その鴉天狗は白かった   作:ドスみかん

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戦闘描写及び残酷な描写があります。
苦手な方はご注意ください。


第十話:人の子はそれを『絆』と呼ぶ

 

 

 長い長い時を、フランドールは生きてきた。

 その悠久の時を身体が、脳が、精神が消えて無くなりそうな暗闇の中で過ごしてきた。破壊の恐怖に怯えながら生きてきた。壊すのは自分であり、壊されるのは常に相手である。それ故に彼女を傷つける者はどこにもいなかった。しかし強大過ぎる能力は精神を蝕み、少女の望まぬ『死』をもたらした。

 自分は世界の全てを壊(ころ)すことができる。それを自覚した瞬間から、まるで世界をガラス細工のように脆く不安定な場所に感じてしまった。その先にあるのは言い表せない恐怖だけ、幼き吸血鬼の少女は何もかもを壊してしまう自分が怖くて仕方なかったのだ。

 

 

 だからフランドールは『壊れないモノ』が欲しかった。自分の恐ろしい能力でも決して壊れないモノを幼き吸血鬼は何百年も求め続けていた。

 

 

 しかし、そんな日々にも終わりは来た。

 壊して壊して壊し尽くす。そんな日々に慣れてしまったのは、いつからだろうか。時には妖精メイドを、時には侵入してきた妖怪を、物言わぬ欠片に変えた。その慣れは急速な精神の崩壊と安定を彼女にもたらした。鈍くなってしまった心に他者の悲鳴は響かない、悲しみの声は聞こえない。その静寂に惹かれて、少女の精神は紅い世界の最下層へ引き込まれていく。ずっと昔の月夜、遂にフランドールの心は折れた。

 

 

 ―――もう疲れたよ。ごめんなさい、お姉さま。

 

 

 能力の暴走を食い止めようと必死だったフランドールの努力はそこで潰えた。もう何十年、何百年前になるのかもわからない。ただ一つ言えることは、能力の暴走に身を任せている時だけは冷たい現実を忘れられるということだった。暴れた後に残るのは、刹那的な快楽と壊れたモノだけ。もう自分にはそれでよかったのだ。

 それでも妹を見捨てまいとしてくれる姉にだけは毎晩、フランドールは夢の中で謝っていた。いつも目覚めると枕が濡れているような気がする。しかし夢の中で何をしたところで現実は変わらない。

 

 

 ―――今日だって同じだ。

 

 

 レミリアが提案した紅魔館の幻想郷への移転。

 それ自体に興味はなかったし、レミリアもフランドールの意見などは求めなかった。だからいつも通り地下室に閉じこもっていた。しかし満月の浮かぶ今夜、侵入者の気配を感じたことにより能力が疼きだしたフランドールは地上へと出てきた。何故か、自分を閉じ込めておく結界は無くなっていた。

 そしてパチュリーと小悪魔が妙な空間に吸い込まれたところを目撃した。これで自分を止められる者はこの場にはいない、思う存分にこの能力を使えるだろう。標的は白い鳥の妖怪と九本の尻尾を持つ狐の妖怪だった、どちらも美しかった。そう、美しい妖怪たちだった。

 

 

「もう、壊れちゃったの?」

 

 

 どこか寂しそうな様子のフランドールが眺めた先に横たわっているのは、血溜まりに沈む二人の妖怪。青い衣を真っ赤に染め上げた狐妖怪と、白い翼を紅い血で濡らした鳥妖怪。侵入者たちを壊したというのに、自分が嬉しいのか悲しいのか、それすらもフランドールはわからない。ただ、狂気と空虚に満ちた笑みを浮かべるだけだ。さあ、姉と戦っている最後の一人も壊しに行こう。それで今夜は能力の疼きが治まるかもしれない。その後は、また地下室に閉じ籠ればいい。誰にも会わないように。

 そう思って、フランドールが宝石の羽を広げて飛び立つ、いや飛び立とうとした瞬間だった。

 

 

 

「余所見してんじゃないわよ、西洋妖怪」

「…………え?」

 

 

 一瞬だけ見えたのは白い翼、そして自分に向かってくる大量の紙切れ。

 それをフランドールが認識した瞬間にその紙切れ、霊夢製のお札が四肢に纏わりついた。美鈴の動きを封じ込めたモノと同じ麻痺と拘束の術式、強烈な呪符に縛られたフランドールはバランスを崩して床へと倒れ伏す。信じられないモノを見る表情で。

 

 

「あれ、あれ? あなた、何で?」

「能力の強制的な全力解放なんて久しぶりよ、それこそ萃香さま以来かも…………っ、一瞬だけど反動で意識が飛んでたわ。とりあえず、あんたはしばらくそのままで反省してなさい」

 

 

 刑香が身体を引きずるようにして血溜まりから立ち上がる。刑香にこびりついた紅色は全て、八雲藍の血だ。フランドールの能力の直撃こそ刑香は免れていたが、藍に当たった攻撃に巻き込まれて気を失っていたらしい。フランドールを呪符で封じた刑香は、美鈴に折られた左足を庇いながら藍の傍へと歩み寄る。点々と血の跡が続いた。

 

 

「藍、生きてる?」

「うぁ、白桃橋………か?」

「………その状態で無茶すると死ぬわよ、私の能力で『死』を遠ざけておくから回復に集中しなさい。あとは私が何とかする」

「ぐっ、すまないな。お前も余裕はないだろうに」

 

 

 重傷の藍へと治療を施す刑香。そこでフランドールはようやく、自分が誰一人壊しきれていなかったことに気づいた。特に白い鴉天狗、刑香の身体は最初にフランドールが目撃したままの姿だ。美鈴がつけた左足の傷しかない。そう、刑香はフランドールの力を受けて無傷だったのだ。

 

 フランドールの全身がざわりと総毛立つ。それは五百年近くの生涯で初めての経験だった。初めて自分の能力で傷を負わなかった相手、フランドールの力をはね除けた相手。その事実を認識した瞬間、喜びとも怒りとも知らぬ感情が胸の底から沸き上がる。そして、それに呼応するようにフランドールの身体から魔力が溢れだした。その動きを封じていたお札が急速に黒ずんでいく。ギシリ、と術式が悲鳴を上げるように軋んだ音を鳴らした。

 

 

「藍、一旦ここを脱出しましょ「逃がさない」…………!?」

 

 

 幽鬼のごとき雰囲気を纏い、立ち上がったフランドール。彼女を封じていたお札は黒い蒸気を発して燃え尽きていく。あまりにもフランドールの魔力が高すぎたのだ。霊夢渾身の呪符が灰に帰していく、その異常な様子を警戒した刑香が錫杖を構え直す。焦点の合わない視線を迷わせるフランドールの口から言葉が零れ落ちる。

 

 

「どうして壊れないの、確かに壊したのに。もう『壊れないモノ』は諦めたのにどうして今更、あなたみたいなのが現れたの?」

「………何を、言ってるの?」

「もう遅いの、もう要らない。私は世界の全てを壊せるならそれでいい、だからあなたは邪魔なのっ!」

 

 

 まるで自分に言い聞かせるように悲しげに、そして周りに当たり散らす子供のように幼い吸血鬼は叫んだ。真っ赤な瞳は狂気に揺れている、金色の髪は仄かな光を纏う。澄み切った魔力はまさに吸血鬼、西方世界の頂点に君臨する種族の一人は白い鴉天狗に向けて襲いかかった。

 

 

◇◇◇

 

 

 油断は一瞬だったはずだ。

 敵の魔法使いと使い魔をスキマに閉じ込め、図書館から敵の姿が消えた。残っているのは紫と戦っている異変の主だけであり、紫が負けるなどとは刑香と藍は微塵も考えていなかった。だからこの異変はここまでだと、解決したものだと判断してしまった。そこで油断した、周囲への警戒を二人は緩めてしまった。

 

 その一瞬で藍が狂気に倒れた。あの瞬間に刑香が感じたのは、生まれて初めて感じるくらいの悪寒だった。まるで明確な『死』を突き付けられたかのような濃密な死の香り、その『破壊』の力はパチュリーの魔法ですら有効打を与えられなかった藍の護りの妖術を本人ごと粉砕した。直撃を受けたのが刑香だったのなら、間違いなく即死だっただろう。だからこそ『死を遠ざける程度の能力』が自動的に発動した、まさに命拾いそのものだ。

 

 しかし、その一方で刑香は藍を護ることが出来なかった。フランドールの能力は視界から対象を隠しただけでは防ぐことができなかったからだ。あの瞬間で正しい行動は刑香が藍に『死を遠ざける程度の能力』を使うことだった。そうすれば刑香の多大な負担と引き換えに藍は無傷で済んだはずだ、今の刑香にそんな余裕があったのなら。

 ともかく、そうして命を拾った刑香は現在、大図書館の虚空でフランドールと戦いを繰り広げていた。

 

 

「反省していなさいって言ったでしょ。聞き分けのない子供は嫌われるわよ!」

「いいよ、もう嫌われてるもの!」

「だったら好かれる努力をしてみたら?」

「それこそ余計なお世話だよ!」

 

 

 白い鴉天狗と紅い吸血鬼の空中戦。

 鋭い爪を振りかざすフランドールの攻撃を、刑香は錫杖で捌いていく。一撃ごとに薄い傷が入っていく錫杖を冷静に構えて、吸血鬼の攻撃を受け流す。そして無警戒に突っ込んできたフランドールの頭をそのまま錫杖で殴りつけた。ギシリ、という手応えが刑香の腕に伝わり、カウンターに近い打撃を受けたフランドールが垂直に地面へと衝突する。

 

 

「あははっ!! こんなの全然効かないよ、白い鳥さん!」

「っ、手加減なしでぶん殴ったのにダメージなしか」

「今度はこっちの番だねっ!」

 

 

 フランドールは無傷だった、やはり刑香には力が足りていない。そしてフランドールが空中の刑香へと右手を突き出した、再び強烈な寒気が刑香を襲う。回避行動に移ろうとして、軋みを上げ始めた自分の身体に刑香は舌打ちする。美鈴との決闘、能力の強制発動、藍への治療が自分の体力の大半を奪いさっている。フランドールの能力は疲労した身体ではかわせない。

 

 

「きゅっとして、ドカーンッ!!」

「――――ぐぁ!?」

 

 

 刑香の『能力』により逸らされた攻撃が、本棚を大きく爆散させる。それに巻き込まれ、バランスを崩した刑香が地面へと叩きつけられた。バラバラに撒き散らされた魔導書と共に床に刑香が倒れ込む。胸を打ち付けて荒い呼吸に苦しむ鴉天狗を見下ろしながら、床へと降り立つ吸血鬼。フランドールは落ちていた羽をひょいと拾い上げた。

 

 

「わぁ、キレイな羽。宝石箱にいれて宝物にしようかな、それともお姉様にプレゼント?」

「それは、光栄なこと、ね。羽なら、くれて、やるから………子供は明日に備え、て眠ること、をオススメするわ」

「もうバテたの? まだまだ、これからなのに」

 

 

 息も絶え絶えな様子でどうにか壁に寄りかかり、フランドールを睨む刑香。外傷は美鈴によって負わされた左足くらいなのだが、能力の連続使用で身体はガタガタだ。会話をしながらも必死に呼吸を整えることに専念する。クスクスと笑い声を漏らすフランドールが一歩ずつ、ゆっくりと近づいてくる。

 刑香は錫杖を持つ手が震えそうになるのを抑えつけ、怯えそうになる自分の心を叱咤する。幸い傷自体は戦闘に影響するものは少なく、翼は無傷、ならば仕切り直すことは不可能ではないはずだ。ようやく呼吸は整ってきた、勝負はこれからだ。

 

 

「行くわよ、ここからが「うん?」………え?」

 

 

 恐らく一気に距離を飛んで詰めたのだろう、目の前にフランドールの顔があった。それに思考が停止した瞬間、腹部を下から撃ち抜かれる衝撃が刑香を襲った。可愛らしいストラップシューズから繰り出されたフランドールの凶悪な蹴り、身体の芯がメキメキと嫌な音を立てる。

 

 

「~~~~っ!」

 

 

 その勢いを逆に利用して刑香は十数メートルはありそうな天井近くまで飛翔する。同時に、胃の中のモノが逆流してくるのを口を抑えて何とか耐える。口の中に血の味が広がった。おまけに重々しい痛みが腹部から這い上がってくるのを感じる。こちらは決して浅いダメージではない、間違いなく今後の戦闘にも影響するだろう。自分の不甲斐なさに、刑香はもう一度だけ舌打ちをする。

 

 

「さっきまでより、とっても遅いよ?」

「ごほごほっ………あんたの所の門番とも戦ったからね。連続の戦闘なんてスタミナが持たないわよ。ちょっとは察しなさい、チビッ娘吸血鬼」

「あははははっ、なら優しく壊してあげるね!」

「謹んでご遠慮させていただくわ!」

 

 

 再び空戦を繰り広げる両者。

 フランドールの攻撃はとても直線的だ。彼女の戦い方には美鈴のように巧みな武術はなく、パチュリーのように高尚な魔法技術は組み込まれていない。なので先程のように構えを解いていなければ、その攻撃を捌くこと自体は刑香にも容易だった。

 ただし一撃ごとに両手を痺れさせる彼女の怪力に目をつぶるならば。そして、それを無視できない故に単なる力で、生まれ持った妖怪としての差で、徐々に消耗した刑香は追い込まれていく。何よりも大図書館の狭い空中では美鈴の時のようにスピードによる撹乱ができない。これでは、まるで鳥籠だ。

 

 

「くっ、こんな空間じゃあ振り切れない!」

「どうして逃げるの? そんなんじゃ私を壊せないよ?」

 

 

 カクン、とフランドールが首を傾ける。

 戦いの始まりから今まで、刑香が積極的に攻撃したのは最初だけだ。それ以後は勝負を引き伸ばすように、回避に集中している。これでは自分を『壊す』ことなどできないというのにだ。それがフランドールには不思議で仕方なかった。負傷した腹部を手で押さえながら、刑香は不敵に笑う。

 

 

「私がするのは時間稼ぎだけよ。紫が駆けつけるまで私が持てばそれでいい、そうすれば私たちの勝ち。大妖怪、八雲紫ならあんたにも勝てる。他者の力をあてにするなんて情けない作戦だけどね」

「ふーん、信頼してるんだ。仲間のことを」

「さあね、とりあえずはもう少し私と鬼ごっこをしましょうか」

 

 

 このまま追いかけっこを続ければ、遠くない未来にスタミナの尽きた刑香はフランドールに捕まるだろう。そうなれば終わりだ、腕力に劣る刑香にフランドールの拘束から抜け出す方法はない。それは白桃橋刑香にとっての最期になる。それでも刑香は怯えを見せない。この程度、あの『小さな百鬼夜行』に挑んだ時と比べるなら窮地であっても死地ではないのだから。

 

 

「もう鬼ごっこは飽きちゃった。…………ねえ、白い鳥さんは知ってる? チェスの『クイーン』の駒はね、大抵一つのセットに予備が入っているの。ポーンが昇格すると必要になるから、いくつかスペアが用意してあるのよ」

「………そういえば、そうだったかもね」

 

 

 突然、チェスの話を始めたフランドール、それを疑問に思いながらも刑香はその話に付き合うことにした。これで平和的に時間が流れるのは刑香にとって都合が良かったからだ。しかし、ゆらりと自分の背後に現れた影に刑香は気がつかなかった。大図書館にいる敵がフランドールのみだと思い、目の前の幼い吸血鬼に全神経を集中していたからだ。そして、それは間違ってはいない。

 

 

「………でも残念だけど、チェスはあまりやったことがないわ。百年前に何回か、西方からの渡来人相手に遊んだくらいかしらね。幻想郷が今の形になる前だけど」

「そうなんだ、なら説明もしてあげるね」

「何の説明…………がっ!?」

「「こういうことだよ、白い鳥さん?」」

 

 

 突然、背後から聴こえてきた二つの声が刑香の鼓膜を震わせた。何故、この声が後ろからして来るのかと刑香は驚愕する。しかし刑香が振り返る前に、小さな手が刑香の白い髪を掴み上げた。そして翼も二人組に押さえつけられる。

 

 

「な、にっ!?」

 

 

 両翼を万力のような力で封じられ、バランスを崩して刑香は墜落する。そして、そのまま大理石の床に叩きつけられた。肺にダメージを負い、激しく咳き込む刑香。翼は何者かに抑えつけられたままで逃げられない。そして三人掛かりで刑香を空から引きずり降ろした犯人たちは、残酷な笑みを持って姿を晒した。

 

 

「げほっ…………こんなの、嘘でしょ?」

「「「嘘じゃないよ」」」

 

 

 刑香を見下ろしていたのは三人に増えたフランドールだった。三つ子と紹介されれば納得せざるを得ないであろう瓜二つの姿、だが発せられる魔力の波から三人が紛れもなくフランドール本人であることが刑香には理解できた。つまり、これは何らかの魔法の一種なのだろう。しかし理解できたところで襲ってくるのは絶望だけだ。一度捕まってしまえば、刑香の力ではフランドールを振り払えない。その事実に刑香が顔を青くするよりも早くギシリ、と翼が軋む音を上げた。

 

 

「…………何をするつもり?」

「やっと捕まえたのに、また飛ばれたら逃げられちゃうでしょ。だからね、飛べなくするの」

「―――っ! ち、ちょっと冗談よね?」

 

 

 フランドールが刑香の翼に掛ける力を増していく。

 「まさか」と、その意味することを理解した刑香の顔から血の気が引いた。この翼は鴉天狗としては出来損ないである刑香にとっての唯一の自慢だ。射命丸文や姫海棠はたてと親友になった切欠をくれたモノでもある。だから白桃橋刑香にとって、命の次に大切モノ。それを、まさか―――。

 

 バキィッ、何かがへし折れた音が大図書館に鳴り響いた。そして同時に絹を裂くような悲鳴が、響いた。

 

 

「まず片方っ、と」

「―――が、ぁあああああ!?」

 

 

 悪夢のような痛みに刑香が絶叫した。

 何とかこの状況から抜け出そうと暴れるが、フランドールの拘束はびくともしない。根元から折られた白い翼は痛々しく、引き抜かれた白い羽が雪のように舞う光景は美しかった。「きれい………」と、それを眺めていたフランドールは鴉天狗の少女からの抵抗が止んだのを感じて首を傾げた。今の痛みで力尽きたのだろうか。

 

 

「ねぇ、暴れなくていいの? こっちの翼も折っちゃうよ?」

「…………もう、好きにしなさい」

 

 

 ぐったりと糸の切れた人形のように刑香は脱力していた。無惨にも折られた翼、鈍痛を訴える腹部と血塗れの左足。刑香の身体はもう限界だった。そして、誇りである白い翼を折られた事実が唯一の支えであった精神力さえ奪い尽くしていた、命より少しだけ先に心が折れたのだ。

 そんな刑香へ「ふーん」と、つまらなさそうな表情をしたフランドール。白い翼に掛ける力が増していく、それに伴って刑香の残った片翼が骨の軋むような音を上げる。自分の終わりなど、まだまだ先だと考えていたのだが、どうやら死神の世話になるのは思ったより早かったらしい。そう覚悟を決めた刑香は瞳を閉じた。

 

 まさにその瞬間だった、翼を掴んだフランドールの動きがピタリと止まったのは。

 

 

 

「ん、あれ? 腕が動かない?」

 

 

 いつまでも襲って来ない痛みに、刑香が恐る恐る瞼を開ける。

 フランドールの動きが止まっていた、いや止められていた。刑香の翼をへし折らんとした腕を封じ込めていたのは青い光を放つ鎖、それは幾重ものお札で編み込まれた拘束術式。以前、刑香が『あの娘』をご褒美と称して甘味所へ行った日に目撃した術そのものだった。ならばその意味することは一つ、あの娘がすぐそこにいるとういうことだ。唖然とした刑香の耳に、聞き慣れた声が届く。

 

 

「絶対にみんなで帰ってくるって約束したのに、諦めるなんて酷いじゃない刑香。それに藍はどこなの?」

「ど、どうしてここに!?」

 

 

 大図書館の入り口に堂々と佇んでいたのは紅白の童女。とても不機嫌そうに、幼い巫女はお祓い棒とお札を持って佇んでいる。いつもの冷めた雰囲気はそこにない、少し赤みがかった瞳は静かな怒りに燃えていた。苦労して辿り着いた敵の本拠地で、初めに目撃したのがボロボロにされた刑香だった。そして自身の直感が藍もまた無事でないことを告げていたからだ。霊夢の瞳には、幼い吸血鬼に対する怒りが滲んでいた。

 

 

「っ、私のことはいいから藍を探しなさい!」

 

 

 自分のことは放っておけと、刑香が焦った様子で霊夢へと叫ぶ。

 ここにいるのは三人に増えたフランドール、それが分身か本物なのかは刑香にはわからない。だが、どのフランドールも吸血鬼としての力が恐らく本物なのは、感じる魔力から間違いない。いくら天才たる霊夢でも三人の吸血鬼を相手にするのは荷が重すぎる。

 もし先に刑香を助け出したとしても、瀕死に近い刑香と未熟な霊夢だけではフランドールたちにはきっと敵わない。何よりも今の刑香には霊夢を護る力はない。故に刑香は「自分を見捨てて逃げろ」と霊夢へ訴えたのだ。しかし霊夢は動かない。訝しげに自分を睨むフランドールたちの視線に身じろぎもしない。

 

 

「大丈夫だよ、刑香たちを助けたいって思っていたのは私だけじゃなかったみたいだから………本当は私一人で助けたかったんだけど、この場合は仕方ないよね」

「霊夢、何を言って…………?」

 

 

 余談だが八雲紫は妖怪の賢者であり、賢くしたたかだ。天魔を含めた大妖怪たちが彼女への協力を断ったのも『八雲紫が強い』ことに少なからず起因している。八雲ならば、この程度の異変は片手間に解決してしまうに違いない。下手に関わっては自分たちが厄介事を背負わされる危険がある。そう思ったからこそ、彼らは八雲紫を助けなかった。

 ならば、その逆の者にはどうであろうか。例えば決して強者とはいえないであろう白い鴉天狗の少女に手を差しのべる者は、果たして幻想郷に一人もいないのだろうか。答えは否だ。

 ふわり、と真っ黒な羽が舞い落ちた。

 

 

 

「あややや、天魔様からは偵察だけだと言われていたんですけど。幻想郷の未来を担う巫女殿のピンチなら、手を貸すしかないですよね」

「よく言うわよ、あの巫女が現れなくても何だかんだと理由を付けてアイツを助け出すつもりだったクセに。まあ、私は巫女なんて関係なくあの宝石羽の妖怪を蹴り飛ばすつもりだったけど」

 

 

 ゆっくりと虚空を舞い踊る黒い羽根、そして風に乗って聴こえて来た涼やかな声たち。

 刑香の心臓が大きく脈を打った。あり得ない、今のは幻聴だと刑香はその希望を否定する。こんな絶望的な状況へ『あの二人』が助けに来るなんてあり得ない。そんな都合のよいことがあるものかと、基本的に冷めた性格の刑香は信じることができない。しかし、そんな刑香の絶望を吹き飛ばす『風神』たちが霊夢の隣へと降り立った。

 

 

「だいたい六年ぶりくらいですかね。いやー、ホントに久しぶりですね」

「嘘つけ、この腹黒天狗。あんたは掟を破ってちょくちょくアイツと会ってたでしょ。私なんて本当に六年ぶりよ? こんな異変の最中に再会をするなら、こっそり会いに行けばよかったわ。そう思わない?」

 

 

 カランと、一本歯下駄が鳴る。そこにいたのは濡れ鴉のような艶やかな黒髪を肩口にまで伸ばした少女と、見事な茶髪を可愛らしくツインテールに結んだ少女。驚きで言葉が出ない刑香へと、おどけるように、しかし確かな親愛を込めて二人の『鴉天狗』たちは言葉を紡ぐ。哨戒などの任務時にしか身につけることのない天狗装束、腰から下げられた妖刀と葉団扇。

 それは大天狗たちに認められた鴉天狗のみに許された正式武装。それは、わざわざ日の落ちる前から紅魔館の周辺を見張っていた二人が念のためにと組織から失敬してきた装備一式だった。黒い鴉天狗の少女たち、射命丸文と姫海棠はたては白い鴉天狗の少女へと希望の言葉を紡ぐ。

 

 

「助けに来ましたよ、刑香」

「助けに来てやったわよ、刑香」

 

 

 それはきっと輝ける鬼の財宝よりも、長寿をもたらす天界の桃よりも尊きもの。例え、何があろうとも決して『壊せない』モノがこの世界には確かに存在する。『全てを壊す力』を持つ幼き吸血鬼の少女は紅い満月の微笑む夜、そのことを知る。

 

 

 


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