ゼロの忠実な使い魔達   作:鉄 分

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第三十五話 戦端

 

 

 ルイズたちが宝探しを終えて学院へ帰還した日より二日後のこと。記された懺悔の記録に目を通し終わり全身を慄然で震わせていたルイズと、それは奇しくも時を同じくしてのことだった。学院長であるオールドオスマンはトリステイン魔法学院最上階の自室にて普段と変わらない日常を過ごしていた。身についている習慣に従い水煙草を燻らせながら自らの思索を深める。オスマンが自らの静かな精神を保つために行っている日課の一つだ。水煙草を燻らせた偉大な老魔術師が佇む何時も通り何気ない学院長室の風景。これまでの魔法学院長としての生活そのままに今日も変わらない普段の日常が訪れる筈だった。

 だがそのオールドオスマンを邪魔する者がいた。

 

 

「――たッたた大変ですッ!!オールドオスマン!!」

「……何かねコルベール君。……落ち着いてゆっくりと話してくれぬかね。」

 

 息せき切って部屋に飛び込んで来る中年の男性。静寂に保たれていた学院長室の雰囲気を乱し、足音荒く部屋へ飛び込んできたコルベールの姿を確認してオスマンは眉を顰めた。本来であればこの時間帯の学院長室は入室厳禁である。自らの静かな時間を守るためにオスマンは生徒や教師の区別なく室内への入室を禁じていたからだ。室内に飛び込んできたコルベールのように入室厳禁の指示が破られた経験がなかった訳ではない。これまでにも過去何回かオスマンの判断を仰ぐ教師の訴えを通して入室を認めたこともあったが、大抵の問題は態々オスマンが出張るまでもなく解決出来るものだった。この度もそのような大したことがない問題が持ち込まれたのだろうか、と推量してオスマンは鼻白んだ。

 だが、その不機嫌なオスマンの様子も乱入者であるコルベールがもたらした報告を聞いて即座に翻されることとなった。

 

 

 

「――――何じゃとッ?! それは確かなのかねミスタコルベール!!」

「はい、信じられませんが間違いありません。アルビオンがトリステインへ宣戦布告。早馬の報告によれば新生アルビオン王国の軍勢がタルブへ集結しているとのことです。旗艦レキシントン号を中心としたその軍勢。総数凡そ五万から六万である、と。」

 

 もたらされたコルベールの報告を聞いてオスマンは驚きのあまり椅子を蹴立てて立ち上がった。

 アルビオンがトリステインに対して宣戦を布告したという事実はまだ予期できる事だった。賢王と名を馳せたこれまでの王から王位を簒奪したオリヴァークロムウェルという男。新たに樹立した新生アルビオン王国を統べる新たな王に纏わる素性はオスマンの耳にも届いていた。市中に出回るクロムウェルについての噂。アルビオンを攻め滅ぼしても治まらない野心の行き先としてトリステインはうってつけの標的である。野心溢れるその人となりを鑑みれば、その支配欲の矛先をトリステインへ向けても何らおかしくはなかった。

 だが、六万という桁違いな数字は想定していた予想の範疇をあまりにも超越したものだった。

 

 

「馬鹿なッ!! こんな短期間でそのような軍勢をどうやってトリステインまで運ぶというんじゃ?! 不可能じゃ?! 出来る訳がない!」

 

 オスマンが疑問を抱くのも当然である。現代社会のように科学が発達し、豊富な運搬手段が確立されているのであればまだしも理解できた。しかし、ここはハルケギニアである。大貨物を運搬できる車両もエンジンによって航行する航空機も存在していない。浮遊大陸を本拠とし、精強の空軍を擁するアルビオンだからといっても出来ることと出来ないことがある。六万にも及ぶ軍隊の移送など従来のアルビオン軍に出来る訳がなかった。

 科学が発達していないここハルケギニアでアルビオン軍は一体どうやって六万もの軍隊を移送したというのだろうか。オスマンの驚愕をコルベールも予想していたのだろう。冷静さを失った老魔術師を落ち着けるようにコルベールは自らの考えを語った。

 

 

「…………恐らくですが、他国の支援を受けているのではないでしょうか? 報告の内容によれば僅か二日間の間に繰り広げられた所業だとあります。そのようなこと新生アルビオン王国だけでは到底実施できません。ですが、一国の国力では無理でもその裏に何者かの勢力があれば不可能ではないかもしれません。…………他国の支援があったと考えればこれまでにあった出来事も説明することができます。実際にアルビオンの旧王政に目立った問題は見受けられないにも拘らず、不自然なほど迅速にアルビオンにおける革命は成功を収めました。これらの事案を加味して考えれば、もしかすると…………、アルビオンにおける革命もこの度のトリステインへの進撃も其々が別個ではなく連なっている事象なのかもしれません。」

「なるほどのう……、その筋から考えられないこともない、……か。」

 

 

 コルベールの冷静な分析を聞いてオスマンも動転していた意識を取り戻した。泡立った精神を落ち着かせ思案を巡らせる。ガリアか、それともロマリアか、はたまたそれ以外の勢力なのか。トリステインがいま相対している敵はどの国家なのか。見当を付けようとオールドオスマンはそうして思案を巡らせるが直ぐに頭を振って自らの思索を打ち切った。侵攻は既に成されたことである。新生アルビオン王国の背後で手薬煉を引いている国家がどこであろうと後手後手に回ってしまった現状は変わらないからだ。今自身がどれだけ思索を深めようとも有用な結果は得られない。次に打つべき最も大切なことは、現状を把握しどのような対応をとるべきなのかを検討することだ。

 そして、オスマンは自らの意識をこれからの対策を練るために注いだ。だが、続けられるコルベールからの報告は現状を打破しようとするオスマンの展望を粉々に打ち砕くものだった。

 

 

「して、我々トリステイン側はどのような対応策を打ち出すことになったのじゃね。」

「……早馬の報告によればアンリエッタ姫殿下たっての希望もあり、姫殿下直々に兵を率いてタルブへ向かうことに相成ったそうです。急造ですが手練れのメイジを主体とした五千のトリステイン直轄軍を伴われました。各諸侯にも増援を申し出ているそうですが果たして参集が間に合うのかどうか……。」

「むうう………、なんてことじゃ………。」

 

 

 その報告を聞いてオスマンは頭を抱えた。目の前に聳え立つ困難はオスマンの想定しているもの以上に巨大で複雑なものになっていたからだ。姫殿下に仕えている重臣は一体何を考えているのだろうか。常識的に考えてどれだけの手練れが揃おうとも五千の軍隊が六万の軍隊にかなう訳がない。幼子でも理解できる事実だ、馬鹿正直に六万の軍勢に立ち向かうなど愚の骨頂である。自らの意思で死にに行ったようなものだった。勇ましいのは喜ぶべきだが、誰も姫殿下を御停めすることが出来なかったのか、とオスマンは重臣への不満を心の中でぶちまけた。

 敵対するアルビオン軍は数と経験で勝る陸軍だけでなく、精強を誇る空軍をも擁しているのだ。様々な修羅場を潜り抜けてきた六万の陸軍と浮遊大陸を本拠とする精強な空軍。陸と空を支配する隙のない軍容。現状において万に一つもトリステイン軍が勝てる要素は存在しなかった。どのような小細工を備えていようが、所詮は小手先の対応である。蓋を開けずともに戦争の結果は自然と予想された。予想されるトリステインの未来を見てオスマンは自らの杖へと手を伸ばした。

 

 

「(……杖を、……取らねばならぬか。)」

 

 戦争に敗れるだけであればまだ受け入れることも出来た。トリステイン領内には複数の自治領土が点在している。トリステイン直轄軍が敗れたからと言って国家としての命脈が断たれるわけではない。一見して絶望的だが、反撃するなり従属を選ぶなり、トリステインが執りうるべき手段はいくらでも残されていた。

 

 だが、アンリエッタ姫殿下が従軍するとなれば話は全く異なった。此度の戦争でアンリエッタ姫殿下自らが軍を率いるということはそれだけ姫殿下自身に危害が及ぶ可能性が高いということである。軍隊は代替を効かせることが出来るが、統治者たる血脈には変わるものが存在しない。国家における象徴的存在の消失とは、そのまま国家としての命脈が断たれることを意味していた。もし、アンリエッタ姫殿下が現地にて戦死するようなことになればトリステインは国家として成立しなくなってしまう。ハルケギニア有数の伝統を誇るトリステインはここにきて消滅の危機に瀕していた。

 

 

「(…………だめ、…………か。)」

 

 国家の崩壊という最悪の結末を防ぐためにオスマンは自ら戦陣へと赴かねばならないか、と考えていた。だが、杖を持つ手は震え、掴んだ状態のままそれ以上動こうとはしなかった。戦陣へ赴く恐怖に気圧されたわけではない。だが、偉大なる老魔術師は既に杖を捨てた身であった。黒蠍の襲撃という死地において自らの大切な友人を見殺しにした罪科。その鎖がオスマンの全身を呪縛していた。どれだけの長い年月を経ようが過去に背負った罪科がオスマンを許さない。国家存亡の危機などという都合のいい理由づけで逃れられるほどオスマンが自身に課した制約は緩くなかった。

 

 

「(…………ッ!)」

 

 そうして自縄自縛に陥っているオスマンの鼓膜を強烈な噴射音が刺激した。大気を裂く烈風の轟音。その音は学院に在籍している者であれば誰でもが聞き慣れている有触れたものだった。進級試験である使い魔召喚を行ったあの日。ピンクブロンドの美しい少女が召喚した鋼鉄の使い魔が轟音の発信源である。ピンクブロンドの少女が鋼鉄の使い魔を伴って貴族としての義務を果たそうとしているのだということが、直接確認せずともオスマンには分かった。重厚という言葉をそのまま顕現した頑健な鋼体が脳裏を過ぎる。巨大なスラスターノズルから青白い猛火を噴出するエイリアンタンクを想像しながら、オスマンはしみじみとその少女の名前を呟いた。

 

 

「そう……か。行くのかミス・ヴァリエール。矢張り、……君は伝説を受け継ぎし者なのじゃろうな。」

 

 

 軍勢に立ち向かう恐怖から逃れられるものなどいない。ましてや六万の軍勢と聞けば誰もが足を竦めて縮こまってしまうだろう。誰もが足を竦め縮こまっている中で、率先して軍勢に立ち向かう者がいるとすれば、その者は異常者か英雄かのどちらかである。ルイズは紛れもなくその後者に当て嵌まる存在だ。

 

 ルイズは、皆から魔法が使えないと笑われ蔑称であるゼロという字名で罵られていた。これまで何度も挫けそうになったり、諦めの沼に囚われそうになった。だが、それでも自らの歩みを止めようとはしなかった。歩んできた道程は決して順風ではなかったが、傷つきながらも苦しみながらもルイズは自らの譲れない誇りを貫き通してきたのだった。

 

 使い魔を従え導いていく、と臆面もなくかつて言い切ったルイズの姿は凛々しくも美しかった。

 様々な障壁が立ちはだかろうとも決して諦めず、健やかに成長し続けたルイズであれば大丈夫だろうとオスマンは思った。苦境を乗り越える中で身に着けたしなやかな強さ。鋼鉄の使い魔と共に歩んできたこれまでの経験を糧にして、ルイズは必ず何かしらの命脈を切り開いていてくれるはずだ。どの様な困難が立ちはだかろうとも、強力な力を持った鋼鉄の使い魔までもがルイズの後ろに控えているのだ。これ以上の後ろ盾は存在しないし望むべくもなかった。

 

 何もすることが出来ない自身の姿を無様に思いながらも、オスマンは従容とその運命を受け入れた。国家の命脈を左右する重要な岐路。国家の命運を賭けた戦いは自身如きが関わってはいけない領域なのだということがオスマンには自然と理解できた。ロートルはただ黙って身を引き若手の成長を見守るのみである。

 巨大な鉄塊が離陸して迷うことなく真っ直ぐと何処かへと直走る。目指すべき行き先は決まっている。グングンと加速しあっというまに小さくなってしまったエイリアンタンク。無骨な鋼体とは対照的なその清冽な後ろ姿を見送りながらオスマンは心の中で祈った。

 

 

「次代を担う若き勇者たちに、始祖ブリミルの加護があらんことを……。」

 

 

 

 ▲

 

 

 

 タルブの草原においてアルビオン軍とトリステイン軍が互いに向かい合う形で陣容を築いていた。五万を超える陸軍と旗艦レキシントン号を中心とした空軍が辺り一帯を睥睨している。大軍勢を誇るアルビオン軍である。幾つもの激しい戦闘を潜り抜けてきた百戦錬磨の彼らがその気になれば、僅か五千のトリステイン軍など一蹴することも出来ただろう。

 

 だが、何故かそうはならなかった。両軍は睨み合いを続け戦況は膠着状態に保たれている。もしかすれば、アルビオン軍はトリステイン軍と直接対決をして無駄な兵員損耗を避けようと思ったのかもしれない。例え弱小の軍隊が相手だろうと、自軍の犠牲が最小限に住むのであればそれに勝る結果は存在しない。態々効率の悪い愚策を採択する必要もないということだろう。

 

 そうして両軍が膠着状態にある中、旗艦レキシントン号から複数の竜騎士部隊が出撃した。アルビオン軍からトリステイン軍へと送られた挑戦状である。精強で知られるアルビオン軍竜騎士隊を前にして馬鹿正直に戦いを挑むなど下策中の下策ではあるが、トリステイン軍はその挑戦状を馬鹿正直に受けざるを得なかった。

 五万を超えるアルビオン軍陸上部隊を前にしているのだ。アルビオン軍陸軍が一気呵成に侵攻を開始すれば壊滅は必至である。トリステイン軍側に許されている選択肢は多くない。アルビオン軍からの挑戦状は黄泉路へと続く奈落への道であったが、トリステイン軍も本丸である陸軍司令部を守るためにその道程を歩まざるを得なかった。絶対的な空戦の不利を承知していてもトリステイン軍は自軍が率いてきた竜騎士隊を出撃させた。

 

 

 そうして両陸軍の睨み合いが続く中、タルブの上空にてトリステインの命運を左右する決戦の戦端が開かれた。

 

 

 圧倒的な劣勢に立たされていたが、トリステイン竜騎士隊の志気は極めて高かった。トリステインが敵国による支配下に置かれるか否かの分け目。そして国体の頂たるアンリエッタ姫殿下までもが国家の命運を左右する一戦とあって御身自らが直々に軍を率いて出陣しているのだ。これだけの条件がそろって、軍の士気が上がらない訳がなかった。兵士たちにとってこれ以上の檜舞台は存在しない。多勢に抗う現状でもトリステインの竜騎士隊は死に物狂いで戦うだろう。士気のみに絞って比較すればトリステイン側がアルビオン竜騎士隊を遥かに上回っていた。そして数刻の後、トリステイン竜騎士隊とアルビオン竜騎士隊が激突し、両竜騎士隊による前哨戦が繰り広げられた。

 

 

「(…………やはり、…………駄目か。)」

 

 

 憐憫の感情を滲ませながらマザリーニは心の中で呟いた。勇ましく出撃していったトリステイン竜騎士隊が次々と墜落していく。火竜のブレスを浴びせられ燃え堕ちる枯葉のように命を散らしてゆく竜騎士達。その無残な光景はトリステイン軍司令部が設置された最奥からでも確認することが出来た。マザリーニは軍を率いるその立場上ほんの少しもその落胆を表情に出す訳にはいかなかったが、それでも色濃い罪悪感が精神に降り積もった。傍に立つアンリエッタも同様の罪悪感を感じていた。その表情にははっきりとした苦渋の色が浮かび沈痛の面持ちで視線を下げる。率いてきた兵士たちが討ち死にしていく光景は見ていて気持ちの良いものでは決してない。老獪なマザリーニですらやっとのことで平静を保つことが出来たのだ。例え国体を象徴する姫殿下であり、様々な責務を背負っていると言ってもアンリエッタはまだ若い女性である。積み重ねるべき経験も身に着けるべき覚悟もまだ不十分である。泣き喚かなかっただけでもうら若きアンリエッタには及第点を与えても良いかもしれない。

 

 

「(…………間に合ってくれ。)」

 

 

 自身の所属する国家が他国の支配下に置かれるか否かを左右する瀬戸際にあるのだ。国家を守るために決死の覚悟を以てトリステイン竜騎士隊は戦った。圧倒的不利を承知で立ち向かう勇気は並大抵のものではなかった。だが、単純な数でも兵士個々人における錬度においてもアルビオン側がトリステインを遥かに上回っていた。浮遊大陸を本拠とするアルビオン軍にとって空戦は十八番である。精強でその名を知られる竜騎士部隊や旗艦レキシントン号を中心とした戦列艦を擁しているアルビオン。五万を超えるその規模の大きさからついつい陸上部隊に目が行ってしまいがちだが、アルビオン軍の核となる戦力は間違いなく空にあった。有象無象の寄せ集めである五万の陸上部隊と比較すればその錬度の差は歴然である。精兵ぞろいのアルビオン竜騎士隊を相手取って弱小のトリステイン竜騎士隊が鎬を削れるわけがなかった。

 

 縦横無尽の攻撃によって隊列をズタズタに乱されたトリステイン竜騎士隊は散開し、孤立したところを徹底して狙われた。トリステイン竜騎士一騎に対して三騎のアルビオン竜騎士が襲い掛かる。一騎が搖動を担いその他の二騎が止めを刺す。定石通りの戦法、基本を忠実に守った隙のない攻撃を受けてトリステイン竜騎士は抵抗すら出来ずに次々とその命を散らしていった。研ぎ澄まされたアルビオン竜騎士隊による攻撃はそうして易々とトリステイン竜騎士隊を引き裂いていった。

 

 

「「「うおおおおおおおおおッッ――――!!!!!!」」」

 

 

 前哨戦の勝敗は強い衝撃を兵士たちに与えた。アルビオン軍からは味方の活躍を鼓舞する猛烈な歓声が飛び、対比するようにトリステイン軍からは強い怯えが感じられた。次に敵の手によって歯牙にかけられるのは自分ではないのか、という不安がトリステイン兵に去来した。燃え堕ちる木の葉のように死んでいく味方の姿を見せつけられては怯えを抱いてしまうことも致し方ないだろう。その怯えはトリステイン軍の大多数に波及し、戦意を喪失させるに十分なものだった。多くのメイジがトリステイン軍に従軍しているとは言っても、埋められる戦力差に限界はある。六万と五千、単純比較で10倍以上の戦力差である。元々有している地力が異なるのだ。勝敗の匙加減は間違いなく彼らアルビオン軍の掌中に合った。

 

 

「「「――――――――――ッ。」」」

 

 

 ジリ、と前線に配置されているトリステイン軍の兵士達が後ずさりをし始めた。アルビオン軍に従軍している大部分は魔法の使えない平民や傭兵であるといっても六万という数の力は明白だ。トリステイン軍は守りに易い街道に陣を敷いているとはいえ前線に控える兵士たちの恐怖は相当のものだろう。敵前を前に後ずさりをするなど兵としては失格だが、その心境は十分に理解できるものだった。後ずさりをするトリステイン兵を見てアルビオン軍の軒昂な士気は更に高まった。その軒昂な士気に後押しされたのだろうか、命令を下されていないにも拘らず先走りをする者がアルビオン軍の中から現れた。

 本来であればこの状態で既に決着はついていた。何故ならば、アルビオン軍首脳部が画策した「自軍の犠牲を最小限に抑えて勝利を収める」という思惑はほぼ成功したも同然だからである。前哨戦を圧倒的な勝利で彩った時点でアルビオン側から講和を持ちかける。竜騎士隊の撃滅と共に制空権を喪失し、圧倒的不利に立たされたトリステイン。怯えている五千の兵士と意気軒高な六万の兵士。その彼我の差を鑑みれば、例えどのように不利な条件の講和でも承諾せざるを得ないだろうからである。自軍の犠牲を最小限に抑えながら戦争に勝利し、アルビオンにとって大幅に有利な条件での講和条約を推し進める。そうして、アルビオンとトリステインの命運を左右する戦争の結果はアルビオン首脳部が想定した内容通りに進む筈だった。

 だが、アルビオン首脳部が想定した思惑は思いもよらぬ方向へ進み始めた。

 軒昂すぎる自軍の士気が裏目に出たのだろうか、停戦指令が届く間もなく侵攻を開始するアルビオン兵達が現れた。端緒を切り開く一人が現れれば最早均衡は崩れたも同然である。限られた功を焦る気持ちも手伝ってアルビオン兵士たちは我も我もとトリステイン軍へ向けて侵攻を開始した。

 

 山津波のように膨れ上がる敵兵の姿、そして死の恐怖に怯え後ずさりをする味方の兵士たち。勝者と敗者。その厳然とした戦争の結果を見てマザリーニは死を覚悟した。

 

 

「――――!」

 

 

 このままアルビオン軍六万の猛攻を受けてトリステイン軍は潰走してしまうのだろうか。しかし、そうはならなかった。マザリーニは驚愕の眼差しを前方へと注いだ。マザリーニ以外のトリステイン兵も、そしてアルビオン軍の兵士達もその驚きを隠せていない。

 トリステイン軍が陣を敷いている街道の入り口に巨大な堀が突如として出現したからだ。縦横ともに数メートルはある巨大な堀。これまで地続きだった平原は大きく陥没し、両軍は強制的に隔たれた。まるで流砂のように地面が土中に引きずり込まれ、その堀は形成された。トリステイン軍を守るように出現したその障害を前にして流石のアルビオン軍も躊躇せざるを得なかった。アルビオン軍にとってはニューカッスル城侵攻の際以来二度目の悪夢である。そして、その堀の出現を受けて戦況には傍目にも分かる大きな変化が表れた。

 

 自軍の兵士達が後ずさりを辞め、山津波のように膨れ上がった敵兵士たちが堀に阻まれ攻めあぐねている。六万のアルビオン軍による蹂躙をトリステインは免れることが出来た。その奇跡的な光景を見てマザリーニは自らが仕掛けた一世一代の賭けが成功したことを理解した。

 

 

 

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