やはり仮想現実でも俺の青春ラブコメはまちがっている。 作:鮑旭
1月下旬。千葉県某所。
駅前の商業施設に居を構えるカフェテラスには、コーヒーの香りが立ち込めていた。
路地に面したテラス席には柔らかな陽が差し込んでいたが、2月も間近に迫った今日は冷え込みも厳しく、利用客の姿はない。対照的にガラス張りの店内は盛況で、若い女性客を中心に席が埋まっていた。
その一角、窓際のテーブル席。
腰かける3人の少女たちは、既に買い物を済ませたのだろう。どこかのブランドの紙袋を脇に置いて、会話に花を咲かせていた。
「さっちーに、シリカちゃんに、フィリアちゃんに……ちょっと、ヒッキーの周りに可愛い女の子多すぎない!?」
そう言って頭を抱えるのは、サイドハーフアップのお団子ヘアーが特徴の少女、由比ヶ浜結衣だった。その隣で、さっちーと呼ばれたショートヘアーの少女、
「か、可愛いなんてそんな……」
「そういえば沙知さん、ゲーム内で一度ストーカー男に言い寄られていたわよね」
澄ました顔でコーヒーを口にしていた少女、雪ノ下雪乃はなんでもないことのようにそう呟いた。しかしそれを聞いていた由比ヶ浜は、驚きに大きく目を見開く。
「ええっ、ストーカー!? 大丈夫だったの!?」
「う、うん。ユキノに相談したら、すぐ来てくれて……」
「その時私は自警団のようなギルドにいたのよ。再三の警告にも従わないから実力行使で排除したわ」
「あ、あははは……。頼もしいけど、ちょっと怖いね……」
引きつった笑みを浮かべ、由比ヶ浜はそう溢したのだった。
SAOがクリアされた後も、一部のプレイヤー同士での交流は続いていた。特に歳も近くもともとゲーム内で親しくしていたユキノとサチの2人は、現実世界に帰還してからも一緒に買い物に出かけるほどの関係である。
由比ヶ浜とサチの出会いはつい最近だったが、底抜けに明るい由比ヶ浜と引っ込み思案のサチは相性が良かったのか、既に友人と呼べるほど親しくなっていた。今日のように3人で遊びに出かけるのは初めてのことだが、始終和気あいあいと会話を楽しんでいたのだった。
「……ねえねえ、さっちーもやっぱり、ヒッキー狙いなの?」
「ええ!? その、えっと……」
「それは私も気になるわね。どうなの?」
神妙な顔をした由比ヶ浜が、ちょっとした爆弾を投入した。サチは助けを求めて雪ノ下の顔を見たが、無情にも興味ありげな視線が返ってくる。そんな両者に挟まれて逃げ場がないことを悟ったサチは、やがて恥じらうように顔を伏せ、口を開いた。
「いや、その、狙ってるっていうか……。そ、尊敬してるし、戦ってるところとかはカッコいいなって思ったりしたけど……その、最近はあんまり話もできないし……わ、わたしは……」
「うーん。ゆきのん、この反応は?」
「クロね」
「ええっ」
即断で有罪判決を受けたサチは、しかし抗弁することなく顔を赤く染めて俯いた。そんな彼女を横目に、由比ヶ浜はため息をついてテーブルへと突っ伏す。
「はあー。なんかもう、ヒッキーすっごいモテモテじゃん……」
「そうね。でもSAOでの彼は控えめに言ってもとても格好良かったから、それも仕方のないことかもしれないわ。ダンジョンに私を助けに来てくれた時の彼なんて、それはもう……」
「ゆきのんがストレートに
恥じらくことなく少女の顔を見せる雪ノ下に、由比ヶ浜は戦慄したように声を荒げた。彼女はそのままの勢いで、まくし立てるように言葉を続ける。
「そ、それでさっ! ゆきのんはヒッキーに告白したんだよね!? この前はあんまり聞けなかったし、詳しく教えて!」
俯いていたサチもこれには興味があったのか、さりげなく耳をそばだてる。雪ノ下はそれに気づいていたが、特に気にすることもなくあっさりと答えたのだった。
「詳しくといわれても……告白して、返事は保留してもらってる、それだけよ。その後ゲーム内でお弁当を作ったり、毎朝起こしに行ったり、ボディタッチを増やしてみたり色々とアプローチしてみたけれど、あまり効果は感じなかったわ」
「すごい色々してるじゃん!」
「ユキノって、結構肉食系なんだね……」
「それについては私自身も驚いているわ。私ってこんなに彼のことが好きだったのね」
「肉食系ゆきのん……ダメ、勝てる気がしない……」
「あはは……」
脱力するように呟く2人。しかし雪ノ下は一呼吸置くようにコーヒーに口を付けたあと、ゆっくりと首を横に振った。
「でも、最近は私もあまり彼とは話せていないわ。どうしても……その、少し後ろめたい気がしてしまって」
「……それってやっぱり、アスナちゃんのこと?」
「そうね」
コーヒーカップをソーサーに戻し、目を伏せる。店内には軽やかなジャズのBGMが流れていたが、3人の間には重苦しい空気が広がっていった。
やがて、再び雪ノ下が口を開く。その物憂げな口調には、少しの嫉妬と羨望が込められていた。
「SAOでのことは詳しく言えないけど……ハチくんと、桐ケ谷くんと、結城さんの3人は特別なのよ。悔しいけど、余人には決して入り込めないような、そんな強い関係」
「そうだね……。アスナが目を覚まさないのはわたしも悲しいけど……ハチとキリトは、そんなわたしから見ても痛々しいくらいだもん。何かしてあげられたらいいんだけど」
「結城さんが帰ってこない限り、根本的な問題は解決しないでしょうね」
SAOプレイヤー《閃光》アスナ――結城明日奈のことを、由比ヶ浜は名前だけ知っていた。断片的に伝え聞く情報だけでも、ゲーム内で比企谷八幡と相当親しかったのだということはわかる。
それに嫉妬の感情が湧かないといえば嘘になる。だが根が善良な女の子である由比ヶ浜は、純粋に彼女のことを心配していた。
「……アスナちゃん、目を覚まさないのかな」
「ニュースを見る限りだと、まだ捜査に進展はなさそうね」
それは世間一般での共通認識だった。SAOクリアから2か月ほどが経つが、その後めぼしい情報は一切上がっていない。そんな現状に苛立ちを覚えながらも、ただの学生に過ぎない雪ノ下にはどうすることも出来なかった。
それきり、3人の間を沈黙が支配した。重苦しい空気の中、やがて店内のBGMが煩わしく思えてくる。その時、不意に電子音が鳴り響いた。
「あ、ごめん、電話だ。……小町ちゃん?」
テーブルに置いてあったスマートフォンを手に取った由比ヶ浜が、画面を見て呟く。比企谷八幡の妹であり、高校時代の後輩でもある小町とはそれなりに親しい間柄だったが、最近はあまり連絡を取っていなかった。
急に電話なんて、何の用事だろう。そうして内心首をかしげながら、由比ヶ浜は電話を取った。
「やっはろー。どしたの小町ちゃ……え?」
瞬間、笑顔だった由比ヶ浜の顔が固まった。目を見開き、震えた手でスマートフォンを握る。
何やらただ事ではないらしいと、雪ノ下とサチは案ずるように彼女に視線を送った。しかし当の由比ヶ浜にはそれに応える余裕はなく、震える声で呆然と呟いた。
「ヒ、ヒッキーが――」
途中、何度かの休憩を挟みながら、俺たちは目的地であるリュナンという村に到着した。
シルフ領であるという森――
どうも自領の集落においてプレイヤーはシステム的に保護される仕様のようで、つまり他種族を一方的に攻撃できるということだ。PK推奨とまで言われるこのゲームで、他領の集落に入るような度胸を持ったプレイヤーはそういないのだろう。
道すがらサクヤからそんな説明を受けながら、村に着いた俺たちは適当な店を選んで腰を落ち着けた。宿屋と併設された酒場のような店だ。
「ここはわたしが持つから好きに注文してくれ」
「……どうも」
俺は養われる気はあっても施しを受ける気は――などと咄嗟に断りそうになったが、堪える。ここは流れ的にも素直に受け入れた方がいいだろう。
サクヤはオサレなシャンパンのようなものを注文していたが、一応まだ未成年である俺は酒類は固辞して適当な軽食を頼む。食べ過ぎるとリアルに帰った時に晩飯が食えなくなるからな。小町に怒られないように腹八分目にしておかなければ。
サクヤの部下だというシルフのプレイヤーたちも、各々テーブルについて勝手にくつろぎ始めている。だがフリックと呼ばれた三白眼の男だけは、サクヤを護衛するように仁王立ちでそばに控えていた。なんでこんなにピリピリしてんのこいつ。
そんな俺の視線に気付いたのだろうか、サクヤは苦笑して口を開いた。
「こいつは少し融通の利かないやつでね。いつものことだから気にしないでくれ」
「いや、本人がそれでいいならいいけど……」
いわゆるロールプレイという奴だろう。さしずめ『戯れに市井を見物する貴人の護衛騎士』と言ったところか。アバターからして別人になりきれるこういったVRゲームでは、こういうプレイヤーも珍しくない。
護衛を侍らせながら特に気取ったところのないサクヤも、貴人としての振る舞いが堂に入っている。薄々感じてはいたが、こいつは結構大物なのかもしれない。
村の大衆酒場といった雰囲気の店で、上品にグラスを傾けるサクヤは少し場違いに思えた。しかし本人はそんなことを気にした様子もなく、会話を楽しんでいるようだった。
「――それできみは今後、槍を使うつもりなのか」
俺がゲームについて質問をして、サクヤが答える。しばらくそんな問答を続けていたが、いつの間にか話題は俺の話へと変わっていた。
べらべらと自分のことを話すのはあまり趣味じゃないが、聞かれて不都合がある話でもない。素直に装備について相談するつもりで、俺はサクヤの言葉に頷いて返した。
「ああ。前にやってたゲームじゃずっとそれだったし」
「盾は?」
「使わない。欲しいのは両手持ちの2メートルくらいの奴だな。できれば反りのない直槍がいい。そういうのが買える場所、この村にあるか?」
「それはもちろん。ここは村と言ってもそれなりに大きいからな。武具を扱っているNPC商店はいくつもあるし、資金さえあればすぐに望みの装備は整うだろう。ただ……」
少し難しい顔をして、サクヤがグラスを置いた。俺も食事の手を止めて彼女を見つめる。
「そうなると、
「随意飛行?」
「コントローラを使わない飛び方さ。両手武器を使うなら、コントローラは使えないだろう?」
「ああ、確かに」
「戦う時に飛べないとなると、かなり不利だからな」
戦いでは基本、上を取った方が強いとされる。攻撃に重力を利用しやすかったり、相手の頭部を狙いやすかったり、色々利点があるのだ。まあ普段マスゲーをやってる奴にとっては常識だな。
複雑な空中戦闘では一概にそう言えるものでもないだろうが、そもそも飛べなければ話にもならない。飛行ユニットとはそれだけで強みになるのだ。
しかし、随意飛行か……。コントローラなしとなると、どうすればいいのか全くわからないぞ。そもそも練習の仕方すら想像できない。
そんな俺の疑問に答えるように、サクヤが背中の
「こう、肩甲骨に意識を集中して、
「運動神経は悪くない方だと思うんだけど……」
「わたしの経験上、そういったものとはまた別の才能だよ。仮想世界の適性とでも言うのかな」
「仮想世界の適性ね……よくわからん」
SAO事件のせいで2年以上も仮想世界にどっぷりと浸かっていたわけだから、適性がないことはないと思うのだが……。言われた通り肩甲骨に意識を集中してみたが、
そうして首を傾げる俺に、サクヤは励ますように声をかける。
「まあ森でのきみの立ち回りを見た感じだと、筋は良いと思うよ。よければこの後――」
「サクヤ様、そろそろ」
「……ああ。もうそんな時間か」
フリックの耳打ちにサクヤはすっと表情をなくし、まだ飲みかけのシャンパンをテーブルに置いた。
「すまない。楽しくてつい話し込んでしまった。ちょっと都合があってね。私たちはこのあたりでログアウトさせてもらうよ」
「そうか、わかった」
サクヤが声をかけるまでもなく、彼女の部下だというシルフたちは席を立ち始めていた。彼らの姿を何となく目で追うと、そのまま併設された宿屋のカウンターに声をかけている。
ホームタウン以外で安全に即時ログアウトするには、宿屋に泊まるか、専用アイテムを使用してキャンプ地を作る必要があると説明を聞いた。彼らはここを利用してログアウトするつもりなのだろう。
残された食事を一気に頬張り、飲み下す。一息ついて、俺は目の前のサクヤに軽く頭を下げた。
「色々と教えてくれて助かった。このあと俺はもう好きにしていいんだよな?」
「構わないよ。きみが本当に
「ここで準備したら世界樹の方に向かうつもりだから、それは問題ないな」
「そうか。それならいい」
立ち上がったサクヤはしかし、少しためらうような仕草をして立ち止まった。席に座る俺を観察するようにじっと見つめている。そんな彼女の様子に、後ろに控えるフリックも少し困惑した表情を浮かべた。
居心地の悪さを覚え、それを誤魔化すために俺が適当に口を開こうとした瞬間、意を決したようにサクヤが言葉を発した。
「なあ、ハチくん。もしかして、きみは――」
そこまで言って、言葉は途切れた。彼女はしばらく言葉を探すように視線を漂わせていたが、やがて諦めたように目を伏せ、首を横に振った。
「……いや、なんでもない。機会があればまた会おう。わたしたちはこれで失礼するよ」
「ん、ああ。じゃあな」
そんな妙な雰囲気の中、別れを交わしたサクヤは部下を連れて2階の宿屋へと消えていった。
最後のサクヤの態度に疑問を覚えながらも、俺はすぐに頭を切り替えてこれからのことを考える。少し迷ったが、やがて俺も一旦ログアウトすることに決め、彼女たちを追うように宿を取ってその場を後にしたのだった。
イレギュラーが重なったし、一旦リアルでキリトに連絡が取りたい。向こうも向こうでゲームを始めているはずだし、まずは情報交換するべきだろう。
早々にALOをログアウトすることを決めた俺の頭には、そんな考えがあった。
まあそれを抜きにしてもフルダイブ型VRゲームでは意識してこまめに休憩を取らないと危険なのだ。さすがに衰弱死するようなことはないと思うが、ちょっとした粗相くらいはしてしまうかもしれない。この歳でお漏らしとか勘弁して欲しい。万が一そんな姿を小町に見られてしまったら、もう生きていけない。
宿屋のベッドで横になってログアウトのボタンを押した俺は「お疲れ様でした」という女性の合成音声に見送られ、仮想世界を後にする。徐々に身体の感覚が曖昧になってゆき、視界が暗くなっていった。
死ぬときって、こんな感じなんだろうか。そんなことを考えているうちに、意識が現実へと引き戻された。同時に身体の感覚が鮮明になる。
急に現実世界に放り出されるような感覚。正直あまり気持ちのいいものじゃないが、いずれは慣れるだろう。
大きく息をつき、気だるい身体を動かしてナーヴギアを外す。そうしてベッドから起きた瞬間――俺は目に入った光景に驚愕し、全身を硬直させた。
六畳程度の、手狭な部屋だ。ベッドと本棚と学習机で手一杯の、見慣れた自分の部屋。しかしそこに立っているのは、本来この部屋にいるはずのない人物だった。
「ハチくん。そこに直りなさい」
腕を組み、仁王立ちで俺を見下ろすのは雪ノ下雪乃である。氷のような視線に射竦められ、俺は挙動不審になって口を開く。
「え? ……は、え? 雪ノ下? なんでうちに」
「いいから、そこに座りなさい。正座よ」
「アッ、ハイ」
全身から怒気を放つ雪ノ下。元から愛想のある奴ではないが、ここまで怒りをあらわにするのも珍しい。そんな彼女を前に反論など出来るはずもなく、俺は訳もわからないままベッドから降りて正座の体勢に入った。しかしそれを邪魔するように、俺の懐に小さな影が飛び込む。
「おにいぢゃんっ!!」
「おぐっ!?」
不意打ちで腹部にタックルを食らった俺は、くぐもった声を上げた。こみ上げる嘔吐感を堪えながら、懐に飛び込んできた小町を見下ろす。小町は顔をくしゃくしゃに歪め、俺に縋りつくように泣き崩れていた。
何処か、既視感のある光景だ。そうだ、あれはSAOをクリアして帰還した日の――と、そこまで考えてハッとした。
雪ノ下にばかり気を取られていたが、部屋には他にも人影があった。目元が赤く腫れた少女と、不意に視線が合う。
「ヒッキー……」
「由比ヶ浜……。それに、サ……
「あはは……。お、お邪魔してます」
部屋の隅で涙を堪えるように小さくなっている由比ヶ浜に、それに寄り添うサチ。徐々に、状況が理解出来てきた。同時に罪悪感が胸に広がる。
すすり泣く小町の声だけがしばらく部屋に響いていたが、やがて傍らに立つ雪ノ下が怒気を散らすように大きくため息を吐いた。
「小町さんから連絡をもらったのよ。あなたがまたあのナーヴギアを被って、自室で眠っているってね」
それを聞いて、項垂れた。
つまりはそういうことだ。ナーヴギアを被って眠っている俺を発見した小町が、驚いてこいつらを呼んだのだ。
きっと、2年前のあの日を思い出してしまったのだろう。小町はまだ胸の中で泣きじゃくっている。落ち着かせるように、俺はそっとその背中に手を置いた。
「下手をすれば警察沙汰になっていたわよ。全く……心配させないで」
「悪い……」
雪ノ下の言葉からはもう怒りは感じられない。冷静な瞳で、俺の傍らに置かれたナーヴギアを見つめていた。
「それで、何故またそんなものを被っていたのか……説明してくれるわよね?」
「……ああ」
全ては俺の説明不足が招いた結果だ。SAO内部のことから今までの経緯、俺の醜態まで全部含めて包み隠さずに話そう。
そう決意して、俺は頷いたのだった。
小柄な女子ばかりとは言え、総勢5人ともなると俺の部屋では手狭である。その後俺たちはすぐにリビングへと場所を移すことになった。両親はいつものように仕事で遅くなるはずなので問題ない。
ひとまずお茶を淹れて、一息ついた。そうしてすすり泣く小町が少し落ち着くのを待ってから、話を始めた。
SAOの中で過ごした2年間について。
俺の傍らにはいつもキリトと、アスナという名の少女がいたこと。ゲーム攻略の過程で、多くの苦難を2人に助けられてきたこと。
SAO終盤、茅場晶彦とのゲームクリアを賭けた戦いの中。キリトによって茅場晶彦は討たれたものの、下手を打った俺を庇ってアスナがゲームオーバーになってしまったこと。
茅場の計らいによってアスナの死は免れたが、SAOクリア後も彼女が目を覚ますことはなかったということ。
そんな現実に打ちひしがれ腑抜けていた俺を、キリトが立ち直らせてくれたこと。
ようやくアスナの手がかりを得て、彼女を助けるために動き出したこと。
時間をかけて、ゆっくりと説明した。ふと見ると、窓から差す光はもう赤く伸び始めている。熱めに淹れたお茶も、既に冷めきっていた。
俺が語る話には言葉足らずな部分も多くあったが、その度に雪ノ下やサチが補足をしてくれた。世間一般にはあまり知られていないだろうSAOの内情に、小町と由比ヶ浜の2人は最初こそ驚きに目を見開いていたが、今は話の内容を反芻するように静かにテーブルの上を見つめている。
沈黙の降りたリビングにはストーブが温風を吹き出す音だけが響いていた。やがて、事実を確認するように由比ヶ浜がぽつりと呟く。
「ヒッキーが、SAOを終わらせた英雄……」
「違う」
すぐに否定の言葉を口にした。思いのほか強くなってしまった語調に、由比ヶ浜は驚いたようにこちら見る。俺は目を逸らし、苦い気持ちで口を開いた。
「茅場を倒して、SAOを終わらせたのはキリトだ。あの時俺は……結局、何も出来なかった」
キリトに喝を入れられて立ち直ったとはいっても、後悔がなくなったわけではなかった。あの時キリトやアスナのように、俺もシステムに抗うことが出来ていれば――その忸怩たる思いは決して消えることはない。
「あなたが自分を責めるのは、あなたの勝手だけれど」
苦い記憶に思考が沈んでいく俺を、ふとすくい上げたのは雪ノ下の言葉だった。迷いのない強い口調で、彼女は真っ直ぐ俺に語り掛ける。
「自分が積み上げてきたものまで否定するのはやめなさい。あなたが、あなたたちが戦い続けてきたからこそ、あの茅場晶彦に手が届いたのよ。最後の戦いであなたが何もできなかったのだとしても、それでそれまでのあなたの行いがなくなったわけじゃない。少なくともわたしは、あなたに命を救われたわ」
「わ、わたしも」
雪ノ下に続いて、意を決したようにサチが口を開いた。強く握りしめた両手がテーブルの上に置かれている。
「ハチがいなかったら、今ここに居なかったと思う。たぶん何処かでモンスターに負けて、ゲームオーバーになってた。ハチが、そんなわたしを助けてくれたんだよ。戦わなくてもいい、道はひとつじゃないって、そう教えてくれたんだよ。だから、わたしにとって……ハチは間違いなく
俺は何か言葉を返そうとして口を開き、しかし形にはならなかった。2人の強い目線に押されるように、目を伏せる。
「胸を張りなさい。あなたはSAOを終わらせた英雄。そして、これから結城さんを救うのでしょう。不甲斐ない姿は見せられないわよ」
「……そうだな」
雪ノ下の言葉に、俺は決意を示すように深く頷いた。
自分を許したわけではない。だが、卑屈な思いに囚われたままでは駄目だ。キリトやアスナの隣に立っていたいのならば、このままでは駄目なのだ。
英雄という名の重荷を背負って立つ。そしてアスナを救い出し、今度こそSAOを終わらせるのだ。
「お兄ちゃん、またナーヴギアを被るの……?」
しかし俺の覚悟に水を差すように、小町が震える声で口を開いた。赤く泣きはらした瞳で、じっと俺を見つめている。
「ねえ、もうやめよう? お兄ちゃんがやらなくても、警察の人が何とかしてくれるよ。もしあれを被ったまま、お兄ちゃんが帰ってこなかったら……」
話すうちに、小町の瞳に大粒の涙がたまってゆく。妹にこれほどの心労をかけてしまう自分に罪悪感が湧いたが、それでも俺には首を縦に振ることは出来ない。俺は目をそらさず、真っ直ぐに小町を見据えた。
「心配かけて、悪い。けど、これは絶対に俺がやらなきゃいけないことなんだ」
言い切って、じっと小町を見つめる。俺の覚悟を窺うように、小町もしばらくこちらを見つめていたが、やがて根負けしたように目を伏せて口を開いた。
「……もうっ、もうっ! そんな顔で言われたら、止めらんないじゃん! 人の気持ちも知らないで!! あほ! すかぽんたん! とーへんぼく! 八幡!」
「おい八幡は悪口じゃないだろ」
軽口を返しながらも、いつもの調子が戻ってきた小町を見て俺は安堵した。
袖でゴシゴシと目元を拭って、小町が言葉を続ける。
「小町にこんな心配させて……ちゃんとアスナさん連れて帰ってこなかったら、許さないんだからね!」
「ああ、わかってる」
テーブルに置いてあったティッシュを乱暴な動作で取り、小町が大きな音を立てて鼻をかんだ。もう言いたいことは言い切った様子で、それきり黙り込んでしまう。
妹のそんな年頃の少女らしからぬ仕草に苦笑しつつ、俺は軽く息を吐いた。次いで、隣に座る雪ノ下たちに視線を向ける。
「あー……。お前らも、今日は悪かったな」
「ううん。ちょっと驚いたけど、わたしは別に……」
「私も大丈夫よ。謝罪なら由比ヶ浜さんに。取り乱して大変だったんだから」
「ちょ、ちょっとゆきのんっ」
由比ヶ浜が焦ったように口を開いたが、雪ノ下は素知らぬ顔でそれを受け流した。やがて俺と視線が合うと、由比ヶ浜はばつが悪そうに顔を伏せる。
「……あたしもさ、ホントは小町ちゃんと同じ気持ちだよ。けど、止めない。ヒッキーがそこまで言うんなら、絶対止めらんないもんね」
言って、顔を上げた由比ヶ浜の大きな瞳が俺を見つめる。目元は赤く腫れていたが、そこに迷いや躊躇いはないように思えた。
「だから、応援する。あたしにも出来ることがないか考えてみる。ヒッキーに助けてもらったのは、あたしも同じだから……今度は、あたしも力になりたい」
「由比ヶ浜……」
「アスナちゃんのこと、大切なんでしょ?」
「……ああ」
由比ヶ浜の問いに、俺は誤魔化すことなく頷いて返した。ここで言葉を濁すことは、不誠実なことだと思った。俺の力になりたいと言ってくれた彼女に、そんな態度は取りたくなかった。
そんな俺の返事を聞いて、由比ヶ浜は笑顔を浮かべた。ただ、俺の思い違いでなければ、その笑みは何処か悲し気に見えて――。
「じゃあ、絶対助けなきゃ! 頑張ろうね、ヒッキー!」
そう力強く言い放つ由比ヶ浜を前にして、俺は余計な思考を振り払った。彼女の決意に水を差すようなことはするべきではない。そう思った。
この場の全員の視線が、俺に集まっていた。拳を強く握る。由比ヶ浜の瞳を真っ直ぐに見つめて、俺はもう一度大きく頷いた。