暖かくなってきたとある春の日。
いのは友人であるサクラと共に、アカデミーからの帰り道を歩いていた。
その日は天気の良い日で、心なしかサクラの歩調は軽い。サクラは晴れの日が好きらしく、天気が良い日はいつもよりほんの少しだけ機嫌が良くなるということをいのは知っている。
今日もご機嫌らしく、サクラは今にも鼻歌でも歌いだしそうな様子であった。
そんなサクラの後ろ姿を眺めながら、いのは友人のことを「単純」と心の中で小さく思う。実際、サクラは表面的には分かりやすい性格だといのは思っている。
「あ」
ふと、サクラが何かに気がついたように、突然、晴天を指差した。
いのもつられるようにして、そちらへと目を向ける。
青く澄み渡った空には黒く小さな点が3つばかり見えた。それはくるくると踊るように、空を動き回っている。
「ツバメだ!」
サクラが嬉しそうに声を上げる。
「今年初めて見た」
初ツバメか、縁起がいいなとツバメの遠影を見つめながら、サクラは呟く。
初物は何でも縁起がいいものだ。初ナスにしろ、初鰹にしろ、その年の初めてのものは重宝される。
初ツバメがはたして縁起物なのかはいのには分からなかったが、いのは別にこれが初物ではないことを知っていたのでサクラのように無邪気に喜ぶことはできなかった。
「ツバメなら少し前から結構飛んでるところ見かけたわよ?」
「え?」
いのの言葉を聞いて、サクラは振り返った。驚いたような顔を浮かべているから、本当に知らなかったのだろう。
少し前から、家々の軒先にあったツバメの巣は少しずつ空になり始めている。ツバメたちの引越しはもうずいぶん前から始まっていたのだ。
「もっと早く教えてくれても良かったのに」
そう言いながら、サクラは頬を膨らませた。
サクラは時々こうして子どもっぽい表情を見せることがある。そういう時のサクラの表情は、大抵安っぽい演技でもしているかのように嘘っぽいといのは感じていた。
だから、そのあんまり好きじゃない嘘っぽい表情を頬をつつくことで潰してやる。
途端、ぷすーと少し間抜けな音を残して、サクラの頬の膨らみは消えた。
「ほおずきみたいな真似してないで、ほら行くわよ」
言いながら、いのはサクラを追い抜いて足を進める。
待てよと言うサクラの声を背後に聞きながら、いのは少しばかり昔のことを思い出していた。
その時のいのはまだ六つだった。アカデミーに通い始めたばかりで、身長も今のいのの胸ほどもなかっただろう。身体もだが、思考もまだまだ幼かったと、いのは当時の自分を振り返る。
その日、いのはアカデミーの校舎の軒下で一匹のヒナを見つけた。
校舎の屋根を見上げれば、そこにはツバメの巣がある。どうやらこのヒナは巣から落ちてしまったらしい。
もどしてあげなくちゃ。
いのは幼い正義感でそう思った。
このまま、地面に転がっているままではこのツバメは死んでしまうだろう。死んでしまうのは可哀想だ。そう思ったいのは、ハンカチで柔らかくヒナを包み込んで大事に手に抱えた。
けれど、そこから先、いのはどうしていいのか分からなかった。
ツバメを巣に戻してあげたいが、いのの身長じゃとても巣には届かない。よじ登ろうにも、ヒナを手のひらに乗せているので手がふさがってしまっている。
どうしようかと、眉尻を下げながらヒナを見下ろしていた時、不意に背後から声をかけられた。
「何してるんだ?」
その時声をかけてきたのが、春野サクラだった。
今になって思い返してみると、いのが春野サクラをきちんと“サクラ”として認識したのは、その日が初めてだったと思う。
いのもサクラも互いに物怖じしたり、人見知りしたりする性格ではない。今までも同じくノ一クラスの一員として見かけることも、言葉を交わす機会もあった。
それでも、その時までいのにとってサクラは同じくノ一クラスのクラスメイトの一人でしかなかったし、サクラにとってのいのも同様だろう。
人と人とが出会う瞬間をお互いが認識した時であると定義するならば、この瞬間、サクラといのは出会ったのだ。
いのは大事に抱えたツバメのヒナをサクラに見せながら、事情を説明した。
彼女はいのの説明を聞き終えると、いのの手の中で震えるヒナと頭上の巣を一瞥してから真面目な顔をしてこう言ったのだ。
「残念だけど、そのヒナは巣には戻せないよ」
サクラの言葉に、いのはキョトンとした。サクラが何故そんなことを言うのか、分からなかったからだ。
「一度、人間の匂いがついたヒナは巣には戻せない。親鳥が受け付けないんだ。餌だって分けてもらえない」
巣に戻したとしても死ぬだけだと、サクラは語った。
いのはサクラの言葉を聞いて、益々眉尻を下げる。
自然界の摂理はいつだって厳しい。けれど、まだまだ幼い彼女には残酷な話であり、到底簡単に聞き入れられるものではない。
「だったら、私が世話をする!」
反射的に、いのはそう叫んだ。
そうだ、その通りだ。言いながら、いのは自分の考えを肯定する。
巣に戻せないのならば、自分が世話をすればいいのだ。
いい考えだといの自身は思ったが、目の前のサクラはいのの発言にあまりいい顔をしなかった。
思えば、彼女は最初から知っていたのだろう。
仮に、いのがヒナに餌を与えて大きくすることは出来たとしても、そのヒナは餌の取り方を覚えることはない。巣立ちができなければ、その時点でヒナは死んだも同然なのだ。
巣から落ちた時に、このヒナの運命は決まってしまっていた。
後は遅いか、早いか。ほんの数ヶ月の違いがあるだけに過ぎない。
けれど、いのはその事実を知らなかったし、サクラも語らなかった。
サクラが口にしたのは、もっと別の言葉だったのだ。
「だったら、俺が面倒をみるよ」
俺の方がきっと君よりツバメのことは詳しいし、とサクラは言いながらツバメを見下ろした。
いのには、この時サクラがどんな表情を浮かべていたのかを思い出すことができない。優しい目をしていた気もするし、悲しい目をしていた気もする。
一体、どちらが正しかったろうか。今となっては、いのに真実を確かめる術はない。だから、いのがその答えを知ることはもう永遠にないのだろう。
「でも」
「君も時々様子を見に来ればいいだろ?」
食い下がろうとするいのに、サクラは優しく微笑んでみせた。
その表情、見たことある。その時、いのは咄嗟にそう思った。その微笑みは、どこかいのに両親を思い起こさせるものだったのだ。
あの笑顔はどんな時に浮かべるものだったか。当時のいのは結論を出すことができなかった。
けれど、今にして思えば、あれはワガママを言う子どもを宥める時に大人が浮かべる笑みと何ら変わりないものだったのではないだろうか。今更ながら、いのはそんなことを思う。
だとすれば、それはいのと同い年の少女が浮かべるには、あまりにも不似合いな表情ではないだろうか。
結局、いのはサクラに丸め込まれて、雛鳥はサクラの家で世話をすることになった。ただし、世話は二人でみるという約束をさせた辺り、当時のいのも相当頑固者だったに違いない。
サクラの家で牛乳パックで雛鳥の仮宿を作り、二人で集めた草や木の枝を敷き詰めて餌をやった。
雛鳥は愛らしく、見ていて飽きない。地面からミミズを引っ張り出すのには抵抗があったけれど、雛鳥のためだと思えば我慢できた。慎重な手つきで、おそるおそる雛鳥に餌をやろうとしたことをいのは今でも覚えている。
けれど、それも所詮は胡蝶の夢に過ぎなかったのだろう。
やがて、雛鳥はサクラの家から姿を消した。
「ヒナは飛んで行っちゃったんだ」
サクラは当時いのにそのように告げた。
今のいのは、それが嘘だと知っている。現にサクラの家の庭の片隅には小さな小さな墓があった。あれが何の墓だか、サクラはいのに決して語らなかったが、あれができたのは多分あの頃のことだったはずだ。
当時のいのはサクラの言葉を信じて、雛鳥がいなくなったことに寂しさを覚えはしても、彼もしくは彼女が自由に空を舞っているのだと思えば誇らしいような気持ちになっていた。
自分たちが育てた雛鳥はあの雲の向こうを今も飛び回っているのかもしれない。それはとても素敵な空想だったのだ。幼い子どもが、寝る前に思いを走らせるには最適だったに違いない。
実際には雛鳥は大空を舞うどころか、サクラの家の庭の地面で冷たくなっていたのだけれど。
当時を振り返りながら、サクラを責めるのはお門違いであるといのは思う。
サクラが真実を語ったところで、雛鳥の運命は変わらなかっただろう。サクラはいのを思いやったに過ぎない。
残酷な現実よりも、優しい嘘を。
それは子どもに読んで聞かせる絵本に描かれるイラストのように淡い嘘だ。罪だと言及するには、罪状が足りない。
当時からサクラは、変なところで子どもらしくない子どもだったといのは振り返る。
自分の人生のおよそ半分の時間を友人として生きてきた相手だ。他の誰が気がつかなくても、いのには分かる。あれは何か秘密を抱えた人物だ。そして、それを誰にも明かさず押し隠したままでい続けようとする、とんでもない嘘つきだ。
いのにとってサクラは最も信頼できる友人のひとりである。と、同時に一番疑うべき友人でもあった。サクラは優しいが、同時に酷い嘘つきでもあったから。
必要であれば、彼女は平然とした顔でいのに嘘を吐き、欺こうとするだろう。それこそ、自分ひとりだけの手のひらにすべてを抱いたまま。
雛鳥の死を幼いいのに覆い隠したように、汚いものから自分たちを遠ざけるためならばいくらでも。
それはフェアではない。友人が友人に行う行為ではない。
友人であれ、恋人であれ、人と人の関係は対等でなければならない。どちらかがどちらかに縋り、寄りかかる行為は結局は双方の関係を摩耗させ、壊してしまう。
無償を貫けるのは親が子に向ける愛情くらいなものじゃないだろうか。
そう、それだ。いのは思う。
サクラは、自分をいのたちの保護者か何かと勘違いしているのだ。
大体、きっとサクラは今この瞬間も何食わぬ顔でひとり、隠し事を続けているに違いないといのは確信していた。
人が一人で持てるものの量はあまりにも少ない。だから、人は自分の手に何を持つかを常に悩む。
その手に武器を持つのも、花を持つのも個人の自由だ。サクラが何を持とうとしても、いのはそれを一方的に非難しようとは思えない。それこそ、隠し事を大事に抱えていたとしても構わない。
ただ一人で何もかも背負わないで欲しい。
友人とは、共に歩く人だといのは思う。
人生という道を一緒に歩いていく仲間。旅の荷物は分かち合うぐらいでちょうどいいはずだ。
せっかく隣にいるんだから、いのにくらいは分けてくれてもいいじゃないか。
だから、いのは過剰なほどにサクラの世話を焼く。
周囲のことを子どもを見守るような目で見つめる彼女を、いのだけはせめて世話を焼いてやるのだ。
そうでなければ、あまりにも不公平ではないか。周囲の幸せを祈るばかりのサクラの分の幸せは、誰かが代わりに余分に祈ってやらなければならない。
そういった自分の想いを、いのはサクラに語らない。
語ったところでサクラの悪癖が治るとは思えないし、むしろ、この愚か者はいのから距離を取ろうぐらいは考えるかもしれない。
「あー、やだやだ」
思わずいのは自分の思考を振り払うように独りごちてしまう。
見上げた空では、相変わらずツバメたちがくるくるといのを小馬鹿にするように飛び回っている。
ツバメたちが飛び立てば、あっという間に初夏になる。初夏は春の気配を連れ去って、じきに本格的に暑い日々が続くようになるだろう。その頃にはほおずきの季節が来るのだ。
きっと、いのは店先に並ぶほおずきを眺めるたびにサクラの嫌なところを思い出して、腹立たしい気分になるのだろうなと思った。少しばかり憂鬱な話だと思う。
サクラはアカデミーでの忍術やら教養やらの座学の成績はいいくせに、くノ一クラスでの授業だけは何故か苦手としていた。だから、彼女はきっと気づいていないのだろうといのは思う。『ほおずきみたい』に秘められた揶揄を。
ほおずきの花言葉は“いつわり”。
嘘つきのサクラにはピッタリだといのは思っている。
その秘められた苦言をこのバカ娘が気がついてくれれば、いくらか胸の内がすっきりするのだろうか。
「早く秋にならないかしらねー」
「いくら何でも気が早すぎるだろ」
何にも分かってない友人は、いのの言葉をそう言って苦笑いで流してしまう。
――あぁ、もう本当に分かってない!
心の中でいのは盛大な悪態をついた。
この女友だちは、時々こうして男みたいな鈍さを発揮するのだ。普段なら気にもならないことだけど、こんな時はそんなサクラを忌々しいと思ってしまう。
本当に早く秋にならないだろうか。いのは祈るようにそう思う。
その頃には、ほおずきの季節はきっと過ぎ去って、秋の花が店頭を飾るようになるに違いない。サクラもほおずきなんかじゃなく、秋の花に変わらないだろうか。
そうだ。いのは心の中で呟く。
どうせなら、菊の花がいい。それも白い菊の花が。
一般的には、大抵の問題は時間が解決してくれると言う。
秋が来る頃には、いののこの悩みも解決しているのだろうか。
いのはそんなことを思うが、答えてくれる者など当然いない。
ただ、そんないのとサクラの頭上で相も変わらずツバメたちが優雅に空を舞っているだけであった。
白い菊の花言葉は“真実”。