うたわれるもの 琥珀の軌跡   作:ななみ

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背反

 地上へ繋がる階段が白み始めた、とある明け方。朝を告げる鳥の囀りと錠を開ける音によってコゥーハは起こされた。眠たい目を擦りながら注意深く耳を傾けると、慌しい複数の足音に交じり、低音でやや荒っぽい男の声が聞こえてきた。

「気付いているハズですぜ。この國にはもう、護るべき価値は何もないって」

「そうですね。もはやこの國の崩壊は必然でしょう」

 男と会話をしている相手が誰であるのか、コゥーハは瞬時に察知する。上体を起こし、牢の対面、廊下を挟んだ場所へと目を向けた。

 牢から出るベナウィと、獄司達が使用している腰掛の上に紺色の布包みを広げる一人の男が、廊下に満ちる白い光の中で映える。

 ベナウィよりも背が高い、がっちりとした体格の男である。隆々とした両腕は灰色の肩当てや煤けた緑色の手甲で覆われており、左腰に佩いている直刀の巨大さからして、相当の腕力を持つ男だとコゥーハは推察する。紫がかった黒の短髪を、二つのこめかみから流れる数本の長い髪や前髪、先端が茶色い毛のある尖った耳と共に後方へ押し上げているため、左眼を分断するように額から頬の下まで延びる一本の古傷や、体格に合った男性らしい顔をはっきりと捉えることができる。しかしその顔は決して厳めしいものではなく、髪と同色の瞳に鋭さがあるものの、相手を気遣う暖かさを内包していることが感じられる。

 笑えば、武人(もののふ)らしくない、とても優しい顔になるのだろう、とコゥーハは髪と同色の瞳を眺めつつ、はためいた男の外套に目をやった。

(この"茶色の光"は……)

 墨色の奥で、金色が燻る。

 首と背中を覆う茶色の外套に混じる"淡い茶色の光"――月明かりの下、櫓の上で見たベナウィの背中を守るように佇んでいたものと同じ"光"に目を丸くしつつ、コゥーハは二人の会話を黙って聞き続ける。

「だったら、どうして」

 声を荒げた男の一言が、人気の感じられない獄内に大きく響く。

 相手を一瞥し、答えることなくベナウィは布包みの上にある白い胸当てへ手を伸ばす。そんなベナウィに対して、男は眉を上げつつ更に口を開く。

「大将なら、どの國だって高く受け入れてくれやす。いや、大将さえその気なら――」

「クロウ。そこまです」

 胸当てをつけ終えたベナウィの声が、男の――クロウの言葉をぴしゃりと制した。

「……出過ぎた真似を」

 自身の首を撫でつつ、クロウは苦笑する。しかし伏せた両眼は笑ってはいない、そんな気がする、とコゥーハは心中で感想を漏らした。

 軽く頭を下げたクロウにベナウィは微笑し、慣れた手つきで支度を続ける。

「貴方の心遣いは感謝します。ですが」

 白い肩当てをつけ終え、灰色の手甲を付ける自身の手の平を見るベナウィの横顔、青みがかった黒い瞳が発光石の発する白い光で照らされ、揺らぐ。

「それでも私はこの國の侍大将なんですよ」

 ほこりを纏う布――紺色の外套を羽織るベナウィから目を逸らし、コゥーハは立ち上がった。

 美しい。美しく、孤高で、しかし非常に異質で気味の悪い――死体が散乱する戦場の中心、四方を囲まれたことで錯乱し、深い傷を負いつつも得物を振り回す主とは裏腹に、相手を斬り続けているというのに血の一滴も付着していない脇差のような。まるで、相手を斬ることが自分の役目ではないと言っているかのような不自然さを持つベナウィの佇まいに、コゥーハは相手の正面で顔を歪ませた。

 獄司達の会話から、覆ることのない戦況。滅ぶしか選択肢の無くなった國。その國の侍大将の末路というのは、ほぼ決まっている。理解してなお、侍大将でいると宣言したベナウィの覚悟は並大抵のものではなく、故にどんな言葉を並べたところで覆ることはあり得ないのだろう。客観的に見て、戦の終結やその後――國の滅亡と新しい國のためにも、亡國の侍大将の『存在』というのは、亡國の(オゥルォ)の『存在』に匹敵する程に必要である。ある意味では、その存在によってこれまでの罪を民に詫び、最後の責を果たそうとする意図もあるのかもしれない。

 彼が本当に望むのであれば。彼の心が、本当に救われるのであれば。責を全うして欲しいという自分がある一方で、いって欲しくない、というコゥーハが、彼の道――階段へ続く進路を阻むように立った。

 コゥーハの周りにいる者は、みな死んでいく。いつしか心の片隅で巣食うようになった被害妄想がちらつく。

 死というのは、ヒトである限り何時かは必ず訪れる儀式の一つである。ただ人によって遅いか早いかの違いがあるだけで、コゥーハの周りに寄って来た人間が早く死を迎える傾向があるだけだ、と理性は訴えるが、現在のコゥーハに言い聞かせる方法としては、やや弱い。

 産みの両親はおらず、育ての父は死に、甘えられる義母も義弟も死んだ。先日再会した知り合いの背中には、夢と同様の奇妙な影と不安が見えた。出会ってきた数々の黒い残像が理性を突き飛ばし、コゥーハを焦らしていく。

「貴方もまた、ゆくのですか」

 錆びついた半開きの扉が、キイキイと音を上げる中。墨のような黒い両眼が、金色に変化する。

 これまで出すことを躊躇っていた一つの答え。牢の中で無力な自分が知るには恐ろし過ぎた答えを、十数歩先で立っている相手へと、内なる"番人"へと投げた。

 "番人"からの回答は、一拍の間もなかった。

(――っ。視界が)

 色が消え、コゥーハは真っ赤に濡れる口元を抑えた。

 赤い、赤い光……火神(ヒムカミ)のような光が陽炎のように揺蕩う残像が、コゥーハの瞼の裏に焼き付く。

 見え方が安定しないという事は、満月が近いのか。あるいは、己が身体が拒否しているとでもいうのか――

 そんな馬鹿な事があってたまるものか、とコゥーハは心中で吐き捨て、靄のかかる視界を相手へ戻す。

 黒い両眼、何色の"光"も見えない視界の先。コゥーハへ警戒の視線を向けるクロウを制しつつ、はっきりとした、しかし小さな声でベナウィは答えた。

「私には、この國と運命を共にする義務があるのです」

「…………」

 前髪で黒い両眼を隠すコゥーハを一瞥し、ですがね……、と後方で呟いたクロウにベナウィは視線を移す。

「全兵に伝えておいて下さい。『劣勢となった場合、すぐに投降せよ』と」

 二人の目が大きく見開き、真っ直ぐベナウィへ向いた。

「大将、まさか……」

 肯定、否定、納得、困惑。幾重の感情が織り交ざるかのような沈黙の中で、ベナウィは一振りの刀を手に取り、目線の高さで静かに抜いた。白い鞘から出でた錆一つない澄んだ銀色の刀身は持ち主の表情を正確に映し、同時に落とした深い影は発光石が作る主の影と同化する。

「それが」

 微かに俯き、コゥーハは大きく息を吸う。

「それが……貴方の答え、ですか」

 冷たい風がコゥーハの背中から流れる中。カチリ、と刀を納め、ベナウィは沈黙を続ける。肯定でも、否定でも無く、考えている風でもなく相手を見据える――何も答えないという、回答。その意を判らない自分への嫌悪、分かろうとしない自身の愚かさにコゥーハは苛立つ。

「分かりませんね」

「……それはこちらの台詞です」

 強い一言に気圧され、コゥーハはくっと顔を上げた。直後、ベナウィの刀がコゥーハの手中に収まる。

 重みのある、重いと感じた瞬間、コゥーハの右手がぐっと下がった。

「あの時」

 そう切り出すと同時に、ベナウィは一歩を踏み出した。一歩、一歩、武装した兵士が上げる独特の高音がゆっくりとした間隔で全体に響き、コゥーハの胸の奥深くへと何度も突き刺していく。

「あの櫓の上で……貴女は確かに言いました」

『その槍は、その場所は、貴方の物だ。少なくとも、自分はそう思います』と。確認を取るように訊ねた相手に、コゥーハは叫ぶ。

「馬鹿なことを仰らないで下さい。あの時、私が、自分がふさわしくないと申したならば。貴方は――」

 石畳を突く音が止まる。同時にコゥーハの声も掠れ、停止した。

 さて、どうでしょうね。そう呟き、数歩先で静止しているベナウィに、コゥーハは半歩後退った。

 微量の埃が舞う廊下の中央で相手を見据え、ベナウィはしっかりとした口調で答える。

「万が一にも、貴女がそう言ったとしても。私は同じことをすると思います」

 眉を寄せ、小さく呻いたコゥーハとは対称的に、ベナウィは微笑した。

 静かな、穏やかな微笑みである。さながら、散った花弁の如き美しさを持ち――しかし吐き気を伴う程に、冷たい嘲笑。そして、明らかなる軽蔑の意と怒りの灯火が奥底で燻る両眼。

 誰を嗤い、誰を軽蔑し、誰に対して怒りを向けているのか。揺らぐ視線は明確に答えを示さない。ただ一つコゥーハに理解できたことは、己の我を通せば真っ先にその矛先を向けられるということ。それを承知で、コゥーハはベナウィの進路を塞ぐように、刀を横に持つ。

「御自身の持つ全てを放棄しない、と……それは、御自身の意思ですか。それとも、貴方のお立場がそうさせているのですか」

 理由は問題になりませんよ、と眉を下げ、ベナウィは続けた。

「しかし。少なくとも、そうでもしなければ、私は――」

 いえ、やめましょう、詮無きことです。首を横に振り、落ち着けるように息を吐くベナウィの両目を隠すように、コゥーハは手にある物を持ち直す。

 コゥーハの視界から、青みがかった瞳が隠れた直後。ベナウィの口端が更に上がる。

「しかし。……何故でしょうね。貴女がそのような行動に出る事だけは、予想が出来ていました」

 両手に加わる重さと相手の言動に不自然さを感じつつも、ええ、とコゥーハは吐き捨てる。

「自分の心を慰めるための、我がままですとも。軽蔑して頂いて結構です」

 それは貴女次第です、と、きっと口を結び、ベナウィは再び一歩踏み出した。

「もし。貴女が本気で、私を引き留めるのであれば、力尽くで掛かって来なさい」

 大将?! と、声を上げたクロウを視線で制し、ベナウィは道を進む。刀を横に持ったまま立つコゥーハへ、否、コゥーハの立つその先を見据えながら。

 よろしいのですか? というコゥーハの問いに、ええ、とベナウィは薄く笑う。

「不自然な言動を取る現在の貴女に、負ける気がしませんから」

 言ってくれる、とコゥーハは顔を顰める。理解した上で自分に刀を渡し、試すような笑みを浮かべる挑発に乗ってやると、刀を持つ両手にコゥーハは力を入れた。

 だが。 

「――っ」

 全く、まったく動かない。金縛りにあったかのように四肢が硬直し、刀が拒んでいるかのように鞘と鍔は離れる事はない。持ち手の正面で上下左右にぐらぐら揺れつつ、擦れる音を奏でるのみ。

 真横に力を入れているはずなのに、びくともしないとコゥーハは唇を噛む。まるで、自分の意思が異なっていると言われているかのように。

「自分は、自分は――」

 その先を言いかけた刹那、コゥーハの右肩がベナウィの肩に接触した。直後、ベナウィの嘲笑がコゥーハの耳を掠った。

「抜かないのですか」

「――――っ!」

 コゥーハが顔を歪ませたと同時に、白い鞘が石畳を突く。

 ベナウィの一言によって、重かった刀がするりと抜けた。拍子に手を離れた鞘に構うことなくコゥーハは刀を振った。狙いは特になく、相手の動きを止められたら良いと力任せに振りかざしたが、持ち替えた一瞬を相手は見逃さず回避すると予想し、次の軌道を考える。が、その予想が外れ、コゥーハは眉を上げる。

 ぎりり、という鈍い音――正しく収まることができない刀身と鞘は悲鳴を上げ、コゥーハの右方、頭上で制止する。直後、向かってくる力が激減し、右手から刀が滑り落ちた。均衡を崩した身体を冷たい床で激しく打ち付けた後、態勢を立て直そうと格子に背中を押し付け立ち上がろうとコゥーハ試みるが、全身の痛みと重みで躰が全く上がらない。

 辛うじて顔を上げたコゥーハの頭上で、ベナウィは刀をきっちり納めた。

「冷静な貴女に、感謝します」

 自分は冷静ではない、言いかけたコゥーハに、冷静ですよ、とベナウィは相手の

頭を押しつけた。

「どうやら、貴女を殺さずに済みそうですから」

「……――っ」

 コゥーハの手が、だらりと垂れた。何も言わず――何も言えず。やがてコゥーハの全身から力が抜け落ちた。

 動かなくなった相手から手を離し、小さく息を吐いたベナウィの肩に、低い声がのし掛かる。

「……大将」

「命に別状はありませんよ」

 刀を腰に佩き、ベナウィは紺色の布を靡かせる。ばさりとはためく外套は張り付く埃を払い落とし、前進する主の背中と腰にある刀を覆う。

 意識が朦朧とする中。コゥーハは、ほこりが付いたままの外套の隅をじっと見つめる。その真上で、決意を込めた声が降った。

「行(ゆ)きましょう。これが最後の戦いとなります」

 "青白い光"が赤く染まる背中を、"茶色の光"に包まれた同色の外套と、微笑の混じる声が押す。

「ういっス。一丁、ハデにやりやすかい」

 正面を横切るクロウの左手を、コゥーハは縋るように握りしめた。

 歩みを止めた相手はコゥーハを一瞥する。俯いたまま座り込んでいるコゥーハの手を振り払おうと力を入れるが、微動だにしない左手に黒い目を見開く。

 牢獄の出口である石階段へ向かうベナウィの足音が小さくなる中、譫言のようにコゥーハは口ずさむ。

「ベナウィ様を……」

 全てを言い終える前に、相手から返答が来る。握る手を強く、痛い位に握り返され、コゥーハは沈黙した。

「ンなことは、解っているさ」

 だがな、とクロウは空いている片手をコゥーハの頭に乗せる。

 大きく温かい、手から伝わるしっかりとした重みは、下がった前髪の奥で、尽きかけているコゥーハの涙を誘う。相手も分かっているのか、重みは一気に増し、コゥーハの顔が床と平行になった。

「あんたなら解るだろ」

 コゥーハの身体が揺れ、クロウの左手からだらりと手が落ちる。同時に、途絶えていた足音が再び牢獄の壁を叩く。

 以前に見た"茶色の光"――クロウの背中へ微笑むと、コゥーハは静かに目を閉じた。

「解りませんよ……自分は……自分は……」

 黒い前髪の隙間から洩れる嗚咽は複数の牢に反射し、源泉のように湧き出る涙は歪む顔の滑り落ちる。

 

 

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 

 大将、とクロウはベナウィに声を掛けた。全軍各所に指示をし終え、城にいるほとんどの兵士が集った直後のことである。

 何か不都合でも? と眉を上げたベナウィに対して、いえ、とクロウは声を低くする。

「さっき牢で大将に襲いかかった奴は、その」

 訊ねたい事は幾つもある。一瞬見えた金色の瞳、手を掴む力、何より二人の関係。しかしどれもが言い知れぬ神秘さと不気味さを纏っており、聞いてはならない事なのではと、閉口させた。

 ベナウィは言葉を詰まらせたクロウをしばし見つめ、考えるように顎に手を当てる。

「彼女はただの知り合いですよ」

「ただの知り合い……って、彼女?!」

 クロウの一言に、ベナウィは咄嗟に口を手で塞いだ。視線を逸らす、普段はほとんど見せない焦りの表情にクロウは更に面食らいつつも詰め寄った。

「ちょっ、ちょちょちょ。大将。彼女って何すか、彼女って。あいつ女だったんですかい!?」

 あり得ない、とクロウは記憶を遡る。

 掴まれた左手は今もなお赤く、微かな痛みを発している。アレが女のやる所行とは考えにくい。種族によっては力の強い者もいるのだろうが、耳から察するに、相手――彼女は、それほど力の強い種族ではない。はだけた服の下から覗いていた容姿も女性特有の丸みは無く、細い躰は骨張っていた。丸み……胸は。胸の丸みは無かった。いや、僅かではあるが、あった。かもしれない。

 こめかみに手を当て、真剣に考えるクロウを横目でじっと見つめるベナウィの口調に、呆れと落胆と、やや安堵の色が浮かぶ。

「そちらでしたか。ええ、アレは女性ですよ」

 ベナウィの強い断定に、いやぁ、まさか、とクロウは食って掛かる。

「あそこに入れられていた奴らは全員兵士でしたし。兵士ってのは、普通は野郎で――」

「訳があったのではないでしょうか、彼女なりに」

 訳、ねぇ。とクロウは相槌を打つが、ベナウィの言葉に引っ掛かりを覚える。 

 ん? ()()()

(大将は何を勘違いして)

 彼女、という言葉が含むもう一つの意味にクロウは思い当たる。さっき一瞬だけ見えたベナウィの顔が頭をよぎり、妙に大きかった相手の声が再生され。

 激しく狼狽した。

(ま、まさか。まさか、な……)

 上官に背を向けていることを失念したまま、ベナウィと出会ってから現在までの歳月をクロウは必死に振り返る。

 ベナウィの元へ届く大量の恋文に、掛けられる女性の声。しかし浮いた話は全く――汚職疑惑と同等か、それ以上に全く存在しない。それを証明するかのように、廊下の片隅で泣く女官達。噂といえば、野郎共のやっかみから来たと思われる、『男好き』という、一時期流れた噂くらいである。そんなベナウィに対して、悉く女性を真摯に――端から見れば冷酷に振り続けるのは好きな女性がいるからなのか、という……無礼講かつ酒の席だったとはいえある意味命知らずな部下の質問に、初めて訊かれた、そう見えるのか、と目を丸くしたベナウィ。

 無自覚。その言葉が、クロウの中で真っ先に出てきた瞬間でもあった。

(あり得ねぇ。あいつが女だってのより、あり得ねぇ)

 しかし……普段から冷静であり、ちょっとやそっとの事では驚きもしないベナウィにしては非常に珍しいあの呆れぶり。何か知られてはいけない、言ってはいけない事を発してしまったような素振りは、彼女とベナウィの間に只ならぬ関係があるという推測を抱かせる。それがどのような関係なのか――友人なのか、はたまた。

 様々な憶測と、幾人もの女性を振っては溜め息をつくベナウィの姿が、ぐるぐるとクロウの心中に渦巻く。

「……クロウ」

 低く、窘めるような上官の声に、クロウは身体をびくつかせた。背中に嫌な汗が流れることを感じつつ、決して変な事を考えていた訳ではないと説明するべく振り返ったとと同時。上官の意とする事が自分の想像と異としていた事を知る。

 白いウマ(ウォプタル)を携えた兵士が駆け寄ってきた直後、侍大将の表情が瞬時に一転する。迷いが無い、戦でみせるその顔に、クロウは元より、その場で泣き言を呟く兵士達を含めた全員が押し黙った。

 広場の奥――周囲全体を見渡せる、皇城の入口にあたる石段の最上段に立ち、ベナウィは手にある槍を強く握り締める。

「これが、最後の戦いになります」

 劣勢となったら、すぐに投降することを念を押し。侍大将は自身の槍を高々と掲げ、石突を地へ打ち付けた。軽くて重い振動は、静寂の水面上を滑るように同心円状に広がり、四方を――敵の本隊が来るであろう正門をさした。

「全軍、出陣します!」

 過去に類をみない異常な雄叫びが、地面を、建物を、兵士達を振動させる。その振動に引けを取らないクロウの声が、彼の隊全員の視線を集める。

「っしゃ! いくぜ、てめえらあぁ!!」

 他のものより一回り大きいウマ(ウォプタル)の手綱を握りしめるクロウの顔は、侍大将へと向けられることはなく。走り出したウマ(ウォプタル)の歩みが止まる事はない。

 

 

 

 

 

 はずであった。

(…………)

 兵達が各々の持ち場へ向かう道で。クロウのウマ(あし)は、止まっていた。

「副長?」

 部下に怪訝な声を掛けられ、はっとした表情でクロウは息を呑んだ。

 副長という言葉はクロウに冷静さを与え、迷いを押しだす。普段と変わらぬ効力に口元が緩むも、心の片隅に残る、何か。

 無意識に拳を作っていた左手の痛みが増す。

「いや。何でもない」

 自身に言い聞かせるように声を張り上げ、ベナウィの部下である自分を叱咤するように頬を叩いた。努めて平常な顔で、クロウはウマ(ウォプタル)を走らせる。

 僅かに薄雲が掛かる青空の真下。とても暖かく、清々しい風が舞い、土の匂いが香る戦場を。

 


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