その鴉天狗は白かった   作:ドスみかん

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第六十八話︰いつかの空へサヨナラを

 

 

 ーーー願わくば、彼女にとっての羅針盤であることを

 

 

 大妖狐から告げられた言葉。

 それは意外にも自分たち、正確にはメリーの行く末を心配するかのようなモノだった。何故、出会ったばかりの人間をそこまで気にかけるのか。良からぬ企みでもあるのかもしれないと身構えるくらいの疑念はあった。しかし山麓から顔を出した暁の光が大地に照り返しているかのような黄金の瞳、あの眼差しに嘘偽りは一つもない。言葉の意味は分からずとも、頷いて返答するくらいは構わないだろうと蓮子は思ったのだ。

 

 だが、それも先程までのお話。

 

 足元から崩れ落ちた空間はどこまでも暗く、何も見えず何も聴こえず。取り合ったメリーの手から伝わってくる感覚だけが、己の生きている実感だった。時々、目の前を通り過ぎていく黒い泡。気になって触ってやろうかと思ったが、水圧にやられたかのように手足は動かせない。沈んでいっているような、浮上しているような、矛盾した体感が同時に押し寄せて脳を掻き乱していく。

 

 あの九尾によって落とされた空間には、ひたすらに虚無な世界が広がっていた。スキマを覗いた時には、大して離れていないと思っていた世界の境界線は果てしなく遠かったようだ。不快ではないが、不安は果てしない。しっかりとメリーの手を握りしめながら、蓮子は圧し潰されそうな心を何とか正常に保っていた。しかしーーー。

 

 

「ーーーっ、っ、ごぼッ!!?」

 

 

 襲ってきたのは重々しい水圧。

 いや、ここは水の中ではないので単純な圧力というべきなのだろうか。ともかく肺から空気が締め出されていく苦しみと、それに遅れて指先から痺れが回ってきた。本当に溺れているようだ、もがこうとしても身体がまともに動かせない。

 幻想郷に放り出された前後の記憶は残っていないが、来た時も同じ苦しみを味わったのだろうか。それなら気絶していた方がよっぽど幸せだ。もしかしたら『何者か』が気を利かせて、そうしていたのかもしれない。今回もそうしてくれれば良かったのにと、ここにいない九尾の妖狐に向けて心の中で不満を叩きつけるしかなかった。

 沈んで沈んで、浮かんで浮かんで、自分が漂流物にでもなったかのような不安が胸を満たす。そうして、どのくらいの時間が経ったのだろうか。

 トンネルを抜ける瞬間のように視界は白け、それは唐突にやってきた。

 

 

「‥‥‥‥もしもし、こんなところで眠っていたら風邪を引きますよ。体調が悪いなら薬師の所にご案内致しますので申し付けてください、可愛らしいお嬢さま方」

 

 

 鼓膜をくすぐる誰かの声。

 背中とお尻に伝わる硬い感覚からして、自分が座り込んでいることだけは把握できた。しかし視界は水滴に覆われたガラスのように、ぼんやりとして定まらない。よほど呆けた顔をしていたのだろう、声の主は心配するようにして己のことを覗き込んできた。

 

 

「まるで眠っていたかのような表情をされておられる、春の陽気にでも当てられましたか?」

「ああ、えっと‥‥‥‥‥すみません、ここって何処でしたっけ?」

「可笑しなことを尋ねられますね。ここは妙法院、その一部です。知らずに建物内部まで訪れる方がいるとは思えませんが‥‥‥」

 

 

 まだ覚醒からは程遠い思考。

 立ち上がることはおろか、現状を把握するだけの行動もすぐには起こせなかった。長いこと正座を続けて、急に動こうとしたかのような感覚だ。それでもここが幻想郷に跳ばされる直前にいた場所、三十三間の名で著名な寺だということは理解できていた。歴史を重ねてきた木々の匂いと、多くの守り神たちを型どった木像の気配がある。まさか妖怪に襲われることもないだろうと、落ち着いて深呼吸を繰り返す。

 そうして少しずつ鮮明になっていく視界だったが、映り込んだのは寺に不釣り合いな金色の髪をした男性だった。一方で服装は真っ白な袈裟と簡素な法衣なのだから、髪色とは見事なまでのアンバランスだ。様子からして寺の関係者なのだろうが、どちらかといえば海外からの観光客が仮装したといった方が信じてしまいそうな出で立ちである。

 極めて失礼なことを考えていた蓮子へと柔らかな微笑を浮かべつつ、男はそっと手を差し伸べた。

 

 

「拝観時間は間もなく終了します。よろしければ、お連れ様と一緒に出口までお送りしましょうか?」

「ち、ちょっと待ってください。すぐに立てると思うので‥‥‥‥うわぁ、ひっどいわね、コレ」

 

 

 ようやく戻ってきた視力。

 薄暗い光が屋内を見回して悪態をついてしまう。それもそのはずで、通路には二人が買い占めた古物(せんりひん)たちが所狭しと散乱していた。古書に始まり、筆記具や着物、果ては保存食に至るまで集めに集めた幻想郷の資料集である。幸いにして破損しているものはないようだが、明らかに寺の土産物ではない品々を順路にぶちまけている自分たちは不審すぎた。無言で見つめてくる仏像たちの視線も、心なしか痛いものが混じっている。

 目の前にいる雄々しい翼を生やした仏教の守り神、迦楼羅王の像に至っては特に厳しい目つきで蓮子を射抜いていた。

 

 

「あはは、すぐに片付けますので‥‥‥‥メリー、そっちも生きてる?」

「う‥‥‥‥な、何とか生きてるみたいよ。あの地獄に落ちていくような感覚は一生ごめんだけどね」

「なら本当に地獄へ落ちないように、さっそく善行を積んでおきましょうか。とっとと片付けないと後ろから別の観光客に蹴っ飛ばされるわよ」

 

 

 荷物と一緒に転がっていたメリー。

 どうやら無事に帰って来られたみたいで一安心だ。振り返ってみれば妖怪の山へ放り出された行きに比べれば、多少の苦痛を加味したとしても上等な帰路であった。ぐらつく頭を支えるようにして、蓮子はメリーと共に立ち上がる。ズレていた鴉羽色の帽子を直しつつ、もう一度周囲を確認してみる。

 通行人はいない、すぐに荷物を退けてしまえば面倒事は少なく済むだろう。目の前の男性からは、こちらを心配する気配しか感じない。自分たち二人がスキマから現れた決定的な瞬間は見られていないと考えていい。しかし、どう見ても不審な自分たちを疑い始めるのは遠くないだろう。一刻も早く、この場から早く離れるべきだ。

 

 

「‥‥‥メリー、とりあえず早急に荷物を纏め直しましょう。私の部屋にでも押し込めて、明日にでも大学の部室に持っていけばいいわ」

「了解よ、ここからだと確かに蓮子の家の方が近いものね。一旦はそちらを倉庫にしましょう」

「入り口まで私も荷運びを手伝いますよ。ここで通りがかったのも何かの縁、貴女方を助けるようにという仏様からのお言葉でしょう」

「あ、えっと、ありがとうございます‥‥‥」

 

 

 そう言って作業を始める二人と一人。

 転がっているのは青々とした匂いがする竹筆や笛、著者不明の掛け軸、何に使うか分からない御札などだ。普通の人間ならば、価値を見出すような代物ではないだろう。しかし、この世界にあるモノは客観的な基準だけで全ての価値が決まるわけではない。幻想郷にあったというだけで、この散らばっている品々は秘封倶楽部にとっては掛け替えのない財宝。それを一つ、一つ、思い出を確かめるようにして二人は大切に拾い集めていく。

 静かな軋みをあげる社殿の回廊、外から射し込むオレンジ色の夕日が何故か目に痛かった。ここは幻想郷ではない、元の世界に戻ってきたはずだ。だから命の危険はないし、今夜からは文明に護られた快適な生活が待っているだろう。

 だが、胸の底から湧き上がる感情は喜びよりも寂しさの方が強かった。あんなに刺激的な経験はもう出来ないかもしれないと、虚しさも合わせて心の中を冷やしていく。そんな意気消沈する自分へ硯箱を押し付けてきたのは、唇をきゅっと結んだメリーだった。

 

 

「ほら、部長さん。部室に帰ったら今回の探索についてのレポートを纏めるんでしょ。記憶が薄れる前に全部書き残さないといけないんだから、立ち止まっている暇なんてないわよ」

「うん、そうよね‥‥‥‥‥‥また忙しくなるかしら」

「あと出席日数が足りそうもない講義が一つ、二つ、私の知る限りは三つくらいあったかしら。落第回避のためのレポートと教授への言い訳作りも大変そうね?」

「今言うことなの、ソレ!!?」

 

 

 ガツンと迫ってきた現実に打ちのめされる。

 優しい言葉による励ましだけでなく、気の置けない友人はお尻を蹴り上げることも忘れない。頭を撫でられたと思ったら、そのまま電柱に頭をぶつけた気分だった。ちなみにメリーは一ヶ月そこら休んでいたところで単位習得に支障はない。

 遅刻癖のせいで授業を定期的にすっぽかす自分とは、全く置かれている状況が違うのである。せっかくの余韻を吹き飛ばしてくれた天狗風ならぬメリー風、蓮子はどんよりと友人を見つめるしかできなかった。

 そうこうしている間に、散らかっていた品々は綺麗に整頓されていく。幻想郷から送り返されたばかりで、まともに頭の回らなかった蓮子とメリー。二人に代わって結局、殆どは男性が片付けてしまった。

 

 

「‥‥‥これで全部でしょうか、割れ物が無かったので思ったより早かったですね」

「ありがとうございます‥‥‥‥えっと、私が蓮子でこっちはメリーって言います、そちらのお名前は?」

「そうですね、私は彗焔(すいえん)と呼ばれて『いた』者です。覚えていてもらえるなら光栄ですよ。また、いつの日にかお会いしましょう」

 

 

 一礼した後、振り向くことなく去っていく彗焔と名乗った男性。出口とは反対側にゆっくりと歩く姿は、やがて黄昏の光に溶けるように消えていった。そして、程なくして男性が去った方角から観光客が次々と通路へと溢れてくる。観光バスでも到着したのだろう、風変わりな男とのやり取りは騒然とした空気に飲まれて二人の記憶から薄れていった。

 

 

「まずは大学の研究室に荷物を置いて来ないとね。今日って何曜日なのかしら、蓮子?」

「うーん、まだ星が見える時間じゃないのよねぇ。端末は充電が切れてるし、向こうに跳ばされてからの日数も計算してなかったから今日が何曜日かなんてお手上げよ」

「それなら、せめて日曜じゃないことを祈りましょうか」

 

 

 他愛ない会話を交わしながら歩き始める少女たち。

 幻想郷では沈みかけた夕日は怪異の刻を告げる鐘であったが、ここでは夜もまた人間の時間である。昼も夜も活動する人々は闇を恐れなくなって久しい、それが異常なことだと改めて気づけたことも大きな発見なのだろう。きっとしばらくは、ちょっとしたことであの紅白の幼巫女と過ごした日々を振り返る。

 やがて思い出は記憶になり、記憶は記録になる。段々と色褪せていく写真のように、この一ヶ月の出来事を懐かしく思う日もやって来る。また幻想郷に足を踏み入れる機会があるのかは分からない、今回の訪問もひょっとしたら『本来はあり得なかった』奇跡なのかもしれない。

 

 

「ねぇ、メリー」

「なに、蓮子」

 

 

 だからこそ思うのだ。

 数式で世界の大部分を説明できるようになった時代、怪異と謎が枯れ果てた時代。そんな中で秘められたモノ、封じられたモノを探そうとした自分たちの活動は決して間違っていなかった。まだ世界には説明できないことで満ちている。セピア色に薄れていく記憶に寄り添いながら、それだけで自分たちは秘封倶楽部らしく生きていけるのだ。

 

 

「楽しかったわね、幻想郷!」

「ええ、とっても!」

 

 

 南北にのびる内陣の柱間は三十三、天龍八部の聖なる領域。こちらの時間で数えるならば一ヶ月ぶりに、少女たちは建物の外へと踏み出した。夕暮れの影は静かに木々を染め上げ、焼け落ちるような光が枝々から零れ落ちていく。それは一つの冒険の終わりを告げるかのように、一つの物語の幕が引かれたかのように赤く紅く。

 

 

 この半年後、二人は幻想郷についての情報を纏め上げて一冊の本を作ることになる。『燕石博物誌』と名付けられた書物が再び一波乱を引き起こすのだが、それはまた別のお話。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 太陽の残滓が沈む山際。

 蝋燭(ろうそく)の火が消えるようにして、地平線へと日輪が没する頃。すでに人間の住む都市は灯りを振り撒き、訪れる闇夜を追い払うかのごとくに光を垂れ流していた。かつて多くの妖怪たちで賑わった京の都も随分と様変わりしてしまったものだと苦笑してしまう。神でなく、月人ですらない者たちが光の都を創り出すなど己の生前では考えられなかった偉業である。

 

 

「願わくば、その叡智(えいち)が彼ら自身を焼き尽くすことの無きように。年若き少女たちの未来と合わせて、人ならぬ我が身で人のように祈るとしましょう」

 

 

 まるで神仏に対するように、先程の男は合掌していた。

 すでに拝観時間は過ぎてしまっており、正門は閉ざされている。脇を通り過ぎるのは寺の関係者たちと、清掃を行う雇われの業者たち。その誰一人として彼を気にかけた様子はない。見えない何かに相対するように、人の子たちは男性の存在を認識することなく己の作業に勤しんでいた。

 そんな人々を慈しむように瞳を細めた後、男は腕を延ばして大きく背伸びをした。ようやく溜まっていた仕事を片付けたかのような仕草、夕日に延びる影は穏やかなものだった。しばらくすると人影が一つだけ、他の者とは違うゆったりとした歩みで近づいてくるのを男は柔らかな笑みで迎える。

 

 

「ああ、色々とお願いを聞いてもらい感謝の言葉もありません。何も持ち合わせていない身の上ではありますが、この御礼はいずれ必ず」

「お気遣いなさらず、今回のことは私にも関わりのあることです。利害が一致したから手を携えたまでであって、我らの間に貸し借りはありません」

「くくっ、それは良かった。実のところ、今回の報酬に何を要求されるのかと戦々恐々としておりました故。改めて肩の荷が降りた気分ですよ、八雲殿」

 

 

 日の光よりも眩しき黄金の色。

 出で立ちは何処か懐かしさを感じさせる大陸の導師服。八雲と呼ばれた女性、その瞳孔の奥には知的な輝きが灯っていた。背後に揺れる空間の歪みは彼女が彼女であることの証であり、特異な妖怪としての現れでもある。幻想郷において『スキマの賢者』して名を連ねる大妖怪がそこにいた。

 あの二人と出会わないように時間をズラして来たのだろう、少しだけ居心地が悪そうに周囲を見回している。そして、少女たちがいないことを確認すると安心したように賢者は溜息を漏らした。

 

 

「やれやれ、我らの目的はコレで果たされたと思っていいのでしょうか。どうにも私には不安が残ります、彗焔(すいえん)殿」

「これ以上は閻魔様との約定に反してしまいましょう。心配なさらずとも、貴女の記憶のとおりに八雲と天狗は手を携えて幻想郷を支えていくことでしょう。きっと大丈夫、私は残された者たちを信じております故」

 

 

 (かかと)で地面を叩くこと一度。

 その途端に巻き起こされたのは、現代ではあり得ない妖力の奔流。コインの裏と表を返すかのように、夕暮れ時の薄暗がりが神々しい光で染め直されていく。たちまち二人を除いて境内から人影は消え失せ、まるで夢に堕ちたかのようにあらゆる喧騒が切り離される。やがて湖のごとく静まり返った空間に現れたのは、もう一つの黄金色の輝きであった。

 相変わらず大した権能だと、スキマの賢者は感心したように眉を持ち上げる。ただの一呼吸で創り出された神域は中々のモノで、こんなものを幻想の薄れた現代世界で構築できる存在は極めて限られる。それは目の前にいる者が、その類まれなる一柱に名を刻む神格であることを証明していた。

 翼の色は日輪のごとく、髪は砂金のように、そして夏空に似た輝きを宿した碧眼をした大天狗。懐かしき大妖怪がそこにいた。

 

 

「白桃橋彗焔、貴方がそう仰るならば私も信じましょう」

「それはそれは‥‥‥‥貴女に信頼してもらえるのならば我が言霊にも、まだ幾ばくかの意味があるのやもしれませんね」

 

 

 暖かな笑みをたたえた男。

 秘封倶楽部が幻想郷へ至るための路を拓き、時間跳躍さえ引き起こした今回の事件における要因の一人。形ばかりの人間の衣を脱ぎ捨てて、白桃橋刑香の父にあたる存在は顕現していた。かつて月の民との戦いで命を落とし、一人娘を残して此岸を去ったはずの半神半妖。失われたはずの霊核は永き時を経て形を取り戻し、自身の領域内でのみ姿を保つことを可能にしていた。半身だけとはいえ、神霊であるが故に結ばれた奇跡である。

 

 

「ところで『懐中時計』は貴女にお返しすれば良いのでしょうか。あまり褒められたことではありませんが、彼女らの荷物から失礼しておきましたので」

「ええ、私が元の持ち主に渡しておきます。なにぶん借り物なもので、万が一にも紛失してしまっては持ち主に申し訳が立ちません」

「四季様は森近殿を通じて、コレを二人に持たせたと仰っていました。あの御方の睨んだとおり、それが無ければ私と貴女でも彼女らの帰路を拓いてやることは不可能だったでしょう」

 

 

 彗焔から手渡された銀時計。

 年月を経ながらも未だに時を刻む文字盤、そこには何度も修理された痕跡が刻まれていた。かつての持ち主が肌見放さず身につけていた影響なのか、微かではあるが『時間に干渉する能力』を秘めたマジックアイテム。幼き夜の王、レミリアが今は何よりも大切にしているモノだ。それこそ本来ならば、他人へ託すことなど絶対にあり得なかっただろう。

 

 

「とても良い品です。材質も意匠も、そして込められた想いもまた尊い。よほど大切に作られ、大切に扱われてきたのでしょう」

「『賢者の一人』が、かつて己の従者へと送ったものです。その者が亡くなってからは常に手元に置いていたそうですが、今回は無理を言って借り受けました」

「紅魔の賢者、ここまで噂は届いています。あの娘と良い関係を築いてくれた御方だとか」

 

 

 どこか寂しげに目を細める彗焔。

 夏空を思わせる碧眼は、記憶にある白い少女のモノと同じ色。穏やかな雰囲気や敵意を微塵も感じさせない物腰は、やはり二人が親子なのだとスキマの賢者に実感させていた。

 

 

「しかし彗焔殿、貴方は‥‥‥‥貴方は『あの子』というばかりで、刑香の名前を口にしないのですね」

「ははっ‥‥‥‥やはり八雲殿にはお見通しでしたか。そうですね、あの子の名であることは分かっています。‥‥‥‥ですが私とあの子の母は、我が子に名前すら付けてやれなかった。その名を口にすることで当たり前の事実を自覚させられるのが、少しばかり苦しいのです」

「彗焔殿‥‥‥‥」

 

 

 考えてみれば当たり前のことだ。

 自らの娘の顔を見ることなく、そして一度たりとも抱き上げることなく、名前を付けてやることも出来なかった。生まれる前から我が子を愛していた親にとって、それはどれ程の仕打ちであるのだろうか。そして、その原因の一つとなったのは己である。

 八雲紫が引き起こした月面戦争、地上の妖怪たちを焚きつけて月へと攻め入った事件が全ての始まり。幻想郷に溢れた強者たちの矛を新たな地へと向け、スキマ妖怪は月の都を奪うように唆した。しかし鳥が水の中で無力なように、魚が空で呼吸できぬように、妖怪たちが月の守護者に勝てる道理はなく。多くが討ち取られ、それを機にして現在の幻想郷に至る勢力図が創られたのだ。それも、八雲紫が望んだ通りのバランスで。

 

 

「恨んでおりましょう、我ら八雲のことを」

「さて、恨んでないと言えば嘘になってしまう。この身は仏の眷属の一柱であっても、仏ではありませぬ故。誰かを憎み、何かに憤怒するという感情もまた健在なのですから」

 

 

 うっすらと空に浮かぶ影。

 金色の鴉天狗の背後に見える月が目に痛い。あれは初めから敗北ありき、勝つ気など毛頭ない戦争であった。障害となる妖怪を他者に排除させる、そのために月の民すら八雲は利用したのである。もし本気で勝つつもりであったなら、それなりの『戦術』を立てていただろう。月の守護者たちにも、決定的な弱点の一つくらいは存在しているのだから。

 その片棒を担いだ己が、目の前の御仁と今更どんな言葉を交わせようか。彗焔の姿が薄れ始めたのは、スキマの賢者が返答を考えあぐねていた時であった。

 

 

「‥‥‥‥ですので、その問いには答えず逝きましょう。貴女たちがいなければ、あの子の生きる幻想郷はそもそも存在しなかったかもしれません。恨み言を口にするのもまた、心苦しい」

「‥‥‥‥‥貴方は幻想郷に来るつもりはなかったのですか。その気になれば、天魔として返り咲くことも可能であったでしょう」

「この身は、この夕暮れと同じく。燃え残った残滓に過ぎず、過去の幻影そのものです。せいぜい我が娘の足元を照らす光になれれば‥‥‥いえ、私はたった一度でいいから刑香の父親らしいことを‥‥‥‥」

 

 

 言葉が紡がれたのは、そこまでだった。

 風に吹かれた砂絵のように、その神霊は形を失っていく。秘封倶楽部を呼び戻すための起点、天魔との繋がりを利用した境界点。その役割を果たしたことで蓄えていた妖力は底をつき、霊格を保っていた器が消えかけているのだろう。少しだけ名残惜しそうに、しかし満足したような表情で彗焔は夏空色の瞳を閉じた。

 そして地平線から射し込む日の光が途切れる頃には、その姿は影も形も無くなっていた。(おもむ)ろに西の空から吹き抜けた風に帽子を飛ばされ、スキマの賢者は空を見る。夕闇に吸い込まれていく真っ白な布地を、金色の瞳は黙って見つめていた。

 

 

「ーーー結局、貴方はどこまでもアイツの父親で在りたかったのですね‥‥‥‥どうか彼の想いと私の償いがあの頃のお前に届くように祈ろう、刑香」

 

 

 夕暮れの過ぎた境内に揺れる九本の尻尾。

 蝋燭を吹き消したように暗くなった境内には、弾き出されていた人々の賑わいが戻っていた。それらから見つかる前に人間へと化け、賢者は灰色の砂利を踏みしめて裏門へと歩き出す。あれなら素直に非難された方が幾ばくか気が楽になっただろう。しかし金色の鴉天狗が浮かべた最期の表情は、惚れ惚れするほど美しいものだった。だから、きっとこれで良かったのだ。

 遠い記憶にある友の顔を思い出して『スキマの賢者』、八雲藍は微笑んだ。

 

 


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