「……療養?」
テルミには他に、言いようがなかった。
顎に手を当てて言葉を探したが、他に何もしていなかったので事実だ。正しくは、テルミ本体はイシャナの外にいて、中にいたのは器のカズマだけだったが、心底何もしていなかった。
「ふざけてるの?」
「マジでカズマには記憶なかった、つってんだよ。ダメージでかかったから何もできねぇし」
事前に仕込んであった虚空情報管理機関の設立や国連との連携は、詰将棋のようなもので、誰が指し手でもそう運ぶようになっている。テルミは直接手を下していない。
「なにより、今この滅茶苦茶な世界で、ここより安全な場所なんかねぇだろ」
「…………」
ナインは、同意はしないが黙った。
この場所より安全な場所などないと、ナインは誰よりも知っている。セリカを守るための場所としてイシャナより良い場所があればとっくに移住している。自分の目が届く場所と言う意味以上に、世界の敵から身を隠せるからこそ選んだイシャナだ。
同じ意味でテルミもこの島を選んだ。そこにわずかな違和感をナインは覚えていた。安全?この男がなぜ身を潜める必要があったのか。なぜ療養する必要におわれたのか。
すぐに違和感は疑問へ、疑問は確信を持った仮定へと導かれていく。ナインの中で怒りの下に隠されていた無数の記憶のささくれが、張られた伏線を拾うように一気に浮かび上がる。
「一体なんのための療養よ」
聖堂を抜けるほどの技量。窯に対する知識。既知であるらしいラグナやレリウスという謎の男達。未だナインの手の中にしかないはずの術式と同じ力。
そして、この男が成し遂げた奇跡に等しい偉業。
「黒き獣に受けた傷のだよ」
部屋の空気が一言で重くなった気がした。なんでもないような声色で告げられたそれは、世界の敵の名前。
ちぎられた事実の中央におさまる最後の紙片。仮定が確信へと変わり、事実が飲み下せない重みをもってナインを震わせた。息を呑んだまま、ナインが目を見開く。
ユウキ=テルミは黒き獣と戦った。
今回ではない。その前に。ここに来る以前に。
あんなものと。正面から。
「なぁクソ女」
暴言を吐くテルミの笑みは、歪んでいるようで真っ直ぐだ。どこにも迷いも不安も、弱さという曇りがない。自信に裏打ちされた狂気にナインが後退る。
「黒き獣との戦い方、知りたくねぇか?」
封じるのではなく、打ち倒すために。
ナインが固唾を呑む。間違いなくこれは悪魔の囁きだ。誘惑でさえない。確固とした、この男の目的のための駒となるという取引だ。
「……私は」
テルミが隠しもせず笑う。
過去に数百回繰り返したテルミの真意を知るための一方的な二人の問答。テルミはけっしてナインに真実を告げなかった。精神拘束をかい潜り、嘘で嘘を塗り固め、猜疑と欺瞞の上で目的を追った。
だから面白かった。これは罠でさえないナインが自らの意志で選んだ選択。
「俺は黒き獣を殺すために来た」
テルミが初めて己の目的を告げた瞬間。タカマガハラが観測した唯一たる例外の事象が、誰にも遮られぬまま音もなく回り始めた。
「私は」
そして、ナインは選択した。烈火のような決意を宿した目だけが、その瞬間のテルミの姿を映していた。
テルミはただ楽しそうに笑っていた。
この先のことなど、もはやテルミにもわからない。無限に拓けた道にようやく辿り着いたのだと。込み上げる歓喜を隠しもせずに。ナインなど目に入らにように一人笑っていた。
朝は眠りの時間である。
夜を生きるものには等しく月光が降り注ぎ、夜風が力を与える。日向の生き物とは異なる摂理のもとに生きている者達は、朝日と共にわずかな眠りにつく。
しかし吸血鬼であるレイチェル=アルカードは、そういった日々の眠りをそれほど必要とはしない。数十年の休眠を行うことはあったが、人間のような浅い眠りは不要だった。
「おやすみなさいませ、レイチェル様」
それを知ってなお、律儀に執事は眠りの前の挨拶を行う。少しお休みになられては、とヴァルケンハインが口にする機会が前よりもずいぶんと増えた。浅い眠りは命を繋ぐためではなく、心を休めるために必要ですので、とはヴァルケンハインの言葉だ。そしてそれは、先代のクラヴィス=アルカードがヴァルケンハインに与えた言葉でもある。
今回の事象で、それを父が口にする場面に出くわすことはなかったが、いくつか前に観測たのでレイチェルは知っていた。休もうとしないヴァルケンハインをたしなめた言葉だ。
レイチェルは頭を下げる執事を見て少し迷った。
本当はこの父が起こした不思議な事象を、余さず観測してみたい気持ちでいっぱいだったが、少しも表には出していない。このまま眠ってしまうと今日一日の事象を見逃してしまう。
実際はもういくつか見逃してしまった出来事があったのだけれど、観測していない事象を巻き戻して観測るほどの力はレイチェルにはなかった。
「そうね……」
寝てしまうのは惜しいと、久しぶりに思ってしまったのだ。けれど、心配しているヴァルケンハインを無碍にできはしない。父が亡くなって十日が過ぎようとしている。まだ十日だ。いつもならばもっと静かに変化のない日々をぼんやりと過ごすだけ。そこに父だけがいない虚無感を抱えて。
今回は本当に例外なのだと改めて驚きを覚える。父の選択がひらいた世界。それを見ていたい。ほんのわずかに心が踊っていると自分でも感じていた。
「ええ、おやすみなさい、ヴァルケンハイン」
迷ったけれど、主となったレイチェルは涼やかな声でかえす。目を閉じて、次に開いた時、一体なにが起こっているのか。明日はなにが起こるのか。そんな気持ちで眠ることなど、もうないかもしれないとレイチェルは思い直した。
会釈したヴァルケンハインがレイチェルの部屋から音もなく去る。主の眠りを妨げぬよう細心の注意をはらい。
今やこの城はふたりきり。父に封じられるはずだったテルミはここにはいない。いつもとは違う本当にふたりきりの城。そう思うと、感じるはずのない眠気に目蓋重くなった気がした。
少なくとも明日起こることは絶望ではないと信じることができる今に、父が遺した事象に、少しだけ期待してもいいかもしれない。レイチェルは宝石のような父譲りの瞳に目蓋を落とした。この世界がどうなるか夢想しながら、ゆっくりと夢の中に沈んでいった。
「ウサギィィィィィィィッ!」
踏み出した右足の足裏、親指の付け根を中心とした内側に力を込めて。多少石畳で滑るが無視。鉄板の入った靴裏が、転身とともに右方向に掛かる慣性を何割か殺す。後は太ももとふくらはぎに全力を込めて跳躍するように前へ。
曲がり角を最短の軌道で鈍角転身したラグナが赤い弾丸となって路地を抜ける。
「見てんだろウサギィィィィ」
わざと選んだ狭い路地は狙った通り人がいない。障害物も少なく道幅に比べて走りやすい道だった。地理には疎いが、お尋ね者だったために身につけた勘がラグナに逃げ道を示す。見つかるまでは堂々としている方がいい。見つかったなら戦うより逃げた方が早い。
だがそれも相手によるのだと痛感しながらラグナは全力で逃げを打っていた。
「どこでもいいから転移させやがれぇぇぇっ」
叫ぶ、呼ぶ、喚く。しかし呼んだ相手は来ない。
助けを求めたウサギことレイチェル=アルカードが就寝しているなど知りはしないラグナは、唯一この場で頼れる存在の援護がないことに焦っていた。さすがに生命の危機ともなれば助けてくれるだろうという期待は打ち砕かれた。
涙目になりながらラグナは走る。
「…………ッ」
背中を這い上がる悪寒。目で見なくともラグナにはその位置が把握できた。
音が弾け飛ぶ。
飛び散ったのはレンガの壁面。さっき曲がったT字路の左右の壁が爆撃でも受けたように粉砕され、路地の角だった部分が瓦礫の山と化した。
目論んだ通り、ガタイの大きな追跡者には裏路地は狭すぎた。それもあんな長物を振り回していては、ラグナに当たる前に周囲に剣先が引っかかってしまう。
だがラグナの予想を大きく上回る威力の『剣撃』は通路の角を崩しただけに留まらない。角を構成しているのは建物の壁面だ。
一撃で角はおろか一面丸ごとを削り取られた建造物が悲鳴を上げる。あまりの大音響にぞっとしたラグナが振り仰ぐと、頭上から硝子の雨が降り注いだ。ついで降ってくる建物そのものが見えて。止まりそうな足をラグナが全力で動かした。
「だああああっ」
崩壊した建物が通路に倒れ込もうとしている。
とんでもないものに見つかってしまった。アレに見つかったのは今回が初めてではないが、以前とはその意味合いが違う。同じ姿をしているのに、根源が全く違うようにさえ感じる。
ラグナを駆り立てるのは恐怖だ。今ならば素直に認められる。ラグナはアレが怖かった。純粋な死への恐怖。
涙どころか嫌な汗をびっしり肌に浮かべて、逃げ出すしかないもの。戦って勝てる要素が今のラグナには欠片もない。話も全く通じない。振り返るまでもなく背後から追ってくる白い影にラグナは悲鳴をあげた。
その悲鳴を聞くまでもなく、それにはラグナのいる場所がわかっていた。赤い無数の目が、ラグナの背をわずかに映した。
「黒き者よオオオオオッ」
殺される。アレは俺を殺しに来たのだ!
それも、万全の状態で!