Encounter-佐為の目覚め-   作:鈴木_

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03 コンタクト

日本のプロ棋士を引退し中国チームと契約してから、行洋はすでに一年の半分以上を海外で過ごすことが多い。

そのスケジュールの中、日本の自宅に戻っていた行洋を、門下筆頭の緒方が一枚の棋譜を携え訪問していた。訪問の理由は、久しぶりに日本に戻った師匠への挨拶なんて気軽なものではなかった。

緒方の表情は険しく、玄関に出迎えてくれた明子へ表面上の挨拶と笑みを向けただけで、研究会を開いていた部屋へ通されても気を緩めることはない。真剣な眼差しのままだった。

 

「これがsaiが打った棋譜?」

 

「はい」

 

緒方が差し出した棋譜を、上座に座る行洋が受け取りじっと目を通す。

その行洋を静かに見守るのは棋譜を差し出した緒方の他に、正座している息子のアキラもだった。

こうして緒方が久しぶりに塔矢邸にやってきた訳をアキラは知っていたし、棋譜そのものならすでに知っている。

 

なぜならば、またもや若手棋士たちが集まり碁の勉強会をしている最中に、そのうちの一人の携帯へネット碁にsaiが現れたと知らせるメールが入ったからだ。

その場にいた棋士全員でsaiの対局をリアルタイムで観戦し、終局後は検討までしたのだから。

 

観戦中にアキラの頭を過ぎったのは、やはりヒカルだった。こうしてsaiがネット碁に現れている今なら、ヒカルがsaiなのか確かめられるかもしれないと思った。

しかしヒカルがどこにいるかも分らないのでは探しようもなく、運良くヒカルが電話に出たとしても本当にネット碁をしていないのかまでは分らない。

現れたsaiが打った対局は一局だけで、終局するとすぐにログアウトしてしまい、以前と同じように何も語らずネットの闇に消えてしまう。

 

惜しむらくはsaiと対局した相手がそこまでの棋力を持っていなかったことだろう。

saiが打ったのは指導碁だ。実力が自分より劣る相手を丁寧に導いている。

その上でsaiの隠しきれない実力が対局棋譜に現れていた。

そんな棋譜を見て、行洋がどんな反応を示すのか。行洋がプロ引退後もsaiとの再戦を強く望んでいることをアキラは知っている。

 

たまたま夜中に目が覚めてしまい、水を飲もうと起きた廊下の先で、行洋の部屋から漏れ出る光。

対面に白の碁笥が置かれ、黒の初手を打ったまま、行洋はじっと盤上を眺めていた。

あれはsaiの一手を待っていたのだとアキラは思う。そしてきっと今も行洋はsaiを待ち続けている。

ならば、再びネットに現れたsaiに行洋がどんな反応をするのか。行洋の一挙一動を見逃すまいと2人が見守る中、

 

「丁寧な指導碁だ」

 

対局棋譜に目を通したらしい行洋が、棋譜をそう評価する。それ以上でもそれ以下もない。

いくら行洋でもsaiの棋譜を見れば、多少なり反応があるだろうと予想していた緒方とアキラの思惑とは裏腹に、行洋の反応は至って淡白だった。

もっと厳密にさかのぼれば、saiが再びネットに現れたと行洋に伝えたときでさえ、行洋は全く平静を取り乱すことはなかった。

 

「あまり驚かれないのですね、お父さん」

 

とアキラ。

 

「驚いてはいる。それと同じくらいだけ喜びも。私との対局を最後にずっと現れなかったsaiが再び現れた。出来ることならもう一度saiと対局してみたいものだ」

 

当たり障りのないごく普通の返答であり、期待外れの反応

言い終えて、行洋は棋譜を緒方の方へ置く。

ようやくそこで行洋は表情を緩めた。

 

「saiがネットに現れたか」

 

感慨深く呟く行洋に、棋譜を持ってきた緒方も行洋の心中を図りかねる。

 

(だが、これで塔矢先生へ進藤がsaiとの対局を持ちかけるか、それとも逆か。きっと動きがあるはずだ)

 

3年前はあと少しのところでsaiと繋がっているだろうヒカルを逃してしまい、行洋も口を閉ざしたことから、緒方はあと一歩のところでsaiに辿り着くことが出来なかった。

 

(saiの正体云々はこの際どうでもいい。対局さえ出来れば)

 

当時五冠のタイトルホルダーだった行洋に勝ったsai。

神の一手に最も近いと謳われていた行洋を退けた棋士に、高みを目指す碁打ちとして惹かれないはずがなかった。

最後にsaiが現れてから3年の月日が経ち、今では緒方も複数のタイトルを保有し、自身もそれなりに棋力が磨かれたと自負している。

棋力だけなら決して当時の行洋に劣らないだろう。

今の己ならばsaiに勝つことが出来ると緒方は本気で考えている。

しかし、そんな二人の思惑と行動を行洋は予め見越していたように、腕を組み静かに目を細める。

 

(全ては佐為の予想通りということか)

 

ネット碁に己が現れれば、必ず緒方とアキラが動くと見越していた佐為の予見は、行洋も感心するほど見事に的中した。

だからこそ佐為が予め行洋に接触し釘を刺した行動が、今更ながらに分ったような気がした。

 

行洋が中国から日本に戻って3日と経たない日の午後、何の前触れもなく、その電話は塔矢邸にかかってきた。

最初に電話に出たのは行洋の妻である明子だった。家の電話とはいえ、行洋は家に誰もいない限り電話には出ない。それは古き日本の父親像からくるイメージからではなく、トップ棋士であった行洋に怪しい電話がかかってくることが少なくないからである。

 

高所得で資産がある行洋に、どこで電話番号を調べたか分らないが、怪しい投資話や勧誘が持ちかけられることがたまにあるので、用件が何にせよ、行洋への電話は明子かアキラ、または弟子の誰かがワンクッション置くようにしている。

どんな話を断るにせよ、本人が断るのと他人が間に入って断るのでは、棘の立ち方が違う。それに本人が直接電話に出てくると知られれば、チャンスと見て相手はしつこく電話をかけてくることが十分考えられた。

それらを踏まえてこの塔矢邸で行洋は出来るだけ電話に出ず、代わりに家人か門下の弟子の誰かが電話に出るようになっていた。

 

『突然のお電話失礼いたします。藤原と申します。塔矢行洋先生はご在宅でしょうか?』

 

落ち着いた、若い30前後の男の声が電話口から明子の耳に届く。

それに対し、明子は失礼のないよう気をつけながら聞き返す。声の印象がどんなに良くても、素性と用件の分らない者を行洋に取り次ぐ訳にはいかない。

 

「主人ですか?どちらの藤原様でしょうか?主人にどのようなご用でしょう?」

 

『失礼致しました。私は藤原佐為と申します。塔矢先生には私の名前をお伝えしていただければ、お分かりいただけるかと思います』

 

「お名前をお伝えするだけでよろしいのですか?」

 

『はい』

 

明子も初めて聞く名前と声の主だったが、フジワラサイと名乗った相手は、動じず淡々と受け答えた。

用件を言わないのは明子も気になったが、名前を伝えれば分るというならば、あとは行洋が判断するだろう。知らないと言えば、ソツなく電話を切るだけだ。

 

「お名前は、フジワラ、サイ様でよろしかったでしょうか?」

 

『そうです』

 

「少々お待ちくださいませ」

 

電話を一度保留にし、明子は自室で棋譜並べをしているだろう行洋の元へ行く。

 

「あなた、入りますよ」

 

一声かけてから戸を開き、黙々と棋譜を並べている行洋に、

 

「フジワラサイ、とおっしゃる方からお電話なのですけれど、ご存知ですか?」

 

電話で名乗った名前を伝えた。

すると、ピタ、と黒石を置こうとしていた手が止まり、持っていた棋譜集から行洋は顔を上げて明子の方へ振り向いた。

 

「フジワラ、サイ?電話の主は『サイ』と言ったのか?」

 

「ええ、若い男性のような声でしたけれど、用件を聞いても名前をあなたに伝えれば分ると言うだけで、お知り合いですか?」

 

名前しか名乗らない電話主に、行洋が反応したことを明子は意外に思いながら、電話を断るかどうか尋ねる。

どういう理由があるにせよ、用件を言わず名前だけ伝えてくれ、というのは胡散臭さがある。そういった類の輩を行洋は普段から嫌うのに、そんな素振りを一切見せず、広げていた棋譜集を脇に置き立ち上がると

 

「分った。出よう。それとこの電話のことは誰にも」

 

「分っております」

 

行洋が皆まで言い終わる前に、明子はフジワラサイという人物から電話があったことを誰にも言わないと約束する。

それを確認して行洋は電話の方へ向ったのだが、その歩みが心なしか足早になっていることに気付いていたのは、行洋本人ではなく明子だけだった。

保留ランプのついた電話の受話器を持ち上げ、小さく息をついてから行洋は保留解除ボタンを押す。

 

「はい」

 

『……こうして、電話越しとはいえ、私達が言葉を交わすのはこれが初めてなのですね。3年前の対局では、あれほど盤上近くに存在を感じていたのに』

 

明子が行洋に伝えた通り、電話口から聞こえてきた声は若い男の声だった。静かに、穏やかに、懐かしさを漂わせて語る声に、行洋は知らず震えた。

 

正体不明ならいくらでもsaiを語ることは出来るだろう。

ネットのsaiと同じ名前を名乗る相手につい立ち上がってしまったが、廊下を歩きながらフジワラサイと名乗る人物がネットのsaiではないかもしれないと疑った。

けれど、フジワラサイと名乗った電話の相手は、自己紹介もなく、3年前の対局を懐かしんだ。

 

「sai……」

 

「はい」

 

行洋が名前を呼ぶと、優しい響きが返って来る。

たった一言だけだ。

願わくばもう一度対局したい、もし叶うならsaiに直接会ってみたいと、ずっと3年間願い続けてきた行洋の言葉を、急くことなく待っている。

 

「もう一度、君と対局したい。またネット碁でもいいから」

 

『外で、お会いできませんか?日時は塔矢先生のご都合の良い日で結構です。場所もご指定頂ければ私の方で用意します。ただし、私と会うことは誰にも他言無用でお願いします。それは進藤ヒカルにもです』

 

会話にヒカルの名前が出てきて、間違いないと行洋は思う。

saiのニセモノや、行洋の資産に目をつけた輩なら、saiとヒカルの繋がりは知りえない情報である。その中でヒカルの名前を出したこのフジワラサイがネットのsaiと同一人物なのだと行洋は確信を得る。

だが、前回の対局ではヒカルからsaiとの対局を持ちかけられたのに対し、今回はsaiが直接電話してきた上、ヒカルにさえ知らせるなという意図が行洋は分らなかった。

 

「進藤君にも?進藤君は君がこうして私に電話をしていることを知らないのか?」

 

『知りません』

 

「何故そこまでして隠れようとする?進藤君と君は友人だったのでは?」

 

インターネット碁でも正体を明かさず、今回はヒカルにさえ秘密にしようとしている理由が思い当たらず、行洋は浮かんだ疑問をそのままsaiにぶつけた。

外で直接会おうとしている相手に、それを問うくらいは許されるだろう。それとも、たったそれくらいもsaiは一切の詮索を許さないのか。

 

『友人……そうですね、塔矢先生の仰られる通り、私達はとても親しい、かけがえのない友人でした』

 

過去形で締めくくった言い方に、行洋の眉間に皺が寄る。

 

『ですが、今ばかりはこれ以上の詮索はなさらないようお願いします。ご理解できないかもしれませんがこれだけは忘れないでください。こうして私が塔矢先生にお電話したのは、ヒカルを守るためだということを。そしてヒカルを守るために、『塔矢先生に電話する』というリスクを私が犯さなければならなかったということを』

 


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