やはり仮想現実でも俺の青春ラブコメはまちがっている。 作:鮑旭
シックでオサレな雰囲気が漂うミーシェの街と同じように、ランタンによる暖色の明かりが灯された店の中は落ち着いた雰囲気に包まれていた。客がそれほど多くないことも相まって、ぼっち気質の俺にとっても居心地は悪くない。
石畳の床、木製のテーブルとイス、壁は下半分が煉瓦で上部は白地の粘土で形成されている。等間隔で設置された嵌め殺しの窓からは、半分の月が覗いていた。
ミーシェの街の一角。シリカが泊まっているという宿に併設される形で店舗を構えた食堂の一席だ。そこで向かい合うようにして俺たちは腰を下ろしていた。広場でのやり取りで気圧されるように食事のお誘いに頷いてしまった俺は、もうそのまま流されるようにしてここまで来てしまったのだった。
いや、まあ、さすがにこんな幼気な少女にあんなあざとい態度を取られてしまったら、元エリートぼっちのこの俺と言えども無下にすることは出来ないのだ。もしあれを無意識でやってるんだとしたら、お兄ちゃんこの子の将来が心配です。いや、意識的にやってるんだとしたらもっと心配なんだが。
そんな俺の心配をよそに、少し元気を取り戻したらしいシリカはテーブルに置かれたメニューを手にして楽し気な声を上げていた。
「ここ、チーズケーキが凄く美味しいんですよ」
「へえ……」
「ここは私が持つので、是非食べてみてください」
「いや、ホントそういうのいいから……。つーか、さすがに子供に奢られるほど落ちぶれてねえぞ」
「こ、子供って言うのやめてくださいっ。もう中学生なんです! 電車に乗る時だってもう大人料金なんですよ!」
「お、おう。そうだな」
いや、中学生って十分がきんちょなんだけどな……。まあ背伸びしたい年頃なのか、と勝手に納得した俺は適当に頷く。これくらいの子供の扱いは心得ているつもりだ。
そんなやり取りを経て、お互いに注文を決めた俺たちは店内を歩くNPCを呼び止めてそれを伝える。軽めにサンドウィッチと、デザートにチーズケーキ。シリカも似たようなメニューを注文していた。
一礼して下がるNPCを見送った後、「そういえばもう中学生って芸人いたよな」「誰ですかそれ?」などというくだらない会話をしている間にすぐ食事が運ばれてくる。地味なジェネレーションギャップにショックを受けつつ、俺は皿に置かれたサンドウィッチに手を伸ばした。
育ちが良いのか、シリカは食べる前に「頂きます」と呟いた後は黙々と食事を口に運んでいた。嫌な沈黙ではない。そして10分ほどでお互いにデザートのチーズケーキまで食べ終え、テーブルに置かれた麦茶に口を付けて一息つく。うん、おすすめするだけあって中々旨かった。
「そう言えば、ハチさんは何で迷いの森に居たんですか? ハチさんみたいな高レベルプレイヤーが来ても、特に何もないと思いますけど……」
「……いや、まあ、ちょっと仕事でな。ガイドブックの補完のために後になって結構下層とか中層にも行くんだよ」
至極当然の疑問を投げかけるシリカに対して、俺は適当に嘘をつく。実際にそう言った理由で中層以下のフロアに潜ることもあるので、説得力はあるだろう。シリカは特に疑う様子もなく、感心するように頷いていた。
もちろん俺がここに来た本来の目的は
色々と予想外の事態が重なったから本当はすぐにでもキリトたちと1度合流したいのだが、こちらから送ったメッセージにも反応がないので、おそらくまだ圏外にいるのだろう。メッセージのやり取りが出来るのはセーフティゾーンや圏内などの限られたエリアだけだ。
「風林火山の人たちってやっぱり忙しいんですね……。ハチさんにお礼がしたいと思って、前に何度か第1層にあるギルドホームに行ったことがあるんですけど、誰もいないことが多くて……。結局ハチさんにも会えませんでしたし……」
「あー、俺は攻略中は最前線から帰らないことが多いからな。他の奴らもフィールドに出てることが多いし。……つーか、よくうちのギルドホームの場所知ってたな。あんまり知られてないはずなんだけど」
「色んな人に聞いて、頑張って調べたんです! あ、安心してください。言いふらすようなことはしてないので!」
シリカはいい笑顔でそう答えたが、多分言うほど簡単なことではなかったはずだ。面倒な来客を回避するために、ギルドホームの場所はあまりおおやけにならないようにしているのだ。第1層の中でも何度か引っ越しをしているし、アルゴにも口止めをしている。つまりは情報屋に頼らず自力で見つけたということなのだが……意外とバイタリティあるなこいつ。
そんな会話をしていると、不意に視界の端で見慣れたアイコンがポップする。新着メッセージの通知だ。俺はシリカに一言断ってから、システムウインドウを開く。メッセージの送り主はトウジだった。
こちらから送ったのは「テイムモンスターの蘇生アイテムについて情報が欲しい」という簡潔な一文だけだ。しかしトウジはそれについてしっかりと調べてくれたらしく、メッセージウインドウいっぱいにその情報が載せられていた。少し申し訳ない気持ちになりながら、俺はそれを黙々と読み進める。
「……シリカ、良い知らせと悪い知らせがある」
おそらく《人生で1度は言ってみたい台詞ベスト10》に入るだろうその言葉を口にしつつ、俺はシリカに視線を送る。いや、別にふざけているわけじゃない。本当に朗報と悲報があるのだ。こういう場合は続いて「どっちから聞きたい?」と問うのが定石だが、話をスムーズに進めるために、その辺りはこちらが主動になって会話を進める。
「まずは良い知らせだ。第47層の南、《思い出の丘》ってところで手に入る《プネウマの花》ってアイテムが、テイムモンスターを復活させる効果があるらしい」
「ほ、本当ですか!?」
「ああ。確かな情報だ」
悪い知らせという言葉に反応して不安げな表情を浮かべていたシリカが、一気に頬を緩めた。
風林火山は曖昧な情報を許さない。誤った情報は即プレイヤーたちの死に繋がるからだ。故に全ての情報は真偽を確かめるために自分たちで裏を取っている。トウジが自信をもって知らせてくれた情報ということなら、信頼できる情報のはずだ。
「47層……今の私じゃ難しいけど、時間をかけてレベルを上げれば……」
「あー、それで悪い知らせの方なんだけどな……。2つある」
1人呟くシリカの言葉を遮って、俺は口を開く。目が合ったシリカが、再び不安そうに顔を曇らせた。何となく少し申し訳ない気持ちになった俺は彼女から視線を逸らしつつ言葉を続ける。
「……プネウマの花を手に入れるには、テイムモンスターを失ったプレイヤー本人が行く必要があるらしい。代わりに他のプレイヤーに取ってきてもらうっていうのは無理ってことだ。だからピナを復活させたいなら、お前自身が47層の思い出の丘を攻略する必要がある。ここまで分かるな?」
確認するように視線を送ると、シリカは真剣な顔でゆっくりと頷いていた。まあ元から自力で攻略するつもりのようだったし、ここまでは問題ないのだろう。しかし、ピナを復活させるうえで1番問題となるのはこれから話す内容だ。
「それで、もう1つは……ちょっと《ピナの心》のアイテムテキスト出してみてくれるか」
「え? あ、はい」
急に話を振られて一瞬困惑の表情を浮かべたシリカだったが、すぐに俺の言った通りにアイテムストレージを開いて《ピナの心》のアイテム欄をタップする。そしてテーブルに身を乗り出し、俺に見えるようにウインドウを向けた。それを確認し、俺はアイテムの耐久値を表す部分を指し示す。
「ここ。耐久値が減ってるだろ? ストレージに入れておいても、徐々に耐久値が減っていくらしい。話によれば、3日経つと全損して《形見》ってアイテムに変わるそうだ。テイムモンスターの復活にはこの《心》とプネウマの花が必要になるから……」
「つまり、タイムリミットは3日間だけってことですか……?」
「そういうことになるな」
「そんな……」
3日程度では、どれだけ必死に経験値を稼いだとしてもおそらく3レべル前後上げるのが精々だ。一般的にフロアを安全に攻略するための適正レベルは階層の数に10を足したものだと言われているので、第47層の場合は57レベルということになる。
今の自分のレベルでは攻略出来ないということを理解しているのだろう。俺の話を聞いたシリカは泣きそうな顔になって項垂れていた。
「お前、今レベルいくつだ?」
「45です……」
消え入るような声でそう答える。やはり適正レベルには達していない。だが――と考えながら、俺はしばらく前の記憶を掘り起こした。
第47層、思い出の丘。ほとんど一本道のフィールドダンジョンであり、そこに生息する植物系のモブは毒を付与するいやらしい攻撃を行ってくるが、その攻撃力自体はあまり高くなかった。故に毒に対する対策さえしてしまえば、それほど難易度の高いダンジョンではないはずだ。
「……そのレベルなら、47層でも即死することはない。俺がついていけば、多分思い出の丘もクリアできるはずだ」
「え?」
突然の俺の言葉に、シリカは目を大きく見開いてこちらを見る。それから視線を逸らしながら、俺は小さくため息をついて頭を掻いた。テーブルの上に置かれた、麦茶の入った陶器のコップを眺めながら言葉を続ける。
「今回お前のテイムモンスターが死んじまったのは、俺も無関係じゃないからな……。でも、勘違いするなよ。俺が付いていったとしても、リスクはゼロじゃない。絶対に守ってやるなんてことは言ってやれない。それでもお前がそいつを生き返らせてやりたいって言うんだったら……まあ、俺も手を貸す」
「ハチさん……」
我ながら、情けないと思う。ここで「安心しろ。俺が絶対守ってやる」と爽やかに言ってのけるのがヒーローというものだろう。だが、俺はそんな根拠のない自信は持てない。不慮の事態が絶対に起こらないと言う保証はないのだ。
リスクはある。それを理解し、結論を出すのはこいつ自身だ。俺に出来るのは精々それを尊重し、手を貸してやることだけだ。
数秒の沈黙。考えるようにして目を伏せていたシリカが、その顔を上げる。悩むまでもなかったのだろう。目が合ったその瞳には子供ながらに強い意志が灯っていた。
「ピナは大事な友達です。ハチさんが手伝ってくれるって言うなら……お願いしますっ! 力を貸してくださいっ!」
言って、シリカは深く頭を下げる。それを認め、俺も大きく頷き返したのだった。目が合ったシリカがほっとした表情を浮かべ、再び頭を下げて感謝の言葉を口にする。落ち込んだり喜んだり忙しい奴だなと思いながら、俺も口を開く。
「まあさっきは散々脅すようなこと言ったけど、思い出の丘自体はそんなに難易度の高いダンジョンじゃない。しっかり準備して行けばよっぽどヘマしない限りは大丈夫だ。ただちょっと問題が――」
「あらぁ? シリカじゃない」
話の途中、背後から人を煽るような甘ったるい声が掛かる。嫌な予感を抱えつつ、俺は咄嗟に盗み見るようにして後ろを伺った。
俺の視線の先、店の入り口に立つのは真っ赤な髪の女プレイヤーだった。その後ろには、まるで侍らせるように3人の男プレイヤーたちが立っている。
「ロザリアさん……」
若干怯えるような表情で、シリカが呟く。そう、声をかけて来たのはあのロザリアだった。後ろの連中にも見覚えがある。迷いの森で一緒にパーティを組んでいた奴らだろう。狩りを終え、そのままパーティメンバーで飯を食べに来たと言うところか。
そこまで見て取った俺は、頭を抱えるようにして項垂れた。最悪だ。こんなところで鉢合わせするなんて。
「良かったわねぇ。1人で森から脱出出来たんだ?」
俺の気も知らず、ロザリアはそんなことを口にしながらこちらに歩み寄ってくる。
落ち着け。最悪なのは攻略組がこの辺りをうろついているのに気付かれて、タイタンズハンドの連中に警戒されることだ。名前だけは無駄に売れている俺だが、顔はあまり知られていないし、見られても攻略組の人間だと気付かれる可能性は低いはずだ。
だがまあ、まず顔を見られないに越したことはない。俺は不自然にならない程度に、顔を逸らしてロザリアの様子を伺った。
「あれ? あのトカゲどうしたの? もしかして……」
テーブルの横で立ち止まったロザリアが、シリカの周りを軽く見回しながらにやけた表情を隠そうともせずそう口にする。マジで嫌な奴だなこいつ。ちょっとこのレベルで嫌な奴って中々いないぞ。さすがは
大事なパートナーをトカゲ呼ばわりされたのが気に障ったのか、眉間に皺を寄せたシリカは睨み付けるようにロザリアに視線を送っていた。
「ピナは死にました……。でも、絶対生き返らせてみせます!」
「へぇ……。じゃあ思い出の丘に行くんだ。でもあんたのレベルで攻略出来るの?」
「それは、私1人じゃ無理ですけど……」
シリカはそう言いながら、こちらに視線を送る。え? このタイミングでこっちに話振るの? そうやって俺が内心狼狽えていると、品定めするようにロザリアが俺の顔を見た。やばい。そう思ったが、幸いロザリアはこちらに侮蔑の目を向けるだけだった。いや、それを幸いと言っていいのかわからんけど……。
「あんたもこいつにたらしこまれちゃったクチ? 見たとこ大して強くもなさそうだけど……。こんな奴に頼るなんて、あのシリカちゃんも焼きが回ったもんねぇ?」
「ば、馬鹿にしないでください! この人はふうりんかざ――むぐっ!?」
余計なことを口走りそうになったシリカの口を、咄嗟に右手で塞ぐ。敏捷性が高くてよかった。ロザリアは訝し気な視線を送っていたが、それには取り合わず俺はそのままシリカの後ろに回り込む。
「あー……いや、ちゃんと準備すればそんなに難易度の高いダンジョンじゃないから、俺みたいのでもクリア出来るんだよ。じゃ、そういう訳で……。行くぞシリカ」
「むーっ!!」
ヘコヘコと頭を下げつつ、俺は腕の中で暴れるシリカを無理やり引きずってその場を歩き出す。口を押えられて苦しいのかシリカは顔を真っ赤にしていたが、今手を放して余計なことを喋られるわけにはいかなかった。
つーかこれ雪ノ下に見つかったら問答無用で黒鉄宮の監獄エリアにぶち込まれそうな光景だな……。そんな想像に内心ビクつきつつも、手早く会計を済ませた俺はその店を後にしたのだった。
通りに出た俺は、もうロザリアの目がないことを確認してため息をついた。次いで口を塞いだままだったシリカを開放する。文句を言われるかと思ったが、少女はこちらには視線すら向けずその場でぷるぷると身を震わしていた。
やばい。下手すりゃハラスメント判定が出ているかもしれない。そんな危惧を抱いた俺はフォローを入れるために口を開こうとしたが、不意に後ろから声を掛けられ、言葉を詰まらせた。
「――何やってんだ? ハチ……」
振り返った俺の視線の先、佇むのは2人の人影だ。
胡乱げな眼差しをこちらに向けるキリトと、新しいおもちゃを見つけた子供のように笑顔を浮かべるアルゴが、そこに立っていたのだった。
◆
「――という訳で、他意はない。俺はロリコンじゃない」
宿屋の一室。シングルベッドが1つ、隅に配置された小部屋。
ベッドサイドには小さめの木製の丸テーブルと、それを挟むように丸椅子が2つ置かれており、その1つに俺は腰かけていた。もう1つの椅子にはキリトが座り、向かって右側の壁にはアルゴが立ったまま寄りかかっている。
先ほどキリトとアルゴの2人と合流した俺は、この宿屋に場所を変えてここまでの経緯を説明していた。シリカが借りている宿屋の一室だ。立ち話も何だからとキリトやアルゴ共々彼女に招かれたのだった。
知り合ったばかりの人間を仮宿とは言え自室に招くのは危機感が足りてないのでは、と忠告したのだが、「ハチさんとそのお知り合いだったら大丈夫です!」と、シリカは俺に良くわからない信頼を寄せているようだった。子供は思い込みが激しいし、おそらくは相当あの本に毒されているんだろう。これは徐々にネガティブキャンペーンを進めていかなきゃな……と1人考えていた俺の横でアルゴが勝手に話を進め、俺たちは先ほど食事していた食堂と隣接しているシリカが泊まる宿に訪れることになったのだった。
道すがら、ここでロザリアのマークを外していいのかと不安になった俺はその件をアルゴに耳打ちしてみたが、「バイトを雇ってるから大丈夫ダヨ」との返事があった。どうやらロザリアの動向を24時間監視するために他の情報屋を何人か雇っているらしい。
さてそんな経緯で今に至る。シリカと出会ってからここまでの一通りの話を終えた俺は、キリトとアルゴに視線を送った。俺と目が合ったアルゴは「何だつまらん」とでも言いたげにため息をついてから口を開く。
「マァ、今回の件でハチを弄るのはまた今度にするとシテ――」
「おい」
「チョット厄介なことになったナ。どうしたもんカ」
俺の突っ込みには取り合わず、顎に手を当てたアルゴは考えるように視線を彷徨わせる。対面に座るキリトも同様に渋い顔をしていた。
部屋に微妙な空気が漂う。ばつが悪くなった俺がそれから目を逸らすと、隣のベッドに腰かけているシリカと視線があった。互いの自己紹介を終えてからは黙ってこちらの話を聞いていた彼女だったが、悪くなった雰囲気を敏感に察知したのか申し訳なさそうな表情を浮かべて口を開く。
「あ、あの、ご迷惑おかけして本当にすみません……。やっぱり何か都合が悪いんでしょうか?」
「あー、いや、シリカが謝るようなことじゃないんだけど……何て言ったらいいかな……」
「俺っちたちは、これからあるフラグモブを追うつもりだったんダヨ。情報じゃあここ数日中に現れるって話でネ」
キリトの言葉を引き継いで、アルゴがしれっと嘘をつく。まあ正直に全てを話すわけにもいかないから仕方のないことだろう。キリトは一瞬だけ驚いたような顔をアルゴに向けたが、すぐにそれを理解したのか話を合わせるように頷いていた。
ちなみにフラグモブというのはある特定の条件下で出現する特殊なモブのことだ。大抵のフラグモブはレアなアイテムをドロップするので、それを追って下層や中層に潜る高レベルプレイヤーも多い。つまり俺たちがこの辺りをうろついていたとしても不自然ではないということだ。
やっぱ嘘の付き方が上手いなこいつ。そんな感心と呆れが入り混じった感想を抱いている俺の横では、シリカが不安そうな表情を浮かべていた。それに気付いたキリトが、気遣うように声を掛ける。
「あー、大丈夫。絶対に3日のうちにはシリカが思い出の丘に行けるように手伝うから。ただちょっとタイミングが……」
「マァ、敵のレベルを考えれば最悪こっちの件はキー坊1人でも余裕だからナ。下手にタイミングを計るより、ハチにはさっさと思い出の丘に行ってきてもらった方がいいかもしれないゾ」
言いながら、アルゴはこちらに視線を送る。その話を聞きながら、俺は事前に聞いていた情報を思い出していた。
タイタンズハンドに所属するメンバーは総員8人、その平均レベルは45程度らしい。対する俺たち2人のレベルは現在78だ。これだけのレベル差があれば、例えまともに攻撃を食らったとしてもほとんどこちらがダメージを負うことはないだろう。ましてや本気を出したキリトがそう簡単に他のプレイヤーの攻撃を食らうとは考えづらいので、アルゴの言う通りソロでもタイタンズハンドの連中を制圧することは十分可能のはずだ。
だが、何事にもイレギュラーはつきものだ。ここで俺とキリトが別行動を取るのはやはりあまり得策ではない。
言いだしたアルゴ自身もそれは分かっているのだろう。フードの下には少し渋い表情が張り付いていた。
さてどうしたものか。一応シリカの件をクラインたちに連絡を取って手伝って貰うという手もあるが、それは最終手段だ。あいつらはあいつらでガイドブック製作のためにいつも忙しく駆けまわっているのだ。あまり世話はかけたくない。それに現在のあいつらのレベルでは、第47層でシリカを守りながら攻略するというのは難しいかもしれない。
ロザリアたちが活動していないだろう時間、深夜から明け方にかけての時間を狙って、さっさと思い出の丘に行ってくるというのが1番現実的か。
そんなことを考えながら俺がぼんやりと視線を彷徨わせていると、視界の端で壁にもたれかかっていたアルゴが不意に何かに気付いたように顔を上げた。おそらく誰かからメッセージでも受け取ったのだろう。一言断りを入れたアルゴが、2本の指を顔の前で下に向かって滑らせる。すると、シャランという鈴を転がしたような音を立ててシステムウインドウが現れた。
静寂の中、ウインドウを弄る効果音だけが部屋に響く。俺はぼんやりとアルゴの白く細い指先の動きを眺めていたが、刹那、フードの下で彼女が眉を顰めたのを見逃さなかった。
何かあったのだろうか。このタイミングでメッセージが飛んでくるということは、ロザリアたちに何らかの動きがあった可能性もある。そんな危惧と共に口を開きかけたのだが、さらにその瞬間妙な違和感を覚えた俺はそれを止めた。首だけで振り返り、この部屋唯一の出入り口である古ぼけた木製のドアに視線をやる。
――廊下に、人の気配がある。
システム的なスキルで察知したわけではない。ただの勘だ。だが、この世界での勘と言うものは案外馬鹿に出来なかった。ゲーム内での勘というものは「データの読み込み過程で発生する若干のラグなどを無意識のうちに感知する能力」なのだ。まあこれは全部キリトからの受け売りなのだが。
物音がするわけでも、匂いがするわけでもない。だが確かにドアの向こうには人の気配があった。そしてそれはたまたまそこを通りかかったと言うわけでもなさそうで、部屋の中を伺うように身を顰めているようだった。ドア越しの声はノックをしなければシステム的に聞こえないようになっているが、《聞き耳》スキルの熟練度が高ければその限りではない。
誰が、何の目的で。俺はいくつかの可能性を頭の中で思考したが、しかしそれはしっかりとした形を持つ前に、ある人物の言葉によって遮られた。
「――まったく、付き合ってられないヨ。もういい、オマエは1人でそのがきんちょと一緒に思い出の丘でもどこでも好きに行けばいいサ。ここからは別行動ダ。ホラ、行くヨ、キー坊」
唐突にわざとらしく声を上げたアルゴが、もたれかけていた背を壁から離す。先ほどの発言とは打って変わったその態度に俺を含めた3人は言葉を返すことも出来ず呆然とした顔を彼女に向けたが、当の本人はそんなことは意に介さず、ぶつくさと文句を垂れ流しつつおもむろにドアに向かって歩き始めた。そしてドアの前まで到達すると、ドアノブに手を掛けてゆっくりと外を伺うようにそれを開く。
その瞬間、逃げ出すような慌ただしい足音が部屋の中へと響いた。廊下に留まっていた人の気配が一気に遠ざかっていく。それを確認したアルゴが「行ったみたいダナ」と呟きながらゆっくりと扉を閉めた。
「おい、アルゴ……。まさか――」
「ウン。多分ハチが考えている通りだと思うヨ」
こちらの様子を伺う人の気配に、今のアルゴのわざとらしい態度。色々と思うところのあった俺は口を開こうとしたが、それを遮るように肯定の言葉が返って来た。その事実に、俺は眉を顰める。考えられることは1つしかない。
全く悪びれる様子はなく、アルゴがこちらを見つめていた。シリカは事態が全く呑み込めないという表情で、オロオロとしている。キリトは俺と同じ考えに至ったのだろう。渋い顔で腕を組んでいた。
アルゴから目を逸らし、俺は頭を掻きながらため息をつく。確かに、最良の選択肢だろう。俺も当事者でなければ、迷わず同じ選択をしていたはずだ。
だが、と俺はシリカへと視線を送る。不安そうな表情でベッドに腰掛けるその姿が、いつかの森でPoHに襲われ、力なくへたり込んでいた彼女の姿と重なった。
「……シリカにも、全部説明しろ。話はそれからだ」
沈黙の後、俺は呻くようにそう口にした。それが、今の俺に出来る最大の譲歩だった。
再び訪れた静寂の中、俺はアルゴへと視線を送る。目が合ったアルゴは何故か眩しいものを見るようにこちらを見つめていた。しかしやがて大きくため息をつくと、ゆっくりと頷いたのだった。
それから俺たちは、シリカにここまでの経緯を包み隠さず説明した。
そして――
「わ、私が、ロザリアさんたちに狙われてるんですか……?」
ベッドに座ったままのシリカが、そう呟いた。堅く握られた両手は、不安を押し込めるように胸の前に置かれている。本来快活であろう少女の瞳には、怯懦の感情が色濃く映っていた。それを認め、やるせない気持ちが俺の中に広がっていく。
そう、今回タイタンズハンドの連中に獲物として目を付けられたのは、シリカだったのだ。先ほどアルゴが受け取ったメッセージは、情報屋仲間からのタレコミだったらしい。その内容は「第47層思い出の丘にて、プネウマの花を手に入れたシリカとその同行者をタイタンズハンドの連中が襲う計画を立てている」というものだった。
そのメッセージを受け取った後のアルゴの不自然な言動は、奴らをおびき寄せる囮としてシリカを利用しようとした故のものだ。ドアの外に感じた気配。あれはタイタンズハンドの手の者だろう。それを察知したアルゴが一芝居うったと言うわけだ。あまり大人数で行動しては標的として敬遠されるかもしれないと考え、思い出の丘へと向かうのは俺とシリカの2人だけということを奴らに印象付けたのだ。
おそらくアルゴは、俺が何も言わなければシリカには黙ってそのまま囮として利用していたのだろう。悪い手段ではない。下手に話せば不安を煽るだけだし、俺とキリトが関わっているのならリスクはそれほど高くはないのだ。
だが第2層での出来事を考えれば、シリカにその役目を背負わせるのは荷が重いかもしれない。トラウマを刺激されれば、取り乱したシリカがどうなるかわからなかった。
だから俺は、全てを正直に話すことを選んだのだ。話した上でシリカ本人に選択させた方が、どちらに転んだとしても心の傷は浅く済むかもしれない。
一通りの説明を終え、部屋の中は最悪の雰囲気で満たされていた。これだったらキリトと役割を変わればよかったな、と思いながら俺はドアの方を見つめた。盗み聞きされることを防ぐため、現在キリトは廊下で見張り中である。
「今さっき情報屋仲間からタレコミがあったんダ。間違いないヨ」
「な、何で私が……」
「サア。それはロザリア本人に聞いてみるしかないナ」
「そんな……」
不安に顔を曇らせるシリカのことなど何処吹く風で、アルゴは淡々と言葉を交わしていた。その態度に俺は若干眉を顰めつつ、ため息をつく。もうちょっと気を使えよ……。そう思いながら、俺はあらかじめ用意してあった選択肢をシリカに提案する。
「シリカ。お前が望むんなら、うちのギルドホームでお前を保護してやることも出来る。ただ……」
「その場合は、お嬢ちゃんのテイムモンスターを復活させることは難しいと思うヨ。3日のうちにこの一件を収めテ、それから思い出の丘に行くのはタブン無理ダ」
一瞬言葉を躊躇った俺に代わり、アルゴがそう告げる。本当に、言いづらいこともズバズバと口にする奴だ。虚言を嫌う誰かさんを彷彿とさせるものがある。だがしかし、おそらくこいつはそれよりもさらにいやらしく、もっと強かなのだろう。畳み掛けるように、アルゴはさらに話を続けた。
「だからそれを踏まえテ、お嬢ちゃんにお願いしたいんダ。タイタンズハンドの連中をおびき寄せるために、ハチと一緒に思い出の丘に行って欲しイ。もちろんプネウマの花を手に入れるのには協力するヨ」
心持ち優しくなった声音が、諭すようにシリカに投げかけられる。しかしこれはお願いとは名ばかりの脅迫だ。ここまでの経緯から、シリカとそのテイムモンスターであるピナとの繋がりをおそらくアルゴは察し、頼みを断れないことを理解している。しかし言っていることが全て真実なだけに、俺も口を挟むことは出来なかった。
「ハチはこんな性格だから自分からは言わないだろうケド、客観的に見てこいつの実力はゲーム内でもトップレベルダ。さっきのキー坊もナ。俺っちたちもばれないように後ろからついていくから、安全は保障出来るヨ」
アルゴの評価は俺を買い被り過ぎているような気もするが、実際ステータスで見れば確かに俺はゲーム内でもトップレベルではある。まあ、その辺は色々と規格外な能力を持ったキリトのおこぼれを与っている部分が大きいのだが……。
そこまでで言うべきことは言いきったようで、アルゴは返答を待つようにシリカへと視線を送っていた。一方のシリカは深く考えるように視線を伏せている。
「……先に言っとくけど、別に俺たちに気を遣うようなことはしなくていいからな。こいつはこんなこと言ってるが、絶対に安全ってわけじゃない」
「ハチは心配性ダナ」
「お前が楽観的過ぎるんだよ……」
深い思索に耽るシリカを傍目に、アルゴとそんなやり取りを交わす。命が掛かっているのだ。神経質になるのも当然だった。俺はアルゴやキリトのように、豪胆な性格にはなれない。卑屈に、慎重に、俺はここまで生き抜いてきたのだ。
一瞬アルゴに向けた目線を、対面に座るシリカへと戻す。すると、既に決心するように顔を上げていたシリカと目が合った。
何だかんだと諌めるようなことを言いながら、俺はこの少女がその結論を出すであろうことを心の底では予想していたのかもしれない。決意に満ちた少女の瞳を、俺はどこか納得するような気持ちで眺めていた。
「ピナは大事な友達なんです。何があっても、助けてあげたいんです。それで、それがもしハチさんたちの手助けにもなるんだったら……」
そこで息を継ぎながら、俺とアルゴに強い視線を向ける。シリカは語彙を強くしながら、さらに言葉を続けた。
「私、思い出の丘に行きます。いえ、行かせてください」
凛とした声が、部屋の中に響く。その残響に浸るように瞑目し、俺はゆっくりと頷いたのだった。
◆
その後、思い出の丘の攻略についてとタイタンズハンド対策について打ち合わせを済ませた俺たちは、その決行を明日と決め、今日のところはもう解散する流れとなった。
だが、気丈に振る舞っていてもやはり不安なのだろう。シリカは1人になることを嫌がったため、アルゴが1人だけ同じ部屋に泊まっていくことになった。金にうるさく腹黒い奴だが、基本的に悪い奴ではない。シリカのケアは同性であるアルゴに任せ、俺とキリトは部屋を後にしたのだった。
部屋を出てすぐのところで、俺はため息をついて立ち止まる。それなりに大きな宿屋で、長く伸びる廊下には8つの部屋が並んでいた。ドアの向かいにはそれぞれ両開きの窓が設置されており、3階に位置するここからは月明かりに照らされて表の通りを眺めることが出来る。
「余計なお世話だったのかもしれないな」
「ん? 何がだ?」
ぽつりと呟いた俺の独り言に、キリトが反応する。えんじ色の絨毯が敷かれた廊下を再び歩き出しながら、俺はそれに答えるべく口を開いた。
「シリカのことだよ。あいつ前にもレッドプレイヤーに襲われたことがあるから、今回のことに巻き込んだらトラウマ刺激するんじゃないかと思ったんだけどな……」
言いながら、俺はシリカの決意に満ちた表情を思い出していた。まだまだ子供だと思って色々と気を回していたのだが、思えばあの少女もSAOの世界をここまで生き抜いてきたプレイヤーだったのだ。しかも聞いたところギルドには所属していないようだったし、その辺のプレイヤーよりも肝が据わっているのかもしれない。
「ああ……。まあ、いざっていう時はそう言うの、男より女の方が精神的に強かったりするよな」
「確かに」
隣を歩くキリトが、妙に達観した様子でそう口にする。その台詞に、俺も何故か妙に納得してしまった。思い浮かぶのは雪ノ下、アスナ、アルゴの姿だ。……最近俺の周りにいる女性陣はかなり図太い神経を持っている気がする。胃が痛くなるラインナップだな。
そんなことを考えているうちに、階段へと差し掛かる。そこを下りながら、キリトは「さて」と口にしてこちらに向き直った。
「ハチも今日はここに泊まるつもりなんだろ? 部屋はどうする? 多分ここ2人部屋もあると思うけど」
「普通に別々でいいだろ。最近そんなに金欠ってわけでもないし」
「そうだな……」
そう呟いたキリトの表情は、何故か若干残念そうだった。……え、なにその反応。薔薇? 薔薇なの?
と、一瞬そんなくだらない思考も過ったが、さすがに俺も本気でそんなことを危惧しているわけではない。おそらく、キリトも明日のことが不安なのだろう。俺だって、不安がないと言えば嘘になる。
何となく微妙な雰囲気のまま、俺たちは宿屋のカウンターへと向かった。幸い1人部屋がいくつか空いていたので、手早く部屋を取る。2階の西側、キリトの部屋とは隣同士だ。特に用事もなかったので、俺たちはそのまま部屋へと向かった。
「……なあ、ちょっと話さないか」
宿屋2階、俺が取った部屋のドアの前で、キリトがおもむろにそう口にした。ドアノブに伸ばしかけていた手を引っ込めて振り返ると、少し陰のある表情を浮かべたキリトと目が合う。何とはなしに、お互いにすぐに目を逸らした。
「……わかった。入れよ」
言いながら、俺はドアを開けて部屋へと入って行った。ドアを越えると、独りでに薄暗い室内に明かりが灯る。
間取りはシリカが借りていた部屋と全く同じだった。向かって右奥にベッドがあり、その手前には木製のテーブルと椅子が2つ。ドアの隣にはクローゼットと何だかよくわからない観葉植物が置かれている。
後ろをついてくるキリトの足音を聞きながら、俺はシステムウインドウを呼び出して手早く装備を解除した。部屋着へと着替えるためにそのままアイテムストレージを弄りながら、俺は振り返りもせずに口を開く。
「不安なのか?」
漠然とした問いだった。キリトからの返事はない。俺がストレージを弄る澄んだ音だけが、しばらく部屋の中に響いていた。
……あれ? これもしかしてシカトされた? と俺の方が少し不安になってきた頃に、ようやくキリトが小さく「ああ」と言って頷いた。着替えを済ませた俺は内心少しほっとしつつ、ベッドへと腰かける。すると、ドアの前で仁王立ちしたままのキリトと目が合った。
「……ハチは、恐くないのか?」
「んなもん超恐いに決まってんだろ。言っとくが俺はかなりのビビりだぞ」
「いや、何でそんな自信満々なんだよ……」
そう言って力なく苦笑するキリトから視線を外し、俺は大の字になってベッドへと横になった。板張りの天井を見つめながら、考えに耽る。
死ぬかもしれないことが、恐いわけじゃない。キリトもそうだろう。そんな感情は既に擦り切れて良くわからなくなってしまっていた。第53層に至るまでの道のりで、死を覚悟したことなど1度や2度ではないのだ。
人を相手取るという、漠然とした恐怖。18年間という俺の人生で培われた小市民的な倫理観が、人を殺すという行為を忌避していた。
「……まあ、それでも、この世界じゃ俺たちがやるしかない。嫌でも腹括るしかないだろ」
ぼんやりと天井を眺めたまま、呟いた。ゲームクリアという目標に向かって活動するのなら、いずれ
静かな部屋の中、キリトの息遣いだけが妙に大きく聞こえた。俺はしばらく瞑目した後、ゆっくりとベッドから体を起こす。
「明日、もし万が一戦うことになったら……迷うなよ?」
「……ハチは、もう覚悟出来てるのか?」
「ああ。……もう散々後悔した後だからな」
お互いに目は合わせず、言葉を交わした。それでも、キリトが今どんな表情を浮かべているのか、俺には分かるような気がした。