東京喰種[滅]   作:スマート

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#005「動揺」改訂版

 月明かりに照らされながら僕は音楽を聴き、ただそれだけを……自分はこれからどうやって生きていけば良いのかを考えていた。 

 

人生に迷った時、自分のしていることが分からなくなった時、僕は決まって音楽を聴くことにしている。音楽は数少ない僕の癒しの一つで、耳にお気に入りのイアホンを当て、人通りの少ない静かな路地裏それも血なまぐさくない場所で目を瞑りながら鑑賞する時間はとても有意義だ。

 

壮大な曲なら勇気を与え、楽しげな曲なら余裕を貰い、安らかな曲なら思考を纏めてさえくれる。特に昔から聞きなれた童謡やゆったりとした歌謡曲は良い、あの古からの研ぎ澄まされた音色は聞いている者の心を鎮めてくれる。

 

優しく染み渡る様な曲を聞いていると、先日起こった梟との戦いにおいて僕に突きつけられてしまった、今まで隠し続けていた事がどうしようもないちっぽけな事にも思えてしまうから不思議だ。

 

何故あんなことで悩んでいたのだろうと、思春期の悩みを大人になってから下ら何事で悩んでいたと昔を懐かしむ人のような思考に成りかけていたが、悩むことを止めただけで僕の問題が解決したことにはならない。

 

僕は何のために、何をするためにこの歪んだ矛盾や間違いだらけの世界に生まれてきたのだろうか。嘘や偽善が横行し人を信じられなくなるまで騙し騙され、自分以外が全て的に見えるまで心を鋭く尖らせて、僕は一体何がしたかったのだろう。

 

何のために喰種を殺すのか、何のために人間を護ろうとするのか。そう問われた時、僕は決まって「喰種をこの世界から撲滅するため、全ては妹のため」と連呼してきた。三日前までの僕ならそう断言することが出来ただろう。そう今までは信じて疑わなかった。あの…喰種に出会うまでは。

 

 闇夜の路上に仲間を助けるために颯爽と現れた喰種の事を、夜に生きる者なら噂として小耳にはさんだことくらいはあるだろう存在。「隻眼の梟」、喰種の天敵であるCCGに対して大規模な喧嘩を売り、多数の特等捜査官相手に戦い善戦したとされる、喰種の中でも最強クラスの化け物。

 

彼と戦ったとき、意識が跳びかけていたが、あの男が身体に纏う赫子がまさに梟と呼ばれるに相応しい姿になっていたことは、辛うじて覚えていた。あれは天災だった…とてもではないが、僕が生きているということ自体、奇跡に近いのだ。

 

場所が良かった、運が良かった、そして何より僕と戦った「梟」の人柄がよかったのだろう。

 

 梟は手加減していたつもりだろうが、僕があの後、腹に開いた穴を塞ぐために三日は費やした。途中でCCGの捜査官が何処かで漏れた交戦現場の調査に来た所為で、物陰に隠れてやり過ごしたが、アレはアレで生死の境をさまよったのだ。

 

他の喰種からRc細胞を奪うことが出来なかったので瞬間的な肉体の再生は出来ず、開く傷口を抑えながら物陰で休む事を数度繰り返しての復活だったが、全快とは言わないまでも立って動けるまでには回復することが出来た。

 

そんなSSSレートの化け物が何でも今から七年前に20区で喫茶店を開いている、人間好きの喰種なのだという。

 

 あの「梟」が人間好き?

 

 CCGの捜査官をあの時かなりの数惨殺したという、あの恐ろしすぎる肩書を幾重も持つ「化け物」が?

 

あり得なさすぎて、三日前に出会った梟は、似ているだけで別人ではないのかと思ってしまう。僕も実物を見たことが無いだけにその答えもあながち間違ってはいないのではないかと思考の海に沈んでいく。

 

 人間好き…ともするとその言葉は喰種にとって肉が好きという風に聞こえるかもしれないが、その喰種の人間好きは意味が違うのだという。本当の意味で、共存する隣人としての意味で、彼は人間を愛していたのだ…

 

 今まで僕が出会ってきた喰種は、いずれも人を私欲だけで喰らう野蛮な獣のようなもの達だった。それだけに僕は喰種の存在を全て野蛮だとイコールで結び付けていたのかもしれない。

 

だが、実際にあって対面し、言葉をぶつけてみると、今まで考えていた喰種像が鏡を割ったかのように崩れてしまう。彼は僕が今まで出会ってきた殺人鬼のような奴らとは正反対の温厚な人格を持っていたので驚いた。

 

 好戦的で血気盛んなものが喰種という生物に共通している特徴かと思っていたからだ。あの日も、13区に入り込んだ見知らぬ喰種の匂いを追い掛けて、黒髪の少女に出くわしたのだった。

 

 そう考えてみれば、あの少女もまた違っていた。性格がおかしく狂っているように見えた喰種の中で、あんな悲しそうな顔をして、死を受け入れていた喰種は初めてだったかもしれない。あの少女は僕がいた13区の喰種ではなかった、だとすれば僕の住んでいる13区の喰種が、血気盛んな奴らが多いだけという事になってしまう。

 

僕は、喰種に対して酷い思い違いをしてしまっていたらしい。偏見も良いところだった。血気盛んな野蛮な喰種というのは、どうやら13区だけの特殊なものだったようだ。まあ早合点はいけないが、それでも多種多様な性格を持つ喰種がいることは分かった。

 

 今でも喰種は、愛しい家族を襲った喰種は憎くて仕方がないが、また違ったものの見方を持つ喰種がいると言うことが分かったのは、あの戦いでの収穫だった。負けてしまったことは、当然とは言え悔しかったが、敗北というものが直結して死に繋がる世界に生きてきただけに、あの経験は新鮮で驚いてしまった…

 

 まさか、喰種が僕に生きて欲しいなどと口にするなんて、夢にも思わなかったのだ。近しいものであろうと、親兄弟であっても、自分の邪魔になったら躊躇なく始末をつける、それが13区における常識だった。

 

 下克上、裏切りが頻繁に起きては鮮血が飛び散るいわば戦国時代のような世界、そこで数年間を過ごしてきた僕は、今まで餌場争いや単純な殺意で僕を殺そうとする喰種達を殺し、喰らってきた。

 

 それで…良いと思っていた。

 アレは害悪なのだと。倒さなくてはならない存在なのだと。

 

 拷問好きでねちっこい爬虫類顔の男や、やたら付き纏ってくる煩わしいオカマ野郎は殺すことが出来なかったが、どこからどう見ても悪という面構えをしていたし、どちらかというとあちらの方から喧嘩を吹っかけてくることが多かった。だがそれはある意味ありがたかった、殺される側が従順なのは殺す側としてもどこか気が引けてしまう。

 

最初から最後まで一貫した悪を貫いてくれるのなら、僕としても余計な感情をさしはさまずに済む。同情せずに、人間の敵として最後の一匹まで屠ることが出来るのだ。

 

そうやって僕は見たくない現実から眼を反らしていたのかもしれない。彼らもどこか人間に通じる所があると、僕は知ったうえで知らない振りをして来たのだ。しつこい様だが何度も言うように、僕は人間を食べることが出来ない。

 

それは妹が……人間だから。だから僕は妹を…妹と同じ種であるところの人間を襲い食べる喰種が嫌いだったし、人間を食べることに抵抗を感じていたのだ。罪滅ぼしとも言い換えることが出来るだろう。

 

あの日、僕がしてしまった取り返しのつかない過ちの懺悔。全ては僕の所為で心に深い傷を与えてしまった妹の為に、僕は少しでも彼女の負担を減らすために人間の敵の喰種を狩って来た。その為に僕は執拗以上にに喰種を痛めつけていたのかもしれない。

 

「あの娘には、悪いことをしたな…」

 

 あの可愛らしい黒髪の少女に悪意は感じられなかった、喰種としてまだ見完全なら、痛めつける前に人思いに殺しておくべきだった。別に残酷に腹を捌いて、痛い痛いと泣き叫ぶ様を、二度と蟋蟀の羽音に立ち向かえないトラウマを与えずとも…

 

逃げ惑う喰種の姿に自分の過去を重ね、愚かしい過ちを繰り返す喰種に罰を、そして自分自身に二度と人間を喰いはしないと戒めて来た。過去の過ちを繰り返してはいけない、あの日の悲劇を二度と起こしてはならない。それが僕があの時血みどろの世界で信じ誓って来た思いだ。

 

「だけど……」

 

矢張りあの梟の言葉が脳裏をかすめる、僕を否定するかと思えば肯定し喰種でありながら人間が好きだというあの男が口にした言葉が忘れられない。それは数十年一途に思い続けた妹への誓いが本当に正しかったのかと訝しんでしまう程に、僕の心に突き刺さっていた。

 

亀の甲より歳の劫と言うが、それは本当にその通りであの男が口にする言葉の一つ一つがまるで自分自身が体験した事だというような、どこか実感のこもった重みのあるものだった。考えを改めさせられたのではなく、説き伏せられた。

 

僕が今までしてきたことは、間違っていたのかもしれない……そんな、気分にさせられた。

 

確かに、喰種を殺すあの瞬間、僕は何とも言えない快感に身を沈めた事もあった。立ち上る鉄と生臭い生き物の匂いが、戦いの最中僕の気分を高揚させていった事もあった。あれは、決して……害獣駆除をする人間のしていい顔ではないだろう。恨みに任せて本能のまま、人の代わりに喰種を狩っていたと言われても納得してしまう。

 

「あの少女の血に少なからず興奮してしまった僕も…また喰種には違いない…のか」

 

血の匂いと言うのは本当にいけない。本能とでもいうのだろうか、あの鉄のような濃厚な匂いが立ち込めるだけで僕の胃は空腹を訴えて来るのだ。長時間嗅ぎ続けていると僕でさえ我慢の限界が来そうなほど、あの匂いには逆らい難い。

 

最初にあの匂いを間近で感じたのは高校生の時、嫌な思い出しか無いあの頃の記憶を脳裏に映し出すほど嫌なものだというのに僕は、血の匂いを嫌いにはなれなかったのだ。

 

空腹の喰種になると血の匂いを少し嗅いだだけで、赫眼という喰種特有の眼が赤く染まる現象が本人の意思とは関係なく起こってしまうという。それほどまでに喰種には人間の肉の味が本能に刻み込まれているのかもしれない。

 

少なくとも、涎が出るくらいには……

 

僕は…僕の抱いていた意思が脆いものだと実感させられてしまった。妹の為にたてた誓い、その為に僕は全てを捨てて力を喰種としての能力を磨いてきたつもりだった、赫子だけでは無い聴力や純粋な筋力を、それこそ苛め抜いてきた。

 

なのに……あの梟は僕のそんな誓いの力を、腕に纏った赫子の一本で防いだのだ。罅が入ったとか、その後壊すことが出来たとかはこの際どうでもいい。戦いは殺し合いだ、一撃でとどめを刺さなければいくら最終的に赫子を突破できようが意味が無い。

 

問題なのは、僕とあの男の間にどれ程の実力差が横たわっているかだろう。梟という名から察せられる通り、あの男は恐らく羽赫のはずだ。たしか獲物となった兎面の喰種も羽赫だった。他の赫子の喰種を上回る瞬発力と飛び出す様に背中から発生する無数の赫子。

 

縦横無尽に障害物を利用し、平面では無く立体を移動し敵を捕らえる戦法をとる事も出来る羽赫の喰種はだが、その身軽さに反比例する様に肉体的な耐久度は著しく低いのだ。そして発射する赫子はブーメランのように自身へは戻って来ず、消費が激しい事でも有名だった。例えるなら段数が限られたガトリングガンと言ったところか。

 

対して僕の鱗赫は、一撃必殺型の巨大な砲台に近い。多少速度においては羽赫に劣るがそれを補う再生速度があるおかげで、重い一撃一撃に集中するば十分に分があったはずだ。現に兎面の喰種は僕に反撃する事も出来ず地に伏せる事になった。

 

なら、赫子を纏ってまで戦っても防がれるほどの相手とは、僕とはどこまで力の差が開いているのだろう。

 

力も違う、そして心も脆いと知った……

 

「……僕は、僕は如何すればいい?」

 

何も返すものがいない目の前の壁に向けられた言葉、当然ながら答えなど帰ってくるはずもなく、そしてもしそこに他人がいたとしてもきっと、その答えは分からないだろう。当事者が分からないのだ、何も知らない第三者にわかるはずもないし、分かってほしくも無い。

 

妹なら、僕の愛する妹ならこんな時どうしただろう?ふと脳裏をよぎった疑問に、だが僕は首を横に振って即座に否定する。

 

「いや、あの娘は…迷わないだろうな」

 

妹は、僕とは違う。こんな僕に命を懸けてくれた妹なら、きっとこんな事で心が揺らいだりなんかしない。あの頑固者は昔から意思を貫き通すことが出来ていた、自慢の妹だったから。

 

人間は弱くない、彼らがか弱く脆いのは肉体だけ。人間は天敵が現れたときも、ただじっと堪えるだけでなく虎視眈々と敵の喉元に食らいつかんと牙を磨く、喰種に対しても同じ人間に対しても彼らは強くそして果敢だった。そして彼はついに忌まわしい獣へ対抗できる兵器を開発した。

 

CCGや喰種対策法もまた同じだ、一早く喰種を攻略するために人間は余念がなく、皆一丸となって事に当たっている。喰種が生き残りのために作る、恐怖や強さで支配した徒党とは異なり、人間が作る集団は「信頼」と言うコミュニティで繋がっているのだと。義理や人情で繋がった集団は、圧力や恐怖等の利害のみで集った集団よりも遙かに強く、強固な結束を作り出す。

 

 何度か僕も不本意ながらCCGと相対したことがあったが、あのCCGの白髪の男や、筋骨隆々の禿頭の男は恐ろしく強かった。それこそまるで相手が喰種であるかのような錯覚を覚えるほどに。クインケをまるで喰種の赫子のように振るい、僕の赫子を軽く切断してしまった威力には、流石の僕も死ぬと思った。

 

あまり多くは語らないが、あの交戦で僕は自分の戦闘能力の低さを一度見直す事になったとだけ言っておこう。それほどまでに無力を痛感させられ、かつ喰種に対抗する人間の底力に憧れを抱かざるを得ないものだった。

 

妹のためにと進んで喰種を殺していた僕は、人間と戦う気は全くなかったので戦闘を放棄して逃げても良かったのだが、あの時はそれがアダになってしまった。戦いの最中、相手が人間とはいえ戦意無く背後を向けることの恐ろしさを思い知った。

 

 不意を突かれ、丁度僕が梟に負けたときのように、伸び縮みする節がある特殊なクインケで背中を貫かれたのだ。それを行ったのは当時あまり目立った特徴のない白衣を着た男だったことを覚えている。喰種に対して異様に執着した粘着質な殺意を向ける男は、どういうわけか僕に似ていたのだ。

 

外見が、という意味ではなく。そのあふれ出る殺意が憎しみがそっくりそのまま戦意に置き換わっているような狂気じみた戦い方が、僕にそっくりだった。だからなのかもしれない、あの男の追撃を避ける事が出来なかったのは。

 

 ……喰種に殺されるのなら嫌だが、大好きな妹がいる人間側に殺されるのなら、それでも良いとその時の僕は覚悟を決めたのだった。だが生死の狭間で思い出した妹の言葉のおかげで僕はこうして生きることが出来ている。

 

『生きて、お兄ちゃん』

 

喉元に迫ったクインケの凶刃をとっさに避ける事が出来たのは、必然だったのかもしれない。

 

妹から貰った命だ、それを簡単に捨てるなんてやってはいけなかった。死ぬ事はあの日僕を救った妹の努力を無にする事になってしまう。僕はどうなってもいい、だがもうどんな形であれ妹を蔑ろにして、あの時の妹の気持ちを傷つける事はしたくない。

 

CCGと戦い彼らの凄さを見せつけられ、妹の願いを思い出したあの日から僕は妹の為に、妹を苦しめた喰種を殺すことを選んだ。だが、それは行き場のない僕が勝手に作り出した勝手な妄想なのかもしれない。

 

自分の生きる理由に妹を利用したのだ。僕は自分勝手でわがままな男だ。偽善者だ、妹の為と言っておきながら結局は自分の為でしかない。

 

「13区を出ようか…」

 

 この場所に留まっていれば、ぼくはまた喰種とは何かを、自分の意味について分かりそうな何かを、忘れてしまう。梟から与えられたこの疑問を無くしてしまう事が何故か駄目な事のような気がしたのだ。

 

梟は自分なりの答えを見つけろと言った、それにはまた13区の思想に染まるのはまずいだろう。この区から外にでて、また一からやり直すのも僕には必要な事なのかもしれない。

 

とは言え喰種でありながら喰種を殺し続けてきた僕に居場所なんか、人間側にもまして喰種側にもありはしない。正体がばれれば悲鳴を上げられるか、名を上げようとする喰種に殺されるかの二択だ。それに区が変わったとしても13区のように廃ビルを拠点とした放浪生活を止められるわけでもない。

 

まあそれでも、この凄惨とした13区に居続けることに比べれば、他の区へ行くという行動は幾ばくかマシなのだろう。恐らく、梟や少女の様な喰種は13区では絶対に育たない。地獄の鎌のふちでは、争いの絶えない血の海の中では心が無くなってしまうのかもしれない。

 

「取りあえずは、20区に行ってみるのもいいかもしれないな」

 

あそこは喰種も比較的大人しい場所だと聞く。大きな事件は聞かないし、ビッグネームの喰種たちも最近は20区では目撃されていない。その話だけを聞けば何か大きな存在が、その区の実権を握っているような気がしないでもなかったが、それを踏まえても平和というなら矢張り20区だろう。

 

それ以外は余所者が入っていけば少なからず面倒事が起こる可能性がある。特に縄張り意識の強い喰種ならばなおさらだ。僕には関係のない話だが、彼らは自分たちの狩場(生活の拠点)を犯されるのを極端に嫌う。

 

取りあえず、この場所から出れば何かが変わるかもしれない。そんな曖昧な感覚に突き動かされて僕はこの13区を出る決心を固めたのだった。 

 

一応の結論を出した僕は耳に付けていたイアホンを外し、そろそろ充電が切れかかっているので、久々に近くのネットカフェで充電しなければと思いつつ、ズボンの内ポケットにしまい込む。時刻は5時12分、ゆっくりと上る太陽に目を細めながら、僕は重い腰をあげた。

 

 

 

 20区、そこまで13区から移動するのに僕の体力ではそれ程苦にはならなかった。梟と交戦した後とはいえ、その前日に大量の喰種を捕食していた僕の体力は、万全には程遠いものだったがそれでも普通の人間以上の力は問題なく出す事が出来た。

 

 もちろんそんなオリンピック選手顔負けの速度で移動していれば嫌でも目立つので、人通りの多いところを避けて路地の隙間を伝い、今の僕が出せる最大限の速度で移動する。無駄に白鳩を呼び寄せて面倒くさいに事になればそれだけ体力を消費してしまう。

 

ただでさえ最近は13区を中心に喰種の動きが活発化し始めて白鳩が気を張っている。何人かの増援が13区周辺に配備され始めている状況でうかつに姿を見せれば最悪、特等クラスとさえ戦うことになりかねない。梟と比べてしまえばその強さは低いものだが、白鳩は仲間が大勢いる。

 

特に捜査官の箱持ちともなれば万全を期して2人1組で行動しているだろう。逃げ切るにしても通信網を使われて待ち伏せされたり、特等数人で追われては僕にも勝ち目がなかった。人間は絶対に殺さない、それを守っているが故の困難だったが、僕はそれを悔いてはいないし今後やめるつもりもない。

 

 同族と認めたくはないが、喰種の中でもずば抜けたモノだと自負する僕の脚力は、あっという間に3、4区を突破していった。足には昔から自信がある、梟と戦ったときも、他のリーダー格の喰種と戦ったときも、僕はこの足を頼りに闘ってきた。

 

 足は、手や腕よりはずっと重い一撃をぶつけることが出来るのに加えて、赫子と異なり、いちいち変則的な空間把握を行う必要もない。流石にピンチの時は赫子に頼らずにはいられないが、それでも僕は、赫子を補助として主に脚を使う戦術を行ってきた。

 

 なので、バランス感覚や下半身の力は、洗練され、凸凹した道や壁の上も赫子でフックを掛けて固定すれば、平らな地面と同じ様に走ることが出来る。以前、暗闇で壁を走る姿をCCGの捜査官に見られ、「蟋蟀」ではなく「ゴキブリ」だと言われた所為で、もう壁は当分走るつもりはないが…

 

 そう言えば、この俺の蹴りの上手さを自負している喰種が20区には居るのだという噂も、少ないながら聞いたことがあった。何でも、蹴りだけで同じ喰種の頭を吹っ飛ばす事の出来る、まさに蹴りのエキスパートなのだという。

 

「確か…名前は西野西…って言ってたっけ?一度闘ってみたいな」

 

 勿論、人を食べる喰種であるならばそれは殺すのだが、僕も蹴りに自信を持っている者としては興味があった。

 僕の蹴りと、その喰種の蹴りは、一体どちらが強いのだろう…

 

 『美食家』や少し前に騒がれていた『ブラック・ドーベル』のボスのような技巧派なのだろうか、だとすると力に自信がある僕では勝つことは難しいかもしれない。狡猾に勝負の先を見据えた戦いを展開されると、挑発を繰り返して思考をパターン化させる僕とは相性が悪い。

 

 それとも蹴りという強さが噂になっているという事は「オニヤマダ」や「大食い」のように力のみに主力を置いたタイプかもしれない、逆にこういうタイプなら僕はかなり戦う事が出来る。力に頼り過ぎ、知能のない筋肉馬鹿ほど扱いやす者もないのだ。考え出すときりがない、ああ…早く闘ってみたい。

 

「ダメだな、こんな事を考えたらいけないのに……」

 

最近、妙に好戦的な思考に偏ってしまう事がある。血が滾るとでもいうのかどうも喰種との戦闘では、気が高ぶり必要以上の攻撃を加えていたぶってしまう傾向にあった。猫は捕まえた獲物を死ぬまで掌で弄ぶというが、仮の本能なのか喰種としての本質なのか油断するとすぐに戦いを楽しもうとしてしまう。

 

本当に、これでは喰種を笑えない。自分がこんなに不安定で歪んでいるに、他人を指さして蔑むことなどできるはずもない。自分の中で膨れ上がる衝動を抑え込む、これも僕に課せられた今後の課題だった。

 

「なんだ…喰種と人間の、血の臭い?」

 

 区と区の間、もう少し行けば20区に着くと言うところで、僕の鼻に入ってきたのは、喰種の赫子が持つ濃厚な生臭い臭いと、鉄分のような人間の血の臭い…

 

また、か。

 

いつもいつも喰種は、僕の大好きな命を狩ろうとしているのか。

 

良いだろう、丁度お腹も空いていた頃合いだ。走り詰めで疲れ切った身体を癒すため、喰種を喰らって渇きを癒してしまおう。僕は懐から蟋蟀の真っ黒なマスクを取り出し、顔に被る。僕はまだ、喰種を許したわけではない、一つだけ梟や少女のような心根の良い喰種がいると知っただけだ。

 

 彼が善なる喰種なら、人を殺す喰種は全て悪という解釈でいいのか、その問題の答えは分からないが、少なくとも人を殺してるのならば、同じ喰種の殺されて食べられたとしても文句は言うまい。空腹からか若干思考に靄がかかり始めるが、とにかく今は目先の喰種の補食に専念するとしよう。

 

「おやおやぁ、こんな所で人を食べている、そこの貴女ぁ?人殺しは感心しませんねぇ…」

 

口調を変えるのは保身の為、このマスクを被っているときは僕は、偽物の自分に擬態している。それは本当の僕と、蟋蟀としての僕の口調から、正体を見抜かれないためだ。

 

おどけた態度を取りつつ、喰種に襲いかかられても良いように、十分な警戒は怠らない。路地からほんの少し離れた、公道を越えた先にある森林地帯。東京における自殺の名所と言われる、薄暗く気味の悪い場所に、三人の男女の影があった。

 

一人は人間で、太い古木に縄を巻き付けて死んでいた。だがこれは恐らく喰種に殺されたのではなく、この男自身の意思での自殺だろう。何かにすがるように虚空を見つめていた男の顔は酷くやつれており、人生に疲れていたのだと言うことが窺い知る事が出来る。

 

それを囲むように長髪の女と、その子供なのか背の低い少女が立っていた。この喰種は死んでいる人間を食べるのだろうか。あまり認めたくない事だが口に入るものに新鮮さを求めるのは人間も喰種も変わらない。だから僕は一瞬この二人の喰種が何をしたいのかよくわからず先ほどの偽装のテンションも忘れて呆然としてしまったのだ。

 

「どういう、事なんだ……?」

 

自殺者の肉を食べるのは、人間でいうその辺に落ちていたものを食べる拾い食いに近い感覚なのではないかと思ったからだ。少なくとも13区ではそういった捕食嗜好を聞いたことがなかった。

 

どういうことだ、喰種が人間の死者を埋葬でもするのだろうか。それとも血酒と同じ要領で腐った死体のほうが独特のうまみが出るという感覚なのだろうか。

 

突然現れた僕に気を取られつつも、女の喰種は警戒心をむき出しにして小さな少女を守る様に後ろに移動させた。視線をこちらから外さず、一挙一動に注意を払いながら後ろの少女と共に徐々に後退する女、まるでその動作は、親愛に溢れた人間の親子の様で……

 

「あ、貴方は喰種…それとも人間?」

 

一般人に見られてしまった、通報されてしまうかもしれないという不安感と相手がもし喰種だったらという可能性が捨てきれていない表情。その一瞬の隙が戦いにおける致命的なものとなりえるのだが、僕としてはもう戦う気も捕食する気も失せてしまっていた。

 

悪役じみた喰種なら、何の情もかけることなく簡単に殺せただろう。それは僕の家族を殺した喰種がそうだったからに外ならず、それが人間と喰種の違いだと思っていたからだった。

 

人間なのか喰種なのか、僕のほうこそ尋ねたかったぐらいだ。いや、匂いで相手が喰種だとは分かりきってはいる。だがそれでも、僕は今までこんな事をする喰種に出会ったことがなかった。いや、親子の情を感じさせる喰種に会ったのは、初めてではないのか。

 

ふと3日前の梟の姿が脳裏に浮かぶ。あの老獪な喰種は、僕に殺されそうになっていた少女を助ける為にあの場所にやって来たのだろう。損得を抜きにして、自分の情のままに仲間を助ける。それを僕は記憶に刻みつけて久しい。

 

まさかとは思うが、この2人は梟や少女のように、人間のような心を持っているとでも言うのだろうか。

 

当然草陰から飛び出し、そして動かなかくなった僕に一層警戒心を増したのか、娘に何か耳打ちすると、僕に向き直り眼を赤く染め上げる。赫眼の出現は、その喰種の極度な命の危機や、興奮状態に起きるRc細胞の活性化が表面に現れた証。

 

任意で赫眼を出すことも出来るが、この場合、相手は赫子を発生させる直前だと推測する。二人の喰種は恐らく血縁のある者なのだろう。二人の顔立ちはよく似ていて少し色素の薄い髪色も非常に酷似している。違うのはその僕に向けられた視線だった。

 

母親であろう女の喰種の背後でじっと僕の様子を伺う喰種の少女は、蟋蟀の仮面をかぶった僕が恐ろしいのか歯をカチカチを鳴らしながら制御できなくなったのか赫眼を発現させている。反対に背後にいる少女を庇うように両手を広げた女は、キッと僕を鋭い視線でにらみつけていた。

 

 ボコッという音と共に、女性背中から巨大な羽根のような膜が発生し、それに合わせて娘は母親から離れて、近くの木の裏に逃げ込んだ。蛾のような気味の悪い印象を受ける赫子は、一見羽赫のようにも見えるが、発生した背中の位置から甲赫のようだった。

 

僕としてはもう戦う意思はなかったが、あんな登場をしてしまった以上、そしてこの女の意思を見るからに戦闘は避けられないだろう。できる事ならこの女の真意を知りたかったが、仕方ない。こちらに危害を加える戦意があるのならば、それは排除しなければならない。

 

逃げることも考えなかったわけではないが、赫子を展開している敵に対して背後を向けるのは得策ではない。相手の実力のほども分からない以上迂闊に逃げることを選択してその瞬間急所を突かれてしまう可能性だってあるのだ。

 

普通なら草むらから飛び出した瞬間に襲い掛かる手はずだったが妙なところでペースを乱されてしまった。森林地帯ということもあって、地盤がしっかりしていない地面では赫子が固定し辛く僕の跳躍力もあまり役立ちそうにない。反対に女の喰種はこの地を知り尽くしているはずだ、地の利は完全に向こう側にあった。

 

「厄介だな……」

 

迂闊な自分の対応を呪いたくなる。なぜ喰種が屍を漁っていただけであそこまで動揺してしまったのか。それは自分には全く関係のない事だったじゃないか。生きた人間を食べようとしていない、それは考え方によってはあの梟が言っていた人間と喰種の共存のようにも見える。

 

なんだ……僕は……期待していたのか?

全ての喰種が……必ずしも悪ではないことを…

 

それは僕という存在が、どうしようもなく汚れきった僕が、まだ救いがあると言われているようで。目の前にぶら下げられているかの様な免罪符につい手を伸ばそうとしてしまう自分の心の弱さに無性に腹が立った。

 

無言で僕が構えていることを交戦する意思があると受け取ったのか、ギギィと空気を引き裂く音を立てて女の背中に生えた甲赫が僕の体を包み込むように迫ってくる。殺傷能力が低そうな鈍い赫子だが、いかんせん甲赫だ。鋭利さを欠いているからと言って油断していれば、その硬さに押しつぶされかねない。

 

甲赫は、4種類ある赫子の中で他を凌ぐ強度を誇ることで有名だった。凝縮し固形化した赫子は金属の刃でさえも凌ぎきり、同族の赫子でさえもほとんど防ぎきってしまう。そして極めつけはその重さにあった。血液中に含まれる微量な鉄分を凝縮したかのような鈍重さは、その硬さに鈍器のような攻撃性を加え極めて強力な凶器と化す。

 

そして奇妙なことにこの甲赫は羽赫のように大きく広がって、蛾のような大きな目玉模様を作り出していた。女の意思に沿っているのか赫眼のように発光する模様はまるでこちらを睨めつけている様だった。面積が大きい、それはそのまま殺傷力に結びつく。つまり僕は巨大なハンマーを無作為に目の前で振られている状況に等しかった。

 

「どちらにしても、あの娘には手を出さないで」

 

ドクンッ

 

「……っ」

 

それは酷く遅い攻撃だった。梟や少女の羽赫から繰り出された攻撃を先日受けていた僕からしてみれば、目が留まってしまうかの様な、拍子抜けしてしまうゆっくりしたもの。

 

これは警戒するだけ無駄だったのかもしれない、そう思い軽くいなそうと身体の軸をずらそうとしたところで異変に気付く。身体が、脚がまるで地面に吸い付いてしまったかのように動かせなかった。

 

「なっ……!?」

 

何か赫子によって脚を絡め取られているのかと女の背後にいた少女を見るが、赫眼は発現しているものの背中から赫子を出している気配はない。なら……どうして身体が動かせない!?

 

予想外の身体の不調、それに戸惑ってしまった僕は迫ってくる甲赫を、避けられなかった。

 

「くっ…がぁぁっ」

 

わき腹に鈍い痛みが走る、女が出した甲赫が僕の体を切り裂かず、だがハンマーの要領で僕の身体ごと空中に押し上げたのだ。肋骨が何本か折れたのだろう、草木のあふれる森林地帯を転がりながら、僕は反撃のために背中へと意識を集中させる。

 

今度は動く……

 

一瞬で体制を整えた僕は、四つん這いのまま追撃を掛けようと迫ってきた甲赫を睨みつけ紙一重で横薙ぎに飛んで攻撃をかわす。

 

「あ、ぐぉぉぁぁぁ!」

 

ずるりと濁った音が響き僕の意思に従って節目のついた赤黒い触手が二本、僕を守るように螺旋を描きながらあらわれる。先ほど食らってしまった攻撃が想像以上に後を引いている。

 

自分の顔が見えないので分からないが、恐らく頭が切れてしまっている。目元へと流れる血に目が霞んでしまい、思う様に狙いが定まらない。

 

まだ何故身体が動かなかったのか

その状態でもう一度甲赫の攻撃を食らえば意識が飛びかねない。そうなったら一巻の終わりだ。

 

全力で迎え撃とうと背中により力を込める、鱗赫の節に棘が増えより凶悪な形に姿を変える。昆虫の脚の様な姿へと昇華された赫子は、僕の意思に従って女の赫子を受け止める。槍のように突き出された僕の赫子は豆腐を突き刺すように女の甲赫へと沈み込み、その奥にいた本体である女のわき腹を抉る。

 

「お返し……だ」

「うぅぅっ……」

 

間一髪、カウンターには成功した。追撃をしようとしていた女はまんまとその勢いを殺しきれず僕の赫子に沈み込むように体を突き入れてしまう。無数の棘が皮を抉り取り地面の草に真っ赤な鮮血をまき散らす。くそ、また外した……胴体の真ん中に風穴を開けてやるつもりだったが、この暗さに加えて目が霞んだ状態では狙いがそれる。

 

だが甲赫にはしっかりとその刃は刺さっていたので、甲赫へと突き刺さった鱗赫ごと女の身体を上へと押し上げ、周囲に生えそろった古木へぶつけてやろうと脚に力を込めたところでまた足に違和感を感じた。だが今回のそれは僕自身の不調というわけではなく……先ほどまで女尾背後に隠れていた少女が僕の足をつかんでいたからだった。

 

 

「お、お母さんを……いじめ…ないで!!」

 

ドクンッ

 

「う…ぁ…っ」

 

邪魔をするなと赫子を振るおうとしたところで急に頭が朦朧とする。僕の意識が遠のいた所為で赫子の制御が外れ、鱗赫はぼろぼろと形を崩しながら消えてしまう。なんだというんだ、いったい何が起きている!?

 

「はぁ……はぁぁ…」

 

呼吸が早まり早鐘のように心臓が鳴り響き、頭をガンガンと揺さぶってくる。

 

「すず……」

「え?」

 

母親を守ろうと必死に僕にしがみつく少女の姿に、僕はあの時の妹の姿が浮かんでしまった。自分の事はどうなってもいいから……誰かを助けたい……

 

急にこの少女を傷つける事が恐ろしくなる。背中に力を入れても赫子が出てくれない、手も脚もまるで持ち主に逆らうかの如く、石のように重くなり動かせなかった。いや、むしろそれは僕がこの少女に妹の影を見てしまったからなのかも知れない。

 

それは太陽のような眩しすぎるほどの笑顔だった。喰種を殺し続け自分の存在意義も分からなくなってしまった僕には、それはとても痛かった。考えれば考えるほど妹に会いたいという気持ちが募っていく、それが絶対にしてはいけないことだと分かっていても考えることを止める事は出来なかった。

 

僕の、最後の家族。懐かしい、昔の思い出……それはもう取り戻す事が出来ない、僕の宝物。

 

徐々に薄れていく思考、真っ暗に染まる視界の端に不安そうにこちらを見る少女の姿が映っていた。

 

 

 


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