獅子帝の去りし後   作:刀聖

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第八節

 皇帝(カイザー)ラインハルトと軍務尚書オーベルシュタイン元帥の葬儀が終わり、ごく短い期間に服喪した後、帝国の中枢にいた人々は迅速かつ精力的に活動を再開した。「いたずらに長く喪に服す必要はない。予が死んだとて、政治の空白を作ってはならぬ」とは、ラインハルトの遺言の一つであった。

 

 新帝の即位式の準備は無論の事、皇帝の崩御に伴う内閣や軍組織の人事の刷新や、講和が成立したイゼルローン共和政府との条約の細部の調整など、政治及び軍部の関係者は多忙を極める毎日を過ごす事となる。だが、それは彼らにとって、偉大な皇帝の死による未曾有の悲哀と喪失感をまぎらわす救いの一つとなったのは、否定のできない事実であった。

 

 そして新帝国暦〇〇三年八月一九日。新皇帝の即位及び戴冠の日が訪れる。

 

 

 式場に選ばれたのは、先日までフェザーンにおける帝国大本営が置かれていた、旧フェザーン自治政府の迎賓館の広大な中央ホールであった。皇帝ラインハルトの崩御と共に彼が主宰していた大本営もその役目を終え、現在ではエルネスト・メックリンガー提督が統帥本部総長代行として統括している帝国軍統帥本部の臨時のオフィスとなっている建物である。

 

 帝国軍幼年学校の二年生であるユリウスは親友たるグスタフと共に、皇帝と軍務尚書の国葬に引き続き学年代表の一員として、その中央ホールの壁際にたたずむ事を許された立場にあった。皇帝ラインハルトの葬儀と埋葬をその眼で見届け、今またその後を継ぐ新帝の即位を至近で見届ける事が叶う立場にある事は、彼らにとって悲嘆や感動とは別に、歴史が動く瞬間に指呼の距離で立ち会っているのだという感慨を、あらためて全身で知覚させていたのだった。

 

 静かに音を立てて巨大な扉が開かれ、二つの人影が式場に入来した。

 

 黄金造りの宝冠を(こうべ)に戴き、純白の正装に身を包んだ二人の女性──一人は乳児を抱いている──が、最敬礼する文武の群臣たちの中央を貫く深紅を基調とした絨毯の上を静かな、そして確かな足取りで並んで歩いてゆく。

 

 摂政皇太后ヒルデガルドと、アレク大公(プリンツ・アレク)を抱いた大公妃アンネローゼである。

 

 敷かれた絨毯の行き着いた先には、無人の玉座があった。その前にたどり着いた二人の内、ヒルダに対し式部官が紫色の絹布の上に鎮座した、黄金に輝く帝冠をうやうやしく差し出す。

 

 皇太后はかつて亡夫が頭上に戴いた、その冠を両の手に取った。そして冠をアンネローゼが抱く息子の頭上にかざす。乳児はそれに興味深そうな表情をたたえた青い瞳を向けるが、それも長い事ではなく、やがて皇太后は帝冠を胸元に両手で抱えつつ玉座の傍らに移り、凛然とした表情で群臣たちに向き合う。これは即ち、いまだ乳児に過ぎぬ息子には物理的な意味以上に巨大すぎる冠を、己が預かるという意思の万人への表明であった。そして、それを見届けた大公妃は乳児を抱いたまま、弟の物であった玉座に静かに腰を下ろした。

 

 ここにローエングラム朝銀河帝国第二代皇帝アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムの即位が成ったのである。

 

 

皇帝万歳(ジーク・カイザー)!」

 

皇帝アレクサンデル万歳(ジーク・カイザー・アレクサンデル)!!」

 

帝国万歳(ジーク・ライヒ)!!!」

 

 群臣たちは片手を掲げ、一斉に呼号した。偉大であった先帝ラインハルト崩御による悲哀と喪失感を振り払うかのように。ユリウスら軍関連学校の参列していた生徒たちもそれに倣い、自分たちよりも幼い新帝の即位を讃えたのである。

 

 その歓声は広壮なホールを揺るがし、満たすに足りる大音量であったが、それらが向けられた対象たる幼帝と、皇太后及び大公妃の耳には届いていなかった。

 

 と言うのも、実は玉座の周囲には遮音力場(サイレンス・フィールド)を発生させるための装置が事前に隠されて設置されており、発生した力場によって群臣たちの歓呼の声は三人の皇族の鼓膜に到達する前にかき消されていたのである。

 

 こういった細工が施された事情は、今年、すなわち新帝国暦〇〇三年の初頭のラインハルトとヒルダの結婚式での出来事に端を発していた。

 

 

 皇帝夫妻の成婚を寿(ことほ)ぐべく、参列していたフリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト上級大将は声帯と肺活量の限界に挑むかのような声量で「皇帝万歳! 皇妃万歳(ホーフ・カイザーリン)!」と歓声を上げた。それを皮切りとして、他の群臣たちも負けじ遅れじと、美しき新郎新婦を大音声をもって祝福したのである。

 

 だが、そこでささやかな椿事が起こる。

 

 養母であるエヴァンゼリンに抱かれて、養父母と共に結婚式に参列していたフェリックス・ミッターマイヤーがぐずり始めてしまったのだ。同僚のケスラー上級大将からは後に「歓声というより怒号」と呆れ気味に評された、歴戦の兵士たちでさえ萎縮せずにはいられない猛将の大声(たいせい)を至近で聞いては、一歳にも満たない幼子が怖がるのも無理のない事であっただろう。むしろ即座に泣き出さなかったのは大したものであったかもしれない。

 

 養母にあやされて幼児は程なく機嫌を直したものの、オレンジ色の髪の猛将はばつ(・・)の悪そうな顔でミッターマイヤー一家に謝罪し、宇宙艦隊司令長官とその令夫人は笑ってそれを受け入れたのだった。

 

 

 後に即位式の準備の初期において重臣間でこの一件に話が及んだ際、式において乳児である新帝も大音声に驚いて泣き出す可能性が誰ともなく指摘された。思い起こせば、三年前にも同じような事例が存在していたではないか。

 

 

 旧帝国暦四八九年九月に即位したゴールデンバウム王朝の最初の女帝にして最後の皇帝たる、当時は八ヶ月の赤子であったカザリン・ケートヘンが即位式において乳母に抱かれて式場に入場した際にそれは起こった。

 

 入来を告げた式部官の豊かな声量に驚いて乳児が泣き出してしまったのである。結果としてその原因となった式部官は蒼白となり、乳母は慌ててあやし始めるなど、式場は一時騒然となってしまった。何とか泣き止ませる事はできたものの、機嫌を損ねた乳児は戴冠時や群臣が発した歓声などのたびに再び泣き出し、荘厳であるべき式典は滑稽な惨状を呈する事となる。列席していた群臣たちの主席にして事実上の帝国の支配者であったラインハルト・フォン・ローエングラム公爵は失笑を抑えるのにいささか苦労したものであった。

 

 

 アレクサンデル・ジークフリードの即位式で同じような事を繰り返さないためにも、対策が講じられる事となった。当初は新帝に耳栓をしてもらう案が出たが、事前に試すと乳児は嫌そうにむずがったため、代案として玉座が据えられた壇上の周囲に遮音力場の発生装置が設置される事が決定し、その玉座の周囲に新帝が到るまでの間、音楽の演奏や式部官による朗々たる告知なども控えられる事となったのである。

 

 かくして即位式において、新帝たる乳児が途中で泣き出すという事態は未然に防がれた。その「功労者」の一人たるビッテンフェルトは式の後でワーレンやケスラーなどから「お手柄だな、ビッテンフェルト」「戦場の外でも、卿の大声が役に立つ事もあるのだな」などとからかわれ、面白くなさそうとも、気恥ずかしいともとれるような表情で「ふん」と鼻を鳴らして横を向いたのであった。

 

 

 ローエングラム王朝の二代皇帝の正式な全名は「アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラム」であるが、ごく短かった大公時代は「アレク大公」と呼ばれ、皇帝として即位した後は『治世の名』(レグナル・ネーム)として「皇帝アレクサンデル」と公式な文書には記載される事となる。

 

『治世の名』は君主の座に付く人物が複数の名を有している場合、その中の一つないし二つから選んで名乗るものである。前王朝たるゴールデンバウム朝においては、始祖ルドルフ大帝以降の皇族の主流の子女の多くは誕生時に権威付けの手段の一つとして、正式名として長たらしく三つ以上の名を与えられるのが慣習となっていた。

 

 その一方で、帝位を継ぐ可能性の低い傍流や庶流の子女は一つないし二つの名しか与えられない場合が多かった。元ブローネ侯爵であった第七代ジギスムント二世、リンダーホーフ公爵から登極した第一五代エーリッヒ二世、皇帝の庶子である第二一代マクシミリアン・ヨーゼフ一世や第二三代マクシミリアン・ヨーゼフ二世、皇太子の庶子である第三七代エルウィン・ヨーゼフ二世、ペクニッツ子爵家令嬢であった第三八代カザリン・ケートヘンなどがその例であり、即位後の彼らはそのままの名を『治世の名』として称する事となったのである。

 

 

 ゴールデンバウム王朝歴代皇帝の『治世の名』にまつわる変わった逸話の一つに、第三二代皇帝エルウィン・ヨーゼフ一世が、ゴールデンバウム朝の歴史上「ゲオルク」を公式に「治世の名」として称した皇帝は一人も存在しないにもかかわらず、「ゲオルク二世」などと一部で呼ばれていたというものがある。

 

 エルウィン・ヨーゼフ一世の父親である第三一代皇帝オトフリート三世は名君と称されるにたる才幹と実績の所有者ではあったが、晩年は宮廷内の抗争で心身を病んだ末に衰弱死している。

 

 そういった宮廷の暗部と父帝の姿を見て育ち、父の崩御後に至尊の冠を戴いたエルウィン・ヨーゼフもまた、暗殺やクーデターの恐怖に怯える事となる。それゆえに、彼は心許せる数少ない近臣の一人であったランズベルク伯爵に緊急避難用の通路を極秘のうちに作らせ、主君の身に危急の事あれば、この通路をもって救出に参上せよ、と命じたのである。

 

 当時のランズベルク伯爵の五代後の末裔であり、旧帝国暦四八八年の『リップシュタット戦役』終結後に敗残の身一つでフェザーン自治領に亡命する事となるアルフレット・フォン・ランズベルクは、このかたじけない御諚を口伝として先代たる父親から聞かされていた。そして異郷の地で無聊の身をかこっていたさなかに、当時のフェザーン自治領府から持ちかけられた計画を聞いて彼は驚喜する事となる。かつて五代前の先祖が当時の皇帝の密命で作り上げた通路を使い、その皇帝と同じ『治世の名』を持つ幼帝エルウィン・ヨーゼフ二世を救出(事実上は拉致であったが)するなどという行動は、夢想家としての側面が強かった伯爵のロマンチシズムと忠誠心を大いに刺激してしかるべきものであった。

 

 そしてその「救出」によって幼帝は自由惑星同盟に身柄を移され、彼を擁して「銀河帝国正統政府」が樹立されたのを契機に、帝国の事実上の支配者となりおおせていたラインハルトは同盟侵攻の大義名分を得るのである……。

 

 

 エルウィン・ヨーゼフ一世の全名は「ゲオルク・エルウィン・ヨーゼフ・フォン・ゴールデンバウム」であり、大公時代は「ゲオルク大公」と呼ばれていた。即位すれば「ゲオルク」を本人は『治世の名』とするつもりであったが、父帝たるオトフリート三世は死に際し、遺言の一つとして「ゲオルク」の名を『治世の名』として使う事を禁じてしまった。

 

 オトフリート三世の弟の一人に、ゲオルクという甥と同名の人物がいた。オトフリート三世はその弟の器量を見込んで一時は「皇太弟」に立てたのだが、宮廷内の混乱が進むにつれ、猜疑心を膨らませた皇帝は皇太弟を廃した上でクーデター疑惑で自裁させてしまう。それゆえに弟に死を賜った皇帝は「ゲオルク」という名を忌んだのである。

 

 同名ゆえに仲のよかった叔父を失い、「ゲオルク」の名を禁じられたゲオルク大公は不快であった。とはいえ、理不尽とは思っても正式な遺言という事実は動かしようもない。それを反故にすれば彼に反感を持つ勢力からの攻撃材料にされかねず、やむなく父の死後に即位した彼は「エルウィン・ヨーゼフ」を名乗ったのだった。

 

 だが、当時のランズベルク伯など、ごく親しい一部の近臣には自らを「ゲオルク二世陛下」と密かに呼ばせた。「ゲオルク一世」は皇太弟に立てられながら帝位に就けないまま誅された同名の叔父の事であり、叔父の鎮魂と父への反感もあって自らをその二世と称したのである。

 

 

「ゲオルク二世」と似たものでは、「ルードヴィヒ三世」の逸話が存在する。これは第三五代皇帝オトフリート五世の渾名であり、無論の事、ゴールデンバウム王朝皇帝の系図には記されていない。

 

 オトフリート五世の正式な全名は「オトフリート・ルードヴィヒ・カール・フォン・ゴールデンバウム」であり、大公時代は「オトフリート大公」と呼ばれていたが、大公自身は実の所、「オトフリート」という名を好んでいなかった。

 

 第四代オトフリート一世は「灰色の散文」と呼ばれた自己主張を持たない極端な保守主義者であり、その姿勢が政務秘書官であったエックハルト子爵が国政を壟断する結果を招いた。

 

 第八代オトフリート二世は見識と意欲に富んだ人物であったが、昏君であった父である『痴愚帝』ジギスムント二世の悪政の後始末に奔走させられ、過労で早世したとされる。

 

 第三一代オトフリート三世も有能な軍人にして政治家であったが、度重なる宮廷内の陰謀にさらされて心を病み、最後には毒殺を恐れて食事すらまともに摂れなくなり衰弱死した。

 

 第三三代オトフリート四世は『強精帝』の名の通り、為政に関心を持たず後宮に一万人以上もの美女をはべらし、肉欲に溺れた末に頓死するという醜態をさらしている。

 

 以上のように、オトフリートという『治世の名』を持つ皇帝は、為政者として無為徒食な存在であるか、有能で責任感が強いがゆえに寿命を縮めるという末路を辿っているかのいずれかである。オトフリート大公はさほど迷信深い人間ではなかったが、印象がよくないとは思っていたらしい。特に祖父たるオトフリート四世の色欲に塗れた醜聞や悪評は、同じ名を持つ孫にとっては嫌悪感すら抱くほどに耐え難いものがあったとされる。

 

 そういった事情から、第三四代オットー・ハインツ二世の崩御後、立太子されていたオトフリート大公は最初の名である「オトフリート」ではなく二番目の名である「ルードヴィヒ」を『治世の名』にと希望したのだが、その希望を公にした途端に皇后となる正室や廷臣たちの猛反対に直面する事となった。

 

 というのも、王朝の歴史において、それまで「ルードヴィヒ」という名の皇太子は二人存在したものの、ことごとく帝位に就くことなく横死しており不吉であるとされたからである。

 

 それに引き替え、「オトフリート」という名で玉座に座った人物は四人も存在しており、こちらの名の方が縁起としては悪くないと、オトフリート皇太子は迷信深い正室から懇々と諫言される破目になった。オトフリート五世は吝嗇な側面が強いものの水準以上の能力を持った為政者であったが、私人としては恐妻家という一面もあったのである。

 

 残る名である「カール」を『治世の名』として使いたいという妥協案すら、妻は首を縦には振らなかった。「カール」もまた、過去においてその名を冠した皇太子全員が玉座に座る事はなかったからである。かくして神聖不可侵であるはずの皇帝となるべき人物はそのまま押し切られ、不本意ながら「オトフリート五世」として即位する事となってしまったのであった。

 

 それ以降も当人は「ルードヴィヒ」という名に未練があり、「オトフリート」という名をごり押しした妻たちへの反発も相まって、近臣の一部に自らを「ルードヴィヒ陛下」と密かに呼ばせていたのである。その未練がましさをあざ笑うのと、ゴールデンバウム王家にとって不吉な名である「ルードヴィヒ」という名をあえて用いることで、オトフリート五世に非好意的な者たちの一部は、皮肉や揶揄を込めて陰で彼を「ルードヴィヒ三世」と呼び奉った。「三世」であるのは、先の歴代皇帝のうち、全名の中に「ルードヴィヒ」の名を持った者が二名存在したからだとも、至尊の座に着きえなかった二人の「ルードヴィヒ皇太子」という過去の存在があったゆえとも言われている。

 

 オトフリート五世は、息子にも正式に「ルードヴィヒ」の名を与えたいと望んだものの、それも正室と廷臣たちの賛同を得られなかった。やむなく彼は正室との間に生まれた嫡子には「リヒャルト」、その同腹の弟には「クレメンツ」を、それぞれ一番目の名として与えたのである。そして、リヒャルトとクレメンツの間に生まれた男子たるフリードリヒは側室の子であった。

 

 旧帝国暦三三一年、宇宙暦六四〇年の「ダゴン星域会戦」で、ヘルベルト大公を総司令官とした帝国遠征軍が数で劣る自由惑星同盟軍に大敗した事実は、ゴールデンバウム王朝史上における拭い切れない汚点の一つである。

 

 その遠征軍を派遣した第二〇代皇帝フリードリヒ三世は後世「敗軍帝」などと不名誉な呼称で呼ばれる事となり、それ以降「フリードリヒ」も、皇族の名としては避けられがちな名であった。オトフリートが息子の一人にあえてその名を与えたのは、自分の腹を痛めずに産まれた庶子に良い印象を持っていなかった正室の勧めによるものであり、本音ではこの側室の子にこそ「ルードヴィヒ」と正室は名づけさせたかったが、さすがに自重したのだと宮廷周辺ではささやかれた。

 

 フリードリヒは幼少期においては水準以上の知性を表したものの、長じるにつれて聡明さは鳴りを潜め、酒色や娯楽にふける遊蕩児としての道を歩んでいく。これは元々権力欲に乏しいにもかかわらず、父の正室やその周囲から猜疑の目で見られるのに辟易したフリードリヒが、その才気と義務感を自ら放り捨て、灰色に沈殿していったのではないかと後世の史家たちは推測している。後年の彼は為政者としては無為で自堕落な存在として後世に伝えられる事となるが、時として、鋭く含蓄のある言動を垣間見せて周囲の人間を驚かせる事も少なくなかったといういくつかの記録も、その推測の根拠の一角となっている。

 

 その推測が正しいとすれば、フリードリヒの意図は達成されていたと言ってよかった。帝王教育も受けず、父帝を始めとした宮廷関係者の眉をひそめさせる放蕩者になり果てた彼を見て、もはや息子たちの対抗馬たり得ないと皇后陛下はご安堵あそばされたのである。

 

 だが、リヒャルトとクレメンツは後に後継者の座を巡って対立し、結果として二人は権力闘争の中で命を落とす事となる。かくして、後継者から半ば除外されていたフリードリヒが、父帝の崩御後に第三六代皇帝フリードリヒ四世として玉座に座る事となったのだった。オトフリート五世の皇后が健在であれば即位に強硬に反対したかもしれなかったが、彼女は息子たちの相次ぐ横死による心痛のあまりに昏倒し、意識を回復せぬまま夫に先立って病死していたのである。

 

 

 なお、オトフリート五世の崩御は旧帝国暦四五六年であったが、ラインハルト・フォン・ローエングラムの謀臣たるパウル・フォン・オーベルシュタインは、その年に四歳を迎える幼児であった。いわば物心がつくかつかないかという時期から、繰り返し目が不自由な彼の耳に飛び込んでくる「神聖不可侵たる皇帝陛下」の名がオトフリート五世だったのである。

 

 それゆえ、成長するにつれて障害者を差別し冷遇するゴールデンバウム王朝への憎悪を募らせてきたオーベルシュタインにとって、オトフリート五世の名は憎悪の原体験であり、冷徹な彼が公式な場でしばしば「ルードヴィヒ三世」などという俗名をあえて用いたのは、ゴールデンバウム王朝への隠し切れない憎悪のゆえであったのだと、後世の歴史家の一部は主張している……。

 

 

 フリードリヒ四世は皇后や側室たちの間に、死産や流産を除けば一三人の子をもうけたが、その内九人は成人前に、二人は成人後に若くして死去している。その二人はどちらも男子であり、二人とも「ルードヴィヒ」を一番目の名として与えられていた。フリードリヒ四世が帝室にとって不吉な名であるはずのその名を、あえて皇子たちに与えたのは「ルードヴィヒ」の名に固執し未練を持っていた亡父への、苦笑を交えた手向けの意味もあったらしい。父帝と同様にフリードリヒ四世もまた、皇后や廷臣たちから「ルードヴィヒ」の名を与える事に反対を受けたが、彼の皇后は先代の皇后よりもはるかに控えめで、フリードリヒ自身も父よりも図太い、あるいは鈍感な側面があったらしく「よいではないか。それで傾くようならば、ゴールデンバウム家もその程度のものでしかなかったという事だ」と言って反対論を沈黙させたと伝えられる。

 

 だが、最初の「ルードヴィヒ皇太子」は、子女を残す事なく旧帝国暦四七六年に父親に先立って死去し、その弟が新たな「ルードヴィヒ皇太子」として立てられた。旧帝国暦四八二年に誕生した後の第三七代皇帝エルウィン・ヨーゼフ二世はその庶子であり、その誕生後まもなく二番目の「ルードヴィヒ皇太子」も病死する事となる。かくして「ルードヴィヒ」という名への、多くの宮廷関係者の忌避感はさらに高まる結果となったのであった。

 

 なお、フリードリヒ四世の後継者たる「ルードヴィヒ皇太子」が二人存在していたという事実は、後世においては二人を混同してしまう事態を招く場合が多い。「ルードヴィヒ皇太子は旧帝国暦四七六年に死去しているのに、なぜその子であるエルウィン・ヨーゼフ二世の誕生年が旧帝国暦四八二年なのか?」という類の疑問もその一つである。そのため、後世においては兄を「ルードヴィヒ四世」、弟を「ルードヴィヒ五世」などと冗談交じりに区別される場合もあった。

 

「ルードヴィヒ四世」の死後、フリードリヒ四世直系の男子が病弱な「ルードヴィヒ五世」のみとなった事は由々しき事態であるとして、皇室の後継者たる男児を一人でも多く確保する事を名目に、宮内省の職員たちは総力を挙げて皇帝の眼鏡にかなう若く美しい少女を捜し求めた。

 

 その結果として、貧しい帝国騎士(ライヒス・リッター)の出自に過ぎないアンネローゼ・フォン・ミューゼルが旧帝国暦四七七年に後宮に納められる事となる。だが、それはアンネローゼの弟たるラインハルトの手による、ゴールデンバウム王朝の葬送曲の第一節が奏でられる端緒となり、王朝の永続と繁栄を願った宮廷関係者の思惑と正反対の結末を招く事となったのであった……。

 

 

 旧王朝に留まらず、フェザーン自治領、そして自由惑星同盟の葬送曲をも最終章まで演奏しきった後に天上へと去っていった『獅子帝』ラインハルトの後継者たるアレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムの「ジークフリード」の名は、無論ラインハルトの盟友たる故ジークフリード・キルヒアイス元帥の名から採られたものである。

 

 そして、もう一つの名にして『治世の名』となった「アレクサンデル」は、今ひとりの名将にして故人である人物が由来となっていた。

 

 

 

 アレクサンドル・ビュコック元帥。

 

 

 

 戦乱の中で武勲を重ね、一兵卒から元帥にまで上り詰めた、自由惑星同盟軍最後の宿将。

 

 半世紀を超える老練な戦歴の所有者で、愛想の悪い白髪の老人だが親しく見所のある人間に対しては面倒見がよく、冗談を飛ばしたりする柔軟な一面もあり、部下や市民からの信頼も厚かった。軍上層部におけるヤン・ウェンリーの数少ない理解者にして、ヤン自身も敬愛して止まなかった人物である。

 

 

 かつてラインハルト・フォン・ローエングラムは、フェザーン自治領及び自由惑星同盟への侵攻作戦『神々の黄昏(ラグナロック)』の概要を最高幹部たちに披瀝した際、「ヤン・ウェンリーはイゼルローンにあり、同盟軍の他の兵力、他の将帥は論ずるに足らぬ」と言い放ったものだが、後にその豪語を修正する必要を認める事となる。

 

 フェザーンを電撃的な速度で無血占領し、フェザーン回廊を突破して同盟領に雪崩れ込んだラインハルト率いる帝国軍の大兵力を、同盟軍の宇宙艦隊司令長官たるビュコックは要衝たるランテマリオ星域で迎え撃った。

 

 宇宙暦七九九年、旧帝国暦四九〇年二月八日に戦端が開かれた『第一次ランテマリオ会戦』において、麾下の兵力の絶対数と質の双方において同盟軍は圧倒的に不利な立場に立たされていたが、五〇年以上の戦場経験を誇る老提督は沈着にして巧妙な用兵と地の利をもって大軍に対抗した。最終的には帝国軍の全面攻勢の前にビュコック麾下の艦隊は力尽き、イゼルローン要塞を放棄して駆けつけたヤン艦隊の救援によって辛うじて壊滅を免れる事となったが、寡兵をもって長期にわたり戦線を維持し続けた白髪の老将の手腕をラインハルトは「老人はしぶとい」と賞賛し、ヤンに次ぐ同盟軍の名将として評価を改めたのである。

 

 だが、ビュコックやヤンの起死回生を図った勇戦もむなしく、首都星ハイネセンを帝国軍に包囲された同盟政府は膝を屈する事となる。『バーラトの和約』によって同盟は主権に様々な制約を加えられて事実上の帝国の属領と化し、帝国本土に凱旋したラインハルトはゴールデンバウム王朝を簒奪し、ローエングラム朝銀河帝国初代皇帝となりおおせたのである。

 

 そしてその即位から二ヶ月も経過しないうちに発生した、退役していたヤンの逮捕に端を発するハイネセンにおける無秩序な一連の騒乱を同盟政府の無能と不実の証拠とみなし、ラインハルトは和約の破棄と同盟領への再侵攻を宣言する。

 

 証拠なく反動分子として逮捕されたヤンは旧部下たちによって謀殺される寸前に救出されたものの、それゆえに同盟政府と袂を分かたざるを得ず、すでに首都星を脱出していた。そしてヤンが去った後、ハイネセンの地表には帝国軍に対抗しうる手腕と人望を兼備した用兵家は、もはや一人しか存在しなかったのである。

 

 かくしてヤンと同じく現役を退いていたビュコックは宇宙艦隊司令長官に復帰し、翌年の宇宙暦八〇〇年、新帝国暦〇〇二年一月、布陣したマル・アデッタ星域においてラインハルトと再戦する事となる。ランテマリオに比べればマル・アデッタは戦略的価値は低く、ラインハルトはそのままハイネセンを直撃する事もできたが、同盟の残存兵力を司令長官もろとも完全に粉砕する事は軍事的及び政治的にも意義のある事であり、そもそも若き覇者は同盟軍の宿将の矜持と生命を賭した挑戦を無視できるような人物ではなかった。

 

 不安定に恒星風が吹き荒れる広大な小惑星帯という地の利を生かし、ランテマリオ会戦時を下回る兵力を持って、同盟軍は勇戦した。帝国軍において先陣を任された気鋭のグリルパルツァー、クナップシュタインの両提督を翻弄し、帝国軍の誇る名将たちの鋭鋒と堅陣をかいくぐり、混戦状態を作り出して帝国軍本隊に肉薄したビュコックの指揮統率とその麾下の将兵の奮戦は、ラインハルトを始めとする敵将たちをも瞠目させるものであった。

 

 だが、兵力の差は如何ともしがたく、ついに同盟軍は攻勢の限界点を迎える。崩壊した戦線から離脱する味方を援護すべく、同盟最後の宇宙艦隊司令長官は最後まで戦場に留まり続けた末に帝国軍の包囲下に置かれた。そして降伏勧告に感謝しつつも穏やかに、だが毅然と拒否して七三歳の老提督は爆沈する旗艦リオグランデと命運を共にし、帝国軍の将兵たちは自らの手で葬り去った偉大な敵将に敬礼しつつ戦場を後にしたのであった。

 

 

「ビュコックの死は自由惑星同盟という国家に象徴される民主共和政治の終わりであった。ヤンの死は同盟という国家の枠に束縛される事のない、民主共和政治の精神の再生であった──少なくともその可能性は極めて豊かであるように、後継者たちには思われたのである」

 

 これは歴史家の一人が著した記述の一節であるが、偉大な老いた敵将の死後、似たような感慨をラインハルトは抱いていたらしく、次のような述懐が後世に伝えられている。

 

「不死鳥は灰の中からこそ甦る。生焼けでは再生を得る事はできぬ。あの老人は、その事を知っていたのだ」

 

 つまり、自らの手で葬り去ったビュコックこそが、彼が殉じた民主共和政体たる自由惑星同盟の象徴であり、自らの手で斃し得なかったヤン・ウェンリーと、その後継者たちに代表される民主共和制の命脈を保たんとする意思と行動こそが「不死鳥の再生」であると、若き覇王は認識していたと思われる。

 

 銀河連邦の市民の圧倒的支持を受けて皇帝となり、自己神格化への道を驀進したルドルフ・フォン・ゴールデンバウムや、祖国を枯死せしめた衆愚政治家ヨブ・トリューニヒトなどを産み落とした民主共和制に対し、ラインハルトは冷笑的ないし懐疑的な姿勢を抱いていた。二五年の太くも短い人生において『獅子帝』がその認識を改める事はついになかったが、それによって民主共和制の旗を最後まで掲げ続けた二人の偉大な敵将への敬意が損なわれる事もなかったのである。

 

 それゆえに、ラインハルトは「アレクサンデル」の名を息子に与えた。これは白髪の老将が身命を惜しまず守らんとした自由惑星同盟を併呑し、その旧領に生きる民衆の庇護者となったというラインハルトの意思表明であり、同時に死者たちへの敬意と手向けでもあったのだ。そして、宇宙暦八〇一年、新帝国暦〇〇三年に帝国との講和を成立させたヤンの後継者たるユリアン・ミンツは皇帝ラインハルトと対面した際、皇子の名の由来を聞かされた時は驚きと意外の念を禁じえなかった、と後になって回想する事となる。そして、『獅子帝』が軽く笑いながら次のように語った事も、彼より六歳年少の革命軍司令官によって後世に伝えられる事となったのであった。

 

「……それゆえ、あの老人の名を皇子に与えたのだ。だが、予は卿の師父と彼が遺した民主共和制の精神を完全に征服する事はついにできなかった。だから、ヤン・ウェンリーの名は、卿らが用いるといい」

 

 

「皇帝万歳!」

 

わが皇帝万歳(ジーク・マイン・カイザー)!!」

 

「皇帝アレクサンデル万歳!!!」

 

 同盟の白髪の宿将と、帝国の赤毛の驍将の名を継いだ乳児を讃える大歓声はしばらくの間、絶えることなく式典の間を満たし続けていた。













※追記

・アレクサンデル・ジークフリードの名の由来について
 
 これはモンゴル帝国の開祖であるチンギス汗の名である「テムジン」が、彼の父イェスゲイが捕らえた敵将テムジン・ウゲの名から付けられたという逸話をモチーフにしています。
 
 原作者である田中芳樹氏は「帝国は、どちらかといえば、ドイツよりも帝政ロシアに近いでしょうね」(『SFアドベンチャー増刊 銀河英雄伝説特集号』35頁(徳間書店、1988年))と語っています。
 
 そして帝政ロシアの前身であるルーシ諸国はモンゴル帝国に征服された歴史があり、文化や習俗などにおいてモンゴルの影響を強く受けていますから、それを考えれば「敵将の名を息子に与える」という逸話と、銀河帝国の価値観には親和性があるのではないかと考えて設定してみました。
 
 また、ラインハルトの「息子に対等の友人を一人残してやりたい」という最期の願いと、「わしは良い友人が欲しいし、誰かにとって良い友人でありたいと思う」というビュコックの最期の言葉は繋がっているのではないかと感じたのが、「アレクサンデル」はビュコックの名が由来となっているのではないかと考えた理由でもあります。

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