ぴゅあ×ぜろ★みらくる   作:いぶりがっこ

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カトレアの花言葉:「優美な女性」「魔力」「純粋な愛」「あなたは美しい」


第十三話「さよならユリーシア」

真っ白な光が、じりじりとまぶた越しに網膜を焦がす。

 

「ん……」

 

陽光に汗ばむ肌に不快感を覚え、ルイズがいかにも寝苦しげな吐息を漏らす。

それでもルイズはしばし、ぐるりと寝返りを打って、眠り直そうとしていたものの、

眩しい光と、粘つく体温にとうとう根負けして、ゆっくりとその瞳を開けた。

 

(何か……、日、高い……?)

 

呆然と、窓からの光に照らされた天井を見上げる。

外より聞こえる喧騒に、ルイズは一瞬、ぎくりと不安にかられたものの、

その内にようやく、今日が虚無の曜日であった事を思い出し、ほっと安堵の息をついた。

 

(そっか、昨日は私たち、星のしずくを取りに行って……)

 

ルイズの脳裏に、昨夜見たプリマ・プラムの姿がありありと甦る。

広大な光のステージに戯れるユーリの姿は、あまりにも幻想的で、

このまま瞳を閉じてしまったら、全てが夢の世界に埋没してしまうかのように感じられた。

 

(ユーリ、は……?)

 

呆然と、ベットから消えた少女を追って手を伸ばす。

昨夜はまるで童女のように、手の内できらめく星のしずくに、はしゃぎあった彼女であったが、

長い長い帰り道を辿りつく頃には、流石に両者の間でも口数が少なくなり、

結局二人は帰宅と同時に、ベッドに倒れ込むようにして意識を失ったのであった。

 

「……あ」

 

小さく驚きの声がこぼれる。

体を起こしたルイズが見つめる部屋の中央、

ユリーシアはベッドを背にして、テーブルに置かれた器具の数々と向かい合っていた。

 

小さな背をピンと伸ばし、手製の覚書きを見直しながら、

液体を分けた試験管に、あるいは粉末を加え、あるいは火を通しては掻き混ぜる。

ルイズは声を呑み込み、音をたてずにゆっくりと体を起こした。

眼前の少女の背中には、年齢には不釣り合いな、周囲の者を立ち入らせない静謐さが満ちていた。

 

(あれはきっと、エレーナさんの背中なんだわ……)

 

目覚めたばかりの頭で、漠然と思考する。

昨夜のユーリは、ローザの代わりにステラスピニアの夢を見せてくれた。

今、彼女の背が示すのは、姉・エレーナのステラウェバーとしての矜持であろう。

秘薬の精製などと言う仕事には、当然、相応のリスクと責任が付き纏う。

職人や医学者を目指すものならば誰もが持つであろう、仕事に妥協を許さぬ姿勢。

幼いながらに、ユーリは尊敬する姉の薫風を継いでいるのだ。

 

ルイズはしばらくの間、飽く事なく少女の背中を見つめ続けていた。

どれほどの時間が流れたか、やがて、液体は試験管から一つの小瓶へと移され始めた。

最後の試薬が瓶の中へと注がれると、小さな手で厳重に栓がなされ、

そこでようやく、室内に満ちた緊張感がふっ、とほどけた。

 

「で、できた~」

 

「終わったの? ユ……」

 

「えっ? あ、ひゃあ!?」

 

「あ、あわっ! 危なッ!?」

 

不意に慌てん坊の少女に戻ったユーリの手から、肝心の小瓶がつるりと滑る。

間一髪、ルイズが見事なヘッドスライディングを見せ、かろうじてそれを受け止める。

 

「ふぅ~、ギリギリセーフだったわね……」

 

「あぅ~、び、びっくりした~。

 あの、ありがとうルイズさん」

 

「ふふっ、ずいぶんと驚かせちゃったみたいね。

 おはよう、ユーリ、今日はずいぶんと早いのね?」

 

「おはようございます。

 へへっ、でもルイズさん、もうお昼を過ぎてるよ。

 今ならまだ、食堂が空いてると思うけど……?」

 

「ん~……、まあ、今はいいわ。

 それよりもユーリ、仕事の方はもう終わったんでしょ。

 ここいらで一息入れない?」

 

「あっ、だったら私、お茶を淹れます!

 ちょうどシエスタさんからもらったお茶っ葉があるんです」

 

言いながらパタパタと背を向けるユーリに対し、驚いたようにルイズが声をかける。

 

「あら、そんなに気を使わなくたっていいのよ?

 お茶くらいなら私が……」

 

ルイズの言葉が終らぬ内に、ユーリはくるりと振り向くと、満面の笑みを向けて言った。

 

「私が淹れたいんだよ、ルイズさん!

 だって私、ルイズさんの使い魔だもん」

 

 

――十分後、着替えを終えたルイズの前に、慣れぬ仕草でトレーを抱えたユーリが現れた。

 

「へへっ、ルイズさん、お待たせしました」

 

「あら、お茶と言っても紅茶とはまた違うのね。

 なんだかずいぶんと変わった色合い」

 

「ええっと、東方からの交易品で、使っているお茶っ葉は同じだけど、

 こっちのお茶とは違って、『はっこう』させてないから元の葉っぱの緑色なんだって

 そうシエスタさんが教えてくれました」

 

「へえ……」

 

ユーリの言葉に感心しつつ、カップを口元に運ぶ。

鼻先で上気の香りを確かめ、口中で転がすように一口飲み込む。

 

「うん、こっちのお茶ほどクセはないけど、

 でも、なんだか少し甘くて、何て言うか落ち着く味ね」

 

「ホント! 良かった~」

 

「ユーリはこのお茶、飲んだ事があるの?」

 

「前に一度だけ、レトロシェーナに言った時に、何度か飲みました。

 私はあんまりだったけど、でも、一緒に住んでたクロワはお気に入りだったみたい」

 

「そっか、まあユーリはまだお茶って年でもないわよね」

 

言いながら、薄緑にくゆるカップを見つめ、異国での日常に想いを馳せる。

ユーリの故国、フィグラーレの隣国に当たると言うレトロシェーナ。

その国で東方由来の緑茶が常用されていると言うのであれば、

ユーリの故郷がロバ・アル・カリイエに在ると言う推測も、

存外、的外れでは無かったのかも知れない。

 

ユーリの薦めるままにクックベリーパイを手に取り、他愛も無い世間話に華を咲かせる。

何でもない貴重な時間の中で、やがて話題は、ユーリの手元に置かれた小瓶へと移っていった。

 

「――ユーリ、その薬」

 

「はい?」

 

「それ……、昨日の星のしずく、なんでしょ?

 その薬がユーリの言ってた、どうしてもやりたかった事なの?」

 

「……うん」

 

そう穏やかに微笑んで、ユーリの小さな指先が、そっと小瓶の背を撫ぜる。

窓からの陽光を浴びて、瓶の中の透明な液体が、キラキラと虹色に反射する。

 

「フィグラーレに帰る前に、どうしてもこのお薬だけは作っておきたかったの」

 

「……そう、そうなんだ」

 

「星のしずく……、間に合って本当に良かった」

 

安堵の吐息とともに、少女が眩しげな眼差しを小瓶へと向ける。

休日の午後に相応しい、穏やかで安らげる時間。

だが、その時間の中でルイズは、焦れ付くような不安の種を持て余していた。

少女の言葉は、その仕草はまるで、夢の終わりを意味するかのようで……。

 

「……クロワがね、来てくれたんです。

 アルビオンから学園に戻ってきた、最初の夜に」

 

「えっ?」

 

ぽつり、と独り言のようなユーリの呟き。

思わず聞き返したルイズであったが、彼女の言葉の中には一つ、

その意味合いを推測できるだけの単語が含まれていた。

 

「クロワって、あなたがレトロシェーナで一緒に暮らしていたって言う人の事?」

 

「……はい」

 

ユーリの返答に合わせたかのように、カリカリと、木戸に爪を立てる音が室内に響く。

ユーリはまるで来訪者を予測していたかのように立ち上がり、ゆっくりと扉を開けた。

 

「にゃあ」

 

「え……、その猫?」

 

二人の前に姿を現したのは、ここ数週間ですっかり学院に居ついていた、一匹の黒猫であった。

血統の確かさを示すようなしなやかな肢体に、賢そうなサファイアの瞳がルイズを捉える。

尻尾にはユーリが巻付けたのであろうか、艶やかな黒毛に映えるオレンジ色のリボン。

 

「この子がクロワ、星のしずくを掬い上げるのを助けてくれる、私の大切なお供です」

 

「お供……、それって、こちらで言う使い魔みたいなもの?」

 

呆然と、ルイズが言葉の意味を反芻する。

いや、この場合、重要なのはその黒猫が何者なのかではない。

一体どこから現れたのか、という事だ。

 

「クロワがね、教えてくれたんです。

 はじまりは、本当に単なる偶然、ささいな事故だったんだって……」

 

じっ、と寂しげな二つの瞳がルイズを見上げる。

不安の渦がぞわりと広がり、ルイズの視界がぐにゃりと歪む。

 

「全ての始まりだった、あの春の日、

 私たち姉妹は、レトロシェーナに移動するための魔法を、

 そしてルイズさんは、自分に相応しい使い魔を呼び出すための魔法を使いました」

 

「……ええ」

 

「私たちが開いた『フィグラーレからレトロシェーナへ続く道』と、

 ルイズさんの開いた『レトロシェーナからハルケギニアに続くゲート』、

 同時に唱えられた魔法は、レトロシェーナの地で急速に引き合い、

 やがて二つの世界を繋ぐ、一本のトンネルになったんだそうです」

 

「そんな……! そんな、事が」

 

「ルイズさんの魔法は、ちゃんと成功していたんです。

 私たちが余計な事をしなければ、レトロシェーナで待つ、

 ルイズさんにふさわしい、本当の使い魔が現れるハズだったのに……!」

 

「それは、それは違うわ、ユーリ」

 

ぶんぶんとルイズが首を振るう。

彼女の言葉が正しいならば、それはまさしく『事故』だ。

ルイズもまた、そんな下らない偶然でユーリの未来を奪ってしまった自分が許せない。

だが、今はそんな傷の舐めあいをするよりも、もっと他に聞かねばならない言葉がある。

 

「教えて、ユーリ。

 その子は、クロワは一体どうやって、このトリステインまでやって来たの?」

 

「私がいなくなった後、お姉ちゃんたちは、

 消えてしまった『道』の痕跡をずっと探してくれていて、

 その内に、ゲートが完全に閉じきっていない事に気が付いたんだそうです。

 私の存在を軸にして、フィグラーレとハルケギニアは、

 今も細い魔力の糸で繋がっているんだって……」

 

「じゃあ、その『道』を逆に辿れば、あなたは元の世界に戻る事が出来る?」

 

ルイズの言葉に、ユーリは静かに首を振るう。

 

「お姉ちゃんたちも頑張ってみたんですが、

 ゲートはかろうじて、猫一匹が通り抜けられるくらいしか広げられなかったんだって、

 だから、伝言役にクロワが来てくれたんです。

 ゲートを再び開くためには、このハルケギニアに、

 フィグラーレの魔力が満ちる時間まで待たなきゃいけないって」

 

「フィグラーレの魔力が、満ちる時……?」

 

ユーリの言葉の意味を口中で反芻する。

その問答の回答は、昨夜、ユーリ本人から教えられていた事を思い出す。

 

満月(スヴェル)……。

常に月の満ち欠けに力を左右されるスピニア達が、

その天の恩恵を最大限に受けられる時間である。

 

咄嗟にルイズは立ち上がり、机の引き出しを開けて暦表のページを捲り始めた。

最後に満月を迎えたのは、ウェールズと共にニューカッスルを脱出した夜の事だ。

あれからおよそ一月、月齢はやがて一巡し……。

 

「……満月って、今日の夜じゃないの!?」

 

「……今夜、二つの満月が重なり合う時、

 お姉ちゃん達がもう一度、二つの世界を繋ぐ『道』を作ってくれます。

 そうしたら私……、私は、フィグラーレに帰ります」

 

「そんな……!

 そんな大切なこと、どうして今まで教えてくれなかったのッ!?」

 

悲痛な声を上げ、思わず非難めいた瞳をユーリへと向ける。

見詰め合う少女の瞳に映るのは、ただ真っ直ぐな悲しみの色。

たちまち体を駆け上がる喪失感に、ぞくりとルイズの背中が震える。

 

「ルイズさんにもう一つだけ、言わなきゃいけない事があります」

 

「言わなければ、いけない事?」

 

「フィグラーレと魔法の存在は、

 外の世界では、絶対に他人に漏らしてはならない決まりになっているんです。

 もしも決まりを破った時には、スピニア本人の手で、

 関わった人たちの記憶を消さなければならないんです」

 

記憶を消す。

ユーリの言葉に、ルイズの心音が一つ、どくりと跳ね上がる。

 

「ちょ、ちょっと待って、ユーリ。

 フィグラーレの魔法に関わったのは、私一人じゃないわ。

 ウェールズ殿下や、キュルケやタバサや……。

 彼らの記憶については、一体どうするつもりなの?」

 

「……実は、ルイズさん以外の人たちには、

 昨日までに全部の事情をお話ししました。

 みんな、最初は驚いて、それから凄く残念がってくれて、

 それでも最後は、私の言葉を受け入れてくれました」

 

「そんな……、嘘、嘘よ!

 だって昨日も、あなたは確か、キュルケ達と世間話をしていたわ!

 あの後でキュルケ達の記憶を消す時間なんて無かったはずよ」

 

「本当です。

 もうキュルケさん達の中に『皐ローザ』に関する記憶は残っていません」

 

皐ローザ。

その言葉を耳にして、ルイズの中で全てがストンと腑に落ちる。

 

キュルケ達は、ローザの正体がユリーシアであった事を、最後まで知らなかったのだ。

例えプリマ・プラムの称号を持つメイジとの思い出を忘れてしまったとしても、

フィグラーレの秘密に干渉しない部分、

ロバ・アル・カリイエ出身の女の子、皐ユリーシアとの日常は残り続けるのであろう。

 

だが――。

 

「だとしたら……、私の場合は、どうなってしまうの?」

 

力なく、絞るように捻り出されたルイズの声が震える。

答えは聞くまでも無い。

 

今のルイズは、何もかもを知り過ぎてしまっている。

プリマ・プラムの真の姿が、眼前の幼い少女であった事。

彼女の使う魔法が、ハルケギニアの常識に留まらない異世界の産物であった事。

最初の日に目にした奇妙な形のゲートこそが、彼女の姉達の作った『道』であった事。

そして何より、かつてユーリが泣きじゃくりながら、

何度も何度も、「ごめんなさい」と繰り返し続けた理由も、今のルイズには痛いほどに分かる。

 

「ルイズさんはきっと、王子様と同じ……。

 これまで私と過ごしてきた時間が、全部、消えちゃうと思う」

 

「そ、そんな……!」

 

ショッキングな一言に、ルイズの体がぐらりと泳ぐ。

まともに力が入らず、もたれかかるようにテーブルへと突っ伏す。

 

(……! ううん……、違う、これは……!)

 

ようやくそこで違和感に気づく。

体をまともに動かせないのは、精神的なショックによるものではない。

頭を預けたテーブル、揺らめく視界の片隅に、可愛らしいティーカップがちらりと覗く。

ふっ、と先程の甘い香りが鼻腔をくすぐる。

 

「……クローチェ」

 

頭の上で少女の声が聞こえる。

見上げる事すら叶わないが、今、おそらく少女の手の中には、

慣れ親しんだ銀色の杖が握られている事であろう。

 

「大丈夫……、だから」

 

曖昧な思考の中で、それでも少女の声が震えているのだけは理解できる。

 

「次にルイズさんが目を開けた時、

 その時には、私達はもう、この世界にはいないから……、

 胸の痛みも、悲しい気持ちも全部消えちゃって、

 全てが日常に戻るだけだから、だから……」

 

(……そんな……そんなのって……)

 

もう、まともに物を考える事すら叶わない。

ユーリを想い、必死で悪足掻きを続ける事すら、今の彼女を傷つけるだけに過ぎないのか。

彼女のためにルイズが出来る事は、もう、このまま瞳を閉じる事だけなのか。

 

(ユーリ……、ユー、リ……)

 

 

「……さようなら、ルイズさん」

 

 

真っ黒に沈んでいく、深い意識の水底で――、

 

――ルイズは少女の、別れの言葉を耳にした。

 

 

――再び瞳を開けたルイズが目にしたのは、見なれた部屋の天井であった。

 

頭を振るい、ゆっくりと上体を起こす。

室内はすでに薄闇に包まれ、窓から差し込む月光のみが中央のテーブルを照らしている。

 

「ユーリ……!」

 

最も大切なキーワードを思い出し、反射的に窓の外を見上げる。

頭上には満天の星空と、寄り添うように浮かぶ二つの満月。

 

『今夜、二つの月が重なる時……』

 

少女との会話が脳裏をよぎる。

二つの月は、これからまさに重なり合おうとしているのか?

あるいはもはや、離れてしまった後なのか?

そもそもどうして、未だにルイズはユーリの事を忘れていないのか?

募る想いばかりが空回り、何をすればよいのかが分からない。

 

――と、

 

「落ち着いてください、ミス・ヴァリエール」

 

「……えっ?」

 

不意に自らを呼ぶ声に、思わずルイズが振り返る。

見つめる部屋の入口には、ランプを携えた少女のシルエットが浮き上がる。

常とは異なる私服姿ではあったものの、その特徴的な黒髪を見紛うはずもない。

 

「あなた、シエスタ? どうして私の部屋に」

 

「プリマ・プラムから頼まれていたんです。

 ミス・ヴァリエールが目を覚ましたら、自分の所まで案内してほしい、と」

 

「ユーリから?」

 

望外の一言に、ルイズが驚きの声を漏らす。

ユーリがもう一度、自分と会おうと言うのもおかしな話であるが、

シエスタが彼女を『プリマ』と呼んだ事にも疑念が沸く。

ユーリは日中、フィグラーレに関わった人間の記憶を消して回ったと言っていた。

それが真実だとしたら、なぜ彼女の最も身近にいたシエスタの記憶は消されていないのだろうか?

 

「ミス・ヴァリエールがサモン・サーヴァントを行った、あの草原です。

 お二人は今、そこで再びゲートが開かれる時を待っています」

 

「お二人……?」

 

「急ぎましょう。

 二つの月が離れてしまった後では、全てが手遅れになってしまいます」

 

シエスタの言葉に頷いて、ルイズが手早くマントを羽織る。

理由などもはやどうでもいい。

もう一度ユリーシアに会える。

今のルイズにはそれだけで十分だった。

 

 

半ばまで重なり始めた二つの月が、夏草の生え揃った草原を青々と照らしていく。

この場所に足を踏み入れる時、ルイズの胸中にはいつも苦い気持ちが溢れだす。

 

二月前、進級の危機を賭けた、使い魔召喚の儀式。

かけがえの無い大切な友人との、最悪の出会いの日。

 

言い訳は許されない。

あの時のルイズは、自分の事だけしか考えていなかった。

身一つで異世界に放り込まれた少女を気持ちを慮る事もなく、その純潔を踏みにじり傷つけた。

どれ程に深く悔やもうとも、取り返しのつくハズも無い悔恨の記憶。

だが今日、この時を迎えてみれば、たとえどれほど愚かしい記憶であっても、

ルイズには忘れたいとは記憶とは思えなかった。

 

傷つけた事、傷ついた事、痛みも涙も何もかも、

一分一秒、その全ての時間が彼女との大切な思い出だ。

もしも願いが叶うならば、未だ傷痕の残る右手のように、

彼女と過ごした証の全てを、自分の中に永久に刻み込んでおきたかった。

 

思索に耽る内に目的の場所へと辿り着き、草むらを踏み締める足がぴたりと止まる。

かつてレトロシェーナへと続くゲートを開いた、始まりの場所。

ルイズの最愛の使い魔、皐ユリーシアは、月の光を一身に浴びて佇んでいた。

 

「ユーリ……」

 

少女の名前を、そっと口中で呼ぶ。

その唇の動きに気が付いているのかいないのか、少女はじっと俯いて動こうとしない。

両者の間はわずかに5メイル、声を掛ければすぐにでも届く距離。

けれど一体、これから旅立つ少女に対し、まず何を伝えなければいけないのか?

そのきっかけが、容易に言葉となって出て来てくれない。

 

「ミス・ヴァリエール」

 

「……えっ?」

 

すぐ傍らから、ルイズの名前を呼ぶ声。

そこでようやく、ルイズはその場に見知らぬ女性が居た事に気が付いた。

 

背の高い、ボリュームのある艶やかな黒髪の女性。

青色の上着にタイトスカートと言う、シックなスーツ姿の似合う大人の女性。

だが、その理知的なサファイアの瞳と、首筋を彩るオレンジのスカーフが、

ルイズにどこか言い表しがたいデジャヴをもたらす。

 

「改めてご挨拶させて頂きます。

 私は、皐ユリーシアの身の回りの世話を務める、クロワ、と申します」

 

「え……? クロワって、あ、あなたが!?」

 

思わず声を上ずらせるルイズに対し、クロワを名乗る女性が静かに応じる。

その落ち着いた仕草を見る内に、ルイズの中の戸惑いが、次第に理解へと変わっていく。

 

(そっか、変身薬……!

 身の周りの世話をする時と、星のしずくを追いかける時、

 その役目に応じて姿を変えるのが、彼女たちスピニアの言う『お供』なんだ)

 

呆然と見詰めるルイズの眼前で、黒猫の女性が深々と頭を下げる。

 

「今回の一件、私どもの手違いで行方不明となったユリーシアを保護し、

 正しい方向へと導いて下さったミス・ヴァリエールのご温情には、

 もはや、お礼の言葉もございません」

 

「温情って、そんな……! あ、頭を上げて下さいっ!?

 私の方こそ、クロワさん達に多大な心配をかけてしまって。

 それに私、ユーリを導くどころか、実際には彼女に助けられてばっかりで……」

 

「いいえ、ご謙遜なさらないでください」

 

クロワは静かに微笑んで首を振り、その視線を後方のユリーシアにちらりと向けた。

 

「ご存じの通りスピニアにとって、魔力の強さとは心の強さに他なりません。

 この短い期間の内に、目覚ましいばかりの成長を遂げたユリーシア自身の器が、

 貴方と過ごした時間の尊さを証明しております」

 

「それは……、けど、やっぱり私の力ではありません。

 それは未熟な私を支えようと、ユーリが必死になって頑張ってくれた結果なんです」

 

ルイズの強い言葉に、俯いていたユーリも顔を上げる。

ルイズのひたむきさがユーリを頑張りを引き出したのか、

ユーリの頑張りがルイズを進むべき道へ導いたのか、あるいはその両方か。

ひとつだけ確かな事は、二人にとって濃密で尊い二カ月が、

終わりの時を迎えようとしている事だけである。

 

「本当に、これでお別れになってしまうんでしょうか……」

 

後背から、ややためらいがちにシエスタが呟く。

 

「シエスタさん……」

 

「差し出がましい事を言って申し訳ありません。

 けれどクロワさん、私の曾祖父の時にも、

 馴染みのスピニアさんが迎えに来てくれたって言っていました。

 足しげく通う事は無理だとしても、もう一度、再開のためにゲートを開く事だって……」

 

シエスタの懸命の問い掛けに、クロワはしかし、ただ寂しげに首を振るう。

 

「……直接お会いしたわけではございませんが、

 シエスタさんのひいおじい様は、聡明なお方であられたのだと思います。

 フィグラーレの秘密の重要性を良く理解して、自らの素性を隠し、

 ハルケギニアの市井に完全に溶け込んだ事も、

 そして何より、自分の存在をフィグラーレから完全に消し去ってしまった事も」

 

「存在を消した? ひ、ひいおじいちゃんがですか!?」

 

思わぬ一言に驚きの声を上げたシエスタに対し、クロワが淡々と言葉を紡ぐ。

 

「フィグラーレとレトロシェーナは、

 表と裏で天秤のように釣り合う、一繋ぎの世界なのです。

 もしも片方の世界から、人が一人失われてしまったならば、それだけで天秤は大きく傾き、

 双方の世界に『歪み』が生じる事となります」

 

「歪み、ですか?」

 

「もし、世界が元のバランスを取り戻す事がなければ、歪みはやがて広い範囲を覆い尽くし、

 やがて、二つの世界にきわめて大きな被害をもたらす事となります」

 

「そんな……、けど、ひいおじいちゃんは若い時にハルケギニアに流れ着いて以来、

 二度とフィグラーレには帰らなかったって……」

 

「この数十年、フィグラーレに『歪み』が生じた、などと言う事実はございません。

 かと言って、ひいおじい様が嘘を吐いているとも思えません。

 おそらく彼には、フィグラーレに協力者がいたのではないでしょうか?

 

 彼の存在が、フィグラーレから完全に失われてしまった事を確認し、

 二つの世界がバランスを崩さぬよう、空間質量の再調整を行った人物が」

 

協力者。

その言葉を耳にしたシエスタの脳裏によぎったのは、幼い頃に度々聞かせてもらった、

若き日の曾祖父の思い出話であった。

 

『彼』がタルブの地に流れ着いてから半年も待たぬ内に、

昔からの馴染みであったステラスピニアが、彼を迎えにハルケギニアを訪れた。

けれど、その時の彼は既に、地元の娘の一人と深い恋に陥ってしまっていた。

苦渋の末、彼は故郷に戻れぬ事を彼女に告げ、それを聞いたスピニアは、

変わらぬ友情の証にと、手にしていた星のしずくの片割れを彼へ託した。

 

かつてシエスタは布団の中で、若き曾祖父の身に起きたロマンスに胸をときめかせていた。

けれど当事者たちは本当は、幼い彼女の想像よりも、

遥かに深刻な言葉を交わしていたのかもしれない。

 

「……ユーリには、そんな思いはさせられないわ」

 

と、それまで二人の会話に聞き入っていたルイズが、おもむろに口を開いた。

 

「ミス・ヴァリエール……」

 

「クロワさん、もう一つだけ教えてください。

 私の記憶は、なぜ未だに消されていないんですか?

 先ほどの話からすれば、フィグラーレの秘密は、

 絶対に守り通さねばならないものなのでしょう」

 

「それは……」

 

「……全部、私のワガママなんです」

 

曖昧に言いよどむクロワに変わり、ポツリ、とユーリが漏らす。

 

「本当はあの時、ルイズさんの記憶を消さなきゃいけなかったんです。

 ここでフィグラーレに帰ったら、きっともう、二度とルイズさんに会えなくなっちゃうから、

 たとえ思い出が残ったとしても、その分だけ、悲しい気持ちが増えてしまうだけだから」

 

「……ユーリ」

 

「だけど、消せなかった……。

 フィグラーレの掟を守らなきゃいけないって、

 無理に引き伸ばしても、ルイズさんを傷つけるだって分かっているのに、

 それでも私、ルイズさんに忘れてほしくなかったんです」

 

ほろり、と少女の瞳から、こらえ続けた涙が一筋こぼれる。

 

「私だって同じ気持ちよ、ユーリ」

 

少女の悲しみを打ち消せるように、ルイズが一層強く声を張る。

 

「たとえもう、二度とあなたに会えなくなるのだとしても、

 ううん、会えなくなるからこそ、痛みも、辛さも、悲しみも、

 あなたとの出会いによって芽生えた感情は、一粒たりとも記憶から消したくはないわ」

 

「ルイズ、さん……」

 

「ごめんなさい。

 今更こんな気持ちを伝えた所で、あなたの苦しみを増やすだけだって言うのに」

 

「ううん、ううん!

 私、すごく嬉しいです、ルイズさん」

 

ぶんぶんと激しく頭を振るい、泣き顔のユーリが無理やり笑みを見せる。

 

「ルイズさんがそう望んでくれるなら、私、

 私はルイズさんと『約束の言葉』を使います」

 

「約束……? ユーリ、それはどういう意味?」

 

「フィグラーレの魔法には、ただ一人とだけのパートナーと、お互いを許しあう関係、

 互いの秘密を共有し合える関係を築けるようになる、誓いの言葉が存在するんです」

 

舌足らずなユーリに代わり、傍らのシエスタがルイズに説明を行う。

 

「その誓いの言葉を交わした者だけは、フィグラーレの知識を持つ事が許されるんです。

 私はかつて、フィグラーレ出身の曾祖父と、誓いの言葉を交わしました。

 私が記憶を奪われずにいるのは、その誓約のおかげなんです」

 

「誓約……、そ、それじゃあ、私もその魔法を使えば」

 

「うん!

 ただの一人だけ、お互いの全てを許しあえる相手としか使えない、約束の言葉。

 それを交わせば、ルイズさんは世界にたった一人の私のパートナーになるの。

 もう、大事な思い出を失う必要は無くなるんだよ」

 

「本当!? 本当なのね、ユーリ!」

 

ユーリの笑顔がもたらした光明が、ルイズの胸中にぬくもりを灯す。

思わず安堵の吐息が零れる。

許しあえる関係、と言う制約にしても、今の二人ならば何の問題も無い。

たった一人とだけ全てを分かち合える、その『言葉』を交わした、ならば……。

 

「…………」

 

誓約の言葉。

広大な異世界で秘密の遵守を強いられるスピニア達とって、唯一の希望となる言葉。

生涯にただの一人としか交わす事の許されない、特別な魔法……。

 

「……あの、ルイズ、さん」

 

急に押し黙ってしまったルイズの顔を、どぎまぎとユーリが覗き込む。

 

「……え、ええと、それで、その魔法の使い方なんだけど」

 

「ユーリ、その言葉はまだ、使ってはダメよ」

 

「え……?」

 

ルイズの口から発せられた、はっきりとした拒絶の意志。

言葉の意味が理解できず、ユーリの心臓が凍りつく。

サファイアを閉じ込めたかのような大粒の瞳、その長いまつげがわずかに震える。

 

「ルイズさん……、ど、どうして……?」

 

「…………」

 

「そ、それは私に、資格が無いって思うから?

 お互いを許しあえるような関係を、私達が築けなかった、から……?」

 

「そんなワケないじゃない、ユーリ!」

 

少女の口から漏れる不安を打ち消すように、ルイズが強く言葉を重ねる。

 

「私の気持ちは、さっき言った通りよ。

 あなたの事は誰よりも大切に思っているし、

 出来る事なら、あなたと過ごした大切な時間だって失いたくない」

 

「ルイズさん……、だっ、だったら……!」

 

「でもねユーリ……、あなたの『王子さま』の事はどうするの?」

 

「王子、さま……?」

 

思いもよらぬ一言に、ユーリがたちまち言葉を失う。

深い諦観のため息と共に、ルイズが一つ、首を横に振るう。

 

「ううん、それだけじゃないわ。

 あなたが今、使おうとしている魔法は、

 本来レトロシェーナの人間と交わされるためのもの……。

 遠く異世界で務めを果たさなければいけないスピニア達にとって、

 唯一の救済措置とも呼べる言葉、そうでしょう?」

 

「そ、それは……、そう、だけど」

 

「今日、この地を離れたならば、

 あなたにとってハルケギニアは、遠い思い出の世界になる。

 どれほど強く想い合っていても、私はもう、あなたを助ける力にはなれない」

 

「……そんなこと、ないよ」

 

「ユーリ、あなたはまだ、一人で飛ぶには幼すぎる。

 けれどきっと、レトロシェーナにもあなたの力になってくれる人がいる、だから……」

 

「そんな……、そんなの、私、平気だもんっ!!」

 

理路整然と語られる、ルイズからの別れの言葉、

抗いがたい正論に、ユーリの心がひび割れ、弾け、そして溢れ出す。

 

「私、向こうでだって一人で飛べるんだもん!

 クロワだって、私の事を支えてくれるし、それに、

 それに、ルイズさんが私の事を応援してくれているんだって思えたら、

 それだけで私、いつもよりもずっと、ずっと頑張れるんだよ!」

 

「…………」

 

「ルイズさん……、だから、だから……!」

 

思い通りにならぬ言葉を持て余し、激情のままにユーリが駆ける。

大地を蹴る足がもつれ、大きくバランスを崩しながらも、

一直線にルイズの胸元へと飛びつく。

 

「お願い、ルイズさん、私の事を忘れないで!」

 

「……ユーリ」

 

「忘れてほしくない……、消えたくないの……」

 

子供特有の体温の高さが、凍て付く様なルイズの胸中にぬくもりをもたらす。

なきじゃくる少女の新緑の髪を、手の平でそっと撫ぜる。

たちまち愛おしさが胸いっぱいにこみ上げ、同時に心臓がチクリと痛む。

 

(こんなにも今は、彼女の事を愛おしく思っているのに……、

 このぬくもりも、恋しさも、夜明けには全てが消えてしまうなんて)

 

ぞっ、と、想像力がルイズの背を震わせる。

記憶が消えた未来の自分の姿を、今のルイズは他人事としてしか考える事しかできない。

それ自体がまた悲しく、ひどく恐ろしい事のように思える。

今、腕の中に大切な女の子がいなければ、ルイズは何もかもを投げ出して、

感情のままに叫んでいたのかもしれない。

 

(私は一体、何をやっているんだろう……?)

 

皐ユリーシア。

魔法が使えなかった自分に、奇跡をくれた少女。

何もかもを投げ打ってでも守り抜きたいと願う少女の事を、

ルイズは結局いつものように、自らの言葉で泣かせてしまっている。

 

今のルイズにできる事は簡単である。

自らの軽率さを詫びて、改めて『許しあう言葉』を交わすと言えばよい。

記憶を失う事が耐え難いのは、他ならぬルイズであり、

そして何より、ユーリ自身がそれを望んでくれているのだから……。

 

 

――だが、

 

 

「……お願い、ユーリ、私の話を聞いて」

 

息遣いを気取られぬように深呼吸して、少女の肩を抱く。

震える指先が伝わらぬよう、優しく。

 

「あなたと出会ってから今日までの日々は、色んな奇跡を私にもたらしてくれたわ。

 毎日の思い出だけじゃない、ううん、もしかしたら……、

 記憶の積み重ねよりも大切なものを、あなたは私に与えてくれたの」

 

「……それは、なに?」

 

「きっと、想いの強さ、なんだって叶える勇気、

 それに、たとえ負けそうになっても絶対に諦めない、世界で一番強い気持ち」

 

「想いの強さ……」

 

「それは多分、幼い頃の私も胸に秘めていたハズの気持ち。

 年齢を重ねて、現実に打ちのめされて、それで世間を知ったつもりになって、

 誰にも言いだせないまま、私自身すら忘れてしまっていた、はじまりの気持ち」

 

「…………」

 

「あなたがそれを、思い出させてくれたの。

 あなたのひたむきさが、もう一度、私に自分を信じる勇気をくれたのよ」

 

そう言って、ルイズが無理やりに笑顔を見せる。

慰めであれ幻であれ、今は絶対にその表情が必要な場面であった。

 

「あなたと出会えたおかげで、私はもう一度、未来を信じて歩いていける。

 たとえ思い出の全てを忘れてしまったとしても、この気持ちだけは……、

 あなたがこの世界にいた証を、私は消したりなんかしないわ!」

 

「ルイズさん……!」

 

「……きっとレトロシェーナにも、あなたを待っている人がいる。

 あなたの笑顔を必要を必要としている人がいるわ。

 だからユーリ、本当に大切な魔法は、その人の為に残しておいてあげて」

 

「……ん、ぐすっ……、ルイズさん、も……」

 

「……えっ?」

 

ぐしぐしと涙を拭い、ユーリがまっすぐにルイズを見上げる。

大粒のサファイアの青が、ルイズの視線を正面から捉える。

 

「フィグラーレを繋ぐ『道』が閉じたら、

 ルイズさんはもう一度、使い魔を呼び出すゲートが開けるようになります。

 だから、次にルイズさんの前に現れる子の事を、

 誰よりも大切にしてあげてください!」

 

「……ユーリ!」

 

どくりと心臓が跳ね、たまらず今度はルイズの方から、

ユーリの小さな背をぎゅっ、と抱きしめた。

 

ユーリより大切な使い魔などいるはずがない。

そう喉元から溢れそうになる言葉を必死になって食い止める。

 

今の悲しみに歪んだ顔を、ユーリに見せるわけにはいかない。

ルイズが少女の夢を全力で応援しているように、

少女もまたルイズの幸福な未来を、心の底から願っているのだ。

だとすれば、今日の別離の悲しみも、

新たな出会いへと続く二人の門出と、共に祝福しあって迎えねばならないのだろう。

 

 

――どれほどの時間、そうして抱き合っていたのだろうか。

 

 

再び気が付いた時、周囲には静謐な空気と、神秘的な淡い光が溢れ始めていた。

 

「――二つの月が重なります。

 名残は尽きませんが、どうか……」

 

天空を見上げるクロワの言葉を耳に、どちらからともなく身を離す。

やがて、始まりの日と同じように、空間をぱっくりと断ち切ったかのような、

眩い光の門が、二人の前へと姿を現した。

 

「あの……、ルイズさん、これを」

 

もぞもぞとユーリがポシェットを探り、見覚えのある小瓶をルイズの前へと差し出す。

 

「この薬、ここしばらくの間、ずっとあなたが作っていた……」

 

「星のしずくから精製した、少し特別なお薬です。

 カトレアさんに飲ませてあげてください」

 

「――! ちい姉さまに?

 それじゃあユーリ、あなたは今日まで、その為に……!」

 

「……でも、本当はそのお薬は、まだ未完成なんです。

 加えるハズだった試薬のひとつを、アルビオンで使ってしまったから。

 だからきっと、効果は気休めくらいにしかならないと思うけど……」

 

「ううん! 嬉しいわ、ユーリ。

 あなたの気持ち、ちい姉さまにだって絶対伝わるから」

 

そう言って目尻の涙を拭い、小瓶を受け取ったルイズであったが、

その内にふっ、と表情を曇らせた。

 

(……記憶を失ってしまう未来の私は、この薬を無事に、姉さまに渡してくれるのかしら?)

 

「その薬、私に預からせてください」

 

傍らにいたシエスタが、いつになく強い表情で歩み出る。

 

「シエスタ……」

 

「薬は必ず、ミス・ヴァリエールにお返しします。

 確実にカトレア様の手に渡るよう手配します、ですから……」

 

「……ええ、お願いするわ。

 ありがとう、シエスタ」

 

「……それから、これは、ルイズさんに」

 

そう言いながら、ユーリが右の拳をルイズの前へと差し出す。

開いた手の平から現れた小さな指輪が、ルイズの視線を釘付けにする。

 

今もユーリの右手に煌くそれと酷似した、鮮やかな赤い宝石の指輪。

だがよく見ると、大振りな宝石はややいびつな形に歪んでおり、

それが却って本家よりも、玩具のような愛らしさを強調していた。

 

「……キレイ、ユーリの指輪とお揃いなのね」

 

「私がフィグラーレでステラウェバーの勉強を始めてから、はじめて作った指輪です。

 作ったって言っても、ほとんどエレーナお姉ちゃんに手伝ってもらいながらだし、

 結局うまく出来なかったから、本物のような強い力は出せないんだけど」

 

「えっ、それじゃあこの指輪は本当に……?

 ……ダメよユーリ、そんなに大切な物、私は受け取れないわ」

 

そう言って押し返そうとする指輪を、ユーリが尚も強くルイズに握らせる。

 

「受け取ってください!

 今の私は、これくらいしかルイズさんに渡せる物がないから」

 

「でも……」

 

ちらりとルイズが傍らのクロワを仰ぎ見る。

クロワはまるで、歳の離れた姉妹のいざこざでも見るかのように苦笑し、静かに頷いた。

 

「どうか、ユーリのしたいようにさせてあげて下さい。

 力あるスピニアが持たなければ、それはただの指輪に過ぎませんから、

 その指輪の存在が、フィグラーレの秘密に干渉する危険はございません」

 

「でも、もしかしたら……」

 

と、そこでユーリがためらいがちに言葉を区切り、まっすぐにルイズを見つめ直す。

 

「――もしかしたら、その指輪と星のしずくが、

 私たちの運命を、もう一度、引き合わせてくれるかもしれないから!」

 

「……あっ」

 

ざっ、と一陣の風が草原を撫で、ルイズの心をざわりと震わせる。

 

想像する。

 

いつか、この指輪を必要とするスピニアの少女がルイズの許を訪れて、

もう一度、自分とフィグラーレを一本の線で結んでくれる世界。

それはまさに、奇跡と言う以外に喩え様のない、細い細い一筋の可能性。

 

「……もしも、もしも奇跡が起きたなら」

 

震える指先で指輪をはめながら、ルイズが自らの夢を重ねあう。

 

「その時はあなたに、約束を果たすために会いに行くわ。

 あなたと私を乗せてフィグラーレの空を飛ぶ、私の最高の使い魔。

 真っ先にあなたに紹介してあげるから」

 

「うん!」

 

ユーリが笑う、ルイズも心の底から笑う。

他愛もない夢物語が、可能性として確かに存在する未来を信じて。

 

「……ねえ、ユーリ、

 最後にもう一度、ローザともお別れさせてほしい」

 

ルイズの言葉に小さく頷いて、ユーリがポシェットをまさぐる。

手にした瓶の底に残った最後の一粒を感慨深げに見つめ、そして口中へと放り込む。

 

「クローチェ」

 

指先に宿るレードルを、再び銀色のスプーンの形へと変える。

程なく少女の体より淡い光が零れ、未来を先取りするかのように、

その背が、手足が、髪の毛が緩やかに成長し始める。

 

『スピリオ・クローチェ・デル・スド』

 

フィグラーレで最後の『言葉』を唱える。

少女が鮮やかに光を纏い、やがてスカート、ブラウス、帽子にサンダルに。

プラム・クローリスの正装を身に付け、

星を紡ぐ少女、ステラスピニアの名に相応しい乙女が姿を現す。

 

「……素敵よ、プリマ・プラム。

 あなたの夢、叶う日が来るわ、絶対に」

 

両手を重ね、祈るようにルイズが瞳を閉じる。

その頭の上に、そっとレードルの先端が差し出される。

 

「ルイズさん……、

 私、ルイズさんがすごい魔法使いさんだって、ちゃんと知ってますから」

 

遥か頭上より、大好きな少女の声が聞こえる。

月の魔力はいよいよその光を増して、ルイズの閉じたまぶたの外から、

世界を白色に染め上げていく。

 

「私……、信じます。

 きっと二人はもう一度会えるって……」

 

眩いばかりの白が、心の奥底までも塗り替えていく中、

奇跡をくれた少女の最後の言葉を、ルイズは聞いた。

 

 

 

「――ずっとずっと、大好きだよ、ルイズお姉ちゃん」

 

 

 

 

 

 

 




そしてレモンとスズランの短い春は終わり、
皐ユリーシアの物語は、世界で一番星に近い町、星が丘へと回帰します。

次回はエピローグ、
ハルケギニアに残ったルイズのその後を以って、最終回とする予定です。

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