獅子帝の去りし後   作:刀聖

19 / 23
第十九節

 一〇歳のユリウス・オスカー・フォン・ブリュールは、帝都オーディンの帝国軍幼年学校の敷地を一人歩いていた。

 

 彼はこの月に、幼年学校に入学を果たして間もない新入生である。季節は六月の下旬。瑞々しい新緑の季節を経て、新帝国暦〇〇二年、宇宙暦八〇〇年もその過半が過去の領域へと去りつつあった。

 

 

 出征中の家族や知人の身を案じながらも、帝都の民衆は例年通り「昇天祭」(クリスティ・ヒンメルファート)「聖霊降誕祭」(プフィングステン)「聖体祭」(フロンライヒナム)といった初夏の祝祭を催し、それらは盛況のうちに終わっている。その余韻もすでに消え去り、在校している幼年学校の教師や生徒はいつも通りの日常を営んでいた。

 

 広大な敷地内にはユリウスら学生が宿所としている寄宿舎のほかに、学校本部、第一から第三までの各校舎、体育館、図書館、閲兵場兼競技場、射撃訓練場などといった施設が存在している。

 

 それらは建設されてから永い月日が経過しており、定期的な改装や補強工事が行われても、もはや隠し通せぬほどに老朽化が進行していた。そのため、帝国の独裁者となりおおせたラインハルト・フォン・ローエングラムはロイシュナー校長などの具申も受け容れて、全ての軍関連学校の移転と新築を指示したのであった。

 

 リップシュタット戦役の結果、雲上に鎮座まします支配者層であった門閥貴族の大半は、完全敗北という奈落の最下層に叩き落とされた。その彼らからは金額にして天文学的な数字となる財産が没収され、それらは勝者たるローエングラム独裁体制下の国庫に収められたのである。

 

 そしてその一部である帝都中心地区郊外の広大な土地から好立地の場所が選別され、軍関連学校の新しい敷地に充てられた。

 

 だが、各学校の新施設が落成する前に、新王朝を興したラインハルトによるフェザーンへの遷都令が布告され、それらの施設は完工後にオーディン分校として利用される事となるのであった。

 

 遷都の勅命が正式に発せられるのは一か月ほど後の七月二九日であったが、事前に遷都の情報自体は内定として帝国全土に周知されている。そのため、ユリウスもこの場所で過ごすのもごく短い期間であろう事はすでに承知していた。

 

 入学して間もないユリウスの心中に、この旧い学校から離れる事に対しては感慨など湧くはずもない。だが、ここはかつて偉大なる皇帝(カイザー)ラインハルトや、その盟友たる故ジークフリード・キルヒアイス元帥が一〇歳から五年にわたって過ごした場でもある。それを思えば、今のうちに記憶に残すべく、休日を使って散策してみようという気にもなるのであった。

 

 正門とは正反対の、いわゆる裏庭に足を踏み入れていた白金色の髪の少年は、不意に不穏な喧噪によって鼓膜を刺激された。

 

 それは彼にとって聞きなれたものであった。まだ幼さを残した声での怒号が飛びかい、何かが叩きつけられたり倒れたりする音が断続的に響きわたる。間違いなく学生同士の喧嘩であった。

 

 そのささやかな戦場と思しき場所に向かったユリウスは、ほどなく三対一の少年たちの乱闘を目撃する事となる。

 

 明確な数の差があったが、意外にも優勢なのは一人の側であった。

 

 その少年は怒りに駆られているように見えた。彼は体格や身体能力が交戦中の三人よりもずば抜けている上、明らかに場数でも勝っている。暴風のごとく荒れ狂う憤怒の権化は数的劣勢をものともせず、ごく短時間で二人を芝生の上に這いつくばらせてのけた。

 

「……やるな」

 

 その光景を遠目に見たユリウスは、思わず独語する。喧嘩慣れしている彼でも、同年であれほどの喧嘩巧者は記憶にない。惜しむべきは、最低限保つべき冷静さを失っているように見える点であろうか。

 

 そして最後の一人の腹に鉄拳を叩き込んだ怒れる少年は、両膝を突く相手の胸倉を左手でつかみ強引に立たせる。

 

「さあ、言ってみろ。さっきの台詞を言えるものなら、もう一度言ってみろ! 言えないのなら、今すぐに取り消せ!!」

 

 表情に似つかわしいその怒声に対し、先に叩きのめされた二人はすでに戦意を喪失してうつむくだけであった。だが、驚異的な膂力でなかば宙吊りにされている少年だけは、力強さを欠きながらも嘲りの表情を浮かべる。

 

「……誰が取り消すか。言えというなら、何度でも言ってやる」 

 

 その返答を聴いた巨躯の少年は、全身にさらなる憤激をみなぎらせた。

 

 怒りに任せて振り上げられた彼の右の拳は、相手に直進する事はなかった。その事実は拳の所有者の意思に反していた。その太い右手首を、背後から近づいたユリウスが掴んだのである。

 

「そこまでにしておけ。もう勝負はついているだろう」

「邪魔をするな! 放せ!!」

 

 右腕を封じられた少年は闖入者の手を乱暴に振りほどこうとするが、振りほどけない。どうやらこの優男は、見た目よりも非凡な握力や膂力を有しているらしい。だが、その認識は、今の彼にとって感嘆よりも苛立ちを誘うものであった。

 

「放せってんだッ」

 

 すでに忍耐力が在庫切れとなっていた少年は、襟首をつかんでいた相手を放り出してユリウスに殴りかかった。

 

 その拳は迅さと重さを兼ね備えた一撃であった。だが、殴りかかられた方は危なげなく回避してのけ、同時に相手の顔へカウンターの拳を迷いなく放ったのである。

 

 頭に血が上って小さからぬ隙──同世代でそれを突ける者は少ないだろうが──が生じていた少年は、その鋭い一撃を回避も防御もできなかった。次の瞬間には、顔の左半分に未曾有の痛撃が炸裂したのを知覚しつつ、巨躯の少年は短く宙を舞った後に横転した。

 

 ここまで見事に拳を叩き込まれたのは、彼にとって初めての経験であった。その事に唖然とし、頭を揺らされてやや意識が朦朧としながらも、意地っ張りな少年は膝を震わせつつ立ちあがった。

 

「タフな奴だな」

 

 その頑健さと気丈さに、ユリウスも驚嘆していた。これまでの喧嘩相手なら、今ほどの一撃を加えていれば勝負は決まっていたに違いない。

 

 それに、身をかすめた拳から感じられた圧力は、喧嘩の場数も相応に踏んでいる剛胆なユリウスをして()()()とさせるものであった。怒りに我を忘れて大振り気味であったからこそ余裕をもって対処もできたのだが、相手が今少し冷静であればこうも上手くはいかなかったであろう。

 

「あれ以上は喧嘩ではなく、ただの見苦しい私刑だ。両親からそんな教えを受けてきたわけでもないだろう、グスタフ・イザーク・ケンプ」

「……俺を知っているのか」

 

 身構えようとしたグスタフは、やや毒気を抜かれたかのような声で応じた。

 

「父親が有名だからな。俺は、同じ一年のユリウス・オスカー・フォン・ブリュールだ。お見知りおき願おう」

 

 そう言いつつ、ユリウスは周囲に力なく座りこんでいる三人を見渡す。彼らの方は名前は知らないが、顔には見覚えがあった。確かユリウスやグスタフと同じ一年生だったはずである。

 

「で、なぜ神聖な学び舎で、かくも苛烈にして不毛な闘争が勃発する事となった?」 

 

 皮肉という香辛料(スパイス)を言葉にまぶしつつ、白金色の髪の少年は喧嘩の理由を双方に問いただした。

 

「……おまえには関係ない」

「なくはないさ。なにせ穏便に喧嘩を制止しようとしたら、誰かに問答無用で殴られそうになったからな。事情を聞くくらいは構わないだろう?」

 

 ぐっ、とケンプ家の長男は言葉に詰まる。強烈な反撃を喰らわせておきながらぬけぬけと、とも思ったが、グスタフが喧嘩を仲裁しようとした第三者に拳で返答したのは確かであった。

 

 やがてグスタフは軽く息を吐き、自分が叩きのめした三人を睨みわたしつつ答えた。

 

「……こいつらは、父さんを侮辱した」

 

 この三人はグスタフに対し、図体がでかいだけの役立たずだの、しょせんは下士官上がりだのと、故人となったカール・グスタフ・ケンプ提督への非難や暴言を浴びせたのである。生来直情的なグスタフが、尊敬する父親を貶められれば憤慨するのは当然であった。

 

 グスタフの方の事情を諒解したユリウスは、次は侮辱した側のリーダー格と思しき少年に理由を聴いた。

 

 先刻まで胸倉をつかまれていた彼は痛む腹をさすり、グスタフを睨みつつ憎々しげに答える。

 

「……俺の父さんは、二年前のイゼルローン攻略戦で死んだ。特攻に失敗した移動要塞の爆発に巻きこまれてな」

「……!」

 

 グスタフの内部で奔流のごとく荒ぶっていた憤怒が、断崖絶壁に激突したかのように急停止した。

 

 そして彼とは逆に、堰が切られた急流のような勢いで少年は話を続ける。

 

 残りの仲間である二人のうち、一人の父親はケンプが最後の艦隊戦で実施した各個撃破戦法が失敗し、同盟軍に挟撃された際に戦死した。

 

 もう一人の父親は、乗艦が移動要塞の爆発の余波により僚艦と衝突して大破し、その結果として片腕と片足を失った。

 

 その陰惨な過去を、激しい口調と表情で少年はまくし立てた。

 

「それもこれも、おまえの親父が無能だったからだ!」 

 

 叩きつけられた怨嗟の言葉に対し、グスタフは悔しそうに拳を握りしめ、一言も発しえなかった。

 

 その横で、ユリウスは静かにうなずいた。

 

「なるほど。あの戦いで、総司令官だったケンプ提督に大敗の責任があるのは紛れもない事実だ」

 

 それを聞いて屈折した笑みを浮かべる少年に対し、ユリウスは冷たく鋭い視線を向けつつ言葉を継いだ。

 

「だが、そのケンプ提督を総司令官に任じたのは、当時は前王朝の宰相にして最高司令官であられた皇帝陛下であり、副司令官はナイトハルト・ミュラー提督だった。その事は知っているはずだな?」

 

 やや余裕を取り戻していた少年の表情が、ひきつったものとなった。

 

「ケンプ提督の責任を追及するのであれば、少なくともお二方の責任も問わなければ筋が通らない。ましてや、先日までの親征ではケンプ提督の時を凌駕する戦死者も出ている事だしな」

 

 そのユリウスの言葉に、グスタフを含む周囲の少年たちは息を呑んだ。「回廊の戦い」で皇帝ラインハルトやミュラーといった軍最高幹部たち率いる帝国軍が多大な犠牲を出した事を、この少年は平然と口にしてのけたのだ。

 

 

 なお、ラインハルトとミュラー、そしてケンプを総司令官に推薦した当時の宇宙艦隊総参謀長オーベルシュタインの三名は、敗戦後は自主的に一年間の俸給を返上しており、それは戦没将兵遺族救済基金に充当されている……。

 

 

「それで、あの方々に対し面と向かって同じ事を申し上げたのか?」

 

 その問いに対し、表情から笑みが消えた少年はうつむいた。その態度こそが、返答であった。

 

「なら、申し上げる勇気があれば、今すぐにでも実行してみるがいい。俺が立会人として見届けてやる。心配しなくとも、お二方は正当な批判を受け止めるだけの度量を持っておられるさ」

 

 少年はうつむいたまま、返答をなしえない。残りの二人もさらに消沈したかのように見える。

 

 一方、グスタフはと言うと、いささか苦い表情を浮かべていた。かつて父親の葬儀に参列したミュラーを罵倒してしまい、ミュラーもそれに全く抗弁をしなかったという過去を思い出したからである。

 

 その彼の表情にまで注意を払っていなかったユリウスは、三人の少年たちに冷笑の視線と言葉を投げつける。

 

「ふん、この世にいないケンプ提督は三人がかりで罵れても、ご健在の皇帝陛下やミュラー提督には何も言えないか。大した勇敢ぶりだ。息子どもが立派に成長を遂げて、お父君たちも感涙が止まらないだろうな」

 

 容赦なく鋭利な舌剣と眼光で斬りつけられ、突き刺された少年たちのうち二人は、もはや一言も発しえなかった。

 

 だが、先刻までグスタフに襟首を締め上げられていた少年は異なる反応を示した。屈辱に身を震わせたのち、喚声をあげて白金色の髪の毒舌家に躍りかかったのである。

 

 ユリウスはその雑で迫力に乏しい突進を難なく躱すと同時に、片足で相手の足元を軽く払う。精神のみならず身体のバランスをも失った少年は、一瞬の空中浮遊を体験したのちに、芝生と荒々しく抱擁させられる事となった。

 

 うつ伏せに転がされた少年が立ち上がるよりも早く、ユリウスは彼の顔のすぐ横の地面を、勢いよく踏みつける。

 

「まだやるか?」

 

 熾烈さを秘めた冷静な声と視線を上から突きつけられ、少年は身じろぎもできない。心身ともに打ちのめされ、完全に戦意を喪失したようであった。

 

 それを見たユリウスは、足を退いて息を一つ吐いた。

 

「まあ、おまえたちもヤン・ウェンリーという復讐の対象を失って、さぞ感情を持て余していたんだろうがな」

 

 その言葉は正鵠を射ていた。グスタフを含め、軍幼年学校に入学した彼らが、旧同盟軍最高の智将にして父親の(かたき)であるヤンへの挑戦を心に期していたのは確かである。

 

 もしヤンを斃したのが軍神たるラインハルトや軍最高幹部たちであれば、彼らも得心し「代わりに仇を討ってくださった」と諦めもついたであろう。

 

 だが今月の初頭、ヤンは地球教とやらいう訳の分からない集団のテロにより、戦場の外での死を遂げた。再戦や復仇を望んでいた帝国の将兵や戦死者の遺族にしてみれば、「勝ち逃げされた」という思いを禁じえないのも無理からぬ事だった。

 

 先ほどまでの喧騒が嘘のように、裏庭はいささか重苦しい静寂が張りつめている。そして、それを破ったのは乱入者たる白金色の髪の少年であった。

 

「立て、医務室に行くぞ。口裏くらいは合わせてやる」

 

 

 休日の医務室に在番していたのは、すでに六〇歳を過ぎた軍医大佐であった。

 

 この下級貴族の出である大佐どのは、軍医として前線の野戦病院などで豊富な経験と見識を積んだ古強者である。同時にかなりの頑固者であり、軍の医療体制の不備を容赦なく批判し、つねづね改善を訴えてもいた。

 

 そのため、当然ながら前王朝では旧軍首脳部に忌避された。危うく辺境に飛ばされかけたが、有力貴族出身の同僚のとりなしで、彼は出世コースを外れて幼年学校の校医という「閑職」を二〇年ほども務める事となるのである。

 

 ラインハルトによる独裁体制成立後、ローエングラム陣営に属した元同僚や旧部下の推薦で異動の機会もあったが、初老の軍医はそれを断った。新体制下における医療も含めた軍制改革は、彼にとっても喜ばしい事ではあった。が、もはや長く現場から遠ざかっていた自分の出る幕ではないと考え「今さら栄達など望まんわい」と、数年後の退役まで校医を務める意向を示したのだった……。

 

「ふん、またずいぶんと派手にやったの」

 

 その軍医大佐は医務室に現れた五人を見やり、呆れたように鼻を鳴らした。その批評に対し、ユリウスが()()()とした態度で答える。

 

「『訓練』の結果です。軍医どの」

 

「……まあいいわい。そこの()()()のは、怪我はそれだけかの?」

 

 ()()が浮かびあがっている自身の左の頬骨のあたりに、視線を感じたグスタフは肯定する。

 

「なら、おまえさんから手早くやろうかの。そこに座るといい。他はそっちに座って少し待っとれ」

 

 軍医殿はきびきびとした言動で指示し、準備を始めた。

 

 対面したグスタフの負傷箇所を診察したのち、貼付剤(ゼリーパーム)を取り出しつつ老軍医は独語する。

 

「まったく、元気な事だて。一〇年ほど前を思い出すわい」

 

 その言葉には、皮肉っぽくもやや楽しげな懐旧の響きがあった。

 

「金髪と赤毛の二人組の孺子(こぞう)どもも、入学した当初から医務室(ここ)の常連じゃった。もっとも、大きな怪我を負っていた事はほとんどなかったがの。幾度も何倍もの数を相手にして負けなしじゃったのだから、大したものだったて。むしろ、そやつらに叩きのめされた連中の手当の方が面倒だったわい」

 

「その二人は、もしかして……」

 

 思わず口をはさんだユリウスを偏屈な軍医は()()()と睨み、犬か猫でも追い払うかのように手を振った。

 

「ほれほれ、治療の邪魔じゃ。おまえさんはただの付き添いじゃろう? 病気も怪我もしとらんのなら帰れ帰れ」

 

 邪険な態度で応じられたユリウスは苦笑いし、軍医どのに敬礼して室外に出ざるを得なかったのだった。

 

 

 軽い治療を施されたグスタフも、ほどなく医務室から退出した。手当てが終わった以上、先刻まで腹立たしい理由で喧嘩をしていた連中と同じ室内にいる理由もなかったのである。

 

 そして医務室近くの壁際に、彼を殴り飛ばした白金色の髪の少年がたたずんでいた。

 

「……まだいたのか」

 

 グスタフの気圧の低い声に対し、ユリウスはにやりと笑って応じる。

 

「ああ、おまえに用事があってな」

「俺に?」

 

 怪訝そうな表情を、グスタフは顔に浮かべた。

  

「なに、暇だったら俺と格闘術の『訓練』に付き合ってくれないかと思ってな。おまえもこのままじゃ暴れ足りないだろう? 逆上していないおまえの戦いぶりも見てみたいからな」

「……いいだろう、後悔するな。この()()の分の借りは返させてもらうぞ」

 

 肉食獣めいた笑みを交わしつつ、二人は訓練室に向かうのであった。

 

 

 数時間後、顔どころか全身に打撲(うちみ)擦過傷(すりきず)を作って医務室に舞い戻り、

 

「より実戦的な『訓練』の結果です、軍医どの」

 

 と声をそろえて主張する新入生の二人組を見て、老校医は心から呆れ果てる事となる。

 

 そして、治療中に二人から「金髪と赤毛の二人組」の在学中の話をせがまれた初老の軍医どのは、自分の口の滑りに舌打ちしたい気分になりつつも、やむを得ず昔話をしてやったのだった……。

 

 

 

「初めての出会いが喧嘩とはね。まあ、あんたたちらしいと言えばらしいねえ」

 

 ユリウスから昔語りを聞き終えたのち、グレーチェンは朗らかに笑った。「喧嘩なんてしてはいけない」などと言わないのも、この女性(ひと)らしいとユリウスは思った。

 

「まあ、グスタフはともかく、ユリウスの方は顔を殴られて美童ぶりが台なしになったらもったいないねえ。グスタフも、殴るなら顔以外にしておきなよ」

 

 女主人のその言い草に、グスタフとユリウスは憤慨と困惑の表情をそれぞれ作りかけたが、結局は先刻と同じように顔を見合わせて苦笑したのだった。

 

「まあ、約束はできません。こいつ(ユリウス)が喧嘩で油断したら、顔だろうとどこだろうと遠慮なく叩き込みますよ」

「心配しないでください。初対面の時のこいつ(グスタフ)みたいな隙を作るつもりはありません」

 

 それぞれそう言って笑顔で軽くにらみ合う二人の少年を見て、グレーチェンは笑いつつ心中で独語した。

 

 

 ロベルト、あんたが天上(ヴァルハラ)に去った後も、次の世代をになう子たちは育っているよ。先帝陛下やあんたが道を切り開いた平和な時代の中で、有意義な人生を歩んでほしいものだね……。

 

 

 夕刻が近づき、二人の幼年学校生は「フォンケル」を辞去した。

 

 グレーチェンはわざわざロボット・カーのタクシーを自費で呼んでくれた。行きと同じくバスで帰るつもりだった二人は辞退しようとしたが、「さっきまで料理にがっついていたのに、今さら何を遠慮してるんだい。四の五の言わずに乗っていきな」と言われて、なかば強引に車内へ押し込まれたのである。

 

 自動運転のタクシーが発進したのち、ユリウスとグスタフはしばらく無言のまま、車窓の外を流れてゆく風景を眺めていた。

 

 今日は美味い食事を堪能し、故シュタインメッツ提督などの興味深い逸話も聞く事ができた。だが、二人の少年は単純な満足感にだけ浸ってはいられなかったのである。

 

「生き急いだらいけない、か」

 

 グスタフが不意につぶやく。その横顔に黒い瞳を向けたユリウスは、ほどなく顔を正面に向け、沈思するかのような表情を浮かべた。

 

 カール・グスタフ・ケンプは、誇りある武人として栄誉を求めた果てに敗れて斃れた。

 

 カール・ロベルト・シュタインメッツは、忠勇兼ねそなえた名将として主君の盾となり戦場に散った。

 

 彼ら以外にも野心、理想、忠誠、愛憎、矜持などといった心中に抱いていたものに従い、動乱の渦中にてあるいは蹉跌を犯し、あるいは死んでいった多くの人々を、少年たちは直接的ないし間接的に知っていた。

 

 だがそれでも、非凡な才器を有しているとはいえ一〇年と少しの齢しか重ねていない二人にとって、グレーチェンの言葉の重みを完全に理解し実感するのは難しい。小さからぬ悩みや陰を背負ってはいても、心身ともに活力と弾力性に富んでいる伸び盛りの彼らは、歩みを緩め、立ち止まるには早すぎる年齢であった。

 

「まあ、急いては事を仕損じる、と言うしな。グレーチェンさんの忠告は、今はありがたく胸に刻んでおこう」

「……そうだな、今の俺たちは孵化すらしていない軍人の卵に過ぎない。先達に敬意を払って、前に進むしかないな」

 

 ユリウスの言葉にグスタフはうなずき、二人は再び車外の景色に視線を移す。

 

 

 先刻まで天空を覆いつくしていた雲はその密度を減じ、姿を現した落日の残照によって一部を緋色に染めあげられている。雪はとうに止み、舞い降りたであろう純白の使者は、すでに地表から姿を消していた。

 

 

 

 

 

 

 

                                第三章 完結


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。