その鴉天狗は白かった   作:ドスみかん

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第六十三話:浄頗梨審判

 

 

 花煙る空に覆われた妖怪の山。

 雪風の遠ざかった山麓(さんろく)に染みていくのは、清らかな雪解け水。混じりなく透き通る水流は小川をやがて作り出し、幻想郷を潤すことだろう。赤子のような流れが山肌を下り、若草に彩られた野を横切っていく。たまに透明な水泡が弾けては、砕けた氷のような輝きを持って寒々とした季節の名残を伝えていた。

 

 広がる林は薄暗く、樹木のスキマから降り注ぐ陽光だけがヒラヒラと踊っている幻想の山。砕けた硝子(がらす)のような光が樹木に遊ぶ中、どこからともなく幼い音色が木霊した。

 

 

「ねぇねぇ、知ってる?」

 

 

 旅人がいたなら立ち止まっていただろう。

 辺りを見回したとしても影はなく、過ぎ去る風にぶつかって雪のごとく舞い散るのは童女たちの(ささや)く声。その正体は花を咲かせた樹木の上、暖かな春に誘われて寝床から起き出してきた妖精たちであった。碌でもないイタズラを仕掛けられることもあるのだが、それでも彼女らの姿は山の雰囲気を和らげる。人でも妖怪でもない自然の愛し子たちは、新緑の色をした森の光を一身に浴びていた。

 

 

「私たちが眠っている間に天狗たちに動きがあったらしいの、なんでも大天狗が遂に出揃ったらしいわ」

「へぇ、何だかんだで随分とかかったね。前任のお爺ちゃん達が亡くなってから、何度も季節が変わっちゃってるわ」

「みんなでジャンケンすれば済むのにねぇ」

 

 

 妖精たちの知性は高くなく、天狗どころか人間にすら及ばない。この山を住処としている者もいるのだが、天狗の動向にあまり関心は無さそうだ。どのみち幻想郷にいる限りは『死』とは無縁の少女たちである。天狗から襲われても命を落とすことはなく、白い鴉天狗のチカラを持ってしても寿命を延ばすことはできない。自然体のまま生きる彼女たちにとって全ては、人里の童たちが(まり)遊びをするのと変わらないのだ。

 今度は青い妖精が仲間たちの輪に加わった。

 

 

「なになに、何の話?」

 

「あ、チルノちゃんだ!」

「チルノちゃんはおバカだから、こういう話は分かんないと思う」

「だよねー、チルノちゃんだもの」

 

「なんでアタイだけ!?」

 

 

 この山でまだ雪の残る場所がある。

 人の手届かぬ幽谷の彼方、この地に住まう妖精でさえ触れられぬ天狗の隠れ里。高い標高と幾重もの妖術で守られているおかげで、正確な位置を知るのは同族ぐらいのもの。勇儀の手によって破られた結界の修復は済まされてしまっているので、すでに八雲紫でさえ簡単に侵入することはできない。だからこそ、天狗ほどではないがゴシップ好きの妖精たちは口々に噂するのだ。

 やれ、山のような大男が選ばれただの、鷹みたいな顔をした女天狗に違いないだの。尾ひれや胸びれは当たり前、時にはトビウオの翼さえ貼り付けられて話は軽やかに飛躍していく。

 

 

「きっと新しい大天狗は、古道具屋の店主みたいな理屈っぽい奴よ。たまに鼻高々だし、むしろアイツが大天狗?」

「それならまだ良いけど、花の妖怪みたいに私たちを容赦なく吹き飛ばす奴だったら嫌だなぁ。もしアイツが大天狗になったら、あれの名前は天狗ビームになるの?」

「ふ、ふーんだ、みんな遅れてるわね。アタイは誰が大天狗になったのか知ってるんだから!」

 

 

 雪解けの水に遊ぶ氷精の足先。

 すると冬が息を吹き替えしたかのように、水は真っ白な華を咲かせながら凍りついていった。真っ青なワンピースに、空に透けるような青髪と美しい氷の羽根。自称『最強』の妖精であるチルノは、ついつい悔しくてでまかせを口にしまっていた。

 

 

「えっ、チルノちゃん知ってるの!?」

「夏日で溶けかけた氷みたいな頭だと思ってたのに、実は物知りだったんだ!」

 

 

 話の流れからすれば嘘と分かりそうなもの。

 しかしそこは妖精たち、たちまち綻びてしまいそうな氷精の虚勢を頭から信じていた。春の陽射しに似たキラキラとした目を向けられて、チルノは「やってしまった」と内心で頭を抱える。何気にまたヒドいことを言われているのだが、そちらに反応をする余裕はなかった。

 

 

「そ、そうっ、今朝、白狼天狗たちが立ち話をしているのを盗み聞きしてやったのよ!」

「へぇー、それで誰が選ばれたの?」

「勿体ぶらないで教えてよ、チルノちゃん!」

 

 

 そんな重要なことを、白狼たちが道端で話すはずはない。しかし妖精たちに天狗の機微は分からない。にわかに騒がしくなった仲間の妖精たちに、チルノは居心地の悪さを存分に感じさせられることになった。もちろん天狗の内部事情のことなど知っているわけもなく、むしろ大天狗がどうのというのは今日初めて耳にしたくらいだ。ここで引くわけにもいかず、チルノは続きを紡いでいく。

 

 

「き、聞いて驚くわよ。流石のアタイだって、初めは信じられない気持ちで胸が一杯だったんだから」

 

 

 ともかく適当な名前を出して誤魔化そう。

 どうせ明日には忘れている、それが氷精の導いた答えであった。皮肉なことに妖精の記憶力がどの程度のモノなのかは、他ならぬチルノ自身が知っている。こんな他愛もない話は、これから霧の湖にいって水遊びでもすれば全員の頭から流れ落ちていくはずだ。

 

 

「で、新しい大天狗は誰なの?」

「あ、それはね……げ、ちょっと待ってね」

 

 

 だが、ここで困ったことが起きた。

 自分には天狗の知り合いが殆どいないのだ。そもそも天狗というのは誇り高い妖怪で、同時に高慢な者が少なくない。どこにでもいる妖精に名乗ったり、まともに言葉を交わそうする変わり者は珍しい。子供のように遊び回る自分たちを鼻で笑って飛び去るか、邪魔なら葉団扇で吹き飛ばしてくる。せめて一羽くらいは名前を言っておかないと、この場を乗り切れない。

 その時、ふと頭をよぎったのは燃えるような紅葉の輝きの中に浮かんでいた純白の双翼だった。ずっと前に人里で拾った新聞に載っていた写真を、氷精の少女は思い出したのだ。

 

 

「………そう、あの白いヤツ。白い翼の天狗が選ばれたって言ってたわ!」

 

 

 無意識に声には力が入っていた。

 その拍子に脚を浸けていた小さな水流が凍りつく、気持ちが昂ぶっていたからだろう。透明な氷の華は小さな草花を閉じ込めて、色付きの硝子細工のように艶めいていた。ここに趣きの分かる人間か妖怪でもいれば、一時にしろ目を奪われていたかもしれない。だが、そこは妖精同士である。

 

 

「えー、それってあの弱っちそうな鴉天狗でしょ」

「山の妖怪に襲われても逃げてばっかりだったよ。それなら、まだ古道具屋の……リンリンだっけ、の方が信じられるわ」

「水遊びしてるところを見たことあるけど、妖力もそこまで無いし身体も貧相だったしぃ。チルノちゃん、仲間外れにされて悔しいから嘘付いてるんじゃないの?」

「ち、違うもん!」

 

 

 空に架かる虹も水面を跳ねる光も、彼女たちの心を惑わせることはない。自然の一部であるが故に、いちいち何かを思うことがないのだろう。良くも悪くも妖精ほど純真な存在は幻想郷にいない。木々の上で少女たちは、無邪気に氷精を嘲笑っている。

 

 こんなことなら、初めから白状しておけば良かった。

 

 それとも白いのではなく、一緒にいる黒い方の天狗を引き合いに出しておけば良かったのだろうか。しかし黒い鴉天狗なんてのは当たり前で、咄嗟に特徴が思い浮かぶのが白い方だったのだ。それがまさか、妖精からここまで評価が低いとは思ってもみなかった。これはもう謝ってしまった方がいいかもしれない。

 しかし騒がしい『何か』が樹木の上、その先に広がる春の空から狙い澄ましたかのように降ってきたのは、その瞬間だった。

 

 

「……ぎゃうっ!?」

「ち、チルノちゃん!?」

 

 

 枝をへし折る音が頭上を叩いたかと思えば、チルノは何者かに下敷きにされていた。その時にカエルが潰されたような悲鳴を上げてしまい、周りの妖精たちの笑みがますます深いモノになっていく。抗議の声をあげようとしても、肺が圧迫されていて言葉になりそうもない。そんなチルノには気がつかず、妖精をお尻の下に敷いた『何者』かは頭を押さえながら口を開いた。

 

 

「い、たたっ……何よ、二人がかりなんだから少しくらい手加減してくれてもいいじゃない」

「む、ぐーー!」

「って、チルノじゃない。ごめんなさい、すぐ退くわ」

 

 

 すぐに助け起こされるチルノ。

 そこで初めて、自分の上から降ってきた者が誰であったのかを知ることになった。森の光を受けて、いつか新聞で見た写真とは印象の違う純白の翼がそこにある。藍色のガラスを溶かして、丸く固めたような碧眼がチルノを見つめていた。似ているようで自分とは違う色に、妙な気恥ずかしさを感じて目を背けてしまう。

 

 

「べ、別に、これくらいアタイは何でも……」

「ちょっと刑香、アレくらいは回避してくれないと文とは勝負にもならないわよ!」

「ーーー刑香さまっ、お怪我はありませんか!?」

 

 

 チルノの言葉を遮った二つの影。

 凍りついていた水たまりを踏み砕き、突き刺すような着地を決めた一本歯下駄。二人の天狗がチルノたちを挟むような位置で降り立っていた。周囲にいた仲間の妖精たちは事態を見守るために木々の影へと身を潜め、急に三人の天狗に囲まれる形になった状況。人間なら震え上がり、妖怪でも緊張の一つでもしようもの。しかしチルノは臆することもなく、目の前にいる白い鴉天狗の袖を掴んでいた。

 

 

「ねぇねぇ、白いの。どうして空から降ってきたのよ?」

「白いのって……まあ、いいか。ちょっと何百年ぶりかの『特訓』をしてるところよ。どうにも畑違い、いや『空違い』の勝負をする必要があるみたいだから」

「……ふーん?」

 

 

 よく分からなかった。

 空は空であって、頭の上に広がっているモノ以外にないはずだ。昼と夜なら光の色は変わるだろうが、この鴉天狗が言っているのはそういうことではない気がする。そこらの人間なら何気なく聞き流していたかもしれない刑香の言葉のはずだが、氷の妖精には妙に引っかかっていた。しかし、詳しく尋ねようとしたところで椛が代わりに口を開く。

 

 

「刑香さま、残念ですがお時間です。間もなく会同が始まりますので、里までご帰還ください」

「もうそんな時間なの?」

「ええ、夜明け前からよくぞここまで続けたものです。博麗神社には射命丸さまが行ってくださりましたし、あとは夜を待てば良いかと」

 

 

 太陽の位置を見極める白狼の目は鋭い。少しだけ不満そうな顔をした刑香だったが、やがて諦めた様子で首を縦に振る。

 

 

「仕方ないわね、まだ完成には程遠いけど文なら上手く合わせてくれるでしょ。二人とも付き合ってくれてありがと」

「はいはい、これくらいでお礼を言ってたらキリがないわよ。せっかくなんだから、刑香はもう少し偉そうにしてみれば?」

「少なくともアンタたちには、借りが多すぎて出来そうもないわ。だいたい、そういうのが嫌だから『命令』じゃなくて『お願い』したのよ」

「ま、刑香が『らしく』するなんて想像も出来ないけどさ。……ひとまず特訓は終わり、これから里に帰るなら格好だけでもソレっぽくしなさいな」

 

 

 会話についていけず首をひねるチルノ。

 そんな氷精の青髪を軽く撫でながら、刑香ははたてから丁寧に折り畳んだ布地を受け取った。装束に付いていた枝や葉を払い落とし、純白の髪を自らが起こした風で洗う。そして刑香が『それ』を羽織ったところで、茶髪の少女はからかうように声をかけた。

 

 

 

 

「ーーーさっさと戻るわよ、大天狗さま」

 

 

 

 

 たなびく長老家の家紋。

 刑香の天狗装束は土埃で汚れていたが、羽織がそれを覆い隠す。妖怪の時間である夜の闇と、人の暮らす昼の光を合わせたような紫の羽織。スミレの花よりも濃いソレは、相容れぬモノ同士を繋ぐような色であった。チルノは知る由もないが、深い紫は天魔と八雲紫の因縁を表している。それも、もはや過去のモノとなりつつあることも妖精たちが知ることはないだろう。

 

 

「だい、てんぐ?」

「……色々と事情があってね。やらなきゃいけないことがあるから、そのために上役の席を一つ頂戴することにしたのよ」

「ふーん?」

 

 

 やはり意味は分からなかった。

 組織においての権力争いや、権謀術数などは陽気な妖精には未来永劫に無縁なモノだ。背負う羽根の色と同じくらいに純粋な心を持つ氷の少女は、首を傾げることしかできない。少し考えようともしたが、答えに辿り着けそうもないので諦めることにした。それでもこれだけは伝えておこうと思ったのは、その純真さ故だろう。

 複雑な表情をしていた刑香に、チルノは笑みを向けた。

 

 

「良かったじゃない、白いの」

 

 

 ばさりと広げられた純白の翼。

 驚いたように瞳を広げた白い少女から答えが返ってきたのは、数秒の空白を挟んだ後だった。

 

 

「……そうね、良かったと思えるように頑張ってみようかな。少しだけ迷いもあったんだけど、アンタのおかげで何だか吹っ切れた気がするわ。ありがと、チルノ」

 

 

 そのやり取りを最後にして、三人の天狗たちは離れていくことになる。刑香の言葉に込められた意思をチルノが知ることはやはり無いだろうし、もう思い出すこともないだろう。それよりも草影から飛び出してきた仲間たちから散々に詰め寄られることの方が氷の少女には大事なことだったのだから。

 

 

◇◇◇

 

 

「ええ、そうです。白桃橋刑香は無事に大天狗として選ばれました。これならば、もう二度と山を追い出されることはないでしょう」

 

 

 さとりは『その人物』のことが苦手である。

 天魔のように嫌味しかない面倒な相手でも、星熊勇儀のように嫌味の通じぬ面倒くさい相手だからというわけでもない。苦手としているのは、その能力がまさに覚妖怪にとって『天敵』であるからだ。

 

 

「天狗の長老は己の過去と向き合う覚悟を決めましたか。結果として、幻想郷そのものも悪くない方向へ向かいつつある。あの鴉天狗が橋渡しとなったなら、天狗と八雲紫の確執が解ける日も来るでしょう」

「まあ、そのあたりの事情は私には与り知らぬところですが……」

「そのような言い方は感心しません。如何に地底で生きる妖怪といっても、幻想郷の行く末は無関係ではない」

 

 

 無機質な声が壁に反射する。

 ガラス細工の人形が話しているかのごとく、まったく感情の乗らぬ透き通った空気の波。美しい声であったが、さとりにとっては何よりも恐ろしい響きであった。本来なら言葉とは自らの心を映すモノなのだが、この存在から感情という概念を読み取ったことは一度もない。妖怪であろうと人間であろうと、今まで古明地さとりの瞳を逃れられる心を持つ者など存在しなかった。

 ただ、目の前にいる一人を除いては。

 

 

「ともかくご苦労でした、地霊殿の主」

「いえ、仕事ですからね……お気になさらず、四季映姫・ヤマザナドゥ様」

 

 

 ここは魂の流れ着く場所。

 命の灯火が揺らめく旅路を辿りたどり、その最期を迎えて初めて至る輪廻の結び目。死神の鎌が導き、死出の舟が繋げる生命の終わりの地である。冷え冷えとする大気によって肌から生気を引き剥がされ、さとりはその感覚に身体を震えわせた。旧地獄に住む妖怪である自分でさえ、好き好んで訪れたい場所ではない。それもそのはずで、ここは『是非曲直庁(ぜひきょくちょくちょう)』という裁判所であり地獄への入り口なのだから。

 

 

「そんなに緊張せずとも、アナタを地獄に落としはしません。少なくとも、今はまだその時ではない」

「いずれは地獄行きということじゃないですか!? 人間を襲うこともなく、私は慎ましく生きているつもりなのですが」

「外界との接触を断ち、ペットたちと屋敷に閉じこもる生活を善行とは呼べないでしょう。そもそも人間を襲うのは妖怪の視点から見れば『善行』です。その逆を悪行というつもりはありませんが、どちらでもない怠惰自体が罪なのは疑いようもない」

 

 

 言い返したいことは山ほどあるが、ここは口を噤むしかない。この少女と言い争いをすることほど、無益なことは退廃的な地底にすら無い。サードアイを持たずして全ての嘘を見破り、何者にも干渉されぬ絶対的な精神。地獄の裁判長相手に、あらゆる反論は無意味に過ぎる。交渉という交渉は通じず、決して意見を曲げることがないのだ。

 この幻想郷を担当する閻魔王、四季映姫・ヤマザナドゥがそこにいる。

 

 

「はぁ……貴女との会話は得難いモノではあるのですが疲れます。こんなことなら無理をしてでも、レミリアと一緒に博麗神社に行くべきでした」

「後の祭りですね、諦めなさい」

 

 

 黒塗りの執務机と椅子が軋んだ。

 目の前で悠然と座っているだけだが、放たれている気配は八雲紫や天魔すら凌いでいる。目を合わせることすらツライ、ひたすら床を見つめていたい気分だ。部屋を見まわしてみても、家具らしい家具は机と椅子を除けば小さな棚くらい。その上にはビロードの髪をした小柄な人形が飾られているが、アレはさとりの部屋に置いてあるモノと同じ通信用である。目線をやったところで、面白く感じられるはずもなかった。

 

 

「話さなければならないことが山のようにあります。せっかくの機会ですから聞いていきなさい。そう、アナタは他者への興味が薄すぎる」

 

 

 よし、逃げようと心に決めた。

 ここに来れば必ずといっていいほど、ありがたい話が待っている。彼岸からの土産だと言わんばかりに、延々と現世での行いについて閻魔から説教されるのだ。金箔に彩られた悔悟の棒は主人のやる気に反応したのか、活き活きと輝いている。昔は使い捨ての木簡だったが、再利用が出来るようにと幾分か丈夫になったソレが憎らしく感じる。

 それが掲げられた瞬間、さとりは弾かれるように椅子から立ち上がった。

 

 

「その話はまた後日に伺います。今日は急いで紅魔館まで戻らなければなりませんので、申し訳ありませんが失礼します」

「どうやら嘘ではないようですね、ならば気をつけて帰りなさい。小町に舟を用意させてあります」

「……お気遣い感謝します」

 

 

 思ったより簡単に開放されたことに、若干の違和感を覚えつつ地霊殿の主は閻魔へと一礼する。そして、この部屋からさっさとお暇するために足早に歩き出した。だが『これだけ』は伝えておこうと、ドアに手を掛けてから振り向くことにする。

 

 

「あまり『こちら側』に干渉されるのは、閻魔として好ましくないのでは?」

「……さて、どの話のことでしょうか」

「全てですよ。白桃橋刑香が八雲紫に勝利できたのは、外部からの干渉があったからです。そして、それは同時に現れた外からの迷い人が関係しているのでしょう。長い付き合いです、心を読めずとも私に隠せるとお思いでしたか?」

 

 

 会話はそれっきりだった。

 さとりが去った後に残されたのは微かな妖気だけ。あとは時計が針を打つ音ばかりが部屋に満ちている。多忙なはずの閻魔は何をするでもなく、客人の出ていったドアを静かに見つめていた。深い森に湧く泉のように、澄み切った光をした瞳には、生者には映らぬ何かが揺らめいているようだ。時計の針がたっぷりと三周ほどしてから、ゆったりとした動作で映姫は机の引き出しを開けた。

 

 

「思わぬところで、弱みを握られましたか」

 

 

 取り出されたのは銀色の手鏡。

 彼岸花や桜の花弁が彫られた優美ながらも、不吉な雰囲気を漂わせるソレは『浄頗梨(じょうはり)の鏡』。地獄の裁定者たる閻魔のみが持つとされ、対象となる人物の過去を余さず暴くとされるもの。その表面に映姫が触れると、まるで湖面のような波紋が鏡面を揺らしていく。

 そして、数秒後には鏡は『ある二人組』の姿を鮮やかに映し出していた。

 

 

ーーーねぇねぇ、ここなんだけど鍵が開いてるのよ。ちょっと覗いて写真取るだけなら、住職さんも許してくれるって

ーーー絶対に怒られるから止めた方が……もうっ、大学に苦情を淹れられても知らないわよ!?

 

 

 古めかしい仏閣で騒がしくしている少女たち。

 一人は茶髪に鴉羽色の帽子を被り、真っ白なシャツと黒いスカートを穿いた快活な娘。もう一人は金髪に白のナイトキャップ、そして自らの双眸と同じ色をしたワンピースを身に着けた理知的な娘。どちらも幻想郷の者ではなく外の世界、しかも『ズレた時間軸』に生きる少女たちである。

 もう一度、映姫が鏡面を撫でると二人の姿が溶けるように消えていく。そして次の映像で、少女たちはどしゃ降りの山奥に放り出されていた。

 

 

「まったく、黒幕などと馴れぬ役割を演じるものではありませんね。いずれ幻想郷に迷い込む運命であったとはいえ、宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンには悪いことをしました」

 

 

 また上書きされた鏡の映像。

 そこには博麗神社で向かい合う巫女と、黒い鴉天狗の少女が映されている。口元の動きから何を話しているのか大凡の検討はつく。恐らくは大天狗の件と、今夜に行われるであろう『最初の決闘』についてなのだろう。幼い巫女はその言葉一つ一つに驚いたり笑ったりと、大げさとも思える反応を返していた。

 

 

「さて、これで本来の流れには戻せました。……あとは名付け親の責任を果たさなければなりませんね、アナタは何も覚えてはいないのでしょうが」

 

 

 砂時計をひっくり返したかのように。

 霊夢と文が映っていた映像から、八雲紫と白桃橋刑香との決闘。そして地底でのフランドールと紅美鈴、三羽鴉と星熊勇儀の戦いへと。それが終わると今度は八雲紫がレミリア、文とはたてがフランドールと向かい合っていた。刑香の翼がへし折られる凄惨な映像も、流れていく。

 

 やがて鏡は映し出す、物語の始まりを。

 

 八雲紫と刑香の出会い、更には妖怪の山から追放された日さえ遡る。茨木華扇に気に入られ、伊吹萃香の片目を奪った戦い。果てには姫海棠はたてとの出会いにまで、鏡は辿り着いていた。そして最後に刑香にとっての一番古い親友、射命丸文が映ったところで映像は途切れることとなる。

 

 

「浄玻璃の鏡は、生者を裁くために存在します。本来ならば、対象が生まれてから死ぬまでを暴きだす。しかし、この鴉天狗の場合はーーー」

 

 

 一度は砂嵐となっていた鏡面上。

 そこへと唐突に映り込んだのは映姫と小町、そして『幼い鴉天狗』がこの部屋で戯れている姿であった。これは八雲紫や伊吹萃香でさえ知らないこと、あの純白の少女の始まりを知る者はあまりに少ない。

 

 

 しばらくそれを眺めてから、閻魔はため息をついて鏡を机の中へと仕舞い込むことにした。

 

 

 

 


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