その鴉天狗は白かった   作:ドスみかん

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第六十ニ話:いつか遠い空を思い出す

 

 

 白雲を抱いた新緑の霊峰。

 雪の気配は遠ざかり、外界から見上げる姿はいくらか緑豊かなものとなったようである。(うぐいす)が花咲く枝々を飛び回り、朝ぼらけの空から降り注ぐ陽射しが山道を暖かな色に染めていく早春の頃。

凍える風は地平の彼方に、雪の白雲は空の向こうへと霧散した。獣たちが眠りから覚め、まだ寂しさの残る原っぱを駆け巡る。そんな季節の訪れた妖怪の山では、何かを打ち付けるような音が遠く遠く響いていた。

 

 

「おーい、こっちを手伝ってくれんか!」

「人手が足りねえんだ、ちょっと待ってろ!」

 

 

 そこにいたのは頭に手ぬぐいを巻いた者たち。

 氷雪が解けた地面を踏みしめ、男たちは緩んだ足場に気をつけながら斧を振りかぶっていた。生命力に溢れた木々は冬を越せども雄大で、刃を弾き返さんばかりに強靭である。汗を拭っては竹筒に入った水で喉を潤し、少しずつ少しずつ切り込みを深くしていく。ここ数ヶ月で鈍ってしまった身体を恨めしく思いながら、彼らは作業へ没頭していた。

 ようやく大樹が傾いたのは、作業を始めてから半刻が過ぎた頃である。だが職人としての勘が鈍っていたのだろう、思わぬ方向へと樹木は倒れ込んでいった。

 

 

「お、おいっ、お嬢ちゃん危ねえぞ!」

 

 

 景気良い音を立てて迫っていく影。

 その真下にいたのは銀色の髪をした少女だった。悲鳴のような男たちの声に反応して、娘は自身の頭上をぼんやりと見上げる。もし下敷きにでもなれば、死は免れないだろう。しかし少女は自らに直面した危機を認識すると、何でもないかのように軽い跳躍で飛び退いた。

まさに紙一重、袖をかすめる距離で通り過ぎた巨木が地面とぶつかり轟音を響かせる。それは単なる人間の枠に収まらぬほどに、あまりにも命知らずな対応であった。

 

 

「だ、大丈夫かよ!!?」

「問題ないよ、これくらいじゃ私は死ねないから」

 

 

 無事だった少女に男たちはますます心配そうな声をあげたが、当の本人はどこ吹く風である。何でもないことのように伸びをしながら、友人である寺子屋の教師へと笑顔で振り向いていた。

 

 

「これで七本目だね、慧音」

「ああ、お疲れ。急にこんなことを頼んでしまって済まなかったな」

「良いって、居候させてもらってるんだからさ。たまには恩返しもしないとね」

 

 

 たき火のように赤い瞳が印象深い少女。

 数々の護符が施された衣服と、見た目にそぐわぬ肝の座り方が浮世離れした雰囲気を手放さない。草木の香る山風になびくのは、癖のない実直な銀の髪。そして竹を割ったような快活さと、どこか孤高な雰囲気が混ざり合って異質さを漂わせている。この者の名前は藤原妹紅(もこう)、慧音の友人にして腕利きの妖怪退治屋であった。

 

 

「思ったより平穏に終わったね。一羽や二羽くらいは襲ってくるかと思ってたんだけど、こっちを見張っているような気配だけで姿も見せやしない。少し前の混乱が嘘のようだよ、何企んでいるんだか」

「しかし、そのおかげで里の者たちも例年通りの暮らしを送れそうだ。こうして山に入れたというだけでも収穫だよ。どういう狙いがあるのかは分からないが、ひとまずは感謝しなくてはな」

「はいはい、慧音はマジメだねぇ」

 

 

 長い髪を鬱陶しそうに纏めていく妹紅。

 もちろんだが木こりで生計を立てているわけではない。慧音の頼みで、ここにいる人間たちを護衛していただけだ。つい最近まで山の支配者である天狗たちの内部抗争により、ここは幻想郷でも随一の危険地帯と化していたのだ。それこそ迂闊に立ち入ろうものなら、自分でさえ帰って来られるか分からなかった。そんな場所に、慧音が里の人間たちを引き連れていくと言ってきた時は耳を疑ったものだ。

 この山が嘘のように静まり返っている現状を肌身で感じてさえ、妹紅はまだ疑い半分であった。ちらりと慧音へと視線を移す。

 

 

 ーーー本日より人間の入山を一部に限り、許可する

 

 

 短い言葉で綴られた天狗からの書簡。

 前触れもなく、それが寺子屋の戸口に捩じ込まれていたらしい。そこには最近の入山禁止の理由、つまりは大天狗たちが亡くなったこと、その後任を決めるためにイザコザが起こっていたことなどが大まかに纏められていた。内部事情を詳しく説明するようなモノでは無かったが、どうして一部の天狗が人間を襲ったのかの理由は最低限ながらも解説されているらしい。

 

 

「……だとしてもさぁ。それだけを頼りにして、慎重派の慧音がここに立ち入るなんて意外だったよ。罠だとは考えなかったの?」

「いや、実は書簡が届いてから何度かは自分で入山してみたんだ。それで山全体が落ち着いていることに気づいてな、中身が嘘ではないと判断した」

「つまり、また一人で無茶したわけだ」

 

 

 呆れたように言葉を紡ぐ妹紅。

 別の場所では、山菜取りを行う者や鳥獣を追いかける猟師の姿もある。それぞれが山を頼りにして生活を営んできた里人たちで、遅れを少しでも取り返そうと奮闘していた。お人好しのハクタク教師は、彼らのために一刻も早く情報の正否を確かめる必要があったのだろう。まったく、毎度毎度心配させられる身にもなって欲しいところである。

 ともかく今のところは、全員の首が繋がったままで帰れそうだ。

 

 

「つい最近にも大怪我したばかりだろ。あの時はスキマ妖怪に『アイツ』が連れ去られたっていうけど、慧音はもう少し自分の命を大事にした方がいい」

「あれは私のせいで引き起こされた事態だった。私が誰よりも解決のために奔走しなければならないのは当然だろう?」

 

 

 さわさわと枝葉が囁きかけてくる。

 ここはまだ人里から程近い距離、天狗の主要な縄張りからは離れた場所にある。千年ぶりに空席となった大天狗の座、それを手に入れようと画策した者たちによる勢力争い。その火種は大きく飛び火してしまい、人間さえ巻き込む山火事となった。ああなってしまっては、例え博麗の巫女であっても解決するのは難しい。そのことが嫌というほど理解できた事件であった。幻想郷の歴史には『異変』として残らない、きっと後世の人々は『些細な出来事』として捉えるだろう。

 しかし紛れもなく、これもまた幻想郷を揺るがす大事件には相違なかった。

 

 

「……そして、それが落ち着いたということは新しい大天狗が決まったということなのだろうな。そんな騒動の中で故郷へと帰ったお前はどうしているんだ、刑香?」

 

 

 虚空へと話しかける慧音。

 こうして持ち帰られた山の恵みは、人々の暮らしに雪解けをもたらしていくだろう。水面に広がった波紋がやがて弱まっていくように、幻想郷もまた元の静けさを取り戻す。青々とした芽吹きの季節が目の前に横たわっている、ようやく雲が晴れたはずなのだ。しかし、慧音は悩ましげに葉影の天を仰いでいる。

 

 

「けーねは、まだアイツのことを気にしてるの?」

「……否定はしない」

「私が聞いた限り、慧音に責任はないよ。スキマの賢者は切れ者だったんだし、遅かれ早かれ同じことになっていた。あの真っ白い鴉天狗もお前のことは恨んでないよ、多分ね」

 

 

 水筒に口を付けつつ妹紅は呟いた。

 目線を合わせることもなく、投げかけられた言葉を慧音の足元に転がしていく。しばらくして残った水を頭からかぶり、退治屋の少女は濡れた服を春風にそよがせる。そして川遊びをしてきた少年のように頭を振るい、その口をもう一度開いた。

 

 

「アイツは長老の孫だったんだろ、それなら他の天狗どもだって手荒には扱えないはずだ。少なくとも酷い目には会っていないと思うけどね」

「だが、身分のある者にはある者なりの苦しみがあるだろう。特に一人だけの孫娘となれば尚更のはずだ。妹紅、お前の生家にも同じような柵(しがらみ)はあったんじゃないか?」

「さあね、そんな昔のことは忘れたよ」

 

 

「おーいっ、先生!」

「こっちは終わった、そろそろ飯にしないか!」

「妹紅さん、こっちに来て湯を沸かしてくれないかい?」

 

 

 気落ちした二人の周りに集まってきた人々。

 つい最近まで暗い表情で塞ぎ込んでいたのだが、すっかり活力を取り戻していた。そんな彼らに笑顔で呼びかけられ、沈みかけた心が押し上げられるのを感じた。心配も後悔も今はよそう、人々の前で無様な姿は見せられない。もう少しだけ頑張ろうと、慧音は人知れず唇を噛み締めていた。そんな時だった、自分と人々との間に妹紅が割り込んできたのは。

 

 

「よしっ、今日の作業はここまでにしようか! まだ山が落ち着いて間もないんだ、あまり長居しない方が懸命だろうさ。私は『死んでも帰れる』けど、アンタたちはそうじゃないだろ?」

 

「そりゃそうか、天狗様に目をつけられる前に帰った方が良さそうってもんか」

「何事も程々が一番ってことさな、死んじまったら元も子もない。飯は帰ってから食うとするかね」

「そういえば刑香ちゃんも最近見ねえなぁ。どうしちまったんだ……」

 

「それじゃあ撤収だ、撤収!」

 

 

 急かすように呼びかけられ道具や荷物を纏めて、人々は帰郷の準備に入っていく。伐り倒した材木は重すぎるので、また明日にでも出直して裁断することになる。今日は足取りも軽く、里まで帰ることができそうだ。ぽかんとした寺子屋教師を置いてけぼりにして、本日の作業はこれまでと相成った。何か言いたそうな慧音の肩を叩いて、妹紅は告げる。

 

 

「昼過ぎから神社で『儀式』があるんだろ。こいつらは私が責任もって送り届けるから、慧音は早めに帰って準備しておきなよ。教え子ではないとはいえ、あの巫女のことだって生徒みたいに思っているんでしょ?」

「……すまないな、感謝する」

 

 

 その心遣いに慧音はせめてもの礼を口にする。

 気にするなと言うように言葉少なく、不老の少女は帰り支度をする人々の輪に混ざっていった。さっぱりとした気質と懐の深さ、そして風来人のような身の軽さが藤原妹紅という少女だ。言っては難だが男として産まれていたなら、さぞや女から淡い想いを向けられていたに違いないと慧音は苦笑する。まあ自分としては、妹紅のそんなところを好ましく思っているのだが。

 

 

「さて、せっかくのお言葉だ。ありがたく頂戴するとしようか」

 

 

 風穏やかにして、雲は高し。

 桃の花弁が舞う初春の頃、幻想の郷は大きな変化を迎えることとなる。一つは人里に多大な影響をもたらす妖怪の山、その支配者たる天狗たちに新たな上役が現れたこと。そしてもう一つは、この小さな世界を支える守り人の役割が幼い少女へと受け継がれることだ。歴史を紡ぐ聖獣はそっと目を閉じる、きっと今日のことは自分の記す物語において最も重要な部分となるのだろうと半ば確信に満ちた思いが胸に染み渡ってきていた。

 

 

 もう一つの継承が、博麗神社にて行われる。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 幻想郷は大別して『人』と『人ならざる者』によって成り立つ世界だ。

 もちろん、ここでいう『人ならざる』とは動物や虫を指しているわけではない。それは古来より伝えられ、現代においては消滅しかけている神話や伝承の化身たち。つまりは妖怪や妖精、或いは何らかの信仰で神と祀られる超常の存在を指すのである。人々から畏れられては敬われ、その営みには必ずといって影がチラついていた。昼は人間のモノ、夜は妖怪の領域、それが世界の不文律であったのだ。

 しかし文明の光が闇を照らし出して以降、その影は薄れ続けている。

 

 

「幻想郷はそういった『消えゆく者たち』のための楽園なのよ。ここでは妖怪こそが中心で、あくまでも人間はオマケというのが正しいのかもしれないわ。まあ、それでも人にとって一方に悪いことばっかりじゃないって紫は言ってたけどね」

 

 

 博麗の巫女はそう語る。

 まだ幼い少女には知る由もないが、利点の一つとして外の世界で頻発する人間同士の戦乱が起きないということがある。単純に人数が大規模な争いを生むまでもないということもあるが、それ以上に人外の存在である妖怪や神々が人間を戦いから遠ざけている。摂理の中心が人でなく、その上位に何者かがいるという観念は人間の欲望に一定の制御を与えているのだ。

 

 

「まあ、人間っていうのは強欲な生き物だからな。神様なり妖怪なりの目がないと、たちまちに山も川も喰い尽くすだろうさ。そうして人間同士で争って自滅する、そこまでの流れは確実だ。代表として私が保証してやろう」

「一体いつからアンタが人類代表になったのよ、魔理沙」

 

 

 ため息をつく紅白の少女。

 ここは幻想郷と外界の狭間(はざま)に建つとされる『博麗神社』。特別な場所だらけの幻想郷において更に特別な場所で、妖怪はもちろん人間でさえも必要以上は近づこうとしない。しかし管理者が今代の巫女になってからというもの、すでに一部の妖怪や人間が入り浸っているようであった。ちゃぶ台に腰を下ろしながら、饅頭を口へと放り込む金髪少女に遠慮は見当たらない。

 

 

「それは今日の儀礼に参列してくれる相手に渡すための饅頭よ、この罰当たり」

「自分の分を先に貰っているだけさ。今日は私だって参列者の一人なんだぜ?」

「だから今日はおめかししているわけか」

 

 

 本日は白黒でない魔法使い。癖っぽい髪の毛を丁寧に編み上げて、鮮やかな華の咲いた着物に袖を通した姿は名家の令嬢そのものだった。

 

 

「まあ、そうやってると魔理沙もお嬢様って感じよね。紅魔館の吸血鬼が纏っていた、上流階級の雰囲気ってやつは見当たらないけど」

「こほん……それは心外ですわね。私だってやろうと思えば、いつでも立ち振る舞いくらいは『それらしく』出来ましてよ?」

「口元に食べカスが付いてるわよ、お嬢さま」

「ぷっ、ははっ!」

 

 

 そうして愉快そうにお腹のあたりを押さえて仰向けに寝転ぶ魔理沙。袴が捲れ上がって、健康的な脚が丸見えになるも気にする様子はない。やはりお嬢様を演じている姿より、普段の魔理沙の方が好ましいと霊夢は思った。

 

 

「分かっていると思うけど、今日の参列者は人間だけじゃないわよ。例の決闘法、スペルカードルールの布告のために妖怪がかなり集まる予定なんだから気をつけなさい」

「……神社に妖怪が集まるのか。私は別にいいけど親父は嫌がりそうだな、そういうの」

 

 

 仕方ないことだと肩を竦める霊夢。

 これは妖怪と人間双方の実力者たちが公に認めなければならないのだ。此度の『博麗継承ノ儀』は、現在の幻想郷を変えるために異質なモノになるのは間違いない。

 

 

「参列する妖怪の中には、魔理沙の顔見知りだと紫とレミリアがいるわ。地底はどうだか分からないけど、妖怪の山からは天魔が代表として顔を見せるでしょうね」

「……そいつは残念だな」

「何のことやら」

 

 

 表情には出ていないが、霊夢が落ち込んでいるのは明らかだった。あの雨の日から白い鴉天狗の姿はどこにもない、人里の患者たちや新聞の購読者のところにも訪れてはいないらしい。たまに真っ白な雲を見上げている霊夢はあの純白の翼を今も無意識に探しているのだろう。頑張っていこうとは決めたものの、やはり一抹の寂しさは誤魔化せはしない。魔理沙とて、もし兄代わりの人物がいなくなれば同じように悩むはずだ。

 そんな魔理沙へと霊夢は唐突に口を開く。

 

 

「言っとくけど私は忙しいんだから自分の身は自分で護りなさいよ。アンタみたいに好奇心旺盛で不用心なヤツは妖怪にとって、絶好の獲物なんだから」

「おいおい、いくらなんでも神社で人間が襲われることはないだろ?」

「さあ、どうかしらね。人間もそれなりの人数が集まるから一人くらい消えても、誰がやったのか分からないんじゃない?」

 

 

 それを聞いて口元を引き攣らせる。

 少し考えれば嘘だと分かりそうなものだが、純粋な魔女は信じてしまったらしい。この神社で人攫いなぞしようものなら、即座に霊夢か八雲紫あたりから鉄槌が下されるだろう。そんな危険すぎる橋を渡るくらいなら、妖怪にとっては来るか来ないか分からない外来人でも気長に待っていた方がマシなのだ。

 

 

「そ、そういえばメリーと蓮子はどこ行ったんだ?」

「あの二人は人里よ。ぼちぼち帰れる算段がついたらしいから、このところは思い出作りに勤しんでいるわ」

「へぇー、そうだったのか」

「もうすぐ帰れるって、怪しげな金髪女から聞いたらしいのよ。十中八九、紫だろうから信頼していいんじゃないかしら。アイツはこういうことに関しては、あんまり嘘つかないし」

「……ちょっと寂しくなるな」

 

 

 否定はしないと霊夢は苦笑する。

 紫と刑香が訪れなくなって一ヶ月、その穴を埋め合わせるかのように居候していたのがメリーと蓮子だ。火も起こせないような非常識っぷりに、初めは面倒だったが数日もすれば馴れてしまうもの。今ではそれなりに家事も任せられるし、自分としても二人のいることが日常になりつつある。メリーと蓮子が帰ってしまえば、この神社でまた一人きりの生活を送ることになるだろう。それは、それなりに堪えるかもしれない。

 

 

「まあ、こうして私が毎日のように来てやるから元気だせって」

「で、元気の代わりに私にはお茶を出せってこと?」

「出がらしの茶くらいは期待してもいいだろ?」

「まあ、それでいいならご馳走してあげるわ。本当はお賽銭をもらうところなんだからね……っと、ようやく来たみたいよ」

 

 

 和やかだった空気が断ち切れる。

 神社の木々がざわめき、かすかに妖気の滲んだのを霊夢は見逃さない。巫女としての霊感が確かに来訪者の存在を感じ取っていた。そして魔理沙も少しだけ遅れて妖力を知覚したようで帽子を深く被り直して、その縁を強く握りしめていた。先程の脅しが効いているらしい、少しだけ悪いことをしたかもしれない。やれやれと、幼い巫女は立ち上がる。

 

 

「お、おいっ、霊夢……」

「気にするような妖気じゃないわよ、だいたいが顔見知りみたいだから」

 

 

 焦って止めようとする友人の手を振り払い、霊夢は部屋を後にする。到着した連中はどいつもこいつも知った気配ばかりで、必要以上に身構える必要はどこにもない。

 

 そして玄関まで出ると、視界に入ったのは真っ赤な下駄。

 

 それは見事な朱色に塗られながらも、あちこちが欠け落ちてしまっている古い一本歯下駄。あの別れの日に刑香が寺子屋に置き忘れていったモノだ。足の大きさが合わないので履こうとは思わない。いつか返す時が来ると信じて、奥に仕舞い込まず玄関に置いている。しばらく下駄を見つめてから、深く深呼吸をした霊夢は扉を開け放つ。

 

 

「よく来てくれたわね。博麗の巫女として、とりあえず歓迎するわ」

 

「……繰り返すんだけど、私を呼びたいなら夜にしなさいよ。太陽が出ている空の下で活動するなんて不健康極まりないわ」

「お前には悪いが、私は良い天気になったと思う。目出度い日に雨天なんていうのは格好が付かない。そうだろう、人里の守護者殿?」

「ああ、同感だよ。歴代の巫女たちの継承もこんな晴天の下で行われていることが多かった。きっと長い旅になるだろう。せめて船出くらいは穏やかな方がいい、八雲の式殿」

 

 

 太陽の輝く空は晴天白日。

 およそ妖怪には似つかわしくない光の下、その者たちは一堂に会していた。弱点である日光を防ぐための傘を広げた悪魔羽の少女、黄金の九つ尾が眩い太陽の妖獣、そして青みがかった髪と知的な瞳を持つ人里の守護者。

 全員が見知った顔であり、緊張する必要はどこにもない。

 だが、顔見知りでありながらも険悪な間柄である者が一人だけ。純白と対極にある漆黒の翼、そして空の碧とは真逆の真っ赤な眼光をした老天狗がそこにいた。その姿を見た霊夢は、残念そうに肩を落とす。

 

 

「……何とも、予想の外にある反応をしてくる奴よな。ワシに差し向かえば、恐怖する者も嫌悪を浮かべる者もいる。その反応自体は千差万別であったが、貴様のように『失望』してくるというのは初めてだ」

 

 

 興味深そうに首を傾げる天狗の長老。

 顎を擦りながら、天魔は幼い巫女へと穏やかな眼差しを注いでいた。体格は一ヶ月前より痩せており、左手には漆塗りの杖が握られている。以前までの威圧感が薄まり、幾分か柔らかい雰囲気になったように感じた。それら氷雪に閉ざされていた厳冬が、春の陽射しで溶け始めたかのよう。

 

 

「アヤツはこの儀礼に参加せぬよ、博麗の巫女」

 

 

 ふわりと暖かな風が、石畳に転がっていた小さな花弁たちを舞い上げる。くるくると渦を巻きながら立ち昇っていく薄桃色のそれらを見送りながら、霊夢は真っ白な陽光に目を細めた。

 

 

 ーーーしばらく会わないうちに立派になったわね、霊夢

 

 

 光に羽ばたく白い双翼。

 澄んだ空色の瞳でうっすらと微笑みかけ、名前を呼んでくれる。自分は胸を張って、ここ数週間でどれだけ巫女として成長したのかを語り聞かせている。そんな幻想を、霊夢は夢に見た。

 もしかしたら『山』の代表として、今日この日に神社を訪れてくるかもしれない。会いに来てくれるのではないかと心の奥底で期待していた。しかし現実は甘くないようで、その姿はどこにもない。それはそうだろう、今頃はあちらも忙しくしているに決まっている。今回は『あの鴉天狗』がどうしているのかを、祖父である天魔に尋ねるくらいが丁度いい。

 くるりと来客へと背を向けて、霊夢は先導するように歩き出す。

 

 

「さてと、お日様が苦手なヤツもいることだし本殿に移動しましょうか。そこで紫が来るのを待てばいいわ。それで妖怪側の参加者は全員だろうし、あとは人里の連中が集まるのを待てば……!?」

「おい、霊夢?」

 

 

 鼻先を掠めた花の香りに立ち止まる。

 微かに感じた妖気に引っ張られるように、ふらりと霊夢はあらぬ方向へ一歩を踏み出した。その気配が伝わってきたのは神社の裏手にある森、この香りもそこから流れてきている。向かうべきだと、巫女としての直感が告げていた。

 

 

「っ、ごめん! ちょっとだけ離れるわ!!」

「ちょ、おいっ、霊夢!?」

「悪いけど、一足先に本殿で待ってて!」

 

 

 壊してしまいそうな勢いで戸口を開け、玄関へ飛び込んだ。そして脇に置いてあった一本歯下駄を抱え込んで、再び外へと走り出す。

 

 

「この、妖気は……きっと!」

 

 

 心臓の音がうるさい。

 飛ぶことを忘れるくらい焦っていたので、何度も小石に躓きそうになる。それでも身体は止まらなかった。この下駄を返すだけのはずだ、そんなに長い別れがあったわけでもない。なのに直感が告げているのだ、ここで駆けつけないと自分は必ず後悔すると。

 裏手の森へと突き当り、木々に沿って走る。そして自分を待つように佇んでいた『純白』を見つけたのは数十秒後のことだった。

 しかしーーー。

 

 

「……もう来たんですか、霊夢」

 

 

 そこに目的の鴉天狗の姿は無かった。

 カチカチと嘴を鳴らしながら、その少女の掌からクルミを食べる白いカラス。何度か目にしたことがある刑香の使い魔がそこにいた。妖怪の世界において、主従というモノは妖力を似通わせている場合が多い。先ほどの気配はカラスから放たれていたものであったようだ。急速に心が冷めていくのを感じる。

 

 

「あの子でなくてすみませんね、こちらにも事情がありますので」

「何の用よ、文」

「頼まれごとですよ、刑香から言伝を預かってきました。まずはアナタの晴れ舞台に駆けつけられないことへのお詫び、そして……」

 

 

 木漏れ日が地面にさわめく牛の刻。

 そんな巫女の様子には眉一つ動かさず、射命丸文は腕にとまっているカラスの頭を撫でつける。漆黒の翼を持つ少女は、あの夜の顛末を告げるため静かに紅白の巫女に向かい合った。

 

 


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