「おかえりなさい~テルミさん、ラグナさん」
珍しく揃って顔を出した長身の男二人にトリニティはふわりと微笑んだ。
肩まである金髪が窓から差す光で輝いている。ラグナは刹那、昨日まで居た砂漠の色を思い出したが、トリニティの髪は麦の穂のような柔らかな影を落としており、その印象はすぐ霧散した。
おっとりとした口調に、ラグナは扉を通ってすぐに足を止めた。
「よう、変わりねぇか」
先に扉を開けたテルミは返事もしない。ずかずかと部屋に入ると適当な椅子を引いて、どかりと座り込む。
「はい、相変わらずですね~」
気を悪くした様子もなくトリニティはラグナに答えると、テルミを眼で追った。魔道協会の広い敷地に幾つもある建物の内の一つ、傾いた西日がよく当たる赤い屋根の講義棟に、ラグナたちは帰ってきていた。
「ナインは工房にこもりきりです。セリカさんは授業に、ヴァルケンハインさんはお城に戻られているみたいです」
島を出る前と現状は変わっていないらしかった。
「し……獣兵衛とお面野郎は?」
「お二人とも、黒き獣の残滓を狩りに、島の外に出られたままですね。どちらにいらっしゃるのかは、ヴァルケンハインさんにお聞きすれば、わかるとは思いますが~」
言い直したラグナに苦笑しながら、トリニティがそれぞれの現状を告げる。
「そうか」
あの二人なら心配することはないだろう。
ハクメンがいる以上、事象兵器無しでも遅れを取るとは考えづらい。
聞いていないような態度だが、テルミも片眼を開けてトリニティの言葉に耳を傾けていた。
「ラグナさんも残滓狩りお疲れ様でした」
何も知らないトリニティは、丸い眼鏡の向こうで相好を崩す。
「ああ……」
出て行く前は何も知らされていなかったラグナは、力なく返事をした。隠し事は、得意な方ではない。どう見ても妖しいラグナの声に、テルミが喉を鳴らして笑う。
「んまぁ、ラグナくんマジなんも活躍しなかったけどよ。走れない戦えない道が分からない、後なんだ、切符もまともに買えなかったよなぁ?保護者辛いわー」
「うるせぇ仕方ねぇだろ勝手が違うんだからよ!」
茶々を入れられて噛み付くラグナに、テルミが作った呆れ顔で肩をすくめる。
「あ、違ったわ、介護じゃねぇ?」
「うるせぇっつってるだろが!馬鹿が!」
会議卓をラグナが叩いて黙らせようとするが、言葉で勝てる相手ではない。ラグナの向かいに座ったテルミは、余裕の表情でラグナを見上げる。その幾つか椅子を隔てた横で、トリニティもくすくすと笑っていた。何が微笑ましいのか当事者のラグナには理解できない。
「……くそっ」
苦し紛れにがしがしと頭をかく。もう髪の間から砂がこぼれることはない。そもそも、ラグナ達が海を超え砂漠まで行ったのはナインからの依頼が原因だ。イシャナへと集まる各国の情報から、ナインが選り分けた黒き獣の目撃情報。実際、それらは黒き獣から剥がれ落ちたわずかな残滓に過ぎない。過ぎないが、通常兵器が通じない化け物に対抗できる軍事力を持つ国家など、今の地上には数えるほどしか残っていない。結果、黒き獣が封じられて以降も、残滓による破壊活動は続いている。
多くの首脳陣が避難しているイシャナは、この残滓の対処に追われていた。世の混乱から隔絶された島と言えど、内部に部外者を抱えている状態では無視することもできない。
魔道具を持った魔道協会お抱えの咎追いを派遣して処分させてはいるが、規模が大きくなれば島の外に魔法使いを出さざるをえない。戦えるほどの実力を持つ魔法使いも多くないとなれば、外への出し渋りも起こる。対処は難しくなる一方だ。
その中でナインが提示した一つの方法が、ラグナ達の派遣だった。部外者が島内に在中する事に目を瞑る代わりに、残滓の対処を代行させるという案は、早々に可決された。ナインは告げなかったが、その部外者が黒き獣を封じたことは、裏の情報網で既に知れ渡っていた。実力も折り紙つき、何よりその部外者の首に鈴を付けるものが現れたとなれば、利用しない手はないからだ。
かくして、ナインを通してラグナ達の元には、依頼がしばしば舞い込むようになった。全て、事後承諾どころか当人たちの意思確認、了承の類いはない。咎追いもどきの強制労働に、渡りに船と乗った獣兵衛、ハクメンに対し、難色を示したのがヴァルケンハインだった。思う所があるのか、けして参加しようとはしなかった。理由は「自分は執事だから」と言う要領を得ないものだったが意志は固く、先にナインが折れた。
ラグナに発言権はなかった。今にして思えば、ナインの提案の裏でテルミが動いていたのだろう。
思惑通りに動いてしまったラグナは、深く考えもしないまま残滓狩りに出た。テルミを監視する腹積もりだったが、蓋を開けてみれば「黒き獣を封じた男」として利用されただけだ。何もかもが腹立たしい。
ラグナが視線を向けた先では、テルミが、歯が見えるほど大きなあくびをしていた。
事象兵器ハイランダー・タケミカヅチの建造。
タカマガハラが最重要としている歴史の『チェックポイント』の一つにテルミが関わったことは、ほとんどなかった。アルカードの城に封じられなかったからこそ今回は観測できた事象だ。
ナインは魔道書を用いずに、黒き獣と同質の兵器を一人で作った。だが参考にした黒き獣は、そもそもが制御不能な失敗作だ。タケミカヅチもまた、制御などとは程遠い代物になるのは目に見えていた。使い手の存在し得ない事象兵器。テルミがここで建造に手を貸せば、ナインにも制御可能な完璧なタケミカヅチが生まれる。
分かってはいるが、手を出すつもりはなかった。今回も、タケミカヅチは解体されなければならない。タカマガハラは、タケミカヅチが自身の管理下に置かれることを望んでいる。下手に弄ると後々の展開でしっぺ返しを食らうのが目に見えていた。
鬱陶しいタカマガハラの事を考えながら、テルミはトリニティが入れたハーブティーに口をつけた。
「ラグナさんもどうぞ」
「熱っ」
「あらあら」
向かいのやりとりは無視する。
会議卓の上に不釣り合いに置かれているガラスのティーポットには、長細いレモングラスに混じって黄色いボタンのような花が浮いている。ヨモギギクという毒草だと、統合されたカズマの知識が告げた。用量を間違えなければ痛み止めになるが、それを躊躇いなく人の口にするものに入れるあたりこの女も魔女だと再認識する。
「オイ、クソ女はまだ来ねぇのかよ」
茶を淹れ出したのはもう一人の方の魔女を迎えるためかと思ったが、約束の時間を過ぎても姿を現さない。
「遅れるという連絡はなかったのですが~」
トリニティも困惑してうつむく。気が短いナインが人より遅れてくることはほとんどない。熱いハーブティーを吹いて冷ますラグナも顔を上げた。
「来ないと話にならないんだがよ」
どことなく不服そうなラグナは、トリニティが居なければ、ナインに事象兵器に関して問い詰めようとでも思っていたのだろう。そのトリニティをここに呼んだテルミは、何食わぬ顔で熱いままのハーブティーをすする。未だ存在しないはずの事象兵器のことをラグナに喋られると厄介だ。何も知らないトリニティを介在させれば、その口を塞ぐことができる。
巻き込まないために黙るしかないラグナを腹の底でテルミは笑った。ラグナもまた知らないからだ。事象兵器、とは言ったが、タケミカヅチであることは教えていない。タケミカヅチから他の事象兵器が分化されるのは、もっと後だ。今、タケミカヅチのコアから生じた制御可能な事象兵器の話をされると、ややこしい事態になる。知らないのなら知らないまま、思い込みで黙っていてもらうのが、手間がなくていい。
「こちらから連絡は取れないので、待つしかないですねぇ」
工房に篭った魔法使いに外から接触するのは、ほぼ不可能だ。より力のある魔法使いなら可能だろうが、その為に何人の十聖が必要になるか。少なくとも錬金術師であるトリニティには無理だ。
「俺様、暇じゃねぇんだけど。働く気がねぇラグナくんは、暇すぎて暇すぎて俺への嫌がらせに余念がなくてマジウゼェし」
再三再四、テルミへの嫌がらせを敢行しているラグナはしてやったり、という顔をしている。それくらいしかやることがないのも事実なので、これと言って反論してこない。
「あと五分して来なかったら帰っからな」
「そうですね」
ただ茶を淹れるためだけに呼び出されたと言うのに、なにが面白いのかトリニティは笑っている。扱いやすく便利でいいが、今までの事象と微妙に対応が違う。
「もしよろしかったら、この後、お茶にいきませんかぁ?」
「今飲んでんだろ、茶。テメェが淹れたの」
ざっくり言って、後ろめたさがない。その分厚かましい。いつもいつも、一歩引いて『テルミ』に『カズマ』を重ねて見ていた女は、それでも十分脳天気だったが、一歩の距離がなくなったらなおさら頭がお花畑になったらしかった。
「以前行った喫茶店で、お昼でもと思いまして」
「ハァ?」
既に日は中天から傾いていて、とても昼食といった雰囲気ではない。それに気付いたのか、ラグナが視界の端で怪訝な顔をした。テルミも似たような顔をしている。
「昼飯?昼なんざとっくに過ぎてんぞ」
「いえ、ご予定をお聞きした時に、港から真っ直ぐここに向かうとおっしゃられていたので。もう召し上がられましたか?」
さっとラグナの顔色が変わった。
緑色の眼がトリニティとテルミを交互に見て、何かに思い当たったように見開かれる。
「食う暇あるわけねーよ。つぅか、あの店かよ」
テルミが思い出したのは、島の建物の例に漏れず赤い屋根をした白い壁の喫茶店だ。ひどく少女趣味でケーキが美味いせいか、女に人気があるだかの。今回の事象でも、全く楽しくないお茶会をカズマが味わっている間、精神体だったテルミも同じ場所に居たので覚えがある。二人の人格が統合された今は、より鮮明にあの異様な雰囲気を鮮明に思い出せた。
トリニティはとろけるような微笑で目を輝かせた。正面にいるテルミは眩しくないのだろうかと、ラグナが感じるほど、幸せそうな微笑みだ。記憶を取り戻してなお、テルミがカズマだった時の事を自分の記憶として覚えていたことに感極まったのだと、テルミだけが気づかない。
「もう、食堂も閉まってしまいましたから、と思ったのですが」
昼食に行かなかったとしても、今のこの幸せそうな女ならその程度で落ち込みはしないだろう、程度にしかテルミは感じていなかった。冷めた眼で、テルミは机の向こうのトリニティを見る。
「んじゃ、テメェも飯食ってねぇのか」
はらはらした様子で、ラグナはことの成り行きを見守っている。
「そうですねぇ、午前は少し、立て込んでいましたからぁ」
暗躍しているテルミと比較するのはおかしいが、トリニティも真っ当な意味で忙しい身だ。十聖に名を連ねてはいないが、今回の件で大いに注目を浴びている。静かに研究をすることも難しいだろう。
「……面倒くせぇ」
椅子を引きずってテルミは立ち上がる。少し寂しそうな表情をしたトリニティは、机の上のティーポットに手を掛けた。
「五分経ったからな」
「そうですね、お茶も片付けてしまいますね」
もう冷め始めているハーブティーは、飲まれることもないだろう。
「んなもん置いとけ置いとけ」
テルミが大きく肩をすくめ吐き捨てる。
「テメェまさか、片付ける間待たせるとか言うなよ、面倒くせぇ!偶にはあのクソ女に片付けさせろ、丸投げしかしねぇあの女によ!」
丸い眼鏡の下で眼をまん丸にしたトリニティの顔をテルミは間抜けだと思った。間抜けだと思われたトリニティは、そんな事に構っていられる雰囲気ではなかった。小さく口をぱくぱくと動かすと、意を決したように大きな声で返事をした。
「はい!」
花が咲いた。横で見ていたラグナの眼には、はっきりとトリニティの心に咲き乱れる花が見えた。それほどに彼女の表情は晴れやかで輝いていた。
ラグナは思う。ひどい天然を見たと。恐らくまったくこれっぽっちも、テルミにそういった意図はない。この外道が息をするようにトリニティを口説いたように見えたのは目の錯覚ではないが、やろうとしてやったことではない。ラグナが知らなかっただけで、テルミはこう言う男だった、というだけなのだろう。けして話しに聞くツンデレという奴ではない。
ラグナの顔が苦悩に歪む。テルミに関して知りたくもなかった知識がまた増えてしまった。本人に自覚はないが、ラグナもテルミと目糞鼻糞なことは、周囲だけが知っている。知らずに棚上げをしているラグナに同情するものはいない。
「ラグナさんも行きましょう」
「え」
蜂蜜のとろけるような声で呼ばれたラグナが断れるわけもなかった。そう例え、トリニティの向こうでとても悪い顔をしたテルミが予兆のように口を歪めていたとしても、目の前の少女の幸せをぶち壊すような真似ができるほど、ラグナは人非人ではなかったからだ。