うたわれるもの 琥珀の軌跡   作:ななみ

5 / 49
心火

 薙いだ熱風が喉を焼き、焦げた臭いが鼻を刺す。

 浅く早い呼吸を繰り返し、血の味を噛みしめながら、コゥーハは跨るウマ(ウォプタル)の歩みを止める。

 小高い丘から見渡す集落は、コゥーハの知る青々と茂った平原ではない。己の知る赤々と満ちた場所。赤い炎が獣の如く全てを喰らい、吐き出された黒煙は"黒い光"と共に、星が瞬く夜空へ伸びている景色。何度か()()ものと同じ風景。

 チェンマは、燃えていた。

 コゥーハにとって『最も望まぬ事態』であり、『最悪』な光景である。

 赤い、赤い炎が映る己の黒い瞳をコゥーハは閉じた。ウマ(ウォプタル)から降り、一つの槍を手に集落へ続く足跡を追う。泥の混じる道の途中、進路と同じ方向に刻まれた複数の足跡の形は、どれもコゥーハがたった今付けているものと同じ型であることに唇を噛み、進める足を速める。

 焼け焦げて存在しない集落の入り口で、コゥーハは立ち止まる。門番のようにぐっと背を伸ばし、ヒトの数十倍もある赤い獣を睨み、誰かいないか、と叫んだ。

 コゥーハの声に、こたえる者は誰もいない。ただただ、誰も止める事ができない獣が獲物を喰らう音しかない。

 轟々と音を立て燃える建物が崩れ、コゥーハの躰に火の粉を塗す。舞った爆風で髪が揺れ、首元の傷痕が顕わになった。

(……っ)

 するり、と外れた額当てが、湿った浅黒い地面に突き刺さる。その隣、破いた袖で口元を覆い、コゥーハは集落へ足を踏み入れた。

 赤い、ひたすらに赤い場所を、乱れた服を直すこともせずに、コゥーハは足早に進む。目元の水滴は乾き、身体を灼く痛みは麻痺し、視界が揺らぐ状態で。それでも槍を握る力は強く、柔らかな地を踏みしめる足の速度は衰えない。

 歩む道には、跡形も無く燃え尽きた建物の残骸や、未だに燃えさかる炎、そして部分的に焼け焦げた多数の死体――否、遺体が転がっていた。確実に殺すことを命令されているのか、遺体の全てが首を斬られている。男に交じって女子供、ウマ(ウォプタル)の死体も多くあったが、例外は一切ない。

 咳き込んだ拍子に落ちた視線と、地面に横たわる少女――涙のあとを残す少女の目は大きく見開かれ、恐怖の表情で固まっている。焼け焦げた、ほぼ全裸の躰には十数カ所の打撲や切り傷、足首に捻挫があり、首と胴体は繋がっていない、少女()()()ものと目が合い、コゥーハは口元を押さえた。

「ごめんなさい」

 軽い、虚しい、震える言葉が、透明の滴と共に焼け切れた。

 視線をずらすことなく相手の目をそっと閉ざし、コゥーハは立ち上がった。槍を持つ手をさらに強くし、集落の奥へと再び足を進める。

 熱い、ただただ熱い空間を、灼ける素肌に目を向けることなく進んでいたコゥーハの足が止まる。そこは、道を進んだ集落の一番奥、集落で一番大きい建物がある場所。しかしそこにあるのは倒壊した建物の瓦礫と、その隙間を埋める赫灼たる炎の柱のみ。

 コゥーハの両膝が折れた。

 滑り落ちた槍が乾いた音を立てて地面を転がり、真上から口元の布と大粒の水滴が落下する。

「ははうえ……ムィル……」

 一面に響く慟哭と、こびり付く砂塵と、吸った煙で咳き込む中。コゥーハは身体をきつく折り畳む。自分を――()()()()()()を家族だと胸を張って口にし、安住の地をくれた二人の温かさ、笑顔に縋るように。

 チェンマに滞在するようになってから、特に"アレ"の一件を告白した後、コゥーハの行動は二人の反応によって大きく左右されるようになった。養父が薬師(くすし)の仕事に忙しかったこと、二人がコゥーハと同じ種族だったこともあり、常に二人へ寄り添い、甘えた。コゥーハが甘える分だけ、二人はその温もりでコゥーハを包んだ。

 あの笑顔がずっと続いてくれば良いと、『永久に変わらぬ存在(コトゥアハムル)』のようであって欲しいと。望み、願った。

 しかし、その願いは長くは続かないであろうと知る。一つは"黒い光"が教える、十数年後に起こる、國の滅亡。厳密に言えば、過去の記憶から、戦で國が滅亡する位に人が死ぬという兆し。最終的には戦火に巻き込まれ、チェンマは炎上する――そんな幻覚にうなされる日が、幾度と続いていた。そしてもう一つ、それを現実へと誘う出来事がチェンマに訪れる。

 増租。ある日、何の報せもなくやって来た役人の言葉と一本の書状に、集落全体が揺れた。

 当時のチェンマは決して豊かではなかった。集落が皇都へ続く大きな街道に面しているため、様々な商人や旅人が宿を借りにやってくるものの、それ以外の主だった収入は無かった。南側にある小高い山から鉱物が採れたのは六十年以上昔のことで、掘り尽くされた坑道からは欠片一つも採ることはできない。主食であるモロロを育てる畑も集落の皆が最低限食べていける分しか作れない広さしかなく、開墾を試みた時期もあったものの、土が悪いためかモロロは育たなかった。少ない収入でやり繰りする日々に、辛くはないと皆は笑っていたが、決して楽とはいえない状態。一回目の増租はカナァンの家が私財を擲った事や集落の皆の努力で切り抜けたものの、何かと事情を作っては半期に一度租を釣り上げ、納められなければ叛意ありとみなし全員を処断すると言ってくる國のやり方に、集落からは活気が、カナァンとムィルから笑顔が消えた。

 丁度その時期、カナァンの兄――コゥーハの養伯父から話を持ちかけられ、コゥーハは小さな商売を始めた。

 端的に言えば、占い。"アレ"らの変化から相手や他方の吉凶を"予言"するという、如何わしい商い。最初こそ疑う者は多かったが、コゥーハの口にしたこと――とりわけ凶事に関しては、己の身体に寒気が走る位に、正確に"予言"したこともあり、次第にコゥーハの……正確にはコゥーハの言葉を信じる者達だけが多く訪れるようになり、比例して、人と集落に入るお金が増加していった。"アレ"の事を何故、養伯父が知っているのかと疑問に思ったが、家族の――特に二人の笑顔が戻った事に比べれば、コゥーハにとっては瑣末なことであった。二人が笑っている、二人の役に立っているという充実感が、コゥーハのやる気をさらに高めた。結果的に、自由を制限されても。付き纏う虚無感に、増える罪悪感に、生じる苦痛に己が身体を傷つけても。二人が笑っていてくれるのであれば、それでもコゥーハは構わなかった。『あなたは、もっと幸せになるべきだ』と知り合いに言われた事もあったが、気にも留めない。

 だが。集落が燃える夢だけは繰り返しコゥーハの脳裏に刻み付け続けた。それだけではない。國崩壊の序曲は、訪れる商人達が齎す情報や資料が奏で始めていた。小さな旋律ゆえ周囲はそれほど危惧していなかったが、コゥーハは怖くて堪らなかった。同時に、得体の知れない、絶ち切る術のない"アレ"が、黒い光が日に日に、僅かだが濃くなっていく状況に。それが急激に濃くなることを経験している身体が突如震え始めることに。

 何か手を打たなければ。自分が動かなければ、とコゥーハは立ち上がるが、すぐに膝が折れた。

 コゥーハの言葉は、一家の収入の大半を占めていた。日を追うごとに家は裕福になり、家族の笑顔は増えていった。集落の皆や訪れる者達の向ける期待に満ちた目、感謝の言葉。いつしかそれらによってコゥーハは身動きがとれない状況となり、屋敷に閉じ込められていた。許可の無い外出は一切禁止から始まり、決まった時間に決まった事をする日々、時には発言さえ制限された。それでも文句を口にしなかったのはひとえに家族の笑顔が見たかったためであり、商いを辞めずに現状を維持することを選択したことは、自分が全く新しい行動を起こせばチェンマ全体に影響を与える事態になり兼ねないと予想したためであった。とはいえ、手を拱いている気にはなれず、ありとあらゆる分野の書物を掻き集め、片っ端から読み漁った。自分がいなくとも、家族が、集落が最低限幸せに暮らしていける仕組みを構築するために。皮肉な事に、それを行う時間と環境は整っていた。

 結果的に努力は実を結び、コゥーハは家を出た。夢が現実になる事を、止めるために。

 しかし。

 自分は何をしていたのだろうか、とコゥーハは唇を噛み切る。

 結局は。結局は止められなかったのだ。過程は問題ではない。二人が、皆がいない現実が、結果が重要なのだ。

 生温い、赤い一滴が落下し、地をはねる。直後、コゥーハの背中に不自然な重みが加わった。

「……嬉しい」

 艶のある、女性の小さな一言がコゥーハの右耳を撫でる。

 現在ここに、確かに、存在する。右耳をくすぐる息遣い、両脇から胸を抱く柔らかい両手、背中を包む温かさ、仄かに香る香に混じる個人特有の匂いが。

 灰の混じる涙の奥で、コゥーハの瞳が小さくなる。

「カナァン様……」

「駄目でしょ、コゥーハ。マーマよ」

 この歳では恥ずかしくて言えないことを要求する辺り、この人らしい――母親らしいと、コゥーハはくすりと微笑した。その口端を指でなぞり、女性は――カナァンは小さく息をつく。

「そうね……その前に。言うことがあるでしょ」

 凛とした声音が、十数年前の記憶を揺り動かす。家を出る際に交わした、交わされた約束を。

 コゥーハの視線が地面へ落ちる。浅黒い水面に映る自身の隣、はっきりと見える、優しい笑みを湛える、茶色の長い耳を持つ初老の女性と目が合い、はっと息を呑んだ。最後に言葉を交わした時よりも顔に皺が多いが、間違いなく養母であると確信する。

 振り向こうとした自身の顔を両手で固定されたことにコゥーハは一瞬戸惑うも、水面越しに見つめるカナァンに口元を緩ませる。嬉しさで震える声を最大限抑えつけ、しっかりと応えた。

「ただいま……戻りました。母上」

 満面の笑みである。

 カナァンはコゥーハの頭に片手を乗せる。相手の黒髪を撫で回しつつ、凛とした声で返した。

「はい。おかえりなさい」

 その、直後。

 コゥーハの顔から、カナァンの両手が、滑り落ちた。

 振り返ったコゥーハの正面を、長い黒髪が通過する。刹那、何かが落下した音が真下で響いた。

「カナァン様、カナァン様っ!!」

 目の前に広がっている光景に、コゥーハは冷静さを失っていく。

 両膝をついた己の真下。潰してしまわないようにそっと抱きかかえた重みは重過ぎる程に感じられる。温もりも、呼吸も匂いさえも未だ伝わってくる。しかしコゥーハの視界には何も映ってはいない。否、横切るのは僅かな火の粉だけであり、それ以外は黒一色――"黒い光"一択。

 苦しいのか、悲しいのか、怒っているのか――どんな表情をしているかさえ、解らない。

 過去の経験が、記憶の積み重ねが恐怖を駆り立て、焦りを積み上げていく。カナァンを覆う"黒い光"の量は、死を待つだけの病人と同じ――何かしなければ、と思いつつも、"黒い光"で何も見えないために処置ができないことや、この中で何十人もの人間が死んでいった記憶が鮮明に思い起こされ、コゥーハの判断能力を奪う。

「いや……いやぁ……」

 無意識の内に"黒い光"を払うように動かしていたコゥーハの右手が止まった。

 胸の側で広げた掌は、真っ赤な鮮血で濡れていた。生温く、気持ちの悪い、粘度の高いその赤い血が黒い背景へ飛び散り、吸い込まれるように消えた。

 ぴちゃり、という音が、過去に浴びせられた言葉を思い起こさせる。

『お前が……お前が殺したんだ!!』

 愛娘の亡骸を抱きしめながら、憎しみの目を向けた男の顔が頭から離れない。彼だけではない、幾人の声が、視線が、憎悪が怒りが悲しみが、押し寄せる熱と共にコゥーハを灼く。

「……そう」

 瓦礫が作り出す濃い影の中。軽く顔を上げ、口端を上げ、ひどく濁った目で、揺蕩う火柱の奥に向かって口を開いたと同時。コゥーハの真後ろで金属同士がぶつかり合う音が響いた。

 振り返った先。コゥーハから三歩も無い場所、"黒い光"の中で、二人の男が得物を突きつけ合っていた。一人はコゥーハと同じ服装をした剣を持つ男、もう一人――コゥーハを背にし、農具用の鎌を構える若い男の姿に、コゥーハの目に光が戻った。

「ムィル……」

 コゥーハが呟いたとほぼ同時、両者の決着が付く。柄の長い鎌を持った男――ムィルが押し出し、ふらついた相手を斬った。未だ息のある敵を見下げ、意を固めたかのように柄をきつく握りしめた後、雄叫びを上げながら何度も得物で突き刺した。"黒い光"の中で藻掻く手が動かなくなるまで得物を振り下ろした後、返り血で濡れていない服の一部で顔を拭き、コゥーハの方へと身体を向けた。

 先程とは異なる、穏やかで優しい、コゥーハの知る笑みである。

「まさか、こんな時にお帰りになるとは。とにかく、御無事で何よりです」

 ムィルの笑顔にコゥーハは一瞬呆けるが、落ちそうになる両手の重みにはっとし、"黒い光"の中にいる相手に向かって叫ぶ。

「カナァン様が、カナァン様が! 一体どうすれば――」

「母上は……置いていきます。そうしないと、母上に怒られてしまいます」

「そんな、そんなこと――!」

 駄々をこねる子供に困っているかのように笑い、茶色の耳を下げるムィルを見るコゥーハの眼から、一筋の涙が流れる。

 何故。呟いたコゥーハの口に涙が落ち、辛い味が口腔内へと広がっていく。

「何故、ムィルは笑っていられるのですか?!」

 さて。と尚も笑いつつ、ムィルは近づく複数の足音へと目を走らせる。

「貴女が。そんな顔をされているからだと思います、コゥーハ姉上」

 この際ですから言っておきますよ、とコゥーハに背中を向け、ムィルは長い柄を強く握る。その手は、放った声同様に激しく震えている。

「正直。姉上には嫉妬していたのですよ。知識も、武術も、商才も身体能力も、度胸も、人望さえも。全てが自分よりも上回っている姉上は自分の自慢でありましたが、同時に重荷でもありました」

 ですが、今はどうでしょうか、とムィルは両耳を上げた。その表情を窺い知ることはできないが、酷く冷静ではっきりと語るムィルの声は、コゥーハの心には凛々しく、逞しく、優しく響く。十数年前の幼さは無い。

「取り乱した姉上が、私に縋っている。特に辛い時には誰にもその内を明かさない姉上が、人を初めて殺めたこと位で動揺している私に、ね」

 "黒い光"の隙間から見える、燃え上がる炎に照らされたムィルの笑った顔が、両眼に溜まった涙で歪む。

「こう見えても、男、だからでしょうか。好きな女性に頼られると、頑張ってしまうようで」

「私は……自分は……」

 視線を落とした先、血溜まりへと涙がこぼれ、複数の波紋を作る。揺れる水面の中で、はっきりと映る相手の顔に、コゥーハは息を呑んだ。

 優しい表情は変わらない。しかしその黒い瞳に湛えるものは揺るぎなく、しっかりと踏みしめる片足は頼もしささえ覚える。

 十数年間、己の足が止まっていたことを、コゥーハは痛感させられる。本当に、自分は何をやっていたのだと。

「もう一つ。……これは謝罪です」

 眉を寄せつつ、ムィルは得物を構え直す。

「此処を――チェンマを守れなかったのは、現村長(むらおさ)たる私のせいです」

「それは……違――」

「違うなどとは言わせませぬ」

 叫びに近い否定に、コゥーハの涙が止まった。きょとんとした相手を一瞥し、尚も強い声でムィルは続ける。

「少なくとも。姉上が去ってからのチェンマの功績や失態は、母上と自分、皆の努力の結果です。"常世(コトゥアハムル)の番人"のものではい。……そうでしょう」

 有無を言わせぬ断定に、コゥーハは声を出すことができなかった。この状況を"予知"できたというのにそれを言わなかった事、半ば勝手に家を出て行った事、肝心な時に帰って来ないはおろか大事な家族一人守れなかった事……積もりに積もった悔恨と謝罪の言葉が、伝えたい本人を前にしているというのに、声として発することができない。相手の気迫が、ムィルの意思が、言ってはならないのだとコゥーハの心を強く打ち、コゥーハの膝を上げさせた。

 両腕に抱えるカナァンの亡骸をそっと地に置き、手探りで探し当てた彼女の片手に、コゥーハは口づけをする。止まらぬ涙を流しながらも、嗚咽で窒息しそうな状態であっても……おそらく、自分はこう言わなければならないのだと、息を吸った。

「ありがとうございます」

 涙を、感謝を謝罪を、感情を握る手に重ね、コゥーハは言葉を乗せる。

「これまでチェンマを……故郷を守って頂いて、ありがとうございます」

 置いていくことを許して欲しいとの意を述べ、すっと立ち上がったコゥーハの顔に、涙は無い。眉を寄せ、前を見据え、背を伸ばし地に立った。

「許しません」

 驚いたように目を丸くしたムィルの隣で、コゥーハは槍の柄を持つ。

「一発殴るまで、許せそうにありません。ですから……」

 ですから、とコゥーハは"黒い光"が色濃い周囲を見渡しつつ、どうしたものかと周囲に目を走らせる。

「生きて。此処を」

 数人の怒声と十人以上の足音が二人を取り囲む。右方と背後は一面の炎、残りは()()()兵士が二十人、もっといるのだろうと、槍を構えつつコゥーハは息を吸う。

 熱くて不味い煙の味を吐き出しつつ相手を睨むコゥーハに、ムィルは謝罪する。

「申し訳ありません。退路を確保する機を逸しました」

「構いませんよ。無いものは、作れば良いのです」

 人数が少ない場所――左方にある一点を目で示し合わせた後、ムィルは僅かに両耳を下げた。

「……姉上らしくないような、らしいような」

「そこら辺の兵士に、技でも力でも負けはしませんよ。何せ――」

 自分を狙ってきた切っ先を軽く躱し、再び斬りかかってきた兵士の胸――胸当ての横をコゥーハは槍で突く。すかさず得物を抜き、よろけた相手の首を刎ねた。同時に地面を蹴り、返り血を拭うことなく目的の場所へと走り出す。

「私は、自分は」

 本当に実力差があるのか、精神的な問題なのか。妙に相手が弱い気がすると思いつつも、コゥーハは気を抜かず、冷静で在るように進む。数人の攻撃を躱し受け止め、隙を見せた相手を正確に斬る。所々見えない場所は相手の出方を予想しつつ対応する、あるいはムィルが対処した。躱しては突き、受け止めては斬る……その繰り返しを何度行ったか解らない程、鮮血で服装の色が判断できない程に時が経った頃、肩を預けてくるムィルに、コゥーハは握る手を強くした。

 肩で息をし、握る両手は緩い。声を掛ければ大丈夫の意を示すものの、視線は定まらず上下し、足は止まりかけている。限界が近い自分達とは対照的に、相手の人数は一向に減らない。減らないどころか増えており、賊のような輩も兵士に交じっていた。余程自分達が気にくわないのか、と片隅で思いつつも、もう少しだというのにとコゥーハは周囲に目を配らせる。

 コゥーハ達から見て右方の奥には、未だ焼けていない森が広がっている。あわよくばそこへ逃げ込めればと思うものの、案の定その手前にいる人数は二十以上。逆に少ない左方と正面は集落の奥、自分達が駆けてきた場所。背後は炎と煙、今にも倒壊しそうな建物。

 どうしたものか、とコゥーハが炎を見つめていた、その時。

 二人へ向かって突風が吹き荒れる。風に乗ってきた煙を吸い込み、コゥーハは激しく咳き込んだ。

 正に数拍、一瞬の出来事である。コゥーハの手から槍が離れ、乾いた音が地面に響くとほぼ同時、二人の兵士がコゥーハへと斬りかかった。さすがにマズイと捻った躰が、切っ先の届かぬ所へと押された。直後、コゥーハの顔に返り血が付着した。

 生温い、己のものではない鮮血が、目の前で起こった光景と共に、コゥーハの脳裏に焼き付いていく。ゆっくりと、何度も何度でも、"黒い光"が同じ幻を見せつけるように。

 相手の間合い、コゥーハが本来いるべきであった場所で。ムィルの躰が斬られ、胸を貫かれていた。数拍して別の相手が得物を振り上げ、ムィルの首を刎ねた。

 "黒い光"の中へ、養弟の首がゆっくりと落ちていく様子に、コゥーハは言葉が出ない。出ないどころか、至極冷静な己に憎悪する。

 ムィルが斬られたとほぼ同時。背後から襲ってきた相手に向かって、コゥーハは腰にある剣を抜いた。気味の悪い位に早く正確な刃は、吐きたい程に美しい曲線を描き、相手の首を一刀両断した。

 転がる首に目もくれず、得物に付いた血を払うように片手剣を振り、正面で剣を構えるコゥーハの金色の瞳が血溜まりに映る。

 切っ先を上に、刀身を躰と平行に、胸元で構えた後。躰と垂直にした刀身を下ろす、大陸ではあまり見かけない独特の構え。恐ろしく躰に馴染む構えを取りながら、コゥーハ笑っていた。

 何に笑っているのか、何がおかしいのか、コゥーハ自身にも解らない。ただ二つだけ解っている事は、抑えられぬ怒り――狂気が確かに存在する事と、それを止めよという感情が微かにあること。そして、この衝動を収める術は、此処にいる人間を全て殺す以外に知り得ないという確信。

 他に湧き上がる激情を抑える術を教えて欲しいと思ったのは束の間。複数の殺気と得物に襲われた瞬間、コゥーハの感情の一つが吹き飛んだ。

 

 

 

 

 

 コゥーハの剣は唸りを上げて次々と兵士の"淡い光"を、その光源である躰ごと、確実に引き裂いていった。首を刎ね、胸を貫き、四肢を切り落とす。持ち主の手足のように従順に動き、命じられた仕事を忠実にこなしていったが、どの剣もその寿命はあまりにも短かった。

 三人斬っては、剣が曲がり。拾った相手の剣で三人の首を刎ねては、剣が折れた。何回と繰り返した後、コゥーハは得物を持つことを辞めた。その行動に一人の兵士が嗤った、諦めとは違う感情が彼女の行動を変えたためである。

 こちらの方が、効率が良いと。

 獣のような細く鋭い金色の眼が、更に細くなる。

 後方から迫った相手の槍を左手で握り、コゥーハは()()()()()()()でへし折った。すかさず振り向きつつ槍を引き、右手で相手の頭を掴み、地面へ叩きつける。脳漿が飛散する中、黒い煙より濃い土埃と建物の梁が落下したような音に紛れて襲い掛かってきた兵士の切っ先を躱し、その勢いで相手の頭部に回し蹴りを喰らわせる。直後、間合いまで詰めてきたもののコゥーハの視線によって動きが鈍った相手の首を片手で掲げ、喉を潰した。

 無造作に、手にあったモノを投げ捨てる。顔に付いた汚れと血を拭うコゥーハの周囲が晴れると、数人の呻き声と後退る音が響いた。

 駆け足、罵倒。不安、怒り。様々な物がコゥーハの身体を刺したが、当人には痛みすら感じない。

 否、快楽すら覚える、と笑う。

「……そうですとも。何せ私は」

 右手で首を掴まれ、苦し紛れに浴びせた相手の一言に、コゥーハは目を細めて肯定する。

 冷たい風に靡かせる今の表情は、満面の笑みなのかもしれない、と静かに目を瞑った。

「バケモノですから」

 肯定した瞬間、骨が折れる鈍い音がコゥーハの右手から漏れた。

 沈黙と、吹き抜ける風。温いのか冷たいのか判断できない風に押され、カラカラと音を立てつつ槍が転がる。

 積まれた遺体の山の頂で右手を離し、コゥーハは夜空を見上げた。

 燃え尽きたのか、いつしか炎の消えた集落の上、薄い煙が漂う更に上から月光が降り注ぐ。三日月が放つ少量の白い光は淡く儚く、暗い森林と黒い瓦礫、多くの死体、汚れた生者の姿を平等に照らし、金色の瞳の奥に記憶を刻む。

 誰もいない地を見下げ、コゥーハは黒い右手の指を鳴らす。

「足りませんね」

 感情の赴くままに呟いた己の一言に、何を言っているのかと心の片隅で驚きつつも、コゥーハは薄く笑い続ける。

 刹那よりも短い間に感じた心地よさと、果てしなく続く孤独感に酔いしれるように。

 それも数拍の時。左右正面から聞こえてくる多数の声に口端を上げ、コゥーハはぬかるんだ地面に足を付ける。重い障害物を足で軽くあしらいながら声のする方向へと数歩進み、背後から投げられた鋭い視線に気付き、振り返った。

 コゥーハの数十歩先、広がる森林の影に。灰色の耳をした女性を庇うようにして木の棒を構える、彼女と同じ耳をした少年が立っていた。その両手と両足は震えている。威嚇するように睨み、ぴんと立てた短い尻尾を太くしているものの、相手と視線が合うと同時にその表情を崩した。

 一歩。近づいた相手から守るように、女性は少年を抱いた。怯え震える身体で我が子を抱く母親のような女性の行動が、コゥーハの頭に残像を描き出す。

 カナァンとムィルの笑みが、懐かしい。長年ものあいだ身体に焼き付いていたものが、ついさっきまであったものが、ひどく年月が経ったかのように感じられる。

 気が付けば、コゥーハは二人と数歩の距離まで歩いていた。笑顔はなく、何かを求めるような、虚ろな黒色の目で手を伸ばし、静止する。

 赤い液体が滴る手の正面で、かん、という澄んだ音が響く。恐怖で涙を流しながらも転がってきた槍を少年は拾う。目標に真っ直ぐ伸ばし女性を守ろうと槍を構える必死な彼の姿に、墨色の瞳でコゥーハは見つめる。

 剣を振るっていた時とは全く違う笑みが、罅が入った琥珀(コゥーハ)の断片に映し出された。

「大丈夫。怖い人達は、もういないから……」

 そこで、コゥーハの意識がぷっつり途絶えた。

 

 

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 

 熱い。とにかく熱いと感じる中で、右足を踏み出した。そしてすかさず左足を前へと動かし、躰が、喉が灼けると呻く。一歩、数拍かけて、また一歩。酷く重い躰を引きずりながらも前へと進んでいく。

『警告』

 抑揚の感じられない女性の声が頭に響き、構わぬ、とその女性の気迫ある声で返答する。それが意思であり、答えであると強く認識する。

 赤い炎。とにかく赤い炎に包まれている空間で、左足を踏み出した。そして血まみれの両手を見つめ、これが、これが道かと呟く。一歩、速度を上げて、また一歩。恐ろしく軽くなった躰を前へと進める。

『警告』

 再び語りかけてきた女性の声に、くどい、と再度返答する。が、やや苛立ちを含む声が自分ではないことを強く理解する。理解した途端に、衝動が――駆られる憎悪が、抑えられぬ狂気が、それを知って尚も同じ事を繰り返すことを知っている悲しみが流れ込んでくる。

 何故憎むのか、何故殺そうとするのか、何故同じ事を繰り返すのか。何故、どうして……戸惑いではない。何故、という純粋な欲求、知の欲求が侵入し、心を満たしていく。

 何故。そう呟きかけた口の隣、両頬を伝った涙が赤い両手に落下する。 

 瞬間。女性の声と被るように、男性の低い声が響いた。

「どうした。お前らしくもない」

 独特の、聞き覚えのある声に振り向くと、やはり見覚えのある背中がそこにはあった。

 養父ではない白い両翼と白い短髪。しかし真っ直ぐ気丈な姿は若い男そのものであり、上がる口端は若さ故の勢いがある。その生意気さは正しく彼であり、自分は嫌いになれないのだと薄く笑う。

 笑ったはずであるのに、無限に湧き上がってくる不安で口元が歪む。

『自分は……』

 言いかけた相手に手を振り、男はゆっくりと遠ざかっていく。一歩一歩、底知れぬ暗闇へ――喩えるのであれば、"黒い光"が集う場所に。行ってしまえば最後、二度と会えないのでは、という根拠のない確信が不安を助長させる。

『行っては……行ってはいけない』

 既に小さい相手の背中に向かって叫ぼうとするが、声が出ない。何と言って止めれば良いのかという疑問が重なり、追い掛けようとした足が躓く。付いた片手を必死に伸ばそうとするが、真っ赤に濡れたその手が届くことはない。

「駄目……ダメ……」

 あらん限りの力を振り絞り、彼の名前を叫ぼうとした直後。コゥーハの視界が暗転した。

 

 

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 

 ぴちゃり、とした冷たい感覚に、コゥーハは飛び起きた。痛いと感じた部分――右頬に落ちた水滴を拭いつつ、自身の置かれた状況を確認する。

 己の身丈よりもやや高い、石壁で囲まれた牢の中である。頑丈な木の格子の隣、廊下の隅にある発光石が発する光しか存在しないせいか薄暗く、地下にあるのだろうか、天井や壁からは僅かながら水が染み出している。しかし、入れられている部屋には、寝床や机、小さな照明器具も用意されていることからして、かなり設備の整った牢であると、コゥーハは感心する。

(死んだ、というわけではないのでしょうか)

 ひとまず灯りは欲しいと照明を点け――発光石を光らせるために必要な水は、天井や壁から調達した――コゥーハは格子近くに移動する。灰色の冷たい石の廊下へ視線を落としつつ、息を吐く。

「それにしても……酷い夢、でしたね」

 狭い空間に大きく響いたコゥーハの独り言。その数拍後、若い男の声がコゥーハの向かい側から発せられる。

「どのような夢ですか」

「端的に言えば、両手が血まみれな自分の前から、仲の良い学者の知り合いが、何処か遠く……手の届かない所へ行ってしまう夢ですよ。先日会ったばかりだというのに、本当、気分の悪い夢で――」

 ふっと。問いを投げかけてきた男の声にひどく聞き覚えがあるような、とコゥーハは口を噤む。ゆっくりと。眉を寄せながら視線を向かいの牢へと移した。瞬間、声の主と思われる男と視線が合う。

「…………」

 整った顔立ち、青みを帯びた長くは無いが両耳が隠れる位の黒髪と同色の瞳。武装はしていないが、臙脂色の服装。そして何より、筆を走らせつつも、自分へ向けている、憮然とした、何とも腹の立つ表情に、コゥーハは見覚えがあった。

「何故」

 怒気ではない。焦りでも呆れでも、同情でもない。率直な疑問が、眉を寄せるコゥーハの声に帯びる。

「何故。貴方が此処にいらっしゃるのですか。ベナウィ侍大将」

 相手は――ベナウィは何も答えず、視線を床へと落とした。




報告:2013/8/4 に、地の文の一部を加筆修正しました。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。