紅月と蒼月。二色の月光がハルケギニアの草木を美しく彩っている時分。
トリステイン魔法学院のダンスホールでは楽士達の奏でる軽やかなパーティー音楽が木霊し、賑やかな雰囲気に包まれていた。弦楽器であるレベックやフィドル。管楽器であるクルムホルンやゲムスホルン。絶えてしまい現代では奏でられることはない中世音楽が、ここトリステインでは飽きることなく浴びる様に奏でられている。
貴族子弟達は各々がパーティーの主役であることを主張せんが為に豪奢な衣装に身を包み、対照的に平民の召使たちが忙しく配膳に汲々としている。 ここハルケギニアではごく一般的な、貴族たちが集い踊るパーティーの一幕だった。
「……おかしいわね、未だ来ないのかしら?」
キュルケが呟いた。紅色に燃える長髪と衣装が美しい。 胸元が開いている大胆なデザインが、キュルケの学生とは思えない豊満なプロポーションを強調している。 まるで女王蜂のような優雅さを持って、群がる男子学生たちをキュルケらしく巧みに相手取っていた。そして、男子学生の相手をしながら周囲を見渡すが、ルイズの姿を確認できない。
「ねぇ、タバサ。ルイズを見てない?あの子まだダンスホールにも来てないのかしら?」
「見ていない。おそらく、まだ寮。」
小柄な体に似つかわしくない大量の料理を盛り付けているタバサが答える。もりもりと料理を胃袋に詰め込むことに集中している彼女はダンスに興味がないようだった。男女ペアになって人々が踊っている風景には一瞥もくれず、料理のお代わりを給仕に願い出ている。
そんな光景をタバサらしいと苦笑しながらキュルケは破顔する。
ダンスパーティーはいよいよ佳境を迎えていた。ホール内の雰囲気が盛り上がり我も我もとダンスに興じる。楽師達の奏でる音楽も場の盛り上がりを反映し、より強い調子のものへと曲調が変わっていた。
人並み外れて発育の良いキュルケの身体。その美貌に鼻の下が伸びっぱなしの貴族子弟達を手玉に取りながらキュルケは待ち続けた。
大切な友人であるルイズが何れ来るだろうその時を。
サーヴァント召喚の儀式を行った丘のほど近く。松籟に靡く草原のほとりにて、肌に柔らかいハルケギニアの薫風が吹き渡る。夜気に濡れた下草が紡ぎだす聖譚曲を聞きながら少女は踊った。
少女の傍には鋼鉄の獣。そして巨大な黒蠍が、ただ静かにその身を留めてる。
草原の片隅にて蒼と赤の月光に照らしだされる一対の存在。
紅の単眼を迸らせる鋼鉄の獣、あまりにおぞましきその姿。
黒鋼の装甲を纏った巨大な蠍、あまりに惨たらしいその巨爪。
月明かりの元、照らし出される畏怖の顕現。見るものを悉く恐怖させる彼らの傍に、余りに似つかわしくない美しい少女がいた。
それは、純白のパーティー衣装に身を包み、ピンクブロンドの長髪を夜風に靡かせた妖精のような少女だった。 ピンクブロンドの長髪は一つに結わえられ、肘まで伸びた白い手袋が少女の持つ清廉な雰囲気を演出する。少女はその美しさとは対照的に残念さを声音に含ませながら言った。
「見せてあげたかったな、彼奴にも。今頃何しているんだろ。」
と自分の与り知らない何処か。
その場所で悠々と飛行している自分の使い魔を思い出す。 蒼と赤の月光の下。鈍色のボディを煌々とさせながら飛行する鋼鉄の巨人を考えながら。
「とても御似合いですよ」
「本当に?嬉しいわドクター、御世辞が上手いのね。」
「御世辞ではありません、本当です。」
「フフッ、ありがと。」
「きっとダンスもお上手なのでしょうね。」
「いいわよ、見せてあげる。一口にダンスって言っても色々と種類があって奥が深いのよ。」
学院のダンスホールで豪奢な衣装に身を包んだ貴族子弟達と踊っているよりは、今は使い魔と一緒にいたい。少女はそう思った。パーティードレスを身に着けてから外出したのは使い魔たちに見て欲しかったからだ。晴れ着を纏った自分の姿だけではなく、自分の喜びを、自分の思いを、その全てをである。
使い魔とメイジは一心同体の間柄である。
ともに喜びを、苦しみを、悲しみ、その何もかもを味わい分かち合う、一蓮托生の共同体。
そんな間柄を彼らとの間に築くために。 貴族としての誇りを貫き通すために。 真の貴族という目標に辿り着くために。 少女は歩み続ける。
鋼鉄の輩をその身に抱いて
ハルケギニアの双月の下、少女は踊り続ける。
たった一人だけのワルツ、だが少女は孤独ではなかった。 可憐な妖精と物言わぬ鉄塊たち。美しい少女と畏怖の顕現。 空を埋める満点の星々だけが彼らを見守っている。
その光景は美しかった。
額縁を持って覗いてみれば、まるで、永遠を切り取ったかのような、一枚の絵画だった。
高名な芸術家がその一生を費やしても届かない。とてもこの世のものとは思えない幻想的な美しさ。
ゼロと呼ばれた少女は、その生涯を共にする掛替えのない大切な使い魔を手に入れた。
◆
紅月と蒼月、二色の月光がハルケギニアの草木を美しく彩っている時分。
峡谷をくり抜いて建設された交通の要衝。トリステインとアルビオンを中継する港町ラ・ロシェールは国境を越えるために集まった人々で今夜も賑わっていた。
本来であれば常住している数百人しかいない物寂しい山間の村である。だが、日程や天候の都合が重なれば今夜のようにその数倍以上の人数で賑わうこともままあるのだった。商売人にとっては逃がすことが出来ない大切な稼ぎ時である。より沢山の売り上げが期待できるとなっては張り切らないわけがない。普段以上に咽喉を張り上げて客寄せに邁進する売り子たち。中には未成年の子供も混じっているが、もしかすれば孤児なのかもしれなかった。そんな光景からも階級制の色濃い闇が見え隠れする。
双月を肴に酒を酌み交わしたり、渡航計画の綿密な打ち合わせを行ったり、労働力の為に人を売り買いしたりと、様々な目的の為、人々は各々の行動に勤しんでいる。大通りから少し離れた看板のない酒屋にも、目的を達成する為の行動にいそしんでいるそんな人々の集団がいた。町全体が活気に満ちているが、その活気も裏通りの寂れた店子までは届かない。
店内には一目で、一般社会ではないアンダーグラウンドな裏社会を根城としていると分かるような、刺々しい目つきをした男たちが集っていた。乱雑に置かれた酒瓶や積み上げられた煙草の吸殻。そんな雰囲気たっぷりのなかで一人、場違いな人間がいた。
すっぽりと頭部全体を覆うようにフードを被っているためその詳しい様子は伺いしれない。
だが、女性だった。フードを被っていても分かる美貌を持った妙齢の女性。
大柄で粗暴な雰囲気を漂わせる男共の中、たった一人だけが女性であり、しかも、その男共を従えているとなればもはや異様というほかないだろう。フードの女性はパンパンに膨らんだ金貨袋を机の上に叩きつけると、目の前の男共へ向けて言い放った。
「払うもん払ってんだから、きりきり働きな! 相場の倍以上の金を払ってるんだ。鼻血が出ても働いてもらうよ。」
「そらそら何ぼさっとしてるんだ!、次だ次、早く前へ出な!」
矢庭にその場の空気がざわついた。
そのざわつきは決して悪いものではなかった。寧ろ喜び、具体的には安定した食い扶持を得ることが出来た心からの安堵だった。貴族の中には様々な事情で平民に身を窶したものは大勢存在している。生活費を稼ぐため、手っ取り早く金を稼ぐために、止むに止まれず魔法を使った犯罪に身を染めるものもまた同様にだった。
また、一般の生活に戻りたいと思っていても、指名手配などで顔が割れ一般社会から拒絶された結果取り返しがつかなくなってしまったものも中にはいる。そういった人間の中で比較的信用のおけるものに、片っ端から声をかける人物がいた。 それが先ほどのフードの女性である。
「ありがてえありがてえ助かったぜ土くれ。」
土くれのフーケ。本名マチルダ・オブ・サウスゴータ。
アルビオンの元名門貴族サウスゴータの血を引いている女性だった。元貴族で現盗賊の彼女は様々な経緯を経て今ここにいる。盗賊であるコネクションとアドバンテージを生かして有用となるだろう人材をマチルダは大量に呼びつける。そして金貨が詰まった袋をぶら下げれば準備は完了だった。先程までの剣呑な雰囲気が雲散し、首輪につながれた犬のようにおとなしくなる男共。つい何日か前に脱獄させられたとは思えないようなバイタリティで次々とそれらの男共に矢の様な指示をマチルダは出している。
何かの命令を達成する為に彼女も必死だった。
「こっちは5人だ。」
「10までなら都合できる。」
「同じく10だ。」
「よしよしよし。全員買ったよ。毎度ありだね。」
裏社会の隙間を根城としているだろう小集団、その頭目と思しき男たちは言った。
ある程度信頼がおけて、尚且つそれなりに腕の立つ人材。それらの要求に能う人材をどれだけ拠出できるのか、頭目たちは自らの組織の内情と目の前にぶら下がる人参を冷静に天秤にかけていた。
腕の立つトライアングルメイジであるマチルダに寄せられる信頼は少なくない。気風のいい威勢と筋の通った心根。実力と性格が伴ったマチルダのような人間は裏社会の中でも信頼を集めた。また、元貴族というマチルダの境遇を知る者はいなかったが、彼女の振る舞いや所作から感じられるほんの小さな同じ貉の特徴が、身を窶した人々から共感を呼んだのかもしれない。大量の餌を持ったマチルダの求めに、続々と応じる人々の姿がそこにあった。
「はぁ、」
「お疲れさん、まぁ一杯やりなよ。」
雇用した男共に資金の分配と指示を与え終えたマチルダは息を吐く。器に注がれたエールを喉を鳴らして飲み干した。男共が颯爽と飛び出していった酒場からは活気がうせあっと言う間に元々のうらぶれた静寂さが戻ってきていた。 エールを注いだ彫の深い男、マチルダと比較的付き合いの長い情報屋の男が言った。
「おい土くれよ、お前さん急にどうしたんだ。こんな山ほどの金抱えて、どこから持ってきたんだよこんなの。脱獄したとは聞いているが、ほとぼりが冷めるまで雲隠れするのがセオリーだ。こんな目立つ真似をして、何が目的なんだ。まさかもっとやばいヤマに首突っ込んでるんじゃないだろうな。」
「ふん、碌な情報を寄越さないくせに口だけは一丁前じゃないか。」
「貴重な金蔓が腐るのを黙っていられないからな。口もうるさくなるもんだ。」
そっけない雰囲気の男を見てマチルダは内心苦笑していた。この情報屋の男は金を払えばその分しっかりと働いてくれる。金で動く人間は安心できる。その相も変わらない男の様子を見てマチルダは今までの鬱憤を晴らすように思った。今の自分にはこの男が必要だ。唸るほど金を渡して精々こき使ってやろうと。
訝しげな視線を注ぐ情報屋の男に対してマチルダは自分の首を掻き切る仕草を見せつけた。
「あんたには色々と世話になっている。けれど、それでも言うわけにはいかないね。あたしも自分の命が惜しいんだ。あんたが金を惜しむようにね。」
情報屋の男はそれだけで事の内容を理解した。腕の立つマチルダが粛々と従う相手。それだけの大きな影響力を持った何かに彼女は使われているのだということを。だが、その事実を理解しても情報屋の男が思うことは変わらなかった。金さえ払ってくれればこの男は動く。精々藪蛇を突かないように気を付けるだけだった。
「それで、次はどこだい。案内しな。」
「ああ、分かった。傭兵達を次の町に集めている。交渉は追々と進めていくつもりだ。」
「馬はもう用意してある、今からでも向かえるぞ。」
「よし、いくぞ!ボサボサする時間なんかありゃしないんだ。」
「元気な奴だ。骨が折れるな。」
大量の紙束を纏めながらマチルダはその提案に応じた。 転がった酒瓶を蹴り飛ばしフードを着付けなおして出口へ向かう。裏通りのさびれた酒屋から表通りを通ってラ・ロシェールを出ようとするマチルダ一行。
だが、大通りの店子にて大量に並べられた品物には一切目もくれていなかった一行だったがピタリとその動きが止まる。マチルダが目端に物乞いの姿を認めたからだった。 まだ年端もいかないような少女だった。道行く人に必死でお金を恵んでもらおうと奮闘している。痩せ細った身体から粗末な栄養状態が見て取れた。まだ肌寒い時期だが身に着けている衣服も随分と季節はずれの軽装だった。
「またか、いったいこれで何人目だ土くれ。慈善事業も度が過ぎるぞ。盗賊とはとても思えないな。」
「うるさいね、報酬減らされたいのかい?」
「素晴らしい活動だ。まるで女神の祝福のようだな。神もお前の行いを祝福してくれるだろう。」
くるりと手のひらを裏返す情報屋の男は放っておいて、マチルダはその少女の元へ向かった。
膝をつき少女と目線の高さを合わせると話しかける。
「こんにちは。」
「こ……こんにちは。」
急に話しかけられた驚きから少女は身じろいだ。 今まで見向きもされていなかったのに急に声をかけられればやはり戸惑ってしまうだろう。その少女の心情を察したのか、マチルダは少女と他愛のない会話をして少女の緊張を和らげようとする。そして少女が十分に落ち着いただろう頃合いを見計らって本題を切り出した。
「かわいらしい御嬢さん。お父さんやお母さんはどうしているのかな?」
「お父さんは……知りません。私にお父さんはいないんです……、お母さんがいます。でも100エキュー貰ってくるまで戻ってくるなって、……それで、」
「かわいらしい御嬢さん、だから何日もこういうことをしていたんだね。」
「これからも、ずっとこういうことをしていくのかな?」
マチルダの問いを聞いて、少女は震えるように俯いた。
まだ何も分からない年齢でこの質問は少々酷だったかもしれない。自分の絶望的な状況を浮き彫りにするような必要だが冷徹な質問。貰える筈のない大金を要求した母親は果たして何をしているのか何所に行ってしまったのか。
少女は何を思っているのだろうか。マチルダは微かだが確かに首を振る少女の反応を見て満足そうに頷いた。情報屋の後ろに控える二人の用心棒。そのうちの一人に金を渡して耳打ちをする。
「かわいらしい御嬢さん、これからどうすればいいか分からない。行くところがないっていうのであればうちへ来るかい? あたしは住むところを用意してやれる。そこには食べ物もいっぱいあるし御嬢さんみたいな身寄りの子供も何人かいるんだ。出ていきたければいつでも出て行っていい。御嬢さんがいいというまでいればいいさ。強制はしないよ。もし来たければ、この髭のおじさんに付いていくんだ。お金を渡してあるから、好きなものを食べてくるといい。」
食べ物という言葉に思わず反応したのだろうか、お腹を鳴らしている少女を見て苦笑しながらマチルダは言った。
髭のおじさんと呼ばれた用心棒。その男に連れられて少女は飯場へ向かった。徐々に遠ざかる少女の背中を見て情報屋の男は自身の計画が狂ったことを嘆いた。
「5人以上いた護衛がこの有様だ。恐ろしい女だな、お前は。」
「ふん、次からは5人でも10人でも連れてくるんだね。何度でもこうしてやるよ。」
「ああ、言っておくが護衛の連中は気のいい奴らだ。間違っても危害を加えるようなことはないから安心しろ。」
「あたりまえだよ馬鹿野郎。危害が及ぶ前にあたしが潰してやるよ。そんな連中。」
まるで護衛を蹴散らしたようにしているが、決してそういうことではない。 遠くなる少女見送るとマチルダは踵を返す。町を出るルートを進みながらも情報屋の男との打ち合わせをマチルダは欠かさない。既に頭の中は切り替わり、次の目標へ向けてどうするべきか傭兵との交渉をどうやってまとめるかという思考へ注がれていた。
二色の月光が、闇に沈んだ草原を疾走しているマチルダ一行を浮かび上がらせる。彼女たちもまた何か大きな流れに乗せられるようにして、伝説を縒り合せる一本の糸となっていくのだった。
課せられた目標を達成する為に、
自身の命を守るために、
身寄りのない少年少女たちのために、
マチルダは走り続ける、
鋼鉄の意思をその身に帯びて、
◆
紅月と蒼月、二色の月光がハルケギニアの草木を美しく彩っている時分。
北の小国トリステインより内陸部へ千リーグ離れた場所。ハルケギニア最大の大国ガリア、その首都があった。
名前をリユティス。人口数十万人を誇るハルケギニア全土でも有数の都市である。 繁栄を謳歌する都市リユティス。 その東端には見上げなければその全容を確認できない程に巨大な宮殿ヴェルサルテイルが見るものを威圧するように聳え立っている。ヴェルサルテイルはガリアを統治するガリア王家の一族が生活の本拠としている宮殿だ。壮麗かつ洗練された美しい宮殿。それはハルケギニア最大の国家その首都らしい偉容を持っていた。
ヴェルサルテイル宮殿の中心には青色の煉瓦を用いて建立されている建物がある。それはグラン・トロワと呼ばれガリア王家一族を象徴する青の髪色と揃えられるようにして鮮やかな青を主張していた。その建物に男はいた。
男は双月の月光がハルケギニアの雄大な大自然を彩っている様を鑑賞していた。 だが、その表情はまるで道端に転がっている小石を眺めているかのように何も感じていなかった。
ハルケギニアの自然が奏でる雄大さも、ヴェルサルテイル宮殿の持つ壮麗さもまた、その男の心を震わせることは敵わなかった。その淀んだ瞳に何かが映ることはあるのだろうか。男自身もその何かを求めて止まないのだった。
その男は絶望していた。
目の前の光景に、目の前の世界に、目の前の人間に、そして何よりも自分自身に絶望していた。
無能王と呼ばれるその男、現国王ジョゼフ1世である。
ガリア王家一族を象徴する青色の髪。思わず息を呑むほどの整った美貌。その鍛え上げられた肉体を豪奢な衣装が一部の隙もなく覆っている。ハルケギニアの双月を眺めているその姿は絵本の中に登場する理想の王様像そのままだった。
現国王ジョゼフ1世は青の建物グラン・トロワ。その最上階の一室にて佇んでいる。
最上階の特等席でジョゼフは探す。自身の心を震わせることが出来るものはないかと。 そしてジョゼフは考える、自身の空っぽな心、その虚無を震わせることが出来るものは何かを考える。
いつからだろうか、ジョゼフが人間の心を失ってしまったのは。
いつからだろうか、ジョゼフにとってこの世界が色を失ってしまったのは。
自分自身も尊敬し自慢の弟であった王弟シャルル。彼を毒矢でもって亡き者にしたあの日からジョゼフにとってこの世界は意味がないものになっていた。壊れてしまったジョゼフの心。シャルルの妻をその娘をシャルルを慕っていた大勢の部下を悉く、ジョゼフが考えうる残虐な方法で毒牙にかけても、ジョゼフの心が震えることはなかった。
そしてジョゼフは自覚したのだ。シャルルに代わる存在などありはしないのだということを。自身も敬愛し尊敬した掛替えのない存在を自らの手でもって葬り去ってしまったのだという取り返しのつかない罪過を背負っているのだということを。壊れてしまったジョゼフにはその事実すらも届かなかったが。
もう二度と自分の心が震えることはないのではないか、という考えに辿りついたとき。ジョゼフはこの世界を滅ぼすことに決めた。
この世界の全てを引っくり返し、その何もかもを洗い浚い攫ってみれば自身の心を震わせるものが見つかるのではないかという希望。シャルルのいないこの世界に何か意味を見出すとすれば、自身にとってこの世界とシャルルどちらが上なのか、それを見定めるくらいしかジョゼフにはできなかった。
民を国をそのすべてを滅ぼしたとき、ジョゼフの心は震えるだろうか。それは誰にも分からない。
もしジョゼフが、心の壊れてしまった王様が、死と破壊を司る破壊大帝、その混じり気のない純粋な破壊を目の当たりにすることがあれば、壊れてしまったその心にも去来する震えがあっただろうということを思わずにはいられない。
だが、彼は出遭わなかった。
破壊大帝と無能王。血の通わない鋼鉄の心を持った王様は混じり気のない破壊とは終ぞ出遭うことなく破滅への道を直走ることになる。
ゼロのメイジと壊れた王様。両者の争いが描かれることはない。
しかし、近い将来彼らは戦う運命にあった。彼らが背負うその何もかもを賭けた戦いはハルケギニア全土を巻き込む巨大なものとなっていく。様々な勢力が入り乱れ数々の混乱と混沌がハルケギニアに降りかかる。夥しい苦痛と犠牲を伴うその衝突はだれにも止めることは出来なかった。
後に暗黒の時代と呼ばれたその戦争を無能王は戦い続けた。
壊れた心は何を感じることもなく血の通わぬ鋼鉄の心を持って淡々と、人々の思いを願いを命を容赦なく踏み拉きながらジョゼフは進む。自身の心を震わせる何かを夢見て。
◆
紅月と蒼月、二色の月光がハルケギニアの草木を美しく彩っている時分。
ハルケギニアではない何処か別の惑星。打ち捨てられた星の打ち捨てられた母船の中でそれは呟く。
「弟子というものは、何時の時も手がかかるものだ。」
乾ききった砂と岩石だけがどこまでも続く死の星で、墜落せし者は苦笑する。
その星に生命は存在していなかった。
繰り返し訪れる灼熱と極寒。およそ数百度という日常的な寒暖差に耐えられる有機生命体など存在しない。見渡す限りの砂の海。無機物しか存在しないこの空間は耳に痛いほどの静寂に支配されていた。強烈な寒暖差と厳しい環境によって摩耗した岩石群がまるで忘れ去られ朽ち果てた墓標のように佇んでいる。
不時着に失敗したのであろう母船にはそこかしこに衝撃の残滓が見て取れるが、未だにその機能の一部は無事なようだった。破損の影響が及ばない場所では卵に包まれた何かが生まれ出るその時を待っていた。
巨大な穴が穿たれている船腹。その最奥に腰掛ける一人の鋼鉄の巨人がいた。重症を追った患者のように全身に管がつながれた身体。自立できない活かされているその有様は息も絶え絶えといったようだった。だが混じり気のない朱色に染まった瞳には言葉では測れないおぞましい力を感じることが出来る。
かつて古代民族が崇めた神の姿。
その顕現ともいうべき恐るべき外見。
エジプト王を思わせる特徴的な面。
タランチュラのように長い腕と脚。
無駄な装飾や武装を排した痩身はまさに災厄を振りまく異形そのものだった。 その姿はそのおぞましさは死の星が塒として相応しいく思えてしまうほどに凶悪だ。
何処か遠い場所自身でも薄らとしか位置を感じ取れない星にいる愛弟子に、墜落せし者は思いを馳せる。
「なぁ、そうだろう。わが弟子よ。」
「俺はお前を待っている。その時が来ることを待っている。」
原初のトランスフォーマーである7人のプライムのうちの一人。死と破壊を司るディセプティコンのリーダー破壊大帝メガトロンから師として仰がれる唯一の存在。
兄弟を裏切り反乱の狼煙をかかげた逆賊の徒。
墜落せし者、ザ・フォールン。
紀元前17、000年から連綿と続く戦いの歴史、
血で血を洗う闘争の果て、
全ての始まり、
墜落せし者は進み続ける、
裏切られたプライムへの復讐を果たすために、
その身に刻まれた屈辱を晴らすために、