獅子帝の去りし後   作:刀聖

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第四章 旧き都の弔歌
第二十節


 船窓の外に広がる果てなき深淵を、少年はただ見つめていた。

 

 宇宙船の船体に隔てられたすぐ向こう側は、生身の人間の生存を許さぬ永遠の冬夜である。

 

 だが、その畏怖すべき悠久なる空間こそ、彼が己の翼で翔けたいと欲している場所なのであった。

 

 

 宇宙暦八〇二年、新帝国暦〇〇四年の四月、フェザーン回廊内の新帝都フェザーンとヴァルハラ星系内の旧帝都オーディンを結ぶ最短航路を、一隻の船舶が旧帝都方面へと航行している。

 

「アルバトロス」という固有名詞を与えられているその貨客船の船内に、今年で帝国軍幼年学校三年生となるユリウス・オスカー・フォン・ブリュールは乗客の一人として在った。

 

 

 フェザーンからオーディンまでおおよそ二週間。この数字は、燃料の消費効率を経済的に考慮した、単独の艦艇もしくは小規模の船団による速度に基づいたものである。

 

 旧帝国暦四八九年の「神々の黄昏」(ラグナロック)作戦において、一二月九日のイゼルローン回廊に遠征中のオスカー・フォン・ロイエンタール上級大将からの増援要請を受けたラインハルト・フォン・ローエングラム元帥は、即時にウォルフガング・ミッターマイヤー上級大将率いる艦隊をオーディンから進発させた。

 

 そしてイゼルローン回廊に向かうかと思われたミッターマイヤー艦隊は、一二月二四日に惑星フェザーンの上空にその姿を現したのである。かくして「神々の黄昏」作戦の一角たるフェザーン自治領(ラント)占領は、ほぼラインハルトの計画通りに成功したのであった。

 

 二万隻に達する大艦隊が、少数の艦艇のそれと大差ない日程でオーディン・フェザーン間を踏破した事実は、十分に偉業と呼ぶに値する。帝都からフェザーン回廊周辺までは自軍の勢力圏内であり大規模な妨害を考慮する必要がなく、その道程において燃費を度外視した回数のワープと航行速度で行軍する事を、ラインハルトが許可したのである。

 

 そして、先年の「リップシュタット戦役」終結直後のガイエスブルク・オーディン間の強行軍を教訓として最大限に生かし、シミュレーションや幕僚との意見交換を重ね、脱落艦もほとんど出さず迅速な進軍を完遂せしめたミッターマイヤーの指揮運用は「疾風ウォルフ」(ウォルフ・デア・シュトルム)の令名に恥じぬものであった。

 

 

 そのかつての帝国軍の雄図とは比べるべくもないが、アルバトロス号のささやかな航宙(セーリング)もその予定の過半までが消化されており、現在の時点では船長や航法士のスケジュールを逸脱する事なく平穏に進んでいる。

 

 肉視窓に向けていた黒い瞳の視線を外し、ユリウスは自身の客室へと戻るべく踵を返す。先刻まで彼は、船内の狭いトレーニングルームで汗を流していたのである。今頃はフェザーンで親友も自己研鑽に励んでいるはずであり、彼に遅れを取るわけにはいかなかった。

 

 ほどなく到着した扉の前で、彼は内部にいる人物に帰室を告げる。電子錠が解除され、白金色の髪の少年は室内に足を踏みいれた。

 

 そこには目を閉じた壮年の男性が、静かに椅子に座っている。やがて彼は目を開き、入室した少年へ穏やかに声をかけた。

 

「戻ったか、ユリウス」

 

 フェルディナント・ユリウス・フォン・ブリュール。ユリウスの父親である。その父の今の雰囲気から、ユリウスはある事を悟らざるを得なかった。

 

「……オーディンから連絡があったのですか?」

「ああ。義母上が亡くなられたと、義父上から今しがたな」

「そう、ですか……」

 

 フェルディナントの義母、つまりユリウスの母方の祖母ラッヘル・フォン・ダンネマン夫人は生来から蒲柳の質であり、七年前にも心臓の持病で倒れている。その時はすぐに病院に運ばれ、手術が成功して事なきを得た。

 

 だが、その後の健康状態も良好とは言いがたく、再度の手術に耐えられるだけの体力がない以上、次に倒れれば生存率は至って低いと医師から宣告されていたのである。

 

 そしてこの月の初頭、彼女はオーディンの自宅にて再び倒れ、その報を受けてユリウスは父と共に急遽フェザーンを出立したのであった。

 

 父親もユリウスも、おそらく間に合うまいと思ってはいた。だが、覚悟はしていたとはいえ、いざ身内の訃報に直面してみれば、不敵な少年も粛然とした心情を抱かずにはいられない。

 

「葬儀は、私たちの到着を待ってくれるそうだ」

「兄上は、やはり来れないのですか?」

「ああ、お前も知っているだろうが、工部省も今は大変な状況だからな。ルードヴィヒも色々と手を離せんらしい」

 

 ルードヴィヒ・フォン・ブリュールはユリウスの一〇歳上の異母兄であり、フェルディナントの先妻との間に生まれた子であった。現在は大学を卒業して官吏となり、工部省に勤務している。

 

 フェルディナントは一四年前に先妻を事故で失っており、その一年ほど後にユリウスの実母であるツェツィーリア・フォン・ダンネマンと再婚している。

 

 ブリュール家とダンネマン家は共に帝国騎士(ライヒス・リッター)の称号を有する下級貴族であり、邸宅が近所であったため古くから交流を持っていた。フェルディナントとツェツィーリアは一〇歳以上年齢が離れた幼馴染であり、兄妹のような関係であったという。

 

 財務省の官吏であったフェルディナントが先妻と結婚してしばらく年月が経過した後、評判の佳人として成長したツェツィーリアにも何人もの求婚者が現れたというが、結局彼女はその中から伴侶を選ぶ事はなかった。

 

 そしておりしも妻を失って間もないフェルディナントとの結婚話が持ち上がり、そのまま二人は夫婦となる。のちにツェツィーリアが男児を出産し、ユリウス・オスカーという名が与えられた……。

 

 そのツェツィーリアは昨年、新帝国暦〇〇三年に死去している。

 

 その前年の年の一〇月半ば、オスカー・フォン・ロイエンタール元帥叛逆の報に全人類社会が騒然としているさなか、ツェツィーリアは家族とともに転居したフェザーン市街中央地区において、突如として行方不明となった。

 

 そして彼女は降りしきる雨の中、冷えこんだ夜半の郊外にて警察に保護された。だが、実母と同じく体が強いとはいえなかった彼女は低体温症から重度の肺炎を発症し、年を越した一月の下旬に世を去ったのであった。

 

 この母の失踪と死去といった一連の騒動のため、ユリウスは参列できたはずの故コルネリアス・ルッツ元帥の国葬と、翌年の皇帝の結婚式に出席できなかったのである。

 

 

 ロイエンタール元帥叛乱の端緒となった皇帝(カイザー)ラインハルト襲撃事件に際し、皇帝の随員の一人であったルッツは主君の盾となり惑星ウルヴァシーにて斃れた。

 

 事件発生を知った「新領土」(ノイエ・ラント)総督たるロイエンタールは、グリルパルツァー大将に皇帝一行の保護と治安回復を命じてウルヴァシーに急行させた。そしてグリルパルツァー麾下の軍はウルヴァシー制圧の過程で、基地の遺体安置所に収容されたルッツの遺体を発見したのである。

 

 グリルパルツァーは総督への報告の一つとしてその事実を伝え、どのように処置すべきか指示を仰いだ。そしてロイエンタールは、ほどなく「遺体は礼節をもってフェザーンへすみやかに送り届けよ。望むならば、卿と卿の軍もそれに同行して構わぬ」と返答したのであった。

 

 グリルパルツァーはその返答の前半のみ、正確に実行した。彼は麾下の高速艦から数隻を抽出し、その小艦隊にルッツの遺体の護送を命じて新帝都方面へと送り出したのである。敬礼してそれを見送ったグリルパルツァーは、自身の打算に従って、フェザーンではなくハイネセンへと帰還する事を決断したのであった。そして「後半の勧めにも従っていればよかったものを」と、彼は後世の人々から冷笑ないし憫笑される事となるのである。

 

 一一月上旬、死せるルッツは新帝都に無言の帰還を果たす。新領土への討伐軍派遣の準備で慌ただしい中にてとりおこなわれた国葬は、いたって簡素なものにならざるを得なかったが、主君たるラインハルトをはじめ、列席した文武の重鎮たちの多くが忠良の名将の死を惜しんだのである……。

 

 

 実の母親に対し酷薄だとは自覚しつつも、彼女の不可解な失踪と死に対しユリウスは悲しみよりも苦々しさを強く感じざるを得ず、その思いは現在でも変わっていない。

 

 ユリウスと他の家族との関係は、ユリウス本人から見れば普通とは言いがたい。父や祖父母は彼らなりに愛情をもって接してくれていたとは思うが、同時に彼らの間には、乗り越えがたい不可視の垣根のようなものの存在を明敏な少年は感じているのである。

 

 兄ルードヴィヒはというと、全寮制の学校に入学したのちは実家に帰る事はあまりなく、家族とは疎遠となっている。本来は温和で人当たりのよい性格らしいが、たまに顔を合わせたとしても、父やその再婚相手、そして異母弟とはぎこちない空気が漂うのが常であった。今回の祖母の一件にしても、仕事が忙しいのは事実であろうが、自分のように実の祖母ではなく、父のように義母という関係でもない人間のために時間を割く気になれないという心理もあるのかもしれない。

 

 異母兄の心情はまだ理解できる。多感な少年期に慕っていた母を失い、その悲嘆が癒されないうちに父が再婚したとあっては、父や継母、そしてその間に生まれた異母弟に対し憎悪とまではいかなくとも隔意を抱くのは無理からぬ事とも思える。

 

 だが、実母が自分に抱いていた心情は、ユリウスには理解しがたい。彼女の実子への溺愛や執着心は、息子本人と世間一般から見ても過剰に過ぎるものであったと思う。

 

 父や祖父母がそのあたりの真相を知っているのは疑いないが、彼らはユリウスに対して、それを(かたく)なに語ろうとはしなかった。

 

 そして今、事情を知る一人たる祖母が、秘密を抱えたまま世を去った。健在である身内が自分に真相を語ってくれる日は、はたして来るのだろうか……。

 

 

 そのような思惟を巡らせていたユリウスの聴覚を、彼や父以外の声が刺激する。父が点けていた立体テレビ(ソリビジョン)から、軍の公式発表を読みあげる報道官の淡々とした台詞が流れてきたのである。

 

 その内容は、辺境のパラス星系において帝国軍が宇宙海賊の根拠地の一つを強襲し、制圧に成功したというニュースであった。

 

「海賊か。いつの世も、こういった連中の種は尽きないものだな」

 

 特に表情も変えないまま、フェルディナントはつぶやいた。

 

 

 現在の旧来の帝国領内においても、前王朝時代から宇宙海賊と呼ばれる非合法組織は中央の眼と手が及びにくい辺境各地に存在している。重罪を犯した逃亡者、脱走兵、没落した旧貴族やその私兵、破産した商船主など、その出自は様々であった。

 

 海賊の生業と言えば略奪が最初に連想されるが、他にも「通行料」の徴収、拉致による身代金の要求、密造品や禁制品の闇取引と言った不法行為によって懐を潤している集団も多く、当然ながら主権国家にとっては容認すべからざる存在である。また、軍および門閥貴族の一部などと裏で癒着してその走狗となり、「飼主」の対立勢力への妨害行為や、狂言の襲撃による保険金詐欺の片棒を担ぐといった事例すら珍しくはなかった。

 

 銀河連邦の軍人時代に海賊討伐で名を馳せたルドルフ大帝の治世以来、海賊対策は帝国軍の伝統的な責務の一つであり、それは王朝が交代しても変わりはない。

 

 だが大抵の場合は、海賊たちも質と量で勝る正規軍と正面から戦う愚は犯さなかった。陽動やゲリラ戦などで撹乱を図って対抗し、形勢不利と判断すれば即座に逃げ散るのが常であり、捕捉も容易ではなかった。仮に鎮定に成功したとしても、それは統一されざる集団である海賊全体の一部に過ぎず、広大な辺境に点在する彼らを完全に根絶するのは不可能に近かったのである。

 

 旧帝国暦四八八年のリップシュタット戦役終結後、帝国内における全権力を掌握したローエングラム独裁体制は、辺境に跋扈していた海賊たちへ「公平な裁判」で処遇を決すると公に確約し、投降を呼びかけた。

 

 当初海賊たちは、その布告をにわかには信用しなかった。だが、新体制が敗者たる貴族連合軍に属していた多くの投降兵や捕虜たちを赦免し、その中のファーレンハイトやシュトライトを始めとした有能な高級士官を登用し厚遇しているという事実が知れわたるにつれ、徐々に近隣の軍管区司令部に出頭する海賊たちも現れ始めた。

 

 無実の罪を着せられたり、不当な債権を背負わされたりして逃亡者とならざるを得なかった場合などは、事実と認められれば情状が酌量されて比較的に軽い刑で済む判決が次々と下された。その結果として、少なからぬ数の海賊が武力によらず宇宙から姿を消す事となる。

 

 だが、それでもなお無視しえない数の海賊が、現在でも辺境星域に潜んでいると推測されている。出頭すれば死刑ないし終身刑を免れないほどの重罪を重ねている者たちは無論の事、()()()()と出頭したりはしなかったのである。

 

 それに加え、リップシュタット戦役での敗北後にローエングラム陣営へ膝を屈する事を肯ぜず逃亡に成功した貴族連合軍の一部には、フェザーン自治領ではなく辺境各地に潜伏して海賊に身を落とした者たちの存在も確認されている。そのため、旧帝国暦四八九年に幼帝エルウィン・ヨーゼフ二世が宮中から拉致された際、犯人と目される旧門閥貴族たちが「辺境に人知れず根拠地でも築いているのだろうか」と推測された事もあった。

 

 一方、旧自由惑星同盟においても、辺境の海賊への対策は同盟政府や軍部にとっても重要な課題であった。

 

 末期においてはカーロス・クブルスリー提督を現場責任者とした、軍による数年がかりの掃討作戦が、顕著と言ってよい成果を挙げていた。その結果として、同盟の完全滅亡までその領域内において、海賊たちの大規模な蠢動が確認される事はなかったのである。ヤン・ウェンリーがイゼルローン方面軍の司令官であった時期、イゼルローン回廊の同盟側出入口付近の星域にて海賊が出没したとの報を受けたヤンは「何だかえらく懐かしいものに出遭った気がするな」と、いささか緊張感を欠いて評したものであった。

 

 その討伐成功の思わぬ副作用と言うべきか、討伐の過程において同盟内のいくつかの大企業が裏面で海賊との間に細からざるパイプを形成していた事が判明し、政財界の一大スキャンダルの端緒となった。

 

 それににより著しく社会的信用を失った企業の一部は、重ねて愚かな事に失地回復の一環として、有力政治家への贈賄を実行したのである。ほどなくその事実も宇宙暦七九六年のなかばに露見し、さらにスキャンダルは巨大化した。

 

 そして収賄容疑により失脚した政治家たちの中には、当時のロイヤル・サンフォード政権の閣僚の一人であった情報交通委員長も含まれていたのであった。

 

 これにより、同年のヤンによるイゼルローン要塞無血奪取によって多少なりとも上向いていた政権の支持率は、大幅に下落する事となる。元々イゼルローン攻略は、ヤンと彼を起用したシドニー・シトレ統合作戦本部長に功績を帰するものと市民の大半は評価しており、サンフォード政権はその余恵をささやかに得ていたに過ぎない。成立当初から市民の期待が高いとは言えず、国力の衰微に対し有効な政策を打ち出せずにいた同政権である。ひとたび大きな不祥事が起これば、支持率の再低下は当然の事であった。

 

 そしてそれは、軍の一部から提出された大規模な帝国領遠征計画を、支持率回復をもくろんだ政権が認可してしまうという結果を生む。かくして、アムリッツァ星域における大敗という自由惑星同盟滅亡への扉は押し開かれるのである……。

 

 

 新帝国暦〇〇四年、宇宙暦八〇二年現在、人類社会において宇宙海賊の総数は減少の一途をたどっていると言ってよい。だが、それだけに現存している海賊はローエングラム王朝への反抗心や敵意が強固な者たちばかりであった。

 

「まあ、このあたりの航路には、さすがに噂の『大神の槍』(グングニル)を名乗る連中も進出はできないだろう」

 

 

 フェルディナントが口にした「大神の槍」は現在、旧ゴールデンバウム王朝時代からの帝国領方面の辺境星域に存在している、最大規模の海賊が自称している名であった。

 

「グングニル」とは神話における大神オーディンの所有する投槍の銘であり、投擲すれば狙いたがわず対象を貫き、のちに所有者の手元に戻ると言われている神器である。

 

 また、オーディンは一振りの神剣を地上にもたらし、それは英雄シグムンドの手に渡った。のちにオーディンは、罪を犯したシグムンドに向けてグングニルを投げ放ち、彼の剣を折り砕く。激戦の渦中で愛剣を失った英雄は落命し、のちに折れた剣は打ち直されて「グラム」と名づけられた……。

 

「大神の槍」の構成員の中核は、リップシュタット戦役における貴族連合軍の残党であるとされる。彼らは前述の神話に基づいて、グラムを家名の由来の一つとし王朝簒奪と言う「大罪」を犯した「ローエングラム」を打ち砕いて、のちに旧帝都たる惑星「オーディン」に戻るという決意を自称に込めているのだという。

 

「気宇壮大な事だ。だが、実力が伴っているのやら」

 

 と、ユリウスは最初にその名の由来を聞いた時は皮肉っぽく思ったものである。

 

 だが、その集団は、現在までローエングラム王朝軍の索敵と攻撃をかいくぐって存在し続けている。「大神の槍」は旧帝国領にて根拠地を変えつつ辺境を転々とし、船団を襲撃して公路や兵站を一時的にしろ寸断し、急行した討伐部隊を地の利を掌握した巧妙果敢なゲリラ戦術で翻弄したのち、致命的な損害を避けつつ幾度も逃げおおせているのである。

 

 

 新帝国暦〇〇二年の終わり、すなわちロイエンタール元帥叛逆事件発生の辺りからハンス・レーマンと名乗る人物が新たな首領格となった「大神の槍」は、近隣の海賊を次々と傘下に収めて急速にその勢力を強め始めた。

 

 この時期、後方総司令官エルネスト・メックリンガー上級大将は叛乱を起こしたロイエンタールの後背を扼すべく、主力艦隊を率いて旧同盟領方面に進出している。すなわち旧帝国領内の軍権を統括していた最高責任者が、大兵力と共に長期にわたり不在となっていたのである。

 

 それに加え、叛乱終結後にヒルデガルド・フォン・マリーンドルフ伯爵令嬢が皇妃に冊立されて大本営幕僚総監を辞し、その後任にメックリンガーが任命されたため、旧帝国領の軍内部の人事異動で指揮系統に少なからず空隙が生じていた。海賊たちの躍進には、こういった状況に上手く乗じたという背景も存在したのであった。

 

 

「大神の槍」がいかに勢力を拡大させたとて、現時点では史上空前の大帝国と較べれば、獅子の足元でうごめく蚤虱(のみしらみ)に過ぎない。

 

 しかし、どのような大勢力も、最初は小規模な存在を核として発展するものである。かつて前王朝末期においてはラインハルト・フォン・ミューゼルという若き一軍人も、当時の支配者層たる門閥貴族の大半からは「花園を荒らす害鳥」という程度の印象しか、当初は持たれていなかった。

 

 だが、「皇帝の寵姫の弟という立場と運のみで成り上がった」と思われていた彼は多くの輝かしい武勲を背景として急速に勢力を強め、ついには「リップシュタット戦役」において貴族連合軍を打倒し、帝国の支配者としての立場を完全に奪い取ったのである。

 

 また、史上空前の覇者たるラインハルトの最大の味方であったジークフリード・キルヒアイスと、同じく最大の雄敵であったヤン・ウェンリーの両名が、捨て身の刺客によって生命を奪われている事例も記憶に新しい。彼らはそれぞれ敗滅直後の貴族連合軍の投降者と、帝国軍の討伐で壊滅した地球教の残党という、もはや眼中に入れるに足りぬと思われていた存在の凶行によって非業の死を遂げたのである。

 

 この数年間のそういった事例に思いを致せば、帝国側としては台頭する「大神の槍」を弱小勢力と侮ってばかりもいられなかった。彼らがその組織力を利用して、近年に限ってもいくつかの成功例がある要人へのテロを企図する可能性は十分にありうるのである。

 

 かつてアンネローゼ・フォン・グリューネワルト大公妃が弟である皇帝ラインハルトの結婚式に出席するためオーディンから少数の高速艦隊に守られつつ出立した際、皇帝は最愛の姉の安全を、最大限に考慮するよう命じたものである。自分の姉が「大神の槍」のみならず、地球教や旧フェザーン自治領主のルビンスキー一党といった敵性勢力からの殺傷や拉致の標的となる可能性が極めて高い事をラインハルトも承知し、かつ危惧したのだった。

 

 そして大公妃の道中の護衛責任者という大任を命じられたのが、エミール・フランツ・グローテヴァル大将であった。

 

 

 グローテヴァルは元の姓を「グローテヴォール」と言い、元々はマリーンドルフ伯爵領の警備艦隊司令部に所属していた経歴を持っている。

 

 旧帝国暦四八七年、旧王朝に対し叛乱を起こしたカストロプ公爵領の艦隊がマリーンドルフ伯爵領に侵攻した際、当時准将であったグローテヴォールは分艦隊の一つを率いて防衛の任にあたった。

 

 マリーンドルフ伯爵自身は、説得のために赴いたカストロプ領にて身柄を拘束されており、カストロプ艦隊の侵攻時点で伯爵家は当主不在の状態であった。伯爵は出立前に「私の身に何があっても、決してカストロプ家に屈してはならない」と言い残しており、この言葉に従って伯爵領は徹底抗戦を決定したのである。

 

 数で勝るカストロプ艦隊に対して、伯爵領の警備艦隊は帝都オーディンからの援軍が来るまで防御戦術に終始し、結果としてそれは成功で報われた。

 

 その中でも的確な機雷原の敷設の立案および実行、敵の後背に回り込んでの補給線の遮断など、グローテヴォールの骨惜しみなき働きぶりは目ざましかった。叛乱鎮圧後、救出されたマリーンドルフ伯爵家当主も同じ「フランツ」という名を持つグローテヴォールに対しての信頼を深めたのである。

 

 翌年の「リップシュタット戦役」でローエングラム陣営に与したマリーンドルフ伯爵家は、協力の一環として私設艦隊の一部をローエングラム軍に従軍させる事となる。そしてその艦隊司令官に任じられたのが、グローテヴォール少将であった。

 

 グローテヴォール艦隊は、ジークフリード・キルヒアイス上級大将率いる辺境平定のための別働隊に組み込まれた。先のカストロプ動乱において、叛乱鎮圧の立役者であったキルヒアイスと面識を得ていたグローテヴォールは謹んでその指揮下に入ったのであった。

 

 味方となった貴族の私兵に、ラインハルトやキルヒアイスは忠誠の証明以上の期待はしていなかった。だが、その中でも練度と士気の高いグローテヴォール艦隊は、寡兵ながら例外的な活躍を示したのである。

 

 キルヒアイスは数十回もの中小規模の会戦に臨んでことごとく勝利を収めたが、グローテヴォールは陽動や後方撹乱などでそれに少なからず貢献し、赤毛の驍将からの信頼を高めていった。

 

 そして「キフォイザー会戦」でリッテンハイム侯爵の大軍を撃破し、ガルミッシュ要塞を占領したキルヒアイスは、グローテヴォールに要塞への駐留を要請したのである。それを受諾したグローテヴォールは、大きく損壊した要塞の応急修理を行いつつ、戦役終結まで周辺星域およびローエングラム軍の後方の安定に尽力したのであった。

 

 戦役終結後、成立したローエングラム独裁体制下にて、降伏した旧貴族連合軍の私兵は多くが再編成されて正規軍に吸収された。同時にローエングラム陣営に与した貴族も、私兵の保有に大幅な制限が加えられる事となる。マリーンドルフ伯爵は進んで保有する警備艦隊の指揮権の移管を申し出、グローテヴォールは中将に昇進の上で正規軍に籍を移したのであった。

 

 旧帝国暦四八九年に開始された「神々の黄昏」作戦に際し、グローテヴォールは帝国領に残留し、メックリンガー大将の指揮下にて領内の治安維持に従事する事となる。マリーンドルフ家と懇意であったヴェストパーレ男爵家を通じてメックリンガーと以前から面識があったグローテヴォールは「芸術家提督」からも信頼され、麾下の艦隊を率いて主君の命と上官の指示に忠実に従ったのだった。

 

 ローエングラム王朝成立後、大将に昇進したグローテヴォールは旧帝国暦四九〇年改め新帝国暦〇〇一年の同盟領への再侵攻に際し、遠征軍への従軍を命じられる。艦隊司令官として初めて同盟領に足を踏み入れる事となった彼は、ヴァーゲンザイル大将、クーリヒ中将、マイフォーハー中将らと共に遠征軍の第四陣の一翼を担った。総司令官が定められていない第四陣の各部隊は、それぞれ状況に応じ遊軍として独自に動ける態勢を整えていたのである。

 

 そして遠征の途上、グローテヴォールは第二陣のミッターマイヤー艦隊に造兵廠を完全破壊された惑星ルジアーナへの駐留を指示された。そして長期間にわたり、フェザーン回廊方面からの兵站の安定や、投降した同盟軍捕虜および民間人への処遇などに心を砕く事となるのである。

 

 そして新帝国暦〇〇二年の「回廊の戦い」終結後、グローテヴォールはルジアーナ駐留の任を解かれて後方総司令部への異動を命じられ、再びメックリンガーの指揮下に入るべく旧帝都オーディンに赴任したのだった。

 

 それに前後して、彼は姓をGROTEWOHL(グローテヴォール)からGROTEWAL(グローテヴァル)に改名したのである。

 

 

 彼は改名した理由を公には語らなかったため、後世において多くの歴史家がその背景を考察している。

 

 グローテヴォールという姓は古語で「巨大な土壁」もしくは「巨大な堰堤(ダム)」を意味する「GROET-WAL」を語源としていると伝えられている。古くは「GROTEWAL」もしくは「GROTEWALE」「GROTEWAHL」とも表記されていたとされているため、古めかしく改姓しただけではないかという推測もある。

 

「WOHL」には幸福や繁栄、健康などといった意味もあり、自身のそれを捨ててでも新帝国を守る「土壁」(WAL)となる決意を示したのだという者もいる。

 

 他には、「WAL」は「鯨」を意味する語でもあるため、艦隊司令官たる彼が自らを「星々の大海を征く巨鯨」と称したのだという説もある。

 

 また、「WALHALLA(ヴァルハラ)」には「戦死者の館」、「WALKUERE(ワルキューレ)」には「戦死者を選ぶ者」という語意がそれぞれある通り、WALには「戦死者」を指す意も存在する。そのため、「マル・アデッタ会戦」や「回廊の戦い」にて膨大な数の「戦死者」が生じた事に衝撃を受けた彼が、死者への哀悼を示すために改名したのだという見解も存在している……。

 

 

 同年末期のロイエンタール元帥叛逆事件においてメックリンガーが旧同盟領へと進発するに際し、グローテヴァルはヴァルハラ星系に残留し、後方総司令官の職責を代行するように命じられる。

 

 一方、同じく後方総司令部に籍を移していたヴァーゲンザイル大将は、メックリンガー艦隊通過後のイゼルローン回廊帝国側出入口付近の星域への駐留を命じられた。

 

 重要な任務には違いないだろうが、同階級のグローテヴァルより明らかに格下に扱われたヴァーゲンザイルは不満を漏らさずにはいられなかった。

 

 それに対しメックリンガーは、グローテヴァルの方が年長で軍人としての閲歴も上である事、後方勤務の経験でもグローテヴァルに一日の長がある事などを列挙し、ヴァーゲンザイルを沈黙させたのであった。この貯めこんだ不満がヴァーゲンザイルの心中の矜持を刺激し、のちに功名に逸った彼がヤン・ウェンリー亡き後のイゼルローン軍に不覚を取った一因ともなったと言われている。

 

 グローテヴァルの方でもヴァーゲンザイルに配慮する一方、メックリンガー艦隊進発後に辺境付近で「大神の槍」などの非合法組織が蠢動し始めた事に対処しなければならなかった。

 

 後方総司令官代理として、兵数が低下した要衝たるヴァルハラ星系近辺から迂闊に動くわけにもいかず、グローテヴァルは辺境各地に駐留する警備および巡視部隊からの報告を分析し、連携を密にさせて不敵な海賊どもを可能な限り抑えこもうとした。

 

 だが、結果として「大神の槍」の巨大化を阻止する事はできず、途中でフェザーンから増援として帝国本土に向かったグリューネマン大将麾下の一個艦隊と連携する事により、海賊の跳梁になんとか歯止めをかけるまでに留まった。グローテヴァルは忸怩たる思いを禁じえなかったが、彼の妨害がなければ海賊どもの成長はさらに大きなものとなっていたであろう。少なくとも、皇帝とその周辺は「グローテヴァルは与えられた条件の中で最善を尽くした」と評価したのである。

 

 

 こういった経歴に鑑みて、皇帝や現在の軍最高幹部のみならず、故キルヒアイス元帥、旧主である国務尚書マリーンドルフ伯爵、その令嬢にして皇妃に冊立される事となったヒルダ、アンネローゼの友人たるヴェストパーレ男爵夫人といった要人たちから能力及び人格的にも安定した信頼を寄せられていたグローテヴァルは、弟の結婚式に出席すべく初の恒星間航行に臨むアンネローゼの警護役として、最良の部類と言ってよい人材であった。

 

 主君の意を受けた護衛責任者たるグローテヴァルは、まず随行する艦船や人員に不審な点がないかを入念に点検させた。そして目立たないように通常の戦艦を臨時の旗艦と定め、最短航路を含めた複数の航路に囮艦隊をオーディンから同時に進発させ、ヴァルハラ星系内にて各艦隊間でシャトルを頻繁に往来させたり、傍受を想定して真偽の入り混じった通信を濫発させるなど、敵性勢力の眼と判断を惑わすべく細心の注意を払ったのである。

 

 かくして最短航路の倍近い五〇〇〇光年もの迂回航路を、グローテヴァルは一か月弱の時間をかけて踏破し、アンネローゼを無事にフェザーンへと送り届ける事に成功したのであった。

 

 

 新帝国暦〇〇三年七月に皇帝ラインハルトが崩御し、翌月のアレクサンデル・ジークフリードの即位後、エルンスト・フォン・アイゼナッハ元帥が「ヴァルハラ星系圏(グロスラウム・ヴァルハラ)総軍司令官」に任命され、旧帝都オーディンに赴任した。

 

 それに伴い、上級大将に昇進したグローテヴァルは副司令官の一人としてアイゼナッハの補佐役たる事を命じられている。

 

 ヴァルハラ星系圏総軍が正式に発足して以降、「大神の槍」の行動は目に見えて失速した。二万隻を超える主力艦隊を擁している総軍は、状況に応じて兵力を派遣し、辺境の現地の警備艦隊と呼吸を合わせつつ着実に海賊の戦力を削り、資金源を押さえ、拠点となりうる施設を制圧ないし破壊するなど、時間をかけて海賊を徐々に弱らせつつあるのである。

 

 ユリウスも任官すれば、任務の一つとして海賊討伐に従軍する事もあるだろう。未知のエイリアンによる大襲来か、大規模な叛乱でも起こらない限り、人類社会がほぼ統一された現在では他に艦隊戦に参加する機会などあるはずもない。

 

 とは言え、前者はともかくとして後者はありえないとも断言はできない。現に一昨年にはほとんどの人間が予期しえなかった「大規模な叛乱」が勃発しているのだから。

 

「これからは帝国軍の性格も変わる。外征のためでなく治安維持を目的としたものになるだろう」

 

 これはヤン・ウェンリーの死後、故ロイエンタール元帥が親友ミッターマイヤー元帥に語ったとされる台詞だが、皮肉にも発言者たるロイエンタール自身が「帝国軍の性格」が変わる前に叛逆者となり、討伐軍司令官に任じられたミッターマイヤーとの間に「双璧の争覇戦」という一大会戦を催す事となったのである。

 

 とは言え、今の時点では起こってもいない叛乱よりも、実際に存在している海賊たちについて思いわずらうべきである。海賊の根絶は困難だとしても、辺境開発の推進と民心安定のためにも、帝国軍はその勢威を弱め、封じ込めるために尽力せねばならない。そして軍のみならず、政治に携わる者たちも、海賊などの犯罪者を可能な限り生み出さないような社会体制を形成する義務があった。

 

 亡き母の事は、現時点で傍らの父やオーディンに在る祖父は真相を語る気配もない。ユリウスは臆病や消極といったものとは縁遠い少年であるが、それでもこの一件に関しては、無理に聞き出すのがためらわれるのである。

 

 そして、将来はともあれ、現在の海賊討伐は現役にして歴戦の軍人たちに任せるしかない。今は至近で自分がなすべき事、すなわち祖母の弔いに臨むとしよう、とユリウスは巡らしていたいくつかの思考を打ち切る事にする。

 

 その彼を乗せて、アルバトロス号は旧帝都に舳先を向け虚空を進んでゆくのであった。




 










1.オーディンとフェザーン間の距離について

 オーディンとフェザーン間の時間的距離は、オーディンにて拉致されたエルウィン・ヨーゼフ二世がフェザーンに「二週間で到着の予定だ」と描写されているのを基としています(策謀篇第三章三)。

 なお、オーディンに居住しているアンネローゼがラインハルトの結婚式に出席するべくフェザーンに赴いた際に「五〇〇〇光年にわたるこの長い旅」と書かれていますが(落日篇第一章二)、一方でイゼルローン要塞と同盟首都ハイネセン間の時間的距離が「三週間から四週間」(雌伏篇第五章二)、実距離が「四〇〇〇光年」(雌伏篇第五章三、怒濤篇第二章三など)と描写されています。

 これだと五〇〇〇光年を二週間で征くというのは無理が生じますので、この二次小説ではアンネローゼを警護するグローテヴァル艦隊は安全のため迂回航路を進んだと設定しています。

 
2.グローテヴォールとグローテヴァル

 グローテヴォールの姓の由来や変遷については「GenWiki」というサイト(ドイツ語)の「Grotewohl」の項目を参考にしています。これを基にして、この二次小説ではグローテヴォール大将(怒濤篇第三章三に登場)とグローテヴァル大将(落日篇第一章二に登場)を同一人物として設定しています。
 
 また、ドイツ語には「A」「O」「U」といった母音の上に「‥(ウムラウト記号)」が付く文字がありますが、この二次小説では環境依存による文字化けを防ぐため、それぞれ「AE」「OE」「UE」という表記で代用しています。

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