獅子帝の去りし後   作:刀聖

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第二章 曙光は淡く、されど眩し
第六節


──生前から死者と大して顔色が変わらない人だったから、まるで眠っているだけのように見えるな──

 

 などと失礼な事を、特殊ガラスのケースの中に横たわる死者に敬礼しつつユリウスは考えてしまった。もっとも、参列者の大部分は似たような感慨を抱いていたかもしれない。

 

 

 皇帝(カイザー)ラインハルトの葬儀が終わった数日後、皇帝に先立ってテロに(たお)れた軍務尚書の国葬が営まれた。ユリウスはグスタフと共に喪章を外す暇もないまま、その葬礼にも学年代表として参列していたのである。

 

 

 パウル・フォン・オーベルシュタイン元帥。

 

 

 ラインハルトの軍最高幹部の中で最年長の彼は今年で四〇歳の誕生日を迎えており、卓越した見識と処理能力を兼備する軍官僚であると同時に、冷厳な謀臣としてローエングラム体制における闇の部分を一身で象徴する存在でもあった。

 

 体躯は肉付きの薄い長身で、本来は黒っぽい頭髪は若白髪が多く半白となっているが、最大の特徴と言えるのはその両眼であろう。その薄茶色の双眸は、「補視器」たる光コンピューターが組み込まれた義眼であり、時として異様な光芒を放つそれと、血色と表情に乏しい相貌とあいまって無機質的な印象を他者に与える人物である。

 

 

 彼の目が不自由であったのは生来のものであり、ゴールデンバウム王朝の始祖たるルドルフ大帝が制定した「劣悪遺伝子排除法」が有名無実化される以前の帝国に生を()けていれば、彼は新生児の時点で「処分」されていた事は疑いない。

 

 そしてその後も身体障害者への差別意識や冷遇が根強く残る前王朝時代の中で成長した彼は、様々な形で辛酸を舌と喉が焼けるほどに嘗めさせられる事となった。かくして義眼の男はルドルフと彼の遺した王朝への、静かだが(くら)く深い憎悪を心中において醸成していったのである。

 

 

 ゴールデンバウム王朝時代においてローエングラム伯爵家を継承し、元帥号を得て政治的にも飛躍的に立場を強化した当時のラインハルトは、来たるべき宮廷勢力との対決に備え、政略及び謀略面における参謀役を欲していた。キルヒアイスやミッターマイヤー、ロイエンタールといった既存の将帥たちは知性は充分だが、彼らには実戦部隊を率いてもらわねばならなかったし、そもそも彼らは謀略は時には有効で用いざるを得ない場合もある事は認めつつも、本質としては積極的に関わる事を良しとしない矜持を抱いた武人である。一時的であればまだしも長期間において謀略家に徹するなど、彼らの為人(ひととなり)から考えても無理な話であっただろう。

 

 折りしもその頃、旧帝国暦四九七年五月に難攻不落であるはずのイゼルローン要塞が同盟軍のヤン・ウェンリーの機略によって呆気なく奪取された。その際に戦死を遂げた要塞駐留艦隊司令官ゼークト大将の幕僚であったオーベルシュタインは進言をまともに吟味すらしない頑迷な上官を見限り、要塞主砲の直撃を蒙って消滅する寸前の旗艦から脱出したのである。

 

 敵前逃亡の罪で処断されるはずだった彼は、自身にはない覇者としての器量を持つラインハルトにゴールデンバウム王朝打倒の不退転の決意と覚悟を披瀝して自らを売り込んだ。それを了承したラインハルトはイゼルローン失陥の責任を取るべく辞任を表明した当時の「帝国軍三長官」への寛恕を、三長官職の後任の辞退を引き換えに皇帝フリードリヒ四世に申し出、三長官に借りを作る代償としてオーベルシュタインの免罪と自身の麾下への転属を認めさせたのであった。

 

 

 オーベルシュタインはローエングラム体制下にあって、軍政と謀略の両面に『ドライアイスの剣』と称されるほどの精密かつ冷徹な手腕を発揮し、必要とあらば自己犠牲や主君への痛烈な直言も厭わないほどの私心なき姿勢を生涯にわたって貫いた。謀略における功績の多くは公に語られる事がはばかられる類のものではあったが、公表されている功績だけでも王朝創業の功臣と呼ばれるに足る存在であっただろう。

 

 その一方であまりにも情というものを顧みない、非協調的で秘密主義に徹したその言動は多くの人物から敬遠ないし忌避されるものであった。それらが明確な形で表れるようになったのは、ジークフリード・キルヒアイスの死が契機であったのは疑う余地がない。

 

 

 前王朝時代のフリードリヒ四世崩御後の新体制下において、名実共にローエングラム陣営のナンバー2となった当時のキルヒアイスの立場を同陣営内で認めない意思を公言したのはオーベルシュタインただ一人であった。彼は組織においてナンバー1に迫る権能を有し、かつ私人としてもナンバー1と緊密な立場のナンバー2などという存在は構成員の忠誠心の所在を曖昧なものにしていまい、有能であれ無能であれ組織にとっては有害であるという確乎たる価値観の所有者であったのである。

 

 彼はキルヒアイスの為人や才幹については「尊敬に値する」「有能な男」と高く評価はしていた。それでもなおナンバー2有害論を撤回することはなく、キルヒアイスの地位や権限の突出に対し、事あるごとに懸念を表明していたが、当初ラインハルトはその進言を一顧だにしなかった。十年以上も生死や苦楽を共にして来た赤毛の盟友との間に培われた信頼関係は、余人の想像の及ばないほどに固く結びついたものだったのである。

 

 それに深刻な綻びを生じさせる事件が起こったのは、旧帝国暦四八八年のリップシュタット戦役の渦中においてであった。

 

『ヴェスターラントの虐殺』である。

 

 

 貴族連合軍の盟主たるブラウンシュヴァイク公爵の領地であった辺境の惑星ヴェスターラント。

 

 公爵の代理としてその統治を任されていた甥のシャイド男爵は、伯父を後方から支援するために領内からの搾取をさらに強めたが、それは従来の大貴族主導の支配体制に歪みが生まれつつある趨勢を察知していた領民たちの、大規模な叛乱を誘発してしまう結果を生む。

 

 シャイド男爵は混乱の中で重傷を負いつつもシャトルで脱出し、貴族連合軍の根拠地たるガイエスブルク要塞に逃げ込んだ。だが、満足な手当ても受けられないままの長距離の汚辱に塗れた逃避行は男爵の心身を完膚なきまでに痛めつけていた。要塞に到着して本格的な治療を受ける(いとま)もなく、若い貴族は呪詛の呻きを遺して絶命したのである。

 

 先立って自ら出陣していながら成り上がり者の「金髪の孺子(こぞう)」ことラインハルト率いる敵軍に大敗し、命からがら要塞に撤収する破目になった己の醜態に憤懣やるかたない心境であったところに、一門である甥が従順たるべき領民に殺されたという事実を突きつけられたブラウンシュヴァイク公は激昂した。その結果として凄まじい憤怒の炎に炙られた、肥大しきった選民意識の赴くままに公爵は「恩と身の程を忘れた賤民ども」の頭上に、熱核兵器という名の「正義の刃」を下す事を厳命したのである。

 

 一部の諫止を退けてその命令は強行された。攻撃部隊は遮る者もなく目的宙域に到着し、乾燥性の惑星ヴェスターラント上に点在していた居住可能地域であるオアシス全てに、一撃で数十万人を死に至らしめるに充分な破壊力を保有した核ミサイルを叩き込んだのである。

 

 人類が発祥の地たる地球を唯一の生存圏としていた時代、大国間の熱核兵器の応酬により惑星規模の大量虐殺と放射能汚染をもたらした『一三日戦争』は、人類史上の隠しようもない汚点であった。それ以来、熱核兵器を惑星上で使用する事は禁忌というべき行為となっており、不動の信念に基づいて四〇億人を抹殺したルドルフ大帝ですら採らなかった手段であったのだが、ブラウンシュヴァイク公は元から豊かとは言えなかった思慮も分別も放擲し、封印を無造作に破ってのけたのであった。

 

 ヴェスターラントの地表上に五〇以上もの巨大な閃光の半球が連鎖的に発生し、それらはすぐにマッシュルーム状の、空を貫かんばかりの高度までそびえ立つ原子雲に変じた。その中心から発せられた衝撃波と熱線と放射線が世界蛇(ヨルムンガンド)の猛毒の吐息のごとく、地表とその上に在った建物を、草木を、動物を、人々を容赦なく呑み込んでいく。

 

 強烈な熱線を浴びた者はたちまち頭髪が燃え上がり、網膜が潰され、皮膚が焼けただれてゆく。

 

 そしてほぼ同時に凄まじい衝撃波とそれに伴う爆風が荒れ狂い、見えざる巨人の(てのひら)が振るわれたかのように建築物はなぎ倒され、人々は吹き飛ばされた末に焼けた大地や崩れ落ちた建物の壁に叩きつけられた。

 

 鼓膜が破れ、衣服が剥ぎ取られ、ある者は眼球を眼窩から飛び出させ、ある者は皮膚が手の先からずる剥けとなって襤褸(ぼろ)のごとく垂れ下がり、ある者は破裂した腹部から内臓をはみ出させつつ、無惨に焼かれ、引きちぎられた姿で次々と倒れ伏していく。

 

 衝撃波と突風により破砕され、高速で飛散する窓ガラスと建材の無数の破片を浴びて絶叫する者もいる。

 

 倒壊した建物の下敷きになって圧死した者もいる。

 

 発生した猛烈な炎の嵐に巻かれて焼死する者もいる。

 

 劫火に追われてオアシスの水源や用水路に飛び込むも、力尽きて溺死する者もいる。

 

 そうした地獄絵図に木霊していた乳児のか細い泣き声も、両親に助けを求める幼児の悲鳴も、我が子を捜し求める父母の叫びも、もはや動けぬ老人が飲み水を求める低い呻き声も、長くは続かずに消えていった。

 

 虚空に高く舞い上げられた大量の土砂は放射性下降物と化し、『死の灰』(フォール・アウト)はヴェスターラントの住民二〇〇万人の上に屍衣となって覆いかぶさった。

 

 遅れて駆けつけたローエングラム陣営の軍隊によって救護活動が行なわれたものの、物理的には膨大な数の要救助者全員に手を回すのは現実的に困難であり、いまだに鎮まらない炎の嵐も活動を阻害した。心理的には救助を命じられた防護服姿の将兵たちは凄惨な無数の屍や充満する放射能に対して恐怖で腰が引けていて救護が進まず、それまで虫の息であった生存者も次々と死者の列へと加わっていった。

 

 たまたまオアシス間を移動していて難を逃れたごく少数の例外などを除いて生存者はほとんど存在せず、その生き残りの住人たちも放射能によって住めなくなった故郷から、同胞たちの弔いも満足に出来ないまま離れざるを得なかったのである。

 

 ──かくてヴェスターラントは『地下の死の女神(ヘル)』に抱かれし惑星となった。

 

 

 ヴェスターラント核攻撃の情報は、事前にラインハルトの耳にも届いていた。彼はそれを阻止させるべくヴェスターラント方面に最も近い位置の部隊に出撃命令を下そうとしたのだが、それを制止したのが当時の宇宙艦隊総参謀長であったオーベルシュタイン中将であった。冷徹な総参謀長はこのブラウンシュヴァイク公の愚行を妨害せずにこのまま実行させるべし、と躊躇の表情を欠片も見せる事なく主君に進言したのである。

 

 ──叛乱を起こしたとはいえ、降伏勧告や鎮圧といった選択肢を採らずに問答無用で二〇〇万人への熱核兵器による無差別攻撃という暴挙が行なわれれば、貴族連合軍の支配下の他の領民や、平民出身の兵士たちの憎悪と動揺を生じさせ、大規模な離反を促す事が可能となる。そうなれば、戦役は勝利の内に早期終結が成り、結果として犠牲は少なく抑えられる──。

 

 金髪の帝国軍最高司令官は総参謀長の冷厳な具申に絶句しつつも、その献策が有効なものである事は認めない訳にはいかなかった。

 

 また、ラインハルトは自分が潔癖に過ぎる部分がある事をこの時点で自覚していた。清濁を併せ呑む器量を持つべき覇者を志す身として、味方たりうる存在に対してすら迷いを見せず、有効だが冷酷な判断を下す事ができるオーベルシュタインに対して非好意的な感情と同時に、一種の劣等感を感じざるをえなかった。それゆえにその意見を退ける事ができなかったのである。

 

「支配者として、敵ならざる者たちの血と白骨で塗り固められた覇道を進む覚悟はおありか」

 

 そのような無言の問いを突きつけられたラインハルトは、逡巡を完全に振り払えないままに総参謀長の策を了承したのだった。

 

 なお、ローエングラム陣営に核攻撃の情報を最初にもたらしたのは、貴族連合軍から脱走したヴェスターラント出身の兵士であった。彼は故郷の惨劇の映像が公表された直後に、与えられた一室において死体となっているのが発見され、悲嘆の末に自ら命を絶ったと思われた。義眼の謀略家の指示で口封じのために殺されたという説も後世にはあるが、真相は不明である。

 

 

 別働隊を率いていたキルヒアイス上級大将は辺境星域を完全平定した後、ラインハルトの本隊と合流する途上において『ヴェスターラントの虐殺』の凶報を知った。その蛮行への憤慨が冷めやらぬ中、続けて唯一の主君が事前に敵の動向を把握していながら、それを政略に利用すべく看過したという、信じたくないが無視し得ない情報を彼は耳にする事となる。民衆を理不尽に踏みにじるゴールデンバウム王朝の打倒と、その価値観の否定こそが、幼少期から金髪と赤毛の二人の若者が共有してきた辞書に明記された正義であった。その項目を金髪の若者は民衆の血をインクとして塗り潰し、書きかえたというのだろうか。

 

 キルヒアイスは本隊と合流を果たした後にラインハルトに事の真偽を問いたださざるを得ず、情報が事実だと知った彼は虐殺された民衆のみならず目の前の盟友のためにも、深い義憤と悲哀を抱きつつラインハルトに諫言した。

 

 これまで誠実な盟友たる赤毛の若者が発してきた数々の助言や諌止に対し、ラインハルトは度量をもって応じてきたはずである。だが、このキルヒアイスの忠言は、自らの決断に迷いと後ろめたさを感じていた金髪の若者の耳にかつてなく逆らった。非理性的な反発心の赴くままにラインハルトは諫言は退けてしまい、二人の間にあった信頼関係という名の無二の宝石には、破断に繋がりかねない(たがね)の一撃が加えられたのである。

 

 

 キルヒアイスの耳にヴェスターラントにまつわる噂をもたらしたのは、貴族連合軍のヴェスターラント攻撃部隊からの脱走兵と公式には記録されている。だが、リップシュタット戦役終結後にその兵士は消息が不明となっている上、その兵士が提示した身分証明のためのIDカードが偽造したものである事が後に判明している。そもそも一兵士に過ぎないはずの立場の彼が、どこでそのような噂を知り得たのか、あるいは推察を行ない得たのかなど、不可解な点も多い。

 

 そのため、「実はその兵士はオーベルシュタインが戦役勃発以前に貴族連合軍に潜入させた工作員の一人であり、ラインハルトとキルヒアイスの過度に思える信頼関係を切り崩す事を企図した義眼の上司の指示に従い、脱走兵を装って騒ぎ立て、キルヒアイスに件の噂を吹き込んだのではないか」と考察している歴史家も存在するが、明確な証拠も存在しないため推測の域を出ないとされている。

 

 

 いずれにしても、結果として盟友と名射撃手としての二つの信頼によりただ一人式典時の銃の携帯を許可されていたキルヒアイスはその資格を失い、丸腰で参列した戦勝式において彼は刺客に狙われたラインハルトを庇って致命傷を負う事となる。そして必死に呼びかけてくる金髪の盟友との絆はなお失われていない事を噛み締めつつ、その代償として赤毛の驍将は生命と未来を喪失したのであった……。

 

 

 持論たるナンバー2有害論に基づいて、キルヒアイスの銃の所持を不要な特権として主君に廃止を進言したのは他ならぬオーベルシュタインであった。その進言を受け入れた責任を他者に転嫁せず、生涯にわたり悔やみ続けたラインハルトとは対照的に、義眼の謀臣は後悔の念を表情に示す事はなく、謝罪の言葉も言語化する事はなかった。そればかりかキルヒアイスの死を利用して政敵を排除するという辛辣な策略すら考案してのけた彼に対し、ローエングラム陣営の諸将の大半はその能力と必要性を認めつつも、好漢であった赤毛の名将への哀惜も相まって顕在化した忌避や反感といった負の感情を抱き続ける事となったのであった。

 

 

「ローエングラム陣営がヴェスターラントへの攻撃計画を事前に知りながら、政治宣伝のためにあえて看過した」という噂は事件直後から流布していたが、ラインハルトの治世下の帝国政府はそれに関して事実を知る関係者には緘口令を敷き、「敵性勢力による流言」として公式には否定していた。赤毛の友を永遠に失い、自責の念に苛まれていたラインハルト自身は事実を公表しようと当初は考えたのだが、これもまたオーベルシュタインに制止されたのである。

 

「公表すれば、事実を知りながら口を緘したまま天上へ去っていったキルヒアイス提督の思慮が無に帰す事になりますな。それでもよろしいですか」

 

 死者の名を盾に使いつつ自身の意見を通そうとする謀臣の態度に金髪の覇者は不快感を刺激されたが、情のみならず理にも適ったその意見を受け入れざるを得なかったのである。

 

 オーベルシュタインの主導による情報管制もあり、結果として戦役終結後も虐殺黙認の噂は信頼に足る情報として扱われる事はなかった。かつて自由惑星同盟末期の最高評議会議長トリューニヒトは在任中にラインハルトを独裁者として批判する演説を行なった事があるが、扇動家(アジテーター)として悪名高い彼ですらヴェスターラントの件には言及しなかった。また、最後のフェザーン自治領主(ランデスヘル)ルビンスキーも後世に名を残す陰謀家であったが、その彼にしても『ヴェスターラントの虐殺』を題材とした謀略は実施し得なかったのである。

 

 ローエングラム王朝成立後、ラインハルトに征服された旧同盟領において統治に不満を持つ民衆による暴動や抵抗運動は少なからず生じたが、彼らが挙げたスローガンの中にも「ヴェスターラントを忘れるな」「ヴェスターラントの二の舞を許すな」という類のものは存在せず、ヴェスターラントにまつわる黒い噂が信憑性を伴って広がっていなかった事を物語っている。

 

 ラインハルトの軍事的な好敵手たるヤン・ウェンリーも、その短い生涯において『ヴェスターラントの虐殺』に関しては一度も公に触れる事はなかった。愛弟子であるユリアン・ミンツを始めとするヤンの周囲の人々も多くの記録や証言を後世に遺しているが、ヴェスターラントの件について深く言及してはいない。

 

 だが、同盟を混乱に陥れた救国軍事会議のクーデターや、エルウィン・ヨーゼフ二世の同盟への亡命事件がラインハルトの策謀の成果である事を看破していたヤンである。その彼が『ヴェスターラントの虐殺』を偶発的な事件と判断していたとは考えにくく、おそらくはその卓越した分析力によって事実を察知していたと思われるが、ローエングラム体制との関係を考慮して沈黙していたのではないか、と後世の一部の歴史家たちは推測している。

 

「彼は人格的に完璧ではないにしろ、この四、五世紀の歴史の中で、もっとも輝かしい個性だ」

 

 これは後世に伝えられているヤンのラインハルト評の一つであるが、「人格的に完璧ではない」とは、同盟軍による大規模な帝国領侵攻作戦における一種の焦土作戦や『ヴェスターラントの虐殺』の黙認に見られる、必要とあらば無辜の民衆の犠牲をも織り込んだ作戦を容認し、実施する事も辞さない非情と言える一面も指しているかも知れない。

 

 もっとも、ヤンは自身が「人格的に完璧」にはほど遠い人間であると認識しており、それを他者に望むつもりも毛頭なかったであろう。彼がヴェスターラントの裏面の真相に気付いていながら口を緘していたとすれば尚更である。そもそも敵や味方を死なせたり欺いたりする事に明け暮れる権力者や用兵家などという人種は「人格的に完璧」であったら務まらない、という皮肉かつ辛辣な意見も存在するが……。

 

 

 ヴェスターラントのわずかな生存者や、兵役などで故郷を離れていたため難を逃れた旧住民の一部は真相の究明を求めた運動組織を結成したが、その活動は蟷螂の斧でしかなかった。帝国政府からは多額の補償を支給されたものの、真相の究明に関しては門前払い同然の扱いを受け、ラインハルトの主導した社会体制の改革の恩恵に浴した大多数の帝国領民からは秩序を乱す異分子として、白眼視もしくは迫害の対象となったのである。

 

 もともと少なかった構成員はそれらに耐え切れずに次々と離脱し、組織はわずか数年で空中分解に追い込まれた。そして新帝国暦〇〇二年八月二九日のラインハルト暗殺未遂事件の犯人は、その組織のリーダーにして最後の構成員だったのである。

 

 彼は明確な証拠こそ得る事はできなかったが、数年にわたる執念深い調査の末に、郷里の大量虐殺にラインハルトが関与していた事を確信していた。そして組織の解体により追い込まれた彼は、妻子や同胞の仇たる『金髪の孺子』を斃すべく、捨て身のテロリズムに身を投じたのである。

 

 だが、殺意を隠し切れず、周囲への注意を払わないまま皇帝に近付こうとする暗殺未遂犯は親衛隊副隊長ユルゲンス大佐の警戒の対象となり、実行の寸前で捕縛される結果となった。そして、テロという手段とはいえ自分を殺そうとした男の顔くらいは見届けようと、多くの兵士たちの列から遠く離れた場所で少数の側近と護衛のみで暗殺犯と対峙したラインハルトは、予想もし得なかった衝撃をその男から与えられる事となる。

 

 暗殺未遂犯は兵士に囲まれ手錠をかけられた上に電圧銃(スタンガン)によって抵抗力を奪われていた。しかし、彼の胸中の瞋恚(しんに)の念は衰える事なく猛っており、故郷と家族を核の炎で灼いたラインハルトに対し、自分を無視し排斥した他の民衆への激しい憎悪をも込めて叫んだのである。

 

「生きている奴らは、貴様の華麗さに目が眩んで、ヴェスターラントの事など忘れてしまっているだろう。だが、死者は忘れんぞ。自分たちがなぜ焼き殺されたか、永遠に憶えているぞ」

 

 憲兵隊司令部に連行された際に暗殺未遂犯を診察した医師のカルテには、彼の喉は絶叫のあまり、言葉を発するのも困難なほどの重度の炎症を起こしていたと記録されており、そのため憲兵総監自身による尋問もほとんど成果は得られなかったと伝えられる。史上空前の覇王の肺腑を直撃した生命がけの弾劾と、その原動力となった彼の悲憤の烈しさが窺い知れるが、事破れて心身の活力を費い果たした彼は獄中で自ら命を絶ち妻子の後を追ったのであった。

 

 

 グスタフを始め現在の幼年学校の生徒たちは、無論『ヴェスターラントの虐殺』の件の噂を耳にしたとしても信じず、敬愛すべき主君に悪意を抱く者たちの妄言と一蹴している。だが、ひねくれ者を自認するユリウスはそういった意見に共感すると同時に、親友であるグスタフにも語っていない異なる見解を抱いてもいた。

 

 無論の事、不敗の名将にして歴史家志望であったヤン・ウェンリーの卓越した情報分析能力には、未だ一一歳の未熟な少年であるユリウスのそれは遠く及ばない。それでも、一流の軍略家であるラインハルトやオーベルシュタインが敵の軍事行動の情報を事前に掴めなかったなどという不手際をするだろうか、という疑問を明敏な少年は抱かざるをえない。同時に彼は『ヴェスターラントの虐殺』が当時のローエングラム陣営に多大な利益をもたらした事も、漠然とではあるが理解していた。

 

 そういった点から考えて、噂はあるいは事実なのではないか、ともユリウスは思うのである。

 

「グスタフに漏らしたら喧嘩になるかな。まあ、それも面白いかもしれないが」

 

 自分と互角の、天性の喧嘩巧者である親友との殴り合いを想像し、それで胸が少し弾んだ自分の心理にユリウスは苦笑した。

 

 ユリウスはこれまで多くの喧嘩を経験してきたが、嗜虐的に多数で少数をいたぶるような真似に与した事はなく、戦う力や意志を喪失した相手を更に痛めつけるなどという行為もした事はない。幼くもそういった尊厳や矜持を心の裡にすでに育んでいたユリウスにとって、二〇〇万もの民衆が無差別に虐殺され、それをあの誇り高い、畏怖すべき金髪の覇者が政治利用のために看過したという推察は重きに過ぎた。

 

 仮に事実だとして、ラインハルトの為人からしてそのような策を自分から発案するとは考えにくく、義眼の参謀の発案であるのは間違いない。だが、最終的に認可したのはラインハルトであろう事も然りである。

 

 そしてその二人の決断は軍略家として合理的な判断だったのではないか、と思った自分自身に慄然とした所で、ユリウスは考えるのを止めた。考えた所で情報も乏しく、未熟もいい所の自分に明快な結論が出せるような事ではないし、そもそも虐殺黙認が事実と確認できた訳でもない。考察し、他者に語るにしても、まだまだ先の話だとユリウスは自身に言い聞かせる。

 

 内心の疑問を心の最深部に押し込む一方で、喧嘩絡みで不意にユリウスの心の表面に浮かび上がったのは亡母の事であった。

 

 母親が健在だった頃、ユリウスは一度喧嘩の現場を偶然通りかかった母に見つかってしまった事がある。その時点で喧嘩相手は一方的に叩きのめされて泣きながら退散する所であったが、彼女の存在に気付いたユリウスは、まずい、と思い身体を強張らせた。叱られるならまだしも、自分を妙に溺愛する彼女が過剰に騒ぎ立てるのではないかと懸念したからである。

 

 だが、予想に反して、母は少し驚いた顔をしていたものの取り乱したりはしなかった。彼女はプラチナブロンドの美しく長い髪を揺らしながら近付いてきて、寂しげな笑みをその美貌に浮かべつつ息子を優しく抱きしめたのである。

 

「やはり、オスカーはオスカーなのね……」

 

 喜んでいるのか悲しんでいるのか解らない声色で、それ以上に解らない内容の言葉を母がつぶやいたのをユリウスは憶えている。

 

 ヴェスターラントの真相といい、亡き母の真意といい、世の中には理解できない事が多すぎる。自分の目と手と思考の及ぶ範囲のあまりの短さに、ユリウスはもどかしさを感じざるを得ないのであった。

 

 

『ヴェスターラントの虐殺』における裏面の事情が全て公表されたのは、事件の当事者たちが全て現世の住人ではなくなった後の事であった……。




 









 オーベルシュタインの没年齢は、書籍版で最新の創元SF文庫版第10巻では三九歳から四〇歳に修正されていたのでそれに従っています。

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