延々と続く長い道のり。少しづつ足が速くなる試験官を追いかけていく、第一試験。初めは早歩きでも追いついていた者たちが、次第に息を荒げていく。もはや普通に走っているのと何ら変わりない速度で、俺たちは足を動かしている。
多少腕に覚えのある程度では、とっくにギブアップしていてもおかしくはないだろう。だがしかし、ここに集まっているのはいづれも何らかの道を修める達人たちばかり。互いに競い合わせるのではなく、ただ単純に試験官についていくだけならば、脱落する者のほうが少数だろう。
俺とレアも、無論何の問題もなく試験官サトツを追いかけている。二人とも息の乱れはない。俺はもちろん、レアも汗一つかいていない。このくらいなら、今まで積み重ねてきた修業のほうが余程辛いだろう。
前方を確認する。今俺たちが走っているのは、先頭から少し離れたあたりだ。一番前には試験官サトツ、すぐ後ろに髪のとがった少年と銀髪の少年が楽しげに話しながら走っている。次に、ちらりと横目で後方を確認する。目的の人物はすぐに見つかった。サーカスのピエロのような服装。
この試験で最も注意すべき存在、ヒソカ。超人的な感覚と圧倒的な戦闘センスを誇る、理解しがたい快楽殺人者。彼は現在、楽しげに辺りを見渡し、目を細め舌なめずりをしている。試験開始より放たれている殺気は、微妙に俺の神経をくすぐってくる。狩るべき獲物を物色しているのだろう。俺は視線を前に戻し、さり気なく体をヒソカに見られないよう移動させる。なるべくなら関わり合いたくない相手だ。一人の武闘家としてヒソカの腕前が気にならないわけではないが、こうして試験会場に来て、実際に彼を見て、直感した。
彼とは、相容れることが出来ない。
この体も人間であるとはいいがたいが、少なくとも俺は、精神的には人のつもりだ。悲しければ涙を流し、楽しければ声を上げて笑うだろう。いささか戦闘に傾倒しすぎているきらいもあるが、それでも俺は最後の一線は守っている。
しかし、ヒソカはもとから、最後の一線を守る気はないのだ。彼の行動原理はただ、己の快楽のため。強い相手と戦い、殺す。そこから生まれる快楽を貪りたいがために、彼は行動する。あらゆる生物は彼の欲求を解消するために存在する。おそらくは、平然とそんなことを考えているのだろう。
体ではなく、心が怪物じみている。常人とはかけ離れた、その思考。なにより、ヒソカは自分が異常者であることを隠しもしない。だから彼を見たものは、ヒソカの異常性を嫌でも理解することになるだろう。
とにかく関わり合いになりたくない。まだ遊び半分のつもりで殺気は薄いようだが、陰湿で、ねっとり体にまとわりつくような殺気が、俺に注がれるかと思うと鳥肌が立つ。今回の試験に参加したことは、やはり間違いだったのではないか。そう思う程に、ヒソカを見たくはなかった。
「……フェル」
唐突に、レアが俺に小声で呼びかけてきた。顔を見なくてもわかるほど、心配の意を込めた声音。
「なに?レア」
「また、怖い顔してる。フーガのときみたいな……でも、あの時よりずっと怖い顔」
そう言われ、俺は顔を撫でた。気持ちが表情に出ていたのか。
「ねぇ、フェル。私はちゃんと注意事項を守るから。あなたも、無茶しないで」
「……分ってるよ」
無茶なんてするはずがない。だが、レアの声を聞いて、少し気分が落ち着いた。大丈夫。今はただ、走ることに専念する。下手に後方に注意を向けてヒソカの気をひくこともない。
やがて道の角度が上がっていき、急な階段が現れた。全体の速度が緩やかに落ちていく中、トンネルの中に差し込む光が見えてくる。光の下までたどり着いた時、受験者たちから上がりかけた歓声はなりを潜めた。
ヌメーレ湿原、通称詐欺師の塒。獲物を騙すことに特化した奇妙な生物たちが、濃い霧の中で息づいている。サトツが説明する途中、大声を立てて現れた傷だらけの男が、人の顔を持つ猿を引きずり現れた。
「あの服装、どうやって準備したんだろ」
「さあね。騙した相手から奪い取ったんじゃない?」
「やっぱそうなのかな」
周囲がにわかにざわつくが、幾人かは冷静に、あるいはにやついて黙している。現れた男のうさんくささに気づいたか……それとも最初から知っていたのか。
やがて男の偽りの演説は飛んできたカードに遮られた。先ほどよりも顔を嬉しげに歪めるヒソカ。サトツが彼に警告し、マラソンは再開した。
「よお、お二人さん」
サトツを見失わないように走り続けてしばらく、髪をきれいにそり上げ、忍びの衣装を身に纏った男が話しかけてきた。
「なに?294番の人」
「ハンゾーでいいぜ。番号呼びとか他人行儀に過ぎんだろ。同じ受験生同士、もっと仲良くしようぜ。いや、せっかくトンネル抜けてゴールかと思ったのにまだ道半ばなんてな、空気がピリピリビリビリ、いやになるくらい重いのなんの。こっちまで肩がこっちまうよ」
何がそれほど楽しいのかは知らないが、俺が呼びかけに答えた途端に勢いよく話始めたハンゾー。そういえば、彼はお喋りで口が軽いんだったか。
「…フェル・トゥー。フェルって呼んで」
「レア」
「おう、フェルに、レアか。男女の異色コンビって感じだな。そんでまあ、こうして話しかけたのは重い空気に耐えられなかったってのもあるが、二人に聞こうと思っていたこともあってな」
「聞きたいこと?」
「そう、あの人面猿のことだよ。少し話を聞いちまったんだが、二人ともあれが偽物だと知ってた風じゃないか。他にも何人か気づいているようだったし、良ければどうして分かったのか教えてもらおうと思ってさ」
口は軽いが、こちらを見る目は真剣だ。もしこれが実戦だったら、彼は命を落としていたかもしれない。そう考えれば、知らないことを知っておくのは彼にとって死活問題なのだろう。だが、残念ながら、俺たちは彼の期待に沿える回答を持ち合わせてはいなかった。
「……人面猿のことを知っていた訳じゃないよ。知っていたのは試験官のほうだ」
「あのヘンテコリンな髭のあいつか?」
ツルツルの頭を棚に上げて話すハンゾー。彼は割と失礼だった。
「サトツって名前。考古学者らしくてね。ネットで見たことがあった」
「ああ、それでか。ちっ残念。何か正体を看過する法でもあるのかと思ったぜ」
ハンゾーは天を仰いだ。
「そういえば、正体が分かっていたのは他にもいたんでしょ?なんで私たちに話しかけてきたの」
ふと、レアがハンゾーに問いかけた。
「そりゃお前、あん中でフェルとレアが一番空気が緩かったから……ってのは冗談で」
そこでハンゾーの表情が一転し、人の悪い笑みを浮かべた。
「あんたらが一番やり手だと思ったからな」
「……そんなにわかりやすいかしら。これでも注意してたんだけど」
レアが不安げにいう。かくいう俺もかなり気になった。
「いんや、最初は全く分からなかった。だが、俺は忍っつー隠密集団の末裔でな。敵の強さを図る術に長けてんだ。この湿原を走り始めて猿に気づいていた連中を観て、ようやくあんたらのヤバさに気づいた。」
「……そっか、忍者か」
「ん、忍者について知ってるのか?」
意外そうな顔でハンゾーが尋ねてくる。
「文献で知っただけだけどね。何でも飛び道具を巨大化させて滝をきるだとか、里を一つ潰す息を吐くだとか」
「いや忍者はそこまで出鱈目じゃねーよ」
「そうよ。精々謎のエネルギー弾で人体を破壊する程度でしょ」
「それもちげえ! てか謎のエネルギーって! 忍者を何と心得る!」
「……びっくり人間?」
「なんでだよ! 一体全体何の文献を見たんだ!」
俺達のふざけた忍者の知識に、ハンゾーは憤慨するそぶりを見せる。もちろんポーズだろうが、その様子は非常におかしかった。
二次試験会場につくまでハンゾーと飽きずに駄弁り続けた。彼の大声を聞いた他の受験生のうるさそうな顔が印象的だった。