ハリー・ポッター -Harry Must Die-   作:リョース

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7.オリバー・ウッド

 ハリーは朝食の時間に、ドーナツを舐めていた。

 ブラックが女子寮に侵入した、あの恐ろしい夜。

 あれから、一週間が経った。あの時はひどく取り乱したが、今では平常心まで回復している。

 夜の暗闇に、またあの黒い目とヒゲが浮かび上がらないかと恐ろしくなってしまったので、いつかの時と同じようにハーマイオニーに一緒に寝てもらうことになっているものの、日常生活で唐突に動悸が激しくなるようなことは無かった。

 マダム・ポンフリーが安堵していたように、ハリーの心に傷が入ってしまい、トラウマになって男性恐怖症になる恐れもあったとのことだったのでハリーは心の根っこの部分では強い方のようだった。

 そしてハリーは、少しだけ変わっていた。

 以前までは時々、鬱陶しいからブラをつけないなどで、ハーマイオニーに注意されていた。

 今はそれがない。

 髪も自分で梳くようになったし、風呂上りにワイルドな格好もしない。

 ハーマイオニーが思うに、今までいろんな人に男の子扱いされていたから意識が薄かったものが、今回のことで子供から女性になりつつあることを自覚したのだろうとのことだった。

 

 んで、ドーナツが美味しい。

 昨晩は、ロンとハーマイオニーの喧嘩の影響なのかは知らないが、ペチュニアが好きなアニメ映画の夢を見たのだ。

 最近は怖い目に遭ってしまったことだし、たまには何も考えない行動をしてもいいのではないかと思ったハリーは、朝からミートソース・スパゲティを食べるのは胃に重いので、コーヒーとドーナツを注文した。

 すると即座に机に湧いて出た。湯気を立てるブラウンのコーヒーに、甘いドーナツ。

 コーヒーにちゃぷんとドーナツを漬けて食べてみると……、……微妙であった。

 やっぱりアニメはアニメかぁ、と肩を落としてもそもそドーナツを食べていたとき。

 上空から小包みが落とされてきて、コーヒーのマグカップを叩き割った。

 ああ、郵便の時間かと思いながら、ハリーの熱い黒い液体を頭からかぶったパーシーに清掃呪文をかけながらハーマイオニーが日刊預言者新聞を開くのを横目に見る。

 さて自分の荷物はなんだろうと目をやったところで、はたと嫌な予感がした。

 この小包みの形。一年生の時にも見たような気がする。

 

「は、ハリー。それ」

「その包みの形、ひょっとして……」

 

 ネビルとシェーマスが厳かに言う。

 確かに男の子にとっては垂涎ものかもしれない。

 この細長い包みは、明らかに箒そのものだ。うん間違いない。

 そして近年の競技用箒デザインで最も顕著なのは、まるでオートバイのように取り付けられた足置きの金具。包みの形から、それの存在がわかる。

 ハリーも少しドキドキしながら、包みを開く。

 ひょっとしてこれは……Fから始まってTで終わるあの箒なのでは……?

 ファイアーなかんじでボルトっちゃうのでは?

 もしかしてもしかしちゃうのでは!?

 

「わぁ、ニンバス二〇〇〇だ!」

 

 ……。

 …………。

 

「わぁい、ニンバス二〇〇〇だ! 嬉しいなあ!」

 

 …………。

 ……いや、わがまま言っちゃいけない。

 ニンバス二〇〇〇だって、とんでもなく高性能な箒なのだ。

 この近未来的な要素を取り入れつつ、古き良き箒の面影を残したデザインとかわぁいハリーニンバス大好きマジニンバス好き。ほんとうれしいなぁ。

 ただ、なにぶんファイアボルトが凄すぎるだけなのだ。

 あんなプロ仕様の箒を使ってしまったら、性能差だけで勝負がついてしまうだろう。

 ハリーとしては、そんなものはスポーツとして楽しくないと思うのだ。ロンやシェーマス曰く、その圧倒的性能がいいんじゃないかとのことだったが、男の子のそういう感性はよくわからない。わからないのだ。だから別にファイアボルトなんて欲しくないのだ。

 それにブレた変顔のアップでラストシーンを飾りそうな未来が見えてしまった。女としてそれは、なんていうか絶対どうしても嫌だ。

 

「やったじゃないか。ファイ……もといニンバス二〇〇〇なんて高級箒だぜ!」

「お、おう」

「そうさハリー! ファイアボル……とっても素敵な箒なんだよファ……イアボルトって!」

「せやね」

 

 周囲の気遣わしげな声がハリーの心に突き刺さる。

 ぼくったらそんなにひどい顔をしているのかな。いやまぁ、確かにファイアボルトなんじゃないか? と思ってわくわくはしたよ。でもさ、ニンバス二〇〇〇だって素敵な箒ってことはわかってるよ。分かってるんだけど、こう、なんて言えばいいんだろう。「ローン今日はステーキよー」「わーい国産一〇〇パーセントビーフだねーやったーおおっと実物見てみれば豆腐ハンバーグステーキ内訳豆腐九割じゃないかーこいつぁ一本取られたぁっていうか何故に日本食だよマーリンの耳毛ぇ」みたいな感じかな。いやニンバス二〇〇〇だって悪い箒じゃないんだってば。ただ今は二〇〇二もでてるし、型落ちかなぁと思ったりもしないけどほら、柄の曲がりっぷりとかイカしてるじゃないかカッコいいじゃないか見ろよニンバス二〇〇〇だぜ最高級品なんだすっごく速いんだぜ。

 

「おいハリー、戻ってこい!」

「ヤバいぞこれ。嬉しいのに嬉しくないっていう、意味不明な感情で頭がショートしてる!」

「しっかりしろハリー! こいつがあれば明日のクィディッチの試合は大丈夫だと思えよ。そうしたらまだ意識がはっきりするはずだ」

「ウッド、ハリーは君じゃないんだからその理論は無茶だ」

 

 ウッドの気の利かない一言を聞いて、ハリーは胃の中に冷たい鉄の塊を押し込まれたような気分になった。そう。明日、明日はクィディッチの試合である。

 初回の試合で吸魂鬼に襲われ、以降は学校の箒や友人の箒を借りての参戦となったクィディッチ。

 箒の性能がよくなかったと言い訳をしたくはないが、そのどれもが厳しい成績での終わりとなった。それでも絶望的な点差にならなかったのは、ウッドによってドーピングでもされたかのように、チェイサー連中が頑張ったのだ。時には相手がスニッチを捕ってもこちらが勝つほどの点差を付けたことすらあった。

 シーカーたるハリーは、吸魂鬼がピッチの外周をふわふわと漂う姿を見かけるだけで気分が悪くなってしまうのだ。

 一時期は代理のシーカーを探すよう願い出て、シーカー代理を探してみたのだが、それでも性能の低い箒にまたがった調子の悪いハリーよりも優れた乗り手がいなかったというオチがある。

 

「とにかく、その箒を使って明日は二〇〇点差をつけて勝つんだ」

「に、にひゃく……要するに五〇点差の状態で勝たないといけないわけか。おいハリー、大丈夫なのかよ。いや冗談抜きでさ。大丈夫か?」

「まあ、その点差をつけるのはアンジェリーナたちだから……。彼女らが過労死しないよう願うことしかできないな」

 

 今朝から三人娘の姿は見えない。

 きっと明日に備えてたっぷり体力を養っているのだろう。そうでなければ冗談でなくウッドに殺されてしまいそうな気がする。

 クィディッチ馬鹿で暑苦しくてクィディッチ馬鹿でクィディッチ馬鹿なウッドを、最後の年くらいは優勝させてやりたい。グリフィンドール・チームの面々は彼から迷惑もいっぱい被ったが、それと同じくらい恩を受けている。

 箒の扱いをアドバイスしてくれたり、練習を見てくれたり。なにより自分たちがここまでの力を得ることができたのは、チームに入って一番最初に施された彼の指導によるところが大きい。

 ウッドは名監督にはなれないかもしれない。だが、名選手であり、名リーダーなのだ。

 

「勝とうぜ、ハリー」

「……ああ」

 

 だから、勝たせてやりたい。

 嬉しさのあまりウッドを泣かせてやりたいのだ。

 明日の試合は、最後の試合。そして伝統の優勝カップ争いの対戦カードでもある。

 相手は、――スリザリンだ。

 

 ハリーは緊張と苛立ちで暴れる胸を押さえていた。

 試合当日。そして試合開始まで残り、十五分。

 ウィーズリーの双子と共に、ハリーたちは着替えるために紅色のクィディッチローブを抱えてグリフィンドール・クィディッチチームの控室へと入っていった。

 実のところ、ハリーの箒は未だに手元にない。

 あのあとハーマイオニーを引き連れたマクゴナガルがやってきて、ニンバス二〇〇〇を調べると言って持って行ってしまったのだ。ハーマイオニーの言によると、あの箒を送ってきたのはシリウス・ブラックである可能性が高いとのこと。

 流石の暴挙に男性陣が激怒。ただでさえクルックシャンクスとスキャバーズの件で孤立気味になっていたハーマイオニーを、そろって糾弾し始めた。

 ハーマイオニーの言い分としては、ハリーを殺害しようとしているシリウス・ブラックが箒に呪いをかけて、死に至らしめようとしている可能性がわずかにでもある限り見逃すことも妥協することもしない。

 男性陣の勢いに多少怯えながらも、それでもハッキリとハーマイオニーは言い放った。

 すべてハリーのための行動なのだ。

 もちろんのこと、ハリーとてショックではあった。しかしそれでいて、寮の中――それも女子寮にまでシリウス・ブラックが侵入してきたことを考えると、当然の処置でもある。あの時場に居たのがハリーだけだった場合、どんな目に遭わされるかなど想像もしたくなかった。寝間着で、無防備な姿を晒していたのだ。女として死よりも辛い目に遭う可能性すらあった事を考えると、今年に入るまであまり性別というものを意識していなかったこともあってひどく寒気がする。

 ならば仕方ないかとばかりに、泣く泣くニンバス二〇〇〇を差し出したのだった。 

 ……いい加減、現実に目を向けねばなるまい。ハリーの目の前では、ウッドが髪を振り乱し、泡を口の端から垂らし、血走った目と歯をむき出しにした口で、舌を突き出しながら叫んでいた。

 なんだこいつ新手の魔法生物か?

 

「クィディッチダ! 今日コソ優勝ヲ決メル最後ノチャンスダ! ウオオオオオオッ!」

「どうしたのよウッドの奴……ついに狂ったのかしら……?」

「仕方ないわよ。今回で二〇〇点以上の点数差をつけて勝てなければ、優勝杯が逃げていくんだもの。逆に言えば死に物狂いで成し遂げれば、優勝できる、ほんとうにギリギリのライン。冷静じゃいられないんでしょうよ」

 

 アリシアとケイティが呆れる前で、ウッドは制服のシャツをばりばりと胸筋のみで破って脱ぎ捨てた。暑苦しい筋肉美が現れ、あまりの熱に湯気を発生させている。

 グリフィンドール控室に入ってきたハリーとウィーズリー兄弟が唖然としている前で、なおもクレイジークィディッチマンは雄たけびをあげる。

 

「アオオオオオオアアアアア! フレッドジョージハリー早ク着替エロオオオ! 何ナラ俺ガ着替エサセテヤルゾオオオオオオオオッ! ギャオスアジャパアアアアハアアアアア!」

「うわああああああああ! やめろウッドマジでやめろブラウスが裂けるマジで脱げる脱げちゃう脱げちゃう今年こんなんばっかだぁぁぁ嫌だぁぁぁあああっ!」

「馬鹿やめろウッド! そりゃセクハラじゃ済まねえぞやめろ馬鹿!」

「冗談じゃすまねぇよマジでやめろ! 洒落んならねぇよ落ち着け!」

「ナラオ前ラダフレッドジョージ! ハリアップ着替エルンダファッキンビータードモォ!」

「「ぐわああああああああ! 俺らがパンイチにされちまったァァァ!」」

 

 まるで乱暴された後のように衣服の乱れたハリーは、白い肩が見えた状態のまま既にクィディッチローブに着替えたアンジェリーナに連れられて更衣室へと逃げ込んだ。

 ブラックの時のように恐怖こそしなかったものの物凄くびっくりして呆然としていたハリーは、アンジェリーナに頭を撫でられて幾分か落ち着いた後、ようやくクィディッチローブに着替えることに成功した。

 更衣室から出ると、ウッドがタコ殴りにされて簀巻きにされていた。

 女性陣に向かってジャパニーズ土下座を繰り出している。

 ハリーはそれを無視した。

 

「あと五分で試合開始だぜ……」

「セドリック・ディゴリーがハリーに箒を貸してくれるつもりだったのに、ハッフルパフの連中に必死で止められたみたいからなあ」

「まぁ、そりゃそうだろうね。この試合でグリフィンドールが負ければ、ハッフルパフは自動的に二位に繰り上がるんだからさ」

「好青年セドリックくんのスポーツマンシップは味方にも牙を剥いたのであったぁ~。そして僕たちにぬか喜びという爪も残していったのだぁ」

「あと四分……」

 

 ピッチでは既に、スリザリン寮からのものらしき野次と歓声が響いている。どうやら向こうのチームは早くもピッチに躍り出ているようだ。

 スリザリンのクィディッチチームは、謹慎の解けたドラコ・マルフォイを迎え直してさらに力をつけている。具体的には三位のグリフィンドールと二〇〇点差以上つける力を。

 不安のあまりウッドが危ない動きをし始めた頃になって、控え室にマクゴナガル先生が飛び込んでくる。ウッドが雄叫びと共に抱きついた。マクゴナガルが投げ飛ばした。

 控え室の床をごろごろ転がっていくウッドをチーム全員が無視して、マクゴナガルに続いて箒を抱えて持ってきたハーマイオニーとロンを暖かく迎え入れる。

 

「ハリー、どこにも異常はなかったわ。ごめんなさいこんなことして」

「いいんだハーマイオニー。……いやまぁ、悲しかったけど。ぼくのためにやったことだってわかってたからさ。ありがとうハーマイオニー」

 

 ハリーはハーマイオニーから紅色の布で包まれた箒を受け取ると、二人を抱きしめて交互に頬へキスをする。

 二人に笑顔を向けた途端、ピッチから笛が聞こえてきた。マダム・フーチからの催促だ。

 吼えたウッドが箒に乗らず振り回しながらピッチへ走り去り、三人娘が次々とハリーの肩を叩きながら箒にまたがり、ピッチへ出てゆく。フレッドとジョージがハリーの背中をばしんと同時に叩き、曲芸のような動きで箒に飛び乗ると、同時にピッチへ出て行った。

 

「ハーマイオニー、ロン。勝ってくるよ」

 

 そう言い残し、ハリーは箒に乗って飛び去る。

 垂れ幕を抜けてクィディッチピッチに出れば、やはり観客席は満員だった。

 異様なほどの熱気に包まれて、春も中ごろだというのにとてつもない暑さだった。

 

「ホォォォアアアアアアアッ! オッホー! ホォウホォウ、ホォォォ――――ッ! あびゃぁぁぁ勝ァつぞォォォ! 我々の勝利だァァァ! 見える、見えるぞォ! 優勝カップがァァァ――ッ! やったー勝ったー! わーいわーいバンザーイ!」

「ウッド! はやく箒に乗りなさい! 吼えてないで早く!」

 

 ピッチの芝生の上を走り回る狂った男を遠巻きに見なかったことにして、ハリーは目の前に浮かぶ男を見る。

 冷たい目つき、にやりと笑った口元、風に揺れるプラチナブロンド。

 グレーの瞳を細めて、ドラコはハリーを眺める。

 ドラコは何も言ってこないし、ハリーとしても何も言うことはない。

 プレーで見せるのみだが、それ以上に目を通して何が言いたいか分かる。

 あれだけ挑発的に見られれば、むしろわからない方がおかしい。

 そう、勝つのは自分だと。

 両者ともにそう言っているのだ。

 

「両キャプテン、礼! 正々堂々と勝負してください!」

「ウォォォオオ――――ッ! 僕が勝ァつ!」

「ウッドおまえマジやばいぜ! 最高だぜ!」

 

 ドン引きしながらも嬉しそうに笑うフリントを相手に、ウッドは吼える。

 選手全員がスタートポジションについて、フーチ先生が笛を鳴らす。

 試合開始だ。

 

「そらっ! もらったぁ!」

「ああっ!」

 

 宙高く放り投げられたクアッフルを最初に奪い取ったのは、アンジェリーナだ。

 スリザリン選手の男の子が悔しげな声を漏らす。

 ん? いや待て、あれはスコーピウスか。あいつ、チェイサーになったのか。

 縫うように飛びまわるアンジェリーナを止めようと、クライルが強烈な一撃をブラッジャーに叩き込む。その剛腕から繰り出されたスピードは、ウィーズリーズが二人で打った時並みのスピードが出ていた。片手打ちでこれなのだから、両手で打たれたものに当たれば怪我は必須だろう。

 しかし見える範囲で打たれたため、アンジェリーナはその攻撃を悠々と避けるどころか、スリザリンチームの選手を盾にする形で回避に成功する。

 スリザリン選手の誰かが芝生の上に叩きつけられるのを尻目に、アンジェリーナはクアッフルをゴールへ撃ち込んだ。キーパーが箒ではじく。が、はじいた先には既にアンジェリーナが躍り出ていて三つあるうちの、一番遠いゴールへクアッフルを蹴り込んだ。

 

「よし!」

 

 先取点である。

 二〇〇点差をつけて勝たなければ、グリフィンドールに優勝の輝きはない。

 つまり五〇点差がついた時点でハリーがスニッチをキャッチしなければならないのだ。

 相手がワンゴールでもしようものならば途端に厳しくなる。

 チームのみんなは、後先考えずに開始時からフルスロットルで試合に臨んでいる。体力の温存など考えていない。五〇点差をつければ、あとは獅子のエース。ハリー・ポッターが必ず、蛇の鼻先から黄金の鳥を奪い取ると信じているからだ。

 スリザリンボール。

 チェイサーのマーカス・フリントが鬼気迫る顔でクアッフルを抱えたまま、一直線にグリフィンドールのゴールまで突っ走ってゆく。

 

「格好の的だぜ、フリントくん!」

 

 その直線上に躍り出たウィーズリーズのどちらか(挑発的な物言いから恐らくフレッド)が、自分に飛んでくるよう誘導したブラッジャーをフリント目掛けて撃ち込んだ。

 暴れ玉は狙い違わずフリントの左肩に直撃するものの、多少バランスを崩しはしたものの止まることすらせずに、一直線にウッドのもとへ飛んでいく。ウィーズリーズの片割れが驚いた隙をついて、フリントに追随したクライルが体当たりで撥ね飛ばす。

 グリフィンドールのゴール前までやってきたフリントが、振りかぶって剛速球を投げる。真っ赤な軌跡はウッドに真っ直ぐ突進し、吼えたウッドが拳でクアッフルを弾き飛ばした。

 先のアンジェリーナと同じ動きで弾かれたクアッフルの方には、既にフリントがスタンバイしている。驚くべきことに縦回転して遠心力を用いて柄の部分でクアッフルを打ち込む。ウッドも両手を使ってセーブしようと試みるものの、彼の握力をすり抜けてゴールへと突き刺さった。

 

「ッハァー! ハッハーァ!」

 

 悔しげに唸るウッドに向けて、フリントが挑発的に叫んだ。

 両者とも七年生で、今年度が最後。二人ともプロチーム入りは決まっているものの、この七年間を優勝カップを巡って争い合った不倶戴天の敵にしてかけがえのない好敵手だ。

 今までの六年間は全てフリントの勝利。

 最後の一勝を上にそびえ立つ強者が手に入れて笑うか、追いかける敗者が掠め取って逆転するか。

 それがこのラストクィディッチにかかっている。

 青春などの代名詞にされるが、スポーツというものは総じて残酷なものだ。生まれ持った才能がほとんど結果に直結する場合が九割と言ってもいい。その一割という針の穴のように狭き門を狙って、才能を持たないスポーツマンたちは勝利の女神を掻っ攫ってモノにする勢いで争い合っているのだ。

 特にクィディッチのようなスポーツはそれが顕著である。

 まずもって性別。よほどの例外がない限り、男に有利なスポーツである。

 ここ三年間のグリフィンドールチームは男女比率が同じという珍しいチームとなっていたが、それはハリーやアンジェリーナたちが相手選手に掴まらないほどすばしっこく狡猾な飛行が得意だからだ。

 特にハリーはそれが顕著で、昨年の暴走ブラッジャー以外にはプレイヤーからの攻撃を食らったことは一度もない。チェイサーというもっとも相手選手と体がぶつかり合うことの多いポジションは、ビーターと同じくらい屈強な肉体が求められる。一方アンジェリーナたち獅子寮三人娘は、防御の一切を捨ててスピード一極でゴールを狙うという、あまりにも極端な選手なのである。

 一方スリザリンはがっしりした体格のパワー溢れる男性選手を重要視する傾向がある。クィディッチのセオリー通り、押して押して弾き飛ばすというスタイルだ。チェイサーが体当たりしてこようがビクともせず、ブラッジャーが当たろうが無視して突き進む。今年度はグレセント・クライルという恵まれ過ぎた筋肉を纏うマーリンの贈り物を持つ従来通りの選手と、スコーピウス・マルフォイというスピード重視の選手も迎えて、パワーで押さえつつもスピードで出し抜くというプロチームですら採用するチームメンバーに整えてきている。

 それだけ優勝にかける熱意がたっぷりとあり、負けられない戦いがある。

 両キャプテンの熱は最高潮に高まっているのだ。

 

「ゆくぞフリントォォォ! 今年こそは僕が、僕たちが勝つ! 勝ァつ!」

「もっと吼えろウッド! そいつが俺たちへの勝利のファンファーレだ!」

 

 上空から見下ろすピッチには、何時にもまして縦横無尽に飛び回る選手たちが見える。

 クアッフルがひとところに留まる瞬間などない。いつも誰かが持っており、チェイサーたちが思い思いの技を駆使してゴールへ突き刺そうとしている。

 ビーターたちとて負けてはいない。

 まるでブラッジャーを使ってキャッチボールでもしているかのように、滅茶苦茶な打ち合いを繰り広げている。ハリーは、ビーターが折れたクラブを放り投げてブラッジャーに当てるなんて芸当を見たのは初めてだ。

 二本目のクラブをベルトから引き抜いて、フレッドはその場で回転すると同時にブラッジャーを打つ。それは狙い違わずスリザリンのキーパーに命中してブロックを邪魔する。遠心力を利用した技が多いのは、箒という小回りの利くものに乗っているが故のクィディッチの特徴である。

 獅子寮が九〇点。蛇寮が三〇点。現在の点差は六〇点だ。

 つまり、いまスニッチを捕れば勝てる。

 

『スリザリンのボール選手がブラッジャーを打った! あいたっ! ケイティ選手に直撃! クアッフルを取り落して――やった! よく拾い上げたアンジェリーナ! そしてそのままゴォォ――、ル、成らず! スリザリンキーパーのマイルズ・ブレッチリーが《なまけもの型グリップ・ロール》で受け止めました! チッ、残念。……あっ、すみません真面目に実況します。スリザリンボールで再開。ブレッチリー選手がクアッフルを放り投げ、おいおい嘘だろう! ピッチの半分以上をすっ飛ばす驚くべき剛腕! そのままフリント選手がクアッフルを受け取り、うえっ!? 自分ごと突っ込んだ!? い、いや違う、《逆パス》だ――ッ! ゴォォォール! スリザリン十点追加ァ! ウソだろあいつプロかァ!? すっげぇ!』

 

 即座に点差が引き戻された。

 これで五〇点差。猶予がない。はやくスニッチを見つけて、獲らなければ。

 焦燥に駆られて上空からピッチを見渡すと、ふと緑色の軌跡が見えた。

 ドラコが急激にピッチの東へとすっ飛んで行った。螺旋状に回転しながら方向転換する《イレギュラーターン》を用いて、コメット三六〇の上限速度まで達するとコルク栓が吹っ飛ぶような唐突さで行動を開始したのだ。

 自分の身体が箒から吹っ飛ぶほどの危険技を用いたのだ、何かあるに違いない。

 すわスニッチを見つけたかと追いかけたところで、ドラコの前には金色の輝きがないことがわかる。ここでハリーはドラコの姦計に引っかかったことを自覚すると同時、脇腹への衝撃に吹き飛ばされた。

 ブラッジャーだ。クラブを振り抜いた体勢のクライルが見える。ハリーの小さな体はニンバス二〇〇〇から振り落とされるも、掴み続けていた左手のみで鉄棒で逆上がりするかのような動きをして姿勢を整える。一瞬見失ったドラコを探せば、今度は遥か下方、芝生すれすれの距離を蛇が這うような動きで動いていた。その手の先には今度こそ、黄金の輝きが見える。

 急降下したハリーは、途中すれ違ったウィーズリーズのどちらかにアイコンタクトを送る。近くまで寄ってきて初めてジョージであると判明したが、役割をこなしてくれるならばどちらでもいい。

 ジョージへとハンドサインで指示を出す。

 高速飛行するハリーの真後ろに同行させて、空気抵抗を殺した快適な飛行を提供する。

 

「やれッ、ジョージ!」

 

 ハリーの一声と共に、ジョージがクラブを振りかぶってブラッジャーをドラコに向けてたたき出した。狙い違わず向かっていくのはドラコの背中、真ん中、ジャスト。

 一瞬きらりと光ったフリントの箒の金具で背後を確認したドラコは、シーカーがブラッジャーを避けるときによく使う手である《トルネードグリップ》を使う。大きく螺旋状に飛行することで背後から迫る暴れ玉を避ける技術だ。

 しかしドラコの判断は失敗である。

 撃ち込まれたブラッジャーを追うようにして、そのすぐ後ろをハリーが飛んでいたからだ。

 自ら敵に道を譲った結果となったことに、ドラコが大きく悪態をつく。

 

「う、お、お、おォォォ――――――ッ!」

「さ、せ、る、かァァァ――――――ッ!」

 

 ハリーが雄叫びをあげて右腕を伸ばす。

 そこに突っ込んできたのは、鬼のような形相をしたフリントだ。

 筋肉に包まれた右腕をまっすぐ伸ばし、ハリーの首にラリアットを仕掛ける形で真正面から突進してくる。直角的な動きで避けたスニッチとすれ違い、フリントの攻撃がハリーに迫る。明らかなる反則行為であり、スリザリン応援席から歓声と、グリフィンドール応援席から悲鳴と非難が上がる。

 確かにこの攻撃行動は反則ではある。反則ではあるが、シーカーがスニッチを捕ればその時点で試合が終わるのだ。フリントのこの行動は、人道的にはどうであれ、勝利を渇望する者としては至極正しい。

 しかしフリントは大きな誤算に直面した。

 ニンバス二〇〇〇の最高飛行速度は、並みの箒では追いつけないレベルだ。当然まともな人間ならば、そのような速度を生身で飛んでいるときに不意打ちされれば、ろくな反応はできない。

 だがハリーは、《身体強化呪文》にて高速戦闘下での感覚に慣れているという経験がある。それはスポーツにおいても大きなアドバンテージを得る。

 ゆえに、

 

「な、ァ――!?」

 

 ハリーがニンバス二〇〇〇の上に両足を乗せ、その場で箒から跳ぶというのは予想外の極みであった。

 自殺行為以外の何物でもないその行動に、ピッチ中から爆発のような絶叫があがる。

 しかしハリーの身体は跳びあがると同時に空中で前転しながら、フリントの剛腕を回避。それと同時に、彼の背中に着地してみせた。そしてその背を蹴り飛ばして、ニンバス二〇〇〇に飛びつく。ハリーは多少バランスを崩しながらも飛行を継続した。

 想像の埒外を目の前でやってのけた異常事態に、競技場が歓声で爆発した。

 離れ業というレベルではない。今までのクィディッチでこの技をやってのけた者は、誰もいない。それも当然のこと、こんなことをしでかした選手は、公式記録上ではハリー・ポッターが初なのだ。

 

『何だ今のはァァァアアアア!? フリントの攻撃が外れる! ポッター迫る! 迫る! 迫るッ! スニッチに手が伸びる! 伸びる! 獲るか!? 獲っちまうのか!? ウオオオオオオオすっげぇぇええええええええ!』

 

 ハリーが獰猛な笑みを浮かべる。

 勝利を確信して、白い歯を剥きだしにしてスニッチへと手を伸ばす。

 もはや黄金の球が忙しなく働かせる羽根の動きすら見えるような、極限の興奮状態。

 羽根に触れた。

 どうあっても逃れようとする必死なスニッチの羽根が、ハリーの指先にちりちりと掠る。

 さぁ、ぼくのものになれ!

 心の中でハリーがそう叫んで、身を乗り出した、その時。

 

「――ッ、な――!?」

 

 突如ニンバス二〇〇〇が、がくりと速度を落とした。

 一年生の時クィレルにやられた呪いを思い出して、一瞬だけ身が竦む。

 スニッチは追跡者に隙ができた瞬間を見逃さず、無理矢理に方向転換するとわざわざハリーの手が伸びない方向、下へ向かっていって、その股下をすり抜けて消え去った。

 その様子を目で追っていたハリーは、何故自分の箒が止まったのかを理解する。

 掴まれているからだ。

 ドラコの手によって、箒の尾を捕えられていたのだ。

 

「~~~ッ、ドラコォォォ――ッ! きさま、きさまあっ!」

「くはッ、ははッ! あははは! やらせるかよポッター!」

 

 当然、これは反則。《ブラッギング》だ。

 フーチ先生が激怒しながら、グリフィンドールにペナルティーゴールを与えた。

 実況席でリー・ジョーダンが怒り狂って、卑怯だ卑劣だと罵声を叫んでいる。

 だが反則と卑劣さは、必ずしもイコールではない。

 確かにスポーツマンシップに欠ける行為ではあるが、これもフリントの行動と同じ。

 もし今ドラコが反則を犯していなければ、スリザリンは負けていたのだ。たかだか十点や二〇点程度のペナルティで済むのならば安いもの。

 勝利のために必要な反則なのだ。

 マダム・フーチが笛を吹き鳴らす。試合中断である。

 選手が次々と地面に降り立ち、ハリーのもとへ駆け寄ってくる。心配する者、よくやったと言う者。ウッドに至っては片時も箒から離れたくないのか、宙に浮かんだまま激励を飛ばしてくる。

 フリントとドラコが厳重注意を受けているが、にやにやしたままで全く反省した様子がない。

 

「卑怯だわ! あんな手を使えるだなんて、スリザリンの連中って、欲に負ける弱さしかないのかしら!」

「いや、それは違うな」

 

 激昂するアンジェリーナの言葉を否定したのはウッドだ。

 なぜかと視線を向けてくる副キャプテンに対し、現キャプテンは言う。

 

「確かにフリントらを初め、スリザリンチームに正々堂々という言葉はないだろう。だがそれこそが彼らの強みだ。卑怯ではあるが、弱くはない。いざというときは即座にラフプレーに走れる。躊躇いなく反則ができる。欲に負けたのではない、強欲なんだ。勝利への強欲さ。僕たちにはない強さだ」

「……それの何が強みなの? ただ卑怯なだけなんじゃない? 反則勝ちしたって、そんな勝利は空しいだけよ」

「わかってないなアリシア。この世界はやっぱり、勝者こそが全てなんだよ。僕たちだって、勝つためにはラフプレーをせざるを得ない時もある。例えばクアッフルの取り合い、例えばブラッジャーの打ち合い、例えばゴール前の鬩ぎ合い、例えばスニッチを巡る奪い合い。それら全てにおいて、彼らはどれほど卑怯と罵られようと迷いなく行動に出ることができる。コンマの世界で動く僕たちにとって、その即断即決は脅威以外の何物でもないだろう」

 

 そういうところに、僕たちは六年間負けてきたんだ。

 試合開始直前まで狂っていたとは思えない、悲痛な顔でウッドは呟く。

 認めたくないが、認めざるを得ない。

 卑怯さすら力となる非情なところは、スポーツ世界に共通しているところだ。

 スポーツマンシップは確かに素晴らしい。全員あって然るべきだ。

 だが、それを打ち破るほどに反則を是とする力は強い。強すぎるのだ。

 ならばこちらも反則を繰り出し、相手の顔に泥を塗るつもりで挑まねば勝ち目はない。

 そういうことなのだ。

 だが、しかし。

 それでも。

 

「僕らだけでも、正々堂々やつらに挑みたいじゃないか」

 

 ウッドが屈託のない笑顔で語る。

 彼は三歳の頃、父親の箒を勝手に持ち出して空を飛んでからクィディッチの虜だ。

 クィディッチという魅力的な女性に恋をしている。

 燃え上がるような、選手の人生を焼き尽くすような激しい恋を。

 ならば誠実あるのみ。

 口八丁手八丁で騙して絡め取って心を得るよりも、真摯な態度で囁いて真実の愛を得たいではないか。恋愛(スポーツ)とは、そういうものだ。

 ウッドの演説を今までまともに聞いたことはなかった。

 感情論ばかりであまり実があるものではないし、暑苦しいからだ。

 だがここに至って、最後になると実感してきて、そこでウッドは告白した。

 僕は、僕たちはクィディッチを愛していると。

 

『試合再開です! グリフィンドールボールでプレイ再開! おっと飛び出した! ケイティがクアッフルを抱えて、おお――っとォ、マジかよォ! 《ワスプス・フォーメーション》だ! しかも全員が《スクリューフライト》してるなんて信じられない! お前らのバランス感覚はどうなってんだ! カットしようとするもワリントン近寄れない! 誰も近づけない! そのままゴール目掛けて、シュゥゥゥゥト! 入ったあああああ! グリフィンドール十点追加ァァァ!』

 

 開始直後に点数を奪い取って、ウッドに見せつける。

 お前のチームは頼りなくないぞと。点を取った直後、ウィーズリーズを加えて五人で曲芸飛行をこなしてアピールする。ゴール前でそれを見守っているウッドは、吼えた。

 

「ウォォォオオオオオオオオオオ!」 

『うおーっ! ウッド選手吼えた! 気合が入っています、流石はクレイジークィディッチマンの異名をほしいままにする男! 空飛ぶ獅子の男です!』

 

 上空でその光景を見ていたハリーは、とても胸が熱くなった。

 チームがみんな、一つになってウッドの夢をかなえる手伝いをしている。

 ケイティ・ベルがワリントンのタックルを避け、クアッフルをパスする。ジョージ・ウィーズリーがクライルの放ったブラッジャーを打ちかえして、スコーピウスに当てる。スコーピウスの追跡を逃れたアリシア・スピネットが《スライドターン》でモンタギューのカットを避け、シュートする。ブレッチリーが弾いたボールをスコーピウスがキャッチして、三人娘を次々と避けて数秒でウッドにまで迫る。放たれたシュートを当然のようにキャッチしたオリバー・ウッドが、吼えながらクアッフルを投擲。追い縋ったフリントの腕にフレッド・ウィーズリーがブラッジャーを叩きこんで邪魔をして、アンジェリーナ・ジョンソンがキャッチ。そしてそのままシュート。

 

『入ったァァァ! グリフィンドール一〇〇点目ェ! タイム中に何を吹き込まれたアンジェリーナァ! いつもより動きが五割増しでヤバいぜ! COOL、COOL、COOOOOOL!』

 

 眼前で繰り広げられる激戦に、目を奪われそうになる。

 だがハリーは観客ではない。選手だ。それも、シーカーだ。

 目の前で口角を持ち上げて笑い続けるドラコもそうだ。

 ハリーは、この男と一騎打ちしなければならない。スニッチを見つける速度は互角。箒の性能はハリーが上。体格やリーチはドラコの方が上。勝負にかける獰猛さは互角。あとは、技量。そして勝利を追い求める熱意だ。

 スリザリンが得点した。……続けてまた得点。追いあげている。触れれば殺しかねない勢いで、マーカス・フリントが絶叫して指示を飛ばしている。

 試合が白熱し、もはや歓声なのか悲鳴なのか、全く判別がつかない。

 

「――ッ!」

「……ッ!」

 

 そんな中。

 ハリーとドラコは、同時に獲物を見つけた。

 観客席、それも貴賓席の真上。まるで様子を窺うように漂う金色の光を。

 両者が飛んだ。弾かれたピンポン玉のように飛んだ。

 肩を寄せ合い、我先にと貴賓席に向かって矢のように飛ぶ。

 ドラコがタックルしてきたのを、ハリーは横向きに宙返りするような動きで回避する。

 しかしそれを読んでいたのか、ドラコは腕を突きだし、ハリーの胸を殴ってきた。女性選手を相手にしているという気遣いが全くない。だが、真剣勝負の前に性別など些末な問題でしかない。あの夜とは違うのだ。今は、そう今は、勝つか負けるかのスポーツだ。

 よくもやったなとばかりにドラコの乗るコメットの柄を蹴りあげて、ハリーはさらにスピードを上げる。もちろん両者ともに反則であるが、こういうのは審判の目の届かないところでやるため反則扱いにならなければ、反則ではない。

 

「ぐ、おおお……っ」

「お先っ」

 

 痛々しい叫びと共に妙にへっぴり腰になったドラコに疑問は覚えるものの、都合がいいと判断してハリーはぐんとスピードを上げた。

 逃げ続けるスニッチは、貴賓席の隙間を縫って飛んでゆく。ハリーと、それに少し遅れて続くドラコもそれに倣って塔になっている観客席の隙間を縫って飛んだ。

 平行に飛んでいては逃げ切れないと判断したのか、スニッチはまるで《ウロンスキー・フェイント》を強要するかのように地面に向かって急降下する。二人は当然、それを追った。地面すれすれまで飛行し、半ば地面に接触したスニッチは、芝生を幾本も切り裂き巻き上げながらも逃避する。

 もちろん人間には同様の飛び方などできない。両者とも体を捩じるように捻って体勢を横たえると、全力で箒へ前進の命令を下した。

 すると急降下した際の運動エネルギーを残して地面に近づきながらも、水平に高速移動するという結果が残る。スニッチと二人の距離は、五〇センチたりとも離れてはいない。

 もはや腕を振り回せば、スニッチに当たる距離。

 

「最後に笑うのは……!」

「奴を捕えるのは……!」

「「ぼく()だッッッ!」」

 

 確信の絶叫。

 それと同時に、腕を突き出した。

 時速一〇〇キロ以上のスピードで飛ぶというバランスの悪い状態で、さらに体勢を崩したために二人が同時に箒から投げ出される。もんどりうって、怪我をしないよう二人とも赤ん坊のように丸くなった形でピッチ中央までゴロゴロと転がった。

 

 会場が静まる。

 スニッチが逃げ去ったようには見えない。つまり、どちらかが獲った。

 選手が全員、その場から動けなくなる。

 見る。視る。観る。

 二人ともぴくりとも動かなかった。

 恐らくであれば、一〇〇キロ超の速度で投げ出された衝撃で、気絶している。

 ウッドとフリントが降り立ち、二人のもとへ駆け寄った。

 その足音に先に気が付いたのは、ドラコ・マルフォイ。

 上半身を起こして、駆け寄ってくるキャプテンの姿を見た。

 ドラコの握り締めた手からは、折れ曲がった銀色の羽根が飛び出している。

 スニッチの、羽根だ。

 

「……見せろ。俺のスニッチを見せてくれ、ドラコ。俺たちの、勝利の証を!」

 

 勝った。勝ったのだ。

 フリントが厳かな手つきで、ドラコの握った手をほぐしてゆく。

 ウッドが悲痛な顔で、涙をこらえながらそれを眺めている。

 会場が湧き立った。

 スリザリン応援席から、怒号のような歓声が飛ぶ。

 ……しかし。

 

「……ああっ、ああああっ!」

 

 フリントの絶望した声が、それを掻き消した。

 ドラコの手には、羽根しかない。根元から千切れた羽根。

 まだ魔力が残っているのか、まるで自切したトカゲの尻尾のように蠢いている。

 では。

 ならば。

 フリントとウッドが、ばっと振り返る。

 ウッドが未だ気を失ったままのハリーを抱き起し、遠慮がちに頬を数度張る。

 可愛らしい呻き声を漏らして、少女はやんわりと目を開いた。

 

「ハリー。……ああ、ハリー。手を、その手の中を……見せてくれ」

 

 懇願のような、かすれた声。

 ウッドの泣きそうな、笑顔一歩手前でいて怖がっているような、そんな顔がハリーの明るい緑の瞳に映る。

 それでようやく、現状を思い出したのか。

 ハリーの頬に僅かな朱がさして、はにかむような笑顔を見せた。

 泥のように濁って光を灯さない瞳が、次第にうるうると色づき、まるでダンブルドアの瞳のように、きらきらと輝きを宿してゆく。

 ふわ、と溢れた涙が一筋、頬を伝ってハリーの握り拳に落ちる。

 

「ウッド」

 

 涙ぐんだせいで掠れた声が、静かなピッチに響く。

 名を呼ばれた一人のクィディッチ選手が、ああと頷いた。

 

「――優勝、おめでとう」

 

 蕾が花開くように、ハリーの指が解かれる。

 その小さな手の平の中には、破損して動かなくなった片羽根の金。

 それを見て、数秒ほど理解が及ばないのか呆然としたあと、ウッドは吼えた。

 ハリーを力いっぱい抱きしめて、その額に熱烈なキスをして、そしてまた吼えた。

 グリフィンドール・クィディッチチームの面々が次々と降り立って駆け寄ってくる中、ウッドに抱き上げられたハリーは、涙を流しながらも笑顔で腕を突き上げた。

 日の光に反射して輝くスニッチを見た観衆が、悲鳴と怒号と歓声をあげる。

 獲物を仕留めた狼のように吼え続けるウッドの目は固く閉じられ、澎湃と涙が溢れている。男泣きに泣いて、遂に泣き崩れてしまったためにハリーの身体が放り出された。

 それを受け止めたのはフレッドとジョージだ。二人ともから左右の頬にキスを貰い、よくやった偉いサイコーとばかりにばしんばしん背中を叩かれる。痛いなんてものではないが、今は興奮のあまりに何も感じない。

 アンジェリーナ、アリシア、ケイティがウィーズリーズからハリーを奪い取ると、頬やら額やら頭のてっぺんやらにキスの雨を降らせた。三人とも大泣きに泣いて、代わる代わるハリーをもみくちゃにしていった。

 ロンとハーマイオニーが抱き合って狂喜乱舞している。ディーンとシェーマスが大笑いしながら同じく笑顔のネビルをどつきまわしている。そこらへんから引っ張ってきたのか、巨大な犬やら不格好な猫やらを連れたハグリッドが吼えて喜びを表していた。

 ドラコが泣いている。

 泣き崩れるのだけはプライドが許さなかったのか、悔し泣きに涙を流しながらも、フリントに肩を借りてハリーの前から去ってゆく姿が目に入った。

 フリントとて、最後の年を勝利で締められなかったことが悔しいだろう。

 試合後に、整列しての挨拶。

 グリフィンドールチームもスリザリンチームも、各々理由は違えど涙でぐしゃぐしゃだった。

 マダム・フーチが両キャプテンに握手をと求めるも、フリントはウッドの頬を一発殴るだけだった。ウッドも一発殴り返し、そして二人して大声で泣きながら固く抱き合った。なんだかんだ言って仇敵同士ながら、それゆえに相手の気持ちを一番わかっていたのだろう。

 と、ハリーは都合よく解釈する事にした。

 頬を腫らして嬉しそうに泣き笑いするウッドが、一言祝いの言葉を述べたダンブルドアから貰った優勝杯を、高く掲げる。

 会場が声の嵐で爆発した。

 優勝だ。

 優勝したのだ。

 きっと今なら、吸魂鬼の一〇〇体程度、あっという間に追い払えるだろう。

 だって、だってぼくは、こんなにも幸せなのだから。

 

 

 試験だ!

 一週間ほどは優勝した浮かれ気分で過ごす事ができたが、そんなこと言っていられない。

 お祭り騒ぎが終わった後はいつもさみしいものだが、寂しいだけでなく勉強地獄が待っているとなればたまったものではなかった。

 残り一週間で試験が始まってしまうのだ。

 廊下ですれ違うたびにハリーを抱きしめて、ついにクィディッチからハリーに浮気したかと笑われていたウッドも、ハリーと出会うたび歌って踊りだしたウィーズリーズも、お風呂場で盛大にはしたなく騒いだ三人娘も、ロンもハリーもハーマイオニーも、みんなみんな勉強しているんだ大変なんだ。

 はっきりいって、去年とは比べ物にならないほど勉強量が増えている。

 この時初めて知ったのだが、ハーマイオニーは全ての教科を受講しているというのだ。

 談話室の一角を占領して大量の本を広げ、鬼気迫る様子で勉強する様はハッキリ言って恐ろしかった。

 

「ウィンバリーッ! 《梵字と古代ルーン文字の違い》について教えてッ!」

「ぁあ? そいつぁヒトにものを頼む態度じゃねぇなあ」

「チッ! 使えないわね」

「んだとコラァ小娘コラァ! なんつったコラァァァ!」

「ア、アーロン落ちついてくださぁい! あの子もイラついてるんですよぅ!」

 

 暴れ始めたウィンバリーを背後から抱きしめて制止するハワードを横目に、ハリーは羊皮紙を開いた。

 しかし目当てのものではなかったため、それを放り出す。

 机から転がり落ちたのを拾い上げたのは、トンクスだ。

 

「ハリー、落ちたよ」

「ありがとうトンクス。でも要らないや」

「ええ? どうして? 狼人間のレポートなんて凄くうまく書けて……ないね。途中だコレ」

「あー、それなんだけどね……」

 

 羊皮紙二巻きにもなるレポートを指して、ハリーはため息を漏らす。

 ほぼひと月前に、闇の魔術に対する防衛術の授業にスネイプがさっそうと現れたことがあった。

 皆のあげる疑問の声を無視して、ルーピンは性病でお休みだと適当なことを言い始めた。誰も信じていない様子だったが、更にそれを無視してスネイプは授業を始めた。

 内容は、狼人間について。まさかの試験範囲外の出題に、生徒たちは当然混乱した。

 おまけに羊皮紙二牧ものレポートという宿題の強要だ。

 ついでにいうと半分だけでもこなしたハリーは珍しい方だ。唯一きちんとこなしたのがハーマイオニーだけというオチだったため、性病から(?)復帰したルーピンによってレポートは提出しなくてもいいよと言われてしまった。

 こうして無駄にこの世に生まれおちてしまったのが、この人狼についてのレポートというわけだ。

 

「なるほどねー。んじゃ、ハリーこの宿題に関する資料持ってないじゃない」

「……ねぇトンクス。エルンペントの角の安全な取り扱い条項についてなんだけど」

「あーあー、私に聞かないで。三年生の内容なんてもう忘れちゃったよ」

「ちっ、使えないな!」

「うおおおおい、やめてハリーっ! そういうのやめてーっ!」

 

 仕方がないので、ハリーは夜遅い時間ながら図書室へ行くことにした。

 外出時間はとうに過ぎているため、《忍びの地図》で人を避けていくしかない。

 寮を出るハリーを見てカドガン卿が何やら騒いでいたが、「秘密の任務なり。卿には留守を頼む」と言えば厳かに礼をして見送ってくれるので、最近コイツの取り扱いが分かってきたような気がする。

 

「『ルーモス』、光よ。『我、良からぬことを企む者なり』ってね」

 

 羊皮紙にぼんやり光る杖を押しあてて、呪文を唱える。

 すると城の完璧な地図と、誰がどこで何をしているかが映った。

 以前のこともあって、まず真っ先にダンブルドアの名前を確認する。

 ……おや、校長室にいない。いや、マクゴナガル先生の部屋にいるようだ。スプラウト先生とフリットウィック先生の名前も一緒にあるので、恐らくお茶会だろう。スネイプ先生は……下の階の廊下でフィルチと向かい合っている。この二人のコンビは実に目によろしくない。

 注意して進むことにしよう。

 

「おっと、灰色のレディがやってくるな。別の道を行こう」

 

 レイブンクローのゴーストがいままでハリーが居た道へゆくのを見ながら、違う廊下を悠々と歩く。

 ハゲタカそっくりなマダム・ピンスが、図書室で本の整理をしていたので題名を述べて、目的の本を探してもらう。マダムは鬼のように厳しい人であるが、本が好きで、なおかつ大事に読む生徒のことはとても尊重してくれる。現にハリーが外出禁止時間に出歩いていても、笑顔でお勧めの本を教えてくれるくらいのことはしてくれるのだ。

 虐待同然の教育を施してきたダーズリー家ではあるが、「公共の物は大事にする」という教えをハリーにもダドリーにも施している。その方が世間ウケはいいし、いかにも『まとも』だからだ。

 理由はどうあれ、その教えの内容自体は悪くない。こうして仲良くなれる人もいるのだから。

 

「さて、誰にも知られないように戻るとしよう。なんかニンジャみたいだなぁこれ」

 

 テスト勉強に用いる《魔法史~子鬼の帰還エピソードⅥ~》と、マダム・ピンスに選んでもらった《口から砂糖を吐かせる呪い・実践編》をグリフィンドールの寮旗を模した巾着袋に入れて、未だクィディッチのせいでふわふわした気分のまま忍者歩きで寮を目指す。

 途中、当初姿は見えなかったが、すれ違う時に顔を見せてくれたしもべ妖精のヨーコと出会う。幾つか世間話をして、見つかると怒られますよと忠告されたので別れることにした。

 さっさと帰って勉強に戻ろう。

 とハリーが地図を見たとき、後ろの廊下から《シビル・トレローニー》という名前がやってくるのが見えた。確か占い学の教授だったはず。見回りだろうか?

 ともかく見つかっては大変なので、さっさと廊下を曲がってしまおうとしたところで。ハリーは地図上におかしな名前を見つけた。

 

「……、《ピーター・ペティグリュー》?」

 

 そんなはずはない。

 彼は死んだはずだ。ブラックに裏切られ、殺されて。

 それなのになぜ、こんな時間の廊下を、いやそもそもホグワーツを彷徨い歩いている?

 地図には確かに《ニコラス・ド・ミムジー・ポーピントン》などといった、ゴーストの名前も表示されている。《ハリエット》の名前もしっかりとある。生者死者の区別はないらしい。

 ならば、ピーターのゴーストなのだろうか?

 

「誰も、いない……」

 

 杖を高く掲げて照らしても、影も形もない。

 名前はもう目の前まで来ているというのに。

 それなのに、誰もいない。いや、名前がハリーの目の前を過ぎて行った。

 ……冗談だろう。何もいない誰もいないのに、名前だけが歩くなんてことあるのか?

 

「故障じゃないだろうなぁ……古いものだって聞いたし、フレッドもジョ」

『アアアアアアAAAAAHHHッ!』

「きゃああああッ!?」

 

 あられもない声をあげて飛び退いたハリーの肩を、何者かが強く掴む。

 まるで男のように野太く掠れた異常な声だ。老人と男と女が三人同時に同じ言葉を発しているかのような、聞いていて不安になる声を発しているのは、まるで占い師のような恰好をした中年女性だった。ロンの言からするに、おそらくこの人がシビル・トレローニーだろう。

 ハリーは初対面ではあるが、しかし明らかに様子がおかしい。

 ハリーと同じかそれ以上に細いだろう腕から発せられる握力は、掴まれているハリーの肩に酷い痛みをもたらしている。

 

『AHァーッ! 月が満ち輝く夜にィィしもべは主のもとへ馳せ参ずるであろォォォオOOOHHHHッ! 人を喰らう狼はァAH、同胞に食い殺されェその生涯を終えるゥゥfhgdfゥゥゥ――ッ!』

「なっ、何なんだあんた!? 何を言っているんだ!?」

『心せよ姫君よォHッ、汝が死は汝が絶望は汝が心の破滅は刻一刻と這い寄っていRURURURUゥゥゥッ!』

 

 がくがくと震えだしたトレローニーは、ついに口から泡を吹き出した。

 こいつはヤバいと思ったハリーが誰かに助けを求めようと《忍びの地図》を覗き込み、すぐそこの曲がり角から《セブルス・スネイプ》と《アーガス・フィルチ》の名が走り寄ってくるのが見えた。

 ちょうどいい、助けを求めよう。と思うと同時、この地図が見つかるのはまずいと判断する。ハリーは小声で叫んだ。

 

『AHHッ! 闇が溢れるゥ! 泥が零れるゥ! 獅子身中の虫ィ! 刃を以って閃く闇ィ! あまねく闇がァ闇がァ闇が脈動していRUUUUUU――――ッ!』

「『いたずら完了』。スネイプ先生! こっち、こっちです!」

「ポッター、そこを退けッ!」

 

 慌ただしくやってきたスネイプに押しのけられて、ハリーは尻餅をつく。

 ガクガクと機械的な動きで大変なことになったトレローニーの目を覗き込み、スネイプは杖を取り出した。

 

「『クィエスパークス』、心穏やかに」

 

 暖かな暖炉の火のように揺らめく闇が、スネイプの杖先からするりと零れ落ちた。

 時折きらきらと煌めく闇はトレローニーのひび割れた唇から喉に侵入。するととめどなく溢れていた泡がぴたりと止まり、奇声をあげて髪を振り乱していたトレローニー自身もぐったりとスネイプにもたれかかった。

 スネイプ自身は彼女の体をフィルチに預けると、ダンブルドアのもとへ運ぶようにと命ずる。生徒は当然として教師にもどこか敬意を払っていないフィルチが唯一従順に従うスネイプからの命令に、彼は嬉々として従う。トレローニーの身体を水袋でも担ぐかのように抱えると素早く去って行った。

 

「それで、ポッター」

 

 冷たい声がハリーを貫く。

 未だに冷たい床にぺたりと座っている姿を見て、スネイプはハリーの手をとって立たせた。その際にズボンについた埃を払われたことから、完全に子供扱いされていることがわかった。

 いま女性の尻を触ったという自覚はあるのかい、セブルスくん。

 

「何を聞いた」

「え?」

「シビル・トレローニーは何を言っていたと聞いているのだ」

 

 鬼気迫る様子のスネイプに、尻をはたいたことを咎めようという気持ちが霧散していく。

 何故こんなにも必死なのだろうか。

 

「答えよポッター!」

「え、えっと。しもべが主のもとに馳せ参じるだとか、お姫様がヤバいだとか、闇がどうたらとか、なんか、なんかそういうの」

 

 驚きのあまり、そこまで詳細に聞き取れていたわけではない。

 あのトレローニーは発音も不明瞭であったし、何よりひどい興奮状態だった。

 覚えていなくても無理はないだろう。

 スネイプも無理に聞き出すつもりはないようで、こめかみを抑えると溜め息を漏らしていた。

 

「……まあ、よい。彼女には、ああ。妄想癖がある。そう、でっちあげの、世迷い事だ」

 

 まるでハリーにそう言い聞かせるかのような物言いで、スネイプは話を打ち切る。

 そして次に見せたにたりとした表情に、ハリーは悪寒を感じた。

 愁いを帯びた表情から、愉悦に満ちた表情へ移り変わる様はいっそ芸術と言える。

 ――ああ、コイツぼくをイジめるつもりだ。

 

「このような時間に何をしていた?」

「魔法薬学の教授に尻をはたかれていました先生」

「げほっ。まるでリリーのような物言いを……いや、なんでもない。――質問を変えよう。なぜ、外出禁止時間に出歩いているのかね?」

 

 話を逸らしやがった。

 ジト目でスネイプを睨むと、ばつが悪そうに目を逸らされた。

 これはいけるかもしれない。きっとハリーが男の子だったら、こんなことにはならずねちねちと嫌味を受け続けた挙句ご褒美として素敵な罰則を喰らっていたかもしれない。意外と便利だな、女の子扱いって。

 攻守が逆転してハリーが悦に入っていたところ、思わぬ反撃を受ける。

 ハリーが左手に持ったままだった《忍びの地図》を掠め取られたのだ。

 あっ、と声を出した時にはもう遅い。にたぁ、と笑われてしまった。

 

「おや、おや、おや。そんな声を出すということはこれは大事なものなのかねポッター? どうやらただの襤褸羊皮紙のようだが、そのような声を出すからには大事なものに違いない。つ、ま、り? これには何かあると見てよろしいのですかな?」

「え、えっと。その、つまり。あー、」

 

 ごまかそうと思って、微笑んで可愛らしくウィンクしてみる。

 チョップを喰らってしまった。お気に召さなかったようだ。

 

「ふむ。これは……『汝の秘密を表せ』」

 

 スネイプが杖を羊皮紙に押し当てて呪文を唱える。

 するとじわじわと文字が浮かび上がっていった。満面の笑みを浮かべたスネイプがそれをハリーに押し付け、読みたまえと尊大に言いつける。

 

「え、えーっと……『ムーニー、ワームテール、パッドフット、プロングズの四人がセブルス・スネイプ教授に申しあげる』。…………、あー……」

「どうした? 読みたまえ」

「……本当にいいんですか? 怒らないでくださいね?」

「何だというんだ、言え!」

「怒らないって約束してください!」

「怒らんから早く言いたまえ!」

「『他人事に対する異常なおせっかいはやめた方が身のためですぞスニベリー殿相変わらずべったりとした髪の毛でねちねちとしているのかどうせ今でもパンツを洗っていないんだろう毎日してるもんだからカピカピに』……すみません先生ぼくにはこれ以上読めません」

「ポッタァァァァアアアアアアアア――ッ!」

「ほらやっぱり怒ったぁぁぁ――っ!」

 

 顔色が蒼白になるほど激怒したスネイプと顔を隠すように身構えたハリーのもとに、一人の教師がやってくる。

 トレローニーの絶叫もそうだが、スネイプとハリーの叫び声も相当うるさかったことだろう。

 やってきたのはルーピンであった。

 

「おいおいセブルス、落ち着け。どうしたんだい怒鳴ったりして。声が枯れるよ?」

「きさま! 学生時代だけでは飽き足らず現代に至ってまでも私を侮辱する気か!」

「え? いや、なんのこ――やぁハリー。感心しないなぁ、こんな時間に出歩くなんて。そろそろ寝る時間じゃないのかい?」

 

 がなり立てるスネイプに驚いた顔をしながらも、ルーピンはハリーを見つけてしかめっ面をした。ボガートを授業に用いるというルーピンの性格からして、悪戯や夜間外出くらいは認めてくれそうな感じがしたのだが、どうもハリーの予想とは違うようだった。

 ルーピンの台詞にハリーのことを思い出したのか、意地悪い顔つきになったスネイプは未だに新たな文字を浮かび上がらせている《忍びの地図》をルーピンに投げつけた。

 それを受け取ったルーピンの目の色が、明らかに変わるのをハリーは見逃さなかった。

 

「私が……いや、失礼。我輩が見聞したところ、それは闇の魔術が詰まった品のようですな。邪悪な、眼鏡とか。そういうのが。たっぷりと。貴方の管轄ではないのかね、ミスター・ルーピン?」

「え、あー。どうやらそのようだね。よし、ではこれは私が預かろう」

「では、ポッターの処罰は我輩に任せてもらおう。辛い、厳しい、素晴らしき罰を与えてやろうではないかポッター」

 

 あ、やばい。

 ハリーは直感的にそう思った。

 ブラックによる生命と貞操の危機よりも、厄介さでは上だと判断した。してしまった。

 懇願するような目をルーピンに向けると、ちょうどばっちり視線が絡み合う。

 片眉をあげたルーピンが、仕方ないなという目をしてスネイプに向き合った。

 

「いや、セブルス。それも私に任せてくれ。彼女には課外授業での課題があってね、それもついでに増やしてやろうかなと」

「いや、いや、いや。我輩にお任せあれ。それにポッターめの課外授業は、不本意ながら、渋々、仕方なく、去年まで我輩が請け負っていたのだ。彼奴めならば忌々しいことだが課題など残すまい」

「罰を兼ねた課題の追加だよ、セブルス。どうかここは私に免じて。ね?」

「……ふん。貴殿に免ずるものなどないだろうがね」

 

 そう吐き捨てて颯爽と去ってゆくスネイプの背中を見て、ハリーは心の底から安堵の息を吐いた。確かにハリーはスネイプへある程度の信頼を抱いていたが、それもある程度にすぎない。

 怒り狂った彼は、ハリーに対していったい何をやらかしてくるかわかったものではないのだ。

 スネイプが立ち去ったのを見て、ルーピンはハリーに向き直る。

 厳しい顔だ。

 ハリーはこれで、ルーピンから怒られることを覚悟した。

 

「どこでこれを?」

「え?」

 

 しかしかかってきた声は意外なもの。

 《忍びの地図》の出自を問うものであった。

 だがそれはそれで、困る。

 正直に話せばフレッドとジョージに迷惑がかかってしまうからだ。

 自分だけに処罰が来るのならば一向に構わないが、それで大好きな二人に迷惑がかかるのは勘弁願いたい。

 ハリーは俯いたまま、小さく唸ってしまった。

 

「……言えないんだね」

「……はい」

「そっか。なら、これは没収だ。『我、よからぬことを企む者なり』」

「えっ!?」

 

 《忍びの地図》が没収されるということにはがっくりきたものの、それよりルーピンが起動スペルを知っていることにハリーは驚愕した。

 なぜ知っているのか。

 それはフレッドとジョージ、そしてハリーしか知らないはずだ。

 

「ん? なんで知ってるのか。って顔してるね。……よし、セブルスは部屋に戻ったな」

「そ、そうです。なんで、《忍びの地図》を……」

 

 ハリーの驚き一色に染まった顔に満足したのか、ルーピンは笑顔を浮かべて地図を閉じる。

 表紙となる絵には、初代悪戯仕掛人たちの名前が刻んであった。

 

「起動スペルを知っているのは君たちだけじゃないさ。だって、知らなければ作れないだろう?」 

「じゃ、じゃあまさか……」

「そのまさかさ。私が悪戯仕掛人が一人、ムーニーさ」

 

 あんぐり開いた口を、はしたないよとルーピンに指摘されるまで閉じることができなかった。

 まさか、そんな。

 ルーピン先生が悪戯仕掛人の一人だって?

 

「え、ええ? じゃあ、他の三人は……」

「うん、共同開発者だから当然知ってる。どうせ君に隠し事をしても逆効果だ。そうだろ? 教えてあげよう。プロングズはね、ジェームズ・ポッターなんだよ」

 

 ジェームズ・ポッター。

 今もハリーのベッド脇にある、デスクの上に乗っている写真で笑っている人の名前だ。

 まさか。パパが。忍びの地図の製作者?

 

「驚いたかい? でもジェームズはかなりの悪戯っ子でね。親友と二人して、ホグワーツをしっちゃかめっちゃかに引っ掻き回してたもんさ。私もよくその場に居たけれど、うーん、彼らを止めるには苦労したね」

 

 パパが、いたずらっ子。

 ハグリッドに貰った写真の中でリリー・ポッターと共に微笑んでいたり、降りしきる落ち葉の中で踊っていたりする人物のイメージとは全く合わない。ハリーの持つ写真の中にいるジェームズは、眼鏡をかけた優しい顔つきの男性で、落ち着いた紳士然とした雰囲気を持っているのだから。

 それを言ってみると、「学生の頃は誰もが子供さ」と返された。

 なるほどとハリーは納得する。

 しかし、親友か。

 

「じゃあ。ワームテールかパッドフット、どちらかがシリウス・ブラックなんですね」

「……なぜ、知っているのかはもう問わない。やっぱり君は賢い子だ――賢すぎる――そうだよ、ハリー。パッドフットがシリウスで、そしてワームテールがペティグリューだ」

 

 それが本当だとしたら、なんという悲劇なのか。

 かつて四人で名乗った悪戯仕掛人という、楽しかった頃を想起させる名前の集団。

 そのうち二人は殺され、一人は殺し、一人はいまもここにいる。かつて悪戯して回っただろうホグワーツという思い出の地で、たった一人だけ。

 憂いを帯びた顔つきになったルーピンは、ハリーの肩に手を置いた。

 

「正直言って、君には失望したよ、ハリー。ジェームズがこれを知ったらどう思うか」

「え……」

「なぜ君が夜の廊下をうろついている? 忍びの地図を持っているということはホグズミードにも行ったね? ハリー・ポッターを守って死んだジェームズとリリーが気の毒だ。彼はこんなことをする君に持たせるために、この地図を遺したのではない。そう、決して違うんだ」

 

 ルーピンの気迫に、ハリーは申し訳ない気持ちになった。

 ハリーは思う、きっとルーピンはこう言いたいのだろう。

 『ハリーを命がけで守った両親の死を無駄にするつもりなのか』、と。

 とんでもない罪悪感がハリーの心を握りしめる。特にハリーにとって、ジェームズとリリーへの不義というものはダーズリー家でのトラウマの一部にもなっている。バーノンやペチュニアの言を信じて二人をロクデナシだと思っていた事実。

 ゆえにルーピンの言葉はハリーの心に突き刺さった。

 しゅんとしたハリーの頭をぽんと撫で、ルーピンは優しく言う。

 

「ごめんよ、ハリエット」

 

 さらりとハリーの黒髪を流し、ルーピンは踵を返した。

 いま、どうして謝られたのだろう?

 謝るべきは両親のことを軽視したハリーではないのだろうか。

 ハリーは胸の奥をちくちくと痛ませながら、重い足取りで談話室へと向かってゆく。

 そして、はたと思い出して振り返る。

 

「先生」

「なんだね、ハリー」

 

 あまり抑揚のない声が返ってきた。

 怒っているようにも聞こえ、少しだけ怯んでしまう。

 しかしハリーはこれを言っておく必要があると思い、声を出した。

 

「その地図、故障してるかもしれません」

「故障? 私たちの作った地図にかい?」

「はい」

 

 怪訝な顔をするルーピン。

 しかし猜疑に染まったその目は、続くハリーの言葉に驚愕に見開かれた。

 

「そこらへんをピーター・ペティグリューが歩いてるんですから。だって、彼は死んだはずでしょう?」

 

 心に余裕がない状態であったこと、すぐに振り向いて歩き始めたこと、すぐに杖明かりしか光源がなかったことから、ハリーは気付くことができなかった。

 ハリーの言葉を聞いたルーピンの顔がとても険しいものとなっていたことを。

 ルーピンの瞳だけが、闇夜の中で爛々と輝いていた。

 




【変更点】
炎の雷(ファイアボルト)だと思った? ニンバスちゃんでした!
・クレイジー・ウッド。此処までやって捕まらないのは偏に人徳。
・原作では炎の雷で圧勝、でもニンバスなのでいい勝負。
・嬉しければ泣く。悔しければ泣く。そういうもん。
・唐突に登場して予言を残して去ってゆく危険人物。
・ムーニーが仕掛け人の正体を暴露してしまう。

【オリジナルスペル】
「クィエスパークス、心穏やかに」(初出・32話)
・興奮状態を鎮める治癒魔法の一種。発狂した人間ですら元に戻せる。
 元々魔法界にある呪文。強力すぎるため、しばらく二日酔いのような症状が出る。

【クィディッチのオリジナル技】
《イレギュラーターン》
 螺旋状に回転しながら方向転換する技。相手に飛ぶ方向を気取らせない。
 特にシーカーがよく使う。
 
《トルネードグリップ》
 螺旋状に大きく横回転することで、背中に直撃するブラッジャーを避ける技。
 全選手共通だが、背後を見ないため当然難しい。

《ワスプス・フォーメーション》
 チェイサーが三人全員で飛ぶことで、タックルやブラッジャーを防ぐ技。
 映画でもやってる。ウイムボーン・ワスプスにて開発された。

《スクリューフライト》
 文字通り回転しながら跳ぶ技。相手チェイサーからのカットを防ぐ。
 下手をすると汚い噴水が撒き散らされるので気をつけること。

《スライドターン》
 文字通り箒を水平にしたまま、尾の先か柄の先を中心にスライドする技。
 本来はトリッキーな方向転換のために使う技だが、回避にも有効的。

今回はクィディッチ回でした。
愛すべきキャラクター、ウッドの見せ場にして最高の晴れ舞台。熱を入れ過ぎて今までで最長になりました。クィディッチやって地図とりあげられるだけなのに……。ファイアボルトなんて、自転車レースにジェット機を持ち出すようなものじゃて。いらないんじゃ。
あとはクライマックスに向かって突っ走るのみ。頑張れ、ハリー! 頑張れ、おいたん! セクハラの罪は晴れるのか!

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