ある日、その神社は通り雨に襲われていた。
空を埋め尽くすのは春の片雲。
押し出された透明な水滴には、もはや凍えるような冬の名残りはない。雨粒は若葉へと青々しく降り注ぎ、ゆるやかな千鳥足で地面を黒く濡らしていく。太陽の見えぬ空模様は寂しげだが、肌を撫でる大気は暖かな気配に満ちていた。ぬるい温度の雨は厳しい自然の中にあってどこか優しく穏やかだ。
「あっ、ちょっ、急に降り出すんじゃないわよ!?」
田畑には必須な天候で、飲み水確保のためにも重要な役割を果たす雨天。旧きより人々を支え続けてきた自然の恵みだが、前触れのないモノとなると非常に厄介なものである。
どうやら今回はそちらに当てはまったらしい。急いで母屋の雨戸を閉めるために、神社の主はパタパタと縁側を走り回っていた。鬼ごっこをするように、雨粒たちは巫女の先回りをしては母屋を水浸しにしていく。しばらくして全ての戸を閉じ終えた頃、結局のところ廊下は水浸しになっていた。その惨状に霊夢は床を拭きながら溜め息をつく。
「せっかく溜まっていた洗濯物を干したのに台無しじゃない。また洗い直さないといけないなんて‥‥‥本当に面倒くさい」
そう愚痴ってから雑巾をバケツに放り込む。
雨戸を打ち付ける風雨はかなり激しく、もう裏に干していた洗濯物は諦めた方が良さそうだ。取り込みに行ったところでズブ濡れの手遅れだろう。おまけに立ち上がろうとすると水を含んだ髪が首へまとわりついてきた。とても鬱陶しかったので、やれやれと霊夢はリボンを解くことにする。
「それにしても参ったわね、それじゃ今日の寝間着も無いじゃないの。こんなことなら晴れの日にちょくちょく洗っておくべきだったなぁ‥‥‥忠言は耳に逆らう、本当にその通りだったみたい」
本当に役に立つ忠告や言葉は受け入れがたいという格言であり、そのありがたさを今更に痛感する。大した損をしたわけでもなし、明日が晴れになれば取り返しが付く程度のことではある。しかし一週間分の洗濯が無駄になったことは、ものぐさな霊夢にとって大問題だ。それなりに苦労したので地味に挫けてしまいそうである。
「とりあえずの対処作として、晴れてから魔理沙に服を借りに行こうかな。身長はあまり変わらないから入るはずだし‥‥でもアイツの寝巻って思ったより子供っぽいのよねぇ」
記憶違いでなければ、とても可愛らしい桃色だったような気がする。だが他に当てもないし、あの娘は気前が良いので嫌な顔一つせずに貸してくれそうではある。何より背に腹は代えられない。つらつらとそんなことを考えながら廊下を歩いていた霊夢は、ようやく辿り着いた部屋の前へと辿り着いていた。そして障子へと手をかけようとした時、中から覚えのある気配を感じて口元を緩ませる。
「もうっ、来てたのなら雨戸を閉めるのを手伝ってよ。気まぐれな天気のせいで、廊下がずぶ濡れになっちゃったじゃない!」
「悪いわね。コレを取り込んでいたから、そこまで手が回らなかったわ。髪を拭いてあげるから許してくれないかしら、霊夢?」
「それなら特別に勘弁してあげる」
それは良かった、と目の前の来客は微笑んだ。
その傍らにはこんもりとした衣服の山。紅白の巫女服から、寝間着や下着に至るまでが丁寧に折り畳まれている。それは諦めていたはずの洗濯物である、どうやら雨が降る前に回収してくれていたらしい。これなら白黒の魔法使いに頭を下げずに済みそうだ。
そして霊夢は当たり前のように来客の膝の上へと腰を落とした。顔を上げてみると澄み切った空色の瞳が少しだけ困ったような光を浮かべている。それでもこの少女が「退いてくれ」と言わないのは分かっていた。
「ちょうど近くを通りかかって良かったわ。空の上を飛んでいたら、分厚い雨雲がこっちに向かっているのが見えたから心配‥‥‥ちょっとだけ気になったのよ。だから念のために先回りしておいたの」
「ありがと、刑香」
名前を口にするのが、ひどく懐かしい気がした。
昨日会ったばかりなのにもう随分と昔のように感じる。包むように髪を拭いてくれる手つきも何一つ変わらない、それなのに可笑しなことだと思う。うん、いつも通りだ。昨日も今日もこれからもこんな何気ない日々が続いていく。それが嬉しくて、緩みそうになった頬を慌てて引き締める。
「‥‥‥この時期の雨は『
刑香が静かに口を開いたのは、霊夢がそんなことを考えていた時だった。
「まだ
「‥‥‥何が言いたいの?」
「ほら、そんなに不安そうな顔をするものじゃないわ‥‥‥大丈夫だから」
ふわりと純白の双翼が被せられる。
幼子をあやすように両側から身体を温めてくれる羽は柔らかだった、心地さに身を任せて霊夢は目をつぶる。しばらくそうしていると、髪を拭いていた刑香の手が止まった。
「だいたいこんな感じかしらね。あとは葉団扇の風で乾かして最後にしましょうか、ちょっと離れてくれる?」
「別に、そこまでしてくれなくていい」
「人間の髪は傷みやすいのよ。せっかくキレイな黒髪なんだから、しっかりと手入れくらいはしておいたらどう‥‥‥‥霊夢?」
「やだ」
言葉を遮るように身体を傾けた。
そのまま後頭部をぐりぐりと鴉天狗の胸に押し付ける。「どうしたの?」と尋ねられても答えずに、同じことを繰り返す。頑なにそうしていると、ため息と共に華奢な腕が後ろから霊夢を抱きしめた。また困らせてしまったが、刑香が相手ならこれくらいは構わない。もう少しだけこのままで、そう霊夢は願う。
それっきり会話は途切れてしまう。雨の音に耳を澄ませながら、のどかな時間は過ぎていく。分け合った体温が眠気を誘い、段々とまぶたが重くなってくる。ぼんやりとした視界は霞がかかったように白んできていた。
ああ、もう『終わり』が近いのかと霊夢は名残惜しそうに項垂れた。
「ねぇ、刑香。約束してほしいの」
「いきなりどうしたのよ?」
「刑香はずっとそのままでいて。もし単なる『白桃橋刑香』でなくなっても、そのままでいて欲しい」
「さて、どうかしら。ここから先は私だってどうなるのか分からないわ、そもそも果たせるかも分からない約束をするべきじゃ‥‥」
「私は今のままの刑香が好き」
「そっか‥‥‥博麗の巫女さまの頼みなら仕方ないかな、せいぜい善処してみるわ」
「ありがと」
ほのかに顔を赤く染める刑香。
やはり色白なので分かりやすい。本人は自分のことを表情に出にくい性格だと思っているらしいが、これでは丸わかりである。いくら表情を固めてしまおうと、赤くなった頬を見れば一目瞭然なのだ。やはりこの鴉天狗は可愛らしいところが少なくない。
「ねぇ、刑香」
「今度はなに?」
願わくば、この思い出の一つ一つが色あせてしまわないよう。小さく心の奥底で呟いてから幼い巫女はもう一度、はっきりとその言葉を口にする。
「例えどれだけの日々が過ぎ去ろうと、どれだけの年月が積み上げられようとも必ず‥‥‥博麗の巫女として、私はもう一度あなたに会いに行く」
甘えてばかりなのはここまでだ。
吸血鬼異変や地底への使者役、紫や刑香は何度も幻想郷のために戦ってくれた。本来なら博麗の巫女がこなすはずだったお役目を、まだ未熟な霊夢の代わりに彼女たちはこなしてくれた。そして何度も傷ついてくれたのだ。
別れは確かに辛い。だが何時までも落ち込んではいられない、いるつもりもない。身体の奥底から湧き上がってくるのは、これまでより少しだけ大きくなった霊力。巫女としての決意が一歩前へと進んだことで、それに牽引されて霊的な能力もまた成長したのかもしれない。
きっと博麗霊夢にとっての『
やがて雨は上がり、花を咲かせなければならない時が来る。今の自分にとってそれは一人前の巫女として認められる儀礼の日。刑香たちが命がけで用意してくれた晴れ舞台だ、絶対に失敗は許されない。
「じゃあね、刑香」
随分とあっさりとした言葉、それを合図に世界が崩れていく。雨の音色は遠く遠く、部屋の景色はまどろみの彼方に、そして白い鴉天狗の姿は記憶へと溶けていった。ゆっくりと意識が浮上していく感覚、その中で幼い巫女は幻想(ゆめ)に別れを告げる。そしてーーーー。
「‥‥‥‥ん、寝ちゃってたのね」
目覚めてすぐ視界に入ってきたのは見慣れた天井だった。
古びた木目は一部がひび割れて、自分の神社よりも随分とおんぼろな造り。それなりに掃除が行き届いていようとも建物自体が古い。雨漏りだけはしないように手を加えたと刑香は話していたが、少なくとも自分なら毎日ここで寝泊まりするのは御免である。それでも気にせずに生活していたのだから、今から考えると清貧という言葉がぴったりな天狗だったと思う。
しかしそんな白い少女は、もうここにはいない。
「慧音と話をしてから『修行』をしてたんだけど、徹夜で疲れてたからなぁ‥‥‥少しだけ仮眠を取ろうとしてやっちゃったわ」
まあいいや、と布団に包まる霊夢。
枕に顔を埋めると、ひどく落ち着ける匂いがした。このまま目を閉じたら夢の続きを見られるだろうか、それならもう一眠りしてみる価値があるのではないかと思わなくもない。明るい日の光を鬱陶しく思い、更に布団の中へと潜り込む。
ここは刑香が過ごしていた廃神社で、これは刑香が使っていた布団である。この中に潜っていると、降り積もったばかりの雪に似た匂いが鼻をくすぐってくれる。これのおかげで夢を見られたのかもしれない、ころんと寝返りを打ちながらそんなことを考えていた。
「ふぁ、まだ眠いわね。やっぱりもう一眠りしてから再開しよう‥‥ん?」
その時、不意に直感が働いた。
締め切られた障子の向こう、空から『何か』が近づいてくる気配を察したのだ。地面を歩いて来ない、ということは人間よりは妖怪の可能性が高いだろう。もぞもぞと布団から這い出して、机の上に置いていた御札を掴み取る。
しかし、つい昨日まで天狗の住んでいた場所に近づいてくるとは妙な話である。治療を求めにきた人間ならともかく、それ以外の連中が自分から近寄ってくるだろうか。いくら戦闘に長けていないといっても、刑香はアレでも上級妖怪である。そこらの野良妖怪が喧嘩を売って勝てる相手ではない。
ともかく叩き返してやろう、そう霊夢が思った瞬間だった。絹を裂くような三人分の悲鳴が嫌というほど聞こえてきたのは。
「い、ゃぁぁぁぁっ、ぶつかるわよぉぉぉーーー!!?」
「っていうかっ、そもそも空飛ぶ箒にブレーキなんてあるのーーー!!?」
「あ、あるけど全然効かないんだよっ!?」
「『二重結界・反転』」
冷静に放たれた巫女の言霊。
三人乗りの箒が斜め上から突っ込んできたのは、それとほぼ同時だった。結構な速度と重量だったが、問題はない。護符の効果を反転させ、即席で築き上げたのは本来の用途から大きく外れた『結界』。着弾時の衝撃を外へと逃がす術式を当てはめることで、壁そのものを緩衝材として発動させる。
重ね合わせた布団に突っ込んだように、三つの影は身体を結界へめり込ませる。そうして速度の大部分を失った後、外へと転がり落ちた。どうやら無事だったらしく、三人はすぐに立ち上がる。
「うぅ‥‥‥いつもは一人乗りだから重量オーバーってやつを失念してた。し、死ぬかと思ったぜ」
「だ、だから言ったじゃない。メリーが乗ったあたりで箒から変な音がしてたって!」
「ちょっと、蓮子。その言い方だと私だけが重いみたいに感じるんだけど?」
「でもぶっちゃけメリーは私よりちょっとだけ重‥‥‥あ、嘘、ゴメンっ、冗談だから!」
それにしても夢の余韻が見事に台無しだ。
知らない連中だったら無視しても良いのだが、聞き覚えがありすぎる声である。具体的にはちょくちょく神社に遊びに来る白黒の魔法使い、それとさっきまで共に行動していた変な二人組。どういう理由で結びついて、三人一組でここに降ってきたのだろう。霊夢は結界を解いてから、侵入者たちを白けた眼差しで見下ろしていた。
「で、どういうつもりなのよ、魔理沙?」
「よっ、博麗神社にいないと思ったらここにいたのかよ。どうするもこうするも刑香に会いに来たに決まってるだろ。アイツはどこに行ったんだ、霊夢?」
「‥‥‥あんたって本当に、何というか」
やってきたのは魔理沙、蓮子、そしてメリーの三人組だった。出来れば夢の続きを見たいところなのだが、騒がしくなりそうでは仕方ない。溜め息をつきながら、霊夢は三人組を見回した。
さて、どこから話せば良いのだろう。
◇◇◇
大きな転換点が迫っていた。
これまでの妖怪と人間、その双方の在り方を大きく変えてしまうかもしれない変革である。その発端の一つはレミリア・スカーレットの引き起こした『吸血鬼異変』。紅魔館という西方の一大勢力が現れ、少なくない者たちが吸血鬼の配下へと成り果てたという異変。混乱そのものは八雲紫を中心とした妖怪勢力により解決されたが、永らく平穏の真っ只中にあった幻想郷に与えた影響は深刻であった。
それは今回の混乱が、単純に『吸血鬼』が強大な妖怪だったというだけの理由には収まらなかったからだ。そもそも当主にして最大の脅威であったレミリアは、八雲紫との一戦以外では表立って戦ってすらいない。それでも多くの妖怪たちはあの脅威に対抗することさえ出来なかった。
それこそが幻想郷の抱える根本的な問題が、野ざらしにされた瞬間だったのだ。
「この幻想郷において、妖怪と人間は共に欠けてはならない存在です。どちらか一方のバランスが崩れてしまえば、この世界は崩壊の道を辿ってしまう。故に双方の距離は近すぎず遠すぎず、そう在らなければならなかった。これは先刻承知の事実でしょう、少なくともここにいる皆様方にとっては」
八雲藍は語る。
人間と妖怪が共にあってこそ、幻想郷の安寧は保たれる。だからこそ双方は対立しながらも、全面的な衝突をある程度は避けてきた。その結果として幻想郷が誕生してから、一部の例外を除けば妖怪が人間を襲うことも、妖怪が妖怪を襲うことも以前より少なくなっていたのである。それこそ天狗たちがわざわざ『神隠し』を要求するほどに、人は妖との距離を見失っていた。
「だが飼い馴らされた者の牙が誰かに届くことはない。研がれなくなった精神が何かを成すこともない。私が来た頃の幻想郷はそんな妖怪たちに溢れていたわ、もちろん今もね」
レミリアはあざ笑う。
妖怪の衰退は賢者たちの想像を越えていた、少なくとも野良妖怪たちは誰一人として紅魔館に対抗できなかったのだ。吸血鬼異変は『八雲』と『天狗』が介入することで収束したが、それでも八雲藍は一時的にしろフランドールに倒され、刑香に至っては重傷を負った。それは幻想郷の要であるはずの上位妖怪でさえ苦戦したということで、賢者たちの受けた衝撃はあまりにも大きかった。
「今回は何とかなったが、次はどうなるか分からない。事実として外の世界で強大なチカラを維持している神霊や妖怪はまだいますし、幻想郷の各所‥‥‥例えば地底でも多くの『封印された者たち』が眠っています」
さとりは無表情で告げる。
このままではいけない、いずれ更なる脅威が現れるかもしれない。妖怪がチカラを取り戻す必要があった、そしてそのためにはどうしたら良いのかを賢者たちは話し合った。しかし結論としては「妖怪は人間を襲い、人間は妖怪を退治する」という原則を復活させる以外になかった。
しかし、ここで当然のごとく問題が生じる。積極的な命の奪い合いは幻想郷のバランスを崩してしまう。妖怪からの襲撃も、人間からの退治も、出来る限り双方の数を減らさない方法にて行わなければならない。大きく矛盾していた、それは少なくなくともこれまでのやり方では成し得ない道である。
「故に以前より八雲と博麗の巫女が考案していた『命名決闘法』を採用し、これにて双方の争いを解決することとす。あくまでも平和的に児戯のごとく、実力主義を排して美しさを重視する弾幕合戦‥‥‥‥くかかっ、有用性は認めるが何度聞いてもくだらんものよな」
天魔は冷ややかに笑う。
人間と妖怪には埋めがたいチカラの差がある、そのままで決闘は成り立たない。双方が平等な戦いをするためにはそれなりの『ルール』が必要となる。妖怪が人間に合わせてやらなければならないのだ。肉体的な強さを放棄して精神的な勝負へとかじを切り、死なない程度に技を競い合う。
命を賭けないがゆえに妖怪は『異変』を起こしやすく、人間は『退治』がしやすくなる。それこそが『命名決闘法』、つまりは『スペルカードルール』の導入が検討されている理由なのだ。
「これは必ずや幻想郷を救うはずだと、我ら八雲は考えております。御三方、賛否をお聞かせ願いたく思います」
「私の考えは前回と同じ。概ね賛成だし、このまま施行するのも悪くないと思うわよ。紅魔館は『スペルカードルール』を支持するわ」
「待ってください。そもそも地底の代表である私は前回の会合に参加していません。今初めて説明を受けたばかりで、おいそれと結論は出せません」
「くかかっ、我ら天狗も協力はしてやるが、だからといって手放しで賛成してやる気はない。ワシの首を縦に振らせられるかは貴様次第だ」
悪くない反応に人知れず胸を撫で下ろす藍。
レミリアは協力的で、天魔も条件次第では賛成側に回るという口ぶりだ。唯一気になるのはさとりであるが、彼女からも強い拒否感は感じられない。普通に考えるならば、そう時間もかからない内に会議は纏まるだろう。
しかし、ここにいる四人は誰もがひと癖もふた癖もある上級妖怪。彼ら彼女らは自らの勢力を代表する者としての責務も負っている。ならば幻想郷の未来を決める席にて、少しでも自分たちにとって優位な条件を引き出そうとするのは自明の理であった。
八雲藍は静かにその黄金の瞳を細める。長い話し合いになる、明晰な頭脳にはどこか確信めいた予感が浮かんでいた。