1
硬質な足音を響かせ、若者は甲板から架橋、そして桟橋へと降り立った。寮に戻ることも出来ず持つものも持たずに飛び出したとは言え、何とか着替えだけでも調達できたのは僥倖だった。ユウキ=テルミは下ろしたてのシャツと黄色のコートが海風に持っていかれぬよう、片手で裾を押さえた。
視界を遮らないよう逆立てた新緑の髪は、今までのようにフードに隠されることなく剥き出しになっている。顔形が同じとは言え、カズマ=クヴァルはそもそも素顔を晒さずに生きてきた日陰者だ。今のテルミを見て陰鬱な少年を連想するのは、知り合いでも困難だろう。
他の客に混じり堂々と旅客船から降りたテルミを見咎める者はいない。
この船に乗ってきた者に、他人を気にするような余裕が無いだけかもしれないが。観光気分でこんな世界の果てまで来る酔狂な存在はテルミを含めていなかった。
誰もが何かを探し出すために緊張した面持ちで、命がけで日本への航路を選んだのだろう。
他人の心理になど興味がないテルミには好都合だった。
テルミがふり返ると先程まで乗っていた船が、湾を見ようとした視界を遮った。
かつて自衛隊と呼ばれた国防軍が残した小型船舶も、国が消滅した今では国連の所有物となり、定期船代わりに使用されている。むろん乗員は日本人ではない。
船から目を離し、陸地の方を仰ぎ見る。
そこに、繁栄を極めた国家の姿を見ることは出来ない。ただどこまでも焼け焦げたなだらかな荒れ野と、源泉を山ごと失い干上がった河川の底が晒すひび割れ、木材が朽ち果てて岩しか残っていない瓦礫の住宅地跡。朝に似つかわしくない腐った色の空の下には、打ち捨てられたこの港町の残骸と同じ物が国土一つ分続いている。
かつて自身の目で見た日本とは変わり果ててしまった滅亡した国の姿に、テルミが自嘲のように笑う。
僅か六年で起こった大災厄、全ては、テルミが仕組んだ計画の僅かな破綻から生じたものだ。罪の意識など感じる精神は持ち合わせていないが、自分の失敗をこうもわかりやすく示されると頭が痛い。
裏から日本へ提供したオリジナルユニットのスサノオはアルカード家に接収され、口説き落としたレリウス=クローバーは、調整に失敗した《蒼の魔道書》のせいで未来へ転送された。
事象をやり直そうにもタカマガハラのループ起点より以前に戻ることは今のテルミには不可能だ。
今ある手札で切り抜けていくしかない。
他の人間がそうしているように、テルミも紙の資料を取り出して手近な軍人に声を掛けた。国連の最下層らしい屈強な男が事務処理的にテルミの細い手から紙束を受け取る。
「後見人のレリウス=クローバーって男を探しに来たカズマ=クヴァルだ」
署名がされた申請用紙の写しには、六年前に日本で行方不明になった科学者の名前が記されていた。
顔面を陥没させたテルミが意識を取り戻したのは裏路地のゴミ捨て場のゴミの上だった。丁寧に害獣よけの目の細かいネットを被せられていていたおかげで半日近く誰にも見つかることもなく気絶していた。
固定されていたかに見えた事象から抜け出せたのはいいが、その分だけ予想できない事態が起こり得る事を改めてテルミは実感した。
言動を改めるつもりはないが、この稀有なフェイズを徒らに浪費するのは避けたい。特に再ループさせる鍵となり得る者との接触は、慎重に行ったほうがいいだろう。すぐ頭に血が上るヴァルケンハインの顔を真っ先に思い出しながら、まだ止まっていない鼻血に悪態をついた。
うなじを小指の付け根で叩きながら立ち上がったテルミの身体の傷は、半ば塞がりかけていた。致命傷寸前とは言え、黒き獣の時のように精神体が消し飛びかけたわけではない。力の制限を受けていない今のテルミなら自己修復可能な範囲だ。
だが、ヒヒイロカネを回収されたのは憂慮すべき事態だった。理の内でありながら精神体を殺傷できる性能を持つ神代の武具を、アルカード家に持たせるのは何かと不味い。あれも回収しなければ。
考え事をしながら歩いているテルミを、ぎょっとした顔で通りすがりの男が避ける。
「アァ?」
ゴミ捨て場から程近いとは言え裏通りの比較的治安が悪い地域だったはずだ、とカズマの記憶が疑問を投げかける。そうそう人が通る場所ではない。案の定、横の壁に張り付いた男は柄も頭も悪そうな顔をした品の良くない男だった。血まみれのテルミの格好に驚いて左右どちらに逃げるのか判断しそこねて立ち尽くしている。
そう言えば着るものも何も、この先の未来では必要ないからと寮に置いてきてしまった事をテルミは思い出す。
封印されず行動できるなら、先立つ物が必要だ。
「いいトコに来たなァ」
ニィと唇を嬉しそうに歪ませた目の前の男に悪寒を感じて右に逃げたがもう遅い。しなやかに伸びた黒い右足が身を翻した男をそれ以上の速度で強襲する。後頭部を蹴り飛ばされた男のこめかみが、レンガの壁に叩き付けられる。
「遊んでる暇ねぇから金だけよこせや」
短いマントの尾を引きながら体勢を立て直したテルミは何のためらいもなく、倒れた男の持ち物を漁り始めた。財布、コイン形の通信機、サイズは合わないが血のついていないマント。物色して不要なものを捨てていく。
兎に角時間がないのだ。十聖の、特にナインに気付かれればイシャナからの脱出は困難になる。結界を抜けること自体はテルミにはそう難しくはなかったが、その先に広がる海を越える手段はあいにく持ち合わせていない。船に乗ってイシャナを出る必要がある。
意外と分厚かった財布の中身に口笛を吹き、抜き取った中身をポケットにねじ込むとテルミは走りだした。
もうこの島に用はないのだから。
2
緊張した面持ちで船の舳先をじっと見ているセリカの背を一人と一匹の男が見ていた。どちらも心配気な保護者の面持ちをしている。船は沖の荒波も物ともせず、軽快に海面を滑るように走る。
一人である方のラグナは、あてどないこの奇妙な世界に辟易しながらも、唯一守るべきであろうと決めた少女の背を静かに見ていた。片目片腕に赤いコートを着流したラグナの白い髪が陽の光を反射し鮮やかに浮かび上がっている。
確かに百年前に滅びたと記憶にあるはずの国を目指す真っ直ぐな少女を見放すなど、ラグナにはできなかった。そして同時に、この世界が本当に過去なのだと否応なしに感じていた。
ラグナは海を見たことがなかった。
船とはラグナにとって空を飛ぶ魔操船を指すものであり、水の上を進む乗り物ではない。水上船舶を必要とするような大水源は、暗黒大戦以降の人の生存域にはほとんど存在しなくなったからだ。例外的な場所もいくつかあるが、一般の人間が立ち入れる場所ではなかったはずだ。
初めて乗った船の形容しがたい揺れに身を任せ潮の生臭さに苛まれながら、ラグナは座席に身を沈めている。
かろうじて残っている知識記憶と現状をすり合わせ、ぼんやりと現実を受け入れ始めていた。
一匹である方のミツヨシは二人に気づかれぬよう、やれやれと笑った。ふわふわした尻尾が伸びる黄色いコートの下の目元が、少しだけ緩んでいる。
猫の隠した笑みをそうそう人間に悟られるとは思いはしないが念のため、袖で口元を隠す。見ればぴくぴくと頭から突き出した三角の耳が動いているのだがミツヨシは気付かない。
動いたのに気づいたラグナは身近にいた獣人の癖を思い出し、笑っていることを察したが何も言わなかった。
向かい合わせに座った奇妙な人間の若者と、乗り出してまで日本を探す人間の少女の間に甘酸っぱいものを感じ、無下には出来なかったミツヨシは、結局二人の同行を許可してしまった。
これだから弟に甘いと言われてしまうのだろう。
心躍る旅路ではない。むしろ見つかるべきものが見つかってしまった時、少女の心を傷つけてしまうのは目に見えている。しかしそれでも真実を知る道を彼女は選んだのだ。甘ったれたようで我を通す強さを持っている少女の背をミツヨシは微笑ましげに眺める。
朝一番の船は波をかき分ける低いエンジン音を立てながら、もうすぐ日本が見える位置へと辿り着こうとしていた。
大国の見る影もない惨状に言葉を失ったラグナを背に、セリカは港から見える風景に組んだ指を強く握りしめた。
遮るもののない風に、セリカの黒いスカートが大きくはためく。それを押さえることすらしないまま、セリカは立ち尽くしていた。
何度も映像で目の当たりにした光景。
イシャナで報道されていた生存者発見を告げるニュースの、キャスターの声。
危険区域を最初に見た時にこみ上がってきたもの。
すべてが再びセリカの胸を満たしつつあった。
それでも進まなければならない。悲しくても、どこかにまだ生きて助けを待っているかもしれない父がいる。
セリカの決して諦めない真っ直ぐな信念が、彼女に前を向かせた。震えて握られていた両手が、決意を新たに握り直される。
「ちょっと待っていてくれ。話をつけてくる」
ミツヨシが掛けた声にセリカがふり返る。
警備をしている軍人を指差すミツヨシが、空いた方の手を振っていた。
「うん、待ってるね」
できるだけ明るい声で返事をしたセリカが、背後にいるはずのラグナの方を向く。
ラグナはミルヨシの声が聞こえていないのか灰色の瓦礫の方を向いたまま立ち尽くしていた。赤いコートに覆われた背中は、遠くからでもよく目立っている。
大きな剣を持っているので、何度が軍人に呼び止められて少し不機嫌だったのを思い出す。離れた所にいるのもそのためだろう。
もしかしたらミツヨシさんはしばらく帰ってこないかもしれないと伝えないと。
そう思って進めた足が止まった。
瓦礫に足を取られたわけではない。一瞬自分が何を見たのかわからなくなって足を止めたのだ。あるはずのないもの見てしまったような、それこそ幽霊がお昼のカフェに居るのを見たようなそんな驚き。
「どうして、ここに」
セリカが目を丸くしたのは、そんなものをラグナの背中の向こうに見てしまったからだった。
何でもないように、世間話をするように、男はふらりとラグナの眼の前に現れた。
ひょろりとした細長い男だ。歳はラグナより下かもしれない。服もセリカに似た、おそらく制服なのだろう白と黒の上下に、黄色のロングコートを羽織っている。
「いよぉ元気そうじゃねぇかァ、ラグナ君」
知り合いに掛けるにしても馴れ馴れしい猫なで声で名を呼ばれ、ラグナの背を無数の針が指すような悪寒が走った。
この声を知っている。
何度も何度も聞いた、忘れたくても忘れられない声を、忘れてしまっていた。
「ァ、ア……ッ」
知っているけれど何も知らない。
緑の髪を逆立てて、可笑しげに金色の瞳を歪ませている。ぱっくりと開いた赤い口がラグナを嘲っている。胸糞の悪い声を上げてこちらを見下している。
「なぁ知ってるかお前は、俺の名を、俺のことを、俺がテメェに何をしてやったかをよぉ?」
黒い影が男の足元でわだかまっている。男が一歩進むごとにぐにゃりと歪む影が、気持ち悪い。
どうして、この男のことを忘れていられたのだろうか。
心を煮溶かす憎悪を、歪める怨嗟を。心穏やかになどいられないほどの殺意が白い霧が掛かっていた頭の中を駆け巡り、思い出すより早く叫びが口からほとばしった。
「テルミィィィィィィィィィッ!」
心底嬉しそうに男が目を細めたのに、胃が握りつぶされるような憤りを感じる。
ユウキ=テルミを前にしたラグナはもはや、先程までのラグナでは無くなっていた。ただの優しい男などではない一人の復讐鬼がようやく目を覚ましたのだと、テルミだけが理解し愉快そうに笑った。
「やっぱわかるか、俺が誰だか!いやぁ子犬ちゃんがそこまで馬鹿じゃなくて助かった!頭空っぽのまんまじゃ俺様困っちゃうとこだったぜ」
本当に良かったと思っているらしく、ラグナの怒りなど目に入らぬように手を打ち合わせる。上機嫌なままステップでも踏みそうな足取りで落ちていた鉄板を蹴り飛ばしてラグナに近づくテルミに、ラグナが歯を噛み締め怒りに震えながら剣を手に取った。
乾いたペンキが剥がれ落ちるように、ラグナの失われていた記憶がその奥から鮮明に蘇ってくる。
統制機構、蒼の魔道書、窯、カグツチ、境界接触素体、錬成、ライフリンク、嘲笑うテルミ。
そして、クサナギノツルギ。
「なんでテメェがここに居やがる!」
血量が増えたように痛む頭を押さえたいが、動く左手は剣を握っていて使えない。
テルミを前にして右手と右目が使えない不利な状況の上に、頭痛が止まらないなど洒落にならない事態だ。気持ちだけが逸って身体が追いつけていない。
「居ちゃぁ悪ぃかよ、俺様ってば六英雄だぜ?」
六英雄。そうだ、ここは百年前の世界。黒き獣が六英雄に倒される前の。一気に吹き出す記憶で頭が揺さぶられる。ならばユウキ=テルミがいてもおかしくない。
いや、おかしい。何かがおかしい。
「どっちかってぇとラグナ君の方が異物だろ、ここだとよ」
暗にラグナが未来の人間であることを揶揄してテルミが笑う。幾度か見た笑いだ。引きつったような甲高い笑い声。不快な音の羅列。
けれどおかしい。どうしてどうしてどうして
「どうしてテメェがその事を知ってんだよ!おかしいだろ!何で、何でテメェが俺のことを知ってんだ、テメェは俺と会ったことは無いはずだろうがよ!」
このユウキ=テルミがこの世界と同じ過去の存在なら、ラグナに会ったことなどあるはずがない。なのに、この男は初対面で名を呼んだ、嘲った。確かに知っていると、覚えているかと。
「そうだよハジメマシテ、ラグナく~ん?」
身体をよじるほど首を傾げたテルミが、眉根を寄せてこちらを覗き込む。
もうすぐそこまでテルミは迫っていた。
「ならテメェも未来から!」
「そりゃねぇよ、ハズレ、間違い、残念でしたー」
剣を逆手に構え直し、片腕になり短くなった間合いでテルミにゆっくりとにじり寄る。靴がざりざりと砂利を踏む。テルミが攻撃してくる様子はないが、いつ気が変わって牙を剥くかわからない。そう言う残忍な男だ。
唯一残った左の目も風で揺れる銀髪で遮られそうになる。不利でも、戦わずにはいられない。
「俺も逆に聞くがよ、ラグナ君さ~」
ひときわ強い風が吹く。その瞬間をラグナは狙った。
動く右肩を前に出し体当たりをするように接近する。
引いた左肘から片腕で繰り出した刃が、ラグナの体表を掠めるようにまっすぐ進んで、影から間合いを掴ませない速さで飛び出す。そこから、剣を盾に踏み込んで畳み掛けようとして。
刃の先に誰も居ないことに気づいた。
「何で俺を見て、俺だってわかったのかなァッ!」
動きが見えたと思ったのは錯覚で、真下から腹に突き刺さったのが靴の踵だとわかったのは、高々と蹴り上げられた後だった。
ラグナはそのまま瓦礫の中に背から突っ込んで、全身の骨が軋む音を聞いた。
飛び散った小石が肌を切る痛みさえ曖昧な状態で、それでも追撃に備え足をついて身を起こす。
「おー根性あるなぁ。やっぱよ、ループ抜けんにはそんぐらい元気のいい子犬ちゃんじゃねぇとダメなの?」
膝を付いただけで立ち上がり切れないラグナを煽るように、長身のテルミがしゃがみ込んで視線を合わせてくる。テルミの足の下では、ラグナを打ち上げた時に踏んだ薄汚れたガードレールがネジを飛ばすほどに陥没している。
悠々と芝居がかって動くテルミの態度は、息が詰まった肺を落ち着かせようと忙しなく息をするラグナの返答をじっと待っているかのようでさえあった。
そう、世界はかつてループしていた、らしい。無限に百年間を繰り返す終焉と黎明が結ばれた牢獄にあった。ラグナも話を聞いたが半信半疑でしか無い。それをループの内側の人間は感じることができないからだ。レイチェルのような観測者を除いては……。
なら、この男は。
ループを崩壊させた男の、その過去は。テルミは観測者と同じようにループを知っていたのか。
「テメェがノエルに手ぇ出した時、聞いてもねぇのに、ペラペラ喋りやがったんだろうがあァァァッ!」
地を這うように、右手が使えないため威力は格段に落ちるが、斬撃を叩きつける。
幅広の剣が地面と擦れ火花を上げるが無視。悲鳴を上げる背をひねって刃に力を込める。
攻撃を予期していたのか、しゃがんでいた体勢から少しだけ早く身を起こす。刃を飛んで避けたテルミは、背後の岩を蹴ってさらに後ろへ飛びすさった。
巻き上がる砂塵の中、朝の光にひらひらと黄色のロングコートが舞う。
「窯だとか碧の魔道書だとか、長々喋りやがって、知ったことじゃねぇんだよ!」
思い通り動かぬ身体に苛つくまま、ラグナは剣をがむしゃらに振るう。けれど、どの斬撃も蹴りもテルミを傷つけるには至らない。そのずっと手前で、手に持った小さなナイフに受け流される。
「やっぱよぉ、ずいぶん先から来たんだな」
金の目をそらした思案顔で、どう見ても真剣に戦うつもりなど無さそうなテルミは、こちらの言動を探って精査しているようだった。どこまでも防御が片手間だ。
戦闘に集中していない。どれだけ手を抜かれているのか。完全に遊ばれている。
「テメェ……容赦しねぇ」
大きく下がったラグナが低い声で怒気を放つ。
本気ではあったが使うつもりはなかった右腕の、その肘を、刃を抱えた左手首で支えて突き出す。動かない腕でどこまで制御できるか怪しいが、術式が活性化していないのだから出力が上がるということはないだろうと予測しての行動だった。
足を開き大きく息を吸うと、意識を右手に集中させる。黒いベルトが巻かれた腕は、何の感覚もラグナに返さずだらりとしていた。
「第六六六拘束機関開放!次元干渉虚数方陣展開!」
記憶に刻まれた呪文が、ごくわずかに右腕を活性化させる。淡い赤の脈動が表面にパルスのように一度走る。が、それだけだ。一向に術式の塊である魔道書が発動しない。
「むっだ無駄、ここじゃ使えねぇよそんなもん」
苦い顔をするラグナにテルミが呆れたように顔の前で手を振る。やる気の無さがにじみでた仕草に、再びラグナの闘志が燃え上がる。
「だったらテメェをぶん殴ってぶっ殺す!」
「だめええええええええ!」
振り上げた左手を、ラグナが怒りのままに振るうことはできなかった。ずしりと重みが増し肩が下がる。
「だめ!カズマさんと喧嘩しちゃだめ!」
驚いて振り上げた腕を見ると、二の腕にセリカがぶら下がっていた。
必死な形相で、足も届いていないのに飛びついてきたのだろう。ぶらぶら、今にも落ちそうな震える腕でなんとかしがみ付いている。
「バッカ!危ねぇから下がってろ!」
「嫌っ!ラグナもカズマさんも喧嘩なんてやめて!」
セリカが一度言い出したら聞かないのはこの短期間でもわかっていたが、状況が状況だ。殺し合いのただ中に突っ込んできて無事で済むはずがない。
どれだけ危険かが理解できていないセリカを何とか引き剥がしに掛かるが、片腕では振り払えず、といって蹴り飛ばすわけにもいかない。
「おうおうラグナ君よ、熱り立ってんのテメェだけだってわかってか?」
声が耳に入りキッと睨みつけると、その先のテルミは呑気そうに先ほどの岩の上に手をついて座り込んでいた。
そしてテルミの首元には、ミツヨシの持つ刀が触れるか触れないかの位置で押し当てられている。
険しい顔をしたミツヨシが警戒気味にテルミのそばに立ち、不審な動きがあればいつでも、もう一刀を抜き放とうと構えていた。
「少し落ち着け、ラグナ」
「お話しましょーラグナくーん?」
再び斬りかかろうとしたラグナの首筋に、身体をよじ登ったセリカが飛びかかる。
「だめったらだめ!」
「離せ!セリカッ」
セリカを引き離そうと剣を持ってその場をぐるぐる回るラグナと、引っ付いてはなれないセリカのスカートが中身が見えそうで見えない絶妙なひるがえり方をする様子に、周囲の注目が一点集中していることなど気づきもせず、二人は声を荒げて叫んでいる。
「……よくは知らんが、これ以上煽ってくれるなよ」
喉を鳴らしてそれを観覧している元凶であろう男を、ミツヨシがため息混じりにたしなめる。
声を掛けられたテルミは、ミツヨシに向けて無知を嘲るような意味深な笑みを浮かべただけで、何も返事をしなかった。
3
ラグナという人間を支えているのは感情でありその根幹となる記憶であるのだが、記憶を失っていた間は完全に忘れていたがゆえに思い込んでいただけで、ラグナはそもそも人間ではなかった。
人に限りなく近く、自分と人間の違いを明確に言い表すことができずとも、人間では無いということを知っている。そう教えられたのだ。
その上で人形ではなく一人の人間であることを選んでラグナは生きてきたのだ。そんな根本的なことすら忘れて生きたここ数日は夢の中を彷徨うようだったと感じる。
その夢の霧を晴れ渡らせたのは、何よりも嫌悪する一人の男の存在だった。
左手でずっと握りしめた大剣の先が剥き出しの鉄板の上で跳ねて耳障りな音を立てる。
緑に塗られた軍用車は道なき平野をひた走り、踏みつけた瓦礫の分だけ荷台の積荷を上下に揺さぶり続ける。乾き果てた茶色い河川は大きな轍のように黒ずんだ荒野に横たわっている。塗装の禿げたアスファルトが混じった土はかつてここに舗装されている道路があった証だ。
分厚いゴムのタイヤが伝える理不尽なほどの振動に揺られて数十分。膝の上に座ったセリカの背の体温が自分に馴染んでしまうには十分すぎる時間だった。
国連軍のトラックはラグナたちを乗せ、列島の西側から東へと進む。
とても乗り心地がいいと言える移動手段ではないが、ミツヨシ曰くここで用意できる最高の乗り物らしい。数分に一回は何かを車が踏んで尻を蹴り上げられるような痛みが走るが我慢するしかない。
ラグナの向かい側に座る男も鈍い音と衝撃が走る度に嫌そうに顔をしかめている。
セリカはラグナの胡座の上に座っているので、小さくぴょこんと跳ねてまた膝に戻るだけで痛みを感じてはいないらしかった。この体勢に不満はあったが、自分の足に感じる柔らかな感触が鉄板に叩き付けられずに済んで良かったとは思っていた。
不機嫌そうに呉越同舟のトラックで男を威嚇していたラグナも、時間とともに車の外の景色に目を向けるようになった。雨風を凌ぐための茶色い幌が朝日を遮った荷台からは荒廃しきった日本の景色がよく見えた。
走りだしてからずっと、憂鬱になる光景が続いている。そして誰ともすれ違わない。滅んだというのは破壊されたというだけでなく、国土が無人化してしまったことを指しての言葉だった。
「これが……日本か」
ずっとしかめっ面だった顔の眉間にさらに皺が増える。
ラグナの声に気づいてセリカが茶色いポニーテールを揺らして後ろのラグナの方へ向き直った。
膝の上ようやく聞こえるくらいの、囁くような声でラグナに話しかける。
「昔と今じゃ、全然違うよ」
悲しげに小さく言うセリカの目には悲しみが色濃く浮かんでいた。耐えるようにぎゅっとラグナの黒い胸元を握る。向かい合わせでセリカを見るラグナは驚きはしたが安心させるように表情を緩めた。
「昔はもっと普通の国だったんだよ」
「普通ねぇ?」
何かを踏んだ車体が大きく揺れサスペンションが悲鳴を上げる中、セリカの声を耳聡く拾った男が口を挟む。頭の後ろで腕を組んで幌にもたれ掛かっただらしない格好で喉を見せてのけぞっている。
「地面の下で《窯》掘り返されても気付かねぇお気楽な連中の国、だろ」
《窯》、という言葉にラグナとミツヨシが表情を険しくし、セリカは疑問符を浮かべた。
足を組んでラグナたちの隣に座っていたミツヨシの二股の尾が、警戒もあらわに床板を叩く。最高機密に近い《窯》の存在を知っているものはそう多くないはずだ。今更ながらに目の前の得体の知れぬ男の不気味さが増す。
「窯って魔法薬の調合に使う窯のことカズマさん?」
一人わかっていないセリカがきょとんとしていた。
この無害そうなセリカは、どういうわけか悪意の塊のような男テルミの既知であるらしく、当たり前のようにテルミに疑問を投げかける。
「その窯じゃねぇ、黒き獣が出てきた《シェオルの門》だ。テメェも習っただろ」
問いかけられたテルミは一瞬黙った後、セリカの疑問に答えた。
「うん習った!」
日本の地下で見つかった《シェオルの門》から二一〇〇年黒き獣が出現した。このことはイシャナにおいてはさほど秘匿に値しない一般知識として生徒たちに知れ渡っていた。ようやく合点がいったセリカが手を打つ。
暢気にテルミの方に身をよじっているセリカの肩を掴んで向き直らせたラグナがまくし立てる。
「セリカこの男に変なこと吹きこまれてねぇか?そもそも何でコイツのこと知ってんだ!」
テルミのことを知っているなど何か利用されているに違いない、という焦りがあった。ミツヨシもフードに覆われた耳をそばだてる。
しかし、セリカは何でもないように言う。
「カズマさんはお姉ちゃんの同級生で私の友達なの」
言葉がラグナの頭を右から左へ抜けていった。
理解しがたいものを見るようにラグナがセリカの何の警戒心も抱いていない目を見返す。
「悪ぃ、なに言ってるか全然わからねぇからもう一回言ってもらっていいか?」
「カズマさんは私の友達で、お姉ちゃんの同級生だよ」
素直に同じ事をセリカがにこにこしながら言う。
そう言えばセリカと似たような制服らしい服装をテルミはしている。デザインの違いは男女の違いなのだろうが、シャツの縁取りなどは共通だ。上着は意匠が異なるため私物だろう。
「私もカズマさんも魔道協会の学生なの」
セリカはまさに学生然としており納得ができたが、ふてぶてしい態度を崩さないテルミが学生であることは何か納得できないものがあった。ラグナが知っているテルミより幾分歳若いように感じはするが。
じろじろと足を組んでいるテルミをラグナが見る。
「テルミが学生……」
ラグナはテルミを恨みはしているが、その来歴には一切興味がなかったので何も調べていない。
調べるつてがなかったわけではないが、今どこにいるか、どうやったら殺せるかしか考えていなかったといっていい。せいぜい知っているのはテルミが黒き獣を倒した六英雄の一人であることぐらいだ。
「私が日本に来られたのもカズマさんのおかげなの」
嬉しそうにしながらも、どこか申し訳無さそうな顔をセリカがする。
背後では、学生らしからぬ男がこちらを見ずに先ほどと同じように座っていた。
「だから、カズマさんと喧嘩しないでラグナ」
「喧嘩じゃねぇって言っただろう」
まるで戦うつもりのないテルミの態度に一旦騒ぎは収まりはしたが、ラグナの警戒と殺意が緩むことはなかった。
セリカとミツヨシ、二人の目的地へ向かう車に乗る時も、当たり前のように乗り込んできたテルミにラグナが食って掛かりラグナが再びセリカに抑えこまれた。そのままラグナが動けないようにとセリカがラグナの膝に今も乗っている。セリカを突き飛ばせば飛びかかれるが、じっと監視というより真摯に見つめてくるセリカにそんな真似をできるほどラグナは人でなしではなかった。
「こいつは俺が倒さなきゃならねぇんだ」
テルミはラグナの育ての親のシスターを殺して家を焼き払い、ラグナを殺して弟と妹を攫った男だ。辛うじてラグナは一命を取り留めたが、それ以外の全てを失った。子供心にこびり付いた怒りと悲しみが現在も腹の底を焦がしラグナを突き動かしている。
「だから冤罪だって言ってっだろラグナ君?」
緑の髪をかいたテルミが鬱陶しそうに荷台の向かい側に吐き捨てた。
「俺様なーんもまだしてねぇぞ今回は」
組んだ足の踵で荷台の薄い鉄板をわざと甲高い音を立てて叩く。黒い革靴が傷つくのも気に留めないテルミを、不快そうなラグナと不思議そうな顔をしたセリカが見た。
もしこのテルミが本当に百年前のテルミなら、事実殺していないし、ラグナはおろかシスターさえ生まれていないかもしれないのだから仇は成り立たない。
だが納得がいかない。
昨日出くわしたレイチェルの不審な態度は、百年前の、自分と出会う前のレイチェルだと考えれば辻褄が合う。
しかしテルミは、生まれてもいないはずのラグナを知っている。未来のテルミが行うことを、過去のテルミが知りえるはずがないのにだ。
「何で俺を知ってる?」
座ったまま手にした大剣を構えようとしたラグナに、驚きながらセリカが飛びつく。至近距離で避けられないラグナはセリカの重量に押され、背にしていた幌にぼすりと倒れた。どうあっても、セリカはラグナの邪魔をするつもりらしい。
既に何度目になるか数えるのを放棄した男女の微笑ましくもある光景。
ぐったりと耳を垂れたミツヨシの制止の声が飛ぶ前に無感情に見ていたテルミが口を開く。
「そうだなぁ……黒き獣ぶっ殺したら教えてやんよ、知りてぇんならな」
教えるつもりがあるらしいテルミの口ぶりに、尋ねたラグナの方が驚く。驚きすぎて動かない方の右手で自分の体重を支えようとして失敗しセリカに押し倒されたほどだ。黒き獣は数年のうちに倒されるはずだ、テルミ自身の手で。
そして、はたと気づく。今ここでテルミを仕留めてしまったら、テルミが黒き獣を倒すという歴史が変わってしまうことに。
(いや、最悪、黒き獣を倒せなくなるな)
思い起こせば、テルミは術式の集大成であり全ての魔道書の原書とされる《蒼の魔道書》の製作者だ。あまり信じたくはないが、より上位の《碧の魔道書》も所持していたのだから確かだろう。
黒き獣を倒した暗黒大戦は、別名が第一次魔道大戦とも言う。人類史上初めて術式が実戦投入された戦争だからだ。暗黒大戦以前には、術式はなかったと聞いている。
だとしたら、術式の出現にテルミが関わっている可能性は極めて高い。最初にテルミが黒き獣を暴走させなければ大戦など起こらなかった、と言えば元も子もないのだが。
セリカに胸板をぽかぽかと叩かれながら、ラグナは苦虫を噛み潰したような渋面を作った。倒れた視点から見上げるテルミの顔は、またへらへらとしたあの笑いを張り付かせている。
これでは、大戦が終わるまでうかつにテルミに手を出せない。ラグナは腹立ちまぎれに握っていた剣を荷台に叩きつけて手放した。