その鴉天狗は白かった   作:ドスみかん

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第2章『地底見聞録』
第十八話:楽園の表と裏に生きる者


 

 

 寺子屋、それは人里の子供たちが学問を習う施設である。元々は都市郡に端を発した後に、漁村や農村に広がっていった手習いの指南所。

 江戸の世にて最盛期を誇ったそれは、明治において世界から切り離された幻想郷において未だに現役であった。そして文字と算術が重きを占めるはずである旧き時代の学舎でありながら、主に『歴史』を教える寺子屋というのも存在している。

 

 人里巡りを楽しんだ後、刑香と霊夢はそんな少し変わった寺子屋に立ち寄っていた。

 

 

 

「ふふっ。それで巫女のご機嫌取りをするために、刑香は人里で物見遊山をすることになったのか。まさか人間の子供とそこまで仲良くなっているとは、少し前のお前からは信じられない話じゃないか」

「誰と仲良くするかなんて、私の自由なんだからほっときなさいよ」

 

 

 今日一日の話を聞いて、愉快そうに笑っている寺子屋教師に刑香は冷たい視線を送る。ちなみに慧音とは吸血鬼異変の際に、スキマ妖怪の中継ぎとして話をして以来だったりする。慧音は白い鴉天狗に向けて微笑んだ。

 

 

「しかし本当に良かったと思うよ。お前は基本的には優しい性格をしていたが、一定の距離より内には誰も立ち入らせない拒絶感があったからな」

「………むしろ今もそのつもりなんだけどね、文とはたて以外に全てを許したわけでもないし」

「いくらかマシになったという話さ。刑香は良い方向に変わってきていると私は思う。だからこそ、その巫女殿には感謝しなければならないな」

「そういうことは本人が起きている時に伝えなさいよ、あと毛布を貸してもらっていい?」

「ん? ああ、なるほどな」

 

 

 はしゃぎ疲れたのだろう、霊夢は鴉天狗の膝を枕代わりにして眠っていた。子供らしい高めの体温が布越しに伝わり、可愛らしい寝息が刑香の耳に聴こえてくる。ずいぶんと気持ち良さそうだ、良い夢を見ているのかもしれない。

 その口からヨダレが垂れているのは、とりあえず不問にしておこう。自分の装束は明日あたりに洗えばいい。そんなことを考えていると、足音を忍ばせて近づいてきた慧音が幼い巫女に毛布を被せた。自分は一言も「霊夢のために」とは発していないのに流石は寺子屋教師、子供の面倒を見ることは手慣れている。

 

 

「まだまだ子供だな、寝顔は私の生徒たちと変わらないよ。私の記憶が定かなら、幻想郷の歴史にここまで幼い巫女はいなかった」

「言っとくけど、この娘は並の妖怪が束になってきても無傷で勝てる程度には強いわよ。ひょっとしたら将来は『鬼』すらも退治できる巫女になるかもしれない…………なんて、天狗の私にすら思わせるほどにね」

「それはまた本当なのだとしたら大した素質だな。しかも鬼の盟友である天狗のお墨付き、それなら幻想郷の将来は安穏としたものなのかもしれないか」

 

「あんたの言うのは幻想郷じゃなくて人里の平穏でしょう、半妖のはぐれ者さん?」

「それはどうも、はぐれ天狗殿」

 

 

 くくっ、とお互いに小さな笑いをこぼし合う。半妖でありながら人里に住まう慧音と、天狗でありながら山から追放された刑香。そこに至るまでの過程は違えど、自分たちは変わり者の同志に違いない。

 慧音は毛布と一緒に持ってきた湯飲みを刑香に手渡した。中身は温かい柚子茶のようだ、柑橘類の豊かな香りが心地よい。

 

 

「…………改めて吸血鬼異変の時は世話になった。こちらとしても賢者の誰かに『人里を隠す』許可を貰いたいところだったんだ。お前が取り持ちをしてくれたお陰で助かったよ」

「あれは紫が言い出したから協力したの、あんたを推薦しただけの私にお礼は不要だと思うわよ?」

「妖怪の賢者に私を推薦とは、なかなか嬉しいことをしてくれたな。存外に私はお前から信頼されていたようだ、嬉しいよ」

「…………別に、そういうことにしておけば?」

 

 

 ぷいっ、と慧音から目線を反らす。

 感謝の気持ちを正面から語られるのは苦手だ。身構えがあれば大丈夫なのだが、今のは不意討ちだった。教師をしている慧音は他者の心を読み取ることに長けているのかもしれない。何だか悔しくなり、不機嫌そうに刑香は柚子茶をチビチビと飲み干していく。

 

 「どうしたんだ?」と不思議そうな表情でこちらを眺めている慧音の視線から逃げるように部屋を見回していく。すると片隅に布団が二組畳まれているのが目に入った。話題を反らすには使えそうだ。

 

 

「ねえ、何で布団が二組あるのよ。あんたは一人で寺子屋に住んでいるんじゃないの? ………そういえば一年くらい前に人間の男から求婚されたとか聞いたけど、まさか」

「ち、ちょっと待て! 何でその話を知っているんだっ。まさか新聞に載せたのか!?」

「いや、そもそも『四季桃月報』に載せられる記事じゃないし…………え、まさか本当に人間の男と?」

 

 

 先程までのクールな姿はどこへやら、完全に我を忘れて慌てふためく寺子屋教師。冗談のつもりだったのだが、予想を越えて話題を転がしてしまったらしい。そもそも『四季桃月報』にはゴシップネタは載せない上に、他人の「そういう話」に大して興味がない刑香にはどうでもよい話なのだが。

 しかし、このままだと渾身の頭突きをお見舞いされて記憶を消されそうな感じがする。それくらいの迫力が慧音からは漂っていた。そして身構えていると刑香は両肩を掴まれる、その衝撃で手に持っている湯飲みの中身が零れそうになるを何とか耐えた。

 

 

「違うんだっ、私は断じて不純な行為に手を染めてなどいない。だいたい、そういった申し出は全て断っているから大丈夫だ!」

「じ、冗談だから落ち着いて。新聞に載せるなんてしないわよ、それに『全て』ってことはあれ一つじゃなかったの?」

「………………二月に一度のペースで申し込まれた期間もあった。それでいい加減にイライラしていたし、あの夜は満月だったから気が立っていてな。つい、やってしまったんだ」

 

 

 何となく刑香は納得した。

 博識で物腰が柔らかくて、子供にも優しく接する美しい女性。そんな慧音は人里の男性たちから人気があって当然だろう。そして半分混じっている化生としての血も、妖怪などではなく『聖獣』由来の高貴なものだ。その力もまた、無意識に人間を惹き付ける魔香となっているのかもしれない。それに群がってしまった男衆、その結果が慧音からの頭突きだったわけだ。

 

 そしてしばらくの間、刑香に宥められた慧音はようやく落ち着きを取り戻したらしい。「すまない」と謝罪してから布団についての話を始める。

 

 

「つい最近に居候を拾ってな、それから週に何回か泊まりに来るようになったんだ。本人は『布団は要らない』なんて言い張っていたんだが、風邪をひくといけないから私が買い足しておいた。だから二組あるんだよ。…………言っておくが、そいつは女だぞ?」

「別に『女』を強調しなくてもいいわ、記事にしないんだから。………それにしても居候ねぇ。あんたは世話好きだからそういうのを拾うのは意外でもないけど、怪しい奴じゃないでしょうね?」

「何だ、心配してくれているのか? ありがとう、あいつはいい奴だよ。少し口調が荒っぽくて、色々と大雑把なところもあるけど根は優しい奴なんだ」

「………ふぅん、そうなんだ」

 

 

 優しげな光の宿った慧音の瞳。

 そこには生徒たちに向けるものと同じ、いや更に深い慈愛の感情があった。上白沢慧音は途方もなく長い時間、人間を見守りながら生きてきた。そんな彼女がここまで信頼している相手ならば、おそらく問題はあるまいと刑香は判断する。

 

 

「でも別にあんたを心配していたわけじゃないわ。どんな人間なのか気になっただけ、それだけよ。何でも良い方向に捉えるのは慧音の長所だけど、ほどほどにしなさい」

「ふふっ、そういうことにしておくよ」

「…………その笑みはなんなのよ、その笑みは」

 

 

 一年前の刑香なら、わざわざ他者を心配する言葉を口にすることはもっと少なかった。それにどこか刺があり、今以上にひねくれた言葉を投げかけていた。

 それが異変にて親友や霊夢に救われたからか、それとも宴で美鈴やレミリアと語り合ったからなのか。少しだけ素直になったような気がする、霊夢の相手をしている時の表情はとても優しかった。それを見抜いたからこそ慧音は微笑ましく思っていたのだ、やはり他者の成長を見守る役目は自分に合っていると思いながら。

 

 

「…………そういえば、あんたが求婚されたことを文に話したことがあったわ。哨戒帰りのあいつに偶然会ったから」

「ばっ、よりによって射命丸にか!?」

 

 

 生徒扱いに不服を感じた刑香からの小さな仕返し。眼に見えて焦りだした慧音を横目にしながら、湯飲みに口をつける。少し蜂蜜を垂らしてあるらしく、柚子茶は微かな甘味が柚子の酸味に混ざってちょうど良い具合だった。おかげで身体も温かくなってくる、気のせいか少しだけ眠くなってきた。しかし当然だが、そうしている間も慧音はグイグイと刑香に近づいてくる。

 

 

「姫海棠ならばともかく、あいつは不味いだろっ。これから百年くらいはこのネタで揺さぶられ続けるじゃないかっ」

「確かに文ならやりかねないわ、御愁傷様」

「わかっているなら忘れるように言ってくれ!」

「はいはい、今度ね」

「す、すぐに頼む」

 

 

 刑香と違って、あの黒い鴉天狗は美味しいネタを向こう百年は忘れまい。残念ながら手遅れなのだ、「少し悪いことをしたな」と心の奥で謝罪する。刑香と慧音、二人の言い争いは幼い巫女の安眠を妨害した後、件の居候が帰宅する時まで続いたらしい。

 

 

 それは何とも賑やかな人里の一幕だった。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 幻想郷とは『外』から隔絶された世界である。

『外』の世界で否定され、夢幻に葬られた者たちが最後に辿り着く楽園。近代文明の届かぬこの地にて未だに妖怪は生き、神は存在し、妖精たちは舞い踊る。

 

 

 ―――幻想郷は全てを受け入れる。

 

 

 それが八雲紫を初めとした妖怪の賢者たちが掲げる理想であり、この幻想郷の基本原則でもある。しかし全ての妖怪やその他の存在が『表』の世界、つまりは『地上』に受け入れられるとは限らない。どこの世界にも嫌われ者はいる、それ故に流刑地とでも表現すべき場所が幻想郷にもある。

 

 

 その地の起こりは遥かな昔、とある妖怪が移り住んだことから始まった。かつて地上にてその妖怪たちは人を拐い、略奪し、悪逆を尽くしていた。

 

 それは自らが『退治される存在』になることで人間との胸のすくような決闘を求めたからだ。力を尽くし知略を駆使して自らに立ち向かう人の子たちの姿が好きだった、彼らの儚くも強く生き抜く姿を誰よりも愛していた。そして、かつては人間たちも『』へ畏れと憧れを持って接していた。対等にはなれずとも、共に歩む存在として彼らは認めあっていたのだ。

 

 しかし人間たちは変わってしまった。知略は策略となり、信頼は裏切りに塗り潰され、夜襲に奇襲、果ては酒や井戸に毒物を混ぜての騙し討ち。数百年に渡るそれらに失望し、地上から姿を消した。

 

 

 その妖怪こそが『鬼』。

 かつて幻想郷に君臨した最強の妖怪であり、天狗たちを支配下においた妖怪山の総大将。伝承によっては存在そのものが『死』であり、『異界の怪物』であり、逆に幸福と宝をもたらす者でもある。そして、そこに共通するのは絶対的な力であった。

 

 人間を見放した鬼たちが次の居住地と定めた場所こそ、幻想郷の地下に存在する『地底』世界であった。かつて『旧地獄』と呼ばれていたそこに街を作り上げた鬼、彼らこそが地底世界の基盤を形作った者たちであった。

 

 

 

 

 薄暗い地底世界の中心にそびえる『地霊殿』。

 西洋風に設計された建物は広大な土地を持つ地底に建てられたからなのか、地上に存在するどの建築物よりも巨大で雄々しい姿をしていた。周囲に広がる街をまるで城のように見下ろす姿は雄大にして威厳がある。

 

 

「ふう、これで今日の業務は終わりにしましょうか」

 

 

 その執務室にて、一人の小柄な少女が伸びをしていた。ようやく溜まっていた仕事が片付き、一服できそうなのだ。ちらりと窓越しに外を見ると真っ白な雪が地底の空を染めている。隙間から漏れだしてくる冷気に一度だけ身体を震わせて、少女はカップに残っていた温かい紅茶を飲み干した。

 

 この少女の名前は古明地さとり。

 この地霊殿の主であり、地底の顔役にして幻想郷で『最も恐れられる妖怪』の一人である。やや癖のある薄紫色のボブカットとルビーのような真紅の瞳、涼しげな水色の上着とセミロングスカートが幼い見た目と相まって可愛らしい印象を与えてくる。そして、ここにはもう一人の妖怪がいた。

 

 

「おう、仕事は終わったのかい?」

「まだ居たんですか、勇儀さん」

 

 

 来客用のソファーに寝転がっていたのは少しばかり大柄の女性だった。美しく輝く金髪と豊満な胸部が女らしい魅力を放っているが、その額から生えるのは真っ赤な一本角。よっこらしょ、と立ち上がった彼女は『鬼』だった。

 

 

「だから言ってるだろ。土地の権利が何だかんだっていう厄介事の仲裁を頼まれたんだが、私は小難しいことが苦手でね。ここは一つ、酒を奢るから助けてくれないかい?」

「街での揉め事はすべて貴女に一任しているじゃないですか、いつもみたいに豪快で乱暴な解決をしてください。私は一切責任を取りませんけど」

「ただの喧嘩だったら両成敗で決着がつくんだけどね、今回は駄目らしい。私の配下も頭の弱い連中ばかりだし、こういう時ばかりは天狗を何人か地上から連れてきていれば良かったと思うよ。…………いや、今からでも遅くないかねぇ?」

「止めてください、貴女は地上と戦争でも起こすつもりですか。わかりましたよ、私が出向きます。ただしお酒は要らないので、一つ貸しにしておきますからね」

「おっ、やってくれるか! ならいつもみたいに、一発スパッと解決してくれよ。鬼の名に懸けて借りは必ず返してやるからさ!」

 

 

 それだけ言うと鬼の女性は上機嫌に大口を開けて笑う。彼女の名前は星熊勇儀。かつて地上において『山の四天王』と謳われた最強の鬼の一角にして、白い鴉天狗の名付け親の一人である伊吹萃香の親友。この地底に歓楽街を築き上げた最大の功労者であり、さとりと同じく地底を代表する妖怪である。

 

 

「あー、ようやく肩の荷が降りたよ。くだらないことで酒が不味くなるところだった。いや、連中にとっては重要なことなんだろうが。どうも拳で砕けない問題はまどろっこしくていけないね」

「だからといって、何でも私に回してくるのは勘弁してください。私だって忙しいんですよ」

「悪い悪い、でもお前さんに任せるのが一番手っ取り早いんだ。心を読めるさとり妖怪が交渉事で遅れを取るなんてありえんだろう?」

「それは状況に依ります」

 

 

 ギョロリと、第三の目が勇儀を睨む。『さとり妖怪』、それが古明地さとりの妖怪としての種族名である。その名の通りに心を読む妖怪であり、その能力は人間に限らず妖怪や怨霊にすら極めて有効だとされている。

 そのため彼女はこの地底に渦巻く怨霊たちと灼熱地獄の管理を閻魔、四季映姫から任されている。つまり形式的にいうならば、地底世界の頂点に君臨する妖怪が彼女なのである。本人はその事実を心の底から迷惑がっているが。

 

 

「そもそも絶対に勝てる交渉なんてものはありません。あらかじめ王手までの道筋が用意されていて、椅子に座った瞬間にそれを見破っても状況の打開は困難でしょうから。要するに話し合いというのは始まる前から勝負が決まって…………」

「あー、わかったわかった。過大すぎる期待はしてくれるなってことだろう、それくらいは理解しているよ。お前の最善を尽くしてくれるなら、私は何一つ文句はないよ」

「それならいいですけど」

 

 

 この二人は特に仲が良いというわけではない。

 むしろ、相手を頼る時以外はお互いに顔を合わせないのだから良好な関係とは言い難い。しかしそこは陽気で義理堅い性格の鬼、何だかんだと理由をつけて勇儀は地霊殿を訪れている。一方のさとりも裏表が少なく、嘘を嫌う鬼と一緒にいることは不快ではない、人間と違って鬼は信頼できる存在だとさとりは考えていた。

 

 

「さとり、これは何なんだ?」

 

 

 書類が散乱している執務机。

 その中から、ひょいっと勇儀が掴み上げたのは真新しい封筒だった。すでに封が切られており、中身は何の変哲もない書状だったのだが、微かに懐かしい臭いがしたので気になったのだ。この懐かしいのは地上の匂いだと勇儀は首を傾げる。その疑問へ面倒くさそうにさとりが説明を始める。

 

 

「それは地上の賢者から送られてきたものです。中身を簡単に纏めるなら『博霊の巫女の継承式への参加』と『スペルカードルールへの賛同』を要求してきています。それも一方的に」

「巫女の継承式ってのはともかくとして、『スペルカードルール』ってのは何だい?」

「さあ? 詳しいことは地上にて話したいとのことですから何もわかりません。…………ああ、ちょうど良かった。暖炉の火が弱まっているみたいですね。それを薪と一緒に炉の中へ入れてしまってください」

「いいのかい? まあ、頼まれたならそうするが」

 

 

 勇儀は封筒を掴んで暖炉へ放り込む。 オレンジ色の炎が上質な紙をあっという間に蝕み、黒く燃やし尽くしていく。熱風に吹かれてパタパタと揺れる紙束はまるで、さとりの暴挙に対して「ふざけるな」と抗議しているようだった。炭へと変わっていく書状、炎の中で一瞬だけ『八雲紫』の署名が掠れて見えた気がした。

 

 

「伝えたいことがあるのなら、せめて使いを寄越しなさい。さとり妖怪が相手の顔も見ないで話を聞くわけがないでしょう」

 

 

 燃え尽きていく紙束へと、さとりは冷たく言い放つ。

 これは覚妖怪の性分なのだ、顔の見えない相手とは一切の話し合いができない。『心を読む程度の能力』などという便利極まりなく、厄介な力を持つ故に古明地さとりは『相手の心を読み取らないことには安心できない』のだ。執務机の上にいつの間にか置かれていた書状を読んで「はい、そうですか」とノコノコ地上へ向かうなど、あり得ない。

 

 妖怪の賢者が何故、こうも自分との接触を避けているかの理由はわかっている。心の内に読み取られたくない情報があることと、さとりの能力が『どの程度』まで働くものなのかを警戒しているのだろう。

 妖怪の賢者が隠したがる情報への興味など微塵もないというのに、昔から自分の預かり知らぬところで警戒され、敵視されるのは変わらない。さとりは深く溜め息を吐いた。

 

 

「おそらく次は使者を遣わしてくるでしょうね」

「ほう、地上からの客なんて久しぶりだねぇ。これは盛大にもてなすか、それとも早速借りを返すチャンスがやってきたかな?」

「………そうですね、相手がこちらに対して何らかの強硬策を行ってきた場合には貴女に頼ることにします。力ずくで不遜な妖怪たちを凪ぎ払ってください、『不可侵』の取り決めを破ったのは地上側なのですから遠慮は要りません」

 

 

 抑揚のない声と眠そうな半眼、されどそこには妖気が宿っていた。毒を染み込ませた刃のように言葉を操り、精神を抉り、トラウマを刺激し、心を喰らう化け物。それが覚妖怪の本質である。ちらりと、さとりは心配そうに勇儀を見上げた。

 

 

「言っておきますけど、やりすぎは駄目ですからね?」

「ああ、引き受けた、『鬼』の名において必ずやり遂げるさ。大船に乗ったつもりでいなよ!」

「ぶっ!?」

 

 

 勇儀に肩を叩かれた衝撃で倒れ込む、本人は軽くしたつもりなのだろう。がつんと膝を床で強く打ち付けてしまい、とても痛い。腹が立ったので「悪い悪い」と謝ってくる鬼をとりあえず無視しておくことにした。そのまま、ちらりと窓の外を眺める。

 

 真っ白な雪が街に降り注いでいた。どうして地底に雪がふるのかは定かではないが、やがて春には雪解け水となり地底の川を潤すだろう。先ほど、さとりが口にしていた紅茶の茶葉も元は地底で採れたものだ。地上とは別のサイクルが地底には根付いている。

 

 

「私たちには地上との繋がりなんて必要ないわ」

 

 

 人間にも妖怪にも疎まれた妖怪、地底以外に覚妖怪の居場所は存在しない。そんなことは痛いほどに理解している、だからこそ古明地さとりは地底以外の世界に興味はない。故に地霊殿の主は交流を拒むのだ。地底に異物を入れないために、自分と妹の居場所を護るために。

 

 

「…………こいし、あなたは今どこにいるの?」

 

 

 ぼんやりと開かれた真紅の瞳に熱はなく、どこまでも静かな光がそこには宿っていた。呟かれたのは大切な妹の名前、もう何年会っていないのか、それとも会っているのかすら分からない。それでも姉は妹の帰る場所を守り続けるのだ。

 

 

 それこそ、古明地さとりの存在理由の一つなのだから。

 

 

 


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