――夜半、ルイズ・フランソワーズは見知らぬ部屋で目を覚ました。
「ん……」
慣れない毛布の肌触りに、寝苦しげに体を揺する。
寝ぼけ眼の霞む視界に、見覚えの無い白色の天井がぼんやりと映る。
「ここ、は……」
かろうじて上体を起こす。
ぼんやりとした薄明かりに浮かび上がる室内は、広さこそ自室と同程度であったものの、
背の高い戸棚や様々な用具類に圧迫され、気持ち窮屈に感じる。
傍らの椅子を見やれば、そこには愛用のマント、
それでようやくルイズは、自らが寝間着姿で無かった事に気付いた。
「ああ、ミス・ヴァリエール、どうやら目を覚ましたようですね」
視界の片隅を塞いでいた天幕が開き、見覚えのある女性が二人、ルイズの前に姿を見せる。
「ミス・シュヴルーズ……、それにシエスタ?」
ルイズの反応に対し、ふくよかなシュヴルーズが安堵の吐息を漏らす。
「落ち着いてください、ここは学院の医務室ですよ」
「医務室?」
シュヴルーズの言葉にもう一度室内を見渡す。
言われてみれば、確かにそこは昼夜の違いこそあれど、魔法学院の一室に他ならなかった。
「私、どうしてこんな所に……?」
「自分では覚えてはいないのですか?
ミス・ヴァリエール、あなたは中庭で倒れていた所を、シエスタさんに発見されたのですよ」
「えっ!?」
思いもよらぬ言葉に驚いたルイズが、今日の自分の行動を振り返る。
(今日は起きたのは昼くらいで……、確か私、夜に一度、どこかに……?)
軽く頭を振るう。
だが、ルイズの記憶はどこかが曖昧で、
肝心の部分が、まるでもやがかかったのように思い出せない。
「私……、どうして中庭なんかに……」
「どうしました? まさか思い出せないのですか」
「……申し訳ありません、ミス・シュヴルーズ」
「いえ、謝られるような事ではありませんが……、
倒れた時に、頭を打ったのかも知れませんね。
夜が明けたら、水のメイジに診てもらうと良いでしょう」
と、そこまで言った所で、シュヴルーズはおもむろに周囲を見渡し始めた。
「……そう言えば、ミスヴァリエール。
今日はあなたの使い魔さんは、一緒ではないのですか」
「……えっ? 使い、魔?」
「ミス・シュヴルーズ」
後ろに控えていたシエスタが、ためらいがちに口を開く。
「まだ、他の学院の先生たちもご存じない話なのですが、
実は先日、ミス・ヴァリエールは使い魔と別れたばかりだったんです」
「シエスタさん、別れた……、とは?」
「先日、彼女のご家族が、ミス・ヴァリエールの許を訪ねて来られたんです。
それからミス・ヴァリエールは、何度か彼女たちと話し合って、
最終的には、彼女を家族の許に帰す事に決められたようなんです」
「まあ、そんな事が……、けれど彼女は、確かロバ・アル・カリイエの」
「はい。
ミス・ヴァリエールは自分の使い魔の事を、本当に可愛がっておられましたから……。
あるいはその悲しみから逃れるために、記憶を閉ざされてしまったのでは?」
「……確かに、彼女は使い魔の中でも特別なケースでしたから、
あの子の将来を思えば、そうするのが一番だったのでしょうね」
深刻そうな二人の会話を、別世界の出来事のように呆然と聞く。
いや、確かに進級出来た以上、ルイズが何らかの生物を召喚したのは間違いない事なのだろうが、
果たして何を使い魔としていたのか、肝心の記憶がスッポリと抜け落ちていて、
まるで他人事のように受け止めるしかない。
(……何だろう、二人とも。
『彼女』とか『家族』とか、まるで人の子を呼ぶみたいじゃない?)
「……お話は分かりました、ミス・ヴァリエール」
先ほどよりも沈鬱な面持ちとなったシュヴルースが、穏やかに口を開く。
「今日はこのまま、こちらでお休みなさい。
私は宿直室にいますから、何かあったら呼んでください。
明日の授業も大事をとって、休んでおいた方がよろしいでしょう」
「それは……、いえ、言う通りにいたします」
「……今はまだ、分からない事ばかりかもしれませんが、慌てる事はありません。
あなたの選択は、一人の貴族として立派な行為であったと、私は考えます。
今はまず、自分の体の事を一番に考えて静養なさい」
「ええ、ありがとう、ミス・シュヴルーズ」
シュヴルーズは頷いて立ち上がり、次いでシエスタが一礼してそれに続く。
明かりが消され、暗闇の中にルイズ一人が残される。
(今、何時くらいなのかしら……?)
ぼんやりと、月明かりの差し込む窓を見上げる。
――二つの月は、すでに、離れ始めた所であった。
「……えっ?」
異変に驚いたルイズが、思わず自らの頬に手を当てる。
「なんで私、涙、なんて……?」
・
・
・
そうして一夜が明け、使い魔のいないルイズの日常が始まった。
彼女が自らの使い魔を手放した事は、一時、教員たちの話題にも上ったものの、
「契約した使い魔とどのような関係を築こうと、それは当人同士の問題じゃ」
と、平然と水パイプを燻らせるオスマンの言に、あえて異を唱える者はいなかった。
教員たちもまた、幼い人の子の使い魔の将来を、それぞれに心配してはいたのである。
ともあれ、懸念されていたルイズの記憶障害の方も大事には到らず、
翌々日には再び授業に参加する彼女の姿が見受けられるようになった。
記憶が曖昧になっているのは、ここ二ヶ月程度、
それも自室での日常に関わる部分が殆どで、
元々、座学の優秀な彼女が授業に躓くほどではなかった。
勿論、使い魔を失った事によって、ルイズの日課が変わるような事もない。
自らの力のルーツを求めて図書館に入り浸り、朝夕には魔法の演習に精を出す。
系統魔法にも、自らの使い魔に対してすらも執着を失ってしまったかのような豹変に、
周囲も怪訝な表情を向けたものの、当のルイズは気にした風もなく研究に没頭していく。
あたかも失くしたものの隙間を、埋め尽くさんとするかのように……。
・
・
・
――その日もルイズの姿は演習場にあった。
「――エクスプロージョン!」
10メイル先の標的を睨み据え、詠唱と同時に杖を振るう。
一瞬の静寂、直後、青銅製の兜を中心に閃光が炸裂する。
ひゅう、と、背後のギーシュが口笛を吹く。
先日のアルビオン行以来、お気楽なグラモン家の三男坊も根を改めたものか、
ここ数週間は演習場で、二人が顔を合わせる機会が多くなっていた。
「ここの所、ずいぶんと調子が良いみたいだね。
けど『エクスプロージョン』って言うのはなんだい?」
「……別に、た、単なるおまじないみたいなモンよ」
「おまじない?」
「ミスタ・コルベールが言ってたのよ。
『詠唱が分からないならば、よりイメージを意識しやすい言葉を唱えたらどうか』って……、
だ、だから本来の詠唱とは、何の関係もないわ!」
「……なるほど、それで『爆発』か」
恥ずかしげにそっぽを向いたルイズを無視して、ギーシュが台座を見つめる。
彼が錬金した標的の兜は、すでに微塵もない。
それでいてこちらにまで爆発の煽りが届いていないのは、
ルイズが狙いを絞り、その威力をよく制御できている証座であろう。
「しかしヴァリエール、頑張るのも結構だが、
最近は少し、根をつめ過ぎなんじゃないかい?」
「? 何よ、それ……?」
「目標のために努力を重ねると言うのも、当然、貴族には必要な素養なんだろうけど、
たまには休暇をとって、自分のしたい事をする時間を持つ事も大事なんじゃないかな」
「……なあに? 今度は私にも粉をかけようって言うの?
モンモランシーにぶっ飛ばされたって知らないわよ」
「なッ!? ひっひひひ人聞きの悪い事を言うよキミィ!!
つ、つまり僕が言いたいのはだね……」
「――患者に自覚が無いって言うのは、より重篤な病って事よ、ヴァリエール」
動揺するギーシュの声を遮って、後背から現れたキュルケが口舌で切って捨てる。
「む……」
「ユリーシアちゃんと別れて以来、あなたちょっと変よ。
一人で突っ走ってばかりいないで、悩みがあるなら周りにも相談なさいな」
「別に、アンタが考えているような悩みなんて無いわ。
ただ、思い出せない記憶があるって言う、それだけの事」
「あら」
「そりゃあ、周りには使い魔と別れた事や、
記憶を失った事を心配してくれる人もいるけど……、
でも、思い出せないものをうじうじ考えてても仕方ないじゃない?
今はただ、自分にできる事を一つずつこなして行っているだけの話よ」
「ふふん、そこが自覚が無いって言ってんのよ。
それでグラモン家のボンボンにまで心配をかけてるんじゃ世話ないわね」
「うっ……」
「まあ、あと一週間で休暇に入る事だし、タイミング的には丁度よかったんじゃない?」
わきたつ入道雲を眩げにキュルケが仰ぎ見る。
ルイズが様々なものを失った日から、すでに二ヶ月。
慌しかった春先の日々は遠くに過ぎ去り、季節は夏本番を迎えつつあった。
「これまでが忙し過ぎたからね。
実家に戻ったら魔法の事は忘れて、ぼけーっと体を休めてみるのもいいかもね」
「実家……」
「帰るんでしょう、ヴァリエール領に?」
「……うん」
キュルケの言葉に、不承不承ルイズも頷き、共に蒼天を見上げる。
休みに入れば、ルイズはシエスタを従者に伴い、一路故郷を目指す予定になっていた。
人間の少女を使い魔にした事、その子を相談もせずに郷里に帰した事、
更にはそれらの記憶を全て無くしてしまった事など、
要所は常に手紙のやり取りで伝えていたものの、
改めてそれを母や長姉の前で説明するのは気が重かった。
とは言え学院長から『開かずの魔道書』の返却を頼まれている以上、学院に残る訳にもいかない。
「……あら?」
不意にルイズは視界の端に、馴染みの風竜が飛んでいく姿を捉えた。
空の彼方から聞こえてくる彼女の嘶きが、ルイズにはどこか悲しげな音色に聞こえた。
「――大事な友人を無くして、あの子も寂しがっているの」
傍らにいたタバサがぽつりと呟く。
だが、それはきっとシルフィードに限った話ではあるまい。
キュルケも、タバサも、そしてあのシエスタも、この学院に暮らす者は、
みな多かれ少なかれ、ルイズの呼び出した使い魔の事を気に留めているのだ。
(……それほどに皆から愛されていた使い魔を、私は失った。
周りが心配するのも当然の話なのかもね)
ゆっくりと、手にしていた杖を下ろす。
彼女たちの忠告どおり、実家に戻っている間は魔法の事を忘れてみるのも良いかもしれない。
これまで無理をしていたと言う自覚こそ無いものの、確かにキュルケの言うとおり、
日常を蔑ろにし過ぎていたようにも思える。
実家に戻ったら、ゆっくりと領内を散策してみたり、
大好きな姉との他愛も無いおしゃべりに、時間を費やしてみるのもいいだろう。
「……見たもの、出会った人、感じた事。
日常の中の感動が、新しい力に変わっていく……」
「えっ?」
ポツリ、とルイズの口からこぼれた呟きに、一同の視線が集まる。
「何それ、ヴァリエール、誰の受け売りかしら?」
「……そんなんじゃないわよ、でも……」
天を仰ぐルイズの視線が、ぼんやりと白昼に浮かぶ残月を捉える。
急に胸中に沸いた言葉に戸惑っているのは、他ならぬルイズ自身であった。
「……よく分からない、けど、何か心に引っかかっていたのよ」
・
・
・
―― 一週間後。
ルイズはキュルケへの言葉通り、シエスタを伴って自領へと戻り、
そして今、邸内の一室で、最大の難関と対峙していた。
しどろもどろになりながらも、学院での出来事を報告し終え、
ほうっ、とルイズがため息を付く。
眼前にいる最大の難関、ヴァリエール公爵夫人、つまりルイズの母カリーヌは、
愛娘の報告を押し黙って聞いていた。
テーブルに置かれた『開かずの魔道書』に視線を落とす姿から、
その胸中を察する事は出来ない。
じくり、
針の筵にでも正座させられているかのような緊張感に、ルイズの背を冷や汗が伝う。
何せここ最近のルイズはと言えば、本来の課題である系統魔法の練習もそこそこに、
学院の図書館とコルベールの掘っ立て小屋を行き来しては、
怪しげな失敗魔法の研究に没頭していたのだ。
周囲の同輩からは「とうとうゼロのルイズが狂った」などと呆れられる始末である。
どのような噂がヴァリエール家に伝わっているか知れたものではない。
「……最近の学院でのあなたの暮らしぶりは、私も耳にしています」
「ハ、ハヒッ!」
来た。
体内に満ちる緊張感に、ルイズの肩がビクンと震える。
そんな娘の有様に、夫人が一つため息を漏らす。
「まあ、今日はよく無事に帰ってきました。
まだ夕食までは時間があります。
カトレアの所にも、今の内に顔を出しておあげなさい」
「……え? そ、それだけ、ですか?」
「……なんです? 私に何か、小言の一つでも言ってほしいと?」
「いっ!? いえいえいえいえ、め、滅相もない!!」
「いいえ、それならば一つだけ言っておきましょう」
そう言った夫人の眼差しに、一つ真剣な色合いが宿る。
知らず、ルイズの背筋がピンと伸びる。
「ルイズ、あなたの『失敗』は、
私や父上は勿論、公爵家の雇った教師たちにも説明の付かなかった現象です。
魔法学院の教師の方々の中にも、満足な説明を出来る人はいない事でしょう」
「……はい」
「故に、今のあなたの進む道に、正しく助言を行える者はおりません。
あなたの努力は、ただの徒労と挫折で終わるかもしれない……。
全ての真実を解き明かせたとしても、
それがあなたを幸せに導くものなのかも、今の私には分かりません」
「それは……、でも、私も覚悟の上です」
珍しく強い意志を示した娘の一言に、夫人も無言で頷く。
「これだけは覚えておきなさい。
たとえ強力な魔法の才を持たずとも、
為政者として、立派に務めを果たしている貴族はいくらでもいます」
「…………」
「その事を忘れないならば、今は、あなたの望むようにおやりなさい」
「は、はいッ! ありがとう、お母様!」
母親の一言に、ようやくルイズが久方ぶりの華やいだ笑顔を見せる。
ふっ、と夫人の口元からも苦笑がこぼれる。
「それにしても、どう言った心境の変化があったのでしょうね?
……この魔道書も、少しはあなたの道を探す役に立ったのかしら」
「ええっと、そ、それは……」
再びルイズが、どこか困ったように言葉を濁す。
「……ごめんなさい、私にもよく分からないんです。
すでに報告はしましたが、
私、ここ最近の記憶が何故だか曖昧になっていて」
「いいえ、それでいいのです」
言いながら、夫人がどこか寂しげに本の表紙を撫でる。
「今のあなたには理解できないでしょうが、
あなたが何も覚えていないと言う事……、
それ自体が、彼女たちが無事に務めを果たし終えた証座なのです」
「……? は、はあ……」
「それから、この本は今日から、あなたがお持ちなさい」
そう言うと夫人は、その学院の至宝をルイズの前へと差し出した。
「ええ!? ど、どうして?
そんな大事なものを、わ、私に……?」
「あら、オールド・オスマンには話していなかったかしら?
この本にそんな大層な価値などありません。
この本は普通のメイジには無用の長物……、いえ、
おそらくは本来の持ち主すらも、もはやこれを必要としてはいないでしょう」
「そ、そんなんですか……?」
「ええ、ですからちょっとした御守りがわり、くらいに考えておきなさい。
……もしかしたら、あのおしゃまなカリンは、
あなたに対しても世話を焼きたがるかもしれませんしね……」
「……え? お母様、が何ですか?」
「――! 何でもありません!
さあ、早くカトレアの事を安心させておあげなさい」
「は、はいッ!」
「……お待ちなさい、ルイズ」
再び夫人より声をかけられ、立ち上がりかけた足がぴたりと止まる。
怪訝な瞳を向けるルイズの前で、烈風のカリンは、次のような助言を口にした。
「その……、貴族たる者、
道端に落ちている怪しげな薬などを、みだりに口にしてはいけませんよ」
・
・
・
「――それで、お母様ったらおかしいのよ、
その後は何を聞いても、いいから早くお行きなさい、の一点張りで」
「まあ、それは珍しいものを見たのね。
ふふっ、私も同席したかったわ」
――夕食後。
ルイズはかつてのように、姉・カトレアの部屋を訪れて、
他愛もない世間話に華を咲かせていた。
久しぶりに、本当に心の底から安らげる時間。
久方ぶりに見た姉の穏やかな笑顔は、かつてと寸分も変わらず、
ルイズもまた学院を離れ、ヴァリエール家の甘えん坊な三女へと戻っていた。
来るまでは何かと気後れする事が多かった今回の帰郷だが、
いざ戻って来てみれば、なぜ早く決心しなかったのものかと疑念が沸く。
なるほど、キュルケやギーシュが口にした小言も今なら分かる。
学院でのルイズの暮らしには、人間らしい情緒が欠けていたのだ、と。
あらためて、室内の隅々を見渡す。
大好きな姉の部屋は、当人も含め、まるで時間が止まっているかのように何も変わっていない。
落ち着いた間取りも、室内を占拠する大小さまざまな動物たちも……、
「……あら?」
「――? ルイズ、どうかしたかしら」
ルイズの視線が、中央にあるテーブルへと注がれる。
懐かしい思い出の部屋の中で、その一点だけが、ある種の違和感を醸し出していた。
テーブルの上に飾られた、一輪の鈴蘭。
その花自体の愛らしさも、無論、来訪者の目を惹く物ではあったのだが……。
「ちい姉さま、あの花瓶って……」
「ええ、そうよ、あなたのくれた……、
ううん、あなたの小さな使い魔さんがくれた、薬の小瓶ね」
そう言って、カトレアがいかにも愛おしげに微笑む。
ルイズも咄嗟に、シエスタがこの帰郷に同道した理由を思い出していた。
・
・
・
――二月ほど前、
その時のルイズは、自室の机の上に置かれた愛らしい小瓶の前で、
一人、頭を悩ませていた。
問題の代物は、シエスタからいつになく強い口調で託された、小さな薬瓶。
それは東方に帰った使い魔の少女が、
カトレアのために頑張って調合した物なのだと力説を受けたルイズであったが、
だからと言って、おいそれとそれを受け入れる訳にもいかなかった。
ルイズが幼い頃より、体内の水の流れの異常から、幾度となく病に臥せっていたカトレア。
現在は小康状態にあると言っても、
公爵家付きの医師団の手で厳重に保護されている状況は変わらない。
姉が重篤な患者である、と言う事実を考えれば、医師たちの管理下を離れた所で、
正体不明の薬を託すのは、あまりに危険な行為である。
ましてその薬を調合したのは、いかに東方の薬学を学んでいるとは言え、
わずかに十を過ぎたばかりの少女であると言う。
熟考の末、しかし結局ルイズはその薬を、したためた手紙と共に姉の許へと送った。
それはもう理屈ではない。
ルイズの心の中の、何か最も繊細な部分が、その薬を疑う事を許さなかったのだ。
「あの……、ありがとう、ちい姉さま」
「うん? どうしたの、急にあらたまって?」
「薬を飲んでくれた事、顔も知らない私の使い魔を信じてくれた事」
「あらあら、ふふっ、それはお礼を言う相手が違うわよ、ルイズ」
「えっ?」
「だって、あの薬を飲むように強く勧めたのはお母様だもの。
お父様や侍医たちの反対を押し切って、ね!」
「ええっ!? お、お母様が?」
少女のように可愛く舌を出すカトレアの前で、面食らったルイズが瞳を丸くする。
家族の中でもっとも理性的で厳格なはずの、あの母親像からは、
どうしても想像の付かない話であった。
ルイズの反応を楽しむかのように、カトレアが大げさに頬を膨らませる。
「まったく、お母様ったらずるいわよね。
あの薬が何なのか、彼女たちが何処から来たのか、
全部を知っている癖に、私たちには何も教えてくれないんだから」
「そう、なのかしら……?」
「ね、ルイズ、それよりも……」
「……あ」
カトレアの視線の意味に気づいたルイズが、慌てて自分の右腕を引っ込める。
カトレアは静かに首を振ると、その手首を握って自分の前へと持ってくる。
ためらいがちに差し出されたルイズの手の平、
そこには惨い火傷の傷跡が今も残る。
「この手……、ルイズがさっき話していた、
アルビオンでの冒険の時につけたものね?」
「……ええ、多分、自分では、何も覚えていないんだけど」
「エレオノール姉さま、怒っていたでしょう?」
「ええ、もうカンカン。
『こんな傷を何ヶ月もほっぽっておいて、お前には公爵令嬢の自覚があるのかー!』って」
「まあ、当然よね。
大好きな『ちびルイズ』がこんな大怪我を負って現れたら、
お姉さまは凄く悲しむわ」
「そう、なのかしら?」
力なく、ルイズが疑念の声を漏らす。
元より勘の強い才女である長姉・エレオノールは、幼いルイズの苦手な相手であったものの、
今回の件は完全に自身の怠慢であったため、反論の余地すらなかったのだ。
大貴族の令嬢たる自分が傷物とあっては、その将来に暗雲を残すし、
秘薬を使えば簡単に消せる傷を残しておくこと自体、
公爵家が侮られる原因となりかねない。
いや、そんな下らない理由よりもこの場合、
家族に心配をかけた事の方がよっぽどの重大事である。
特にこの傷は、少なくともカトレアに見られる前に消しておかねばならなかったのだ。
だが、当のカトレアの口からこぼれたのは、予想もしない一言であった。
「でも、消せないわよね……。
この傷は、『彼女』の事を覚えているんだから」
「え……?」
「傷跡と引き換えにしてでも忘れたくない、大切な思い出。
アルビオンで、『彼女』との間にあったんでしょう?」
トクン、と、ルイズの心がわずかに震える。
なぜ、この姉は全てを見透かしたような事を言えるんだろうと、いつも思う。
今のカトレアの一言は、ルイズの本心を、
いや、どうしても自分では見つける事が出来なかった、
ルイズの心の隙間を生める、最後のピースであった。
「うん……、きっとちい姉さまの言う通り、
アルビオンでは、辛い事がたくさんあったわ」
「……ワルド子爵の事ね」
「それもあるけど……、ううん、それだけじゃない。
私一人じゃ耐えられないような、心の千切れそうな出来事が、いくつもいくつも起こった」
「『彼女』がルイズを助けてくれたのね?」
「分からない……、けど、確かに誰かがいた。
私に勇気をくれた人、奇跡を信じる心をくれた人……!」
記憶は相変わらず真っ白な霧と化して、真実を求めるルイズを阻む。
だがルイズの心は羅針盤のように一点を示し、高鳴る気持ちが喉をついて溢れ出す。
「アルビオンだけじゃないわ。
たとえば、授業中に魔法を失敗したりとか、そんな些細な出来事、
でも、私にとっては耐えられないような辛い出来事がいくつもあった」
「……うん」
「でも、悲しい記憶は、いつの間にか真っ白に塗り替えられて、
気が付いたら、大切な思い出に変わっているの。
きっと、きっとその空白の世界の中に『彼女』がいたんだって思うの」
ルイズの瞳から、一滴の涙がこぼれ落ちる。
あの夜以来、何度も何度もルイズは想像した。
春の日に自分が召喚したと言う、緑色の髪の毛の女の子。
天真爛漫で、お転婆で、ちょっぴりおしゃまで、キラキラとしたサファイアの瞳の女の子。
ルイズの想像はしかし、いつの間にか現れた、年頃の乙女の姿と重なり合い、
いつも最後には曖昧になって消え失せてしまう。
「――その子の事が、ルイズは大好きだったのね」
カトレアの言葉が、ルイズの心の中の、最後の真実を押し開く。
「……でも姉さま! 私……、私、何も覚えていないのよッ!?」
「ルイズ……」
「大好きだったクセにッ! 絶対に忘れてはいけない、大切な想い出だったハズなのに……!」
溢れ出す激情と共に、堪え続けていたルイズの全てが解けていく。
「もう、彼女には逢えない……!
私にはもう、彼女に逢う資格がないのッ!」
「……ルイズ、おいで」
「うぅ、うああああああああ あああぁああああぁぁ……」
懐かしい匂いに引き寄せられ、幼子に戻ったルイズが、大好きなカトレアの胸へ飛び込む。
心の中の全てのわだかまりを吐き出すように、泣いて、泣いて、泣きじゃくって……。
その中に残ったシンプルな回答に辿り着く。
かつてシエスタは、『彼女』と別れた深い悲しみから、
ルイズは記憶を失った、と言ったが、それは違う。
いや、小賢しい彼女は、真実を知った上でそう言っていたのかも知れないが。
――悲しいから、記憶を失ったのではない。
――記憶を失った事が、悲しいのだ。
・
・
・
「……ねえ、ルイズ、分かるかしら?」
泣き疲れたルイズの頭上に、姉の言葉が降り注ぐ。
何が、と言おうとしたルイズの耳元に、その答えが徐々に響いてくる。
カトレアの心臓の音。
人が母親のお腹の中にいる時に一番最初に聞くと言う、原初の子守唄。
トクン、トクン、と安定したリズムを刻んで、ささくれだったルイズの心を静めてくれる。
「その心臓の音はね、『彼女』が私にくれたものなの」
「……彼女、が?」
「顔も知らない女の子、私に生きる勇気をくれた女の子」
はっ、と見上げるルイズの視線の先で、カトレアが童女のように笑顔を向ける。
「お父様やお母様、姉さまにルイズ、お屋敷の人たちや、それに『彼女』
いろんな人達からいっぱい勇気をもらって、だから私は、今日もここにいられるの」
「ちい姉さま……」
「『彼女』はいなくなったりしない。
どんなに遠く離れていても、今も私たちと同じ空の下にいる。
彼女の残した足跡は、小さな物かもしれないけれど、
魔法学院にも、そしてもちろん、私の中にも刻まれているわ」
「…………」
「辛い気持ちが溢れそうになったら、
いつだってここに戻っていらっしゃい。
私はいつもここにいて、何度でもあなたを抱きしめるわ」
・
・
・
――夜。
先刻溢れ出した気持ちを持て余し、ルイズは一人、邸内を歩いていた。
相変わらず記憶は失われたままだが、すでに心のわだかまりはない。
ただ純粋に、恋しさが募るだけである。
火照る心を夜の空気に曝したくなり、静かに裏口の扉を開く。
広がるルイズの視界の先に、幼い日の中庭が溢れて消える。
「…………」
満点の星空を鏡のように映し出す澄明な池。
かつて、悲しみを持て余したルイズが逃げ込んだ想い出の場所。
あの頃、泣きじゃくるルイズを慰めてくれた『王子様』は、もういない。
悲しみに満ちたアルビオンの記憶と共に、『彼女』がどこかに吹き飛ばしてしまった。
(……少しずつ、私を取り巻く世界が変わって来ている)
きらめく池を感慨深げに見つめる。
『彼女』がもう、ハルケギニアにはいないように、過ぎた時間を巻き戻す事はできない。
レコン・キスタによって占領されたアルビオンはその後、
相次ぐレジスタンスや空賊の横行に後方を撹乱され、足並みが取れていない状態であると言う。
空賊のリーダーは、かのウェールズ皇太子であるとも、
トリステインの『鳥の骨』が反乱を扇動しているのだとも、
いいや全てが漁夫の利を狙うガリア王の仕業であるとも、誇大な噂ばかりが先行しているが、
いずれにせよトリステインは、目下の危機を逃れた状態となっている。
北方の情勢が膠着している合間を縫って、
アンリエッタのゲルマニアへの輿入れは、つつがなく完了した。
別れの日、ルイズはかける言葉を失って俯いていたが、
当のアンリエッタはさばさばしたもので、自らルイズの方に声を掛けてきた。
「ルイズ、貴方が一つ奇跡をくれたから、それだけで私は生きていけるの」と、
それから「お転婆なユリーシアにも宜しく」とも。
『彼女』と出会ったあの日から、世界の流れが、少しずつ変わり始めていた。
そう言った意味では、彼女の残した足跡は、思いの外、大きな一歩であったのかも知れない。
(……会いたい、もう一度だけでも、彼女に)
ぼんやりと見つめる水面に、一瞬、きらめく何かが走るのをルイズは見た。
(流れ星!)
彼女に逢いたい
彼女に逢いたい
彼女に逢いたい
反射的に願いを三度唱え、それからルイズが自嘲をこぼす。
流れ星など、見えたと思う瞬間には燃え尽きているのだ。
このジンクスが歴史から消えずに残っているのは、
単に成功した人間がいないからに過ぎな……。
「……えっ?」
夜空を見上げたルイズが、思わず驚きの声を漏らす。
『星』が消えていない。
いや、奇妙な虹色に輝くそれを『星』と断じて良いのかは分からないが、
とにかくその星は、緩やかに七つの色の軌跡を描きながら、東の空へと消えていく。
「きゃっ!?」
突然右手より溢れ出した新たな光に、ルイズが驚きの声を上げる。
真紅の輝きは空中で一筋の矢へと収束し、星屑の消えた方角を一直線に指し示す。
まじまじとルイズが指先を見つめる。
光の出所は、常日頃から自分の嵌めていた指輪であった。
あの、火傷の傷と同じ、
子供っぽいデザインだといつも思いながら、何故か外す事の出来なかった真紅の指輪。
「…………」
・
・
・
訳が分からなかった。
訳も分からないままに、ルイズは走り続けていた。
マントも羽織らずに屋敷を飛び出し、街灯一つ無い村道を息せき切って走る。
時折立ち止まっては指輪をかざし、光の行く先を追い駆ける。
慣れ親しんだ領内とは言え、今は夜、その道筋もルイズの記憶より変わってしまっている。
頼れるものは右手の指輪と、周囲を照らす満月の輝きのみであった。
(私はきっと、この偶然を待っていた……!)
額の汗を拭いながら思う。
心臓が高鳴り体が火照る、それでも止まる訳には行かないと心が告げる。
記憶が全てを忘れてしまっても、ルイズの中に真実を残し続けていた心が。
「ここ、は……」
やがて光が潰え、ようやく辿り着いた林の中で、呆然とルイズが呟く。
おぼろげな記憶がドアを叩く。
そこはかつて、こっそりと屋敷を抜け出したルイズが、
幼いアンリエッタと共に辿り着いた終点。
後を追って来たエレオノールにこっぴどく叱られた記憶のみが残る、小さな小さな泉だった。
「でも……、嘘よ、この泉はとうの昔に枯れたはず」
頭を振るい、ルイズが再び目を見張る。
想い出の泉は枯れるどころか、
月の輝きを一身に浴びて、底深い青をきらきらと煌かせている。
その中心に、時折何か奇妙な輝きが零れるのが見える。
「ミス……、ミス・ヴァリエール~!」
「……えっ?」
聞き覚えのある声に、ルイズが反射的に振り向く。
遥か後方から駆けつけてきたのは、ヴァリエール邸に泊まっているはずのシエスタであった。
「シエスタ! あなた、どうしてこんな所へ……!」
「ハァ、ハァ……、指輪の光が、部屋から見えたのですが……、
でも、準備に手間取ってしまって……」
「準備? あなた、あの流れ星の事を知っているの?」
「私にも、うまく説明はできないんですが、でも……」
大きく息を吐き出しながら、焦れ付くようにシエスタがバックを開ける。
「でも、ミス・ヴァリエール、
今のあなたにはきっと、この『レシピ』が必要なんです!」
「あっ!?」
ルイズが驚きの声を上げる。
シエスタが取り出しのは、先刻、母親から託されたばかりの『開かずの魔道書』。
それが今や、何かを訴えかけるかのように、二人の前で緑色の淡い輝きを放つ。
光の輝きに吸い寄せられるかのように、ルイズの右手が表紙に触れる。
呼応するかのように指輪が輝き、パラパラと一人でにページがめくれる。
溢れ出した見知らぬルーン文字の大群が、二人の周囲をくるくると踊る。
「こ、これって、一体……?」
「あわわ……、ま、待って下さい、今、ひいおじいちゃんの残した対応表を……」
あたふたと手帳と格闘を始めたシエスタを尻目に、
宙に浮かぶ魔道書と、未だ輝き放つ指輪を交互に見つめる。
驚きの連続に、ルイズの思考は真っ白に塗り潰されて追いつかない。
だが、少女の唇は、心の叫びに促されるかのように勝手に動き始めていた。
「……クローチェ」
「えっ? そ、その言葉は――!」
「きゃあッ!?」
シエスタの反応よりも早く、手の内の指輪が眩い輝きを放つ。
思わずルイズは瞳を閉じて、右手を強く握り締める。
やがて、光は潰え……、
「……あ」
瞳を開けたルイズが、再び呟きを漏らす。
いつしかルイズの右手には、銀色に輝く細長い杖が握られていた。
「あ、ああ……!」
思わず感嘆の声がこぼれる。
知っている。
本物のクローチェは、もっと軸がまっすぐで一回り長い。
本物のクローチェは、羽飾りがちゃんと対称になっていて、こんな風に歪んではいない。
本物のクローチェは、先端がこんなに不必要に膨らんではいない。
けれど、けれど……!
「これ……、これって……、レードルだ……!」
レードル。
ステラスピニアが魔法を使うための杖。
ステラスピニア。
夜空に降る、星のしずくを掬い上げる少女。
女の子たち全ての憧れ。
彼女の……、皐ユリーシアの、かけがえのない夢……!
「――! ミス・ヴァリエール」
シエスタの声にルイズが振り向く。
レードルの輝きに導かれるかのように水面が跳ね、虹色に輝く星のしずくが姿を現す。
再び空中を駆けるしずくを追って、弾かれた様にルイズも駆ける。
『私と一緒に、星のしずくを取りに行きませんか?』
(覚えている……!)
伝えたい。
何だって叶える勇気で。
『忘れてほしくない……、消えたくないの……』
「忘れたり……、忘れたりなんて、しない……!」
届けたい。
あなたの事がずっと、好きだって。
力強く大地を蹴り上げ、精一杯にその手を伸ばす。
奔放に天空を駆ける『星のしずく』に。
そして、今日もこの空のどこかにいるであろう、彼女にまで想いが届くように……。
『――ずっとずっと、大好きだよ、ルイズお姉ちゃん』
「大丈夫! 大丈夫だよ、ユーリ!
私だって、ずっとずっと、あなたの事が大好きだから――!」
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――たとえば、夜、こっそりと魔法の練習をしている時、
――たとえば、屋根の上でまん丸のお月様を見上げている時、
――不思議な出来事は、突然、空から降ってくる。
――それは、夜空から降り注ぐ『星のしずく』と、
――星を紡ぐ、特別な女の子『たち』の物語。
い~つか~ かなうよぜったい♪
かな~らず~ きみならできる~♪
さあ!ゆこう~ そのゆめのむこう~へ~♪
と言ったところで本作はお開きです。
本作を最後まで読んでくださった皆さん、
応援してくださった皆さん、宣伝してくださった皆さん。
最後になりましたが、本当にありがとうございました。
それでは次回「メロンとアスパラ~有機100%~」でお会いしましょう。
* *
* + うそです
n ∧_∧ n
+ (ヨ(*´∀`)E)
Y Y *