その鴉天狗は白かった   作:ドスみかん

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第二十六話:まだふみも見ず天の橋立

 

 

 旧都の中心にそびえる地霊殿。

 それは地底では珍しい真っ白な外壁と、ステンドグラスがはめ込まれた天窓を持つ西方建築であった。そして無人の門を潜り抜け、赤と黒の市松模様のフロアを進んだ先に、さとりが執務用としている部屋が存在する。

 

 

「ーーーー以上が現在、地底で起こっている騒動の全てです。土蜘蛛の護りを突破し、おそらく橋姫を退けるであろう鴉天狗たちは『地上』と『地底』に何らかの繋がりを求めてくるかと思われます」

『数百年の沈黙を破るとは大きく出たもの、しかも八雲紫が眠っている冬に仕掛けてくるとは予想外でした』

「はぁ、正直なところ傍迷惑にも程があります。『スペルカードルール』も『博麗の巫女』も私にとっては、どうでも良いことなのですから」

 

 

 さとりは来客用のソファーにもたれ掛かる。

 図書館から借りてきた読みかけの本もそこそこに、地底の管理者はウンザリとした表情で報告を続けていた。

 

 そんな少女の目に映っているのは一体のビスクドール。通信機が内蔵されたソレは、何でも魔界にいる凄腕の人形師が作り上げた逸品らしい。まるで生きているかのような繊細な造形は見る者の心を掴んで離さない。あまりにも可愛らしい出来映えなので、さとりは部屋の装飾としても利用している。人形から相手の声がカタカタと漏れだした。

 

 

『ちなみに鬼族との関係は良好なのですね?』

「正確には勇儀との交流ですが、問題はないでしょう。基本的に鬼は自分たちの頭には逆らいませんから、勇儀と繋がりのある私をどうこうしようとは思わないはずです」

『正直なところ貴女に地底を任せたのは一種の賭けだったのですが、ここまで完璧に仕事をこなしてくれるとは嬉しい誤算でした』

「ハッキリ言ってくれますね」

『職業柄、嘘は嫌いですから』

 

 

 彼女の声が空間を伝って、暖炉の火をゆらゆらと揺らす。まるで自分の心のようだと、さとりは思った。何せ通信機の向こう側にいるのはこの千年余りで唯一、自分に『恐怖』を抱かせた存在であるのだから心が落ち着かない。

 

 かつて覗いた彼女の精神は、生き物が住めないほどに穢れがなく、不気味なまでの静けさを持つ白河の流れそのものだった。あれほど『覚妖怪』として読み取って後悔した心はない、恐ろしさを感じた精神はない。灰色を許さない魂は覚妖怪にすら取り憑くスキマを与えない。

 

 

「うにゅぅぅ、さとりさまぁ」

「くすぐったいから動かないで、お空」

 

 

 さとりは膝の上に黒髪の少女を乗せていた。そもそも部屋の主である自分が来客用のソファーに座っているのには理由がある。それというのも「大変だよ、さとり様!」と施錠された窓からペットが飛び込んできて、執務机をガラスと雪でメチャクチャにしたからだ。今は湯タンポ代わりにお空を膝に乗せ、酒を少しずつ呑んで暖を取っている。

 

 

「うにゅゅ…………さとり様は私が守るんだからぁ」

「嬉しい寝言をありがとね」

 

 

 (うつほ)の頭を優しく撫でる。

 結果的に、彼女のもたらした情報は何の役にも立たなかった。何せ先程までカラスの大群が地底の空を飛び回っていたのだ。地上から侵入者があったのは一目瞭然で、さとりは更に『鴉天狗』の仕業とまで見抜いていたのだ。なので、さとりはお空の気持ちだけを受け取っておいた。

 

 

「お空には感謝しましょう。おかげで貴女と繋がりのある白い鴉天狗が地底を訪れたことがわかりましたから」

『言っておきますが、彼女を救ったとて私への貸しにはなりませんよ』

「それは残念、貴女に恩を売りつける良い機会だと思ったのですが…………なんて冗談は終わりにして、そろそろ本題に入りましょうか。あの羅刹たちをどうしたら良いのでしょう?」

 

 

 小さな混乱が旧都に生じていた。

 三十騎もの鬼族が天下の往来を闊歩し、巨大な妖力を撒き散らしているのだ。「一体何事か」と顔を出した小妖怪は鬼の行列を見るや否や、たちまちに家の中へと引っ込んでいく。満月の満ち潮に引き寄せられる小枝のごとく、新月の引き潮に連れ去られる小石のように、妖怪たちは奔放されていた。鬼たちは移動しているだけなのだが、地底の管理者としては非常に迷惑な集団である。

 

 

「…………勇儀がいませんね?」

 

 

 (うつほ)の枕役をクッションに入れ替えた少女は窓の外を見下ろした。鬼夜行の先頭を行くのは、勇儀の側近の一人である青鬼の青年である。過去に覗いた記憶でわかったのは、友のために人里を襲い友に退治された変わり者。中々に出来た人格者であり勇儀からの信頼も厚い男だ、しかし肝心の大将がいない。

 

 

『地底の揉め事である以上は貴女に一任しています。必ずや静めなさい、そうすることで管理者としての責務を果たすのです』

「はぁ、また今宵も面倒なことになりそうです」

『それでは頼みましたよ』

 

 

 その一言を残し人形からの通信は途切れた。さとりはそれを視界の隅に追いやり、窓から迷い込んできた白雪を手にした盃で受け止める。ゆらゆらと溶けては沈んでいく雪の結晶をさとりは無表情で眺めていた。

 

 そもそもの始まりである土蜘蛛たちは『地上の本気』を確かめるために配置した。そして彼らを突破したということはそれなりの手練れを賢者たちは送り込んできたのだろう。地上が本腰を入れて来ているのが分かった以上、地底の管理者として相応の対応をせねばなるまい。

 

 

「あちら側の本気は見られたのだから、これ以上の戦闘は必要ないわ。今すぐ事態を火消しへと転がさなければ後々が面倒なことになる。…………それにしても一体誰が鬼たちを焚き付けたのかしら、お仕置きが必要ね」

 

 

 この地底を荒らす者はたとえ鬼であっても許すつもりはない。ここは妹の帰ってくる場所である、こいしの帰ってくる家を護るために姉は戦うのだ。じわりじわりと空間を蝕んでいくのは精神を犯す妖力、それは妖怪の少女が放つ静かな怒りであった。高まる心を抑えようと、さとりは冷えきった酒を口に含む。

 

 

「…………ふぅ、しかし鴉天狗とは懐かしい。あの嫌味な天狗は、白桃橋迦楼羅(かるら)は元気にしているのかしら?」

 

 

 最後までお互いに心を開かなかったとはいえ、旧知の間柄である。不意に思い出した懐かしい名前を肴にし、覚妖怪の少女は窓枠に腰掛けながら盃を傾けた。今夜は風が気持ち良い。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 随分と「らしくない」生き方をしてきたものだと文は今更のように考える。

 

 本来ならば、射命丸文という天狗は報道部隊にでも属して上からの命令を淡々とこなす天狗であったはずである。そして非番の日には誰かの秘密を暴いては記事にして、他の天狗達との付き合いも程々に、何を背負うこともなく気楽に生きて死んでいく。そんな生活を送っていたと思う。

 

 だが今の自分はどうだ。まずは戦闘部隊に所属し、その精鋭に登り詰めてしまった。ゴシップ新聞のはずが、それなりに真面目な内容を取り扱っては人里でライバル紙としのぎを削る日々を送っている。それはとても遣り甲斐のある、されど自分らしくない現状だった。

 

 そんな原因をつくったのは、自分の隣を歩いている白い鴉天狗にあることは明白だろう。出会った瞬間から射命丸文の運命を変えてしまった少女がここにいる。何だか癪だったので、とりあえずその羽に手を伸ばしてみることにした。びくりと刑香が身体を震わせる。

 

 

「わひゃぁ!? え、突然なにを…………ひぁっ!?」

「あー、相変わらず良い反応と手触りですねぇ。心が落ち着きます、すりすり」

「っ、放しなさい!」

「おっと危ない」

 

 

 振り回された錫杖を軽いステップを踏んで回避する。そのまま触っているとしばらくの間は抵抗されたが、やがて根負けしたらしくおとなしくなった。真っ赤に染まった頬で平気そうな表情を決め込んで、刑香はため息をつく。指を動かすたびに身体を震わせるくせに強がりは相変わらずだ。

 

 

「…………そ、そういえば、文とはたては何の目的でここに来たのよ。まさか本当に私の補助なんて任務を受けたわけじゃないんでしょ?」

「あややや、今更ですか」

「ようやく落ち着いた今だからこそ聞いて……ゃ…んのよ」

「うーん、これはどうしましょうか」

 

 

 別に教えても構わないだろうが、一応は『極秘』と銘打たれた任務である。果たして部外者である親友にバラしても良いものかと文は悩んだ。すると後ろの方で「私たちは長老様からの書状を届けに来たのよ」と、もう一人の親友が胸を張ってパルスィに口外していたので結局は話すことにした。

 

 

「私とはたての任務は八雲とは別に、天狗の書状を地底の管理者に渡すことです。ただその中身は知りません」

「へぇ、意外とまともな内容なのね。てっきり八雲の使いを地底の仕業に見せかけて葬るぐらいの企みがあると思ったんだけど」

「いくら私たちの翼が黒いといっても、任務までドス黒いわけないでしょう。大体それでは私が刑香を墜とすことになるじゃないですか。…………いっそ別の意味で堕としてしまいましょうか、うりうり」

「じ、冗談だからその手つきで触るのは止めてっ!」

 

 

 絡め取るように羽をまさぐる。もし「刑香やはたてを亡き者にせよ」などという命令を下されたなら、文は間違いなく組織を抜けるだろう。そのための覚悟が既にある、なのに「自分を墜とす任務じゃないのか」などと冗談混じりに言ってきた刑香に少しだけ腹が立った。

 腕力に任せて細い腰をホールドし、逃がさないように片腕で翼をくすぐり続けてやる。とっくに刑香は涙目になっていたが、罰なので手加減はしない。

 

 

「も、もう限界だかっ……らぁ……やめっ…………」

「ほれほれ、ここがいいんですか?」

「っ、いい加減にしろぉぉ!!」

「駄目です、まだまだ許しません」

 

 

「…………あれはスキンシップなの? どう見ても虐めてるようにしか思えないんだけど」

「どっちもよ。文って基本的にはいじめっ子だし、私もよくやられたわ」

「ほへぇ、融通の利かない連中かと思ってたけど鴉天狗も意外と面白いんだねぇ」

 

 

 はたてとパルスィ、そしてキスメは二人を呆れた様子で眺めていた。しかし一方的にやられている白い鴉天狗は何ともいじめがいのありそうな娘である。妖怪としての本能が疼き始めたパルスィだったが、とりあえずそれは後回しにすることに決めた。

 

 

「まあ、あんた達の実力がわかったからには、さとりはもう妖怪を送ったりはしないと思う。だから多少はふざけていても大丈夫じゃないかしら」

「へー、そんなの分かるんだ?」

「付き合いだけは長いからね、さとりの考えていることは何となく読めるのよ。心を覗ける覚妖怪は私じゃなくてアイツなのに可笑しな話よね」

 

 

 パルスィは嘘をついていない。さとりは「追い返せるなら追い返して欲しい」と頼んできた、ならばヤマメと自分を打ち破った者に対しては話を聞くことを予定しているのだろう。パルスィは肩をすくめた。

 

 

「…………とまあ、これは私の推測なんだけどね。でもそんなに外れてないと思うわ、信用ならないだろうけど」

「ううん、信じるわ。だって私もアイツらの考えてることなら大体読めるもん。友達ってそんなものよ」

「べ、べ、別に私とアイツは友達ってわけじゃ…………!」

「あー、パルスィが照れた…………いやぁぁぁ!?」

 

 

 再び桶を蹴り飛ばした後、はたてから顔を背けるパルスィ。少しピンク色に染められた頬はどこか嬉しそうだった。内心で色々と企んで警戒される文と、そもそも他者と距離を取りたがる刑香とは違い、自分の思いを真っ直ぐ伝える鴉天狗、それがはたてである。

 

 その裏表のないやり取りに、いつの間にかパルスィは警戒を解いていた。相変わらずじゃれあっている白と黒の鴉天狗を呆れたように眺めながら、茶髪の少女と会話を続ける。それは久しぶりに賑やかな時間だった。悪くないなどと思うほどに橋姫の少女はこの時間を楽しんでいた。

 

 

 しかしその数刻後、辿り着いた大橋の前でパルスィは立ち尽くすことになる。

 

 

 

 

「…………何よこれ?」

 

 

 そこはパルスィが縄張りとしている領域であり、普段から見慣れた場所のはずだった。しかし現在、辺り一面は濃い霧に覆われていた。まるで通る者を押し返そうという意思さえ感じさせる、それはパルスィでさえ経験したことのない光景であった。さっきまでの緩んだ雰囲気を一掃し、刑香と文が内部を探ろうと進み出る。

 

 

「ずいぶん濃い霧じゃない、まるで妖怪でも住んでいそうだわ。おお、怖い怖い…………なんちゃってね」

「私たちがそれを言いますか。まあ、ともかく様子を伺いましょう。それと場合によっては葉団扇で霧を払いますよ」

「しっ…………誰か来るわ」

 

 

 言うや否や、文よりも一歩前へと踏み出した刑香。その碧眼は鋭く細められ、鷹のごとき眼光で霧の向こうを睨めつけていた。その視線の先には一つの人影、編み笠を深く被った人物がヒタヒタとこちらに向かってきている。物乞いのようなボロを纏い、橋板を踏み軋ませて近づいてくるのは果たして何者であろうか。刑香が妖刀を引き抜く。

 

 

「そこで止まりなさい、あんたは何なの?」

 

 

 怪しく光る刃が人影を牽制する。

 こいつは只者ではない、天狗としての直感が告げていた。そして空色の瞳は目の前の人物に秘められた強大な力を見抜く、コイツの妖力は自分よりも大きい。

 言うまでもなくここは人が住まぬ地の底である。故に刑香は距離を保持したまま、人間の姿をした存在に「お前は何なのか」と尋ねたのだ。口許を歪める人影は鴉天狗の忠告を聞き入れて立ち止まる。

 

 

「これは妙なことを尋ねなさる。我らは元々『人』でもあり『妖』でもある、それを『何だ』と問われたのなら如何にして答えましょうや」

「『人』に化ける妖怪は多くいるわ、あの『お方』は人の皮を被り、京の都から姫君を拐ったと伝え聞く。…………だから、お前の中身の方は何かと聞いてるのよ」

 

 

 返された声は男のモノであった。ひとまず『名付け親』ではないらしく、白い少女は安心する。しかし油断はできない。まだこの存在の正体を見極めていないのだ、万一にも鴉天狗より格上の妖怪であったのなら厄介なことになる。妖刀の柄を強く握りながら、不安げな表情の刑香は更に言葉を繋げていく。

 

 

「その編み笠を外して顔を見せなさい。妙な真似をするなら斬り捨てる」

「へえ、天狗様の仰ることなら喜んで」

 

 

 薄気味悪い笑みを浮かべて、頭を隠すための笠へと手を伸ばした男。刑香と文はその動きから目を離さない、お互いに妖刀と葉団扇を構えながら男を見張っていた。ふいに、笠の縁を掴んだ彼がそれを刑香に向けて投げつけたのはその瞬間だった。ほんの僅かな刹那、白い少女の視界が遮られる。

 

 

「はっ、そんな怯えた顔してると拐いたくなるじゃねえかぁ!!」

「け、刑香っぁぁぁ!?」

 

 

 はたてが悲鳴のように叫ぶ。

 だがもう遅い。風を撒いて白い鴉天狗へと跳躍したのは青い二本角、 瞬く間に刑香を間合いへと捉えたのは『青鬼』だった。並の妖怪であったなら目で追うこともできぬ、あまりにも理不尽な脚力でもって鬼は少女の眼前へと迫っていた。青鬼の青年は、まず一番近くにいた白い鴉天狗から沈めることに決めていた。

 

 

「おぉぉぉぉぉ!!!」

 

 

 大地を踏み鳴らして放たれた鬼の拳。

 幻想郷最速を誇る鴉天狗のスピードは空中でこそ発揮されることを逆手に取った判断は見事であった。飛び立つ前なら捕まえられる。そしてその『必殺』の一撃が必ず外させる『能力』がなければ、青年の狙い通りに白い少女は絶命していたかもしれない。

 

 だがこの程度は刑香にとって危機ではない。頭を狙った青年の殴打は『能力』によって反らされ、白い髪を数本持っていくだけに修正させる。それに驚く間もなく青年を襲ったのは腕から伝わる激痛だった。

 

 

「っ、でりゃぁぁぁ!!」

 

 

 妖刀一閃、鬼の拳をかわした刑香はカウンターとして青年の腕を斬りつける。そのまま鬼の胴体を蹴りつけて、青年から距離を確保した。「やられた」と青鬼は白い鴉天狗を追いかけようとするが、今度は風に阻まれて動きを封じられる。見るともう一人の天狗少女がすでに葉団扇を降り下ろしていた。

 

 

「お、おお!?」

 

 

 腕を斬られ体勢を崩したタイミング、そこを見計らって文が起こした竜巻。これには流石の鬼も成す術がない。両脚を地面から引き剥がされた青年は、鴉天狗の主戦場たる空中へと引き上げられる。

 

 それでも何とか体勢を整えた青年は二羽の少女たちからの追撃に備え、傷ついた腕を奮い立たせる。そして「来るなら来い」とばかりに鴉天狗たちを視界に捉えていた。しかし刑香と文はニヤリと笑うだけである、怪訝に思った彼の鼓膜を揺らしたのは意識の外から聴こえてきたもう一羽の雄叫び。

 

 

「ぶっ飛びなさい、この野郎―――!!」

「そっちかよっ、ぐげぁ!!?」

 

 

 突き刺さったのは加速を上乗せした一本歯下駄、死角から青年に飛び蹴りを食らわせたのは茶髪の少女。そのまま葉団扇を空中に打ちつけ、はたては鬼を竜巻と共に水面へと叩き込む。青年が着弾した川から水柱が豪快に上がった。

 

 

「嘘でしょ、鬼をあんなに容易く追い払えるなんて…………っ!?」

「ありゃりゃ、鴉天狗って強いんだねぇ」

 

 

 その光景を唖然とした様子でパルスィとヤマメは見守っていた。突如として襲いかかってきた鬼にも驚いたが、それ以上に彼を撃退してしまった三羽への驚愕の念が隠せない。妖怪の格を覆したのは一糸乱れぬ連携攻撃、これが彼女たちの強さなのだろう。どうりで『嫉妬心を操る程度の能力』が効きづらいはずだとパルスィはそっと納得する。

 

 そして鬼を倒した今、間もなく霧は晴れ始めていた。あとは旧都への一本道を残すのみである。もう障害は残っていないだろうとパルスィは考えていた。しかし霧の払われた向こう岸から強い酒の匂いが流れてきたことを不審に思う。身体中を悪寒が走ったのと、その話し声が聞こえてきたのは同時だった。

 

 

 

 

 

 

 

「おーおー、嬢ちゃん達が勝っちまったぜ?」

「次はアタイが足止めをしようかね」

「沈んだアイツは大丈夫か」

「ヤマメちゃんが助けてくれるだろうよ」

 

 

 それは旧都で何度も耳にした者たちの声。

 パルスィは「まさか」と顔を青くした。程なくして濃霧が払われると、橋の向かい側に陣取っていた集団が(あらわ)になる。思い思いの盃を傾けながら、呑気に戦いを観戦していたのは『鬼』の軍勢であった。

 鬼たちは仲間がやられたというのに不穏な空気はなく、あくまでも自然体で向かい岸を完全に塞いでいる。

 

 

「文、これは不味いわ」

「わかってます、念のために撤退の準備をしてください。この軍勢は尋常のものではありません、もし彼らが仕掛けて来たなら私たちはひとたまりもない」

「いざとなったら私が時間を稼ぐ」

「…………そうですね、お願いします」

 

 

 文を庇うように踏み出した刑香。

 そんな親友の背中を見つめながら、文は冷静に現状を分析していた。確認した限りでは三十余りの鬼族がいる。こちらには人質として橋姫と釣瓶落としがいるとはいえ、鬼に対して有効なカードになるとは思えない。それに彼女らはむしろ獅子心中の虫である。隙があれば逃げ出して、地底側たるあちらに味方するだろう。

 

 鬼たちが仕掛けてくる気配はない。ならば今のうちに撤退を、と射命丸文の決意は早くも固まった。そっと指でサインを送り、二人の友人たちに指示を伝える。書状はここらに落としていけばいい。これ見よがしに放置しておけば、彼らに拾って読まれる可能性もあるだろう。運が良ければ彼らのトップに手渡されるかもしれない。ひとまずはそれで十分だ。

 

 刑香と文がそれぞれの書状を取りだし、地上へ向けて飛び去そうと翼を広げる。その時であった。

 

 

 

 

 

「――――よく来たね、お前たち」

 

 

「おお、ようやくか」

「待ちくたびれたぜ、なあ?」

「アタイはちと残念だよ、アイツらと戦えないし」

「てめえらっ、ぼーとしてないで大将に道を開けやがれ!」

 

 

 鬼たちの集団が二つに割れていく。現れたのは一人の鬼であった。背中に翼はなく、踏み鳴らすは二本歯下駄、それにも関わらず彼女はまるで大天狗たちと謁見しているかのような緊張感を刑香たちに植え付ける。絶対的な支配者の威光を纏いて、彼女は鴉天狗の少女たちを見据えた。

 

 そして土蜘蛛の少女によって川底から引き上げられた青鬼の青年は彼女の姿を見つけて苦笑いをする。

 

 

「げほっ…………まったくもって遅いっすよ。おかげで俺が足止めをすることになったじゃないですか、大将」

「悪い悪い、せっかくの来客なんだ。それなりの格好で出迎えなけりゃつまらんだろうと思ってね」

 

 

 

 それは鮮やかな紫染めの着物であった。

 紅葉が散りばめられた布地は晴れやかで、露出した肩からは艶かしい色香が溢れだす。針金のような金髪はこの世ならざる財宝の輝きを映し出していた。そして松明が燃え盛る瞳の赤色は今まで鴉天狗の少女たちが目にしてきた、どんな妖怪よりも熱く激しい。

 

 

「お互いに言いたいこともあるだろう、聞きたいこともあるだろう。だがまずは一つ『鬼退治』…………というのは妖怪同士では可笑しな話だねぇ。なら、」

 

 

 鴉天狗の少女たちは、いやパルスィやヤマメでさえも見惚れていた。あまりにも恐ろしく、逃れられぬほどに魂を惹き付ける『死』を象徴した存在に一時的にしろ目を奪われていた。口許を吊り上げた鬼は告げる。

 

 

「ここは一つ、派手に喧嘩をしようじゃないか」

 

 

 この島国に語り継がれる三大妖怪たる『天狗』と『河童』そして『鬼』。かつてその全てを従えた鬼の御大将。

 たとい幾年経ったとて、その脅威は忘れられるものでなし、天狗の少女たちは身を震わせて支配者を迎え入れる他にない。かの姿はどこまでも唯我独尊を貫きし豪快不遜な大妖怪、星熊勇儀はここに君臨する。

 

 

 

 


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