月明かりが眩しい夜。集落が一望できる崖の上、黄色い花弁が舞う、幻想の中。足元で揺れる紅紫色の小花を穂状につけた花を手に取る。
初めてではない、同じ夢。幻想なのだと理解しつつも、コゥーハは傍らで満月を眺める相手に声を掛ける。
「養父上」
純白の両翼、肩まで伸びる同色の長髪、細い目の中央にある紅みを帯びた黒い瞳。カサカサした大きく長い指、温かい掌、手を握る柔らかな感触……自身と似ていないと思い始めたのは、物心ついてからである。
コゥーハよりもずっと年上な彼は、花を受け取るや否や相手を抱き寄せる。強く、強く――小さな身体が潰れてしまうように。記憶にある彼は決して強い抱き方をしないのだと、好きな花を受け取り微笑まない事が夢であるのだと、コゥーハは心の中で反芻する。
コゥーハが家を出る前。息を引き取る前の養父は、決してコゥーハに対して謝ることはなかった。常に微笑み、時には怒り、叱る。しかし泣くという行為だけは決して見せなかった。だが。
「すまなかった……」
夢に出る養父は、常に泣いていた。強く抱かれているため顔は見えないが、首に当たるそれは嫌でも泣き顔を、見たことのない顔を想像させる。端正な顔立ちに涙が伝う、美しい顔を。
「許してくれ……勝手だということは、解っている。わかって……」
相手の嗚咽が、彼の謝罪が茶色の長い耳を何度も撫でる。その度に妙な気分となり、コゥーハは目を閉じる。
暗闇は揺らぎ、赤い炎へと変化する。全体に走る痛みに、ああ、これも同じだと顔を上げる。
炎に身体を灼かれるなか。コゥーハの真上には若い女性の顔があった。コゥーハと同じ耳と黒目黒髪を持った、養母――カナァンに良く似た、しかし彼女ではない女性。息も絶え絶えに長髪を振り乱しつつ、コゥーハを胸に抱えて必死に走っている身体には、大量の切り傷や打撲の跡があった。
記憶はない。故に確信もない。しかし、伝わる温もりが、抱きしめられる強さが、何より――
「大丈夫よ……大丈夫だから……」
自分に微笑む姿が。母親なのだと、納得する。
コゥーハは躰を動かそうと力を入れるが、強く抱かれているためか、視線以外は全く動くことができない。呼吸も苦しいせいか、声にならない音しか発することができない。
じたばたするコゥーハに女性が再び微笑んだ瞬間、コゥーハの視界が上下に揺らいだ。死体に躓いた女性の足と、彼女を追ってきたのであろう、激昂した男の姿。その右手には、男の背丈にも達しそうな長さの巨大な刀があった。
次第に近づく足音に、女は立ち上がることなくコゥーハを強く抱く。
「お願い……します。コゥーハは……この子だけは……」
望み通りにしてやる、と若い男は刀を揺らす。青みがかった黒色の前髪で顔や耳は見えないが、全身を切り刻む程の殺気が感じ取れる。
「そいつは元々――の。俺様のものだ。それを、脱走ついでに俺様のものを盗むとは」
真っ直ぐ降ろされる刀に、コゥーハは目を瞑る。
いつもであれば、ここで目が覚める。が、今回は違った。
再び目を開けると、同じ炎の中。直後目に入ってきたのは、はためく紅い外套。そして、遠方へと退った若い男の姿。
驚くコゥーハの左側から、若い男の声が聞こえてきた。
「カナァン!」
聞き覚えのある声だと、コゥーハは思う。
コゥーハの真上へ顔を出した男は、若い女に向かって眉を顰めるも、相手を安心させるように微笑する。白い翼、白い長髪、黒い瞳。女を殺そうとする男よりも更に若い男の顔に、コゥーハは見覚えがあった。左手にある
(お……おじ様?)
この子は、と困惑しつつ、コゥーハと女を交互に見る若い男。その背中から、男の笑い声が聞こえる。
「そうか……そいつが、誑かしたのか……!」
紅い外套が再び宙を舞う。同時に、何かがぶつかり合う鈍い音が数回、コゥーハの耳を突く。二拍置いて。低い、老人のような落ち着きのある男の声が、紅い外套から男と女に掛けられる。
「お逃げくだされ」
しかし、と言った翼のある男に、若い男の咆哮が襲いかかる。
「俺様の邪魔をするなあぁぁぁぁ!!」
紅い外套を両断するように振り降ろされた巨大な刀は、擦れる金属音の後に地面を破壊する。直後、視界は砂埃に覆われた。
視界が晴れると、薄暗い森の中にいた。この夢は見たことがない、とコゥーハは思う。
はあはあ、と女性の呼吸が響く暗闇で、男はコゥーハをじっと見据え、冷たい声で言い放つ。
「……何故。持ってきたのですか? 置いてくるように、そう伝えたはずですが」
男の目は非常に、吐息よりも冷たい目をしていた。侮蔑、拒絶、憎悪……負の感情を全てを内包したかのような紅みを帯びた黒い瞳はコゥーハの心を深く抉る。
庇うように強く抱かれていることを感じながら、これは夢なのだ、とコゥーハは繰り返す。
「幸い命に別条は無い傷ですので、上手く逃げられるでしょう。しかし……コレを持ったままでは、逃げ切れでしょう」
コレと言った視線の先は、紛れもなく、コゥーハを向いている。
待って欲しいと泣き叫ぶ女から視線を逸らし、男は胸から一つの小刀を取り出した。そっと鞘を抜いた刃は、雲から現れた月の明かりによって手元で煌めく。
(お……おじ様……?)
コゥーハは大きく見開く。刹那、煌めきはコゥーハの頭上に振り下ろされた。
※※※
暗闇を切り裂くように目を開けたコゥーハの視界に、高い天井が映った。明るい室内、梁の質、鮮やかできらびやかな装飾があるからして、此処が牢獄ではない事をコゥーハは理解する。
『もう大丈夫』
聞き覚えのある、やや年老いた女性の声がコゥーハの頭に響く。白髪交りの黒髪で、皺の多い女性の優しい笑顔が浮かび、思わず女性の名を呼んだ。
「トゥスクル……様」
え? という驚きが、コゥーハの側で起こる。先程の声とは違う、全く知らない若い女性の声。しかし、非常に懐かしい、と右手を伸ばしたコゥーハの手を、小さな柔らかい、
「……迎えが……来たのでしょうか」
呟いたコゥーハの言葉に、息を呑む声が上がる。
彼女の顔は見えない。しかし痛いくらいの反応――強い否定が右手を介して返ってきた。視界の端で激しく揺れる白い輪の首飾りを眺めつつ、コゥーハは瞳を涙で濡らす。
「そんなこと、言わないでください!」
彼女の泣き声にも似た叫び声が、部屋全体をこだまする。何度も突き刺さるその度に、コゥーハは涙をこぼした。
「迎えなんて来てません! 貴女は」
両手を握る力が強くなる。
「貴女は、まだ生きるんです!」
そう、とコゥーハは力なく返し、意識を暗い底へと落とした。