獅子帝の去りし後   作:刀聖

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第十三節

 グレゴール・フォン・ミュッケンベルガー退役元帥は新帝国暦〇〇四年、宇宙暦八〇二年現在、六四歳を迎える年齢で健在である。

 

 

 ミュッケンベルガー伯爵家は前王朝において武門の家系として知られ、グレゴールは旧帝国暦四二九年に先々代の当主ウィルヘルムの次男として生を享けた。

 

 グレゴールの兄たる長男は知性は充分ながら生来病弱であり、父親は健康で自分に似た気質の次男に家督を継がせようと考えていた節があった。だが、その意思を明言する前にウィルヘルム・フォン・ミュッケンベルガー中将は旧帝国暦四三六年、宇宙暦七四五年の第二次ティアマト会戦にて戦死を遂げるのである。

 

 当主を失った伯爵家は、幼少であった長男が親族から後見役を迎えて継承し、成人後に正式に家督を継ぐ事が取り決められた。その弟であるグレゴールを後継に推す声も少なからず存在したが、当人は仲の良かった兄と家督争いをする意思など持ち合わせてはいなかった。その代わりグレゴールは亡父の志を継ぐべく、軍幼年学校と士官学校を経て帝国軍人のエリートコースを歩む道を選択したのである。

 

 士官学校を首席で卒業した後、任官したグレゴールは前線と後方の双方で功績を重ね、風格ある武人としての名声を獲得するに至る。そして大将に昇進して個人の旗艦を与えられたグレゴールは、その巨大戦艦を『ウィルヘルミナ』と命名した。これは夫亡き後も気丈に息子たちを育てた母の名であるのと同時に、父の名であるウィルヘルムにちなんだものでもあった。古来より艦船は女性にたとえられてきた存在であるため、あえてグレゴールは女性名詞の方を自らの旗艦名としたのである。

 

 病弱ゆえに四〇代半ばで死の床についたミュッケンベルガー伯爵は、軍人として大成した弟こそ後継にふさわしいとして家督を譲ろうとした。しかしグレゴールはそれを謝絶し、分家として兄の嫡男を支える意向を示したのであった。

 

 兄の死後、グレゴールは兄が遺した長男の後見人となった。伯爵位を継いだその甥も体が弱く、軍人としては後方勤務しか務められなかったが、旧帝国暦四八〇年に誕生したその息子は健康体かつ曽祖父ウィルヘルムと大叔父グレゴールに似た気質に育ち、父と大叔父を喜ばせた。その子には曽祖父と同じ名が与えられ、将来のウィルヘルム・フォン・ミュッケンベルガー二世伯爵およびゴールデンバウム王朝の軍人として活躍するかに思われた。

 

 だが、旧帝国暦四八八年に勃発したリップシュタット戦役によってゴールデンバウム王朝は事実上倒れ、勝利者たるラインハルト・フォン・ローエングラムによる独裁体制が確立する。

 

 ミュッケンベルガー伯爵家は貴族連合軍には参加せず中立を保ったが、ローエングラム体制に協力的であったわけでもない。戦役の前年に退役した大叔父グレゴールや現当主の父親らは新体制に出仕するつもりはなかったが、次期当主たるウィルヘルムには「お前はまだ幼い。新しい時代をわれらに従って生きていく事もない」と告げ、将来の進路をどうするかは本人に委ねた。

 

 ウィルヘルム少年は悩み抜いた結果として、軍幼年学校に進学し、新王朝の軍人として生きていく事を選択したのであった……。

 

 

「何かご用でしょうか」

 

 椅子から立ち上がった二人の下級生が上級生に対し礼を行ない、名を呼ばれたグスタフが問いかける。その口調は丁寧ではあったが、どことなく白々しさがあった。恐らくは見当がついているのであろう。そしてユリウスにも心当たりは存在した。

 

 その上級生は鋭い光を両眼に湛えつつ、静かに用件を切り出す。

 

「唐突ですまないが、この後に用事がないのなら戦闘訓練に付き合ってくれないか」

 

 その台詞は、二人の下級生にとって予測の範囲内のものであった。

 

 

 昨年の秋ごろに実施された二年生と三年生の合同訓練において、その一環として戦斧(トマホーク)を用いた模擬戦が、上級生と下級生との間で行なわれた。

 

 一〇代前半という、第二次成長期における一年前後の年齢差はなかなかに大きい。大抵の場合は体格と経験で勝る上級生が下級生に勝利を収めるものなのだが、世の中には例外というものも存在するのが常である。そしてユリウスとグスタフは、まぎれもなくその例外に属していた。

 

 ユリウスが対峙した上級生の力量は平凡なものであった。下級生は打ち合って三合ほどで相手の得物を叩き落とし、その喉元に戦斧を突き付けてみせる。あまりの技量差に上級生は悔しがる気も起きず、うなだれつつ降参した。

 

 そしてグスタフの対戦相手となった上級生こそ、他ならぬウィルヘルム・フォン・ミュッケンベルガーであったのである。

 

 ウィルヘルム・フォン・ミュッケンベルガーは現在まで学年首席の座を他者に譲った事がない最優等生ではあったが、それに比して学校内での交友関係の幅は狭く、孤高を保つ傾向が見られた。新王朝成立後も家名を保った大貴族出身の学生たちとは多少の交流を持ってはいるが、それらも深いものとは言いがたい。

 

 ロイシュナー校長を始めとする教師陣はその点をいささかならず危惧し、幾度となく忠告を行なっている。が、物心がついた時期から「ゴールデンバウム王朝の武門の矜持」を叩き込まれてきた彼は新時代における自身の在り方に浅からぬ迷いや悩みを抱え込んでいるらしく、それが他者との積極的な交流を阻んでいる一因となっているようであった。

 

 学年首席であるミュッケンベルガーは、格闘術においても同級生の中で突出した存在であった。だがグスタフも実技ではユリウスと共に学年内で双璧を為す立場にあり、この二人の激突は、その模擬戦の中において異論なく随一の激闘となったのである。

 

 数十合に及んだ戦斧の打ち合いは、周囲の生徒たちが自身の訓練を忘れて見入ってしまうほどの力戦であった。親友の力量を熟知しているユリウスも、学年が一つ上とはいえグスタフとここまで戦えるミュッケンベルガーの実力にいささか驚かされたものである。

 

 だが、最終的に勝利は下級生であるグスタフの手中に帰した。

 

 上級生の手から得物が弾き飛ばされ、乾いた音を立てて訓練室の床に転がる。腕に走る痺れに顔をしかめるミュッケンベルガーの首筋に彼の物ではない戦斧の刃が添えられ、審判役の教官が終了を告げた。

 

 周囲が興奮の坩堝となっている中において、ミュッケンベルガーは率直に敗北を認めた。しかし、悔しげな表情を完全には隠し切れていなかった……。

 

 

 つまり、これはミュッケンベルガーからの雪辱戦の申し込みなのであろう。同学年でまともに相手になる学生が存在しない以上、訓練というのもまるきり方便ではないのであろうが。

 

 ミュッケンベルガーの放つ眼光は、並の下級生であれば抗いがたい迫力であっただろう。だがグスタフは呑まれた様子などまったく見せてはいない。彼は上級生の双眸を見返しつつ、数秒ほどの間を置いた後にうなずいた。

 

「承知しました。俺……僕でよろしければ」

 

「そうか。では、一時間ほど後に第一訓練室で待っている。済ませるべき事があるなら、先に終わらせてからでいい」

 

 そう言うとミュッケンベルガーは踵を返し、自然な、だが堂々とした姿勢で図書室から退出していった。

 

「随分あっさりと受けたじゃないか」

 

 上級生の背を見送り終わったユリウスがそう言うと、グスタフはいささか肉食獣めいた笑いを浮かべた。

 

「少し気分が腐っていたところだからな。一暴れして発散するのも悪くない」

 

「勝てば、の話だな。どうだ、勝てるか?」

 

「伊達におまえ相手に腕を磨いてきたわけじゃない」

 

 自信に満ちた口調と表情でそう言いつつ、グスタフはデスクに放置していた資料を整えて手に取った。

 

「さて、上級生を待たせるわけにもいかないし、少し急がないとな」

 

 

 刃の部分がダイヤモンドに匹敵する硬度の炭素(カーボン)クリスタルで作られた全長八五センチ、重量六キロの片手用の戦斧と、スーパー・セラミックと結晶繊維の複合素材製で、鏡面反射処理(ミラー・コーティング)が施された円形盾(ラウンド・シールド)。装甲擲弾兵の基本的な装備構成の一例である。

 

 幼年学校生の訓練用の物は、実戦用のそれとは素材も異なって重量も軽く、戦斧の刃は最初から丸められている。とは言え鈍器としては充分であり、訓練用の装甲服越しであっても、まともに叩き付けられればただでは済まない。数年に一度は訓練中に骨折などの重傷者も出るし、過去には死亡事故も起こっている。安全対策も幾度となく考案および実施されてはいるが、実戦を想定した訓練である以上、事故をゼロにするのはなかなかに困難であった。

 

 これから刃を交える二人の少年はすでにウォーミングアップを終え、装備一式を着用し訓練室の一隅にて対峙している。あとは開始の合図を待つのみであり、それを行なう役目を任されたのは唯一の立会人であるユリウスであった。

 

 心身ともに引き絞られた弓のような状態の二人の間に立ち、白金色の髪の少年は静かに右手を高く挙げる。

 

「始め!」

 

 ユリウスが手を振り下ろしながら鋭く声を発すると同時に、二人の少年は互いの挙動を見極めつつ、じりじりとした足捌きで間合いを計る。

 

 極限まで張りつめていた緊張の糸は、やがて音もなく切れた。

 

 同時に雄叫びを上げつつ床を蹴りつけ、両者はたちまち肉薄した。戦斧と戦斧が音高く衝突し、そのまま押し合いとなった。それも長くは続かず、どちらからともなく二人は距離を取る。そして改めて攻防が開始された。

 

 左に打ち込み、右に薙ぎ、上から振り下ろし、下から斬り上げる。

 

 それらを躱し、受け止め、打ち払い、受け流す。

 

 両者ともに教本の知識と教師の指導を吸収し、基礎を固めつつある事が看て取れる攻防だが、その速度と圧力は凄まじい。幼年学校の同級生は言うに及ばず、最上級生すら対処するのが容易ではないと思われる攻撃と防御の目まぐるしい応酬は、すぐには均衡が崩れそうになかった。

 

 そして立会人としてその攻防を五感で追い、正確に戦況を把握しているユリウスの動体視力や直観なども非凡なものであった。いわゆる「見取り稽古」も歴とした鍛錬の一環である。同世代同士のこれほど高水準の一戦を見れるのは得がたい経験である事をユリウスは理性で理解すると同時に、少なからぬ感情の高ぶりを彼は自覚していた。

 

 ミュッケンベルガーの動きは、以前の訓練時よりも明らかに鋭さと力強さが増している。敗北を糧として一層の精進を積み重ねた事は疑いない。

 

 だが、グスタフとてその間に机上の学問のみならず、一箇の戦士としての研鑽も怠らなかった。その事を、訓練相手を数多く務めていたユリウスは身に染みて知っている。

 

 ミュッケンベルガーも同年代の中では堂々たる体躯だが、眼前の下級生には及ばない。グスタフのずばぬけた巨躯と、日々の鍛錬で鍛えられた膂力によって振るわれる戦斧は、受け止め、受け流すだけでも相当な負担となる。長時間にわたってそれをいなし続けられるのは、同年齢ではユリウスくらいのものであろう。ミュッケンベルガーも防ぎつつ果敢に反撃を行なっているが、消耗と焦慮の色は隠しきれなくなりつつあった。

 

 一方のグスタフも、なかなか隙を見せない上級生に対し感嘆と同時に苛立ちも禁じえない。だが、彼は冷静さを保つ事を捨てなかった。幼年学校への入学以来、生来の短気のために訓練などで幾度も不覚を取ってきた事が、彼の忍耐を涵養しつつあったのである。そして訓練における「不覚」をグスタフにもっとも多く強いてきたのが、親友にして悪友である傍らの立会人であったのだった。

 

 ここまでの攻防でユリウスの見るところ、純粋な実力はグスタフに軍配が上がるであろう。ミュッケンベルガーも伸びたが、グスタフの成長はそれと同等かそれ以上であったのである。だが、実力が上の方が勝つとは限らないのが勝負事というものである。ミュッケンベルガーには逆転を狙えるだけの力量があり、油断すれば一瞬で優勢は覆されるかもしれなかった。

 

 グスタフは猛攻の手を緩めず、ミュッケンベルガーは防戦に追い込まれつつも粘り、彼らはそれぞれに機を窺い続けた。そして、終局が訪れる。

 

 ミュッケンベルガーが間合いを取るべく一度退こうとしたのを感覚的に察したグスタフは、不意にその左手の盾ごと渾身の体当たりを敢行した。相手の戦斧と足さばきに意識を向けがちであったミュッケンベルガーは、その予想外の一撃をまともに喰らってしまう。下がろうとしたタイミングであったのに加え、疲労もあって彼は踏みとどまれず、宙を短く舞って床に横転した。

 

 痛みを堪えてすぐに立ち上がろうとしたミュッケンベルガーであったが、時すでに遅く、彼の鼻先にはすかさず追ってきたグスタフの戦斧が突きつけられていた。

 

「……参った」

 

 悔しげに自己の連敗を上級生は認め、それを聞いたグスタフは荒く息を吐きつつ得物を下ろした。

 

 

 暖房を点けていない訓練室の空気は冷たく乾いており、つい先刻まで熱戦を繰り広げていた学生たちの顔からは白く熱気が立ち上っている。装甲服を脱いでアンダースーツ姿となった二人はベンチに腰掛け、ユリウスの差し出したイオン飲料をストロー越しに少しづつ胃に送っていた。

 

「随分と、体当たりと蹴りの使い方が巧みだな」

 

 ぽつりとミュッケンベルガーがつぶやいた。皮肉ではなく、感心したような口調である。最後の体当たりだけでなく、グスタフは戦斧の攻撃に上手く蹴りも絡めて戦闘を優位に進めてみせたのである。

 

 グスタフとユリウスは顔を見合わせて苦笑する。

 

「どちらも喧嘩ではそれなりに使いますので」

 

「……喧嘩か」

 

 

 伯爵家令息であるミュッケンベルガーにとって、喧嘩はあまり馴染みのないものである。前王朝時代では身分制が絶対的であり、門閥貴族出身の子供が生活圏も異なる同年代の平民や農奴、下級貴族と喧嘩沙汰になる事など普通はありえなかった。仮に喧嘩になったとしても、後で身分の低い側が捜し出され、一方的に手ひどい罰を課せられるだけである。そして同じ大貴族の幼い子弟同士では、険悪な雰囲気になれば即座に周りの同胞や従者に仲裁ないし制止されるのが常であった。

 

 幼い頃から下町で喧嘩慣れしているグスタフと比較できる場数と身体能力を兼ね備えているのは、現在の幼年学校ではユリウスくらいのものであろう。ユリウスは平民よりは裕福な下級貴族であったが、幼い頃から好奇心と行動力旺盛な彼は、過保護すぎる母親の目を盗んでしばしば下町までも足を運んでいた。そして身分を名乗らずに平民の悪童どもと時には交流し、時には喧嘩に明け暮れたものである。帰宅後、母の涙ながらの追及を誤魔化すのは喧嘩以上に難儀ではあったが……。

 

 

「今日は時間を取らせたな。いずれまた手合わせを頼む」

 

 そう言いながら、上級生はシャワー室へと向かうべく立ち上がった。

 

 そこでユリウスが、不意にミュッケンベルガーに対し言葉を投げかける。

 

「大叔父君はご壮健ですか」

 

 その問いにグスタフは軽く驚き、問いかけられた一学年上の先輩は眉間に皺を寄せた。

 

「……なぜそんな事を聞く?」

 

 上級生からの険を含んだ視線と言葉を受けても、平然としたままユリウスは答える。

 

「お気に障ったのでしたら、お詫びします。軍人を志す身としては、前王朝において元帥にまで昇りつめられた方の事が多少なりとも気になるというだけです。他意はありません」

 

 ミュッケンベルガーはユリウスをしばし睨んでいたが、怒気を発したりはしなかった。いささか無理を言って、グスタフを訓練に付き合わせた事に思う所もあったのかもしれない。やがて彼は軽く息を吐き出し、質問に答えた。

 

「大叔父上はお元気さ。お体はな」

 

 

 ミュッケンベルガー伯爵家とその一門は旧帝国暦四八八年のリップシュタット戦役には参戦せず、中立の立場を保った。ミュッケンベルガー退役元帥は現在、すでにオーディンの帝都中心地区の本館を引き払って郊外の別荘に転居し、監視されながらの隠遁生活を送っている。帝国元帥ともなれば年金など退役後の手当ても巨額なものであったが、ローエングラム体制成立後はそれらの受給を拒絶し、課税によって目減りしながらも相応の資産をかかえて金銭的には不自由ない生活を営んでいるという。

 

 だが、長年にわたり勤務した軍からの退役、ローエングラム独裁体制の成立、そしてゴールデンバウム王朝の完全な滅亡といった経緯によるミュッケンベルガーの傷心は、余人には想像し得ないほどに深いものであった。旧帝国暦四八七年、当時七歳であった又甥のウィルヘルムは威風堂々としていた大叔父が六〇歳に満たず勇退を余儀なくされて消沈し、その背中が丸まっているのを見て愕然としたものである。奇しくもというべきか、その大叔父が父親を第二次ティアマト会戦で失うという衝撃を味わったのも七歳の時であった……。

 

 なお、ミュッケンベルガー元帥はゴールデンバウム王朝末期の『帝国軍三長官』の一角たる宇宙艦隊司令長官でもあったが、彼と同時期にその任にあった残りの二長官はすでに死去している。

 

 リップシュタット戦役勃発に際し、ローエングラム陣営によって軍務省と統帥本部は呆気なく制圧され、軍務尚書ゴットリープ・ノルベルト・フォン・エーレンベルク元帥と統帥本部総長ビクトル・フォン・シュタインホフ元帥の両名も身柄を拘束された。そして二人は不本意な退役と自邸への軟禁を強制され、すでに宇宙艦隊司令長官に就任していた帝国元帥ラインハルト・フォン・ローエングラム侯爵が帝国軍三長官をすべて兼任した帝国軍最高司令官として、『賊軍』たる貴族連合軍との対決に臨む事となるのである。

 

 八〇歳に届く年齢であったエーレンベルクは、失意によって急速に体調を崩した。そして戦役終結後の初冬に風邪を悪化させて肺炎に罹患し、入院や延命処置を拒否した末に息を引き取ったのである。

 

 エーレンベルクより若年であったシュタインホフもまた、虚無感から逃れられなかった。二年ほど後のゴールデンバウム王朝滅亡直後、彼は常備していた睡眠導入剤を大量に服用し自室で倒れているのを家人に発見され、搬送された病院で死亡が確認された。

 

 三長官の中で唯一存命しているミュッケンベルガーは、王朝に殉じての自害を試みたりはしなかった。彼は生命をいたずらに惜しむ臆病者ではなく、旧王朝への忠誠心も他の二者に劣るものではなかったが、

 

「自決は、私の武人としての本懐ではない」

 

 とは歴戦の(つわもの)たるミュッケンベルガーの意思であり、死すならば父と同じく戦場において、という矜持の表れでもあった。そして、むざむざと生き延びる事によって現在と後世の人間から侮蔑され、嘲笑を浴びせられる屈辱と、長年仕えてきたゴールデンバウム王朝を守れなかった悔恨を死すまで抱き続ける事こそが、戦場で死場所を得られなかった元帥が自らに課した罰であったのである。

 

 旧帝国暦四八九年のエルウィン・ヨーゼフ二世の同盟への亡命事件に際し、旧王朝末期の帝国副宰相ゲオルク・フォン・ゲルラッハ伯爵は皇帝拉致の共犯として自裁に追い込まれたが、同時に軍部の重鎮であったシュタインホフとミュッケンベルガーにも嫌疑がかけられた。

 

 リップシュタット戦役終結直後に帝国宰相クラウス・フォン・リヒテンラーデ公爵が潜在的な政敵であったローエングラム陣営に排除された際、その腹心たるゲルラッハも死を強制されたところで不思議ではなかったが、ラインハルトはこの時点での彼の処断を見送った。軽侮していた『金髪の孺子(こぞう)』の迅速かつ苛烈な処置に震え上がったゲルラッハが自ら副宰相の地位を返上の上で謹慎した事に加え、ローエングラム陣営に味方した貴族内から寛恕を求める声が上がったのを考慮したのである。

 

 しかし、リップシュタット戦役後、中堅以下の文官の大半も勝利者たるラインハルトに帰順したが、元副宰相として中央政界に無視しえぬ人脈を持っているゲルラッハは彼らに影響力を行使しうる存在でもあった。ラインハルトが帝国宰相就任後に推進した公正を眼目とする改革に対し、常々「民衆に必要以上に迎合する」政策を否としていたゲルラッハが否定的である事は明白であった。そして改革に不満と不安を抱くローエングラム派および中立の貴族の一部には、彼を担ぎ上げて自分たちの権益を守らんとする水面下の動きが存在していたのである。

 

 それを複数の情報源から察知していたラインハルトは皇帝拉致を大義名分としてゲルラッハの排除に踏み切り、これによって不平派の貴族たちは慄然としつつ改革への抵抗を断念したのであった。

 

 この事件に際し憲兵総監ケスラー大将から直々に聴取を受けたミュッケンベルガーは、関与を明確に否定した後に淡々とこう述べたものである。

 

「孺子が私の生命を欲するならば、このまま刑場に引きずり出せばよい。死にぞこないの老兵一人、簡単なものだろうて」

 

 だが、二人の退役元帥については証拠不十分として逮捕には至らなかった。一説には、副宰相であったゲルラッハに比して政治的な影響力に乏しく、派閥も消滅して軍人としての信望や求心力も失っていた彼らをことさら処断する必要はないと判断されたためとも言われている。無論、ローエングラム陣営からの監視は継続されたが、シュタインホフは新王朝成立後に世を去り、ミュッケンベルガーも現在に至るまで不穏な動静を見せる事はなかったのである。

 

 かくして、大神オーディンは失意の果ての病死、旧王朝への殉死、長き落胆の余生と、ゴールデンバウム王朝末期の帝国軍三長官にそれぞれ異なった運命を与えたもうたのであった……。

 

 

 大叔父の近況を簡単に語り終えた少年は、不意に忌々しそうな表情とともに、吐き捨てるような口調でつぶやいた。

 

「大叔父上は、先帝陛下とオーベルシュタイン元帥にはめられたのさ。それさえなければ……」

 

 そこまで言いかけたところで、上級生は二人の下級生の不審そうな視線に気付く。ミュッケンベルガーは自身の口の滑りを後悔するような表情を作った。

 

「いや……何でもない。くだらない事を言った。忘れてくれ」

 

 そう言い捨てて立ち去ろうとしたミュッケンベルガーは、不意に足を止めてユリウスに向き直る。

 

「そういえば、ブリュール。この間の合同訓練の模擬戦は見事だった。いずれ、おまえとも戦斧を交えたいものだな」

 

「……その時は、胸を貸していただきます」

 

 すべてが社交辞令ではないにしろ、不躾だった質問に対する意趣返しの意味もあるのだろう。その台詞にユリウスもそう答えるほかなく、ミュッケンベルガーはうなずいた後に去っていった。

 

「それにしても、上級生に思い切った事を聞くな。ユリウス?」

 

 揶揄するような口調で話しかけてきた親友に対し、ユリウスはささやかに皮肉で応じてみせる。

 

「ミュラー提督やトゥルナイゼン提督を怒鳴りつけるほどじゃないさ」

 

「まだ言うか、この野郎」

 

 二人の少年は互いに苦笑いの表情を浮かべた。

 

「まあ、ミュッケンベルガー元帥の近況は俺も興味があったけどな」

 

 グスタフは旧王朝末期の宇宙艦隊司令長官に、少なからず共感する部分があった。戦争で父を亡くし、その志の継承と復仇を誓って軍人の道を歩んだという点では、グスタフも同様だったからである。

 

 

 グレゴール・フォン・ミュッケンベルガーにとっての(かたき)は、第二次ティアマト会戦時の同盟軍の総司令官ブルース・アッシュビーと、その指揮下にあって父親を直接に斃した第一一艦隊司令官ジョン・ドリンカー・コープの両名であった。

 

 だが、アッシュビーはその会戦の最終局面で致命傷を負って戦没し、コープは六年後の旧帝国暦四四二年、宇宙暦七五一年のパランティア会戦で敗死した。当時幼年学校に在籍していたミュッケンベルガー家の次男は帝国軍の勝利およびコープ戦死の報を聞いても歓喜する気分にはなれず、自身の手で讐を討てなかった事を心から無念に思ったのであった……。

 

 

「……しかし、『はめられた』というのは何の事だったんだ?」

 

 グスタフは首をひねった。「忘れてくれ」などと言われても、先代の皇帝及び軍務尚書の存在を匂わされては聞き捨てになどできるはずもない。

 

「さてな……」

 

 ユリウスは自分の持っている知識の整理を、頭の中で試みた。ミュッケンベルガー元帥が、ラインハルトとオーベルシュタインに陥れられたと称しうる事といえば、何があるだろうか。

 

 しばし黙考したユリウスの脳裏に不意に閃いたのは、ミュッケンベルガー元帥の退役についての経緯であった。

 

 

 旧帝国暦四八七年、宇宙暦七九六年。帝国領に侵攻してきた自由惑星同盟軍をアムリッツァ星域にて壊滅せしめた宇宙艦隊副司令長官ラインハルト・フォン・ローエングラム元帥は、その大功によって宇宙艦隊司令長官に昇格し、元の司令長官であったミュッケンベルガーは六〇歳に満たぬ年齢で勇退する事となった。

 

 だが、彼が退役する一連の事情を知らず、当時の帝国軍三長官の経歴を一通り把握している者が存在したとすれば、ミュッケンベルガーの退場に疑問や不審を抱く事になったであろう。というのも、三長官の中で仮に勇退に追い込まれる人物がいたとすれば、それは最年少のミュッケンベルガーではなく、最年長者であった軍務尚書エーレンベルク元帥であったはずだからである。

 

 エーレンベルクは当時すでに八〇歳近い高齢であり、医学的な平均寿命にはまだ一〇年ほど届いておらず健康状態にも問題はなかったとはいえ、軍人としてはとうに退役していてしかるべき年齢であった。二〇歳ほど年少のミュッケンベルガーなどは「あのくたばりぞこない」と陰口を叩いた事もあるほどである。

 

 通常の人事であれば、ラインハルトが宇宙艦隊司令長官に昇格するならば、エーレンベルクが老齢を理由に勇退し、統帥本部総長シュタインホフ元帥が新たに軍務尚書に就任した後、空席となった統帥本部総長の座にミュッケンベルガーが座るというのが定石であろう。そして、そうならなかったのには相応の事情が存在していたのであった。

 

 

 三〇〇〇万人に達する同盟軍の大侵攻作戦の迎撃に際し帝国軍が採用したのは、辺境周辺の民衆に犠牲を強いる、一種の焦土作戦であった。本来領土を死守すべき現地の統治者たちは、上層部の命令によって軍事用のみならず民需用の物資まで全てを徴発し、それらを抱えつつ現地の民衆を置き去りにして撤退したのである。

 

 抵抗する者もなく、広大な辺境星域を無血占領した同盟軍が直面したのは、食料を始めとする生活必需品を要求する五〇〇〇万もの大群衆の姿であった。解放軍や護民軍を自認する同盟軍としてはその要望を呑まざるを得ず、同盟軍の物資は底なし沼に放り込まれるがごとくに消費される事となる。そして占領地の拡大とともに庇護すべき民衆の人口も倍増し、各占領地の兵站はたちまち破綻への奈落に追い落とされた。

 

 そして後方からの補給が間に合わず、物資の供給を停止した各占領地では暴動を起こした民衆と占領軍との衝突が続発し、『護民軍』の美名は地に墜ちて汚泥に塗れた。その結果として、同盟軍は民衆の怨嗟の声を背にして全占領地の放棄に追い込まれたあげく、再集結したアムリッツァ星域における会戦にて壊滅的な打撃を蒙った。自称『解放軍』の敗残者の群は勝利の女神の無情を呪いつつ、二〇〇〇万を超える屍を異郷の地に残して本国に撤退する事となったのである。

 

 

 そしてその焦土作戦を提案したのが、ミュッケンベルガーを派閥の長と戴く宇宙艦隊司令部の幕僚群だったのである。

 

 戦略の決定権は軍令の最高機関たる統帥本部にあったが、実戦部隊の長たるミュッケンベルガーは幕僚たちの意見をまとめ、統帥本部総長シュタインホフに上申した。それを受けたシュタインホフは自身の幕僚たちとともに宇宙艦隊司令部からの作戦案を検討し、軍務省とも協議を重ねた結果、有効な戦略案して承認したのである。

 

 勅命により迎撃の現場責任者たるを命じられたローエングラム伯ラインハルトは、イゼルローン回廊出口での迎撃を主張し、民衆に犠牲を強いる焦土作戦には強く反対していたと軍の公式記録には明記されている。そして、ミュッケンベルガーは「卿は戦場において、戦術面で最善を尽くせばよい。戦略に黄色い嘴を挟むな」と一喝して副司令長官の反対を退けたのであった。

 

 ラインハルトがこの作戦案を麾下の最高幹部たちに披瀝した際、彼らは驚愕の後の、民衆を戦火に巻き込む事への逡巡の表情を完全には隠し通せなかった。それを見た若き元帥は、それまでの自信に溢れた表情を消して部下たちに語ったものである。

 

「卿らの心情は私も理解できる。だが、これは軍上層部からの内密かつ絶対の命令であり、純軍事的に見て極めて有効な戦略である事は認めざるを得ない。事ここに到っては、敵が弱体化しきった時点で全面攻勢を行ない、可及的速やかに勝利を収めて民衆の犠牲を最小限に抑えるほかに手はない。改めて、卿らの健闘に期待する」

 

 そして同盟軍が侵攻を進め、抵抗も受けないままに占領地を拡大していくにつれ「神聖不可侵たる銀河帝国の領土」に「不逞きわまる叛徒ども」が土足で乗り込むのを前提とした作戦を立案し「臆病にも戦おうとしない」宇宙艦隊司令部や、それを認可し許容した統帥本部や軍務省に対し、門閥貴族の一部から批判が挙がりはじめた。

 

 それは燎原の大火のごとく急速に巨大化し、軍部からの作戦についての説明や理解を求める声は、「臆病者」「栄えある帝国貴族、帝国軍人の恥さらし」といった轟々たる非難の嵐にかき消された。予想をはるかに上回るその反発に軍首脳部は狼狽し、彼らは前面の叛徒どもよりも後背の大貴族たちによって困惑させられる事となる。

 

 迎撃の現場責任者であったラインハルトにもその非難の声は向けられたが、彼はすでに麾下の艦隊とともに帝都オーディンを出立して辺境に近い宙域で大攻勢の機会を計っており、貴族たちの癇癪に直接相対する事はなかった。オーディンに残って不満や非難を叫ぶ貴族たちへの対応に四苦八苦せねばならなかった帝国軍三長官とその幕僚たちこそ、いい面の皮であったというべきであろう。

 

 帝国政府中枢部も大貴族たちの批判を無視しえず、焦土作戦の責任者に対し何らかの処分を下さざるを得なかった。その結果、同盟軍が大敗の末に完全撤退した後、発案の責任者であるミュッケンベルガーが退役に追い込まれ、作戦案を容れた統帥本部総長シュタインホフと軍務尚書エーレンベルクは俸給の返上や譴責といった処分を受ける事となったのである。戦役が大勝利に終わったのに加え、フリードリヒ四世の崩御に伴うエルウィン・ヨーゼフ二世の即位による恩赦が考慮されなければ、三者にはさらなる重罰が加えられていたかもしれない。

 

 そして発案に関わった宇宙艦隊司令部のミュッケンベルガー閥の軍高官たちも処罰の対象となり、その多くは辺境への左遷といった処分を受ける事となった。

 

 門閥貴族としては、目ざわりな成り上がりの『金髪の孺子』もまとめて排除する意図があったのだが、彼らが非難していた焦土作戦の立案に『孺子』が関与していなかったばかりか明確に反対していた事までは、軍事機密のゆえに当初は把握していなかったのである。その事実を、アムリッツァでの会戦前に知らされた大貴族たちは愕然とした。もしこのまま軍部への批判を継続して帝国軍三長官全員を退役に追い込めば、『孺子』がその三職全てを独占する事となるかもしれない。かといって振り上げた拳を今さら収める事もできなかったため、やむを得ず彼らは軍務省や統帥本部への批判を軟化させ、代わりに焦土作戦の発案元たる宇宙艦隊司令部に非難を集中させたのである。

 

 これこそが、三長官の中でミュッケンベルガーだけが勇退に追い込まれた要因であった。門閥貴族たちとしては不愉快かつ不本意な事に、彼らの行動が今回の勝利の立役者たるラインハルトの宇宙艦隊司令長官就任と、彼の派閥による宇宙艦隊司令部の要職の独占に手を貸す結果になってしまったのである。

 

 そして辺境星区に流された旧ミュッケンベルガー閥の軍人たちの多くは、翌年に勃発した『リップシュタット戦役』において貴族連合軍に与する事となる。彼らは自分たちを中央から逐った門閥貴族陣営に好意的にはなれなかったが、彼らの多くも大貴族の係累であり、自分たちの後釜にまんまと居座った『成り上がりの孺子』一派に膝を屈する事もできなかったのだった。

 

 なお、当のミュッケンベルガー自身は戦役勃発時は帝都に留まり、居館をローエングラム陣営の兵士たちによって監視されつつ中立を保つ事となる。かつての帝国元帥にして宇宙艦隊司令長官であった彼だが、退役した経緯が経緯であったため、ブラウンシュヴァイク公やリッテンハイム侯といった大貴族たちが作成していた貴族連合軍総司令官候補のリストからは最初から除外されていたのだった。

 

 貴族連合軍から冷遇されつつも、戦役勝利後に中央への復帰を約束された旧ミュッケンベルガー派は、辺境制圧に乗り出してきたジークフリード・キルヒアイス上級大将率いるローエングラム軍の別働隊と対決し、そして敗滅した。

 

 キルヒアイスは辺境を完全平定するまで数十回もの戦闘に臨んだが、その相手の大半は、敵意に燃えキルヒアイスの降伏勧告を拒否した旧ミュッケンベルガー閥の軍人たちであった。キルヒアイス率いる大軍と対峙するためには統一された指揮系統と兵力の集結が不可欠であったのだが、ミュッケンベルガーの強力な指導力によって統率されてきた彼らは、ミュッケンベルガーが去った後の指導者の座を争って貴重な時間を空費するという愚を犯してしまう。その上彼らは「焦土戦術の発案者」として辺境の民衆から侮蔑と怨嗟の対象となっており、民衆によるサボタージュや地下での抵抗活動によって行動をさらに鈍らされた。

 

 かくして旧ミュッケンベルガー派はことごとく各個撃破の好餌として撃滅され、キルヒアイスの辺境完全平定という大功の養分となり果てる。その報を帝都にて知らされたミュッケンベルガーは、深く嘆息したのであった……。

 

 

 そういった一連の事情を考えてみれば、アムリッツァ会戦の後、確かに当時の軍務省や統帥本部の権威と求心力は失墜し、宇宙艦隊司令部の主流であったミュッケンベルガー閥は没落した。この彼らの凋落こそが、リップシュタット戦役勃発時にローエングラム陣営がたやすく帝国中枢の軍事の全権を掌握しえた要因の一つだったのである。

 

 結果として見れば、当時のローエングラム陣営が多大な利益を得たのはまぎれもない事実である。これはローエングラム陣営にとって、単なる幸運であったのだろうか。これがラインハルトや、その謀臣オーベルシュタインの遠大な謀略による結果のものであったとしたら……。

 

 ユリウスは戦慄した。仮にそうだとすれば、同盟の大侵攻に際し民衆を犠牲の羊として軍神の祭壇に捧げたのは、ミュッケンベルガーらでなくラインハルトとオーベルシュタインという事になる。『ヴェスターラントの虐殺』の裏面の事情を推察した時の事も彼は想起し、黒い双眸は常ならぬ光を帯びた。

 

「どうした、ユリウス?」

 

 友人の怪訝そうな声と表情に気付き、白金色の髪の少年は思考の迷路から引き戻された。

 

「……いや、なんでもない。考えても解らないものは解らないな。ほら、身体が冷えない内におまえも早くシャワーを浴びてこい」

 

 そう言いつつ、ユリウスは持っていたタオルをグスタフに放ったのであった。

 

 

 

「……後世において、ラインハルト・フォン・ローエングラムに仕える以前のパウル・フォン・オーベルシュタインの軍歴はさほど重視されず、重点的な研究の対象とされる事は皆無であった。だが、それは結果として謀略家オーベルシュタインの本質を捉えそこなう事となっていたのではないか」

 

「……オーベルシュタインは他者を惹きつけるカリスマ性に恵まれているとは言えなかったが、能力的には決断力、効率性、広範な見識を備えた、極めて有能な軍官僚であった事については疑念の余地はない。ゴールデンバウム王朝を憎悪し、打倒を密かに誓っていた彼は志を遂げる下準備として、その能力をもって配属先の各部署において畏敬を勝ち取り、宇宙艦隊司令長官の次席副官就任や統帥本部情報処理課への在籍などを経て、軍務省、統帥本部、宇宙艦隊司令部といった当時の帝国軍中枢部に広く深い不可視の人脈を密かに形成していた事は、先に挙げた諸史料の分析により明らかになったと思う。イゼルローン失陥の際に逃亡者として処断される予定であった彼がオーディン帰還後に拘束される事もなく、当時のローエングラム元帥府を訪れる事が可能であったほどに行動の自由を得ていたのも、その人脈がもたらした結果によるものだったのである」

 

「……そうして長い年月をかけて構築した人脈や情報網を抱え、彼は満を持して覇者たる器量を持つラインハルト・フォン・ローエングラムの麾下にその身を投じた。そして当時のラインハルトが政治及び謀略面における参謀役たりうる人材を渇望していたとはいえ、その時点におけるオーベルシュタインの謀略家としての能力は未知数であり、彼には明確な実績を示す機会が必要であったはずである。そして謀略家としてのオーベルシュタインの試金石となったのが、当時の宇宙艦隊司令部の主流派たるミュッケンベルガー閥の追い落としだったのではないだろうか」

 

「……オーベルシュタインはかねてから形成していた中枢における人脈と情報網を可能な限り駆使し、宇宙艦隊司令部の周辺に焦土作戦の概要を自然な形で吹き込み、提案されるように巧みに誘導した。そして軍務省や統帥本部の周辺にもその提案を許容するような空気を醸成するように手を打っていたのである。そして同盟軍が侵攻の度合いを深めるにつれ、宮廷の周辺や大貴族たちから焦土作戦に対する批判が生じるようにも仕向け、倨傲かつ単純な大貴族たちはまんまと義眼の謀臣に踊らされたのであった」

 

「……キルヒアイスが『軍上層部の厳命』たる焦土作戦に静かに憤慨していたという、彼の部下たちが残している複数の証言から考えても、民衆に犠牲を強いた真の首謀者がラインハルトとオーベルシュタインであった事は、赤毛の驍将は知らされていなかった事は疑いない。もし彼がその真相を知れば、『ヴェスターラントの虐殺』よりも早く、彼とラインハルトの信頼関係に深刻な亀裂が生じる事となったであろう。なお、ローエングラム陣営におけるキルヒアイスの存在の突出を危惧していたオーベルシュタインが、この時点でこの一件を利用して彼とラインハルトの仲を裂こうと画策した形跡は管見の限りでは存在しない。彼がそれを試みなかったのは、政界ばかりか軍部すらも完全には掌握できていなかった上、門閥貴族という巨大な敵も存在していた当時の状況で、自陣営で本格的な内紛を生じさせるのは下策と判断したからではないだろうか。そして、リップシュタット戦役で勝利への道筋が見えた時点で、オーベルシュタインはヴェスターラントの件を利用してキルヒアイスの影響力の弱体化を目論んだとも考えられるのである」

 

「……結果として、オーベルシュタインのこの策謀は見事なまでに成功を収め、宇宙艦隊司令部の主流たるミュッケンベルガー閥は中央から姿を消してローエングラム閥がそれにとって代わる事となった。それから間もなく勃発したリップシュタット戦役に際し、ローエングラム陣営は軍務省と統帥本部をも呑み込んで、軍事的な独裁権を獲得するに至る。そして辺境に追いやられたミュッケンベルガー派の軍人たちはキルヒアイスによって一掃され、『焦土作戦の責任者たち』を憎悪していた辺境の領民たちは快哉の声を上げつつローエングラム陣営を熱狂的に支持したのである。おそらくミュッケンベルガーは『金髪の孺子』とその一派により陥れられた事を悟って大いに憤激したであろうが、陥れられたという具体的な証拠ももはや存在せず、彼やその周囲が焦土作戦を是として実施を命じたのはまぎれもない事実であった。見苦しく弁明や責任転嫁などできるはずもなく、潔く処分を受容するほかに矜持を保つすべはなかったであろう。また、実父が斃れたティアマト星域での二度にわたる会戦とアスターテ星域での大勝を経て、彼はすでに『金髪の孺子』の用兵家としての力量を不本意ながらも認めていたが、大貴族の一員である自身が貧乏貴族上がりの孺子に謀略面でもしてやられたという自覚は彼の敗北感をより強め、勇退を受けいれる一因となったのではないだろうか」

 

 

「……かくして、ラインハルトはオーベルシュタインの謀臣としての資質を認め、義眼の男は銀河系を一閃する、鋭利かつ長大極まりない『ドライアイスの剣』へと変貌する第一歩を踏み出したのであった……」

 

               J・J・ピサドール「秘匿されし歴史」(ザ・ヒドン・ヒストリー)より一部抜粋

 


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