第一節
──母にとって、自分とは何だったのか。
問いかけるべき母は、すでに亡い。父や祖父母たちに問いかけても、苦味を伴った沈黙で答えるのみである。
ゆえにユリウスは幼い記憶を頼りに自問せざるを得なかった。
親が子を慈しむのは普遍的な事であろうが、ユリウスの母は自らの腹を痛めて産んだ息子を異常なまでに溺愛していた。
父は自分を『ユリウス』と呼んでいる。祖父母たちも同様であったが、ただ母だけが『オスカー』と呼ぶのである。なぜ母だけが自分の事をそう呼ぶのか、幼いながらに疑問を抱いて尋ねた事があるのだが、その問いに母は寂しげに笑うだけであった。
今より幼い頃、外出の際に母親とはぐれて迷子になった事があるのだが、母は迷子になった幼児以上に取り乱し、半狂乱になって周囲の奇異の目も構わずに街中を駆け回った。その末に息子を見つけ出し、涙を流しながら抱擁してきた姿は、幼いユリウスの目から見ても異常であった。
「オスカー、オスカー……私を一人にしないで」
母は自分ではなく、息子の
「起床! 起床!! 起床!!!」
過去の記憶の夢の中を
ユリウスは身体を起こし、軽く頭を振って夢の残滓を振り払い、軽く伸びをして身体をほぐす。
隣ではルームメイトの一人であるグスタフが、同年代の中では頭一つ大きい体躯をベッドから起こしていた。
「おはよう、グスタフ」
「おはよう」
短く朝の挨拶を交わしつつ、二人は慌ただしく動き始める。周りではその他のルームメイトたち数名も慌ただしく起き出していた。
カーテンと窓が音を立てて開け放たれた。緑と土の香りが入り混じった早朝の清澄な空気が室内に流れ込み、それを吸い込んで意識の底に沈澱している眠気を追い払う。
彼らはすみやかに寝具をたたんで点呼に参加しなければならない。その後に体操を行い、顔を洗い、制服に着替えて校庭に整列し、掲揚されたローエングラム王朝の軍旗たる『
ここは新帝都フェザーンの帝都地区の郊外にある帝国軍幼年学校の仮宿舎である。時節は新帝国暦〇〇三年、宇宙暦八〇一年の七月二七日の早朝。
ある一人の人物が世を去ったその翌日であった。
昨日の夜までは寒気を伴った激しい風雨が新帝都全体に降り注いでいたため、朝の校庭の土には湿り気が残っているが蒼穹は澄みわたり、清涼な空気と雨に濡れた草木と土の匂いが整列している生徒たちの肌と鼻腔を穏やかにくすぐっている。
だが、今の生徒たちの意識は、嗅覚ではなく不吉な予感と共に視覚に向けられていた。
彼らの目の前に高く掲揚された光輝在る『黄金獅子旗』はすでに見慣れたものであったが、その軍旗が旗竿の最上部ではなく、一目で判る位置にまで下げられ夏の風の中で力なくたなびいている。
半旗。弔意を表す際に掲げられるそれを、生徒たちは何度か目にしたことがあった。動乱の時代において国家の重臣が非命に
「まさか皇帝陛下の御身に、何か……」
生徒の一人がつぶやいた一言が、不安に満ちていた校庭の空気を一瞬凍てつかせ、それが溶けた後、喧騒は無秩序に拡大された。
「ばかな事を言うな!」
「しかし、陛下は死病にかかっておられると……」
「あの
蜂の巣をつついたような騒ぎは、教官たちの叱咤によって表面上は収まったものの、生徒たちの不安と動揺は際限なく膨張する一方であった。
「どう思う、ユリウス」
グスタフは前を向きながら、右隣に立っているユリウスに小声で問いかける。
「さあな。皇帝のご病気が不治だとは俺も聞いているが……」
ユリウスもまた小声で視線を正面から動かさずに答えた。グスタフもユリウスも若年ながら、同学年のみならず上級生に比較しても並外れた胆力の所有者である。むろん、偉大な皇帝の安否について完全に平静ではいられなかったが、不安げに小声で会話を交わしている周囲の生徒たちに比べればはるかに落ち着いていた。
「あの皇帝がお斃れになるなど、確かに想像できないな。あの方なら、大神オーディンに不老不死を許されたと言われてもおかしくない」
ラインハルト・フォン・ローエングラム。
宇宙に進出した人類社会の過半を支配していたゴールデンバウム朝銀河帝国において、一介の貧乏貴族から新帝国の皇帝の座にまで翔け上がり、百年にわたり独立を維持してきたフェザーン
グスタフの言葉には、皇帝への畏敬の念が偽りなく込められていた。彼の父親は一軍の総司令官として大敗の末に戦死したが、皇帝ラインハルト──当時はまだ形式上はゴールデンバウム王朝の臣下であったが──はそれにもかかわらず父を昇進させてその功をねぎらい、グスタフら遺族にも手厚く報いてくれたのである。皇帝に対する感謝と尊敬も不動となろうというものであった。
「……そうだな」
そういった事情を知っているユリウスは同意の証としてうなずいたが、一方で皇帝を尊崇する友人を冷ややかに眺める自分も存在しているのを自覚し、やや憮然とした。まったく、我ながらこの無意味に皮肉っぽい性格は誰から受け継いだのだろうか。
「まあ、ここであれこれ言ってもしかたない。すぐにロイシュナー校長が過不足なく説明してくださるさ。今の俺たちにできるのは、校長のお言葉を待つ事だけだ」
「違いない」
グスタフは苦笑したが、すぐに表情を消し口を緘した。彼らの前に校長が姿を現し、壇上に向かっていくのが見えたからである。が、その動きはいつもに比べてどことなくぎこちない。表情もこわばりを隠しきれておらず、感情の制御に少なからぬ努力を強いられているようであった。
ヨハン・ハインリッヒ・ロイシュナー中将は三九歳。黒い頭髪と、
ロイシュナーは大佐時代にゴールデンバウム王朝の将官であった時期のラインハルトの座乗艦ブリュンヒルトの二代目艦長を務めていた事があり、アムリッツァ会戦後に准将に昇進した後はその任を副長のニーメラー中佐に託して離れ、分艦隊司令官に転属した。
初代艦長であったカール・ロベルト・シュタインメッツの後任としてラインハルトに選ばれただけに艦長としての能力は申し分ないものがあったが、艦隊司令官としては特筆すべき点はなく、「水準よりややまし」というところであった。
だが、部下からの信頼も厚く組織の運営や管理に関しての非凡な見識と手腕、加えて少佐時代に幼年学校で教師を務めていた経歴の所有者であり、それゆえにリップシュタット戦役後に帝国の全権を掌握したラインハルトは少将に昇進したばかりのロイシュナーを執務室に呼び出し、中将への昇進を告げた上で幼年学校校長への就任を命じたのである。
幼年学校校長就任はともかく、功績もなく昇進する事に対しロイシュナーは抵抗があったが、ラインハルトは微笑しつつ応じた。
「卿にはしばらくは幼年学校の改革に精励してもらう事になる。その前渡しと思えばいい。それとだ、卿は勁直な武人だ。本心では前線勤務をこそ望んでいるのではないか?」
図星であったため、ロイシュナーが咄嗟に応えられずにいると若い主君は先ほどまでの微笑を消し、
「その卿から戦場で武勲を立てる機会を奪うのだ。中将昇進くらいでは償いにはなるまい」
と申し訳ないような表情を浮かべた。自身が戦場の雄たる事を望んでいるラインハルトにとって、自分と志を同じくする信頼する部下から武人としての活躍の場を取り上げる事に対し、忸怩たる思いがあったのである。
それを察したロイシュナーは敬愛する主君の心情を酌み、逡巡を捨てて謹んで辞令を受けた。かくしてロイシュナーはラインハルトの期待に応え、『ゴールデンバウム王朝最後の幼年学校校長』および『ローエングラム王朝最初の幼年学校校長』として硬直化した幼年学校の改革に邁進して成果を上げ、歴史にその名を刻む事となる。
ロイシュナーはマイクを手に取り、いつも通りに生徒たちと朝の挨拶を交す。だが、次に発せられた言葉はいつも通りのものではなかった。
「生徒諸君らに伝えねばならない事がある。落ち着いて聴いてほしい」
いつもは朗々として威厳に満ちているはずの声にも、表情や動作と同様にやや精彩が欠けている。それが傾聴している生徒たちの不審と不安を更にかき立てた。
「病床にあられた皇帝ラインハルト陛下は、昨夜、治療の甲斐なく崩御された……」
息を呑む声が至る所で生じた後、先ほどのそれをはるかに上回る動揺が整然と整列していた生徒たちの間にたちまち伝播して、校庭は騒然となった。教官たちの「静粛に! 静粛に! 校長のお話は終わっていない!」という叱咤の声にも震えがある。
混乱が収まるまでにやや時間を要したが、校長の表情には不快感はない。自分が発した言葉の内容を、初耳にして冷静さを保つのが無理難題である事を理解していたからである。
校長の話が再開され、数日中には国葬が営まれるため、幼年学校の生徒全員も様々な準備を行わねばならない事、その後に嫡男であるアレクサンデル・ジークフリード大公を新帝とした即位式が執り行われる事が伝えられた。また、皇帝に先立って軍務尚書パウル・フォン・オーベルシュタイン元帥が地球教徒のテロによって死亡し、皇帝の後にその国葬が営まれる事も伝えられ、生徒たちの多くは状況の激変に呆然とし、ただ翻弄されているかのようであった。
最後にロイシュナーはこう締めくくった。
「皇帝陛下の崩御は、生徒諸君にも多大なる悲哀と喪失感をもたらしている事と思う。だが、諸君らは新帝国の未来を担うかけがえのない人材である。どうかそれらを乗り越えて、勉学に精励して帝国の発展と平和に貢献する軍人に成長してもらいたい。それをこそ、亡きラインハルト陛下も
集会は終わった。
校舎に戻った生徒たちは呆然とする者、おぼつかない足取りで右往左往する者、人目をはばからず嗚咽する者と反応は様々であったが、皇帝ラインハルトという巨星の消失に未曾有の衝撃を受けているのは全員に共通していたのである。
「父さんの分まで、陛下にお仕えするつもりだったのに……」
グスタフは廊下の窓際に立ち、窓の桟を両手で握りしめた。その顔には失意と悲哀の感情が満ちている。豪胆な彼も尊崇する皇帝の死を事実として突きつけられ、先ほどまで残されていた平常心を失ったかのようであった。
「グスタフ……」
ユリウスは親友に呼びかけたが、次にかけるべき言葉がなかなか出て来ない。冷静さと大胆さを周囲から評価されている彼もまた、偉大な覇王の訃報に強く動揺していたのである。
だが、一時的にせよ何とか自身の動揺を抑える事に成功し、低く嗚咽する友人に声をかける。
「……校長も仰られていただろう、俺たちが軍人として成長し、発展と平和に貢献する事をラインハルト陛下も望んでおられると。そうすれば、陛下だけでなくケンプ提督も喜んで下さるさ」
「その通りだ」
横から予期せぬ声をかけられて、ユリウスとグスタフは即座に姿勢を正して声の主に敬礼をほどこした。
他ならぬロイシュナー校長である。その表情には悲哀の色がわずかに残ってはいるが、生徒の模範たりうる毅然とした教育者の態度を取り戻していた。
ロイシュナーはグスタフに視線を向けた。
「私などが語るまでもなく、君のお父上は立派な軍人だった」
ロイシュナーは生前のグスタフの父親とも面識があり、その
「グスタフ・イザーク・ケンプ。君もまた優秀な生徒だ。どうかまっすぐ前を見て、お父上の名に恥じない軍人になってほしい」
カール・グスタフ・ケンプ。
グスタフの父親の名である。
かつて単座式戦闘艇ワルキューレを駆って
短く刈り込まれたブラウンの頭髪と二メートルになんなんとする身長、そして横幅に広い厚みのある筋肉によろわれた動かざる花崗岩の風格の所有者であり、息子であるグスタフにとっては厳しくも優しい、誇るべき父親であった。
だが、その偉大な父親も三年前に、三六歳の誕生日を迎える事なく他界した。
宇宙暦七九八年、旧帝国暦四八九年の第八次イゼルローン要塞攻略戦において総司令官に任命されたケンプ大将は、帝国領と同盟領を結ぶ数少ないルートであるイゼルローン回廊を制圧するべく一万六〇〇〇隻の艦艇と移動要塞として改造されたガイエスブルクを率いて自由惑星同盟軍を苦しめたが、同盟軍の智将ヤン・ウェンリーの戦術に抗し得ず、移動要塞と動員兵力の九割を喪失する大敗を喫して戦死したのである。
遺児は亡父の志を継ぎ、報仇雪恨を果たすべく軍人としての道を歩む事を決意したのだが、自由惑星同盟滅亡後も新帝国に対し民主主義の旗を掲げて抵抗し続けたヤンは昨年の六月にテロリズムに斃れ、ヤンへの挑戦は永久に不可能になってしまった。
そして今や、父親の分まで忠誠を捧げるつもりであった大恩ある皇帝まで世を去ってしまい、グスタフは自分の進むべき道を見失ってしまっていたのである。
「……はい」
グスタフは決然とした表情で顔を上げる。まだ心の整理が完全にできたわけでもないが、いつまでも沈んでいては亡き父に叱られるであろうし、自らも失意の底にあるにも拘らず自分を激励してくれた親友や校長にも顔向けができないというものである。無理にでも眼を前に向け、足を前に進めねばならなかった。
ロイシュナーはうなずき、次いで隣のユリウスに視線を移して語りかけた。
「ブリュール。君のお
「祖父をご存知なのですか?」
「ああ、私がまだ新任士官だった頃、上官として随分とお世話になった。退役なさったとは聞いていたが、ご壮健かな」
ユリウスは肯定した。母方の祖父であるヤーコプ・フォン・ダンネマン退役大佐は、今も数千光年離れた旧帝都オーディンで趣味である園芸を楽しみつつ、祖母と共に悠々自適の生活を営んでいるはずである。
「そうか。君も親友に劣らない才知の持ち主だと思う。どうか友人同士で切磋琢磨しあって、共にこれからの新しい時代にふさわしい軍人となる事を期待する。君のお祖父様もそう願っているだろう」
ユリウス・オスカー・フォン・ブリュール。
傍らの親友には及ばないものの同年代の中では長身であり、プラチナブロンドの頭髪と黒い双眸を有する、貴公子的な容貌の一一歳の少年である。グスタフ・イザーク・ケンプと共に、常に最優等生グループの一角を占める存在で、特に射撃や格闘戦といった実技においては親友と一、二を争う素質の所有者である。授業における格闘術の模擬戦で彼らに当たる事となった他の生徒は、自らの運と技量の不足を呪うのが常であった。
三年にわたって幼年学校校長を務めてきたロイシュナーであったが、この二人ほどの単なる優等生に留まらない将来性を感じさせる生徒は、初めての存在であった。二年生に進級したばかりのこの二人が成長したならば、あるいは『帝国軍の双璧』の再来たり得るのではないかとすら思えるのである。
それと同時に、長い流血の果てに到来した平和の時代において、若く才幹と鋭気溢れる彼らが道を誤り、身を持ち崩さないように自分たち年長者が時には導き、時には諭す事の必要性をロイシュナーは理解していた。
「はい。ご期待に沿えるように、慢心せず力を尽くします」
ユリウスはそう答えつつ、やや苦い記憶を思い出していた。
実のところ、祖父は孫の軍人としての大成を願うどころか、軍人になる事すら控えめながら反対していたのである。
軍幼年学校への進学を希望している事を告げるなり、元大佐は、
「長く続いた戦争もじきに終わる。これからは平和な発展の時代を迎えるのだから、軍人以外の道も考えてはどうだ」
と孫に翻意を促した。だが、ユリウスは平和な時代であっても軍人には果たすべき役目があると幼いながらに思っていたので我意を押し通し、祖父も結局は折れた。
祖父がため息をつきつつ、「やはり、血は争えんか……」とつぶやいた苦い声を、ユリウスは思い出す。かつての自分と同じ道を孫が歩む事をなぜ素直に祝福してくれないのか、祖父の心情の在り処を今でもユリウスはつかみかねている。
そうしたユリウスの内心をよそに、壮年の校長はうなずいて敬礼を交わしたのち、その場を立ち去った。
その背中が見えなくなってから二人は敬礼の手を下ろし、ユリウスは回想を中断してグスタフに顔を向けた。
「そろそろ朝食を食いに行くか。何をするにしても、腹が減っていてはな」
二人は控え目に笑いつつ、悲哀と喪失感と困惑による三重奏の