獅子帝の去りし後   作:刀聖

17 / 23
第十七節

 宇宙暦八〇〇年、新帝国暦〇〇二年五月六日一一時五〇分。

 

「回廊の戦い」の中盤において、ヤン・ウェンリーとウィリバルト・ヨアヒム・フォン・メルカッツの猛攻にさらされていたシュタインメッツ艦隊の旗艦フォンケルに、磁力砲(レール・キャノン)から放たれた三発の砲弾が直撃した。

 

 それらは巨艦の重装甲を獰猛に食い破り、またたく間に凄絶なる爆炎へと変じる。顕現した荒ぶる火神は艦内にて暴れ狂い、殺戮と破壊をほしいままとした。無論、艦橋も例外たりえず、司令官以下の艦橋要員は退避する暇もなく爆風に呑み込まれたのである。

 

 幕僚の一人であった次席参謀マルクグラーフ少将は、ごく短い間の気絶から意識を取り戻した。頭部からは血が流れ出し、打撲や骨折のために全身の各部が痛むという有り様である。気力を奮い立たせて彼は身を起こし、司令官や同僚たちの姿を探し求めた。

 

 重傷を負ったマルクグラーフであったが、自身がまだ幸運な部類に属していた事を、ほどなく彼は思い知る事となる。

 

 炎と煙が充満する空間の中で、最初にマルクグラーフが見つけたのは、瓦礫の陰に隠れていた参謀長ボーレン中将の遺体であった。頭部に長大な金属片が深々と突き刺さっており、即死したのは一目瞭然である。生ける次席参謀は、死せる参謀長に敬礼を施した。その直後、

 

「ボーレン……参謀長」

 

 という、弱々しくも冷静に死者を呼ぶ司令官の声を、マルクグラーフは確かに聞き取った。彼は声が発せられたと思しき方向へと、重くなった両脚を叱咤しつつ急いで向かう。

 

 そしてほどなく、左下半身が巨大な瓦礫の下敷きとなっている司令官と、その傍らでうつ伏せとなった副官セルベル中佐の姿を発見したのである。二人の周囲に広がっていた血溜りは、火災によって灼熱した床の上で泡立ち、急激に気化しつつあった。

 

「司令官閣下、セルベル中佐……!」

 

 激痛と煤煙によってかすれた次席参謀の呼びかけに、返答はない。セルベルは、もはや身じろぎの一つもしなかった。だが、シュタインメッツがわずかに身をよじらせるのを見て、マルクグラーフは軍靴の底を焼く熱気と、全身を(さいな)む痛覚の妨害をねじ伏せて司令官の下に歩み寄る。

 

「シュタインメッツ提督……!!」

 

 司令官は答えない。聴覚や視覚といった五感は急速に失われつつあり、立ちこめる煙や燃えさかる炎にも遮られ、マルクグラーフの存在に気づけなかったのである。

 

 薄れゆく意識の中でシュタインメッツは、先に逝った僚友たちとの再会も間近らしい。もっとも、俺に天上(ヴァルハラ)の門をくぐる資格が与えられればの話だが、と死に直面しながらも恬然としていた。

 

 背後の皇帝(カイザー)については、ひとかけらの不安もない。畏敬すべき敵将たるヤンとメルカッツの鋭鋒は見事に自分の心臓を貫いたが、代わりに少なからず時間は稼いだ。軍神たる主君や同僚たちならば、その猶予を充分に生かすであろう。あとは武運を祈るのみである。自分は結局ヤンに勝ちえなかったが、彼に加えメルカッツ提督まで相手であったならば、恥じる事も悔いる事もない。

 

 心残りは、死なせた将兵とその遺族の事、そして共に新時代を迎えたいと願った一人の女性を遺して逝く事である。遺書をしたためてあるとはいえ、謝罪と感謝の意を自分の口で伝えられないのは残念であった。

 

 その女性の名を、シュタインメッツは残された生命力の全てを込めてつぶやいたのである。

 

「……グレーチェン……!」

 

 司令官の末期の言葉と直後のかすかな呼吸音を、確かに次席参謀の鼓膜は捉えた。

 

 そしてシュタインメッツが、再びその口にて言葉と呼吸を紡ぎだす事はなかったのである……。

 

 

 やがてフォンケルは巨大な火球と化した後、司令官を初めとする死者たちとともにイゼルローン回廊の深遠へと消え去った。

 

 だが、ローエングラム王朝創成の功臣にして忠良の名将たるシュタインメッツの名声は消える事はなく、その死は主君を始め多くの人間から惜しまれた。

 

 辛辣な人物鑑定眼を持つオスカー・フォン・ロイエンタール元帥すら例外ではなく、当時の統帥本部総長たる彼は、シュタインメッツを自身の「新領土」(ノイエ・ラント)総督就任後の大本営を託すに足る能力の所有者と評価していた。それゆえ、フォンケル撃沈は冷徹な彼を刹那の間ながら自失せしめたのである。皇帝首席秘書官ヒルデガルド・フォン・マリーンドルフ伯爵令嬢が後任の大本営幕僚総監に就任する事が発表された際、ロイエンタールが淡々としていたのは彼女に含む所があったというよりも、その職に就くはずであったシュタインメッツを惜しむ心情が強かったゆえかもしれない。

 

 かくして戦没後、新王朝初代の大本営幕僚総監として遇され、先立って戦死していたアーダルベルト・フォン・ファーレンハイトとともに「ジークフリード・キルヒアイス武勲章」と帝国元帥の称号を贈られ、新帝都が在るフェザーン回廊の出入口の一つを扼す「三元帥の城」(ドライ・グロスアドミラルスブルク)の由来の一角と成りおおせたシュタインメッツの令名は、永く後世に伝えられる事となるのである……。

 

 

「……そんなわけで、ロベルトは天上へ行ってしまったのさ。こんないい女を置いて戦乙女(ワルキューレ)の尻を追いかけていくだなんて、ひどいもんじゃないか。『実直ぶっていたくせに、この浮気者!』って文句を言ってやりたいところだね」

 

 語り終えたグレーチェンは、そう言って話を締めくくる。鋭い感性と理解力を備えた少年たちは、冗談めかした物言いの底にある、深い悲嘆の存在を強く感じざるを得なかったのであった。

 

 グスタフは、ややためらいつつ女主人に問いを投げかけた。

 

「……グレーチェンさんは、ヤン・ウェンリーを恨んでいないのですか」

 

 ユリウスは思わず親友の顔を見つめてしまった。問いかけられた当の本人は、少し目をまたたかせる。

 

「……そうだねえ。グスタフの参考になるかは判らないけど」

 

 

 シュタインメッツ戦死の報を聞いた直後、グレーチェンは職場である「ポンメルン」に連絡を入れ、一日のみの休養を取った。そして翌日、いつも通りの時間に職場へと足を運んだのである。

 

 軍の公式発表で、かつての常連客の死を知っていた料理長(シェフ)は自身の喪失感もさる事ながら、常の闊達さを明らかに失っている「唯一認めた女の弟子」の心情を慮らざるを得なかった。

 

 もうしばらく休養しても構わないという料理長の言葉に、感謝しつつもグレーチェンは首を横に振った。

 

厨房(ここ)はあたしにとっての戦場です。戦場で義務を果たそうとしない上司や同僚、それに部下がいたら、ロベルトなら厳しく叱りつけるでしょうしね」

 

 そう言いつつ彼女は自分の「戦場」へと向かう。

 

 料理長はその背中を見やりつつ、「さすが、おまえさんの惚れた女だな。元帥閣下」とつぶやいたのだった……。

 

 

「あたしは聖人君子とはほど遠い人間だし、まったく思うところがないって言ったら嘘になるさ。でも、だまし討ちとか卑劣な手で殺されたのならともかく、正面から智勇ってのをぶつけ合っての結果だからね。それに、あちらさんも先帝陛下に国を滅ぼされた上に暗殺なんてされてしまったし、聞けば結婚して間もなかった奥さんもいたそうだしねえ」

 

 グレーチェンは少し溜息をつく。

 

「そういった事も考えると、あまり恨む気にもなれないね。ロベルトも以前負けた事に衝撃は受けていたけど、遺恨は持たないようにしていたみたいだし。あたしが無闇に恨みを広言したら、ロベルトの名誉を傷つけるような気もしてね」

 

 その言葉に、グスタフはうつむいた。ヤンへの昏い感情をいまだ消化しきれない、自身の未熟や狭量を思い知らされたような気がしたのである。

 

 それを見た女主人は軽く苦笑したのちに立ち上がり、グスタフの傍に歩み寄ってその肩に静かに手を置いた。

 

「まあ、あんたよりはずっと年長だからねえ。このあたりは年の功って奴さね。グスタフはグスタフなりに悩み抜けばいいさ。ただ、できる事ならグスタフ自身や周囲の人間にとって、実りのある結論に到ってほしいところだね」

 

 その思いやりの込められた言葉を聞いたユリウスは、シュタインメッツ提督がこの女性に惹かれた理由の一端を理解できたような気がした。

 

 労わられたグスタフは頷いたが、それでも物憂げな気配は完全には消えなかった。友人のらしくない表情を見かねたユリウスは、自身が気になっていた別の話を持ち出す事としたのだった。

 

「そうしていると、まるで家族のように見えるな。フロイライン・エアフルトとは古い知り合いなのか、グスタフ?」

 

 ユリウスのその質問に答えたのは、女主人であった。

 

「いいや、付き合いはそれほど古くはないよ。ええと、まだ二年は経っていなかったっけね」

 

 席に戻りつつ彼女は確認を取り、ケンプ家の長男は肯定する。

 

「それと、あたしの事はグレーチェンでいいさ。御令嬢(フロイライン)だなんて柄でもないしね。その代わり、あたしも君の事をユリウスと呼ばせてもらうよ。それとも、オスカーの方がいいかい? ロベルトみたいにさ」

 

「……いえ、ユリウスと呼んでください」

 

 一瞬の間を置いて、白金色の髪の少年はそう応じたのだった。

 

 

 新帝国暦〇〇二年、宇宙暦八〇〇年の七月七日。この日、惑星フェザーンにおいて、ファーレンハイト、シュタインメッツ両元帥とシルヴァーベルヒ工部尚書の国葬が合同で執り行われた。

 

 その参列者の中に、グレーチェン・フォン・エアフルトの姿もあった。彼女は正式に結婚や婚約はしていなかったものの、生前のシュタインメッツが遺産の相続者として指名し、それを皇帝ラインハルトが直々に承認した事もあって、遺族と同じ待遇で葬儀に招かれたのである。

 

 そして葬儀の場で、故カール・グスタフ・ケンプの妻であったローザリエ・ケンプ夫人との面識を得たのであった。

 

 ケンプ夫人は夫の死の直後こそ悲嘆に沈んだが、そのまま泣き暮らしたりなどはしなかった。遺された息子たちを亡夫に恥じぬように育てる義務が彼女にはあり、そのためにも背筋を伸ばした姿を示さねばならなかったのである。

 

 夫を弔い、多少なりとも精神的な再建を果たした後、ケンプ夫人は行動を開始する。母親として家庭内の事を抜かりなく行なうかたわら、慈善団体の運営に参加し、福祉施設への慰問を行ない、遺族年金などの一部を寄付にあてるなど、公の場へ積極的に関わる姿勢を採りはじめた。その精勤振りは「ケンプ提督は良き女性を伴侶に選んだ」と、故人の名声を高める事にもなったのである。

 

 そして件の国葬に、ケンプ夫人は戦没将兵遺族救済基金の運営委員という肩書きで参列していた。シュタインメッツは生前、ローザリエが関与していた福祉団体へ定期的に寄付を行なっており、その事がグレーチェンに彼女が声をかけるきっかけとなったのである。

 

 二人は葬儀の後で食事を共にしつつ、話を交わす機会を作った。ローザリエは旧王朝時代から男社会の厨房で奮闘していたグレーチェンに、グレーチェンは夫亡き後は社会貢献に努めるローザリエに、おのおの共感と尊敬の念を抱き合ったのである。これが、彼女らの交誼の端緒であった。

 

 

 ケンプ一家との温かい交流は、シュタインメッツを失った直後のグレーチェンにとって救いの一つとなった。そして、料理人としての彼女に転機が訪れたのも、この時期だったのである。

 

 

 質実剛健で知られるシュタインメッツは、その私生活も浪費家と称するには程遠いものであった。

 

 高級士官に昇進した後もその生活態度はさして変わらなかったが、しばしば部下や友人に酒食を奢ったり、信頼できる福祉団体などに寄付を行なったりしており、金銭(かね)離れは悪くなかった。

 

 そのため、軍歴と地位の変遷に鑑みれば、彼の遺した資産はそれほど多くはない。それでも、平民階級の一般的な収入から考えれば充分に巨額といえるものではあった。

 

 シュタインメッツが遺していた書状は、遺言状めいてはいたものの、あくまで私的に作成されたものに過ぎない。シュタインメッツほどに思慮深い人物が、法律上の正式な遺言状を作成しなかったのには事情があった。

 

 

「もし俺が死んだら、遺産はお前が受け取ってくれ。そして別にいい相手を見つけてほしい」

 

 旧帝国暦四八六年一〇月の「第四次ティアマト会戦」終結後、帝都オーディンへ帰還していたシュタインメッツは、交際を始めていた女性にこう切り出した。

 

 仮にこのまま自分が戦死すれば、グレーチェンは遺族年金などの支給の対象にはならないので、せめて財産だけでも遺したい。自分の両親はすでに他界しており、他に家族もいないため、受取人としてグレーチェンを指名しても問題はない。了解が得られれば、すぐにでも弁護士に依頼して正式な遺言書を作成してもらう、というのが、シュタインメッツの主張であった。

 

 唐突な発言に面食らっていたグレーチェンは、やがて少し面白くなさそうな表情を作り、

 

「そんな気遣いはしなくていいさ。まあ、あんたの甲斐性にも惚れたのは確かだけど、財産目当てでつきあい始めたわけじゃないよ」

 

 と、片手を軽く振りつつ謝絶の言葉を紡ぎだした。

 

 自分たち交際を始めて間もなく、婚約だの結婚だのという話はまだ時期尚早、という思いは二人に共通したものであった。確かに戦時の職業軍人である以上、戦場などで斃れる可能性も低くはないだろう。だからといって、それに急きたてられて華燭の典を祝われるのも嫌なものである。そして、婚約すらしていないのに遺産相続を云々するのは筋が通らない、というのがグレーチェンの言い分であった。

 

 さして長くもない押し問答の末に、結果として男の方が折れた。

 

「結婚するまで、ロベルトが死ななければいいだけの話じゃないか。あんたの退役までの給料に加えて、老衰でくたばるまで支給される年金とかの方が総額がずっと大きいだろうしね。そう簡単に殉職なんかするんじゃないよ」

 

 そのグレーチェンの言い草に、シュタインメッツは苦笑してうなずかざるを得なかったのである。そしてシュタインメッツが辺境へと再赴任すべく旅立ったのは、その会話から間もなくの事であった。

 

 そしてその二年後、ローエングラム体制の軍幹部となりおおせていたシュタインメッツは「神々の黄昏」(ラグナロック)作戦が決定した直後に、遺産相続の話を改めてグレーチェンに切り出した。そして彼女から返ってきた返答は、二年前と変わらなかったのであった。

 

 それに対し、シュタインメッツは困ったような表情を隠せない。

 

「辺境行きで二年も待たせたあげく、俺のこだわりで婚約もしないままだというのに、おまえにはろくにも報いていないのだが……」

 

 同盟の軍事力は帝国領侵攻における大敗と、その翌年の内戦により著しく衰微してはいる。とはいえ、その領域は広大であり、ヤン・ウェンリーやアレクサンドル・ビュコックを始めとした少なからぬ歴戦の名将たちも健在である。今回の出兵においては、その雄敵たちと彼らの領域内で戦わねばならないのだ。

 

 シュタインメッツとて、むざむざと戦死するつもりはない。が、もしもの時には、やはりグレーチェンに遺産を受け取ってほしいという願いを捨てきれないのである。

 

「水くさい事を言わないでおくれよ。それに、実家の負債の事は前にも話したじゃないか。報いていないだなんて、謙遜も度が過ぎるってものさ」

 

 エアフルト家は祖父以来、各方面への負債にいささかならず悩まされていたが、それも過去の話となりつつあった。

 

 というのは、債権者であった大貴族たちが先年の「リップシュタット戦役」で敗北の果てに没落し、結果として債権のほとんどがローエングラム新体制の財政部門の管理下に移行したからである。

 

 債務全体が消失したわけではないが、不当な加算があったと認められて大幅な額が免除の対象となり、利子や取り立ては以前よりもはるかに穏やかなものとなった。残りの債権者も、新体制に倣って請求の手を緩めざるを得なかったのである。

 

 かくしてエアフルト家の負債は、無理をせずとも数年後には完済できるまでに目減りしていた。事態を好転させてくれた帝国の支配者たるラインハルトや、彼に協力したシュタインメッツには感謝の念が絶えないというのが、エアフルト家全員の率直な思いであったのである。

 

「……それは公爵閣下はともかく、俺が礼を言われることではないんだがな」

 

 そう言いつつも、シュタインメッツの表情はやや明るいものとなった。

 

 交際を始めた後、グレーチェンの家族は辺境に左遷されていた軍人を温かく迎えてくれたものである。両親の死後、家庭の団欒というものと長く無縁だったシュタインメッツにとって、この一家の少しでも役に立てたのならば実に喜ばしいというものであった。

 

「ともかく、あたしのために堅苦しい遺言状なんて作る必要はないよ。他にあてがないなら、国庫に収まるようにでもしておけばいいじゃないか。宰相閣下なら国家予算も有意義に使ってくださるだろうしね。ま、言うまでもないけど、無事に戻ってくるのが一番さ」

 

 グレーチェンのその言葉にシュタインメッツは軽く嘆息し、この話題を打ち切らざるを得なかったのだった。

 

 シュタインメッツが艦隊を率いて帝都を出立したのは、その年の一二月の後半である。彼は早朝に官舎まで見送りに訪れたグレーチェンと抱擁しつつ口付けを交わしたのち、再会を期して軍港へと向かった。

 

 それが、一組の男女の永別となったのである。

 

 

 宇宙暦八〇〇年、新帝国暦〇〇二年六月、「皇帝は征旅を還したもう」事が公表された直後、グレーチェンは憲兵総監・兼・帝都防衛司令官ウルリッヒ・ケスラー上級大将の訪問を自宅にて受けた。

 

 シュタインメッツを喪ったグレーチェンは軍部からの使者の訪問について、事前に連絡は受けていた。だが、その使者が軍最高幹部であるとはさすがに予想外であった。

 

 ケスラーは丁重な悔やみの言葉を述べたのち、

 

「辺境に赴任していた頃は、シュタインメッツ提督に何かと助けられたものです」

 

 と懐かしそうにグレーチェンに語ったものである。グレーチェンもまた、

 

「ロベルトは閣下の才識と為人を高く評価し、閣下の推薦のおかげで皇帝陛下との縁を得た事を心から感謝していました」

 

 と伝え、客人を粛然とさせたのであった。

 

 そして表情を改めた憲兵総監閣下は、皇帝がグレーチェンをシュタインメッツの遺産相続の有資格者と公認し、同時に彼女が遺族待遇での国葬への参列資格を得た事を告げた。

 

 驚いて青い両目を見開く彼女に、ケスラーは封が施された一通の書状をグレーチェンに差し出す。それはシュタインメッツが彼女宛に残した遺言が記されたものであった。

 

 シュタインメッツは生前、二通の書状をオーディンに残留していた僚友ケスラーに託していた。

 

 シュタインメッツの戦死後、故人の遺志に従ってケスラー自身がその内の一通を開封した。それには全ての遺産をグレーチェン・フォン・エアフルトに託すと記されており、ケスラーはその内容を正確に大本営へ伝達したのである。

 

 そして皇帝による裁可が得られた後、もう一通が相続人に指名された女料理人の元へと届けられたのであった。

 

 グレーチェンは国葬への参列の是非を即答できなかったが、ケスラーはその場での返答を求めなかった。できれば早めに連絡をいただきたいと告げて憲兵総監が辞去したのち、グレーチェンは書状の封を切る。

 

 共に過ごし、待ち続けてくれた事への感謝。

 

 生きて還れず、そのうえ承諾を得ずに遺産相続を指名した事への謝罪。

 

 感謝や謝罪の念は金銭や物質には到底換えられないが、それでもできれば遺産を受け取って欲しい。それでも受け取りたくないのならば辞退してもらって構わない。

 

 といった内容が、その書状には記されていた。

 

「……まったく、死んだ後も困った男だね」

 

 確かに「法的に正式な遺言状」は作製しなかったようだが、空前の大帝国の創始者たるラインハルト・フォン・ローエングラムの公認となれば、帝国における最上のお墨付きではないか。

 

 こちらの意向を尊重しつつ、それでもできる事なら遺産を受け取ってほしいというシュタインメッツの心情を感じ取り、書状を机の上に置いたグレーチェンは目を伏せたのであった。

 

 

 グレーチェンは葬儀に参列すべきか否か、実のところ少なからず迷ったものである。妻でも正式な婚約者でもない立場を気にしてのことだったが、料理の師匠である料理長に、

 

「らしくもなく悩むな。惚れた男の葬式に招かれて出ないなんざ不人情だろう。それに、おまえは最近少し無理しがちだ。気分転換も兼ねて行ってこい」

 

 と、背中を押されてオーディンを出立したのであった。

 

 かくしてグレーチェンは葬儀には参列したものの、遺産の相続については一時保留した。参列の是非といい、即断即決を旨とする自分らしくないとは思いつつも、すぐに結論が出せなかったのである。

 

 遺産を受け取らないと決めれば簡単だが、シュタインメッツの最後の願いを無下にするのもためらわれた。全額をしかるべき団体に寄付するというのも、相続放棄と大して変わるまい。

 

 かといって、遺産をもらった所で有益な用途が思い浮かばなかった。実家の借金はもはや心配する必要はなく、手に職もある自分一人を養いつつ貯えを増やすくらいはできる。つつましい家庭環境で育ったグレーチェンも浪費家としての資質に乏しく、厚意で遺された財産を散財で使いつぶすなどという発想は彼女にはない。相続するならばするで、有意義に使わなくては女がすたるというものであった。

 

 葬儀からの帰郷後、仕事の休憩中に賄いを食べながら事情を料理長に打ち明けた。すると、女料理人にとって想定外の回答が返ってきたのである。

 

「だったら、そいつを元手に独立して店を構えてみたらどうだ」

 

 いささか甲高い音が、広くもない部屋に短く響きわたった。思わずグレーチェンが、フォークを皿の上に落としてしまったのである。

 

 確かに料理長の弟子には独立した人間も何人かは存在する。だが、そのいずれも師匠から一人前と認められて独立を果たしたのは三〇歳を過ぎての事であった。そのため、まだ三〇に達しておらず、いまだ料理長からもしばしば叱られている自分が独立するなど、この時期のグレーチェンにとっては想像の埒外にあったのである。

 

 その思いを率直に話すと、料理長は軽く苦笑する。

 

「そりゃ、これでもおまえが生まれる前から厨房に入ってたからな、その俺から見れば、おまえはまだまだ嘴から黄色味が抜けてないさ。だが、雛鳥もいつかは自前の翼で飛ばなきゃいかん。まあ、少し早いかもしれんが、男ばかりの厨房で今まで踏んばってきた根性と、独立できるくらいの技倆(うで)になったってのは、認めてやってもいい」

 

 店を構えるには当然、相応の資金(さきだつもの)が必須であり、普通の平民が簡単に用意できる額ではない。

 

 資金を貯え、足りない分は保証人を確保して借金やら融資やらで補うにしても、働きつつ社会的信用を涵養する年月が必要となる。また、旧王朝末期においては関係する役所への届け出の際に、少なからぬ「袖の下」を幾度となく要求される事も珍しくなかった。拒否すれば書類の不受理や手続きの遅延といった嫌がらせを受けかねないので、要求された側も不本意ながら支払わざるを得なかったのである。

 

 裕福な貴族や商家が物分かりのいいパトロンになるなどという事例もあるにはあるが、そんな幸運がそうそう転がっているわけもない。弟子たちの独立が三〇歳過ぎになっていたのには、料理の技倆以外にもそういった世知辛い事情も絡んでいたのである。

 

 だが今のグレーチェンならば、さしあたっての金銭的な問題はシュタインメッツの遺産を相続すれば解決する。ローエングラム体制成立後は綱紀も粛正され、役所での手続きもスムーズに行なわれるであろう。「ポンメルン」の料理をこよなく愛してくれた故人も喜ぶのではないか。

 

「それと、近々遷都とやらが行なわれるだろう。フェザーンに引っ越す事になって、うちの料理を味わえなくなるのは寂しいって言う客も多くてな。おまえがフェザーンで店を構えてくれれば、そういった声にも少しは応えられるが、どうだ?」

 

「……師匠は、フェザーンに行かないんですか」

 

「俺か? 俺は引退までここの料理長を勤めるさ。年を食った昔なじみの客も、結構この惑星(オーディン)に残るみたいだしな。俺はそういった連中の舌と胃袋を満足させなきゃならん。まだまだ副料理長のあいつだけに任せるわけにはいかんよ」

 

 料理長の言う副料理長は、彼の一番弟子にして後継者でもある。いずれ料理長が引退すればその跡を継いで「ポンメルン」を切り盛りする事となるだろう。とは言え、心身ともにいたって壮健な料理長が引退するのは、当分先の話になるのは間違いなさそうであったが。

 

 そこまで話をして、グレーチェンの胸の奥に心地よい緊張感と高揚感が生じる。挑みがいのある目標を与えられ、生まれつきの負けん気が強く刺激されたのであった。

 

「……ありがとうございます。師匠が認めてくれるなら、あたしも新天地(フェザーン)で腕を振るってみたいです」

 

 その返答を聞いた料理長は満足そうにうなずき、

 

「そうか、なら、あっちに行った連中に『ポンメルン』直伝の料理をおまえなりに味わわせてやれ。ついでに、美食家気取りのフェザーンの拝金主義者どもに、古都オーディンの本当の美味ってもんを教えてやんな」

 

 と、決意した弟子を激励したのであった。

 

 ひとたび決断を下せば、グレーチェンの行動は早い。遺産相続の手続き、去る事となる「ポンメルン」における仕事をしながらの引き継ぎ、フェザーン都心で不動産物件の物色、現地スタッフの募集、関係する役所への書類の提出、新帝都への転居の準備など、若い女料理人は目まぐるしくも充実した歳月を過ごす事となる。

 

 その日々は彼女を悲嘆から立ち直らせる、最上の良薬ともなったのであった。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。