア……ッ!?」

 

 ごぱ、と。

 恐怖に声を漏らしたヴォルデモートの杖先から、血色の滝が溢れだした。

 滝はどばどばと際限を知らないかのように帝王の足元を汚し、おぞましさにハリーが吐き気を覚える。血の滝の中には、いくつか白いものが混じっていた。髑髏の面である。その数はおよそ八。おそらくこれは、ハリーとヴォルデモートの戦闘の巻き添えを喰らって死んでいった死喰い人が着用していたものだろう。

 

「……ッ!?」

 

 何が、起きている?

 血の滝がまるで燃料切れしたかのように途切れたかと思えば、次に飛び出した来たのは、光の河。

 さらにその中から生まれ出でるように花咲いたのは、まるでゴーストと見紛うような半透明の老人。肌や服の色や分かるあたり、ただのゴーストでもないのは確かだ。

 足の悪い者が使う歩行補助杖を持った老いた男が、その禿げ頭をつるりと撫でながら驚いた目で浮遊している。あれは、なんだ? あれはまさか、ゴーストではないだろう。でなければ彼が光の河から飛び出したときに、おぞましい内容の魔法式がバラけてゆく様を視れるはずがない。

 断片だけだったこともあって魔法式の内容をハリーは理解する事が出来なかったが、それにはあらゆる死が宿っていた。つまるところ、あれは恐らく『死の呪文』の魔法式。それから解放されることが何を意味するのか。

 つまり、あの老人は。

 ヴォルデモートが殺害した者だということか?

 

『……こいつは驚いた。やっこさん達は、本物の魔法使いだったのか』

 

 まさか、喋った。

 多少響くような音声になっているものの、肉声と変わりない声が放たれる。

 その言葉からするに、彼はきっとマグルなのだろう。不運にもヴォルデモートに出会い、そして殺されてしまった。同情はするが、彼が本当に殺された人間だというのならば。

 

『あいつはおれを殺した。やっつけちまえ、お嬢ちゃん、がんばれ!』

 

 そう言うと名も知らぬ老人は、ハリーの傍へとやってきてヴォルデモートをにらみつけた。

 緑の光線が、ぐいっとエメラルドの光が拮抗を崩した。

 それを目の当たりにして、ようやく、ヴォルデモートの余裕が消え去る。

 その気持ちは、予想がつく。

 己が殺した人物が現れるというのは、つまり己の罪を突きつけられているのだ。

 死人に口なしどころではない、糾弾さえしてくる。

 他者を害し己の欲望に忠実に生きた男に対して、これほど恐怖を伴う出来事はないだろう。

 

「まさか。これは……ッ、『直前呪文』! なぜ、どうして俺様の杖から? なぜ!」

 

 うろたえるヴォルデモートの杖から、また別の人物が飛び出してきた。

 今度は女性のようだ。半透明で分かりづらいものの派手な蛍光色のローブを揺らしながら、自動速記羽根ペンQQQを用いてメモ書きをしている。

 誰かもわからない女性に応援されながら、ハリーは杖をしっかり握りしめた。

 そうするとエメラルドとダークグリーンの光が、まるで風に吹かれる灰のような迅速さで神々しい金色へと変化していった。

 ヴォルデモートの目に、はっきりとした恐怖が浮かんだ。

 それと同じくして、ハリーの瞳も揺れる。

 死者がふたり、ハリーの傍に寄り添って力を貸してくれている。

 面識などあるはずもなく、名前だって知らない。だが闇の帝王という共通の巨悪に立ち向かうための勇気を、彼らは分けてくれている。ちっぽけな少女のために、微笑みかけてくれている。

 それのどんなにありがたいことか!

 正直に告白させてもらえば、ハリーの心はすでにほとんど折れかけていた。

 ヴォルデモートと戦うことへの高揚感と、奴をこの手で殺せるかもしれないというほの暗い歓喜。そして、この状況へのとてつもない恐怖で彼女の心は摩耗している。

 そしてその恐怖は。

 自分が何に怯えているのかもわからない恐怖は、ヴォルデモートの杖が証明してくれた。

 

「……ッ、」

「―――ッ」

 

 ヴォルデモートとハリーが、同時に声にならない悲鳴をあげた。

 帝王の杖先からこぼれ落ちた死者が、ふわりと宙に転がってゆく。

 赤ん坊、だった。

 好き勝手に飛び跳ねてクシャクシャの黒髪。

 ぷくぷくと柔らかい腕が、誰かを求めて宙を泳いでいる。

 アーモンド形の目。そこにはっきりと見える瞳は、澄んだエメラルドグリーン。

 ハリーは自分の吐息がうるさかった。まるで呼吸困難の病人のように喘いだ。

 あれは、あれはぼくだ。

 あれがぼく(ハリー)だ。本物のぼくだ。

 本来ここにいるべきハリー・ポッターで、ぼくの不自然さを証明する真実そのものだった。

 意図せずして涙があふれる。

 本当ならばあの子が、あの男の子が、生きていた。ぼくの人生を歩んでいた。

 ハリエット・ポッターなどという偽物が造られることもなく。

 ロン・ウィーズリーとハーマイオニー・グレンジャーとともに泣き、怒り、笑い。

 真にジェームズとリリーの愛を受ける資格を持っていたはずの赤ん坊。

 幸せをその一身に受けるべきだった、ポッターの一人息子。

 生き残れなかった男の子。

 

『あぅ』

 

 ハリー・ポッターが。

 ほんもののハリーが。

 ハリエットに手を伸ばして、微笑んだ。

 鍋をひっくり返したかのようにあふれる涙が、彼女の顎を伝って落ちる。

 微笑みかける(ハリー)の伸ばした手が、泣き続ける彼女(ハリー)の黒髪に触れる。

 父親と同じ色の、母親と同じ柔らかさの、仇敵と同じ血に濡れた髪を、くいと引く。

 赤ん坊の柔らかい手で、弱々しい儚い力で、ハリーの髪の毛をくいくい引っ張っている。

 

『んぃ。だぁう』

 

 純粋で、無垢な、男の子の。

 エメラルドグリーンの瞳で微笑まれて。

 災禍で、偽物な、女の子の。

 クリムゾンレッドの瞳が、エメラルドに戻ってゆく。

 憎悪に歪んだ眉がやわらかくほどかれて、恐怖に開かれた唇が弧を描く。

 赤ん坊というのは、人類の宝である。

 正常な人間ならば赤ん坊の笑顔を見て、目の当たりにして、微笑まない道理はない。

 そしてハリーは。

 ハリエット・ポッターは。

 ハリー・ポッターを抱え上げて、その腕に抱く、細く白い手を見た。

 

「……、……あ……」

 

 紛い物が。

 家族を殺し尽くした外道が造りだした人形が。

 今まで、いまのいままでハリー・ポッターを名乗っていたこと。

 それを知られてしまうことが、いま彼女が感じている恐怖の最たる源泉だった。

 

『――会いたかった』

 

 しかし。

 再び色が揺らめく彼女の瞳を覗きこんできた、アーモンド形の、エメラルドグリーンの瞳。

 たっぷりとして、深みのある紅い髪の毛。そのさらさらとした美しい髪質は、自分と同じ。

 その優しい色の瞳を見た途端、そんな恐怖はどこかへと消えてしまった。

 にっこりと笑った、美しい女性は。

 リリー・ポッターは。

 

『はじめまして、わたしの娘(ハリエット)

 

 ハリーに、娘に向かって、そう笑いかけたのだ。

 これ以上ないくらい溢れていた涙の量が、さらに倍になってしまう。

 声を我慢して泣きはらすハリーの頭に、大きくて暖かい手が置かれる。

 その手の平はごつごつしていて、ちょっとだけ乱暴な、でも優しい力加減。

 

『ぼくに娘ができたのか、なんだか感慨深いなあ』

 

 ゆっくりと振り向いて、見上げる。

 クシャクシャの黒髪をした、メガネの男性。

 にかっと歯を見せて笑う、快活な男性は。

 ジェームズ・ポッターは。

 

『うれしいぜ、ぼくの娘(ハリエット)

 

 ハリーに、娘に対して、嬉しそうに笑った。

 ついに声を漏らして泣き始めるハリエットに笑いかけて、リリーが抱きしめてくる。

 母に抱かれる娘を、愛する妻ごとジェームズは抱きしめる。

 ひっく、えぐ、と涙を流し続けるハリエットの頬を、ハリーの小さな手が触れた。

 

「……ぼく、は、……」

『ねえハリー。あなたの妹、ハリエットよ。あなたお兄ちゃんになったのよ』

『こんなに可愛らしい妹を持ちやがって。羨ましいぞハリー、こんにゃろう』

 

 ぼくは。

 

「ぁ……ぼくは、ぁぅ。ぼくはぁ……」

『まったく。ほらハリエット。そんなに泣いたら可愛い顔が台無しよ』

『そうだぜハリエット。そんなくちゃくちゃにしたら、お嫁さんに……、行ってほしくないなあ。ともかく。泣き顔さえも愛おしいけど、ぼくらは君の笑顔が見たいんだぜ、ハリエット』

 

 リリーのやわらかくてあたたかな胸が、ハリエットを包んでくれている。

 ジェームズのたくましくて優しい腕が、ハリエットを抱きしめてくれる。

 ハリーのか弱くてまっしろな手の平が、ハリエットを癒してくれている。

 

「ぼくが、ぼくなんかが、……ひぅ、あ……。ほんと、う、に……」

 

 しゃくりあげる娘に向かって、ジェームズは笑いかける。

 丸いメガネをくいっとひょうきんにあげて、悪戯好きな少年のように笑う。

 

『おいおい、ハリエット。あいつのおかげってのは少し気に入らんが、それでも君はぼくたちの娘であることに違いはないのさ』

『そうよ、ハリエット。あなたは、わたしたちの娘なの。誇らしい娘。愛しい、女の子』

『残念だね、生きているうちにいっぱい触れ合いたかった。風呂も一緒に入りたかったかな』

『わたしはお買いものとか、お洒落もしたかったかなあ。うーん、もったいないわ』

 

 ぼくは、とハリーが泣く。

 ああ、と声を漏らして咽び泣く。

 しっかりと持った杖が手の平からこぼれ落ちそうになるけれど、ジェームズとリリーがしっかりと手を握ってくれている。ハリーが笑ってくれている。

 だから心配はいらない。

 ゆえに落とさない。落とすはずがないのだ。

 

「ああ、ああ……! ぅあ、ぁああ……っ!」

 

 心配するだけバカだった。

 アルバムの中で抱いていた赤ん坊ハリーに向けた優しい笑顔。

 シリウスやルーピンに向けた無遠慮でほがらかな笑顔。

 夫婦で揃って笑いかける、いとおしい笑顔。

 ぜんぶぜんぶ、本物だ。そこに嘘はない。本物なのだ。

 たとえ会ったことがなくとも、面識さえなくても、存在すら知らないはずでも。

 アルバム越しにハリエットへ笑いかけてくれた彼らの笑顔に、嘘なんてなかった。

 息子(ハリー)の人生を奪い取ったくせに、のうのうと生きる少女への憎悪などなかった。

 そこにハリエットの姿はないけれど、確かに愛がある。

 愛があるのだ。

 

「――パパ、ママぁ……!」

 

 心の底から会いたかった。

 受け入れてくれたことに、全霊を以ってして幸福を感じている。

 ぼくの。いや、ハリーとハリエットの。

 ぼくたちの、パパとママ。

 焦がれていた、憧れていた、だいすきな家族たち。

 

「パパ、ママ、ハリー。ぱぱ、ままぁ。はりー。みんなぁ……!」

『おう。きみのパパだぜ』

『あなたのお母さんよ』

『ぁう!』

 

 しあわせだ。

 こんなに幸せでいいのだろうか。

 だけど、いいのだろう。きっと、いいんだ。

 父親が撫でてくれて、母親に抱きしめられて、兄が笑いかけてくる。

 こんな、ありえない(どこにでもある)幸せが。

 なによりも力を、勇気を与えてくれる。

 

『さぁ、行きなさい。大急ぎで優勝杯(ポートキー)をつかみとるのよ。繋がりが切れると、わたしたちはあまり長くは居られないの』

『ま、あのハンサムボーイを忘れないくらいの時間は稼げるさ。ホグワーツへ、きみの家へ帰るんだ。いいね、かわいいハリエット』

「うん。わかったよ、ママ、パパ」

 

 なんて心強いのだろう。

 胸の奥が、あったかくて、きらきらと輝いている。

 いまならあの男も、薄汚い蛇だって怖くなんてない。

 ハリーは両手を強く握りしめて、つよくヴォルデモートへ視線を送った。

 殺意を込めた睨みでもない。敵意を込めた凝視でもない。

 ただ、見た。直視しただけの視線、しかしヴォルデモートはそれに大きく動揺した。

 

『わたしたちのかわいいハリエット。パパみたいな素敵な人に恋したとしても、安心なさい。あなたはわたしの娘だもの、きっと美人になるわ。あなたの笑顔は、最高よ』

『そうさ、君はぼくたちの自慢の娘だ。なら何だってできるはずさ、君はハリエット・ポッターだ。できないことなんてない。なんたって、ぼくたちの娘なんだからね!』

 

 袖で涙を拭いたハリーは、ハリエットは。

 両隣で彼女をはげましてくれるパパとママに、そして可愛らしい兄の頬にキスをした。

 愛情をいっぱいこめた、一度きりの、だけど最高のキス。

 リリーは朗らかに微笑んで、ジェームズはてれたように笑い、ハリーが破顔する。

 

『さようなら。元気でね、ハリエット!』

『がんばれ、ぼくたちの可愛い娘!』

『あう!』

 

 父と、母と、兄の、優しい声に押されて。

 ハリーは金の光を噴出させる糸を断ち切るため、杖を捩じるように振り上げた。

 

「――いってきます!」

 

 大好きな家族に向けて、元気よく叫んで。

 糸が切れたハリーとヴォルデモートの繋がりが切れると同時、ハリーは駆けだした。

 おそらくヴォルデモートに向かっていったジェームズやリリー、見知らぬ犠牲者たちの姿は見ない。振り向かない。彼らがもぎ取ってくれる貴重な時間を、一秒だって無駄になんてするものか。

 死喰い人たちが一斉に杖を振り上げ、ハリーに向かってさまざまな呪文を唱えてくる。

 その中でも失神呪文が一番多い。ハリーを捕らえ、帝王に差し出したいのだろう。

 だがその程度では甘すぎる。

 元気たっぷりで、幸せいっぱいな。いまのハリーに、ハリエット・ポッターに。

 その程度の悪意など、あまりにもちっぽけだった。

 

「『アニムス』、我に力を!」

 

 地を蹴り、跳ぶ。

 反回転で後ろを一瞬見て、どのコースをどのような魔法が飛んできているのかを確認。

 そのまま空中で身を捻って、魔力反応光を避ける。

 確認した限りでは失神呪文が二つに武装解除が一つ、あと二つがハリーも知らない魔法だった。だが魔力反応光が直線型で出るタイプである以上、当たらなければどうということはない。

 着地と同時に杖を振るい、地面を吹き飛ばす。

 壁となってくれる土砂を背に、ハリーは更にスピードをあげて駆けだした。

 

「……ッ」

 

 ぎゅぱ、と空気を押し出す異音と共に、ハリーの進行方向に四人の死喰い人が『姿現し』をした。この短距離で正確な場所に転移系呪文を行えるという時点で、かなりの実力者であることがわかる。

 現に目の前に現れた四人は、ハリーにも見覚えのある人物ばかりだった。輪の中心に居た者たちである。

 そのうちの一人、プラチナブロンドの長髪を優雅に揺らして杖を構える男、ルシウス・マルフォイから無言呪文による『武装解除』が飛んでくる。その数、およそ三〇はあるだろう。まるで壁のようだ。

 無言呪文とは、文字通り発音を必要としない魔法である。ゆえに呪文を唱える必要がない以上は理論上、即座に次の魔法を発動させる、いわゆる連射も可能になる。

 魔法を使えるものならば誰もがわかるだろうが、魔法を放つときは気合いを入れて大声で叫ぶような感覚がある。ゆえに、大声で叫び続ける事が人間として可能だとしても、それを続けるだけの声量と体力があるかどうか、という問題にぶち当たるわけだ。

 つまり、ルシウス・マルフォイはその限界を突破した魔法使いと言える。視た限り魔人化してはいないようだが、ハリーに魔人か人間かを見分ける知識がない以上はその判断も怪しいものではある。しかし現時点でハリーよりも実力が上であることは間違ってはいるまい。

 問題は彼我の実力差ではない。この場面を切り抜けて逃げ切ればハリーの勝ちなのだから、無理に彼に勝つ必要もないのだ。眼前に迫る武装解除の壁から逃げる場所はない。ならばどうすればよいのか。

 答えは至極単純だ。避ける場所がないのなら、避ける必要はないのだ。

 

「『アクシオ』、死喰い人!」

 

 ハリーが杖を振るうと、集団の中に居た死喰い人のうち、太った女性死喰い人がハリーの魔力によって磁石のように引き寄せられる。そして何のためらいもなく、ルシウスの放った武装解除の壁に叩きつけられた。

 余剰魔力によって彼女の仮面や骨が砕け散っただろう音を聞くも、ハリーは彼女を解放するつもりはない。便利な肉の盾なのだ、解放してやる道理もない。

 

「ウィリアムズゥ! この足手まといがァ!」

 

 四人のうち二人目。痩せぎすな死喰い人が、下半身を黒い霧と化しながらハリーに向かって飛んでくる。

 ハリーは肉の盾として扱っているミス・ウィリアムズに魔力を込めてコーティングする。彼女の両側の空気を固めて『道』を造り、彼女の巨体を挟んで杖を構えて杖先に暴風を発生させる。

 そして空からこちらに向かって急降下してくる痩せぎすな死喰い人に向けて、ハリーは彼女の肉体を強烈に射出した。

 要するに空気を銃身とし、ミス・ウィリアムズを弾丸、ハリーの暴風を火薬として大砲のように発射したのだ。全身の骨が悲鳴をあげかねない勢いのまま、彼女の肉体は空中に居た痩せぎすな死喰い人を撃ち貫いた。空中で赤や白い何かが飛び散り、地面に向かって落下する。身体が欠けた様子はないため、死んではいないだろう。その後どうなるかまでは、知ったことではない。

 赤白の汚物が降り注ぐ頃には、ハリーはその場から既に移動していた。そして前の前に居るのは四人の死喰い人のうち、三人目。彼の名をハリーは知っている。

 ワルデン・マクネア。魔法省の危険動物処理委員会に所属する、死刑執行人。役職上、おそらくハグリッドのペットだったバックビークを殺害せしめた張本人だろう。ハワードから、クレイジーな職員がいるとのことで聞いたことがあるのだ。

 彼は処刑人として相応しく、巨大な斧をかついでハリーの進路上に立ち塞がっていた。

 

「人間を処刑するのは久方ぶりだよ、お姫様」

「そうか、じゃあ死ね」

 

 簡単なやり取りを済ませたハリーは、マクネアに向かって『失神呪文』を放つ。

 ぶんと軽々斧を振り回した彼は、刃を盾にして魔力反応光を防いだ。その陰から飛び出してきたのは、四人目の色黒の巨漢。ハリーはその男を視界に入れた瞬間、全身の毛がぞわりとさざめいた気がした。

 自身の直感に従って、ハリーはその場から思い切り飛び退く。

 直後、さきほどまでハリーの居た場所が炸裂して砂利や土が飛び散った。

 直感を無視していれば、飛び散っていたのは自分の脚だっただろう。

 

「勘のいい餓鬼めが」

 

 低く良く通る声で、巨漢の死喰い人が呟く。

 続けて彼が杖を振ると、地面に魔法陣が刻まれる。異音と共に現れたのは、三人の死喰い人。吼え、牙を剥いて爪を振りかざしていることから狼男と思われる。グレイバックの眷属だろうか。

 巨漢の死喰い人が、ブロンドの短髪を揺らして指示を出すと、三人の死喰い人が一斉に飛び出す。まるで風のように三方から襲いかかる男たちを相手に、ハリーは一瞬思考を巡らせて即座に行動に移した。

 まず左側。一番小柄な狼男に向かって、あえて飛び出して距離を詰める。驚いた小柄な狼男の隙を突き、ハリーは杖から槍を出現させて男の鎖骨を貫き、内臓にまでダメージを与える。

 悲鳴を上げる男から槍を抜きとると、強化された足で右に向かって思い切り回し蹴りを叩き込んだ。わざわざ頭を蹴り飛ばしたために、彼は回転しながら飛んでゆくこととなる。鮮血を撒き散らして残り二人の視界を塞ぐという重要な役目だ。

 

「ドゥーベが!?」

「よくも!」

 

 残りの二人が叫んだ声によって、位置はバレバレである。

 素早く失神呪文を叩き込んで、一瞬で三人の戦闘力を奪い去る。しかしこの三人は最初から当てにされていなかったらしい。自身の肩を押さえて呻くドゥーべと呼ばれた狼男の肉体が一瞬、風船のように膨らんだかと思えばカエルのような悲鳴と共に爆散した。

 血や内臓が飛び散り、ハリーが苦虫をかみつぶしたような顔をする。同じ手を使われた。彼らは囮どころか、目くらましのための煙幕程度にしか使われていなかったのだ。

 

「『アバダケダブラ』ァ!」

「『エクスペクト・パトローナム』! ぼくを護って!」

 

 ずぎゃぎゃぎゃ、と凄まじい金属音と共に、緑色の魔力反応光が大量にばら撒かれた。

 ハリーの眼前に現れた蛇の尾を持つ雌雄同体の大鹿がその身を盾にして守ってくれなければ、いまごろは物言わぬ死体となっていたことは間違いない。この守護霊に造形も改めて見れば思うところはあるが、今は何も言うまい。

 まるで悪夢のような光景だ。一瞬触れただけで命を失う悪魔の魔法を自分に向かって連射されているなど、冗談ではない。なによりあの魔法は、どう考えても異常なほどに消費魔力が多いはずだ。それを連射するなど、もはや狂気の沙汰である。

 恐らく単純な戦闘力で言えば、ヴォルデモートに次ぐ実力を持っているだろう。

 まったくもって冗談ではない。

 

「『アニムス・トニトルス』! もっと速く!」

 

 ごっそりと魔力を持っていかれる感覚。

 それと引き換えに、まるで背中からジェット噴射でもしているかのような感覚で走ることが可能となった。一般の死喰い人からは、もはや青白い光としか見えていないだろうハリーは地面を蹴って爆散させると同時、その場から消えた。

 次々と撃ち込まれる緑の閃光、その隙間を体操選手のように縫って走り、一瞬で巨漢死喰い人の眼前へと迫る。ここまでのスピードを得たならば魔力を練って魔法を放つよりも、直接殴りつけた方が速いと判断。

 すこし目を見開いた巨漢死喰い人の顔面に向けて、ハリーは右脚を蹴りあげる。

 それは避ける事の叶わない超高速の一撃。そうなればやはり、ハリーの目論見通りに、彼の頭部が砕け散った。

 

「―――ッ!」

 

 改めてその破片をよく見てみれば、黒い霧と化しているではないか。

 動揺が走ると同時、焦燥が膨らんだ。

 まさかと思う間もなく、ハリーは急いでその場から離れる。目指すはセドリックのもと。彼は失神しているだけだ、連れていかなければならない。

 脱兎の如くハリーは駆ける。

 青白い軌跡を残して疾駆するハリーはしかし、右脚から感じた激痛を感じた。それを無視して駆け続けようとしたものの、右足を踏み外して倒れ込んでしまう。

 無様に地面へ転がって泥まみれになったハリーは、向かっていたセドリックの身体にぶつかってその勢いを止める。

 何が起きたのかと驚いて、ぐるぐる渦巻く視界の中で自身の右脚を見下ろす。

 

「……ッ、ぁ……ぐ――」

 

 なかった。

 右脚が、なかった。

 それに気づけばあとはもう、激痛に支配されるのみだった。

 くぐもった悲鳴を漏らしてしまう。痛い。熱い。足が斬り落とされた程度で走れなくなるとは思わなかった。人体の反応を舐めていた。

 だが遥か後方に転がる膝から下の右脚があれば、一時的にくっつけることもできただろう。

 その考えに至ったハリーは、杖を振り上げて自身の右脚に向けて、

 

「『アクシオ』! ぼくの右脚よ――」

「『コンフリンゴ』」

 

 魔力を練るその前に。自分の右脚が爆散したのを見た。

 巨漢の死喰い人が、にやりと笑んでいる。奴がやったのだ。

 セドリックの元へ辿り着くことはできた。できたが――あんまりではないか。

 

「『エクスペリアームス』」

 

 巨漢が放った武装解除呪文は、ハリーの左胸に直撃する。電気が流れたようにびくんと揺れたハリーの手から、杖が後方に飛ばされた。

 これでもう、優勝杯を呼び寄せることもできない。

 先程ヴォルデモートとの戦闘で杖なしの魔法を行使するための理論はなんとなく理解したものの、しかし今の精神状態で意識して『呼び寄せ呪文』を扱えるほど熟達したわけではない。

 下手に希望を掴みかけたために、ハリーの目尻から一筋の雫が流れる。

 両親に認めてもらったのに。

 兄と初めて会えたというのに。

 こんなところで死ぬなど、耐えられない。

 

「だがここで死ぬのだ。残念だったな、人形」

 

 巨漢の死喰い人が、嘲って言う。

 そのやり取りの間に、ハリー達の周囲には死喰い人が集まって来ていた。

 ぼろぼろと涙を流すハリーに向かって、巨漢は杖を向ける。

 これで終わりなのか。

 こんなところで。

 

「死んで、たまるか……!」

「哀れだな。『ステュー、」

 

 しかし。

 死喰い人が失神呪文を放つよりも早く。

 ハリーのすぐ後ろから、よく通るはっきりとした声が響いた。

 

「『エクスペリアームス』!」

「ッ、が……ァ!?」

 

 紅い閃光をその腹に受けた巨漢が、有象無象の死喰い人たちを薙ぎ倒しながら大きく吹き飛ばされてしまう。

 その呪文を放ったのは、ハリーを後ろから抱き寄せる青年。

 ハリーが倒れ込んだ、セドリック・ディゴリーその人だ。

 

「僕のハリーに、手荒な真似は許せないな!」

「セドリック!」

「ごめんよハリー、遅くなった!」

 

 険しい顔をしたセドリックは、上体を起した体勢のまま杖を振る。

 すると二人を中心にして、突風が巻き起こった。

 ハリーを囲むようにして集まっていた死喰い人たちが大きく姿勢を崩される中、何人かの死喰い人が怒って様々な呪文を放ってくる。

 そのうちの一つが近くの地面に着弾したために飛び散る砂利から守るため、セドリックは更にハリーを抱き寄せ、自身が上に覆いかぶさってその盾になった。

 とても驚いていると同時に、なんとも嬉しい感覚がハリーの心を覆う。

 柔らかく笑ったハリーは、セドリックに向かって叫んだ。

 

「セドリック! 優勝杯が移動キーなんだ! あれを『呼び寄せ』してくれ!」

「……! なるほど!」

 

 ハリーの叫びに応じて、数メートル先に転がる優勝杯に向けてセドリックが杖を向ける。

 あれはハリーの杖だ。武装解除された杖を、彼が拾い上げたのだろう。

 吹き飛ばされた巨漢の怒りの声や、ルシウスの叫び声。マクネアや狼男たちの吼える声が響く中、ハリーは自身を包み込むように覆いかぶさる青年の声を聞いて安堵した。

 

「『アクシオ』、優勝杯!」

 

 これで、帰れるのだ。

 セドリックの手に跳んできた優勝杯を彼が掴むと同時、ハリーは自分のへその裏側を引っ張られる感覚を得る。移動キーが作動したのだ。

 周囲の景色がぐるぐると回転し始め、ルシウスが苦し紛れに放った失神呪文が、ハリーの腹を貫通して地面に着弾した。もう物理的にも、魔法的にもハリー達に干渉する術はない。

 ハリーは自分の額に、セドリックの唇を感じた。

 このときばかりは、許してやろう。とても気分がいい。

 帰れる。

 ホグワーツへ、帰れる。

 ぼくらは、ぼくらの大切な家へ帰れるのだ!

 

「ハリエット」

 

 しかし。 

 能面のように平坦な声が、それを遮る。

 ハリーとセドリックの目と鼻の先に突き出されたのは、ヴォルデモートの顔。

 驚愕と恐怖によって固まる二人に、彼はただ呟く。

 先程までのハイテンションな様子と違い、まったく感情を見せない彼の凪いだ感情が、恐ろしかった。ただひたすらに怖かった。

 

「ハリエット……」

 

 無表情のまま、ぐるぐる回る景色の中、空間を転移する二人の前で。

 

「ざまあみろ」

 

 なんの感情も見せないまま、ヴォルデモートはそう言い放った。

 ぐるりと反転した景色と共にその青白い顔も消えてゆく。

 消えてゆく。墓場も、死喰い人も、闇の帝王も。

 みんなみんな、消えていった。

 

 

 ハリーとセドリックの身体が、地面にたたきつけられた。

 移動キーによって空間転移している間、ハリーは目をきつく閉じていた。

 右脚の痛みもある。しかしそれ以上に、ヴォルデモートへの恐怖が全身を支配していた。

 自分の体の上に覆いかぶさるセドリックの体温がなければ、怖さのあまり叫んでいただろう。

 

「―――、……!」

 

 だが帰ってきたのだ。

 ホグワーツに。ぼくたちの、家に。

 

「……、リー! ハリー!」

 

 どうやら耳がおかしくなってしまったらしい。

 周囲からなにやら叫んでいる声がしているというのに、その内容が聞き取れない。

 移動キーの原理を知らない以上、こういうこともあるのだろう。おそらく車酔いと似たものかもしれない。

 

「ハリー! ハリーッ!」

 

 間近でハリーの名を叫び、肩に手を置いてくるのはきっとダンブルドアだ。

 そうだ、ヴォルデモートだ。

 奴のことを報告しなければならない。

 ハリーはセドリックの身体に腕を回し、どいてもらうことにした。

 セドリックをどかしたハリーは、うまく見えない目を開いて口を開く。

 

「先生。ダンブルドア先生。ヴォルデモートが、……やつが、復、……」

 

 闇の帝王が復活した。

 それを言いたかっただけなのに。

 ハリーは自分の左の視界が真っ赤に染まって、ろくに顔も見えない事に気がついた。

 血でも入っただろうかと思ったハリーは、左手で左目を擦ろうとする。

 しかしその手は既に真っ赤だった。

 

「、……」

 

 おかしい。

 自分の右脚は確かに失われており、いまも出血しているのが分かる。

 だが、いま真っ赤な血に濡れているものは、なんだ?

 左手だ。

 

「――、」

 

 そもそもハリーは非力だ。

 待て、一般的な十四歳の少女よりも腕力のないハリーに。

 そんな非力なハリーに。

 十六歳の青年の体重を、動かすことなどできるのか。

 

「――――、ぁ」

 

 気付きたくない。

 気付きたくなかった。

 

「――うそ、だ……。そんなのって……」

 

 ではなんだ?

 この血は、なんだ?

 この血は一体、この血は、この……、―――。

 

「うそだ……ッ! だめ、だめだ……! 嘘だ、だめ、だめだよ……いや、いやだ……」

 

 この、()()()()()()()()()()()()()()というのだ。

 

「い、イヤ……いや……! 信じない、そんなの、いや、いやぁ……!」

「落ちつくのじゃ、落ちつくのじゃ、ハリー! 気を確かに持つんじゃ!」

 

 ダンブルドアの声も耳に入らない。

 ハリーは。

 自分の血まみれの手の先。

 

「イヤァァァあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――――――――――ッッッ!」

 

 微笑んだまま事切れたセドリックの顔を前に、絶叫した。

 

 




【変更点】
・死喰い人増量。
・お辞儀を強化蘇生。原作と違って妥協なし。
・主人公はハリー・ポッターではなくハリエット・ポッター。

【オリジナルスペル】
「アニムス・トニトルス、雷速の脚を」(初出・49話)
・身体強化呪文。脚力に集中させ、速度特化の肉体強化を施す魔法。
既存の魔法を元に、ハリエット・ポッターが発展させた魔法。魔力消費が激しい。


さて、この話はいままでの伏線を拾いに拾って煮詰めたような話です。ハリーの正体がハリエット人形であるというのは、一番最初の段階から考えていたことでした。赤ん坊ハリーの魂を流用されているということで、一応ハリー・ポッターではあるというだけでした。
この話を公開するのはいささか不安もありますが、悔いも後悔もないです。この物語はHarry Must Die、ハードモードなのです。これからもハリエットちゃんの頑張りを見守っていただければ幸いです。
次でゴブレット編はラスト。おじいちゃんによる様々な説明回。

そして今日7月31日は、ハリー・ポッターの誕生日です。ハリエットちゃんが生まれた日でもあるよ。
お誕生日おめでとうハリー!

※だいぶ間違いがあったので訂正。

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