お風呂は好きだ。大きいお風呂はもっと好きだ。
ぼんやりした頭をはっきりさせ、一日の汚れを洗い流す。
禊の感覚とでもいうのだろうか、とにかく好きだ。
お風呂だけではない、俺はプールや海も好きだ。
川や、噴水も好きだし、単純に水が好きなのかもしれない。
ただ、その中でもやはり銭湯のような大きなお風呂が好きだ。
その圧倒的な量の水。
じんわりとした暖かさが身体を包み込むのが好きだ。
これだけのお湯があれば、どんな汚れも押し出せると思えた。
ナデシコの大浴場を外に出て、俺は居住区へと向かう。
格好は、普段着よりの部屋着。
落ち着かないけれど、これで寝れなくもない程度の服装。
時間は大体午前0時、夜間体制に入って4時間目。
持ち物は財布とコミュニケと、肩に掛けたスポーツタオル。
乾きかけの髪が、ほんのりと熱を放出するのを感じた。
個人的に、ドライヤーの類は面倒で好きではない。
美容院で人にやってもらうのはいいが、自分ではしない。
それよりも、自然に乾燥していく感覚が好きだった。
途中で飲み物を3人分購入し、向かう先は、自室。
――よりも少し先にある、士官用の部屋の群れ。
その中で、大体にして中間ほどにある一つの部屋だった。
目当ての部屋にたどり着いて、俺は立ち止まる。
個人認証機に手をかざすが、開かない。
許可IDになってないことにイラっとして、コミュニケを開く。
さぱっと許可一覧に俺の名前を書き添えて。
再度俺は認証機に手をかざす。一秒の後、今度は開いた。
多少の満足感とともに、遠慮なく俺は部屋に入った。
「――やほ。
勝手に入るよ」
「……やぁ。
本当に勝手に入ったね君」
丁度、扉を開こうとしてきたのか。
二三歩進んだ所に、その部屋の持ち主は固まっていた。
――僕らのナデシコ副長、アオイ・ジュンさんだ。
「悪いね、こんな時間に」
「いいよ君なら。
僕も、話したいことはあったから」
案内されるままに、俺は奥へと進んでいく。
流石に士官用の個室は、広々とは行かずとも小さくない。
一応程度の差ではあるが、俺の部屋よりは確実に広かった。
或いは、そう感じるのはものの少なさからかもしれない。
備え付けの家具に違いはなくとも、あるものの差。
私物と言えるものは、恐らく限られるほどだと俺は思った。
部屋の中程にある、前時代的なちゃぶ台。
適当に座ってと言われた俺は、座布団に適当に腰掛けた。
その際に、持ってきた飲み物の内、一つを彼に差し出す。
「これ、差し入れ」
「あ、ありがと。
……ってこれはなんだい」
「おしるこ」
差し出された缶を反射的に受け取ってから。
副長閣下は絶妙な感じに眉を顰めて、俺を見てきた。
俺はその視線を気にせずに、スポーツドリンクを手にとった。
数秒、俺を見て缶を見てスポドリを見て。
その後何か言いたそうにして、やっぱり黙った副長は。
おしるこをちゃぶ台に置いたので、俺はもう一本を差し出した。
今度は普通の緑茶である。
やっぱり何か言いたげにしながら、副長はそれを受け取った。
飲み口をかちりと開けて、普通に口をつけた。
俺も同じように、スポーツドリンクを傾けて。
2・3口飲んでから、それをちゃぶ台に置いてから。
そうして、俺はチラリと部屋の中を見回した。
大分、広々としている。寒々しさすら感じる。
それはきっと、本当に生活感が見られないからだと思えた。
荷物がない。本も趣味物もなく、少量の着替えしかない。
その着替えすら、ナデシコの制服と私服が数枚だ。
肌着や寝巻きは一瞥でナデシコの購買で買ったものと判る。
それぐらい、何もない。デイバッグ一つ分の私物しかない。
「大分、部屋片付いてるんだね。
殆ど物がない」
「……そうかな」
「うん、二三泊の旅行って感じ。
やっぱり予定とは変わっちゃった?」
そう言って、俺は特に感情を込めずに笑って見せた。
別に探りを入れるほどのことじゃない。
ほぼ確定事項だったから、ただの確認として聞いただけ。
それでも、それなりに驚かせたようだった。
一瞬だけ目を見開くと、副長はすぐに真面目な顔に戻った。
その後、小さく笑うと、俺を気の抜けた表情で見てくる。
「――まいったね。
ワザとだったんだ、タキガワ君」
「……まあ。
帰りたそうにしてたからね」
それは、ミスマル提督がナデシコを接収しにきたとき。
どちらかと言わずとも、副長は連合軍よりだったわけで。
ナデシコを遊ばせておく理由はないとも主張してたし。
元よりトップエリートの彼なのだ。
普通に、ナデシコに乗らなければ軍の主流に乗っていた。
彼の性格的にも、わざわざ脇道に逸れるような感じでもない。
だから、彼は最初からあまり乗り気ではなかったのだ。
ただ、ついてきただけ、それ以上の何者でもない。
そんなのは短時間見ているだけの俺でも判る程度のもので。
主流から外れようとする、ミスマル・ユリカ。
彼女を心配してついて来た彼は、今の状況をどう感じてるか。
……当初の目論見とは、大きく外れたのではないかな、と。
「やっぱり、今でも帰りたい?」
「……微妙なこと、聞くね」
そんな彼も、最初の頃と同じままの感情ではいられない。
一度はナデシコに乗り続けるのも有りだと、思った副長だから。
ま、色々あったから、なんて言葉で誤魔化すのは卑怯だけど。
「――副長は。
正義の味方って、憧れた?」
「……まあね、昔の話だけど」
そういって、目をそらす副長。
生活に困らず軍人を目指すのは、復讐者か正義の味方だと思う。
副長は間違いなく、小さい頃に正義の味方に憧れた口だ。
正義の味方なんて職業は、ない。
だけど、それっぽいものなら、ある意味幾らでもある。
軍人というのはその回答の一つであり、4番手ぐらいだろう。
しかし、それっぽいだけでそれそのものではない。
正義の味方“じみている”だけで、正義の味方ではない。
俺は嫌味な質問であることを理解しながら、副長に聞いた。
「連合軍はどうだった?」
「判ってて聞くなよ」
当然、綺麗な正義の味方なんてどこにもいないわけで。
人間関係とか利害関係とか、決して一枚岩なんかであるわけもなく。
それでも連合軍にいる理由はきっと、力が必要だから。
誰かを守ったり、正義を為したりするには力がいるわけで。
その力は個人で持てるものではない。個人で持ってはいけない。
だからこそ、組織で持って、組織の中でパイを奪いあう訳で。
「艦長は。
艦長は、変えてくれそうって感じ、するよね」
「……ああ。
だから憧れてるし、嫉妬してる」
副長は艦長に、主流のままでいて欲しかったのだ。
家柄も本人の実力も、何より必要なカリスマ性も申し分ない。
彼女なら、正義の味方になってくれると信じてたんだろう。
……あれだけの才能を、間近で見て。
羨ましさも、嫉妬も、憧れも、何も抱かないなら。
きっと、副長はもっと楽に人生を生きられた人だと思う。
俺は、どうなんだろうか、正直自分がよく判らない。
努力なしで身に付けられるレベルの能力でないことは判るけど。
かといって、ゼロから育てられる程のものでもないのも判る。
なんだかんだで、努力してないわけではないけど。
悔しいと感じるほどの努力をしなくても、なんとかなったから。
副長を判ってはあげられても、共感だけはしてあげられない。
「――変えて、欲しいね」
「本当に、ね」
そう言いながら、俺はポケットに手を突っ込んだ。
財布を取り出して、その中にある小さなチップを1つ出す。
一般的なストレージ、わざとネットに繋げていないもの。
データのやり取りをするだけなら、コミュニケで構わない。
当然、ネットに繋げていないのは繋げたくないから。
そんな単純なことは、副長には直ぐ分かることに決まってた。
「――これは?」
「同一データは、これ含めて3つ。
俺とプロスさんと、これ」
言いながら、俺は目を伏せた。
中に入ってるのは、よくある形式の動画ファイルだ。
撮影時間優先で、画質は粗めといっても問題ないレベル。
「ナデシコのデータベースからは、消した。
ホシノさんでもサルベージ不可だよ」
「……そういう、データなんだね?」
俺は言葉にせず、頷くことでそれに応えた。
これは、そういうデータだ。
知る必要がない人が、知る必要がない情報が入っている。
俺は見た。
何度も見た。
何度も見て、何度も見て、何度も見て、もう忘れられない。
色んなことが、色んな間が悪かったのだ。
誰もいないはずの場所に、偶然彼が行ってしまっただけ。
反射的に、しなくてもよかったことをした誰かがいただけ。
この場合、誰が悪かったのだろうか、と考えた。
誰も行かないように、立ち入り禁止の札を通り越した彼か。
それとも、上司として引き金を制止出来なかった彼か。
多分、きっと誰も悪くない。
たぶんきっと、何もかも上手く噛み合わなかっただけだ。
悲しくないわけではないが、ただそれ以上に虚しく思えた。
「――貰っとく。
指示がない限りは、他言無用で」
「判った、ありがと」
なんとなく、俺はお礼を言った。
同様のことはプロスさんにも言われていたけど、それでも。
誰かに感謝でもしなければ、悪意を振りまきそうだった。
……これから、きっと大変だ。
動画を隠した所で、彼が死んだ事実は決して隠せない。
俺がしているのはその瞬間を誰にも見せようとしないだけ。
それを為した人を、特定させようとしないだけのことだ。
撃った人間には罪はない、あの人は任務として行ったわけだから。
だからそれを間接的に命令した上司や組織そのものの責だ。
けれど、この艦のクルーの多くは一般人だ。
俺は立場上理解せざるを得ないが、犯人を憎む人もいるだろう。
それが判っているからこそ、政治的なことを含めて、隠蔽。
――それにしても、さ。
なんで俺みたいな適当な人間が生き続けているのにさ。
どうして真面目に生きて、必死になっている人が先に行くのかな。
努力しても、越えられない壁というのがこの世界にはあり。
努力しなくても、壁の向こうから傍観できる俺みたいなのもいて。
この世界は決して優しくはないし、公平なものでもなかった。
「――正義って。
なんなんだろうねぇ」
「僕に聞かれてもね」
例えそれが無意味な質問だとは判っていても。
俺は問いかけることを、我慢できそうにはなかった。
……それに応えたのは副長の苦笑いだけだったけれど。